プロフィール
HN:がらもん 妻:からやん ※ S33年生まれ、男性、…水泳をはじめてやせるも、筋肉がない(泣)。 特に上半身が貧相である。なで肩で胸板が薄い。鍛えたことがないのだ(爆) 水泳レベル:2004年10月からCFC横浜北で本格的にレッスンを受けるようになる。 すなわち、スイマー3年生だ。現在は、主にCFC市ヶ尾に通っている。 ちなみに、はっきり言ってヘタクソである。 タイムは、25mビート板バタ足25秒、25mプルブイクロールストローク25秒。 そして、25mクロールスイム25秒である(泣笑) プールでは、隣を小中学生位の子が、 50mをひょいひょい30秒くらいで泳いでいたりするので、 仕事よりも水泳に気合を入れているおじさんとしてはとても悲しい。 本人は、オリンピック選手をイメージしながら 4泳法をさっそうと泳いでいるつもりだが、 自身のビデオを見せられると 「うわぁ!すげ〜〜ヘタクソ(笑)」と声を上げてしまう。 したがって、プール内では、たぶん「低レベル廃棄物」と言われている。 なんのなんの、めげるものか! 三途の川を個人メドレーで泳ぎきるのが夢なのだ。 まあ、今のところ初中級レベルのため、泳法会得のレッスンがメイン。 しかし、時々無謀にもトレーニング系メニューにも参加したりする。 自分のレベルの低さを思い知らされ、だいたい一週間は落ち込むのだ。 ・・・・・あとは、くだらない独り言です。フィクションとしてお読みください。 水泳との出会いと別れ、そして…。 その1「伝承」 カミさんは、レッスンを受ける以前は、全くの金槌ならぬ、木槌でしたが、 私は、もともと全く泳げなかったわけではありません。 古式泳法の横泳ぎや平泳ぎなら、 500mでも1.000mでも泳ぎ続けることはできました。 子供の頃、兄から水泳を教わったからです。 兄は父親から教わりました。 父は祖父から教わったそうです。 面白いことに、私の横泳ぎは右向き、 兄は、左向き、父は、右向き、祖父は左向きだったと聞いています。 向かい合って泳ぎを教わったんだと思います。 場所は海でした。はじめから足の届かない海で水泳を教わりました。 浮き袋から離れることが、私にとっての水泳の第一歩でした。 今でも鮮明な記憶として残っていますが、 当時のことを思い出しても、 とにかく水(海)は、ぜんぜん怖くなかったし、 楽しかったし、立ち泳ぎなどは、 見よう見真似でなんとかなるものだったと憶えています。 その2「泳げない水泳部員」 あまり言いたくないのですが、私は中学時代水泳部員でした(笑誤魔) そう、「でぶで、泳げない水泳部員」だったのです。 中学受験に失敗した当時の私は、 ストレスのせいもあってかなり太っていました。 「やせるには水泳だ!」今思い出しても短絡的な発想で進路を選ぶ子供でした。 それは今でもほとんど変りませんが(笑) 入部するなり、部長先生に、 「泳いでみろ」と言われ、 顔上げ平泳ぎで泳いだところ、 「よし、お前はブレストだ」といわれました。 「ブレスト?なんですかそれは」と言ってしまい冷笑された記憶があります。 私と同期で入部した人には、 凄く水泳がうまい人がいなかったということもあり、 一年のときはなんとか皆勤賞で部活をしたと思います。 私はてっきり、クロールやバタフライなど、 手取り足取り教えてもらうのだと思っていたのですが、 何の指導もなく、来る日も、来る日もブレストです。 そして、部長先生は一度も水着でプールに入る事はなく、 監視台の上でストップウォッチを手に笛を吹くだけでした。 先輩からわずかな指導を受けただけで、 とにかく泳ぐだけの練習でした。 先輩はみんなうまかったです。 もう10年以上競泳をやってるって人ばかり(笑) ですから、競技会に向けて自分の練習をすることに忙しく、 まともに泳げない後輩の面倒を見ている余裕はなかったんだと今思います。 2年になって、「10年競泳やってます」みたいな後輩が入ってくると、 もう私の立場などなく、まったく練習に出なくなりました。 でも在籍だけはしていました。 クラスの担任からも内申書で有利だから、 部活はやめるなといわれていましたし、 子供のときから生意気で計算高く、 「内申書で有利だから」と聞かされれば 生徒会役員に立候補してしまうような、 正義感のないワルガキだった私は、 とにかく練習はサボって在籍だけしていようと思ったのでした。 その3「少年時代のトラウマ」 その中学の時に、体育祭でクラス対抗の競泳競技がありました。 ろくに泳げない私もクラス全体から見れば泳げる部類になります。 もちろんブレスト…といっても前畑ブレストですね(笑)…での参加です。 水泳部に所属していなくても、 スイミングクラブ(スクール)とかに所属していて むちゃくちゃ速い生徒が、ここぞとばかりに出場してきますので、 水泳部の独壇場とはなりませんが、 それでも恥をかくことなく 1年2年とクラスの大声援のなか選手として参加しました。 しかし、3年の時にてっきりブレストで出るものだと思ったら、 クラス会の協議で私がバタフライで参加することになったのです。 クラスにバタフライが出来る人がいなくて、 「がらもんは水泳部なんだから」が理由です。 バタフライなどやったこともないのに、 棄権するとそれだけで得点が0になり、 ビリでもいいから、とにかく泳法違反にならないように泳げばいいと、 クラスのみんなに説得されました。 …さあ大変!。 あわてて、さぼりっぱなしの部活の練習にでて、 冷ややかな顔の同級部員から、たった一日だけ、 やっつけのバタフライの指導を受けました。 もちろん結果は惨憺たるものです。 他の選手から大差で離され、 私は25mを29秒かかって、なんとか泳ぎました。 トップは20秒を切っていたと思います。 まあ、クラスのだれも私のことを責める人はいませんでしたし、 私自身、与えられた責務は果たしたんだと、納得させていました。 でも、とにかく、恥ずかしかったです。 涙が出るほど悔しかったです。 ろくな指導者のいなかった水泳部でしたが、 3年間真面目に頑張った同級生はみんな、 クロールも、バタフライもきれいに泳げるようになっていたんです。 そして、3年の秋の競技大会のとき、 まともなタイムの出せない私が選手に選ばれるわけがないのに、 部長先生が、 「お前も出るんだぞ、ちゃんとエントリーしてあるから」 と恐ろしいことを言ったのです。 つまり、これは、 内申書記載目的だけに水泳部に所属していた私への制裁なのでした。 ちゃんと準備をしていないで参加する競技会が いかに惨めなものかを体感したばかりでもあったので、 「ぜんぜん、練習していないので、泳げません」と私はいいました。 すると、部長先生は、 「出ないのなら、今すぐ退部だな」とほくそえみました。 その時の部長先生の顔が今でも忘れられません。 私は震える手を後ろに隠し、 「出場します」と答えていました。 子供心に一計を案じた私は、 競技会の当日、競泳水着姿で会場にいました。 そして、前日の計画通りに、 自分の競技がはじまる10分前に、 腹痛を理由に棄権しました。 高校受験の内申書には水泳部に3年間所属と書かれていたはずですし、 目的の高校に合格しましたが、 このエピソードが少年時代の深いトラウマとなり、 その後30年間、水泳をやることはなかったのです。 その4「ボクにも、おしえて〜」 30年後、 私は、髪に白いものが目立ち、薄くなり、顔と頭の境がなくなりました。 それだけなら単なる加齢によるものですが、 ウエストがなくなり、腹は飛び出し、あごが増え、血圧があがり、 採血結果には*マークが目立つようになりました。 運動不足を自覚していたものの、 ジョギングをすれば膝や足首が痛くなり、 ダンベル体操をはじめれば、次の日は全身筋肉痛、 倦怠感で仕事にならず、結局のところ、 運動習慣を個人の努力で身につけることは困難と悟るようになった矢先、 年々体脂肪率の増加に恐怖するカミさんから 「一緒にスポーツクラブに入ろう♪」と言われました。 しかし思わず、 「スタジオだのジムだので教わるっていうのが面倒くさい」と答えると、 「いやなら、一人プールで泳いでりゃいいでしょ」と返され、 「それなら、いいかなぁ」と返事をしていました。 正直言って、 日々の仕事が面倒臭い他人とのコミュニケーションの連続なので、 仕事を終わってまで、 他人とのコンタクトは持ちたくないというのが本音で、 まして何かを教わるということなど、 当時の私にはまったく考えられなかった事だったと記憶しています。 CFC横浜北のメンバーになり、 週に2〜3回、プールで誰とも話すことなくひたすら泳いでいました。 日常生活と全く異なる水の中という世界は、 頭の中は真っ白空っぽになり、行けば2時間で2.000mは泳いでいました。 (しかし…今より泳いでいますね)もちろん両手両足おっぴろげ、 顔は前を見据えたままの前畑ブレスト(笑)です。 そして、3〜4ヶ月が経過したある日、 私の横を、とてもゆっくりしたストロークで、 ほにゃらかほにゃらかと次々にクロールで追い抜いていく、 お姉さんや、おばさんや、おばあさんがいることに気がつきました。 中には、どらえもんか鉄人28号みたいなシルエットのスイマーまでも、 私のことをひょいひょい追い抜いていきます。 …く、くやしい、ど… 2004年10月1日、私は、ついに水泳のレッスンに参加しました。 やたら胸板の厚いにっかり笑顔のおじさんが、 「それでは、はじめて水泳をはじめます」と言いました。 「ぼ、ボクにも、おしえてぇ〜」 その5「目標を持て!」 さて、レッスンをはじめて3ヶ月が過ぎ、2005年になりました。 私はなんとかクロールが泳げるようになっていました。 タイムは、短水路往復50mで1分ちょい。 もちろんそんだけで心臓バクバク(爆) ちなみに、カミさん(からやん)は、まだ25m泳ぎきれないでいました。 今年私は、バックやバッタもがんばろうと思っていて、 そしてカミさんに 「今年の目標は?」と聞くと、すぐに 「マスターズ出場♪」と返ってきました。 冗談でしょ?と笑ってしまおうかとも考えましたが、 目を見れば、けっこう真面目に言っています。 数秒してから、私は、後頭部をガツンとやられた気になりました。 現状はどうであれ、目標は高く掲げた方がいいのです。 考えてみれば、どんなスポーツでも、音楽でも、演劇でも、 習い事において、ビギナーにとってのまずはじめの目標は、 「競技会、演奏会への参加」ということになります。 中年になってから始める習い事だって同じはずでしょう。 そんな当たり前のことさえ、 情け無いことに年を取るとすっかり他人事になります。 「競技会への参加」 ただそう思うだけで、 今やるべきことが具体的にたくさん見えてくるから不思議です。 いろいろ考えるだけで、わくわく、どきどきしてきます。 人生まだまだこれからです。 やはり具体的な目的、大きな目標を持つことが大事なのです。 所詮遊びとは言え、目標が無ければ、 趣味はたんなる「オアソビ」に成り下がります。 たいした差が無いようで、その差は月とすっぽん。 取り組む姿勢に差が出ます。 やるだけやって、たとえ今年は無理であっても、 競技会は逃げることはありません。 誰からも笑われる事もありません。 「大きな夢を他人に託すより、小さな夢を自分で叶える方が100倍楽しいはずだ」 2005年は、新たな気持ちで水泳に取り組むことになりました。 さて、どうなることやら… ------------------------------------------------------------------------- ※:HNの由来「がらもん」 どこかの某都知事が見たら怒り狂いたくなるような画像ですみません。 実は、私の友人、野生のカラスです。すでに5年のお付き合いです。 巣立ってまもない子ガラスだった頃に仲良くなりましたので、 だれも信じてくれませんが、会話を交わすことができます。 外で私を見つければ、「ぼくだよ!」ってちょっとしたサインをしてから、 すぐにそばまでやってきます。 半分遊びなんですが、私の顔をめがけて飛んできて、 目の前でひらりと避けて飛び上がったりします。 周りで見ている人にはカラスに襲われているとしか見えません(爆) 犬の散歩の最中にまとわりついて来られると、ちょっと迷惑です(笑) 驚いた顔で見ている近所の奥さんとかやはり周囲の目が気になりますね。 手渡しで餌を食べますし、私の手をちょんちょんと突っついたりしますが、 ちゃんと一線を引いていて、一定の距離を保っています。 うちの犬(Gリトリバー)とは仲が良くて、よくフェンスにとまって なにやら鼻とくちばしを突き合わせて会話をしています。 気前の良いうちの犬は、巣作りのために毛をカラスに提供します。 尻尾をむしられても、犬はへ〜きなんです。 がらもんの大好物は肉の脂身。 我々のダイエットにも協力してくれます。 「ぴぐもん」という気の強い奥さんがいますが、 こちらは、もっと距離をとりますので、ぜんぜん可愛くないですね(笑) 基本的に餌の確保は私に依存していませんが、 食料の少ない真冬などは時々「なんかくれぇ〜」と言ってきます。 それと、春の子育てシーズンだけは、 朝晩毎日ご飯をもらいに来ます。 それは、それは、彼らも大変です。 「からやん」 カミさんのHNの由来もカラスです。 ![]() ![]() カミさんによくなついていたこの子は、 交通事故にあい他界し、今はいません。 鳥の専門家からは、 たいてい「略奪雛」などと非難されますが、 巣から落ちて飛べないカラスを放っておくことは出来ずに、 献身的な世話で大空を飛べるようになるまで育てあげた子でした。 とても頭のいい子で、 犬のしつけの1/10で何でも憶えました。 「ごはん」「まて」「いけない」「あそぼう」「おいで」「ハウス」etc…。しかし、 「自動車には気をつけなさい」と教える事ができませんでした。 |