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※今回の作品にはたくさんの<keyword>が散りばめられています。
ただのマリリン・モンローの足跡を追う伝記のような話ではありません!が、
なじみのない方にもより愉しんで貰えるよう、少しご紹介します。


◆マリリン・モンロー(Marilyn Monroe,アメリカ・ロサンジェルス出身,1926年6月1日〜1962年8月5日,享年36歳),
本名▼ノーマ・ジーン・モーテンセン(Norma Jeane Mortensen)は、孤児院で育つなど不遇な幼少時代を経て
16歳で最初の結婚、その後モデルとして活動を開始するもなかなか日の目を見なかった。1951年『イヴの総て』
でようやく注目され、1953年『ナイアガラ』でのモンローウォークで世の男性の注目を集め『紳士は金髪がお好き』
『七年目の浮気』(▼ビリー・ワイルダー作品,Billy Wilder,1906年6月22日〜2002年3月27日)などが大ヒット、
一躍トップスターになる。1954年,ジョー・ディマジオと再婚するが、セックスシンボルを脱したかった彼女は、
ニューヨークに拠点を移し、リー・ストラスバーグが主宰するアクターズ・スタジオで演技の指導を受けるなど
仕事に意欲を燃やし、▼マーロン・ブランド (Marlon Brando,1924年4月3日〜2004年7月1日、アメリカ出身、
1972年『ゴッドファーザー』で名声を得る)と共演した『欲望という名の電車』が好評を博し自信を取り戻す。
1956年,アーサー・ミラーと再々婚するが、翌年頃から精神的な不安定を生じ睡眠薬などドラッグを多用、酒にも溺れ
精神病院への入退院を引き起こしていく。ジョン・F・ケネディとの交際を噂された1961年,アーサーと離婚した彼女は、
出演作の悪評が精神を更に追い詰め、撮影をすっぽかすなど自分自身をコントロール出来なくなっていく。
そして、1962年5月,マディソン・スクエア・ガーデンで催されたケネディ45歳のバースデイパーティで、
大統領の誕生日を祝った彼女はその3ヶ月後、突然この世を去った…。彼女の死には今もなお多くのナゾが残されている…。

▼ジョー・ディマジオ(Joseph Paul DiMaggio,1914年11月25日〜1999年3月8日)は、アメリカメジャーリーグのプロ野球選手。
1954年,マリリン・モンローと2度目となる結婚をしたが僅か9ヶ月で離婚。その間二人で新婚旅行で日本を訪れている。
離婚後、マリリンは彼の友人である▼フランク・シナトラ(Frank Sinatra,1915年12月12日〜1998年5月14日、
アメリカのジャズ・ポピュラー歌手・映画俳優)と親密になったが、ジョーはその後も彼女を支え続けた。

▼アクターズ・スタジオ (The Actors Studio) は、アメリカにある俳優養成所で、モスクワ芸術座の俳優であり演出家の
▼コンスタンチン・スタニスラフスキーが構築した演技理論「スタニスラフスキー・システム」を採用していた
ニューヨークの劇団「グループ・シアター」のメンバーが1947年創設、▼リー・ストラスバーグ(Lee Strasberg,
1901年11月17日〜1982年2月17日)が1949年に芸術監督に就任し、「メソッド演技法」を確立。自然体でリアリティのある
演技はハリウッドに新風を吹き込み、マーロン・ブランド、ポール・ニューマン、アル・パチーノ、ダスティン・ホフマン、
ロバート・デニーロ…etc.多くの優秀な俳優や劇作家を排出している。マリリンはここでの2年間で大きく成長した。
マリリンにとってリー・ストラスバーグはヒーロー・友人・カウンセラー・救済者、そして父でもあった。
と、同時にその妻でスタジオの演技コーチである▼ポーラ・ストラスバーグ(〜1966年)もまた、彼女の良き理解者であり
救済者、そして母であった。1956年『バス停留所』以降,指導に当たってきたポーラは、監督達に疎んじられる程、
深く深く彼女に関わっていく。夫妻の娘で女優でもあるスーザン・ストラスバーグ(1938-1999)もマリリンと交友を深めた。

▼テネシー・ウィリアムズ(Tennessee Williams,1911年3月26日〜1983年2月25日)は、アメリカ生まれの劇作家。
『ガラスの動物園』(1945年)『欲望という名の電車』(1947年)『熱いトタン屋根の猫』(1955年)など
多くの優れた戯曲を発表。モスクワ芸術座と深い関わりを持つ、▼アントン・チェーホフ(代表作:『かもめ』『三人姉妹』
『ワーニャ伯父さん』『桜の園』)の技法を好んで用いた。

▼アーサー・アッシャー・ミラー(Arthur Asher Miller,1915年10月17日〜2005年2月10日)は、アメリカ合衆国の劇作家。
代表作『セールスマンの死』は1949年,トニー賞、ピュリッツァー賞を受賞。テネシー・ウィリアムズとともに
アメリカ現代演劇の旗手に躍り出た。ユダヤ人である彼は魔女狩りを素材とした『るつぼ』を発表するなど
マッカーシズムに警鐘を鳴らしたことで共産主義シンパとして50年代の「赤狩り」旋風に巻き込まれた。
「演技派女優」を目指しニューヨークで勉強していたマリリンと出会い1956年に再婚、
マリリンは懸命に彼を支えたが、情緒不安定や2度の流産が重なり1961年離婚。その僅か1年後に彼女は逝去した。

▼FBI(Federal Bureau of Investigation,アメリカの連邦捜査局)は、司法省下の組織で、
犯罪やテロ・誘拐・スパイなど国家に対する重犯罪、連邦職員の犯罪の捜査を担当する機関。
1908年7月26日セオドア・ルーズベルト政権当時にBOI(Bureau of Investigation:捜査局)が設立され、
1933年8月10日DOI(Division of Investigation:捜査部)に改名、更に1935年7月1日,FBIに改名された。
▼ジョン・エドガー・フーヴァー(John Edgar Hoover,1895年1月1日〜1972年5月2日)が1924年5月10日,
29歳の若さで長官となり以後48年間、1930年代のギャング狩り,第二次世界大戦中のスパイ摘発,
冷戦期以降の政治活動家の調査(マッカーシズムによる“赤狩り”)など時代の要請に応じて様々な活動を指揮した。
彼は人種差別者としても有名で、同性愛者でもあり、また競馬や賭博好きでマフィアからの収賄もあった。
現在ワシントンD.C.にある本部は彼の名にちなんで、J・エドガー・フーヴァー・ビルと名付けられている。

▼ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(John Fitzgerald Kennedy,JFK,1917年5月29日〜1963年11月22日)は、
共和党のリチャード・ニクソンを破り、1961年,最年少で初のカトリック教徒の第35代アメリカ合衆国大統領となった。
清新なイメージのリベラル派とされる彼は、社会的公正を謳いキューバ危機を回避、ベトナム戦争早期撤退を計画、
人種差別問題、経済政策、アポロ計画などに取り組み、国民の期待も大きかったが任期半ばの1963年,ダラスにて暗殺される。
マフィアや女性関係も複雑だった彼は、同じくマフィアと深い関わりを持つフランク・シナトラからマリリンを紹介された。
また司法長官であった実弟ロバート・ケネディも彼女と関係があったとされる。
マリリン没後、僅か1年で暗殺により迎えたケネディの死は、マリリンと同様、多くのナゾに包まれている。

少し説明的な部分もありますが、観劇前の予備知識として興味を持って
お読み頂けたら嬉しいです。(其々の関係本や資料から一部引用させて頂いています。)

上演時間:1時間50分を予定。


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