2003年7月分の日記

7/1(火)

「会社」以外に多くの拒否反応発生。
実家に居られない。
食事を一切受け付けない。
何もできない。
一人で一日中倒れていた。

7/2(水)

更新するのにも拒否反応。
キーボードを叩きながらも気持ち悪くて死にそうだ。

−−

刹那的な享楽と、虚無感の中で、このサイトを更新することだけが生を実感させる。
つらくても、前に進む。
このサイトを更新することが、今できる唯一の「私の生」の証だから。
閉じない。やめない。誰に何と言われても。
それがどんな結果を生んだとしても。

−−

このサイトを「閉じなさい」「やめなさい」と言う人は、それが現実の私に対して「死ね」といっているに等しいことをわかっているのだろうか。
わかっているはずがない。
当たり前だ。
まともな人間にわかるはずもないし、わかる必要もない。
私が、まともじゃないのだ。

−−

いろいろ考えた。その結果。
このサイトは面白ければそれでいいのか?→否
日常生活の暗部について書く必要はないのか?→否
このサイトの目的は?→目的などない。これはネット上における自己実現である。私とともにあり、私と運命をともにするものである。

−−

サイトの文章は書き上げるまでに感情の紆余曲折があり、それを全て表現するのは不可能である。
それでも、その全てを表現することを目指さなければならない。
誤解は、恐れない。人を傷つけることもいとわない。それがどんなに悪いことだとしても。

−−

変わらず食事拒否。
それに加えて治療拒否。
「この病気は治らない」との強迫観念。
親に無理矢理薬を飲まされる。
何も見つけられない。
何もしないまま無意味に時間だけ流れていく。

7/3(木)
22:00 失踪から実家に帰ってきました。
関係者皆様、ご心配おかけしました。
本当に申し訳ありませんでした。
心から深く反省し、陳謝させていただきます。

失踪詳細
帰還直後・今朝まで軽躁期だったのが反動で軽鬱期に入ってきたようです。
キーボード・文章が思うように打てません。とりあえず簡略化して書きます。
軽躁期に入った後、加筆修正します。

7/2
18:00
衝動的に家を出る。持ち物は家の鍵だけ。靴はつっかけサンダル。
徒歩で西新井・千住付近まで行く。
動機は、飲まず食わずの栄養失調による死亡か、警察による保護のどちらかを博打的に選び、ひたすら遠くへ歩き続けるという自殺企図的なもの。

7/3
朝〜夕方17:00
公園のベンチで寝続ける。
突然家に帰ろうと思い立つ。
22:00
徒歩にて実家まで到達。
関係者に連絡・警察の捜索願解除。

7/5(土)

11:00
親との会話の中で、急激に鬱に陥る。
会話中に生じた誤解が原因。
しゃべるのが怖い。
何か、しゃべったらそれが誤解を生みそうで。
何か、投げかけられた言葉を誤解して受け取ってしまいそうで。



でも、一つでも多くの言葉を吐き出しあわなければ。
少しでも情報を多く共有しなければ。
誤解を恐れて何も口にせずにいては傷ついたまま進めない。
恐れず、少しでも前に進まなければお互いの間を修復できないことを教えられた。
今は、また親との関係をつなぎなおし、回復している途中。
優しい「風の詩集」のピアノの音を聴きながら心を癒している途中。
時間と、いい音楽が傷ついた心を癒してくれる。

−−
親との対話で気づいたことが一つ。
一般に「鬱」と一くくりにされているものが、いかに広範囲なものであるか。
いかにそれを正しく理解することが難しいものであるか。
自分や身近な人がある種の「鬱」であるからといって、中途半端に「鬱」を理解したつもりになっている人の何と多いことか。
私も母も、その他何人かの知り合いも。
下手をすれば専門家(心療内科・精神科の医師)さえ含めて、間違った認識をしているかもしれない。
そのことによる誤解で、傷つくことの、何と多いことか。

私のケースはかなり特殊なもののようである。
医師からは一応、
反応性うつ状態」と診断された。
普段は、通常人と全く変わらない、むしろ元気なようにすら見えるが、特定のキーワード(私の場合、「会社」・「仕事」・「社会人として」・「大人として」などの言葉)や、特定の環境下において突然精神状態が悪くなるというもの(だと私は認識している)である。
よって、普段が元気なように見えるので、周りも注意をはらってくれない場合が多い。
また、行動を見て、「病気というのは嘘で、怠けているだけではないのか」と見られる場合も多い。
「鬱」と呼ばれるものは全て、この
反応性という性格はもっているようだが、私の場合、特にその傾向が強いようである。
また、「反応性」といっても症状が出ていない時(つまり、鬱状態でなく元気な時)の状態が、私の場合は通常のケースに比べ「元気すぎる」(というか波の振れ幅が大きすぎる)らしい。
実際、私のかかりつけの医師の先生も、私が元気な状態であればカラオケやらライブやらに行ったりできるのを聞いて、「通常はそこまで波が激しくないんですが…」といったことを言っていたそうである(これは、母に代わりに診察に行ってもらった時の又聞きだが)。
ゆえに、他人と遊びに行ったり話をしていて、私から事情を説明しないと、最初から最後まで私が「鬱」であることに気づかない人が多いようである。
また、これはけして良いことではなくて、波が高い(元気である)状態がおさまった時、その後に反動で波が落ち込みやすい(ひどい鬱状態になりやすい)のであり、できるだけ安定させる方向に持っていかなければならないようである。
ただ、私の場合で言う波を高めること(やりたいことができた時にそれをすること)が、一般的に禁忌事項とされることに触れてしまうのだが、それをしないと私の場合は波が落ち込んだままなので、波が激しくても断行している、というのが現状といえる(もちろんこれが最良の治療方法であるとはけして断言はできない)。

最後に頼れるのは、医師でも周りの人でもない、自分だけである。
誤解を恐れず、傷ついてもくじけず、自分がどういう人間で、その時どういう状態なのかを伝える努力をしなければならないと改めて認識した。
そのためにも、どれだけの人間に読んでもらえるかもわからないが、こういった文章をこのサイトに載せていきたいと思う。

7/5(土) −2−

「ニュータイプ」
アニメーション「機動戦士ガンダム」シリーズにおいて登場した概念、ニュータイプ。
「ニュータイプっていうのは物とか人とかを正確に理解できる人のことだよ」
「誤解なく分かり合える人々」
などなど…。
さまざまな定義づけをされている。
しかし、劇中においてニュータイプは、「他人(=敵)の意思を察知できるエスパー」といった扱いを受け、優秀な兵士として戦争に使われていく。
その中で、登場するニュータイプの人々は、敵味方に別れ、意思を交感しあいつつも殺し合うという矛盾の中で、「ニュータイプは戦争の道具じゃない!」と叫びつつ散っていく。
また、劇中では「人類が宇宙に出ることにより、使われていなかった脳細胞を刺激されることで人類はニュータイプとして革新していく」といった思想が示されている。

こういったニュータイプという概念はもちろん劇中の中でのものであり、実際に起こりえるものではないと思われる。
しかし、私はこう考える。
人が、鳥のように空を飛びたいと願いつつも不可能であるように、
人が、ニュータイプへと革新することはできないとしても、
「飛行機」という機械を使って空を飛ぶことを実現したように、
人は自らの手でニュータイプになりえるのではないか。
携帯電話や、メール、インターネット、ホームページ…こういったWEB技術などによって人はお互いをより理解できるようになった。
だから、このサイトで私が「自己」を表現することは、人がニュータイプたりえるのだという思想に基づく実験的な意味合いを持っている。

理解されないことは怖い。
誤解されることは怖い。

私がこのサイトを通じてなそうとすることも、理解されることよりも誤解されることのほうが圧倒的に多い。
このサイトを見たからといって、どれだけ丹念にこのサイトの文章を読んでくれるか。
このサイトを通じてどれだけ私を理解しようとしてくれるか。
それは、全て「読者」の手に委ねられている。
本当に、怖い。やめたいと思うことも多々ある。
それでも、私はこの試みをやめることはできない。
「より深く理解されたい」という欲求が抑えきれず、より深く私を理解してくれる他者との絆を作りたい、という理想を追いかけることがあきらめられない。
だから、今日も私はサイトに言葉を記していく。

7/8(火)

鬱が抜けない。
気晴らしに5時間耐久カラオケ(ラルクのみ限定)。
それでも気が晴れない。
手が重い。
必要な更新ができない。
書かなければいけないのに。
あの日、いろいろなものと引き換えに得た決意を。

逃げない。
迷わない。
前へ。
前へ。
前へ進み続ける。
そしていつかたどり着く。
あの場所へ。


−前へ。
7/12

更新ができない。更新ができない。
書きたいことが書けない。
書きたくないことばかりが記されていく。
ひどい時には簡単な更新すらできない。
本来なら7/8〜7/11の間は更新できたはずであるし、更新すべきだったのにそれができなかった。
キーボードに触れられない。
モニターが見れない。
忙しい時に更新ができないのと、鬱で更新ができないのは違う。
鬱なら鬱で、その辛さを書きとめておかなければならないのに。
−−
こんなホームページはやめてしまえ、と言ってくる人達に言いたい。
あなたはこのサイトをどれだけ詳しく見たのか。
あなたはこのサイトの裏で動いている私の心をどれだけ理解しようとしたのか。
あなたはこのサイトの歴史と、このサイトが背負っているものをどれだけ知っているのか。
文句や苦情を言うのはかまわない。
でも、なぜそれがいきなり「やめてしまえ」という言葉になるのか。
「やめてしまえ」とまで言われるにいたった、このサイトにおける私の配慮不足は否めない。
しかし、サイトにとって閉鎖・更新停止はイコール「死」である。
罰を与えるのはよい。裁くのもよい。
しかし、死んでは何もできないではないか。
償いすらも。
何もかも奪う選択をなぜそんなにも簡単に口にするのか。
もちろん言い分はあるのだろう。
しかし、私はサイト管理人として思ったことを書きとどめるのみだ。
−−
社会は厳しい。
その言葉に至った経緯は私は知らない。
単に社会の摂理なのかもしれないし、純粋に善意からなのかもしれない。
しかし、その言葉は私に投げつけられた。
鬱の患者にとって、それが殺人的ですらあることを、おそらく知っていながら。
それでも、社会に適応できない者にとってその言葉を受け止めなければならないのは確かなのだろう。
例え、そのことで死に至ったとしても。
…。
…。
…。
そうなのか?
それが社会だというなら私は…。
わからない。何も、わからない。
−−
経験的に、自分の症状の一つとして極端に被害妄想的であるというのがあることは知っている。
しかし、誰がそれを止めることができよう。
理屈でわかっていても感情は止められないのだ。
わかっていながら、自分でも止められないのに。
理性が、押しとどめることもできないのに。
私にできないことが他の誰にできよう?

7/25(金)

おおう。
前回の更新7/12だって。
ずいぶん更新できなかったんだねえ。
少なくとも更新できるようになったっつー事はいくらか鬱も改善されているのだろう。
うむ。
つっても連絡事項だけなんですが。

業務連絡:
当コンテンツ「日記」は、当面一時凍結とします。
理由は書かんでもわからぁな。
精神的負担が原因です。
その代わり、i-mode日記は毎日更新する予定です。
そちらをご覧になってください。
それでは、よろしくお願いいたします。


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