2巻でヒカルが中学に入学して、囲碁部に入るちょっと前あたりの話。 「それでですね!打ち筋がすばらしいんですよ!」 「ふ〜ん。あの子がねえ…」 囲碁界に君臨する塔矢名人の一人息子、塔矢アキラが熱く語るのを、アキラの行きつけの碁会所の受付をやっている通称「市河さん」は複雑な想いで聞いていた。 アキラが言っているのは、「新藤ヒカル」。彼と同い年の少年である。 ヒカルのことは「市河さん」もよく知っていた。 何しろ、既にプロでも通用するのでは、とまで言われていたアキラを、二回も倒しているのである。 この碁会所では、「進藤ヒカル」と言えばちょっとした有名人である。 でもまあ、「市河さん」にとっては、そんなことはどうでもいいのである。 「まさか、あんなところで会えるなんて!それも、海王中の囲碁部相手に勝つなんて!」 海王中は、アキラが入る予定の中学だ。 進学校だが、クラブ活動も盛んらしい。 「小学生ですよ!?それが中学生の大会に出て、天下の海王中の選手に勝つなんて!」 「でもさあ、アキラ君だって、そのぐらいはできるんでしょ?♪」 ちょっと、アキラが恥らうような表情になった。 「あ…いや…。はい。見てて、勝てる自信はありました」 「まあ、あの子がすごいのは認めるし、アキラ君がこだわるのもわからなくはないけどね〜。アキラ君はその上をいってるわけだし」 「そんなことありませんよ!」 アキラが興奮気味にこたえた。 「彼に会って、自分はまだまだなんだってわかりました。それと同時に、対等の相手がいることの喜びがわかったんです。父がよく言っていたけど、わかりませんでした。今はよくわかります。彼は、院生になって、いずれプロの道に進むでしょう。…いや、院生にすらならないかもしれないな。僕と同じように、すぐにプロ試験を受けるかも。そして、きっと僕の生涯のライバルになります。神の一手を極めるため、競い合う良きライバルに」 「あらあら。ベタ惚れねえ」 「市河さん」がからかい気味に言った。 「はい!僕は今すぐにでも彼に会いたい!そして対局したいんです!あの海王中囲碁部との対局が、なぜ僕との対局でなかったか!彼は強いだけじゃないんです。流れるような、美しい打ち筋をしている。たまに古い定石を使うこともままありますが、それすら美点に見えてしまうような、奥深い洞察力と読み、そして大局観。初めは、なぜそこに石を置くのかわからない。でも、あとから完成形が見えてくるにつれ、その意図が…あ!」 (あら、いけない) 話についていけないのがばれてしまったようだ。 「すいません。興奮してしまって…。こんな話つまらないですよね?」 照れたように笑いながらアキラが言った。 「いいわよ。碁会所で働いてるくらいだから、囲碁の話はわかるし、アキラ君が楽しそうに話しているのを見るのは楽しいわ。冗談で言ったんだけど、本当にベタ惚れなのねえ」 もちろん、この一途な想いが自分に向いていれば…などとやましい想いはおくびにも出さない。 (にしても…中学生になるかならないかの子に手ぇだすのって犯罪かしら?でも、こんな素敵な子いないもんねぇ。その辺の男なんてバカに見えちゃうわ。まあ、あれよね。光源氏計画ってやつ?成年してから手を出せばオッケー) などと考えてるのははたから見たら十分犯罪である。 「でも、アキラ君ももう中学生だし、そろそろ彼女とかつくらないの?」 「え!?か、彼女ですか?」 「うん」 「か、彼女って、その…恋人のことですよね?」 「うんうん」 こんな当たり前のことを言ってくるあたりが、やはりまだ小学生である。碁会所で大人相手に対等以上に渡り合っているイメージとは程遠い。 「僕は…プロの棋士として一人前になるまでは女の人とつきあうつもりありませんよ。囲碁のことで頭がいっぱいで…。それに、寄り道してたらプロへの道が遠のいてしまうし…」 「あら。そうかしら?息抜きは必要よ。人生にもね」 「でも、こんな囲碁のことばっかりの人間には女の子も寄って来ませんよ。母がよくぼやいてますから」 そう言って苦笑するアキラを横目に、「市河さん」は内心ガッツポーズをしていた。 (くいついてきたー!) 「確かに、ちょっとミーハー気分で来ただけの女の子は、結局ついていけないかもね。中学生っていったらまだ子供だし」 「まだ子供だし」の部分を強調して、「市河さん」は後を続けた。 「やっぱり、年上の女性がいいかしら?あら。囲碁に理解があって、年上で、アキラ君の身近にいる人間っていったら、やだ!あたし!?キャー!」 「市河さん」、ちょっとおバカである。だが、これも計算である。女も成長すると怖い。 「…なーんて、アキラ君はこんなおばさん嫌よねえ?」 「そ、そんなこと!僕は市河さん大好きですよ!いろいろ良くしてくれるし!」 「やーねえ。「大好き」って言うのは「Like」であって「Love」じゃないのよねえ」 「あ、いや…すみません…」 「それとも、その「Like」は「Love」に変わる「Like」なのかしら?」 「そ、それは…」 真っ赤になるアキラ。 (これはいくらか脈ありかしら…) 「市河さんは大人の女性だと思うし、魅力的だと思います。囲碁の話題でも付き合っていただけるし…」 (これ、微妙に断られてんのか脈ありなのかどっちかしら…) 「あ!」 「へ?」 「進藤!」 大声を出して立ち上がったアキラに、周囲の視線が集中した。 今まさに碁会所に入ってこようとしていた小学生も、何がなにやらわからずに呆然としている。 「す、すみません!なんでもないです!」 謝って、座るアキラ。 「背格好が似てるだけで進藤と間違えるなんて…どうかしてますね。すいません。何の話題でしたっけ?」 (完全スルーかーい!) 「いや、あの子の受付やってこなきゃいけないから。また今度話しましょ」 内心思いっきりつっこみいれておきながら、笑顔で受付に行くところはさすがだ。 そうは言えども、「市河さん」は、憂鬱なのであった。 (結局、進藤君か…) (小学生の男の子に負けてるようじゃ、あたしもまだまだだわね…。それとも、アキラ君に女っ気がないだけ?まあ、あの一途なところがいいんだけどサ) 女心は複雑なのである。 |