そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.90 大堤のうぐい突き 

 
 逢坂小学校の北方に,大堤(おおづつみ)という周囲1000mほどのため池がある。
「大堤は,会下,郡家,下原など下流の水田のための用水堤である。亀井茲矩はこのため池を利用して鯉,鮒,ウグイなどを養殖したといわれ,今日に伝わっている。大堤の水抜きは,周辺の水田を乾かし,魚の捕獲と溜った土,ゴミを取り除くため毎年秋に行われ,当地の風物詩となっている。魚の捕獲は古くから竹で編んだ底の無い樽型の『うぐい』といわれる籠が使われる。『うぐい突き』漁法は茲矩が御朱印船貿易を行った際に,シャムから学んできたものといわれ,今でもタイ,ミャンマー,カンボジアなどの東南アジアで行われているという。」(大堤のほとりの立て札)
 
 16世紀末〜17世紀初め,この地(気多郡,高草郡)を治めていた鹿野城主亀井武蔵守茲矩についてはさまざまな業績が伝えられている。
 新田の開発で主なものを上げると,日光池が上げられる。これは池の水を水路をつくって海に流し,水田としたのである。他にも湖山池の干拓,千代川西岸の大井出用水路づくり,内海,浜村付近の勝見・澤田・小谷・梶掛・八幡などの干拓も行っている。

「村々きらざる木」のおきてというのがある。クワ(養蚕用),コウゾ,ガンピ(和紙の原料),ウルシ(塗料の原料),ツバキ(油の原料)など11種を自由に切ってはならないと定めた。それぞれの産業をすすめるためであった。
 薩摩から杉苗を取り寄せて鷲峰山に植え,林業の育成にも努めた。夏泊の海女の漁法を伝えたり,鹿野笠(すげ笠)づくりを農閑期に奨励したり,彼の産業振興に対する努力は並大抵でない。
 また,前述したように御朱印船貿易も行うという国際的な視野も持っていた。それがこの「うぐい突き」という漁法に残っているのである。
 
 今年も10月6日(日),「うぐい突き」が行われるというので出かけた。この地区の人々は,稲刈りなどの農作業が一段落したこの時期,大堤の水を抜いて干し,中に入って掃除をする。
 茲矩は,灌漑用水としてつくったこのため池を,養魚場としても利用した。鯉や鮒などをこの池に放して生かし,自然のままに大きくして漁をした。しかも,東南アジアにまで交易の手を伸ばしていた彼にふさわしく,シャム(タイ)の漁法を取り入れた。なにか彼の知恵がぎっしり詰まった事業だったような気がする。
 さらに,漁をする者,見る者皆嬉々としているようすを見ると,もう一つ深い読みが彼にはあったのかもしれない。(2002.10.8)