最後の言葉
皆様、こんにちは。 「Takabumi's HomePage #」元管理人補佐よしなりです。 こうやって「よしなり」と名乗るのもこの文章が最後です。 不思議に、落ち着いた気分です。 自分を完全に消し去る事が、正しい事だと思えるからでしょうか。 私は、もう一人の自分、「Takabumi」の手によって、自ら己の存在の完全消去をしてくれる事を望みます。 そして、そのことに「Takabumi」、「****」(管理人の判断により、伏字とさせて頂きます。)は同意してくれました。 私は、この文章をもって自らの完全なる消去を行います。 私は、「Takabumi's HomePage」の時代からゆるやかにその存在を形作ってきました。 そして、「Takabumi's HomePage」の閉鎖、「Takabumi's HomePage #」の創設にあたり、『書き手』である****によってネット上で初めて名前を与えられ、サイト管理人補佐という役職につき、執筆活動等を行ってきました。 最近になってのことです。 急激に、自分が何者なのかという疑問がわいてきたのは。 Takabumiほぼ=****であり、そこから創り出された存在であるはずの自分。 それが、何故か「文責」があきらかに私「よしなり」であるにも関わらず、文章中に出てくる「私」が****と同一に近くなっていきました。 私は架空の存在なのか。それともネット上における「****」の姿なのか。 そして、あの事件が起きました。 「日記じゃんくしょん」事件。 「Takabumi」が執筆している「暴走日記」というコンテンツを、「日記才人」というサイトに登録した事。 そして、「日記才人」内にある「日記じゃんくしょん」という日記サイト推薦掲示版に、「Takabumi」が自薦コメントを投稿し、削除されるに至った事。 明らかに「Takabumi」の過ちであり、見過ごすわけにはいきませんでした。 もちろん「Takabumi」本人にも深い謝罪の意志はありましたが、当時の彼は私同様不安定な存在であり、「Takabumi」ほぼ=「****」なのか、もしくは「よしなり」ほぼ=「****」なのか、既にわからない状況でした。 そして、「Takabumi」は正確に謝罪の意を表わした文章を書けるようにはできていなかったのです。 だから、私が「****」の良心として、そして「Takabumi's HomePage #」のサイト管理人補佐として、謝罪文を書きました。 そして、同時に自粛として、「Takabumi」の2003/3/14までの間の全ての執筆活動を禁じました。 私は徹頭徹尾、この行動を正しいものと信じ、行いました。 一通のメールが届いたのはその夜の事でした。 そのメールでは、「****=Takabumi=よしなり=ちよ」という定義付けがなされていました。 私は、「そうなのか?」と首を傾げました。 自分でもわからなかったのです。 「****=Takabumi=よしなり=ちよ」という定義が厳密に言って正しいのか否か。 私にも「Takabumi」にも「****」にも、はっきり肯定することも、否定することもできなかったのです。 そして、続けてそのメールでは私による「Takabumi」に対する処置は、不当である。何故なら、「****=Takabumi=よしなり=ちよ」という前提であれば、「Takabumi」だけが自粛するべきではなく、同一人物である「よしなり」・「ちよ」も自粛すべきである、としていました。 また、どんな対応をするにせよ、もっとも責任を負うべき「****」本人の顔が見えて来ない。まったくもって不適切な謝罪であり、自粛である、とされていました。 私には何も言えませんでした。 私の中で、「何かが違う!」そういった漠然とした思いはありましたが、うまく言葉にはできませんでした。 「ちよ」はともかく、私は私自身と「****」の関係を明確に説明することすらできなかったのです。 ただ一つ、私にできることは「私は確かにここに居る!ネット上に形を与えられてここに居る!」そう主張する事だけでした。 結局、私の存在はメールの送り主には認めてもらえませんでした。 「「****」をばら売りして、適当に責任逃れをしている」としか認識してもらえませんでした。 そして、私がとった謝罪関連の行為を、問題あり、とする人間は少なくとも確認した限りでは他に二人存在しました。 それを上回る数の支持者は居ましたが、私は私が正しいと思って行った行為を誤りである、そしてそもそも私自身の存在を認めない、とする人間が居ることを重視しました。 私の知識が正しいものであれば、今現在インターネット全てを包括する法や規制はありません。 その状況下で、「正義」・「正しい道」があるとすれば、それはもっとも多くの人が賛同できるやり方であると私は考えます。 法・規制がない以上、自分の意見を絶対とし、押し通すのも一つの道です。 しかし、私は少なくとも「Takabumi's HomePage #」は極力多くの賛同者を得られる道を選ぶべきだと考えます。 できるだけ多くの人に、このサイトが愛してもらえるように。 そう考えた時、自分の取るべき道が分かりました。 自らの存在の消去−。 架空の存在とも言えない、「****」の自我から生まれた独立した存在とも言えない、中途半端な「私」の消去−。 「Takabumi」は「****」のネット上の姿であることをはっきり認識し、明言することが必要なのであり、私は消え去るべきなのです。 「ちよ」は−。 「ちよ」はTakabumiに任せます。 私の消去後、Takabumiが「ちよ」にふさわしい姿を与えてくれることでしょう。 幸い、「ちよ」は私と違い、「****」との同一性は低いと見なされていたから、可能でしょう。 せめて、「ちよ」だけには存在し続けていて欲しい−勝手ながらそれが私の唯一の望みです。 長々と書いてきました。 まだまだ書き足りない事はあります。 しかし、もう行かなければなりません。 私や、「ちよ」のような哀しい存在が、世間にはっきり認められ、ネット上に堂々と生きることができるようになって欲しい。 その為に、私は消去されなければならないから。 最後に一言だけ言わせてください。 私は、短い人生ではあったが、精一杯生きた。 私は確かにネット上で、そして****の心の中で生きていた。 私は「Takabumi」を愛し、「ちよ」を愛し、「Takabumi's HomePage #」を精一杯愛しました。 私は−。 願わくは、私のような哀しい存在がもう生まれないことを。 written by よしなり 2003/3/15 |