studio BReeZe Revised Edition
-- passing through the Night. --

最果ての國にて

Last update 03 Feb 2002[Sun.].

Written : Fujiduka, Yoshiaki
Designed : Sue, Nakaaki
Designed and Assisted : Kasama, Light
and studio BReeZe

 彼は笑っていた。今束(今日)は運が良く、新鮮な食料にありつくことができたからだ。人間と称する愚かなその食料たちは、自ら馬車という乗り物で彼の狩り場へと入り込み、そこで狩られた。そして、その馳走を喰らいながら、彼は思い出したのだ。人間が持つ肉と魂がいかにに旨いものかということを。
 何とも言えぬな、最後まで己が肉に執着する魂の味は……。
 くっく。
 再び、彼は笑った。

 白き街道。大陸の中央に位置する小都市群と東の大国フェスを結ぶ幾つかの交易路のうち、最北端に位置する路である。北凍海に面したその路の名は、一周期(一年)の大半を霜と氷と雪が覆い、その間は土の色を陽に晒さないことに由来している。もちろん、路が白く彩られている季節はそこを旅することは不可能となる。が、北凍海が一周期を通して凍っており、大陸北部の物資輸送は実質この白き街道で賄われているため、近辺諸国にとっては最重要路であった。
 その白き街道に横たわるようにして最果ての国ウィルグがあった。
 ひとつの王都と三つの街、あとは幾つかの村で構成された小国は、その二つ名で解るとおり、大陸の最北端に位置していた。小国ではあったがその二つ名と稀少鉱物を産出する土壌のため大陸でもある程度名が通っており、君主は君子こそ輩出しなかったが無闇な欲を持たない平凡な者が何代か続いていた。
「四周期ぶりか?」
 外套に付属している頭巾を深く被った男が、長く続く街道の横に建ち並ぶ家屋を見やりながら自分の横に並ぶ女に尋ねた。その視線は険しい。
「旅立ったのは晩冬。四周期半でしょう」
 男と同じように、顔を覆い隠すようにして頭巾を被っている女が、すっきりとした声で応えた。いまは紅火の会(月)の終盤、白き街道がその役目を果たす四会(四ヶ月)のうちの三つ目の会である。次の白雷の会が終わりを告げれば白く、そして冷たく閉ざされることになる。
「覚悟は決めたか?」
 躊躇いがあるのは自分だけだということを承知しながら、今度は女に顔を向けて質問した。女は笑った。
「いまの私は意志を持っていないわ。すべて兄さんに従います。……もし、兄さんが今回の仕事を嫌がるのであれば……」
「いや、いい。解っている、これは俺の仕事だ」
 頭を振りながら、男は自分の意志を決めた。
 例外はあってはならない。
「行こう。但し、正体はばれないように」
「ええ」
 兄妹は目前にある村へと向かってゆっくりと歩き出した。

 村。キリーという名のそれは、人口が三〇〇人にも満たない寒村である。街道沿いに建てられた一季節しか開かれることがない小さな旅籠を中心として、この近辺では比較的肥沃な土地を目的に周辺の農民が移住を行い、現在の規模に発展してきた。国境付近ではあったが、持ち前のその厳しい気候のために外敵に脅かされたことがない。
 この村唯一の酒場兼旅籠「栄えある旅立ち亭」は仕事を終えたばかりの農夫たちを迎えてざわめいてはいたが、活気というものとは無縁であった。
 カコン。
 扉に付けられていた鈴が低い音を響かせ、新たな来客を知らせた。鼻の頭まで深く頭巾を被った人間が二人。黒く重い空気が覆う酒場に一瞬の静寂が訪れた。二人の客はそんなことを気にすることなく長台の空いていた席に着き、酒場の主人に声をかける。
 新客のうちの背が高い方が態と低くした声で三束(日)ばかり部屋を借りたいことを告げ、主人がそれを了解すると今度は葡萄酒と適当な肉などを頼んだ。
 そのようなやり取りとは関係なく、酒場の重い空気がさらに湿り気を増していた。街道沿いにあり、そして新興されつつある村にしては珍しく、酷く排他的な雰囲気がこの村にはあった。何がそうさせているのかを正確に知る者は、多分いない。
「よぉ、兄ちゃんたち。珍しいな、二人だけで旅なんてサ」
 陽に焼けた逞しい体つきをした若者が上品そうに肉を食べ、ワインを聴いている男に話しかけた。すでに何杯かの麦酒を仰いでいるらしいその若者の声は決して友好的とは言い難かった。そして、その行動には数十の視線が集まっていた。
「……」
「無視、か。まぁいいでしょ。それよりさぁ、その頭巾取ってくれないかなぁ、端から見てっと、暑っ苦しくてサ」
「俺には関係ない」
 男の素っ気ない一言と、それに対してその連れが吐いたため息が嘲笑に見えたことが血気盛んな若者を熱くさせてしまった。
「見てるこっちが暑いっつってんだよ! 怪しい格好しやがって、どうせ他人様には言えないことしてきたんだろうが、この優男が!」
 体格、仕草、声質などで喧嘩の対象物を優男と決めつけ、若者は男の胸ぐらを掴みかかる。と、その手は男の手によって呆気なく弾かれた。
「もう一度言って見ろ、この……」
「兄さん!」
 男が右手を挙げたのと、連れの女が警告を発したのは同時だった。瞬間、男の手は下ろされ左手に掴んでいた呆然としている若者の胸ぐらも放された。ちっ、と軽く舌打ちをしてから、再び席に腰を落ち着ける。
「ゼイル、さがりな」
 背は低いが、がっしりとした肉付きの主人の一声で気が付いた若者は一度周囲を見渡してから、小さく捨て科白を残してからそそくさと酒場を出ていった。地元農民の連中もそれをきっかけに、あるいは勘定を払い、あるいはツケを頼んで家路についた。
「これでもとが宿場町と言うから笑っちまう」
 主人は誰へとでもなく呟いた。以前は一〇を数えた旅籠もいまではここ一軒になってしまった。大地を凍てつかせる北風が村人から開拓者の気風を奪っていった、と漏らす。
「昔はもうちっとマシだったんだが」
 店内に幾つもない食卓から食器を取り除き、それを台所へと運びながら主人は何どめかの愚痴をこぼす。その様子からすると、酒場はともかく旅籠の経営は思わしくないらしい。
「オヤジ、三束(日)分の宿代だ。食事は朝夕の二回ずつをこの中で適当に賄ってくれ」
 お互いに適度な食事を終えた二人の旅人は主人の了解を得ると、部屋の鍵を受け取ってから二階へと続く細い階段を上がっていった。

 翌朝、二人の旅人は村の社へと足を運んだ。
 山神、丘神の兄弟とされ、雪を統べる鬼神・岳神を祀ったその小さな社は、まだ建てられてから三〇周期と経ておらず、綺麗だった。が、寺社独特の神秘的な雰囲気は損なわれず、相応の風格を漂わせていた。
 しかし、二人はその社へは寄らず、真っ直ぐに裏手にある墓地へと向かった。
 そこは酷く荒らされていた。
 立ち並んでいなければならない墓標は倒れ、その数だけ地面に穴が開き、骨の欠片や腐肉がそこかしこに散らばる。墓荒らしのやり方としては豪快すぎた。
「……」
「ほぅ、よく似ておいでだ」
 不意に、頭巾をとって心なく墓場を見つめていた兄妹の後ろで気配が起こり、同時に良く通る声が響いた。
「驚かしてしまいましたか。申し訳ありません。中央の神官エントラント様と従者エリサランサ殿ですね。私はここの岳神に仕えるギュリと申す者です。以後、お見知り置きを」
 形の良い笑顔でギュリは振り返った男女を見比べた。
「本当によく似ておいでだ」
「挨拶が遅れて申し訳ありません、神主殿。中央の戦所より派遣されました神官エントラントと申します。これは従者のエリサランサです。私たちが似ているのは双子だからです。そこまで驚かれることはない」
 男、エントラントは自分の心うちを隠して神主と対峙した。
「なるほど、そうでしょうな。それでは、今回の件について詳しく説明をしますので、どうぞ社においで下さい」
 神主、ギュリは笑みを返すと独特の白い服を翻してさっさと歩き出した。
 社の中は、荒れ放題の墓地とは違い清浄の空気を保っていた。ギュリは室内の奥に置かれた、岳神の神体である苔生した岩に三拝してから板の間に胡座をかいて座るエントラントたちに振り返る。
「ところで、失礼ですが、あなたはなぜ原神殿にお仕えをなさっている?」
 エントラントの首から提げられた神印を見つめながらギュリは訊ねた。
「……」
「……詮なきことを訊いてしまいましたね。お忘れ下さい。では早速ですが本題に入らさせていただきます」
 無言のままのエントラントを見やってからそういうと、ギュリは客人の正面に座り一集(一週間)ほど前に起こった忌まわしい事件を詳細に語り始めた。

 ……真夜中、月のある夜である。暗くはない。いや、それどころか雲が数えるほどしかでておらず、星明かりに照らされていたため、一吟(午前二時)だというのに闇がすべての視界を遮ることはなかった。
 ギュリは物音ではなく、気配によって起こされた。邪な気配である。神社の境内は普段から結界が張られ、清浄さを保っている。それは人が故意に張ったものではなく、神体と社、そして何よりも境内の空気により発生する。だから、結界を破るためにはその空気を汚せばいいのである。しかし、だからこそ普通の人間が破るのは難しい。清浄な場の中では、人の邪心は薄れてしまうからである。
 しかし、そのときの邪気は人ならざる者の発したものであった。「陽気」を感じなかった。ギュリは、しかし慌てず、神主の衣装を纏い、邪気が漂う墓地へと向かった。そこで、幾十もの人影が墓場から這い上がり、歩き出している場面に出会した。
 そこでギュリはさすがにたじろぐ。神社の墓地に祀られているということは、そこにいる死者は神の付き人であり、俗界とは離れた存在である。それが賤しくも自分の主の元を嫌い地へと這い上がってきているのだ。尋常な光景ではなかった。
 と、不意にいっそう強い邪気がギュリを打った。中空からであったという。その気に当てられ、ギュリは気を失った。
 明け方、強い陽差しに起こされてギュリが目にしたのは、いまエントラントとエリサランサが見た惨状である……。

「神の地の守りを任されていながら、不甲斐ないことです」
 そういってから、ギュリは項垂れた。先程の明るい表情はすでにない。
「で、犯人に心当たりなどありますか?」
 ギュリは頭を振る。ただ……。
「ただ、人ならざる者、あるいはそれに類する者であることは確かでしょう」
 鬼を超え者。
 エントラントたちが仕える神々は他宗教からは鬼神と呼ばれている。それもそのはずで、元々は人の手に負うことができない天災や事象を神として人格を持たせ、奉り、崇め始めたのがきっかけなのである。
 例えれば、エントラントが仕える原神は「雷」の具現化であり、ギュリの仕える岳神は「雪」の象徴である。他にもそれぞれに人が畏れ、敬う自然の理を神としていた。それは唯一神を信仰する人間に言わせれば悪魔を崇拝しているに等しい行為であった。
 そして、鬼を超える者とは、自然の理を犯し、それを支配しようと考える者たちの総称である。それは人間であったり、その怨念であったり、動植物の怒気であったり、様々であるが、その邪気の起因には大概人間が絡んでいる。
「そうですか、解りました。では、私たちはこれから南の森に行ってみようと思います。何かが起きる前に」
 エントラントはすぅっと立ち上がり、それだけを告げた。
「足跡を辿って、ですか」
「今のところ、手がかりはそれだけです」
 そう言って、二人の男女は社を辞した。

 墓地から続く足跡の群は一集(一週間)経ったいまでも風化せずに不気味なほどくっきりと残り、南の森へと向かっていた。月明かりの中を整然と歩く死者の集団は恐ろしさを通り越し、さぞ滑稽だったに違いない。
 社を辞してから半吟(約一時間)も歩くと、小さかった山に面した針葉樹が鬱蒼と茂る森であることがはっきりと解るようになった。足跡は一直線でそこへ向かっている。
「邪気は感じないが……」
「森が覆い隠しているのでしょう。この森の気配は普通とは違います」
「毒されたか」
 平然とエントラントは言う。もう、こういったことには慣れてしまった。加えて、その慣れを危険だと感じる意識も徐々に失われつつある。人がいる限り、世界から邪気が消えることもないだろう、そう考え始めていた。それは、邪気を産み、育むことに自分も荷担しているということを承知している上での諦めである。
「中に入って、奴を見つけることができると思うか?」
「普通なら無理でしょうね。この足跡が一つなら良いけれど、森の中で別れてしまったら私たちが迷ってしまうわ。そして、罠の可能性も捨てられない」
「儀式は普通でも一集で終わってしまう。今束明束(今日明日)が山場だろう。五〇体以上の群が各個に村を襲撃すると俺たちには為す術がない。そうなる前に、ケリを付けたいのだが……」
「……兄さん。それよりも、一つだけ気がかりなことがあるの」
「? なんだ」
 エリサランサは言う。森が毒されているということは、今回の主犯が長き周期に渡りこの森を住処としていたためである。で、あるにも関わらず、今回の事件が起こるまで、目と鼻の先にあるキリーを襲わなかったのは不自然で、何か原因があるはずだ、と。
 そう、確かにこの事件は突然過ぎた。しかし、その原因を調査している余裕などありはいなかった。
 しかし、双子の妹は続ける。キリーへと向かう前の街で訊いた奇妙な噂。ウィルグから亡命してくるはずの貴族が予定を五束過ぎても来ないということ。しかし、ウィルグでも彼らの消息は絶たれているということ。そしてキリーよりも王都側の街でその貴族が確認され、その結果国境警備が厳重になったこと。
「つまり、その貴族が国境を抜けやすいこの森を利用し、結果、奴に人間の味を教えてしまった、ということか」
 出来過ぎだ。出来過ぎだが、納得はいく。確かに、この森の中は旧街道が通っているのである。ただ、様々な理由により地元の者にも忘れ去られているだけだ。
「一度、旧街道まで突っ切ってみるか」
 そう決めると、エントラントは森へと足を踏み入れた。
 一歩森へと分け入ればエントラントも悟った。緑豊かな森自体からは怖ろしさを感じない。森は生きているのではなく生かされているのだ。自らを守ることはせず、何らかの力の影響を受け守ってもらっている。森そのものの意思は死んでいた。
「まるで……」
 言いかけてやめる。いまは犯人を突き止めるのが先決であったから。
 それほど険しくもない、樹木以外の植物、羊歯や苔、雑草が極端に少なく、また鳥や小動物を見つけることができない森を二人は一本の路を造り上げた足跡を辿って延々と歩き続けた。細い葉の合間から見える陽を確認すると、まだ陽はその頂点を極めていなかった。
 と、突然、目の前が切り開かれ、幅の広い一本の路へと出た。木が切られ、平らに調えられただけのそれは、確かに旧街道であった。雪解け水のためか泥濘となっているその道を骨たちの足跡は南東へ向かっていた。そして、それに混じって、異質な足跡と数本の深い溝が路沿いに続いていることに二人は気づいた。目的のものがここにあったのだ。
 蹄鉄の跡と轍は薄れつつあったが、それを付けた主たちが行った強行軍のためであろう、まだそれと認識できるだけのものであった。東へ、それは向かっていた。
 どちらへ向かうか、エントラントは少し躊躇った。このまま骨の群を追うのが確実なのは解っている。ここまで足跡が二手に別れたことはない。この先もないだろう。しかし、馬車の行方が気になることも確かであった。
「邪気の根を倒すことが彼らの魂を安らげるために効果的です」
 妹が言った言葉が優柔なところがあるエントラントの決心を固めた。経験から、この路を通ったであろう貴族たちが死んでいることは推測できた。しかし、それを確認するのは後でもできるのである。迷いを消した。
「……行こう!」
 再び、湿度がそれほど高くない森へと分け入った。

 エントラントにとって、為すべきことを示してくれるエリサランサは貴重な存在だった。幼い頃は母に、父に懐き従っていただけの少年は、まだ自分の行く道を教えてくれるものが必要だった。それは神であっても良かったが、霊神や聖神といった異国の神々とは違いエントラントが仕える鬼神たちは、人とは何であるかとか人生とは何であるかなどといった哲学的なことを教えてはくれないし、人々もそんなことは望んでいなかった。人々は神が有するその力を畏れ、神官は神がその力を振るわないことを祈るのである。
 結局、エントラントは自らの道標を他人に求めた。
 自分が甘えん坊であることは認めているし、それを改めなければならないことも知っている。優しく大人しかった妹にその心根を押し殺させて、ときには励まし、ときには叱咤するように、頼りなく戸惑う自分を奮い立たせていることに心が痛んだりもする。しかし、いまのエントラントには自分を変える力が足りなかった。いや、そう思い込んでいた。
 ケリを付けるまでは……。
 自分の左後ろに付き従うエリサランサを振り返ることなく、エントラントは突き進んで行く。そして路は開けた。

 ぐぅううぅ、ぐっ……。
 広く森が拓けた場所に沼があった。上辺は澄んだ池のようであったが、二トゥーシュ(約六〇センチ)ほどの深さにある泥は見せかけで、一度脚を突っ込めば二度とは放してくれないだろう。ここにも、鳥や獣の姿はなかった。
 ぐるぅぅううぅ……。
 再び、沼の上に漂っていたそれは奇怪な唸り声を上げた。醜く、巨大なそれは顔中に広がる二つの虚ろな眼で二人の侵入者を睨む。
 ナ、ナニモノ、ダ……。
 どす黒く、ぬめっとした重さを持つ意思が周囲を闇へと落とす。
「闇を鎮める者、だ。貴様は心穏やかでなければならぬ存在、鎮守する」
 エントラントの凛とした声が、一瞬で周囲を澄み渡した。
 くっく……。
 嘲り。
 できるものか。後少しなのだ。あの集落。餌。肉に住み着く美味な魂。
 オ前タチニハ解ルマイ。
「本来なら貴様を産み出した縁を絶ちきるのが筋だが、それをやっていたら村が襲われてしまう。悪いが力尽くでそれらを祓わせてもらう」
 帯剣を抜き柄を両手で握ると、刃を下に垂直にして剣を構える。五握分もある柄を持つ長剣でその構えをとると、柄の端から刃の先までの長さが丁度エントラントの身長と同じであることが解る。
 手駒ヲ減ラスノハ惜シイガ、ソノ分ハオ前タチヲ代ワリトシヨウ。
 口ならぬ部分から響く闇の声に促されるように、沼底の泥から何かが這い上がってくる。実体重がないからだろう、それらは一見不可能に思える泥からの脱出を簡単にやってのけた。泥の肉を着た骨。死してなお生に執着するように、骨にこびり付く魂の欠片である人間の負の感情を利用し、創り出された人形。
 二人の兄妹には見慣れた光景だった。一つを除いて……。
「か、母さま……」
 エリサランサが呆然と呟いた。二人の目の前に姿を現した数体の泥人形の中に、それはいた。エリサランサと瓜二つの顔をしたモノ。四周期半前に流行病で亡くなった母の面影を残したモノ。少しずつ崩れ始めているその顔が拉げた。多分、笑ったのだろう。
 迷うことはなかった。
 エントラントは沼から上がってきたそれら不浄の者たちすべてを、長大な剣をもって数瞬で薙ぎ払った。その顔は、しかし狂気に取りつかれてはいない。
「エリサ、珠を!」
 兄の声に両手で口元を押さえていたエリサランサは、ハッと気が付く。慌てて邪気を放つ者と対峙する位置取りをすると、首から提げていた青く輝く勾玉を思い切り糸を断ち切って外し、両手で丁寧に額の前に持っていきゆっくり深呼吸をしてから、目を瞑り念を込め始める。
 ……自らの意思を捕らわれし哀れな弱き魂たちよ……。
 ……汝らの居るべき処は其処には非ず、汝らの安らぎは……。
 ぐるぁああぁ、あぁ。
 チ、力ガ削ガレテ行ク。
 呻き声が上がる。しかし、そこには狂喜が含まれていた。
「名を訊く、貴様の真名は?」
 ワ、吾ハァ。
 ……御珠に入りて地に根付かん……。
 空中で藻掻きながら呻いていたものから、淡い光が漏れ出し始める。
 ……解き放ち給え!
 毅然とエリサランサが言い放つ。と、花火が弾けるかのように一気に幾つもの小さな光の霊が邪気から飛び出し、上空や水面を通って少女が両手で握る勾玉へと自ら入っていく。そして同時に何かが沼に落ちる音がした。
 ふぅ。
 ため息を吐いた後、沼に沈み行く邪気の成れの果てを見ながら、周囲三ノーシュ(約九〇メートル)に及ぶ沼を何周かして沼全体を覆う結界陣を剣で書き上げる。
 先程エントラントが薙ぎ倒した泥人形も、そしてまだ沈んだままであるはずの亡骸も、村に返すことはできない。邪気を浴びすぎているため、村の墓地で祀れば邪を呼び込むきっかけになってしまう。
 エントラントは無言ですべての泥人形を沼へと投げ入れていく。その内の一つを投げるとき、エリサランサが小さく声を漏らしたが、止めたりはしなかった。
「……邪に弄ばれ生まれし哀しき御心よ……。
 ……猛き力を鎮め、この地に結びつき……。
 ……我らが守を受け止め給え」
 そして、造られた闇と光が去り、森が本来あるべき姿を取り戻した。

 エントラントたちが再びキリーの岳神の境内に姿を見せたのはその日の夜半である。礼儀を考えれば非常識なことだろうが、ことがことだけに神主のギュリは驚くよりも先に歓迎してくれた。
「これがダヴェンに捕らわれていた者たちの御霊です」
 そう言ってエントラントは、社の中に入ってから青く輝く勾玉をギュリに渡す。神主はそれを丁重に預かると、神体の前に置いた。ダヴェンとは今回の主犯である邪気の正体の真名である。しかし、三人の誰もその名に心当たりはなかった。
「いずれ哀れな者に違いないでしょう」
 それについては三人とも同じ想いであった。
 そして、馬車がダヴェンによって襲われた場所とダヴェンを封じた沼のある場所をギュリに伝えると、エントラントはここを辞することを告げる。
「村長、いえお爺様には?」
 明朝いちばんで村を出ていくだろう男女を座らせたまま、ギュリは訊ねた。
「会えません。会っても会話にならないでしょう」
 そのときはさすがに首を回して妹を見てから答える。
 妹の表情は、兄さんに任せますと言っていた。
「……お互いに性格が似ているようですからね」
 軽く笑った後、
「あなたたちは幼い頃から聡明でした。そして私とはもう縁も薄い。ただ、最後に名付け親として言わせてもらいます」
 ギュリは言った。いまでもこの村はあなたたちの故郷です、と。そして、何も協力できずに親を名乗るのは烏滸がましいですがね、と付け加え笑った。苦い笑いだ。
 そんなことは分かり切ったことだ。当然のこと。しかし、現実は違った。四周期半振りのこの村はエントラントたち兄妹を忘れていた。何もかも閉ざし、村だけの世界を造っていた。だから、世話になっていたギュリに改めてそう言われると、エントラントの頬を一筋だけ涙が伝わった。
「ありがとうございます。でも、踏ん切りはつきました。もうここへ来ることはないでしょう。母のこと、そして祖父のことを宜しくお願いします。先生」
 兄妹は立ち上がり、岳神に三拝し神主に礼をしてから旅籠へと戻っていった。
 もうここは故郷ではなくなった、エントラントはそう自覚した。

 旅籠へと着くと、夜遅い客のために開けられた裏口から入って二階の部屋へと戻り、汚れてはいたが風呂場が閉まっていたのでそのまま鎧と服を脱いでさっさと床につく。二人とも眠りは深かった。
 明朝早く、店の主人に今束(今日)出立することを告げると、明束の食事も用意していたのに、と心底残念がってくれた。それからエントラントたちはそそくさと村の共同浴場を兼ねた風呂場で朝風呂を済ませてから、酒場兼用の食堂へと向かった。
 と、エントラントはそこに主人以外の人間がいることに気が付いた。
「まったく珍しい。あんたみたいなお堅い人間が朝っぱらから酒を呷りに来るとは」
「ふん」
 その特徴ある鼻息には聞き覚えがあった。
「……兄さん」
 手拭いで濡れた髪を拭いていたエリサランサが、呆然としていた兄を後押しした。
「先生が教えたのか?」
「そうです」
 緊張のため少し低くなったエントラントの声に答えたのは、初老の男ではなく、いつ店に入ってきたのか白装束の神主だった。そしてにこやかに笑いながら、子供は粋がるものではない、と続ける。
「あの男には……」
 白髪が多くなった老人が口を開いた。
「お前たちの父親には悪いことをしたと思っている。お前たちにもだ……」
 そう言ってから立ち上がり、エントラントとエリサランサの顔を見据えてから一礼をする。そして、済まなかったという一言と酒代を残して酒場を出ていった。
「あなたにお爺さんのことを頼まれましたからね。それに、大人は余計なことをしたがるものです」
「くそったれ」
 立ち去るギュリの背中に向かい、エントラントは子供らしく呟いた。その顔は笑っていた。

 おわり

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