そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.86 「重左池」と「ながし」 

 
 浜村砂丘開墾についてもう少し調べようと,町公民館の岸本さんに資料探しを依頼する。しかし,すぐには新しいものは見つからないようだ。『正條村誌』(正條村誌発刊委員会編著)と『鳥取県 郷土が誇る人物誌』(鳥取県教育委員会編)を紹介してもらったが,どちらも我が家にあるものだった。
 しかし,その二つの資料を読むうちに,思い出すいくつかのことがあった。

 重左池(じゅうざいけ)もその一つである。『正條村誌』には次のように述べられている。
「重左 たしかな記録がなく言い伝えによるものである。今から七百数十年前,八幡の村に重左という知恵者がいた。重左は飛砂に苦しむ村人を見て,飛砂防止の手段を考えた。八幡の森の裏から短尾まで飛砂防止の砂垣を作ることでした。彼は村人を励まし土手をつくり松の木を植えた。その土手も松も飛砂の為すっかり埋められてしまったが土手を作る為に掘った土あとが池となり誰言うこともなく重左池と言いだした。」

 私が子どものころには,私の家の畑もその池の近くにあって,よく行ったものだった。池の水は畑の灌漑用水として使われていて,私も水汲みをした記憶がある。
 確かこのあたりだったと思い出しながら訪ねてみた。しかし,雑草が生え繁っているだけだった。
「重左池 昭和四十年頃まで現存をしており鯉や蛙の泳ぐ幽遠な池で子供達の遊び場釣り場であった。周囲には松が繁っており『おたての松』と言って重左の労苦を偲び重左の功績を語りついだ。そして不思議にも此の池の水は夏も冬も増減せず八幡の社のお守りをしていた。今は埋められて跡形もない。」(『正條村誌』)

 ながしという言葉にも久しぶりに出会った。短尾(みちかお)付近の砂丘地の南側は,低くなって平地が広がっている。
「海が荒れると水路が埋まり,短尾付近一帯は水たまりとなるため雑草地であった。『ながし』は漢字で書くと『流し』であり,内陸の低湿地の水を水路をつくって流したから『ながし』と呼ばれるようになったのであろう。水路は高田亀三郎氏が作った水路である。のぼし,みそはぎなどが自生しており晩春の,のぼしの穂ばらみ期には『つばねこ』と言って食べていたし,お盆には仏様にたてるみそはぎをとりに行ったものである。」(『正條村誌』)
 ここにも私の家の畑があって,たびたび行ったことを思い出す。現在は住宅地となっている。「つばねこ」なども懐かしい思い出である。

 開墾・開拓の歴史について調べながら,結局『正條村誌』の引用と自分の思い出話になっ
てしまった。まだまだあるが,もう少し資料を整えてから書くようににしたい。(2002.9.28)