新撰組とは


 文久三年(1863)春、将軍家茂の上洛警護のため、清川八郎の率いる浪士組が入洛し、壬生村に分宿した。浪士組は在京二十日余りで再び江戸に戻ったが、芹沢鴨・近藤勇率いる一派は初志を貫徹すべく引き続き京都の警護のため残留し、京都守護職松平容保の支配に属して「新撰組」と名乗った。
 当初、新撰組は隊員わずか十三名で発足したが、次第に隊員は増加した。その為、最初は壬生の郷士、八木氏の屋敷を屯所にしていたが、付近の農家にも分宿した。以後、京都の浪士取締りや治安維持に努めた。元冶元年(1864)の池田屋事件では多くの過激派浪士を捕らえ、一躍その名を轟かせた。

新撰組の思想とその活動


 幕末の知識人の思想は、尊王攘夷・佐幕開国などに分類されるが、新撰組の思想は複雑である。
 一般に、新撰組は単なる佐幕派と考えられがちだが、そうではない。キーワードは尊王・佐幕・攘夷である。
 鳥羽・伏見の戦い以後、錦の御旗をかかげた薩長−つまりは官軍と敵対することとなったがゆえに、新撰組は賊軍となったが、この時代の多くの人がそうであったように、新撰組の思想の根底にあるのは尊王思想である。
 つまり、徳川幕府の配下となって働いてはいるものの、徳川幕府より上位にあって、日本を支えているのは朝廷であり、天皇であるということは言うまでもなかったのである。
 徳川幕府自体も同じ思想であり、大政奉還を行ったのがよい例である。
 徳川幕府には、天皇に逆らうつもりはもともとなかったのである。
 だが、あくまで武力倒幕にこだわった薩長の思惑通り、結果、徳川幕府は朝廷と敵対することになり、最後まで抵抗した旧幕軍は賊軍とされた。
 そのいい例が、新撰組なのである。
 新撰組は、幕府と運命をともにし、結果、賊軍となったと言える。

 また、多くの尊王の志士達を斬殺したことも単なる佐幕思想を持っていたと思われる要因であろうが、これにも理由がある。
 ここから新撰組の活動について記すが、基本的に、行っていたのは京の市中警備である。
 そこで、対象とされたのがいわゆる「尊王の志士」達である。
 彼らは、あまりに過激なテロ活動を行っていたため、京の治安は著しく悪化していた。
 そこで、京の守護を担当していた会津藩の配下となって実際に警護に当たったのが、新撰組なのである。
 よって、志士達を取り締まることになったのであって、その理由は思想的なもの等ではない。あくまで、過激なテロ活動を取り締まるという目的で、新撰組は志士達を斬っていたのである。
 実際、新撰組の名を一躍とどろかせた池田屋事件であるが、この事件で犠牲となった人物は宮部鼎蔵、吉田稔麿など、彼らが存命していれば明治維新の時期が早まったであろうといわれるほどの人物達である。
 しかし、池田屋で彼らが画策していたことは、京への大規模な放火、天皇の拉致など、過激きわまるものであった。
 こうした背景から、京の治安維持を目的として池田屋事件は起こったのであり、新撰組の歴史的評価はともかくとして、新撰組がいたずらに薩摩・長州と敵対したわけではないとは言えるであろう。

 大政奉還、鳥羽・伏見の戦い以後は、前述のように幕府配下の一部隊として働き、沈みゆく幕府と命運を共にすることとなる。
 その過程で、多くの隊士は脱落していき、旧幕軍最後の戦場となった五稜郭の戦いに至るまでには既に総長、近藤勇は捕らえられ斬首、主要メンバーは土方歳三のみであり、事実上崩壊していたと考えられる。


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