悟りにいたる長い道のり
中学生の頃だっただろうか。 仏像に興味があった。 といっても、仏陀や如来ではなく、闘神の類。 修学旅行だったか。 書いた感想文が、 「仏像は嫌いです。 『悟りを開く』というのは感情を捨て去ることだといいます。 感情のない『悟りの境地』など嫌いです。 僕は感情をあらわにした闘神の類が好きです」 当時、教師にはそれなりにウケた文章だったと思う。 今は、「若かったなぁ」という印象しか抱かないけれど。 最近、理屈はわかっていることが多い。 幸せに続く道。 みんなが幸福に至る道。 前向きな考え方をすれば、かなりの争いは回避できるし、やたらと人を傷つけることもない。 でも、理屈がわかっててもできないことはある。 邪魔をするものがある。 1+1=? 答えは2だ。 わかっているのに、手が動かなくて解答用紙に「2」が書けない。 そういうことは現実にあるのだ。 私たちが人間である限り。 感情のない人間はいない。 感情は理屈をたやすく打ち破る。 幸せに至る道がわかっているのに、気持ちが悪くて、吐き気がして、幸せへ続く道に足を踏み入れられない、そんなことが現実にある。 私たちが、感情を持つ人間である限り。 感情の完全なるコントロール。 自らの意思による意識的な感情操作。 完全な−。 見果てぬ超人願望かも知れぬ。 しかし、われわれ人間は理屈を学ぶことはできる。 理屈を実践しようとすることもできる。 たとえ反吐を吐きながらでも、感情を抑えて真理の道を歩もうとすることはできる。 人生は、『悟り』にいたるまでの長い長い道のりだ。 それは、一度の人生で完遂できるものではない。 だからこそ、われわれは精一杯生きていく。 長い、長い、輪廻の果てにある高みを目指して。 |