そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.85 砂丘街 

 
 『砂丘街』については,このページNo.79「多島海」でふれたが,私が学生時代の鳥取大学の文芸部機関誌である。多分,鳥取市が近くに鳥取砂丘に隣接している街ということにその名前の由来があるのだろう。 
 私の住む気高町浜村も,北側は浜村砂丘となっている。現在は砂丘地も住宅地として発展しているが,今から50年ばかり前は,まだまだ風と砂の影響を受けやすい開墾・開拓の地であった。
 私は,この機関誌『砂丘街』の19号(だったと思うがどこを探してもそれが見当たらない)に砂丘開墾をテーマにした詩を載せたことがある。19号が見当たらないので記述の詳細は不明だが,砂丘の自然の厳しさと開墾の歴史について書いたものだったと思う。

 県内の砂丘地開墾の歴史では北条砂丘などが有名で,小学校4年の社会科でも取り上げられるが,開墾・開拓にはどこにもそれなりの歴史がある。
 私が育った家のすぐ近くに一つの石碑(写真)がある。砂丘開墾の記念碑で,高田亀三郎という人が中心になって成し遂げたものだと,小さい頃から聞いていた。私が興味を持つことになったのも,そんなことがあったからかもしれない。

 しかし,今資料を探そうとして見ると,ほとんど見当たらない。私の手元にあるものでは,『正條村誌』(正條村誌発刊委員会編著)が最も詳しい。
 その「第9章 砂丘開墾史」によると,江戸時代から大正期にかけて4名の主たる事業者が出てくる。それには「高田亀三郎等による開墾は,明治16年(1883)着工苦難数十年,大正7年(1918)完成」(西暦は筆者付加)とある。

 さらに次のような記述もある。
「砂丘の真っただ中に観測監視小屋を建て,単身この小屋に寝起きし飛砂積雪の警戒と四季の風の方向強さ砂の移動の観察,それに対応した砂防垣の改良植樹などの研究に精根を打ち込んだ。観測の仮小屋は風の勢いが増すと土台もろとも吹き飛ばされそうに浮き上がり,板壁の割れ目から遠慮なく吹き込む砂粉雪,手足の感覚も次第に失われていく。」
 まだその苦難の記録は続くが,もう少し資料を収集し,整理してからもう一度このページに載せたいと思う。

 畑地が開墾され,街ができるには先人のたいへんな苦難の歴史があったのである。そんなことを子どもたちに伝えるのも私たちの責務である。(2002.9.26)