一陣の風が舞った。
拳ほどの石ころと、気の早い雑草しか見あたらない丘にしゃがんでいた少女は、つられて立ち上がり、空を見上げた。数束(日)前までは、あんなに高かった空が少しずつではあるが地上へと近づいてきている。薄く広がる赤と紫に包まれた雲の合間で踊る鳥たちも、そろそろ旅支度を始める頃だろう。
永く、そして険しかった冬が終わりを告げようとしている。それは、すべての生き物にとって、何よりの歓びであった。
Last update 03 Feb 2002[Sun.].
再び舞う風に、少女、ミュンゼは今度は身震いで答えた。春が来る、とはいってもまだ暖かくはない。森へと少し分け入れば、まだ沢山の残り雪が木陰で最期の輝きを放っているのだ。北風に身を晒すには、少しばかり早かった。
腕で両肩を抱きしめながら、大きく白い息を吐きだした。さすがに、日中ずっと陽に照らされていたこの丘では、雪はちらほらとしか見つけることができなかった。が、遮るものがないために夕方の冷たい北風をもろに受け、よけいに凍えることになる。
それでも、ミュンゼは左右のあかぎれになっている手を擦り併せながらしゃがみ込み、先程中断した作業を続けることにした。
水気で黒く、冷たくなっている土を掘り返し、その中で外の空気を吸うことを夢に見続け眠っている小さな命の芽を捜す。そして、その小指の先程の、緑色の芽をできるだけ根の方から折り、土を払い落とさずに左脇に置いてある籠へと大事そうに入れる。竹で編まれた籠には、まだ六つほどの芽しか入っていない。
ふぅ。
陽がもうすぐ沈む。それを了解したミュンゼが、服をめくって大切にお腹の処に入れておいた布巾を籠に被せる。その後で、お世辞にも綺麗とは言えない服から、頑張って汚れを払い落とそうとするが、湿った土が付いている手では、どうやら無駄な努力だったらしい。服の裾で手を拭った形になったが、少女はそれはそれで満足して、誰へでもなく微笑むと、両手で籠を抱えて小高い丘を駆け下りていった。
「うわぁあーっ」
どささ、ざんっ。
右手にある森から、叫び声がしたかと思うと、続いて何かが樹から落ちる音がした。
!?
突然のことにミュンゼは戸惑ったが、今の悲鳴がもし人が樹から落ちたためのものだとすれば、それは大変なことだと思い、籠はそれでも大切に抱えながら、音のした方へと向きを変えて、一生懸命に走っていく。とはいっても、陽が沈んだあとの森の中に入ってしまうと、慣れていても足下がおぼつかないので、どうしてもゆっくり歩くようになる。
「ぐっ、あっつ」
まだ声変わりをし始めたぐらいの少年の悲鳴が、ミュンゼが向かっている方から響いてきた。それを聞くと、ミュンゼはゆっくりだった歩調をさらに緩めて、木の陰に隠れるようにしながら、前へと進んでいく。
白い、はね?
ミュンゼは木陰から見えたものに、一瞬、自分の眼を疑った。そして、次の瞬間にはそれはもう見えなかったから、幻を見たのだろうと思った。
「誰だ!?」
ビクッとしながらミュンゼが正面を見据えると、そこには見かけない服を着た黒い髪の男の子が右手で左肩を押さえながら立っていた。血が、少しだけ肩口から流れている。
その少年の、薄暗い場所から伺える表情や仕草からは怒っているようには見えなかったが、少女は見知らぬ人間に対して警戒心が強かったので少し怯えてしまった。人見知りをするのである。
「あ、怖がらせちゃったかい。ごめん。驚かすつもりはなかったんだ」
少年は先程の凛とした態度を少しだけ柔らかくして、ミュンゼに優しく対応してくれた。痛みのためであろう、時折表情を強張らす。
「僕の名前は、ラティークス。君は?」
「……」
少し戸惑う少女。目の前の同年代の男の子は悪い人ではなさそうだが、あまり人と付き合ったことがないミュンゼは、どのように対応すればいいかが解らなかった。
「ああ、困らないで。心を落ち着かせてくれれば、それでいいよ」
眉間に皺でもよっていたのだろう、泣きそうになっているミュンゼを少年は宥める。その物腰は、すっかりできた大人のものであったが、まだ柔らかさを持った身体と表情がそれを横柄に見せることはなかった。
「ありがとう」
「?」
少年の口から出た、いきなりの感謝の言葉にミュンゼは何も答えることができなかった。
「君は僕を心配して駈けて来てくれたのだろう? だから、ありがとう」
実直すぎるのか、ラティークスと名乗った少年は、形の良い微笑みを浮かべ握手を求めてきた。小さくはない籠を抱えていたミュンゼは、それを左手だけで抱え、自由になった右手を胸の処で綺麗にしてから、ようやくそれに応えることができた。
少年の綺麗な右手は、ミュンゼの右手を暖かく迎えてくれた。
「うくっ!」
その、喉につまったうめき声で、ミュンゼは一番最初に自分がしなければならなかったことに気がついた。怪我の治療をするのが先だったのだ。
そう考えながらも、ミュンゼは焦らずに側の茂みに分け入って、すぐに薬草となる羊歯の葉を二、三枚採ってくと、すぐさま服の中から取りだした布で包み両手で力一杯握りつぶす。そしてそのまま少年の邪魔な右手を肩から退けて、緑の役が絞り出されている布を少し肉が見えている傷口へと押し当て、きつく腕に捲いてしまう。
「っ……」
何とも言えない痛みに、表情を壊す少年。
それでも、女の子の前のやせ我慢からか、少し経つと十分すぎるほどの明るさを出し始めた。
「僕はラティークス。旅の途中で、食料が底を突いてしまってね。この森に入って冬眠中の兎でも獲ろうかと思ったのだけど、こういう時期だ、なかなか見つからなくてね。そうしたら、ちょうどあの樹の上に深い眠りから覚めたばかりの栗鼠がいるじゃないか。これぞと思って、これを射ったんだ。それで、見事当たったは良いけど、矢が栗鼠ごと樹の幹に突き刺さってしまってね。それを取りに登ろうとしてこの様さ」
元気よく、身振り手振りを交えて説明する少年。その言葉を確かめるために、少女は後ろを振り返って、少年が落ちたらしい高い樹の上を見上げたが、それらしい矢は見つからなかった。
「それより、君はもうそろそろお家に帰った方がいいんじゃないかい? もう、陽は完全に沈んでしまった。道が解っていても、夜は怖いのだろう?」
少年、ラティークスは常葉樹のさらに上に目を凝らし、紫からくすんだ黒い青へと変わった空を確認した。
ミュンゼは、ラティークスの心遣いが嬉しかったので、人に対してはあまり見せることのない、可愛い笑顔を作ってから、東の方の空を右手で指した。少し森に入ってしまったここからでは見えなかったが、どうやら月が出ているようである。それを理解したラティークスは、屈託のない微笑みを返す。
「そうか、今夜は満月だったね。でも、人は夜出歩くものではないよ。特に満ち足りた月の夜は。あれは妖し気の光を出して、人を魅了する。君のような女の子には危険だ」
その言葉にミュンゼは不安げな表情になった。この男の子、ラティークスはどうなのだろう。
「ン、ああ、僕のことなら心配は要らないよ。僕も君と同じように帰る家がある。君が帰るのを見届けたら引き上げるよ」
ミュンゼの心持ちを汲み取って、少年は自分は平気だという。だが、この辺りに自分たち家族以外の人が住んでいるということを聞いたことがなかったから、ミュンゼの心配は消えなかった。
「最初に言ったよね。僕は旅人だって。旅人は、必要なときに必要な場所で家を造ることができるんだよ。だから、僕はこの辺の住民ではないけれど、今はこの近くに家を持っているんだ。……平気さ、夕飯ぐらい抜いても死にはしないよ。これ以上、僕に構っていると、君のお爺様たちを心配させてしまうよ? もう、お帰り」
お爺様たち、という言葉に少女はハッとして左側、自分の家がある方向を見やった。少年の言うとおり、祖父は心配しているはずだ。
「明日、また来ると良いよ、ミュンゼ。心配をさせてしまったお詫びに、僕の旅の話を聞かせて上げる」
少年の声は、森の中にこだましていた。しかし、その声の主は、ミュンゼの前から消えていた。
砕けた枯れ葉の上に残る足跡の上で、風が静かに舞った。
「おお、ミュンゼ。どうした。陽が沈んでも帰ってこないのでこれから探しに行こうとしていたところだ。駄目だろう、幾らタクスのためとはいっても、無理をしては。お前がどうにかなってしまったら、逆にタクスも、もちろん儂も悲しいのだぞ」
五〇歳ほどだろうか、がっしりした身体とそれに見合う白髭を持った老人が、手にした剣を食卓に乗せて、急いで玄関へと駈けてきた。
老人の言葉に軽く落ち込んでしまったミュンゼは、頭を垂れて謝罪した。
「ああ、良いよい、済んでしまったことだ。お前が帰ってきてくれればそれで良いのだ。ただ、これからは気を付けるのだぞ。夜は人の世界ではないのだ。そこへ勝手に入っては、家を汚された人ならぬ者がお怒りになる。この前、教えて上げたであろう?」
孫の前にやってきた老人は、しゃがんで少女の目線まで自分のそれを下げ、一度両腕でしっかりと抱きしめてから、諭すように念を押した。
夜は人の世界ではない。ミュンゼは祖父の白い髭をくすぐったく思いながらも、その言葉にラティークスと名乗った少年の笑顔を被せ、彼は平気だろうか、と気に掛けた。が、その考えは、皺に覆われた祖父の手が籠に触れることで中断してしまった。
「ン、怖がらせてしまったか。すまんすまん、脅かすつもりはなかったのだ。さあ、早く手を洗って、その汚れた服を着替えておいで。タクスの薬を作って上げるのだろう? それに、お腹も減っているのではないか?」
祖父の勘違いした心配を受けて、ミュンゼは祖父に先行して台所に行き、そこの瓶に汲んである水で、汚れた手を洗う。あかぎれの痛みにも、もう慣れてしまっている。それに、痛みは生きている証だと、この前祖父に教わったばかりであった。
厚手の服を一気に脱ぎ、それを丁寧に壁に掛けると、下着姿のまま寝室へと向かい、寝台の上に畳んでおいたやはり少し生地の厚い寝間着を着込む。その一連の行動を慌てて行ったので、どたどたと激しい音をさせてしまっていた。
「さあ、ミュンゼ。こっちにおいで。そうだ、できれば静かにな? タクスがうなされてしまう。ん、でだ。ミュンゼが一束(一日)かけて採ってきたこの春永の芽をこの碗と石棒でとことんまで擂るのだ。ん、そうだな。そうやって。よし、頑張れよ。それが終わったら、儂らもちと遅い夕食としよう」
老人は、洗って土を落とした緑の芽をすり鉢に入れてミュンゼに渡すと、そのまま台所へと引き返し、鍋を取ってくる。
ミュンゼは、何も考えずに一生懸命すり鉢と格闘し始めた。大切な友だちが死に瀕して、苦しんでいるのである。それを助けたいという想いが、少女から疲れとすべての心配を忘れさせていた。
「大丈夫だ、タクスは助かるよ。お前がそんなに頑張っているんだ。誰が空へ昇らせるものか。たとえ、それを黒龍さまのお考えであろうと、昇らせはせぬよ……」
今日で最後になる羚羊の汁を火にかけようと暖炉の上にのせていた老人はそう優しく言ってくれた。ミュンゼはそれに応えて汗が浮かんだ顔を上げると、ただ微笑みを返して再びすり鉢へと向かう。
「……そう、大丈夫だ」
自分に言い聞かせるように、苦々しく老人は呟いた。
「おお、もうそれくらいで良いだろう。よく頑張ったなミュンゼ。では、タクスに飲んでもらおうな」
四半吟(三〇分)もの間、ずっと石棒で芽を擂り潰していた孫を見つめていた老人は、その小さな頭を撫でながら努力を労う言葉をかける。そして、ミュンゼを立たせてタクスがいるところ、厩へと誘った。
老人の家は、煉瓦と木材で組まれた、小屋というには少し大きめといった程度のものであった。しかし、設計もよく、建てられてからまだ一〇年も経っていないだけあり、雨漏りなどはしたことがない。換気と住み心地は良いのである。
その家の玄関の対称となる位置に厩はあった。厩、とはいっても今はその主役であるはずの馬はおらず、代わりに一頭の竜の幼生が横たわり苦しみの声を上げていた。普段は何処までも深い紅色をしたその竜の鱗は、だが人間でいう汗に当たるものによって湿り、曇りがかかっているようにミュンゼには思えた。
「さあ、おいでミュンゼ。タクスにそれを上げるのだ」
居間と馬小屋をつなぐ扉から現れた老人は、心配のため立ち尽くすミュンゼを後ろから抱えるように、タクスの頭部へと運ぶ。
体長が一五トゥーシュ(四.五m)近い竜は、二人が近づいたことにも気づかずに、荒い息づかいで、苦しみに耐えていた。時々、突然のように開かれる瞼の下にある瞳は、既に理性を持っていなかった。
ブロールォー。
大きく一度だけ、熱の籠もった息を吐き出す。厩用の入り口はずっと開け放たれてはいたが、紅竜の生臭い吐息は室内を圧倒した。
「ん、ではな、その石棒で白い泡を掬って、タクスに舐めさせるのだ。そう、まずはそれくらいで良いだろう」
タクス、ミュンゼのここでの唯一の友であるこの紅竜がこのように臥せっている責任の一旦はこの老人にもある。
竜族は、卵から孵ると幼生となり、その形態で数年から数十周期を過ごし、その後、成体となって死ぬまで生きるとされる。幼生期の年数に差ができるのは摂取した栄養の量によるものである。竜族は一般的な動物とは違い老衰で死ぬことは殆どないと云われている。その証拠に数百を越える竜が数百周期の刻を人と共に暮らしているにも関わらず、衰弱死や老いて死んだ竜を見たものはいないのである。つまり、竜族にとっての栄養は、摂らなければ成長できないが、生きる上で絶対に必要というべきものでもない、という位置づけをされていた。もちろん、強くなるためには成体にならなければならないので、野生の竜は獰猛に栄養を求めるのであるが。
問題は幼生から成体になる期節であった。
爬虫類のように脱皮を繰り返すわけではないのだが、どうも体内の方でそれに近い変化が起こっているようなのである。それ故、竜族は変体を行う期に人の想像を越える苦しみを受けるらしかった。変体の際に死んでしまう野生の竜もいるほどなのだから、味わうに絶えないこと、この上なしであろう。
勿論、それを甘んじて受けるほど竜の知能は低くなく、変体の期が近くなれば痛みを感じなくするための、一種の麻薬、麻酔作用がある朱梨の葉を食べるために山に籠もるのである。朱梨の葉は、人や他の動物が摂取しても単に渋いだけの葉であるが、竜族の場合はたった一枚の葉をかみ味わうだけで、例えどんな凶暴な竜であろうと目をとろんとさせながら仰向けに寝そべってゆったりと踊るという、絶大な効果を持っていた。ただ、賢い竜族は変体の期にだけ朱梨の葉を摂り、それ以外は近づこうともしない。何故なら、朱梨の葉に取り憑かれれば、人による支配が待っているからである。
人が竜という自分よりもある種、高等な生物をその手で御することができているのも、偏に朱梨の葉があるからである。竜が変体する期を見計らい、朱梨の森で待ちかまえ、まだ幼生の竜を中毒にして知能の成長を停止させ、調教を施し人に従うことしかできない家竜とするのである。この罠に引っかかる竜は元々余り知能が高くない黄竜が殆どであるが、それでも油断した蒼竜や苦しみで半分狂ってしまった玄竜なども捕まってしまうことがある。
人と共にその歴史を築いている竜の大半が、このようにして家畜と成り下がってしまったものであるが、場合によってはこのタクスのように人に惹かれて自らを預ける者もいる。しかし、彼女はその所為で自らを危機に追いつめてしまった。
タクスはあまりにもミュンゼを想うあまり、自分の変体の期が近づいたことを気が付かなかったのである。そして、老人までも三周期という間、何事もなく紅竜の面倒を見ていたために、その期があるということを忘れていたのである。彼女の身体に異変が起こった刹那にはもう遅く、ここから一ミューシュ(約三〇〇km)以上離れた朱梨の森まで飛び立つことはできなくなっていた。当然、今更、人がどのように頑張っても朱梨の葉を必要なだけ取ってくることなどできはしない。
老人は、孫のために固くなってしまった頭をそれでも必死になって使って考え、春永の芽のことを思い出した。春の丘に白地に一筋の紫色を通した花を咲かせるその草の芽は、あらゆる生き物の解熱剤になるとされていた。しかし、採れる季節が春先、というより晩冬のそれもごく一時期に限られているため、一般的にはあまり使われることはなかった。それを思い出し、かつ時期がそのまま当てはまるので、毎年春永の花が咲く丘までミュンゼを使いにやったのである。
しかし、不安もある。解熱剤は解熱剤であり、決して痛み止めではないのである。ミュンゼには言っていないが、後はタクスが痛みに耐えてくれるのを祈るしかないのが、老人の実状であった。
そのことは知らず、ミュンゼはゴツゴツした赤い鱗を優しく撫でてタクスに口を少し開いてもらい、白い石棒で掬った少し紫がかった白い泡を友だちの舌に上手にのせる。
ミュンゼの体温で少し温くなった泡の味を感じれたのか、タクスは重い瞼を少しだけ開けて、瞳の焦点を友人に当てる。先程まで、ただ虚ろを捜していただけの瞳に僅かながら生気が甦ったように見えた。そして、精一杯に深呼吸をするように、徐々に規則正しい呼吸へと変わっていく。
紅竜の重そうな瞼が閉じられるのを見届けると、安心したのかミュンゼは力尽きるように、膝を折って後ろに立っている祖父へと身体を預けるように倒れていった。早朝から夕暮れまで、寒い丘で滅多に見つからない土の中の小さな芽を摘んでいたのだ。疲れが出て当然であった。眠り始めたミュンゼから擂鉢と石棒を取り上げて藁の上に置くと、老人は小さな身体を抱え上げて厩を後にする。白髭の老人には解っていた。タクスが最後の力を振り絞ってミュンゼのために強がりをして見せたことを。
生まれてこの方、涙など流したことがない老人は、孫を寝台に寝かしつけた後、孫とその友だちのために泣いた。
『明日、また来ると良いよ、ミュンゼ……』
みゅんぜ……。
そういえば、何故あのラティークスという男の子は名前が解ったのだろう。
『……君のお爺様たちを心配させてしまうよ? もう、お帰り』
何故、お爺様とタクスのことが解ったのだろう。
教えた覚えはないのに……。
何故、だろう……。
「ミュンゼ……」
低い声が頭に響く。
「ミュンゼ……。起きなさい、ミュンゼ……」
……。
安らかだった眠りは、東の窓から入り込んでくる暖かい陽差しと、朝食の匂い、そして西の森から聞こえる鳥のさえずりと祖父の声によって終わりを得た。眠りは安らかな内に終えるのがいい、というのが祖父から教わった数ある言葉の内の一つにある。朝が遅くなれば、怖い、そして悲しい夢を見てしまう。そういうことなのだ。
ミュンゼは目を擦りながら寝台から起きると、いつもの通りに火の付いた暖炉の前で斧を研いでいる老人に挨拶を済ませ、台所の瓶の水でで顔を洗う。そして、タクスのご飯を用意し……。
そこでミュンゼは気が付いた。昨晩安心して寝付いたため、心配が全てなくなったつもりになっていたのだ。慌てて少女は厩の方へと駆け出した。
クォー。
少し、少し苦しそうであったが、タクスは昨束(昨日)よりも落ち着いていた。息づかいもそれほど激しくはなく、静かである。
「ミュンゼの想いが通じたのだろうな」
背後に立った老人が、孫の方をしっかりとそのごつい両手で支えていった。病は気から、ということなのだろうか。昨夜の、ミュンゼを安心させるための演技が、意外に功を奏したのかも知れない。だとしたら本当に、想いが通じたということだろう。老人は真実そう思えた。いや、思いたかっただけなのかも知れない。
そのようなことは考えず、ミュンゼはただ振り返り、思い切り祖父に抱きついた。目からは涙が溢れている。抱きつかれた老人は、手の行き場を孫の頭と肩に変えてしっかりと抱きしめて上げた。
「ン、良かったな……。これで儂も安心して仕事に出られるというものだ。ミュンゼも、今束(今日)はしっかりと頼むぞ」
自分の心の内を隠すように老人はそう締め括ると、ミュンゼを引き連れてそっと厩を出ていく。
老人の仕事は薪を集めることと狩りである。狩り、とはいっても猟犬はいない。春や夏ならばいいのだが、獲物が消える冬場は猟犬に与える餌などもなくなるため、街の知り合いに預けてしまうのである。しかし、出来の良い相棒たちがいなくとも数ある罠を駆使することで、春先にでもなれば二人分の食事ぐらいは確保することができた。
また、ミュンゼの仕事は近くの河からの水汲みと洗濯、そして山菜採りである。大体陽が頂上に達する前に洗濯と水汲みを終え、少し休憩をした後に近くの森に入って食べるものや薬草になるもの、香水や洗剤として使用できるものを適当に採ってくるのである。
このような役割分担で一束二食の食事を始めとする生活の全てを二人と一頭で続けていた。勿論、昨束(昨日)のように例外的なことも少しはあったが、ここ二、三周期の間はこれで十分上手くいっていた。
「ではミュンゼ、儂は行って来るが、タクスがいないのだからくれぐれも注意しなさい。決して、森の奥までいってはならんぞ」
それだけを言ってミュンゼの返事を確認すると、老人は弓矢と手斧を持ち、一振りの長剣を腰に提げて山へと向かっていった。腹を空かせた獣があちこちで目を覚ますこの季節は、山や森に入るには非常に危険であった。が、そろそろ冬に入る前に確保しておいた保存食が尽き始めているので、できる限り獲物は捕らなければならなかった。
ミュンゼにしてもタクスをつれずに森へと入るのは、できれば避けたいのである。が、やはり背に腹は替えられないのが現実であった。
小屋での昼寝を終えたミュンゼは、タクスに挨拶を済ませてから森へと向かって行った。歩いているときには、既にタクスのことは頭から離れ、昨束(昨日)の夕方にこの森で出逢った少年、ラティークスのことを考えていた。
ミュンゼは、生まれてこれまでの間、接した人の数は余り多く持っていない。知り合いと呼べるような人間は精々一〇人を数えるほどである。そして、その少ない人の中に同年輩の子供は含まれていなかった。だから当然のように、友だちと呼べるのはタクスだけなのである。
旅のお話をしてくれると言っていたけど……。
俗に言ってしまえば思春期という物想う季節にさしかかった少女にとって、ラティークスという少年は新鮮であった。歳が近そう、というものも含めて、ミュンゼへの対応そのものが、いままで出会った人のそれと明らかに異となるものであったのだ。そういったことを言葉で表現することは難しい。だが、あえて言うとすれば、お爺様やタクスのそれに近かったように感じる。
あっ……。
ふ、と気が付くとミュンゼは、昨夕、ラティークスと出逢った場所まで入り込んでいた。手に持った籠には、まだ何も入ってはいない。
森の外よりも少し重たい空気が、喉に気持ちが良い。
何度か、大きく深呼吸をしてから、辺りに気を向けて周囲を観察する。
静かだった。
偶に、遠くの方で鳥がその美声を誇るぐらいで、他に存在する音といえば風が奏でる森の声ぐらいである。
……。
少し残念そうに、ミュンゼは竹籠を抱えなおした。昨束は春栄の芽を採るために丘に行っていたので、家にある山菜は残りが少なくなっている。今束は頑張らなければならなかった。季節が季節だけに、夏の爽やかな透き通る緑はない。あるのは、冬の厳しさを耐えきった、渋く深みのある緑だけだ。それでも、普段の生活に欠かせない植物はあった。
ミュンゼはいつものように、陽の光が射し込む場所を中心に、少しずつ、少しずつ必要なだけの緑を集めていった。例え同じ種類のものであっても一カ所から無造作に採ったりはしない。それはしてはいけないことなのだ。
一吟(二時間)程もしただろうか、ミュンゼは右手の木陰で何かがふわりと舞った気がした。それは、あまりにも周囲に優しく溶け込んでいたが、それだけに少女の鼓動に高まりを与えた。
ラティークス。そう自分で名乗った少年が、そこに微笑んでいた。
「やあ、昨束は叱られずに済んだようだね。良かった」
その言葉に、すかさずミュンゼは最敬礼を返した。どうやら気を使わせたのは自分であったから。
「いや、君が家に真っ直ぐ帰れなかったのは僕の所為だから、君は悪くないさ。それより、今束は少しぐらい暇がとれるかい? 約束通り、旅の話をしようと思ってきたのだけど」
少年はそう言って少女の反応を伺う。それが否定ことを確かめると、ミュンゼに座り易そうな樹の根を勧め、自分も近くにある根に腰を下ろした。
「ありがとう」
そういってからラティークスが話して聞かせてくれた旅は(それが全て本当のことだとすれば)、とても素晴らしいものであった。西にある帝国と呼ばれる大きな国の戦争を見たこと、南で未開の密林を一周期に渡って探検したこと、北の島での氷に囲まれた生活など、ミュンゼが今まで体験どころか、書物を紐解いても感じることができなかったことを少年は身振り手振りを交えて、面白おかしく、そして話によっては悲しそうに語ってくれた。
大勢の人と笑いあったり、涙を共にしたことはミュンゼにはなかった。あったとしても、それは祖父とタクスとの間だけである。だから、ラティークスの言う仲間とか友だちが羨ましく思えた。
「でも、」
と、少年はミュンゼの考えを遮った。
「僕たちはたった一人の仲間の裏切りで全てを、友人を多くの仲間を、僕たちを信じてくれていた人を失ってしまった……」
今まで輝いていた表情に影を落とし、少年は続ける。まるで、ミュンゼの心に新しく生まれた想いを知っているかのように……。そして、大きく一拍おいてから、また明るい微笑みをその顔に浮かべた。
「何かを共有できる人がいるということは幸せだよ。でも、それは失われてしまうこともある。どんなに大事にしていてもだよ。いや、ひょっとしたら大事にしているから失ってしまうものなのかも知れない……。それは、辛くて嫌なことだよね?」
ミュンゼはゆっくりと、真剣に頷いた。そして、はっとする。タクスは一人で平気だろうか。昨夕のように、また、魘されているのではないだろうか。
「ミュンゼは優しいね」
少年の突然の感想にぼうっとしていたミュンゼは目をぱちくりとさせながら、誰もいなくなった森を見ていた。
「大丈夫だよ。君が想ってあげればタクスはまた飛ぶことができるさ」
そして、昨束と同じようにラティークスの声だけが谺した。
その晩、二人の想いと裏腹にタクスの病状は悪化した。
春栄の芽のお陰か熱はそれほど高くはないが、これまで数束の間に吸い取られた体力と気力では既に魘されることすらできなくなっており、動きが見られるのは時折息をするために激しくうめき声を上げることだけである。老人はもうタクスが駄目なことを悟るしかなかった。そして、ならば、と考える。残りの生が苦しみしかないのであれば、楽に空へと昇らせてあげるのが、正しい道であると考えるのである。それも、優しさであろう。
だが、友だちの首に両腕をまわし、色褪せた紅鱗を撫でていたミュンゼは頑なに拒否を示した。
タクスと別れるのも辛かったし、大好きなお爺様に大好きなタクスを殺してもらいたくなどなかった。例え、タクスが苦しむのを見続けても、である。
しかし、だからといってミュンゼはタクスが絶対に死ぬとは考えていない。少しは生きる可能性があると信じるからこそ、老人の優しさを拒むのである。だから涙を流さなかった。少年が言ったように想いが大切だとすれば、泣いたらいけないのだと思えたのである。
自分が泣いてしまえば、タクスは空へと昇るしかなくなる。
そういうことである。
どれほどの刻が流れただろうか。精一杯タクスを応援していたミュンゼも、孫に毛布を掛けてから厩の汚い壁に凭れていた老人も、深い眠りについていた。一頭、タクスだけが何かの気配を感じて悪夢から覚める。
頭が重いのだろう、首を伸ばして警告の咆哮を上げることもできず、ただうめき声を立てた。それは意識してやったことではない。条件反射的なものである。
風が、舞った。
とたん、紅竜がその重い瞼の下から瞳を覗かせ、鼻で忙しく匂いを嗅ぎはじめる。口元に、一枚の朱い葉がゆらりと舞い落ちてきた。タクスは竜の本能で長い舌を使いそれを口に含んだ。
風は止んだ。
クォーッ。
タクスの、優しい鳴き声がミュンゼの耳に入ってきた。
この夢はいつ終わってしまうのだろう。
また、いつかタクスと一緒に野を駆ける刻は訪れるのだろうか。
また、タクスと笑える刻は来るのだろうか。
クォー。
再度、現実の重さを伴って、懐かしく感じる友だちの元気な声が聞こえた。
毛布にくるまり藁に寝転がっていたミュンゼは、濡れた目元を指で拭いながら楽しく、そして切ない夢から覚める。
大きく翼を広げた紅竜の姿が視界一杯に入ってきた。
窶れてはいたが、惨い苦しみからは解放されていることがその生気を取り戻した顔から見て取れた。
ミュンゼは起きあがって一気にタクスの首に飛びつき、力一杯抱きしめた。今度は涙を耐えることはなかった。
早朝の騒ぎに何事かと目を覚ました老人は、唖然としてその光景を見入っていた。
「これほどの……」
無粋だと考えたのか、それとも不謹慎だと思ったのか、老人はその後の言葉を発することはしなかった。ただ自然に、胸の前で印を組み、今の心、それがどういったものかは本人にも解らなかったが、それを素直に込めた。
「ラティークス、そう名乗ったのだな」
あれから数束もすると、タクスの体調はすっかり落ち着きを取り戻した。変体による外見の変化はあまりないが、何処か引き締まり凛々しくなったようにも見えなくはない。そして、このところ、それでもタクスに付きっきりだったミュンゼは、ふと思い出したことがあったので、仕事に出掛ける前の祖父を訪ねた。
祖父の真剣な眼差しを受け、旅の少年に出逢ったとだけ告げたミュンゼは、コクリとひとつ頷いた。
「そうか……」
老人は途方もない遣り切れなさを胸に抱き、あどけない孫を見やり、そのまま友だちのところへと行かせて上げる。
ラティークス。この地方では、何処でも聞かれる俗な名前である。込められている意味は、竜を従える者、あるいは竜を喰らう者といったようなものだ。それらの意があるのは、一説に天主アルフィエーレの本名がラティークスとされるが故である。
魔とされ、聖とされ、統べて素と称される。六獣の伝承は多々あるが、天主に関して共通していることは、天を与えられていることと、命(めい)を司る鳳凰であるということである。
緑が勢い良くその命を咲かせ始めた丘から、少女を乗せた一頭の紅竜が風が踊る空を目指して今日も飛び発った。
おわり