ダライ・ラマ来日の裏側


ダライ・ラマ14世来日履歴

1967年9月25日〜10月10日  仏教伝道協会招聘、東京、埼玉で法要
1978年10月4日〜10月6日   世界連邦招聘、東京で講演及び法要
1980年10月31日〜11月18日 世界連邦招聘、東京、京都、広島、福岡、鹿児島で講演及び法要
1984年5月1日〜5月17日    成田山新勝寺招聘、東京、千葉で法要
1995年3月29日〜4月6日    黒住教招聘、岡山、石川、東京、広島で講演及び法要
1998年4月3日〜4月12日    インド大菩提会及び念仏宗招聘、京都、東京で講演及び法要
2000年4月13日〜4月20日   京都精華大学招聘、東京、京都、埼玉講演及び法要

1978年・1980年の来日について

世界連邦招聘により、1978年・1980年に来日した際の事情について記す。
1980年10月31日に来日なされたダライ・ラマ猊下は、広島での慰霊祭出席、亜細亜大学、拓殖大学での記念講演を行い、短いながらも濃い内容のスケジュールをこなされた。この時の来日は1989年のノーベル平和賞受賞にも大きく影響した。
この重要な来日の裏で、ダライ・ラマ猊下来日の為に尽力し、大きく貢献した、世界連邦日本仏教徒協議会事務局長の郡司博道氏(曹洞宗昌林寺東堂(当時住職))の功績について言及したいと思う。
なお、この文章は郡司博道氏の孫にあたる筆者が、郡司氏本人の口から語られた事実をもとに書かれたものである。よって、郡司氏の記憶違いや筆者の勘違いによる間違いも存在しないとは言いきれない。記述に事実と異なる点・食い違いなど見つけられた方は、ご一報頂ければ幸いである。

1、日本外務省との関係
ダライ・ラマ猊下はかねてより広島に原爆が投下された事を知っており、原爆被災者の慰霊法要をしたいという事で日本来日を希望しておられた。世界連邦としては世界的仏教指導者であるダライ・ラマ猊下の来日は非常な名誉な事であるし、猊下の意志に添うところでもあるから、是非来て頂きたいという希望を持っていた。
しかし、当時チベットの中国からの独立を目指していたダライ・ラマ猊下は中国政府と対立関係にあった。また、1972年の田中角栄首相による日中国交正常化を受け、日本と中国は微妙な国際関係下にあった。その為、中国政府との関係悪化を恐れた日本の外務省が、ダライ・ラマ猊下来日を阻害するような態度を取っていた。
1978年当時、福田内閣の外務大臣を務めていたのは園田直氏であった。この時、ダライ・ラマ猊下はカナダに滞在中であったが、「訪日を希望する」という趣旨の発言をし、それに対し園田外相は「ダライ・ラマの来日については、ビザを発給しない」という外相談話を発表した。事実上の、ダライ・ラマ猊下訪日の拒否である。
その時既に猊下の来日の意向を知っていた世界連邦日本仏教徒協議会事務局長、郡司博道氏は、この事態を憂慮して、某女史を派遣、カナダ大使館からいち早くビザを取得させた。この時、園田外相の指示はカナダ大使館にはまだ届いていなかったのである。
外電でこのビザ取得の事実を知った園田外相は狼狽し、福田総理の指示を仰ぐ事となった。
同時に、郡司氏は外人記者クラブにてダライ・ラマ来日ビザ発給と、来日スケジュールの概要を発表していた。そこに、外務省欧米課から緊急連絡が入り、外務省へ来庁を要請された。
福田総理からの園田外相への指示は、「発言を撤回せよ。但し、厳しい条件を課し、それを承諾させよ」というものであり、郡司氏が呼ばれたのはそのダライ・ラマ来日に関する条件の提示(実質的にはビザは発給されており、このことで入国拒否はできないのであるから「お願い」である)であった。
外務省から出された要望は以下の通りであった。
1、テレビ・ラジオへの出演はしない
2、来日の目的を宗教的活動に限定し、政治的活動は行わない
3、期間を一週間ほど縮める
郡司氏の意図は純粋にダライ・ラマ猊下の招聘にあったわけだからこの外務省からの要望にあえて反対する必然性はなく、この条件を飲む事で事態は収拾された。
こうして、ある程度活動の制限はあるものの外務省との交渉をとりつけ、それまで難しいとされていた来日を正式に認めさせ、実現まで運んだという点で、郡司氏の功績は多大なものがあると言える。
ちなみに、園田外相による外相談話が一度出され、事実上の「入国拒否」があったにも関わらず、翌日には「入国を認める」という態度を一変させる結果になったわけだから新聞記者団はその背景について調査を始めたが、その際郡司氏は外務省との約定を遵守し、背後の事情については沈黙を守ったという。

2、広島での慰霊祭
前述の通り、ダライ・ラマ猊下はかねてより広島での原爆被災者の慰霊法要を希望しておられた。これは、実現すれば世界的仏教指導者による広島の原爆被災者の慰霊ということで、日本の歴史上においても非常に意義のある事であった。とはいえ、ダライ・ラマ猊下の意志だけでは来日から即広島での慰霊祭にはつながらない。そこで、招聘側である世界連邦から企画・立案・実行ということまで手配する必要があった。そこで実質的に手配を行ったのが郡司氏であり、ここでも重要な役割を果たされているのである。
1980年の来日の際に、ダライ・ラマ猊下は広島での慰霊の申し出をしていたが、この点について広島県宗教連盟(こういった宗教連盟は各都道府県に存在する)の中で賛否両論あったという。すなわち、「中国と対立している立場にある者を広島に呼ぶのはまずい」という反対意見が強かったのである。郡司氏は広島県宗教連盟と会見の場を設け、その賛同を得る事に成功した。これによって1980年11月4日の広島での慰霊祭が実現する運びとなったのである。
この慰霊祭が評価され、後の1989年ダライ・ラマ猊下ノーベル平和賞受賞につながる事となる。
1989年、ダライ・ラマ猊下の実兄と、ペマ・ギャルボ氏(後述)のお二人が、当時病気療養中であったため「お見舞い」という名目で郡司氏のもとを訪れ、こう伝えたという。
「過去五年間(ノーベル平和賞の)候補者に挙げられていたが、広島の慰霊祭が決め手となってノーベル賞受賞が内定しました」
この件に関し、ダライ・ラマ猊下は直々に「この朗報を真っ先に郡司氏に伝え、お礼を申し上げたい」とおっしゃってくださったということである。
このようにして、言わば猊下の来日が世界的に評価され、中国政府との関係悪化を懸念することを考慮に入れてもある程度日本政府(特に外務省)にその価値が認められた、と考えられる。さすれば、この1980年の来日・広島慰霊祭を契機に猊下の来日が容易になったとも考えられ、その後の数度の来日実現につながったとも考えられる。そういった意味でも郡司氏の功績は多大なものであると言える。

3、意図的に隠された功績
チベット独立に関しては未だ成立していない難問であるが、この点についてダライ・ラマ猊下の考えと周囲の考えは微妙に異なっていると考えられる。
すなわち、単なる国家的な独立がチベット民族の一般的な希望であると考えられるが、ダライ・ラマ猊下の考え方はそれとは異なる、ということである。
ダライ・ラマ猊下の考えは世界連邦の思想に近いと思われる。それは、「国家」という垣根を取り払った平和的な世界の構築、ということである。つまり、「チベット」という一国家が独立することのみを目指すのではなく、一つ超越した発想からチベットへ帰りたい、という崇高な考え方なのである。
しかし、その考え方は周囲に浸透しているとは言いがたい。
1980年に郡司氏と共に来日に尽力した人物として、ペマ・ギャルボ氏の名前が挙げられる。彼はこの後もダライ・ラマ猊下の来日に関わっている。
ペマ氏は、よい言い方ではないがダライ・ラマ猊下より世俗的な部分が強い人物である。チベット独立に関してもその性格は変わらず、チベットという単なる一国家の独立を目指すようなところがある。その為、日本の宗教団体と関わりを持つ場合でも、チベット独立の為に、通俗的に言えば「金回りのよい」団体を好む傾向があると考えられる。
その為、「広島慰霊祭」に代表されるような、世俗的な事にとらわれない活動を推進する郡司氏を嫌ったような面がある。ダライ・ラマ猊下と郡司氏の考え方は、世界的に意義のある仏教徒活動を行い、チベット独立といった小さな世俗的な点にあまりこだわらない、という点で一致していると思われるが、ペマ氏がその間に入り邪魔したものと考えられる。
その為、ペマ氏は意図的に郡司氏のダライ・ラマ猊下来日における功績を隠し、以後の来日においても両者の関係を阻害する方向に持っていったように思われるのである。一例として、1980年の来日の際の写真が公開された時に、郡司氏が一緒に写っている写真が意図的に減らされている、などが挙げられる。
郡司氏の功績は前述の通り評価されてしかるべきものであり、こういった不当な隠匿行為により正当な評価がなされていないのは、筆者が残念に思うところであり、不満を感じるところである。であるからして、この文章を書き、郡司氏の正当なる評価を求めるところである。


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