「ミステリ友の会−猟犬クラブ−」に入会しての記念すべき読書、第一号です。現代ミステリは、あまり意識して読んだことがないので、どういうものか興味津々でした。でも、さすがクラブの課題図書です。本の厚さもさることながら、楽しく読むことが出来ました。
アメリカの田舎町、メイカーズ・ヴィレッジで二人の少女が誘拐されます。近隣では、誘拐された少女たちがクリスマスの朝に死体として発見されるという、未解決の事件が頻発していました。はたして、今回誘拐された少女たちはどうなるのか。誘拐された一人の少女の母親がニューヨーク州副知事であったことから、捜査は州警察・FBIの入り乱れた争いに。そして、地元警察から特別捜査官に抜擢された青年は、十数年前に双子の妹を誘拐され、やはりクリスマスに殺されたという過去を持つ人間でした。その事件に関わりを持つ、捜査チームの女性法心理学者。彼女に心を寄せる、FBI特別捜査官。猟奇的な連続殺人犯はいったい誰なのか。そして、少女たちはクリスマスの朝までに救助されるのか。最後まで気の抜けないストーリーでした。
映像的な場面の美しさ、直接的な登場人物の心理描写、ストーリー進行のスピード感など、現代のミステリはかくあるべき(と、いってもあまり読んでいませんが・・・)という要素をしっかりと盛り込んである作品です。そして、意外な結末。この結末があまり、意外ではなく物語の必然として納得できてしまうから不思議です。二人の少女の心の繋がりをテーマに据えていたのでしょうか。
事件を巡る、州警察とFBIの対比。二人の少女の母親の対比。十数年前の犯人として服役中の男と残された人々の対比。登場人物の関係は、複雑に絡み合っています。一人一人に個性があり面白いのですが、惜しむらくは多すぎる登場人物のせいか、一部の人間にしか深みが感じられないのは残念でした。わたしは、物語の「後日譚」が大好き(ほっとするのですよ)なので、アリとアーニーの話や、アリの救済が描かれていたことは、嬉しく感じました。できれば、ルージュのその後や、グウェンのその後ももっと知りたかった。
原題は"JUDAS CHILD"「囮の子」です。ストレートに読みとれば、サディーとアリを指している訳ですが、邦題の「クリスマスに少女は還る」は、非常に情緒的で、個人的には好みなのですが、意訳的に過ぎる印象でした。おかげで、いくらでも深読みが可能となりました。まあ、これも読書の楽しみの一つですが。
被害者の皮を剥ぐという連続殺人事件が起こるが、犯人に迫る手がかりはなく、FBIの捜査は行き詰まる。猟奇殺人事件の実行犯の傾向から手がかりをつかむために、FBIアカデミイの訓練生、クラリス・スターリングに患者9人を殺し、その体を食べていた元精神科医のハニバル・レクター博士への接触が命じられる。あてにはされていない調査であったが、精神病院の地下に拘束されているレクター博士は、クラリスの持つトラウマに興味を持ち、クラリス自身の話と引き替えに事件調査への協力をすることになる。
新たな被害者の検屍を通して、クラリスは犯人を捕まえることに意欲を持つが、犯人(バッファロゥ・ビル)は、また新たに上院議員の娘、キャザリンを誘拐してしまう。犯人が被害者を誘拐してから、殺して皮を剥ぐまでに数日しか猶予はない。FBI、クラリス、レクター博士をめぐっての、捜査が展開されていく。はたして、犯人を見つけ、キャザリンを救うことはできるのか。
連続猟奇殺人事件(サイコ)と呼ばれるジャンルを確立した草分け的な作品だが、緻密なストーリー構成と、魅力的な登場人物像など、さすがと肯けると共に、原作がミステリのベスト選の上位に入ったり、映画化された作品がアカデミー各賞を受賞するなど、各方面で評価の高い作品である。
事件の興味もさることながら、主人公であるクラリスの存在が魅力的だった。自分自身の過去を引きずりながら、声の上げられない被害者たちのために必死の捜査をする。トラウマとして残った、幼い頃目撃した殺されていく羊たちと、皮を剥がされ捨てられた被害者たちの姿は、抵抗できずに死んでいく者たちの声にならない叫びとして、象徴的テーマである。なぜ、羊なのか?これも、欧米の宗教的な観想なのだろうか、物言わぬ一般大衆は「羊」になぞられることが多いから。事件の解決と、クラリスのトラウマの昇華とが興味深かった。
もう一人の魅力的な登場人物、レクター博士は少し謎の多い人物だった。同じ作者の他の作品にも登場しているそうなので、そちらも読まないと分からないが、優秀な頭脳を持ち、人肉を嗜好する怪物である。そして、クラリスとの関わりでは、クラリスの心の痛みを消化することに喜びを感じるサディストである。他人の心の傷を自分の喜びとする、こうした精神は理解できないなあ。作者はよくぞこんな人物を創造したと感心してしまった。しかし、レクター博士に推理力はあったのだろうか?ということが疑問である。バッファロゥ・ビルの存在は最初から知っていたわけだし、もったいをつけて、それを小出しにしてクラリスや周りの人々をからかっていた、とも考えられる。この辺は、ジャック・クローフォドの意見に、やや賛成である。
評価は、★四つになった。この作品に続く、駄作の数々をまだ読んでいないため、この作品の相対的な素晴らしさが自覚できていないことと、捜査側に対して、犯人の人物像が印象に薄く、あっけない最後であったためである。「後日譚」のマニア?としては、レクター博士がクラリスに付きまとわないと言ったことが、ほっとしたが、そうでなかったら本当に後味の悪い話になっていただろう。
チャタムの町で法律事務所を開いている「わたし」ヘンリー・グリズウォルドは、少年の頃のある年の夏に、父親のアーサーが経営していた今はない「チャタム校」にきた、美しい新任の美術教師エリザベス・ロックブリッジ・チャニング先生の事を回想する。そして、彼女が赴任してから起こった恐ろしい「チャタム校事件」を反芻する。わたしの記憶の中のチャニング先生とわたしの周りに、いったいどんな事件が起こったのか。そして、事件に秘められた語られざる真実とは何か。
「わたし」の一人称で回想の物語として事件が語られることや、「その」「あの」と繋がりもなく(最後まで読まないと)使われる連体詞の多用は、課題の選定理由にもあったように、まさに「おあずけ」の状態となり、フラストレーションが高まった。何が起きたのか、それほどの恐ろしい事件とは何だったのか。淡々と、回りくどく情景や人物描写を積み重ねていく手法により、いやが上にも興味が高まった。何が起こったのか早く知りたい……、この人たちの関係はどうなっていくのか……。
しかし、実際に目の前に現れたごちそうは?前半の緻密な語り口に対して、後半はあまりにも性急すぎなかっただろうか。そして、あまりにも単純な「人の心の闇」に、肩すかしをくってしまった気分である。少年の夢見る、無邪気なロマンス。それを受け入れてしまう、やさしい大人たち。人の心をテーマとした作品として、読後の余韻がなく、物足りなさを感じてしまった。とくに、最後の方でのチャニング先生やヘンリーの心理描写は不足していると感じた。
題名について。(最近、これが多いけど・・・)「緋色の記憶」という題は、情緒的でよいと思うが、この作品の内容とあまりにもかけ離れたものになってしまっていると感じた。雰囲気だけなら良いのだが。原題の"The Chatham school Affair"の方が、よほど不可思議なこの物語と事件を暗示していて、よかったのではないかと思う。ちょうど『罪と罰』は、ミステリか?という話題があったが、後半の事件の当事者たちの心の描き方が不十分ということで、この作品は、文学になりそこねたミステリといってもよいのではないか。
コンピュータネットワーク「EROS」サイトのシステムオペーレーター、ハーパー・コールは数人の会員の女性が唐突に消えていくことから、何らかの事件性を感じていた。ハーパーはネットワークを通して、これらの女性たちに近づいていった謎の人物の存在を知る。そんなとき会員の人気作家であるカリン・ホウィートが殺され、首を持ち去られるという殺人事件が起こった。ハーパーはカリンが「EROS」サイトの会員であったことを警察に知らせ、他の会員の失踪との関連を示唆した。調査の結果、いなくなった女性は皆殺されており、「松果体」を切除され持ち去られていた。
警察・FBIの捜査が始まり、FBI捜査チームの精神科医アーサー・レンズ博士は、「EROS」サイトで女性に近づく犯人「ブラフマン」を罠にかけるべく、架空の女性を作り上げ、狩りの餌として「ブラフマン」との接触を図る。犯人の目的は何か、なぜ「松果体」を持ち去るのか・・・ハーパーやFBIの捜査チームと犯人との駆け引きが始まる。次の犠牲者は誰か?犯人を追いつめることが出来るのか?犯人の手はハーパーの家族にまで伸び始めていた・・・。
最近流行の「連続猟奇殺人」もの。しかも、インターネットを通しての性愛の現場が舞台となっている。本当に今風の内容だろう。「松果体」を奪っていく犯人なんて想像も出来なかったが、結局人間の永遠の夢である不老不死に行き着いた。事件が進むにつれて、犯人の志はどんどん下がり、ただの精力を持て余している中年のおやじ風になってしまったのは哀れであった。それにしても、この後味の悪さは何だろう。犯人や登場人物の欲望がどろどろとしていて、さらに、非日常的(自分にとっては)過ぎる出来事の連続で、じっくりとした味わいを感じることは出来なかった。
サイコ事件については、特に気にはならなかったのだが、その背景に流れる欲望まるだしの人間像。こちらのテーマは受け入れることが出来なかった。理解ではない、生理的に気に入らないのである。(ああ、犯人のごたくみたい…)ストーリーの展開は、スピード感があり最後まで緊張感をもって読むことができ、よかったと思う。自分自身のモラルと欲求を考えさせられた。しかし、めずらしく(身勝手さに腹を立て)登場人物の誰にも感情移入できなかった作品でもあった。「ハンニバル・レクターの好敵手現る!」冗談じゃない。どこに文学的な深みがあるのか。
バージニア州リッチモンドで連続猟奇殺人事件が起こる。被害者は皆女性。残虐な方法で絞殺されていた。バージニア州の検屍局長ケイ・スカーペッタは、四人目の被害者ローリー・ピーターセンが医師であったことから、同情と共に捜査に当たる。そして、少しずつ犯人に繋がる手がかりを見つけだしていく。ピート・マリーノ部長刑事と捜査を続けて行くが、そのとき、ケイ・スカーペッタの身にも魔の手が迫る・・・はたして、ケイは犯人を見つけだし、次の犠牲者を救うことができるのだろうか。
まず、一人称で語られる文体が心地よかった。主人公であるケイ・スカーペッタの目から見た世界は、落ち着きがあり安心感があった。物語に深みを感じるのは、一人称の表現のせいだろうか。ここのところ続いている。「サイコもの」の一編だが、他の作品と比べて残虐性も少なく(もしかしたら、感覚が麻痺しつつあるのかも知れないが…)、客観的に事件を眺めることが出来た。ケイが色々な事実を発見していき、少しずつ犯人に近づいていく姿と描写がよかった。発見された事実の適切な記述は、興味深かったし、なによりも推理の楽しみにもなった。完全に論理的でなかったとしても、スピードとスリル感に偏った作品よりは、読書としての楽しみを感じることが出来た。とても、面白い作品だったと思う。
どうも、本に載っているりりしくて麗しい作者の写真のせいか、ケイ・スカーペッタとパトリシア・コーンウェルが最初からイメージ的にだぶってしまった。だから、どうのと言うことではないが、物語中のケイは40歳?読んだ限りでは、もっと若そうだったのだけれども。この事件も、サイコである犯人の描写が弱かった。5人も殺しておいて、えっなんなんだ…といった感じのあっけなさ。捜査側と犯人側の両方に重きを置くと、とんでもないことになってしまうのでしょうか、作者は。でも、サイコ者の言い分もじっくりと聞いてみてあげたい気もするのだが…。
たった一人の肉親である考古学者の父親を失ったアン・ベディングフェルドは、自分自身の人生を生きるためにロンドンに上京する。そして、地下鉄の駅で奇妙な男の死を目撃する。男の元には医者と名乗る茶色の服を着た男が・・・さらに、その男は謎の数字の書かれた紙切れを落として、逃げるように去っていく。茶色の服の男は何者か、なぜ地下鉄で男は死んだのか、紙に書かれた数字の意味は・・・。アンは、持ち前の想像力を働かせて、事件を追って冒険の旅に出るのだった。
クリスティーの描く若い冒険好きな女性は、『秘密組織』や『二人で探偵を』に出てくる、タッペンスくらいしか知らなかったのだが、こういう女の子もいたのかと、驚きました。なんと、無鉄砲でめちゃくちゃなのか・・・なんて、思い出したら自分自身が歳なのでしょうか?とにかく、アンは生き生きと元気に冒険をしてくれます。こんな、ワクワクとするような冒険談を語る、クリスティー女史の得意げな姿が目に映るようで、思わず微笑んだりしてしまう。
推理としても、面白い。ちゃんと結論に行くまでの全ての証拠は提示されている。さらに、びっくりするような大どんでん返し・・・(笑)。楽しく、ハラハラしながら楽しめる推理小説を久しぶりに読むことが出来た。どうも、最近は妙に緊張感が高い作品が多くて。クリスティーの作品は数が多くて、あまり細かくは読破していないのだが、またあれこれと探してみようかと思わせる作品だった。
コンピュータプログラマーのフレッチャーは、家族と共に新しい仕事の地である、南部のノースカロライナ州にある田舎町ストゥベンに引っ越した。フレッチャーはこの仕事に就くまで失業中で、妻のディアンヌはもうじき出産を控えていた。そして、スティーヴィを頭に、三人の幼い子どもたちがいた。新しい土地での新しい生活にフレッチャーの家族はなじんでいくが、長男のスティーヴィは学校や生活になかなかとけ込めず、友だちもいなかった。しばらくすると、スティーヴィは知らない子どもたちの名前を呼び、見えない友人の話をするようになる。折から、ストゥベンの町では、子どもの連続失踪事件が起きていた。はたして、スティーヴィの新しい友人たちは、事件に関係があるのか。フレッチャーは家族の生活と、スティーヴィの奇妙な言動に心を痛める。
スティーヴィの謎の友人たちの問題はあるが、物語の前半は、平常ではない不可解な雰囲気はあるものの、ミステリを読んでいるという気が全くしなかった。フレッチャー一家の家族の愛と、奮闘するフレッチャーと妻のディアンヌの愛情を描いた小説かと思えてしまう。謎の虫の大群の発生や、一癖もふた癖もありそうな人物たちの登場はあるが、いったいどんな事が起こっているのか、想像もできなかった。フレッチャー一家のモルモン教徒としての生活の様子は、新鮮で興味深いものだった。
ミステリとしての事件の展開は、驚きだった。行方不明になっていた少年たちがコンピュータスクリーンの中にゲームとして現れたり、クリスマスの日に姿を見せたりと、常識では考えられない世界だった。ホラーとかファンタジーといった様相だが、不思議な後味を残した。ストーリーは面白かったのだが、こうした展開ははたしてどうだろうか。『クリスマスに少女は還る』同様、キリスト教徒にとってのクリスマスは、現実の人間と死者との交流のあるミステリアスな日なのだろうか。
ニューヨークの広告会社に勤めるイラストレーター、サイモン・モーリーはある日、<プロジェクト>のエージェント、ルーベン・ブライアン少佐の訪問を受ける。ある秘密のプロジェクトに参加しないかというものだ。サイモンは現実の生活への倦怠とプロジェクトへの好奇心から、プロジェクトに関わることを決意する。この<プロジェクト>の発案者、E・E・タイジンガー博士から聞かされた、計画は過去の世界に行くという奇妙なものであった。サイモンは自分自身の過去への憧れと、ガールフレンドのキャサリン・マンキュソーの養父の父の死に関わる手紙の謎を知るために、過去に出かけていく・・・そして、そこで出会った魅力的な下宿の娘キャサリン・マンキュソーを恋するようになる。サイモンの目の前では、「過去の事件」が繰り広げられて行くが・・・。
これは、タイムトラベルもののSFです。久しぶりに楽しくSFを読む事ができました。昔はむさぼるように読んでいたのですが、ここ数年(十数年?)は、ほとんど新しい物は読んでいませんでした。やはり、いいですね。SFは!この『ふりだしに戻る』を読んでいるあいだ中、頭の中に浮かんでいたのはハインラインの『夏への扉』とO・ヘンリのニューヨークを舞台とした作品群(時代は違うが)でした。いずれも情緒的で、ちょっとセンチメンタルな気分にさせてくれます。『夏への扉』は、SFですから類似と言ってしまえばそれまでですが、時間を超えて犯罪?と関わるところや、主人公の様子など、どちらもいい雰囲気です。そして、この「長編」のラストシーンは、やはりO・ヘンリ的だと思いませんか?先が見えながらも、思わず微笑んでしまうような。
さて、「ミステリ」か?というと、疑問です。でも、作者はミステリ出身。内容は、純然たるSFです。厳格にジャンル分けする必要もあるのかどうか迷ってしまうのですが、真剣に考えると迷ってしまいます。「ミステリ」として考えると、あまりにもお粗末な謎なので「う〜ん」なのですが、SFとして見ると、「わくわく」物なのです。読み終わってから、評価を考えるのに本当に悩んでしまいました。ミステリも好きだし、SFも好きだし・・・
結論として、この作品はSFとしての評価を出しました。このページの評価です。最近のSFは、科学的というよりも精神的な部分に活路を見いだしているようです。確かに、宇宙物だと「スターウォーズ」とか、「スタートレック」になってしまうし、生物物では「ゴジラ」か「ガメラ」ですものねえ。この精神的な作用でタイムスリップするので、★ひとつ減らしました。ちょっと強引なようです。ちなみに、ミステリとしては「★★★」?かな〜??甘いか?
パリの街で、五人の女が次々と刺殺されるという事件が起こる。さらに、被害者の衣服は無惨にも切り裂かれていた。パリ市民の不安を払うべく、パリ司法警察のメグレ警視は苦悩する。犯人の手がかりは全くない。メグレ警視は、犯人の人物像を想像し、おびき出すべく秘密の計画を立てる。果たして、犯人はメグレ警視の思惑どおり、再び姿を現すのか。
読んでから気付きましたが、今を話題の「サイコ」殺人事件です。メグレ警視は犯人の心理を推理して、罠を張るのでした。そして、参考人として事情聴取する犯人とのやりとり。「メグレ警視もの」は、心理描写に優れ人生の哀歓までをも、文学的に表現しているといわれていますが、言葉の端々、行間の端々に表されるメグレの苦悩や思いは、興味深く読むことができました。
殺伐とした、犯罪の物語としてだけではなく、人間を見つめるメグレ警視の視点には、好感が持てます。作者が、フランス文学の大家。推理作家として唯一、文学史上で賞賛されているということも、肯けます。夕闇の迫る、バリの街の雰囲気、賑わうカフェ・テラス。パリの街に行ってみたくなるような、情緒的な気持ちにさせられました。
事件そのものは、淡々と展開していきます。後半の中心が、犯人との取り調べでの会話に終始していたのは残念でした。アクション物ではないとは思うのですが。
久しぶりに南米からポアロを訪ねてきた、ヘイスティングズ大尉。その、ポアロの家に謎の人物が飛び込んできて、息絶える。「ビッグ4」という謎の言葉を残して。そして、ポアロを謀殺しようとする魔の手が迫る。それは、世界制覇をたくらむ謎の国際秘密組織の陰謀だった。向けられた刃に、ポアロの反撃が始まる。はたして、ポアロは真相を解明し、世界を守ることができるのか。
ポアロの事件簿の初期の作品ですが、「小さな灰色の脳細胞」ポアロの、大活躍を記した物語です。些細な出来事が、世界を巻き込む大陰謀に繋がっていくのですから。しかし、その広がりはとてもじゃないですが、このような中編では語り尽くすことは、不可能であると思います。ダイジェスト版かな?という、未消化な不満が残りました。悪の秘密組織にしても、どうも迫力に欠けて、もっとしっかり戦いなさい!と、激励したくなりました。
ポアロの双子の兄という人物や、政府の高官など興味深い人々はでてくるのですが、これらも本当の脇役で、もっと、いろいろな面でポアロやヘイスティングズ大尉との関わりがあったら、面白かったのではないかと思いました。やはり、「中編」で、この内容という所に無理があるのではないかと思いました。
ロンドンから70マイル、デントン警察署に刑事に昇進したばかりの、クライヴ・バーナードが赴任してくる。クライヴの担当は、だらしなく、しかも仕事の鬼の犯罪捜査部警部フロスト警部だった。クリスマスの10日前、行方不明になった少女の捜索が始まる。担当者の急病によって、捜索の責任者になったフロストの周囲は、混乱を極める。さらに、デントンの街に起こる、日常の様々な事件の数々。果たして、フロストは少女を保護し、街の平和を取り戻すことが出来るのか。
中心になる、少女の行方不明事件を縦軸に、変質者の教師、浮浪者、窃盗団、現金強奪犯、霊媒師などなどが入り乱れての、混乱の五日間。警察とは、かくも忙しいところなのかと、つい同情してしまう。その中で、一人、大車輪の活躍をするのが、署長には疎まれているが、部下には絶大な人気者の、ジャツク・フロスト警部だ。フロスト警部の活躍は、それとは分かりにくい物だが、様々な事件を的確に?解決し、処理していく姿は、外見のだらしのなさとは裏腹に、鮮やかなものである。
フロスト警部を中心とした、デントン警察署内の人間模様もまた、魅力である。生々しい、俗物たちの典型化。その一人一人が、生き生きとそれぞれの持ち場で、活躍しているのである。まあ、こんな警察が実際にあったら困ってしまうだろうが、全てが魅力と、興味に満ちている。冒頭で、射殺されてしまったフロスト警部の謎も興味津々である。こんなに破天荒で、魅力的な警察官はいただろうか。
メアリ・ラッセルはサセックスの丘陵を散歩していたときに、引退中の名探偵シャーロック・ホームズと出会う。お互いのやりとりを通して、メアリの非凡さを見抜いたホームズは、彼女に自分の探偵としての生き方や考え方を教えていく。二人は、よきパートナーとして、そして独立した二人の探偵としてお互いを認め合うようになっていく。いくつかの事件を通して、メアリは成長していき、ホームズをも凌ぐ力を見せるようになる。そんなとき、ホームズが何者かが仕掛けた爆弾によって重傷を負う。なぜ、ホームズは襲われたのか。そして、メアリのもとにも爆弾が仕掛けられる。ワトソン博士の家にも……誰が何のために……。ホームズは兄のマイクロフトの力を借りて、反撃を試みるが……はたして、ホームズたちは切り抜けることが出来るか。
ホームズ物のパロディだが、スリルに満ちてとても楽しく読むことができた。これほどの、緻密な内容のパロディは少ないだろう。こうしたものの、評価はあまりしたくはないのだが、久しぶりに面白いものを読むことが出来、書くことにした。独立した物語としても、十分に楽しめると思う。もちろん、ホームズをよく知り、彼の行動を理解しているのであれば、さらに400%アップくらいの楽しみとなるだろう。ワトスン博士亡き後、こうした事件簿が発表されるのは楽しいし、興味深いことである。
三つの事件が描かれているが、メアリの成長と共にその解決に向けての推理を楽しむことが出来た。ホームズ流の推理(当たり前だが…)、ホームズにはなかった若さとアクション(笑)。なにも言うことはありません。(^^)しかし、最後の事件の終わり方は、少し性急すぎたと感じた。あれだけ緻密にホームズを追いつめていった犯人としては、あっけない最期であった。それに、それも偶然によるところが多いし……。悪人や犯人を殺してしまうのはどうだろうか?わたしは、生かして罪を償わせたいと思うのだが。その後の楽しみもあるしね。(おお、「後日譚」マニアだ……)
フランス、エトルタの町で、毒の入った睡眠薬を飲みメイドが死ぬという事件が起きる。メイドの主人であるヴァランティーヌ・ベッソン老婦人は、事件の調査をパリのメグレ警視の元に依頼する。同じ時、老婦人の義理の息子であり、下セーヌ県選出の議員でもあるシャルル・ベッソンも大臣を通して、メグレ警視の捜査を依頼してくる。ベッソン家は”ジュヴァ”クリームの販売で財を築いた一族であった。そして、事件のあった夜は、年に一度、ヴァランティーヌ老婦人の誕生日に、一族が一堂に集う日であったのだ。誰かが、老婦人を殺害しようとしたのか。メグレ警視は単身パリから乗り込み、地元のカスタン刑事と共に調査を開始する。
シーズンの終わりも近い田舎の避暑地を舞台に、情緒的な雰囲気の中で物語は進行していく。地道なメグレの調査といわくある登場人物たち。捜査は、世間話をしているようなゆったりとした会話を通して進められる。はでな描写は全くないが、メグレ警視の目を通しての人物描写や、情景描写には独特の雰囲気が感じられた。しかし、スピード感のほとんどない描写には、少々退屈さもあった。
この作品の良さを実感するには、ゆったりのんびりとした、読み手側の状況設定が必要であると思う。心地よい椅子や、寝床の中で気どって読むと、作品の世界に入り込みやすいだろう。上流と下流、富者と貧者。そうした社会構造的な身分の違いといったものも、考えさせられた。それでも、人の心はみな同じで、人間の利己的な感情は文学的である、ということがシムノン流の解釈だろうか。メグレ警視のあまりにも人間的な言動は、奥が深い。
パリのヴァンティミル広場で若い女の死体が発見された。彼女は寒い三月だというのに安物のイブニング・ドレスを着ていた。メグレ警視は違和感を覚える。第二地区の担当はロニョン刑事。捜査ではメグレとは対極を歩く男だった。メグレの組織的な捜査とロニョンの足で稼ぐ捜査が始まる。いったい、死体となった若い女は何者なのか?なぜ、パリの片隅で殺されていたのか?若い女の過去と現在に人のの孤独の影がつきまとう。
情緒的な表現とパリの街の広がりが心地よい作品である。メグレの物語はこうしたある種の雰囲気を持っている。この作品では、メグレ警視とロニョン刑事の対比が面白い。捜査の方法論もさることながら、メグレのロニョンを見る眼は辛辣である。ロニョンに同情さえ感じさせられた。実際、古典的な刑事物ではロニョンの捜査こそが正当ではなかったろうか。そこに、シムノンの眼の新鮮さと、現実的な捜査の非情さを感じた。なぜ、シムノンがそこまでロニョンに辛く当たるのかは、理解できないが。
被害者には申し訳ないが、久しぶりに心地よく読むことの出来た作品であった。ここでも、メグレ警視の周りや人間を見る眼は情緒的で深い。こうした、心落ち着くミステリを読めるのは嬉しいですね。これまでに読んだメグレ警視の作品では、とびぬけて面白い作品だった。メグレ警視の深みにはまってしまいそうである。(^^)と、いうわけで★は五つとなった。初めてですね。素晴らしい作品でした。ぜひ、読んでみて下さい。