哲学の薦め

◇「自分以外の価値観を考えたりすることができる」について。

 ぼくは、自分が考えもしなかった価値観に出会うと
「そうなあああんだー!」と、目が覚める思いする。
ぼくらは、サングラスをして世界を観ている。
みんな、だいたい同じ色のサングラスを掛けている。
たとえば、ぼくらは「時は金なり」で、無駄な時間というのをとても嫌う。
だから、あまり急いでいなくても、スーパーのレジでは、妙に、せかせかしてしまう。

 ところが、世界にはいろいろな価値観があって、全く逆の発想をする社会もある。
そんな価値観に出会うと、世界がひっくりかええって見えてくる。

 例えば、日本では女の人がくるぶしを見せて歩くことに何の抵抗も
ありません。ところが、たしかシンガポールだったかな、そこでは
くるぶしを人前にさらすのはタブー、とてもセクシャルなことなんだそうだ。
(くるぶしを見て性的に興奮する、というのはとても考えにくいけれど
隠されると返って見たくなるというのが人情なんで、ありかな。)

◇新しい価値観との出会い

 考えもしなかった新鮮なものの見方にに出会うときぼくは無常の喜びを感じる。
つい最近もそんな出会いがあった。

「臨床哲学がわかる辞典」という本との出合い。
この本に、次のようなことが書かれている。

  人間が社会を変えていく、と僕らは思っている。
  ところが、実は、逆なのだ。
  社会が僕らを変えていくのだ。
  つまり、社会というのはひとつのシステムで、人間は
  そのシステムが正常に機能していくための部品なのだ。
  家庭、学校、会社を通して、僕らはいたるところで
  社会というシステムを維持すべく訓練を受けている。

 一週間ほど前の朝日新聞に、これに関係する記事が載っていた。
新・欲望論という見出しで、筆者は高村薫。

その記事の要約はこうだ。

*私たちの欲求は、消費社会の中では「モノ」に転換される。
 筆者は、マイホームを例に挙げて説明する。
 消費社会の中では、家族の団欒への欲求は、新築マンションという
 「モノ」に置き換わる。
 新築マンションの購入は、家族の団欒への手段なのだが、
 いつのまにか、購入することで団欒が手に入る、という錯覚を広告は
 私たちに与える。

 ここまでが、この文の前半。

 後半は、消費者と名づけられたときから、「私」はだれかが作り出した
 欲望のサイクルに取り込まれる。
 「だれか」は特定できない。
 消費社会の持つ機能そのものといえる。
 つまり、作り出された「モノ」を限りなく消費し続けることで私たちの
 「社会」は維持されている。
 この「社会」(システム)を維持するために、私たちは消費し続ける。

 以上が要約。
 
 僕たちは消費社会に生きている。
僕たちの価値観は、この消費社会を維持するために作られたもの。
大量消費という名の大河の流れに浮かぶ小さな葦の葉、これが僕たちひとりひとり
の姿なんだろう。
岸辺を見なければ、自分が流されていることには気付かない・・・

◇「モノ」は幸せを保障しない。

 前半部分の欲求が「モノ」に転換される、を読んだときに
「そおおなああんだー!」があった。

 まえから、ある広告を目にするたびに、うすうす、気付いてはいた。
それは、タバコの広告。

 サーフボードに腰掛け、夕日の沈む海を眺めながら、うまそうに
一服する広告がある。

 肺活量が命のサーファーが、あんな、うまそうに吸うわけない、
吸うべきか吸わざるべきか、苦悩の選択の果ての一服だから
顔には後ろめたさがにじみ出ているにちがいないのだ・・・

ということはおいといて、ぼくが言いたいのは、この広告の
巧みなところは、ひと仕事あとの充実感をタバコの一服に
すり替えているところだ。
(タバコ会社関連の人、ごめんなさい。けっして、タバコを
けなしているわけではありません。)

 仕事の後の充実感を味わうために、「モノ」は必要ない。
じっと心の中から湧き上がる思いを味わえばいい。
とはいっても、人間、それほどできてはいない。

一杯のコーヒー、酒、タバコの一服に頼りたくなるのも人情。
でも、やっぱり、主は自分の気持ち、コーヒー、酒、タバコは
よりよく味わうための道具。
これが転倒して、道具が目的になってしまうとどうなるか。
道具そのものからはけっして幸せはこないから、こない
幸せを求めての果てしない悪循環が始まる。

 充実感を味わうために「モノ」は必要ない、と書いた。
これに関しての個人的な思い出を話そう。

 かって、文明からできるだけ遠ざかった、未開の島に
いってみたいと願ったことがある。
テレビ、ラジオのまったくない、自然にできるだけ近い世界で、自分のこころが
どう変わるか、探ってみたかった。
選んだ島は、クック諸島のマニヒキ島。
クック諸島!どこそれ?
タヒチの左下。

 クック諸島の首都アバルア(ラロトンガ島)までは、飛行機で行ける。
マニヒキには飛んでいない。
小型の貨物船の便があるだけ。
客は甲板で雑魚寝する。
もちろん観光客などいない。
地元の人のみ。
船足はミミズ並みにのろい。
日本なら当然廃船になっているようなオンボロ船だ。
居心地の悪いことこの上ない。
来る日も来る日も海面を見続けて一週間、ようやく目指すマニヒキに到着。

 島は珊瑚の環礁。
つまり、ドーナツ型で真ん中がない。
島には望んだとおり、テレビもラジオもない。
電気は自家発電で、毎日数時間しか配給されない。
コンビニは一軒、郵便局をかねている。
(コンビニといっても、田舎のなんでも屋の類)
この島に滞在すること一週間。
帰りの船便は、途中さらに辺鄙な島を迂回して10日近くかかった。

 さて、不快適この上ない船旅を終えて、ようやくアバルアの安宿のベッドに
転がり込んだ。

ベッドに寝転んで、しばし、ぼくの身体は、放心状態に宙を漂っていた。
今にして思うと、この瞬間が人生最大の充実感を味わっている時だったかもしれない。
この時、「モノ」は必要なかった。

酒もタバコもコーヒーも。

◇「勝ち組」って幸せ?

 欲求がモノにすり替わるという話に戻す。

 ぼくたちの社会は、「持つ」社会。
つまり、人間の欲求がすべて「モノ」に還元される社会。
上に書いたように、見えないこころの欲求が見える「モノ」に
すり替わって、「モノ」さえ手にいれれば欲求が満たされる、
幸せになれる、と信じる社会。

見えないものを「モノ」として扱おうとする。

 自信を持つ、という言い方がある。

 自信を持つ、という場合、「自信」は重さ、形を持つ「モノ」として
イメージされている。
 
 実際には、身体のどこを探しても「自信」という具体的な「モノ」はない。
だから、「自信がある。」という言い方が実情に近いのだが、なぜ、
「自信を持つ」という言い方があるのか。
それは、僕らの社会が「持つ」社会だからだ。

 人間の精神的な価値をすべて「モノ」に還元してしまうという消費社会、
これが、「持つ」社会。

人間はみな幸せを求めている。
消費社会は、「これを買えば幸せになります」と教える。
「モノ」の豊富さが幸せのバロメーターとなっている。
ところで、「モノ」には限りがある。
つまり、より多くの「モノ」を手に入れる人がいれば、当然、少ししか
手に入れられない人が出てくる。
ピザ・パイの分配と同じだ。

幸せという大きなピザ・パイがある。
これをどう切り分けるかで、勝ち組と負け組みが生じる。

 大きなピザを手に入れたゾー!万歳、幸せダー!
とはいかない。
なぜなら、「モノ」は幸せになるための道具に過ぎないから。
「モノ」のどこを探しても幸せは見つからない。
液晶薄型テレビを分解しても、どこにも「幸せは」はない。

 ここがわかってないと、勝ち組でも思ったほどの幸せ感を味わえない。
で、さらに大きなピザ・パイを求めることになる。
それでも、満たされない。そして・・・悪循環の地獄だ。

 もうひとつ。
「モノ」は、持った瞬間、壊れる、失う、古くなる、という心配事を
同時に抱え込むことになる。
こいつは厄介だ。
(*だから、何も持たないほうがイイ、なんてことは言いません。
 ただ、ポイントは、ある程度豊かならそれで良いんじゃないかな)

◇「ある」ということに価値を見出す社会

 ところで、世界には「持つ」ことではなく「ある」ことに重きを
おく社会がある。アボリジニー、インディアンといった先住民族の社会が、それだ。
そこには、「所有」という概念がない。

「幸せ」を得るために、必ずしも「モノ」を必要としない生活。
自分が生を受け、ここにある、そのことに感謝し幸せを感じる生活。
登る朝日、沈む夕日、悠久の流れの中に姿を変える雲を眺める生活。

*閑話休題
 ブータンという国がある。
 世界最貧国のひとつ。
 国家目標は、「GNH」の追求。
「GNP」(国民総生産)ではない。

「GNH」は「Gross National Happiness」の略で国民総幸福だ。
 国家の役割は経済一辺倒の発展を達成することではなくて、
 国民の幸福を最大限に導くことだという。

 GNPというのは「持つ」社会が考え出したコンセプトで、この数値が
 大きければ大きいほど国民は幸せ、のはずだ。

 ブータンのGNPは、日本に比べたら鯨とイワシほどの差があるだろう。
 だから、日本人はまあそこそこ幸せだとすると、ブータンの人たちは、
 うんと不幸せに違いない。
 なにしろ、テレビなんかぜんぜん普及してないし、もちろん、大型プラズマテレビ
 なんてないだろう。i-Podを持ってる人などいないだろうし、スタバーなんかないに違いない。
 みんな、暗い顔して歩いているんだろうな。
 確かめにぜひいってみたいものだ。
 
 まあ、これは冗談だが、実は、ブータンにはいってみたい理由がある。
 本題とは離れるが、閑話休題のさらに休題として書く。
 
 インドのカルカッタ(コルカタ)のサダル・ストリートのホテルで
 なんと、ブータン王のいとこに遭遇したのです。

 貧乏旅行者-バック・パッカーの聖地、サダル・ストリートに小国とはいえ
 一国の王族がいるというのも変だが、本当なのだ。

 ただ、ディナーにはちゃんとボーイの給仕がある、安宿街の中では高級な
 雰囲気をもつホテルなので、それほど変ではないかもしれない。
 そういえば、建物自体はコロニアル風の、かっては大金持ちが
 利用していたような面影を残していた。
 (ブータン王家愛用のホテルだったのかもしれない。)
 
 かなり若い二人連れだった。(夫婦)
 会話の内容は忘れたけれど、その二人はとても感じよく、彼らの国に
 とても興味をもち、以来、ブータンは一度は死んでから、もとい、死ぬまでに
 行ってみたい十の国にいつもランクされている。
 
 個人的な話はおしまい。

 で、ブータンという国は、「ある」社会を目指しているんだろう、と思う。
 いいことだ。

◇哲学の薦め

  世の中、どうしてこうなっているのかを考えるのが好きだ。
 なぜ、なぜ、と問い詰めていくことが好きだ。
 なぜ、なぜ、と問い詰めていく先にあるのは、結局、なぜ、ぼくは
 ここにいるのか?生きるとはなにか?そう考えている、自分とはなにか?
 という、いまだに誰も答えを見出していない根源的な問いだ。

  万人が納得する答えはないのかもしれない。
 あっても、とてもぼくの力の及ぶ問題ではないかもしれない。
 (多分、そうだろう。)
 だからといって、それが、問いについて考えることを最初からギブ・アップする
 理由にはならない。
 自分なりの答えはあるはずだし、とにかく、少しでも仕組みが分かるのは
 面白い。

  なぜ生きるのか、自分とはなにかについて考えるのは、余裕のある人の知的遊びだ、と
 ある本にあった。
 そうかもしれない。
 ただ、こういったことを考え続けていくと、世界の見方、人生の見方に幅ができる。
 だから、子供たちの遊んでいる様子をみると、いろいろな解釈を下すことができて
 面白い。

 教師には哲学がとても役に立つ、そう思っている。
 だから、この日記で時々、生きるとは、自分とは、そして、ことばとは、という
 問いかけと考えを書いている。
 ただ、やはり専門外の分野なので論理があいまいだったり、言葉が不適切だったり、
 不十分だ。
 それに、重い文章だ。

  餅は餅屋で、やはり哲学的思考は哲学者に任せるのが一番かもしれない。
 最近、すごく面白い哲学者を見つけた。

 土屋賢ニ、笑う哲学者。
 文春文庫で何冊か出版している。
 アマゾンで注文したので、もうすぐ届くはずだ。
 楽しみだ。

 赤瀬川源平の「自分の謎」も面白い。
 彼は、哲学者ではないが、目の付け所が鋭い。
 字だけ追えばものの数時間で読み終えてしまう本だけれど、
 取り上げられた命題について、しっかり考え始めたら、一年くらい
 かかるかもしれない。
 
◇あとがき

  ずいぶんと長文になった。
 ここまで読んでくれてありがとう。
 じつは、ここで書いたことは、ずっと考え続けていたことで、いつか文章にしたい
 と思っていた。
 が、日々のことどもに終われ、お蔵入り状態だった。
 それが、ぼくの「日記」は参考になるという小野さんの一言、が引き金になって
 一気に書き上げることができた。
 
  今回、思っていたことを書き上げたことで、とても大切なことを発見した。
 それは、表現は自分の世界を広げる、ということ。
 「ある」社会についての文章で、
 「自分が生を受け、ここにある、そのことに感謝し幸せを感じる生活。」
 と書いた。なんとなくそんな風に感じてはいたのだけれど、こうやって
 文章化することで、そのイメージがしっかりとこころに焼きついたのです。
 これは、ちょっとした驚き。
 表現することで、その表現をした自分自身が変容する。
 これは、あらたな発見だ。
 文章を書くというのは、とても大切なことなんだろう。

  「思ったように書く、ではなく、書くように思う。」という言葉がある。
 文を書くということは、自分の中の論理を研ぎ澄ましていくようだ。
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 人、酒を飲む
 酒、酒を飲む
 酒、人を飲む

  これは、人が泥酔にいたる過程だが、自分が酒を飲んで酔う時、そのプロセスを
 理解しているのは、面白い。

 もっとも、酒に飲まれている状態で、プロセスの理解なんてできるわけはない。
 だから、たいてい、酒、酒を飲むで止まる。

 飲み込まれて、岸辺が見えなくなるのはつまらない。