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MARCH FORD 751 1975 (Drived by Vittorio BRAMBILLA/ ビットリオ・ブランビラ)
マーチといえば、私等20代後半の世代には、どうしても「レイトンハウス」を連想しがちですが
その歴史はパッとしないにも関わらず(失礼!!)
以外に長く、また関わった人材も、後々になってメジャーになる存在の人ばかりなのには
本当に驚かされるばかりです!

まずは現FIA会長のマックス・モズレー、元クーパーのワークスドライバーであり
F2などではそこそこ活躍したアラン・リース、他にグレアム・クローカー、ロビン・ハードなどの
4人で70年に設立し、F1デビューを果たしました。
ちなみにデビューに在籍したドライバーは後にチャンピオンになる
ニキ・ラウダやマリオ・アンドレッティ等がブレイク前にドライブし
他にもロニーピーターソン、ジャンピエール・ジャリエ 、クリスエイモンなどの実力派も在籍しておりました。

ちなみに当時のニキラウダは数万ポンドの借金を抱えて走っていたらしく
これはレースを始めるにあたり、地元でも有名なオーストリアの製紙会社を経営する
父親から大反対をくらい、半ば勘当状態で家を出てレースを始めたそうな!
そして父親は不義理を行った息子ニキに対し
レース活動をことごとく邪魔をし
ニキがスポンサードを申し出た銀行などにも権力による圧力をかけ
契約することに対し妨害工作を行ったらしい。
そのため、彼は借金生活を余儀なくされたわけだが
彼の才能をいち早く見抜き、借金の肩代わりを含んだ契約を申し出たのが
他ならぬエンツオ・フェラーリだったそうらしい・・・・・。
う〜ん、なかなかエエとこあるじゃん!
あのグラサンは曇っていなかった!っというワケです。

さて、話は戻って
70年代中盤にはF1以外にもF2、F3のシャシーコンストラクターとし数々の
プライベートチームにもシャシー供給や販売を行い
当時としては、世界最大のシャシーコンストラクターとして栄光を極めるに至りました。
しかしF1においては70年代後半くらいから
急速にその戦闘力を失い、遂には77年を最後にワークス活動からは一時徹底します。
その後は81年からはRAMというプライベートチームに
シャシー供給というカタチで復帰しますが、ポテンシャルの低さは相変わらずでした。
もっともコレはチーム力の貧弱さも大きく影響していたと思いますが・・・・。

そして87年には我らが??バブルの象徴とも言うべき??????
レイトンハウスを手を組み、本格的に復帰し
エイドリアン・ニューエイの作り出す斬新な空力デザインも手伝って
たまに表彰台を獲得するなどの好走もしばしば見られました。
しかし栄光の時間もつかの間
1990年にはレイトンハウスのオーナーだった赤木明氏が
富士銀行不正融資事件に関与したとして逮捕され
エンジンを前年のジャットV8から、インディーで名をはせたイルモアV10にスイッチし
更なる飛躍も期待された1991年でしたが、チームの状況はオーナーの逮捕により悪化をたどり
1992年からは再びマーチにチーム名も変更!

新人で当時はミハエルシューマッハ、ハインツハラルド・フィレンツェンと同じく
メルセデスの出身だったカール・ベンドリンガーのドライブにより
時折、好走は見せたものの
レイトンハウスを失ったチームは、急激な資金難に陥り
1992年をもってチームは解散しました。
ちなみにこのときのセカンドドライバーは
フランス人の俳優でお馴染みのジャンポール・ベルモンドの息子の
ポール・ベルモンドでした。
もっとも、彼自身はそのパフォーマンス自体もスッテンテンでしたから
当時のチーム状況を考えると、持参金目的でチームは彼を雇ったことは明らかでした。

さてさて、↑のマーチ751というマシンでしたが
エンジンは当時の定番!フォードコスワースDFVで
シャシーは当時流行のスポーツカーカウルを纏った
非常に当時の中でも、ありきたりな!といっては失礼ですが
基本に沿った作りのマシンでした。

またドライバーはビットリオ・ブランビッラっという
恐らく誰もが覚えていないか、知らないであろうイタリア人ドライバーです。
とはいえ彼の経歴も異色で(っでもないか!)
元々は2輪のレーサーでイタリア国内ではチャンピオンも獲ったことがあるそうです。
その後、四輪に転向し、1972年にはイタリアF3でチャンピオンを獲得。
1973年にはF2で数勝を挙げ、翌年には彼のパーソナルスポンサーだった
工具メーカーで名高いベーターのサポートでF1デビュー。
翌1975年には大雨で短縮されたオーストリアグランプリで初優勝を飾りますが
優勝の嬉しさのあまり、ウイングランでマシンをスピンさせてしまい
クラッシュしたのは、密かに有名なお話で一部では語り継がれているようです。

その後もポールポジションやファーステストラップを一度限り記録するなど
地味に活躍はしますが
マーチを出た後はサーティース、アルファロメオを渡り歩き
マシンに恵まれなかったことから、いまいちパッとせず
1980年には引退します。

ちなみに2001年に自宅にて、突然の心臓発作でお亡くなりになられたそうです。
享年64歳でした。残念!
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