市河さんの憂鬱 その2
4巻でアキラがプロ試験受けるとか言い出したあたりの話。

「はぁ…」
市河さんは深々とため息をついた。
「どうしたんだい、ため息なんかついて。またアキラ先生のことかい?」
常連客の広瀬さんが問いかける。
「まあ、ね…」
「良くないよ。お年頃の娘さんがそんなことじゃ。この間の話なんだけどさ…」
「男の人紹介してくれるって言う話?あんまり興味ないなぁ…」
「そう言わず、さ。会ってみるだけでも気分転換になると思うよ」

そんなわけで、半ば強引に紹介してもらった「男性」と一緒にいるわけである。
「晴美さん、碁会所で働いてるんだって?」
(勝手に下の名前で呼ぶなー!アキラ君だったら気を使って「市河さん」って呼んでくれるのにな。はぁ…)
「碁会所っておじいちゃんばっかりなんでしょ?そんなところにいたら出会いなんかなかなかないよねー」
(アキラ君と出会えたわよ!)
「やっぱりさ、いろんな男とつきあって世界を広げるべきだと思うんだ」
「世界ねえ…」
アイスコーヒーをぐるぐるかき回しながら、市河さんは聞いてみることにした。
「あなた…何か打ち込んでるものってある?」
「え?ああ…そうだな。テニスかな?」
(考え込むなよ。アキラ君だったら即答よ)
「楽しい?」
「そりゃあ、もちろん。これでも結構強いんだぜ?」
「それって、やっぱ全国制覇とか狙ってるわけ?」
「は?」
相手の男があっけにとられた顔をした。
「そんなのできるわけないじゃん。趣味だよ趣味」
(やっぱそんなもんよね…。アキラ君だったら「神の一手を極める」とか熱く語ってくれるのに…。あー、ババひいたかなー。アキラ君だったら、ライバルにも全力でぶつかって…)
(ライバル!?)
驚いた表情に、相手の男が困惑する。
「ど、どうしたの?」
「ごめーん。あたし急用思い出しちゃった。あ、あと気が合わないみたいだから、これっきりね。じゃ!」
後に残されたのは惨めな男一人。
ふと気づく。
「おい…ここの会計もオレもちかよ…」

(そうだ、進藤君だ!アキラ君がおかしくなってからは進藤君のこと口にしなくなった!彼が何か知ってるかも!)
市河さんはアキラがプロ試験を受けると言い出したことは、ショックではあっても仕方のないことだと思っていた。
でも、引っかかっていたのは、あんなに生き生きしていたアキラがここのところ元気がすっかりなくなってしまったことなのである。
それに追い討ちをかけるかのように、無理に入った海王中の囲碁部もやめてしまった。
心配にならない方がどうかしている。
(たしか、葉瀬中よね、進藤君って)
一度、車でアキラを校門まで送ったことがある。
今にして思えば、あれも進藤ヒカルに会うために行ったのかもしれない。

「あれ?塔矢の碁会所にいたお姉さん」
「市河よ。進藤君」
意外にもあっさりヒカルとは会えた。

「…そう。囲碁部の大会でそんなことが…」
ヒカルが大会でアキラと対局し、惨敗し、幻滅されたのだという。
(ほとんど、恋しちゃってたもんね、この子に。アキラ君…)
「でも、君すっごい強かったじゃない?なんでそんなひどい負け方…」
「あはは。オレ、まぐれ勝ちとか多いんだよ。実力が出ちゃったってヤツかな」
「まぐれでもアキラ君にはそうそう勝てないわよ!」
「ま、そりゃそうなんだけどさ…」
ぽりぽり頬をかく。
(海王中の囲碁部に入ったのって、もしかしてその対局のため?いきなりプロ試験なんて言い出したのはこの子に幻滅したから?そんなの…悲しすぎる。そんなのアキラ君じゃない)
「でもさ…」
「え?」
思い出したように顔を上げる。
「すっげー悔しかった!オレ、塔矢の足元にも及んでないんだなって。まともに相手することもできないんだなって。でもさ、すっげー悔しいから」
「悔しいから?」
「オレ、絶対もう一度あいつを振り向かせてみせるぜ!まぐれでもなんでもない、実力で」
一瞬ぽかんとしたが、市河さんはみるみる嬉しそうな表情に変わっていった。
「よし!それでこそ男の子だ!アキラ君の生涯のライバル、なっちゃってよ!」
「おう!オレやるぜ!」
「もう、アキラ君ガッカリさせちゃダメよ!」
「わーかってるって!」

(あたし、敵に塩送っちゃってるのかしら?)
言ってみれば、アキラは今ヒカルに幻滅してちゅうぶらりんの状態だ。
いわば、失恋したてに近い。
市河さんとしてはつけこむ隙ではあるのだが…
(でもねー。進藤君を追いかけてた頃のあの嬉しそうなアキラ君ったら)
市河さんとしては、アキラには一途でがむしゃらでいて欲しいのである。
何の苦労もなく、プロになってタイトル取っちゃうようなアキラは、すごいかもしれないが、どこか寂しげな気がする。
(やっぱ、ライバルは必要よね。進藤君が頑張ってくれればいいんだけど)

次の日。碁会所にて。
「こんにちは。…あれ?市河さん嬉しそうですけど、どうかしたんですか?」
「んふふ〜。ちょっとね。それより、アキラ君プロ試験頑張ってよ!」
「もちろんですよ」
そう答えるアキラは、やはりどこか寂しげだ。
「アキラ君にちょっといい情報」
「いい情報?」
「うん。近い将来ではないかもしれないけど、その内いいことあるかもよ〜」
「いいこと???なんです?」
「ひみつ、ひみつ〜。まあ、とりあえずプロ試験よ」
「そうですね」
(もう幻滅させちゃダメだからね、進藤君!)
そっと心の中でつぶやいた。

インターネット囲碁にて、アキラがsaiと出会い、その後ヒカルと再会するのは、このもうちょっと先の話である。

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