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Mclaren MP4/2 TAG PORSCHE Niki Lauda
 1983年、それまでオーソドックスなフォードコスワースDFVを使っていたマクラーレンが、遂にターボエンジンの採用に踏み切ることになる。ご存知の通り、F1におけるターボエンジンのパイオニアはルノーであり、ポルシェがF1に打って出る遥か以前の1977年に、グランプリデビューするのであるが、当初はターボ特有の問題点、いわゆるターボラグやマネージメントシステムのトラブルが続出し、決して好成績を挙げるには至らなかった。むしろ、後発のフェラーリの方がポテンシャルという点では上回っていた感があった。
 
それまでのロッキングアーム方式からプッシュロッドに変更されたことにより
よりコンパクト&スリムなったリアーエンド

 しかし、ルノーは独自の研究開発により、ターボラグを解消するために、それまでのハイプレッシャーなシングルターボからは、同プレッシャーながらも、二つのタービンにプレッシャーを振り分けたツインターボの採用により、ターボラグの問題点はいくらかは解消された。ちなみにこの時、エンジンのストロークを伸ばし、回転数を落とすことと圧縮比を落とすことにより、ノッキングを抑える試みもされているが、これが芽を出すのは80年代中盤にホンダは常勝になってからである。
 
 80年代に入り、フェラーリがターボで、ある一定の成績を挙げるにつれて、グランプリにおけるターボの必要性は次第に強まっていった。そして決定的になったのが83年に(正確には82年から)ブラバムがBMWと手を組み、ターボエンジンによる初のタイトルを獲得してからであろう。この時、ターボラグと同時にターボにおける問題点であった燃費の悪さも、ブラバムはピットイン時における給油というそれまでの常識を覆す手段を用いたことにより、解消したのである(後に給油は禁止されるが)。またこのシーズンより、それまでのウイングカー(ステップボトム)が禁止されフラットボトムが強制されたことにより、コーナーリングスピードが大幅に削減されたことにより、ストレートでのスピードの伸びがより重要視されたのである。そこでストレートスピードではNAエンジンよりも遥かに分があるターボエンジンにこぞって各チームは目を向けたのである。

 そしてターボエンジン採用に対しては、むしろ後発的であったマクラーレンが、ポルシェと当時ウイリアムズのスポンサーでもあるサウジアラビアのTAG(テクニク・ド・アヴァンギャルド)との共同プロジェクトで開発されたV6ターボ・エンジンを搭載するニュー・マシンを83年後半にデビューさせるのである。

 実のこの時、ウィリアムズにとってはチーム受難の時期に、それを救ってくれたTAGをマクラーレンに事実上奪われたことで、フランクウィリアムズが酷く激怒したらしい。もっとも、その後に続く、ロン・デニスとフランクウィリアムズの仲の悪さはこの時期に始まったのだろうか・・・・・。
当然ながら、当時はセミオートマではなく、マニュアルミッション。
右にはチタン製??のシフトノブと中央にはスタック製のアナログ回転計が見える。
 
 さてさて、話は戻って、83年後半にデビューしたポルシェエンジンを搭載するMP4/1Eはあくまで、それまでのコスワースDFVを搭載することを前提に製作されたシャシーであったが、やはりコスワースとは比較にならないほどのパワーを発揮するポルシェエンジンを搭載するには、ポテンシャル不足は明白で、そこで84年シーズンを戦うべくチーフデザイナーであり、カーボンファイバーモノコックの生みの親「ジョンバーナード」が開発したのが、今回ご紹介するMP4/2である。

 前年は初年度らしく数々のトラブルに見舞われはしたが、マクラーレンらしい仕事の早さ??とポルシェの堅持さが功を奏し、翌84年は信頼性も大幅に向上した。ちなみに当時ポルシェは956でスポーツカーレースで常勝を誇っていたので、(ちなみにエースドライバーは元F1ドライバーのジャッキーイクスで、その娘が今、DTMに参戦中!)、当初F1参戦には経費的なことからも消極的であったが、ウィリアムズから奪い取った??TAGとの技術提携(実質は資金提供??)により、ポルシェもF1参戦を決断したんだそうである。タグ・ポルシェと称されるようになった由縁がこの辺りにあったのだろうか?

 またドライバー陣も、この年、ルノーから移籍してきた新人気鋭のアランプロストが移籍してき、初戦ブラジルでいきなり優勝。その後もニキラウダとの最強コンビで16戦中12勝を挙げ、文句なくタイトルを獲得。またドライバーズタイトルには自身3度目で、事実上最後の獲得となったニキラウダが輝いた。
シャシープレート

 翌85年も改良型MP4/2Bでシーズン迎え、ポルシェも熟成を向かえ700馬力以上を発生するようになり、マクラーレンとポルシェのとのジョイントとしてはまさに円熟期を迎えるに至った。またシャシー面でも、当時は70年代から使われ続けたロッキングアーム方式と80年代に登場し、今や常識となったプッシュロッド方式が混在する状況であったが、軽量化とスペース的にもコンパクトという面においてはプッシュロッドに分があったため、マクラーレンはこの年、遂に前後ともプッシュロッドを採用した。ちなみにプッシュロッドを考案したのも、ジョンバーナード。

 そして遂にアランプロストがこの年、初めてタイトルを獲得し、彼のタイトルを見取るかのように、ニキラウダが引退したのも、このシーズンであった。また、84年にウィリアムズと手を組みF1に復帰してきたホンダが、この年、優勝をするなどをし(初優勝はケケ・ロズベルグによる84年ダラスGP)、いよいよターボ時代におけるホンダVSポルシェの一騎打ちが始まるシーズンであった。

 アランプロストとニキラウダ等、最強のドライバーズラインナップにより2年連続でタイトルを獲得し、まさに最強チームであったマクラーレンであったが、他チーム、特にホンダとジョイントしたウィリアムズからの追随が激しくなることで、次第に戦況はより厳しくなりつつあった。そこで、80年の初採用以来、アメリカの会社に外注していたカーボンファイバーモノコックの製作を自社内でするようになり、その製作技術の更なる向上を目指すことになった。
 
カーボンモノコックの採用により、アルミ時代とは比較にならないほど安全性が増したが
それが逆に94年のイモラでの悲劇を招いたのだろうか!

 また、とどまる事を知らないターボエンジンによるパワーの向上に危惧したFIAを次第に規制を考えるようになり、まずは搭載燃料に規制を設けるようになり、それは195Lとされるようになった。しかしこの規制がシャシーのさらなるコンパクトを目指すことになり、結果、ポテンシャルの向上に繋がったのは皮肉としか言いようがない。

 しかし燃料タンクの小型化により要求される燃費の向上はポルシェにしては次第に厳しくなり、逆にインジェクションの性能では分のあったホンダが、やがてシーズンを席巻するようになり、86年シーズンはホンダエンジンを搭載するウィリアムズが、もはやマクラーレンを凌ぐ速さを持つようになり、とくにマンセルのシーズンを通しての速さには驚くべくものがあった。

 結果的にはマンセルは最終戦の有名なタイヤトラブルにより、タイトルは奇跡的にプロストが獲得するのであったが、実際にはターボエンジンの主役が、それまでのポルシェからホンダに移り変わっていたのは明らかであった。

ホンダの快進撃が始まるまで、最強を誇ったポルシェV6ツインターボ




















(参考資料:最新のF1科学)
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