物凄い執念、執着
軽い気持ちで、上手な文章の書き方に関する読み物として、植竹伸太郎著「凡文を名文に変える技術」から始まりました、日本語の旅。
山口仲美著「日本語の歴史」で上代から現代までの日本語の変遷に触れ、町田健著「まちがいだらけの日本語文法」で改めて日本語文法を学び直し、遂にこの本で日本語の起源にまで至ります。
それぞれジャンルが異なる著書ですが、日本語への関心は深まるばかりです。まだまだ旅は続きそうです。
大野晋は著名な国語学者であり、何冊かの本を読んだことがあります。この本の存在も知っており、日本語はタミル語を起源とすることも、知識としては持っていました。
しかし、この著作を読み、著者の執念とも呼べる探求心には感服しました。
「日本語の起源」(初版)が出たのが、1957年。新版が出たのが94年(当時著者75歳)。その間、実に37年もの長きに渡り、不十分であった初版の改訂を目指し、研究を続けていたのです。凄い! の一言です。
著者が日本語に興味を覚えたのが、旧制高校時代とのことですので、半世紀以上に渡る成果が、ここに果たされた訳です。それ自体、壮大なドラマです。
著者は著名な国語学者であり、古語やその文法等、また方言にも造詣が深く、長年の研究もあり、タミル語が日本語の起源であることに至ります。
母音や子音が対応する単語が多い、文法が同じだけでなく、五七五七七の詩、似た文化様式(埋葬、季節の行事など)にまで研究が及びます。そこまで突き止めての研究成果です。
しかし、比較言語学を研究する方々からは厳しい批判に晒されているようです。その基本的ステップを踏んでいないことによるようです。著者は冒頭で、ヨーロッパ言語で発展した比較言語学の基本は抑えている、と具体的に述べているのですが……。
また、こんなことから批判があるのかも知れません。著者は稲作文化(漢字伝播なども含め)が北九州に最初に入って来て、西日本へ、東日本へ広がって行った、との立場です。このことに反発する人たちも存在するのでしょう。
この本を読んでいる途中から、「初版」が読んでみたくなりました。どのような内容なのか?「新版」との違いは? など興味は尽きません。しかし、アマゾンにもありません。
示唆に富む内容なので、非常に長い引用になっています。約28,000字です。どうぞ日本語の起源への旅へ。
「さて、こうして文字の一般的使用の時代に進んだのだが、文字以前の日本語はどんな言語だったのか。さかのぼって今日から二〇〇〇年前、あるいは三〇〇〇年前の日本にはどんな言語が行われていたのか。それは外国の言葉と関係があるかどうか。それが我々の問いである。
そこで、研究に先立っていくつかの予想、あるいは想定をしてみよう。そこにどんな事態が描けるだろうか。
旧石器時代はあまりにも遠いので、縄文時代以後のことを考えてみる。
(1)第一の仮定。縄文時代から日本語は一貫して日本列島の中で日本語だけで発展して来たと考える。日本語は独自の言語で、世界中に仲間はいない、という考えである。それを図示すると次のようになる。
原始日本語―五、六世紀・漢字の使用―八世紀の日本語―十世紀・仮名の発明―現代日本語
これは喩えていえば『日本語万世一系説』とでもいえるだろう。ただし、五、六世紀ころに漢字が持ち込まれ、以後、それを使って来たこと。その漢字から仮名が十世紀ころ作られて広まったこと。日本の文字について、この二つを誰しも認めなければならない。日本語は漢字を途中で借用し、漢語を自分の言語の中に加えたのだから、漢字のことだけを考えて日本語そのものが中国語から生じたとは言えない。中国語とは文法組織が全くちがう。
(2)第二の仮定。非常に古い時代に世界のどこかで、今は分らないx語という言語が話されていた。それが二つに分離し、一つが日本に来て定着した。分れたいま一つをy語とすると、そのy語は世界のどこかに今も存在するのではないか。
(中略)
明治時代以来一〇〇年以上にわたって、日本の言語学者、また世界の言語学者の一部は、およそこの(2)の考えに立って、x語、またはy語を地球上にあれこれと求めた。」
「右にいうx語、またはy語、また(もし沖縄の言語を、東京の言語と相違が大きくなったからとして、別の言語だと扱うならば)沖縄列島の言語、これらを日本語の『同系語』という。同系語とは、今は別々の言語となっている二つの言語をさかのぼって行くと、どこかで、いつかはその二つの言語の基礎語(単語)も文法の骨格も一つになる関係をいう。しかし誰もが肯定せざるを得ないような、確かな証拠を提示して、x語、またはy語を確定することは最近までできなかった。それがつまり日本語の系統は不明だということであった。
私がこの問題に立ち入った頃のこの課題に対する学界の大勢としては、次の二つのことが多くの専門家の一般的な支持を得ていた。
一つは、日本語の文法的な構造は、アルタイ語に属しているということであった。トルコ語、モンゴル語、ツングース語というような諸言語を一括してアルタイ語とする説があるのだが、それらと日本語とはおよそ文法的な構造が共通である。だから日本語はアルタイ語の仲間だということだった。
しかし日本語とアルタイ語とを比較すると、文法的な構造はおよそは共通なのだが、単語の対応を見つけることが非常にむつかしい。同系というためには、一に文法の仕組みの問題、二に何百という基礎語の問題がある。その双方について立証しなくてはならないのに、単語について証明できない。そこでアルタイ語同系説は足踏みせざるを得なかった。
二つは朝鮮語との同系説である。これは明治時代にアストン、金沢庄三郎らが述べた説で、金沢庄三郎はおよそ一五〇の単語を挙げ、文法についても例を掲げた。これはそれまでの日本語の同系語の証明としては最もすぐれたものであった。しかしヨーローパの比較言語学がすでに確立していた成果に比べると結果は貧弱であった。単語の対応も少ない上に、その中には文化に関係する単語が多く、基本動詞についてはほとんど立証できない。文化語は言語の系統に関係なく輸入されることが多いから系統論には役に立たない。そういう状態では、証拠不十分と言わざるを得なかった。
結局この二つの説以上に確実と見える意見はなく、日本の近くに日本語の同系語と見なされる言語は存在しなかった。私も試みたが、アイヌ語については基本的単語の対応は全くなかったし、明治時代からのアイヌ語の専門家、金田一京助は、日本語とアイヌ語は文法的にも相違していると断定していた。
台湾の山地民の諸言語には、共通といえる単語は見られず、文法的にも日本語と全く異なっていた。また、マレーシア、インドネシアなどの言語は、発音の仕組みは基本的に日本語にかなり近いが、文法の組織が全然違う。アイヌ人も文字を持たず、古い伝承しか保っていない。だから昔のことを知る手懸りはそのロ誦以外に得難かった。これが一九五〇年代までの言語学的な探索の結果だった。研究はそこで止まっていた。」
「私はこの問題に入って行くに際して、言語の原点に立ち返るべきだと考えた。私の考える原点とは何だったか。
一般の人々は、言語と文化と人間(人種)の三項を、たやすく重ね合わせて考える。例えば日本語が、ある言語と関係があるというと、すぐ人種的には違うではないかなどという。しかしその三項はそれぞれ本質的に別々でありうるものである。アメリカの黒人は、もとアフリカの人種であるのに、英語を話し、アメリカ文化の中で暮している。日本人はアジア人の一種であるのに、和洋折衷の生活をして日本語を話している。だから、言語と文化と人間とを簡単に重ね合わせて考えてはいけない。これは忘れてはならない大原則である。専門の学者はこの原則に忠実である。
しかし『言語と文化とは別々に考えよ』ということは、『常に言語と文化とは別だ』ということではない。逆に、言語と文化とが重なっている場合は実に多い。それを、学問の細分化の道を歩む専門家たちは、『言語と文化とは別だ』と頭から切り離して扱い勝ちである。日本の言語学者は文化人類学に多くは無関心である。文化人類学者は言語学についてあまり御存知ない、というように、言語と文化との関連に注意を払わない学者が実に多い。
私は基本的に言語と文化とは密接に結びついていることが多いと認めていた。言語の歴史を考えるには絶えず文化の歴史を考えるべきだ。それが私の立場であった。だから、日本語の同系語を探索しようとするとき、人間の問題、文化の問題の面からも日本を見直すことによって、閉ざされている言語の系統の問題の行く手にあるいは活路が見出せるのではないかと考えた。私は考古学・形質人類学・民俗学・方言学などに目を配り、旧版『日本語の起源』においてその結果をいくつか報告した。
例えば東西日本の方言が対立しているということは国語学の常識であったが、長野県・静岡県の西境を境界線とする東西日本は、単に方言的に対立しているだけでなく、文化的、形質人類学的にも種々に相違し対立し、それが遠く旧石器時代にまでさかのぼるものであることが、探求の結果として明らかになった。それによって日本は、形質人類学的に、文化的に、また言語的に、東日本と西日本という区分を持つ異質の集団が合一したという成立史を持つことが示唆された。
また日本文化全体が北方アルタイ的な要素だけでなく、基底に南方的な要素を持つことを重んじなければならないことも明瞭になって来た。それが言語と結びつくはずである。つまり日本語の発音の組織の根抵には南方のインドネシア、ポリネシアなどの体系があるらしい。しかし、日本語は文法的にはいわゆるアルタイ語的な――大陸に広がるモンゴル語やトルコ語に共通な――膠着語の性格を多く保っている。この北と南の二つに分裂する条件が、いかにして日本列島において一体化したのかを考えること。その課題が一九五七年の段階で明らかになった。
『南方に類縁語を求めるべきだ』という思いは、後々まで私を動かした。
その線を進むことによって得た私の系統論、言語と文明の相即した古代日本の姿を私は読者の前に本書で新たに描くだろう。言語について、『物』について、包括的に事実を集め、統一的な推理をそこに展開したい。」
物凄い着想、執念とも云い得る探求心、強固な信念が、新たな分野を切り開いた。
「しかし前のページで示した英語のdとドイツ語のtのような整然たる関係は偶然の鉢合わせとはいえない。英語とドイツ語との間には、d・t・thの他の音についても、基礎的な単語の間に右に挙げたような整然とした関係を示すことができる。この状態を、英語とドイツ語との間には『音韻の対応がある』という。対応とは必ずしも一致ではない。一致していなくても、英語のdとドイツ語のtのように音のずれがあっても差支えない。ずれが整然と揃って一斉にずれていればよい。それを『対応がある』という。
こういう『音韻の対応』が成立するのは、その二つの言語が、昔あるときに同一の言語であった結果である。つまり英語とドイツ語は、昔、どこかで一つの言語だったから、現在においてこういう対応がある。他の理由は考えられない。
ラスクというデンマークの言語学者は、一八一四年、大西洋の北部の島、アイスランドの言語と、何千キロ離れたギリシャ語・ラテン語との間に、音韻の対応があることを三五二の単語によって具体的に立証した。それは、つまりこれらの言語が大昔に同一の言語から分れたのだということを証明したことであった。これが『比較言語学』の誕生だった。
今では、アフリカの東岸のマダガスカル島の言語とインドネシア語との間には音韻の対応があることが、専門家によって証明されている。この二つの島は、その間にインド洋をはさみ、何千キロと距っている。しかし、その二つの言語の間には音韻の対応がある。だからその二つの言語は、大昔に同一の言語だったのだ。このことは動かしがたいのである。その対応を偶然ということはできない。
つまり何千キロと離れていようと、その二つの言語の間をどんな交通手段で行ったのか不明であろうと、今日の目から見て交通の可能性が疑わしかろうと、『音韻の対応』が言語学の手法によって確認されると、それはその二つの言語の祖先は同一だということの基本的資料となることは否定できない。そして二つの言語が同系だと提言しようと思えば、一つや二つの単語の偶然的な類似を示すのでは無効である。その二つの言語の間にすべての音素にわたって『音韻の対応』が存在することを、何百という挙例によって、整然と立証しなくてはならない。
『音韻の対応』とは二つの言語の同系を証明する、それほどに強力な方法である。しかし、これにも弱点があることを心得ておく必要がある。
マダガスカルの言語とインドネシアの言語との間には音韻の対応(および文法の対応)が存在している。だから両者が、大昔に同一の言語であったことは確かである。しかし、それは大昔に同一だったことを立証するだけで、二つの言語がいつ分離したのか、どこで、どうやって分離したのかなどという問いには何も答えない。例えばマダガスカルの方が原所在地で、その言語がインドネシアに広まったのか。インドネシアからマダガスカルヘ広まったのか。それとも途中にあった言語が東と西へ分れて進んだのか。広まるにはインド洋を突っ切って渡ったのか、沿岸づたいに渡ったのか。それはいつの出来事だったのか。それらの問いに対しては『音韻の対応』は一切答えを与えない。それらの問いに答えるには、広い意味の歴史学が参与しなくてはならない。歴史学とは、いつ、どこでという具体的な時間的・空間的条件を基本的に考慮に加える学問だからである。」
「二言語の同系性を立証する上で、整然たる音韻の対応の果す役割は以上の通りなのだが、日本語についても音韻の対応といえる事実がある。それは東京の言葉と、南西請島の言葉との間の対応である。一例として沖縄県宮古島の言葉をあげれば、上の表に見る通り、東京でhで発音するところを、宮古島ではすべてpで発音している。つまり東京のhと宮古島のpとの間の音韻の対応がある。
対応とは、子音の聞についてだけでなく、母音についてもいう。上の例でいえば、東京のaと、宮古島のaとは一致している。これも明らかな対応である。しかし、対応は一致であることを要しない。重ねて東京の言葉と宮吉島との開に例をとろう。
次ページの上の表に見る通り、東京のeは宮古島ではみなiで実現して。いる。つまりe〜iという対応がここにある。こういう対応は東京の言葉と宮古島の言葉の間には、子音hとp、母音eとiという限られた音の間だけでなく、k、s、t、n……などの子音について、また、a、i、u、oなどの母音についても成立する。それは東京の言葉と宮古島の言葉とが、大昔に一つだったことの証拠である。それ以外の解釈を許さない。
こういう関係が外国の言語との間に生じることはないか。もしあればその言語は、日本語の同系語の有力な候補者となる。そして一層の吟味によって――文法の吟味を加えることによって――その結果が肯定的であるならば、それは日本語の同系語として確定するだろう。
ここで再び先の、東京の言葉と宮古島の言葉の対応表を使うことにしよう。そしてタミル語という耳馴れない言語について、東京の言葉と同じ意味の単語の形を並べて掲げる(前ページ下表)。この表の一語一語について吟味をお願いしたい。誰が見ても東京・宮古島・タミルの単語の間に、h〜p〜pという対応が存在すると知ることができる。」
「第一に日本語の子音を見よう。それは全世界の言語の中では体系として比較的に簡単な方で、次の二つがある。
@単語のはじめにも中途にも立つ子音。
A単語の中途にだけ立つ子音。
@は俗にいう力行、ケ行、夕行、ナ行、八行、マ行、ヤ行、ワ行の子音でk、s、t、n、
h、m、y、wの八個である(hは室町時代まではrの音だった。つまり、ハ・ヒ・へ・ホはファ・フィ・フェ・フォの音だった。最も古くはこれはpの音で、日本の内部でp→F→hという変化が生じた。これは国語学界の常識である。だから一五ページに掲げた宮古島のpは実は日本語の古い発音を今日でも守っているものである)。
それから、タ・チ・ツ。テ・トは古くはta・ti・tu・te・であった(現在チ・ツはt?i・tsuに変わっている)。
これらの子音は、言葉のはじめにも、途中にも来る。そして、英語などにあるtr、pl、str、sprのような二重子音、三重子音は日本語にはない。
Aは、単語の中途にしか現われない音で、r、g、z、d、bの五個であった。
日本語はこのように十三の子音しか区別しなかったし、現在でも少しふえた程度である。なお、濁音と呼んでいるg、z、d、bには、室町時代ころまで、その直前に軽いnまたはmという鼻にかかる要素がついていた。(中略)これは現在の――というより少し前までの東北地方のが、ザ、ダ、バの発音と同じで、いわゆる『鼻にかかる』音たった。東北地方の年配の人の『鼻にかかる発音』は方言的な訛りだと見られているが、実は古来の日本語の標準的な発音を正しく受けついだ発音なのである。
Bとして古い日本語の単語は、みな母音で終るのが常で、子音で終る単語は無かったことを挙げておこう。これは日本語の根本的な重要な性格で、これの意味を詳しく考えることは、日本語についての『比較言語学』の上で大切なことである。
次には日本語の母音である。まず第一に日本語の母音はa、・i・uのような短い母音だけだった。(中略)のような長い母音はなかった。
またaiとかauのような、二つの母音を連続して使うこともなかった。
母音の数は、時代によってかなり変動してきている。それは次の通りである。
奈良時代=8 平安時代=5 室町時代=6 現代=5
奈良時代の母音は八個あって歴史時代の中で最も多い。これは橋本進吉先生の研究によって明らかになった。奈良時代に八個だから、古くにさかのぼれば、もっと多くあったのだろうかと思われるかもしれない。しかし意外なことに、奈良時代をさかのぼると、母音は四個であったと推定される。(中略)」
「いよいよ、タミル語との比較を実行する段取りであるが、まず、どうして、こんなタミル語などという言語にとりついたのかをお話ししておくことにしよう。
明治時代から続いた日本語の同系語の探索の対象はアイヌ語、朝鮮語、満洲語、モンゴル語、トルコ語と拡大されて行った。しかし確かな手ごたえを得ることはできなかった。そこで研究者の中にはチベット語、ビルマ語群へと目標を転じた人々もあったのだが、それでも顕著な結果に到達できなかった。
チベットの南隣りはインドである。そのインドの北部中部には、ヒンディー語以下の多くの言語が広まっている。それらはサンスクリット語系統の言語である。サンスクリット語はインドーヨーロッパ語族に属して、ヨーロッパ語の仲間だから、日本語との起源的な関係を求めても、そこによい結果が得られるはずはない。というわけで、インドについての探索は北部インドにおける否定的状態によって、そこで止ってしまった。しかし実は、そのサンスクリット語系の語群の南に、別の語族があったのだった。」
「こうして私はドラヴィダ語に足を踏み入れた。だからドラヴィダ語と日本語との関係について、日本人として四人目に着手した勘定になる。しかし、次の点で先人たちと違う道を歩んだ。
その一つは、ドラヴィダ語族というような広大な語族全体を比較研究の対象と設定しなかったこと。その語族の中の具体的な一言語、タミル語一つに対象を特定したことである。それは、DED(引用者注『ドラヴィダ語語源辞典』を読むうちに、タミル語についての訳語が、他に比べて格段に詳しいことを見たからであった。一語についてあれだけ詳しく訳語があげてあるのは、背後に相当大がかりな詳細な辞典があると私は見当をつけた。言語の比較研究は、簡単な小辞典とか、単語集のようなものを相手に進めるのでは、とても不確実で駄目である。大辞典のあるような対象でないと確かな研究はできない。その観点からタミル語に注目したのだが、たしかに、タミル語には十万語を収める『タミル語大辞典』があった。一九八〇年、はじめてマドラス大学にコタンダラマン教授を訪ねて、タミル語と日本語との比較語彙表をお見せして点検を願った折に、マドラス大学の副総長ダモダラン博士は、その手に入れ難かった大辞典を私に贈ってくれた。
単に大辞典の有る無しで対象をタミル語に特定したのではなかった。その二として研究に対する私の見通しがあった。
言語の系統の研究には、単語の対応もさることながら、結局のところ『比較文法』が最も重要なのである。日本語のような構造の言語では助詞・助動詞が文法上大切な役割をする。だから助詞・助動詞を含めての文法の比較によって始めて『同系語』としての証明が確定される。ところが助詞・助動詞は、日本語の場合、方言によって相違が甚しい。だからドラヴィダ語というような広汎な『集合体』を漫然と相手にすると、その中のさまざまに相違する助詞・助動詞の中のどれを取りあげて対応の有るなしを判断してよいか、それを確定できなくなる。
学者によっては『ドラヴィダ語の祖形を用いて比較する』などという。しかし『祖形』とは、すでにヨーロッパの言語学者がいうように、個々の研究者の作り出すフィクションにすぎない。私は日本語の歴史の大要を知っているが、日本語の助動詞は奈良・平安・鎌倉・江戸・現代と時代的変化が甚しく、奈良時代の助動詞とその直系の現代日本語の助動詞だけを比較して、それによって古代日本語と現代日本語との同系性を立証せよといわれたなら、それはかなり困難である。それほど助動詞の時代的変化は大きい。また、現代日本語の方言の、地方によって実に多くの変種のある助詞・助動詞のどれを代表としてとるかについての決定は極めて困難である。それはドラヴィダ語にとっても同じはずである。
こうした実際的な手続きの上の困難を知るものは、何千キロ離れた言語を『語族』という単位で扱い、その助詞・助動詞の対応を立証することが、むしろ絶望に近いほど難しいだろうということを予想する。
つまり、比較の対象として『語族』を取り上げることは決して適切でない。むしろ誤謬に近い。だから私はその道を選択しなかった。私はドラヴィダ語族の中から一つを選び、それを詳細厳密に研究することが必要と判断し、最も古い時代から多量の言語記録を持つタミル語を取り上げ、一貫して日本語との関係を追求することにした。
第三には対応語と決定する上での手続きの相違である。日本語の比較研究では、一般に、研究者は、まず相手の言語の辞書を頭から見て行って、語形と意味とが日本語と類似する単語を探す。しかし、その程度で『比較研究』を行うと、日本語のように子音と母音の数が少ない言語と相手の言語との間では、本来関係ない偶然の類似と、本質的な同系語とを見分けることがむつかしい。それだけでなく、両者の意味の微妙な相違を見逃すことが多い。
偶然似ているように見えるだけの単語を対応語として数えあげてしまう誤りを避けるには、対応語の実際の古典での実例を検索し、実際の文脈の中でその単語がどう使われているかを見て、日本語の用例と比較し、その上で『対応語』か否かを確定すべきだと私は考えていた。」
「日本語とタミル語の文法構造は、全体として非常に似ていて、大部分が共通である。項目としてそれを数え上げてみる。
@名詞の後に助詞を使う。
A動詞の後に助動詞を加える。『花咲きぬ』『花咲かむ』のように。
B『雲は山を隠す』のように題目語−目的語−動詞の順に配列する。
C『雨降ろか』『共に行かむ』のように疑問や勧誘などは文末に助詞を加える。
D関係代名詞を持たない。
E代名詞は日本語がコレ・ソレ・アレのような三つの区別を持つに対し、古いタミル語も近・中・遠の三つの区別を持つ体系をなしている。
F相違点としては、タミル語は動詞の後に人称接辞をつけるが、日本語はこれを持たない。
タミル語の人称接辞は後の発達だといわれている。
@からDにわたる性格は、実は朝鮮語、モンゴル語、トルコ語などとおよそは共通である。しかし、同系を立証するにはこのような構造上の特徴が共通だというだけでは不足で、個々の助詞や助動詞の、音韻が規則的に対応し、その上、用法も同一であることが示されなければならない。
そこで、日本語とタミル語の助詞と助動詞とを全面的に比較すると、基本的な助詞・助動詞はほとんどすべて鮮明に対応する。その大部分についてはすでに『日本語以前』(岩波新書)に一〇〇ページにわたって書いた。だからここでは繰返さないが、助詞や助動詞の対応を一つも提示しないのは妥当を欠くので、いくつか挙げることにしたい。」
「ここに挙げた助詞の数は十二個にすぎない。助詞は複合して新しく増加することもあるから、全体として何種類くらいあるものなのかを試みに源氏物語について数えてみると、数え方にもよるが五十種類程度に達する。その五十種類の助詞の源氏物語での全使用度数を数えると約一一万二八〇〇回である。ところが右にあげた十二個の助詞は使用度数合計が八万一〇〇〇回余りで、助詞の全使用度数の約七二%を占める。そして、この十二個の助詞のうち、十一個は現代でも使われている。ということは、この十二個の助詞は日本語の助詞の骨格をなす中心的な、長命な助詞で、それが音韻の上でも使用法の上でも明確にタミル語の助詞と対応する。これは両言語の同系性を判断する上で極めて重要な役割を演じる。このような対応は、日本語と同類の文法構造を持つという、朝鮮語、モンゴル語、トルコ語その他との問には、証明できない事実である。」
「ともあれ、以上のようにタミル最古の歌集サンガムの内部及びそれにつづく時代の歌の韻律は徐々に年代的変化をとげており、サンガム後期から次の世代にかけて発展したヴェン調の韻律の中に、日本の和歌の韻律と全く同じ形式のものがあり、その実例も多い。
ただし、ヴェン調では頭韻をふむのが一般であるのに対し、日本の歌には頭韻はない。また、日本語もタミル語も脚韻をふむ技巧は成立していない。いずれにしても五七五七七を中心とする和歌の形式と同型の歌が、古典時代のタミル語に多数存在することが明らかになった。
さて以上述べて来た単語の音韻の対応、文法の構造、助詞・助動詞の対応、歌の韻律の一致は、日本語とタミル語の同系を証明する証拠である。だが、タミル語と日本語との時間軸を考慮に加えた全体的な関係についての私の見方は、対応語と『物』との関係も含めて第四章で述べることにしよう。」
「私は第一章で、日本語とタミル語とが同系の言語であるという証拠をあげた。それは意味の共通する単語を数多く見出し、その単語の語根の間に厳密な音韻の対応があることを明らかにするという、比較言語学の正統的な方法によったものである。
しかし、二つの言語が基本的単語について対応し、また基本的文法の構造が一致し、形態素の音韻が対応するということは、この二つの言語が同系であるということを立証できただけのことで、この二つの言語がいつ、どこで分離したのか、合流したのかという種類の事柄については、何も証明する力がない。
従って、日本語とタミル語が、関係を持っていたのはいつか、また分離したのはいつか、どこでかという問題を考えるためには、別の方法によって探求して行かなければならない。
そこで私は、数多くの対応語の内容を分析した。日本語とタミル語の問の関係は、単に言葉が対応し、同系だということだけが認められるのか、それともその単語の表現する具体的な物が実際に日本とタミルという七〇〇〇キロも遠く隔った土地に平行的に存在するのか、あるいは行為が平行して実際に行われたのか。つまり単語の音韻の対応という現象を、あらたに物の問題、事の問題として把え直して、上地と時間にからめて検討した。その結果をこれから述べて行きたい。
例をあげて説明しよう。例えば『行く』とか、『見る』とか『分ける』とか『悲しむ』とかいう基本的動作や、『手』『足』『額髪』あるいは『太陽』『水』という基本的物体に対応語が見つかったとしても、これらは、およそ人間が生きて、存在している限り、どこにでも、あるいはいつでも生じうる、また存在するはずのものである。だから、これらに関する単語が二つの言語の間に対応しているならば、それはその二つの言語が同系の関係にあることを立証する上では重要な役割を果す。けれども、その二つの言語の関係を、時間という軸にあてはめて考えるときには、その二つの言語がいつ関係を生じたのか、いつ分離したのか、どこで分離したのかなどの問いには、その事実は直接答えるはずはない。
ヨーロッパの例を見ると、インド・ヨーロッパ語の故郷はとこかといういわゆる『原郷問題』がある。これは土地と時間にかかわる問題で、長くヨーロッパ言語学界の宿題となっている。この問題に対しては『手』とか『足』とかの対応語は何の役にも立たない。そこで例えば『ブナの木』を表現する単語がインド・ヨーロッパ語の中のどの分派の言語にも共通に存在するということに目をつけて、インド・ヨーロッパ語族の原郷には、ブナの木があったに相違ないと推論する。ブナの木の生育には土地の上での制約がある。だからインド・ヨーロッパ語の故郷はブナの木のあったところ、それはどこかと考える。これなどは、まさしく、対応語の内容に立ち入ることによって、初期のインド・ヨーロッパ語の時間的、地域的な関係を明確化するに役立つだろう。
そのような方法で対応語の内容を検討して行くと、日本語とタミル語との対応関係についての時間的制約を明らかに限定できるものがある。
例えばアハ(粟)、イネ(稲)、コメ(米)、モチ(餅)、ハタケ(畠)、タンボ(田んぼ)というような単語が日本語とタミル語の間で対応する。ところが日本で穀物の生産が始まったのは縄文晩期の後半のことである。一般論としては縄文後期までには、日本には稲作は行われなかったといえるようだ。
すると、この粟作、稲作に関する単語についてタミル語・日本語間の対応が明確だとすれば、日本に粟も稲も、米も、餅もなかった時代、米をツクという動作も行われなかった時代に、単語だけ、アハ、イネ、コメ、ハタケ、ツクなどという形が一般の人々に記憶されていた、あるいは用いられていたという事態は生じるだろうか。そんなことはあり得ないだろう。
しかしこの問題を追いつめて考え、何かの答えを出す事は後にゆずり、右のような問題があることを心得た上で、対応語の中味を詳しく分析して、どんな物と事とが日本と南インドにあったかを調べてみる。どういう種類の物が新たに日本に見出されるか、それに平行するどんな事実が南インドにあるか、それらをすべて見渡した後で、その事物や行為の平行と、言語の対応との結びつきがあるかないか、どう判断すべきかを考えることにしたい。だから、以下にまず日本の事実を挙げ、それと平行する南インドの事実を示して行くことにする。」
「日本の穀物の生産は、いつから始まったか。それは、日本人が自分から始めたのか、外から伝来したものか。外からとすればどこからか。これは日本考古学の基本的な問題の一つで、今も論義の的であり、新しい発掘、新しい研究手段の成果が、しばしば新聞を賑わしている。
日本では穀物の生産が始まると、社会の状況はそれに伴って一変した。縄文時代には東日本の人口が西日本よりはるかに多かったのに、米の生産を早く始め、気候の上からその生産に有利だった西日本の人口は弥生時代に爆発的に殖えた(一股に穀物の安定的供給が始まると、人□はひどく増大するという)。それだけでなく西日本は東日本に対する政治的優位を確立した。その結果として、後に西日本の主権者は東国人を防人として徴発し、北九州の防衛のために配備する制度を作って実行した。
新しい穀物生産の開始によって縄文的世界は終った。そして大きな変化が日本に生じた。しかしそれは全国一斉に何年何月何日を期して終ったというようなものではなかった。早く粟作や稲作という新技術を広めた地域があり、その近隣でも粟作・稲作の導入の遅かった地域がある。北九州の最も早い時期を紀元前七〇〇年と見る意見がある。今日では前四〇〇年とするのが普通らしい。稲作は最初は、縄文文化の中に広まって行ったのだから、稲の圧痕のある縄文土器が出土したり、縄文土器を伴った水田の跡が発見されたりするのは当然である。概していえば、西日本は東日本よりも一〇〇年あるいは二〇〇年以上早く稲作を広めていたらしい。」
「旧版の『日本語の起源』に私は次のように書いている(同書一二四ページ)。
その時代は、はじめて稲を作り、機織を持ち、金属器を使い、巨大な石を置いた墓に人を葬り、甕の棺に死人を入れて埋めるなど、縄文式時代とはまったく異なる文化の時代を作り出した。それは最も早く北九州に栄え、やがて近畿地方に発展したということも、次第に明らかになりつつある。
その文明的変化が縄文晩期から弥生時代初期にかけてそろって生じた様子を見ると、これは内発的に、自発的に、みずからの文明の発展として日本人が作り出しだのではなく、外部からの刺戟、あるいは侵入として開始されたものと見るのが妥当である。その外部としては南朝鮮を擬するのが一般的な考えであった。私は朝鮮語と日本語との間の、農業関係の対応語を挙げ、上の九語の表を示した。
これは日本と南朝鮮との農業技術上の共通を示す証拠といえる。文明は朝鮮半島を経て日本に展開したと見るのは当時の考古学界だけでなく、現在もその頃と同じく、考古学は朝鮮との関係に注目し、着々と証拠を集めている。例えば、南朝鮮の稲作は松菊里遺跡であ紀元前七世紀であることなどが明らかにされている。日本の農耕の開始期の遺跡として知られている佐賀県唐津市の菜畑遺跡の田んぼ跡から出た杭の炭素14の分析によれば、それはBP2630±30つまり紀元前六八〇年に属するという。多くの研究によって、日本の稲作の開始の時期は次第に古くにさかのぼりつつあり、中には、縄文後期に及ぶものもあるというが、多くは縄文晩期(紀元前一〇〇〇年以後)の後半という範囲に属する。
弥生時代ことにその後半に日本と南朝鮮とが文明的技術において交渉の深かったことは疑う余地がない。おそらくそれは、中国が朝鮮に楽浪四郡を置いた紀元前一〇八年以降決定的となっただろう。だから稲作も朝鮮から来たとする意見もあるが、しかし朝鮮半島が稲の発生地、自生地ではあり得ないと考え、稲作の伝来地を中国に求め、山東半島から遼東半島へ、朝鮮へ、そして北九州へという経路を考える説と、直接江南から日本へと考える説などがある。」
「近年の研究では、揚子江下流の河姆渡遺跡から発見された大量の米は紀元前五〇〇〇年頃のものである。揚子江をさかのぼる地域一帯には紀元前四五〇〇年、あるいは紀元前三〇〇〇年という米を出土する遺跡が点々と存在する。それにつれて雲南省が最古の米作地だとする説に対しては最近は反対意見がかなりあるらしい。ともかく、揚子江沿岸地域には、日本よりはるかに古く稲作が行われていた。だからそこから日本に稲作が来たのだろうとする意見がある。しかしここで明確にしなければならないのは、世界で最古の米はどこで栽培されたかという問題と、日本の弥生時代の米はどこから来たのかという問題を区別することである。私は日本の弥生時代の米がどこから来たかを問いかけている。
そこでここに問題が生じる。揚子江下流の河姆渡地方に紀元前五〇〇〇年代に稲作があったとして――そこには長い米(インディカ)も短い丸い米(ジャポニカ)もあるというが――それが紀元前一〇〇〇年紀まで、どうして日本に伝来しなかったのか。それが紀元前一〇〇〇年紀になって日本の北九州に伝来したのは何故か。それが一つ。次には稲作は直接中国から来たのか、朝鮮を経て来たのかということである。こうした問題がある。これについて研究の新しい方法がいろいろ工夫されている。だが私には、いま一つの手法が意識にのぼる。それは言葉からの接近である。」
「稲作の伝来は日本人の生活に重大な転機をもたらした事件である。また稲作の広まった弥生時代――それはおよそ七〇〇年あるいは八〇〇年以上の間つづいたのだが――その時代には、金属器の使用、機織の一般化、巨大な集合墓地の発生、環濠集落の発達という事件も並んで生じた。これはどの大事件が集中して展開し、新しい食生活、衣生活、道具の使用が広まって全国に及んだのに、これまでの研究では、日本の近隣の言語の中にイネ、コメ、アハ、アゼ、タンボなど農耕に関する日本語について、安藤広太郎氏以下の方々の熱心な探索にもかかわらず、中国語からも朝鮮語からも、どこからもたしかな共通語を数々見つけることはできなかった。」
「ここで私は日本語の農耕・農産食品に関する単語が、タミル語と数多く対応する事実をとりあげて示したい。それを一覧表にして次に掲げる。この中には先に日本と朝鮮の農業関係を示すとした九語の中の四語も含まれているが、耕作地、作物名、食品名、動作その他、併せて二十数語がある。
これらは、一見したところでは似ていないように見える単語を含んでいる。しかし第一章で述べた『語根の厳密な音韻の対応』にかなうものばかりである。この単語について、多少の説明を加えよう。
(中略)
日本の考古学では日本における穀物生産の開始として稲作が重視されている。それは水田の趾が明確に判明するからであり、また炭化米、あるいは土器に籾の圧痕が残存するから、それを証拠とするのである。しかし粟作の開始あるいは展開についてはあまり研究がないようだ。それは粟作の痕跡が明確な形で認識しがたいからであったらしい。また花粉分析の手法によって縄文晩期には稲の花粉がかなりの量で各地から発見されていても、花粉分析では、稲の花粉と粟の花粉とは区別できなかったからでもあるらしい。しかし技術は進歩するから、いずれ縄文晩期に各地で発見される『稲の花粉』と『粟の花粉』とを区別できるようになるだろう。
縄文晩期にはまず焼畑による粟の栽培があり、それがやがて水田稲作へと進展したという場合も考慮に加えるべきではなかろうか。南インドでも紀元前後のサンガム文学に徴すると、粟の栽培と陸稲の栽培とが共存していたようで、後に稲は水田で造られるようになったらしいとサンムガダス教授の話である。このことを考えると、日本では、シナイ、シネ、イネがはじめは『粟』を指していたが、農作の技術が進み、用意も行き届くようになり、作物が粟から稲へと転じた後も、『穀物』として理解されていたイナ、シネという単語によって、作物としての『稲』を指すように移って行ったということがあるのではなかろうか。
(中略)
このように穀物生産にかかわる数々のタミル語と日本語とが対応の関係にある。上に挙げた五語は、タミル語、日本語、朝鮮語の三言語に共通である。このような事実は、朝鮮の稲作も、タミル・日本との連鎖の一環であったかもしれないことを示唆している。それについては後で述べるとして、日本語とタミル語との間の二十数語の稲作関係の単語の対応は、日本の稲作がどこから来たかを考える上で見すごすことのできない材料である。」
「ヴェーラプラムの発掘は一九七八年から八〇年まで、ビルラ考古学文化学調査研究所の指揮のもとで行われた。その結果、紀元前五〇〇年から紀元四〇〇年にわたる九〇〇年間のその遺跡付近の食習慣、農業についてかなりのことが判明した。
ヴェーラプラムの遺跡から発見された食品は、大麦、米、コド粟、エンドウ豆、アズキ、フジマメ、黒アズキ、ナツメ、ウリ、唐人ビエ、四国ビエ、モロコシ、粟、紅花、ヒマとゴマ、チーク材である。遺物は保存状態がよく現在の作物と詳しく比較できた。これによると紀元前一〇〇〇年紀を通じて、夏のモンスーン期には米、コド粟、フジマメ、黒アズキを栽培し、冬の穀物としては大麦とエンドウ豆が代表であった。これは当時の人々が二毛作の技術を知っていたことを示すもので、当時のデカン高原で普通に行われていた農作は今日と大体同じであることが推測される(この作物を見ると粟、米、豆などで、古代の日本の作物にかなり近いことが知られるのは、極めて注意される)。
この遺跡などの研究によって巨石時代の人々が定住生活を営んでいる農業を行う人々であったことが分り、以前想像されていたような、単に馬に乗った戦士だちなどではなかったことが確認された。
カジャレ博士は大よそ以上のように記して、ヴェーラプラムの遺跡から出た炭化米二十五粒について写真を示し、左表のような数値をあげた。
私はこの論文のコピーを古代米の専門家佐藤敏也教授にお送りした。佐藤教授はこれらがオリジナル・データを欠くので、判断がむつかしいとされながらも、この米はジャワニカ型のものと考えられるという返事を下さった。(中略)
ジャワニカとは、米を@インディカ(長粒が多い)とAジャポニカ(丸粒が多い)とBジャワニカ(丸粒、長粒ともにあるが、大きい)の三つに分けるその一つで、最近の研究では、AとBは性質が近いのでAは温帯ジャポニカ、Bは熱帯ジャポニカともいっている。熱帯ジャポニカは弥生時代早期という宮崎県えびの市の桑田遺跡から発見されており、鎌倉時代までは、日本の水田から見出されるという。日本の米は後に温帯ジャポニカに統一された。この事情を考えると、ヴェーラプラムの米がジャワニカであるとすれば、興味ある事実といえる。
古代インドの米については渡部忠世教授もいろいろ調査されており、インドやスリランカで十世紀より古くにさかのぼると、丸粒の米が増加して来ると記されている。
以上見て来たように、弥生時代の日本の稲作と、南インドの巨石文化期の稲作との間には、@単語の上で対応が多数あり、A実物について、類似する稲粒の平行的存在が認められる。これほど多数の農耕の単語の対応は、朝鮮語との開の農耕具の対応をはるかにしのぐもので、朝鮮語との間の単語の対応が日本と朝鮮の開の農耕の共通性の反映であると認めるのならば、タミル語と日本語の開の農耕の単語の対応も十分な考慮の対象とすべきものである。」
「このような稲作の平行を考えるに当っては、日本とタミルの間の豊作儀礼を取りあげて考えに加えるべきであろう。これについてはすでに『日本語以前』に詳しく書いたので、それを御覧いただきたいが、ここにその要点だけを繰返すことにする。
ことは一月十五日の小正月の行事である。一月十五日は古い暦法では満月の日で、満月の日は月のはじめ一日に当っていた。従って旧暦の一月十五日は一月の一日つまり元旦であった。その行事を日本とタミル(広くドラヴィダ語地域も同じ)とで比較一覧してみよう。
日本
@一月十四日、夕方にトンド焼きをする。
A一月十四日、古い小屋を焼いて新しく作る地方があった。
B注連縄を張り、それに紙を垂らす。
C門松を立てる。
D十五日、若水を汲む。井戸に餅を供え、桶に花輪をつける。打ち米を撒く。御幣を立てる。
Eアズキ粥を炊く。(土佐日記に記録されている)
F九州南部、鳥取県、京都府などでは爆竹をならす。
Gガラスに餅を投げ与える。青森県上郷村雀ケ平では『シナーイ、シナーイ』と呼びながら粟餅をカラスに投げ与えた。
H丸い餅を神に供える。餅は二つまたは三つ重ね、頂上に裏白という葉を供える。
I三河万歳、大和万歳が家々を廻り、目出たい言葉を述べて、小銭をもらう。
J柿や蜜柑の木を、小正月の粥をかきまわした棒で打つ。『成らないと切るぞ』という。また陽物の形の棒で、女性の尻を打った。これは多産を祈る行事である。
K馬や牛に御馳走する。(青森県下北)
L実家に集まってお墓参りをする。
M一月十六日にヤブ入りをする。新しい着物(お仕着せ)を主人からもらい、夜は賭けご となどで遊ぶ。
N1一月十六日には集まって踊りをする。青森県下北では、米つきの踊りをする。
南インド
@一月十四日に古い物を集めて焼く。
A一月十四日、ジャフナでは牛小屋や柵を焼く。
B十五日、縄にマンゴウの葉をつるす。
Cバナナの木を切って門に立てる。
D(十四日に)井戸を洗う。新しい壷をおろして、それで水を汲む。壷に花を入れる。
E若水で、豆を入れた赤米の粥を炊く。
Fジャフナ付近では爆竹をならす。
G炊き上った粥をまずカラスに供える。
H砂糖と米を混ぜて、米の粉の練ったもので丸く包み、蒸して山の形に重ね、神に供える。頂上に柑橘類を置く。
I神の使者という少年が家々を廻り、寿の詞を述べ、鐘を鳴らし、太鼓を九九き、歌を歌って小銭をもらう。
Jココナツ、マンゴウの樹の根元を、粥をかきまわした棒で打ち、『なるか、実るか』などと言う。
K牛の首輪を取り加え、好きな飼料をたべさせる。
L一月十五日までに故郷に帰って、先祖に粥を供える。
I主人からお仕着せをもらう。新しいサリーやシャツなどをもらう。
I一月十六日夕方に女性一〇〇人くらいが輪になって踊る。男は棒打ちなどで遊ぶ。」
「右に見たように、稲の豊作を祈願する元日の行事は、南インドと日本で細かい点まで平行的に行われており、そこで発せられるタミルの祈願の詞(沸き立て、豊富に生まれろ)と日本のホンガ、あるいはホンガラという単語は使い方の上でも、音韻の上でも対応している。これは日本とタミルの稲作が単に行事として平行するだけでなく、起源的に一致するものであることを証する有力な証拠であろう。
繰返すが、私は世界で最古の米がどこで栽培されたのかということを問いとしていない。日本の弥生時代の米はどこから来たか、その出発地はとこかを問いとしているのである。」
「弥生時代の墓制の特徴の一つは巨大な集合墓地が作られたことである。こういう集合墓地の成立する状況を世界的に見ると、これは農耕生活の進展ときわめて密接な関係がある。ヨーロッパ、北アフリカ、西アジア、インド、中国などの諸地域で集合墓地が確立したのは、いずれも農耕生活の時代に入ってからであった。集合墓地の成立には、定住、もしくは安定した一年周期の生業を持つことなどが必要な条件である。全世界を見るときに、穀物生産の開始が紀元前一万年ともいうメソポタミア地域に較べて、紀元前五〇〇年前後というほどにはなはだしく遅かった日本は、集合墓地の形成においても最もおそい地域の一つなのだが、ともあれ、集合墓地は北九州から始まった。
日本では最も早く農耕の開始された北九州の弥生時代の墓制として、日本の考古学では次の項目を立てている。
@支石墓、A土墳墓、B甕棺墓、C箱式石棺墓、D木棺墓、E墳丘墓
これを南インドの巨石時代の墓制と対照して一覧表を作ってみる(上図)。
日本の考古学は弥生時代の北部九州の墓制をもっぱら朝鮮と比較するが、その主要な部分は、タミル地方を中心とする南インドの巨石時代の墓制の中におよそ見出される。
考古学では、物や事項を比較対照するときに、ただ一つのもの、ただ一つのことを取り出して比較して類似があるかないかを考えずに、それに関連する事項をセットとして取り上げ、セット全体として類似があるかないかを考える。例えば『高坏』を取り上げるならば、それ一つだけを比較するのではなく、『高坏』が祭具として他の何と組合って使われるかを、セットとして総合に考察する。これは正当な、必要な考え方である。それならば、墓制についても一つ一つについて別々に判断を下すのではなく、墓制全体を一つのセットとして比較し考察することが必要であろう。」
「かくてAは狩猟に関しての祈願、Bは農耕の豊作に関しての祈願。それをこめて狩りへの出発に当って、壷に酒を入れて神に供して祈る。あるいは遺体を葬る甕棺や、墓に食糧を供える壷に、その記号をつけて一緒に埋める。
つまり、自分たちの狩りや農耕の収穫の豊富を祈り、またあの世で食糧を豊かに得る生活ができるように願う。そのような広い意味の『吉祥』を祈るのがグラフィティであり、また記号文であったのではあるまいか。日本では弥生中期以降には漢字が次第に流入した。弥生中期の代表的遺跡の一つ福岡県、立岩遺跡の甕棺なとからは、『日有喜』あるいは『清白』などの銘のある鏡が出土している。これらの文言はみな吉祥を求める心の表明である。
スリランカなどのグラフィティには、なお別種と思われるグラフィティもあり、南インドのグラフィティには別の意味のものもあるらしいが、日本で文字流通以前の時代に使われた記号文は、およそ右に取り扱った。その趣意は吉祥を求めるところにあると私は見ている。
この種の記号は韓国のほぼ同時代の無文土器その他には発見されない。文字を持っていた中国にはもちろん存在せず、ラマンナ博士の『南インドと東南アジアの巨石文化』にも、グラフィティはインドシナ、マレーシア、ジャワ、スマトラ、セレベス、ボルネオ、フィリピン、台湾にはないと記載されている。
以上述べて来た事柄の中で、個々のグラフィティや記号文が何を表わすか、何を意味するかについては、研究者によって見解の相違が当然存在するだろう。しかし、壷の同一の部位に同形の記号が、南インドと日本とに平行的に多数存在する事実そのものは確実である。」
「この章で述べたことをまとめておこう。私はまず日本の弥生時代を特徴づける文明の事実、稲作・墓制・金属使用・機織に関係する対応語を取り出して、その文明的事実を検分した。すると、文明にかかわる『物』を表現する単語は、単に『言葉』だけがタミル語と対応するのではなく、その言葉の表わす日本の物、あるいは事は、およそ南インドに具体的に平行する物や事として見出された。
南インドのいわゆる巨石文化の時代は、紀元前一〇〇〇年から紀元三〇〇年という時間的限定を持つが、日本の弥生時代もそれよりやや遅れて紀元前数百年から紀元三〇〇年までという、ほぼ重なり合う時間の限定を持っている。そして文明の上では両者は、以上に個々に見て来たように、具体的な平行を示している。紀元前一〇〇〇年よりもっと古くは、これらの文明は南インドに存在しなかった。紀元前数百年よりもっと古くはこれらの物は日本には無かった。だから南インドと日本との言葉の対応と、物の平行とは数千年も昔には生じ得ず、ごく限られた時間の中で生じたのである。このことの意味は、第四章で明らかにされるだろう。」
「第二次世界大戦終結以前には、日本では嫁取り婚が一般的であった。女は男の家に嫁入りして、夫の家の人間になった。しかし日本の嫁取り婚は室町時代以後のことであったようで、平安時代以前は、女が男の家に取られてそこの家族となることは、宮廷のような帝王の威厳が大きかったところを除いては、一般にはなかったらしい。平安時代までは土地家屋などの不動産は母親から娘へと相続されていたようである。従って平安時代には、結婚式は娘の方で行われ、男は婿に取られるのが普通だった。それをさかのぼる奈良時代の結婚は、『妻問い婚』といわれるように、男が夜になると女の家を訪れて結婚し、翌朝自分の家に帰って働くのが普通だったようである。女は男の来訪を待つ生活を営んでいた。――もっとも、娘の親が世を去った後には、親の家に夫婦で同居するようであるが。
ともかく日本の古代の結婚の仕方は『妻問い婚』で、そう考えて読まないと理解できない歌が万葉集に多くある。例えば。
君待つと我が恋ひをればわが宿のすだれ動かし秋の風吹く (万葉一六○六)
なども、男の来訪を待っている女性の歌である。
ところがサンガムの歌を見ると、やはり男は女を訪問して結婚し、朝になると男は自分の家に帰る歌がある。スリランカ北部のタミル語地域で、サンムガダス夫人の親戚の男性は、現に、夜になると妻の家に行き、朝帰って来て自分の生家の畑で働いている由である。
この妻問い婚の慣習は、インド大陸のタミル州では消滅している。西隣りのケララ州、東隣りの海を隔てたスリランカ北部には、なおその慣習が続いている地域がある。タミル州でこの結婚の方式は消滅して久しいので、学者の中にも二〇〇〇年前の結婚の仕方は、すでに婿取り婚ではなかったと考えている人もある。しかしそれではサンガムの歌の文脈が理解できないものが少なくない。つまり、結婚の方式は、サンガム時代と日本古代では平行している。」
「日本人の世界観あるいは倫理、行動の原理など、精神の世界の軸となった言葉はどんなものであるかと顧みると、多くは漢字による漢語である。戦前ならば『忠』とか『孝』とか、あるいは『義理』とか『人情』とか、さらにさかのぼれば『浄土』とか『極楽』とか、『地獄』とか。世界認識あるいは行動の原理を言語化した言葉は多く漢語である。日本に漢字・漢文が伝来して、それを消化した最初の日本人は、国として中国との交渉を文書によって行えるようになろうとした王族であっただろう。当時の東アジアの文明の代表者だった中国と国家的な交際をするために、王族は国家の代表者として漢文を読解し、かつみずから作文をして、交流を達成しようとした。貴族・役人は競って漢文を学んだ。漢文の日本語としての読み方、つまり訓読文の文体は、後の日本語の文章の基礎となった。
しかし、漢字が日本で果した本当に重要な役割は、そうした外交上の技術的な道具、文章作法上の典拠としてであるよりも、漢字を媒体として日本に仏教と儒教を導入したことにあった。仏教ははじめは、国家鎮護のための呪法として取り入れられたが、やがては民衆が救済をうける浄土が存在するという世界観を人々に教え、生きるこの世の苦しみから人間を解放するためのものとなった。当初、宮廷は莫大な国家予算を投じて仏閣の建立につとめ、多くの僧侶を養成したが、平安時代以後に至って仏教は次第に民衆の生活に根をおろすようになった。この場合、日本の仏教はすべて輸入された漢字の経典の読誦を通して学習された。
漢字はもう一つの役割を持った。それは儒教の思想を日本人に伝えたことである。儒教は中世以後の日本人の倫理思想の秩序づけにことに大きな役割を果した。つまり漢字は、国外向け、国内向けを問わず文章を起草するための必要な資材としての役割を負うとともに、仏教と儒教という思想と倫理の骨組を日本人に与え、それを維持し展開させる媒体として一五〇〇年にわたって機能してきた。」
「江戸時代になって、国学者が日本とは何かを知ろうとして、『儒仏以前の日本を明らかにしたい』と考えた。つまり漢字以前の日本、すなわち中国を経た仏教、および中国において育った儒教によって文明化される以前の日本の姿を明確にしたいと考えたのであった。本居宣長は古事記を精読し、それを和語によって再表現することに努めた。彼らの考えた和語とは純粋の日本語であり、それは他国の文明によって彩られることのない、それこそ土着の言語である。
その土着の言語によって語られた古事記によれば、日本とは天地創造の神々イザナキ、イザナミ以来、その一系の天皇家が平和裡に統治する、稲穂の満ちた国である。宣長はそこに非中国としての日本のアイデンティティがあると考えた。中国の最も古い歴史を書いた『史記』によれば、中国では国の最初から人々は相争い殺戮し合い、権力を手中に収めるために権謀術数をこらしている。日本はそういう国ではないのだという主張が宣長の到達点だった。日本は天地創造以来、『葦原の瑞穂の国』(稲作の豊かな平和な国)として把握された。
しかし、考古学の発達によって、日本に稲作が存在したのは古くとも紀元前七〇〇年、さらに古くても紀元前一〇〇〇年以上にさかのぼることは、全体としてはないことが明らかになった。その時期以前には『葦原の瑞穂の国』は日本の地に存在しなかったのである。考古学は国学者の日本観を打ちくだいた。
では『本願』とか『浄土』とか、『忠』とか『孝』とかいう漢語を日本人の精神の支点からはずしたとき、つまり儒仏以前に立ち戻ったとき、日本人は何を信じ、何を求め、精神と生活の支点にどんな言葉を置いていたのか。それについて私は『日本語をさかのぼる』(岩波新書)において多少の考察を試みたことがある。しかし、そのような、単に漢字渡来以前の様相だけが問題なのではない。漢字渡来以後も仏教、儒教に伴う漢語と並んで日本人の精神生活の軸となった言葉、『漢語に依らない、精神の支点』にはどんな言葉があったのか。私はそれを選び出し、各分野に分け、年代に従って取り上げてみようと思う。」
「第一章で、日本語とタミル語とを比較した結果、次の五点が確かめられたと思う。
(1)すべての音素にわたって音韻の対応がある。
(2)対応する単語が基礎語を中心に五〇〇語近くある。(本書には三〇〇語ほどを掲出した。)
(3)文法上、ともに膠着語に属し、構造的に共通である。
(4)基本的な助詞・助動詞が音韻と用法の上で対応する。(係り結びも一部共通である。)
(5)歌の五七五七七の韻律が共通に見出される。
巻末の単語対応表の中には詳しい説明の要るものもあるが、『日本語以前』に説明したものが多く、すべて雑誌『解釈と鑑賞』に詳述してある。本書では文法の対応も詳しく記述する紙面の余裕がなかったが、かなり詳しい説明は『日本語以前』に書いたので、精確な吟味を欲せられる方はその方を見て頂きたい。
以上の五ヵ条は、日本語とタミル語が同系の言語であると考えることによってはじめて理解できることである。これによって日本語について比較言語学が要求している条件にかなう、一つの同系語を特定できるようになったといえるだろう。」
「言語の歴史を見て行く上では『基層言語』を考える必要がある。ある地域に一つの言語が使われていたとする。そこに別の言語が入って来る。それは多くは文明的に、あるいは軍事的に強い集団の言語である。受け入れ側の人々は生活の利益のためにその新しい言語を覚えて行き、何世代かの間にはやがて以前の古い言語を忘れて新しい言語に同化して行くことがある。しかし、以前の古い言語が持っていた音韻の特徴、造語法あるいは文法形式の一部分などがすべて消え去ることはなく、それらが新しい言語体系の中に生き残って行くことがある。その場合、以前の言語を『基層言語』という。
日本の地には当然何かの言語が使われていたはずである(Aとする)。そこへBという言語が新しい文明を持って入って来たとしてみよう。土着の多くの人間は新文明を取り入れるためにBを少しずつ覚える。そして次第にそれに同化して行く度合が強くなる。その際、Aという言語が基層言語である。そのAは、先に述べた巻舌の音や母音の長短の別や単語が子音で終る特性を持っていなかった。そしてBの行きわたった後までもその古い性格が生き残ったということはないか。
では日本の周辺に、タミル語と異なる原始日本語の特性に共通する性格を持つ言語は実際に存在したのか。
南方にオーストロネシア語族と一括される言語がある。オーストロネシア語族は、インドネシア語、メラネシア語、ポリネシア語などに分れて西南太平洋に広く分布している。その最古の母音体系はa、i、u、?の四個であったと、デンプヴォルフが論定している。
(中略)
つまり、日本に非常に古く、基層言語としてポリネシア語族の一つに近い音韻組織を持っていた何らかの言語があったところへ、タミル語が覆ったという事情はなかったろうか。
基層言語の実例を求めると、フランス語の成立におけるケルト語と俗ラテン語との関係をあげることができるように思われる。
フランス語を使う地方には、以前はケルト語が広まっていた。そこにラテン文化が進出して来た。ラテン文化が地域的に広まるにあたっては、まず町が築かれ、人々が集まり、そこの行政機構や学校教育にラテン語が使われ、その地域は文明化された。『文明』とはcivilizationの訳語であるが、civilとは『市民の』ということであり、civilization は『市民化』である。文明とはまさしく『都市の市民と化すること』によって展開して来たのだった。宗教儀式における司教の言葉や、学校の教師の言葉は価値あるものと受け取られ、人々はそれをあがめ、それを学ぼうとする。
ケルト語を使っていた社会に新たに取り入れられたのは、文章語としてのラテン語ではなく、後に俗ラテン語と呼ばれる言語であったらしい(民衆ラテン語だという意見もある)。人々は、その俗ラテン語を覚えることが、よりよい日常生活に近づくのに便利で役立つので、耳からそれを学んで、それを使う。ラテン文化を受け入れるために次第に俗ラテン語の表現が社会的に広まって行き一般的となり、相対的にケルト語は力が弱くなった。
(中略)
このように、フランスの地の人々は、ケルト語を基層言語としてラテン文化を受け入れるとともに俗ラテン語を受け入れ、それを模倣しながら、俗ラテン語の発音については、自分たちがそれ以前に身につけていた体系に引きつけた。
細かい部分についてはいろいろ問題があり、それについての学者の見解はさまざま異なっているが、全体としては当時、軍事、技術、芸術、そして精神生活に強い力を持っていたラテン文化が広まるにつれて俗ラテン語が行きわたり、語彙においても文法においても、基層のケルト語に代って行って、そこにフランス語が成立したというおよその見通しは肯定されるものであるらしい。」
「これに類似する事態の進行が、日本の地にも生じたことはないだろうか。日本語とタミル語の音韻体系の根本的な相違は、それまで日本の地で行われていた言語がタミル語を受け入れ、それに同化して行く際に、在来の言語の音韻の特色が、タミル語の持っていた巻舌子音、母音の長短の別、子音終りの単語の受け入れを拒否した結果なのではないか。
この考えを進める上で重要なのは、新しく拡大してくる言語の先導役をした文明の力である。文明の力が大きければ、相手をその文明に巻き込むと同時に言語をも巻き込む、俗ラテン語とケルト語のようなことが起る。そこで、当時の日本とタミルとの文明的事実に私は目を向け、物の世界の比較を試みた。
新しい食糧としての粟作・稲作、金属の使用、機織の開始、新しい墓地と埋葬の方法。また、未だ文字に至らない記号を土器に刻むという慣習。一一四ページに掲げた日本と南インドの言語と文明との比較一覧を、戻って再び御覧頂きたい。文明に関する事実について、私は『平行』という言葉を使ったが、日本とタミルとの開には、『平行事象』が多くあった。
七〇〇〇キロも離れた地域ではあるが、同時代に見出されるこの平行は人間生活の根源にかかわるものについてである。もしたった一つの事象の平行、あるいはたった二つの事象の平行が存在するという程度であるのなら、それは偶然かもしれない。そうしたことは世界中にいくらも生じる。しかし、先にあげた数々の平行事象は偶然の類似と見るにはあまりにも広汎で、質が重大ではないか。しかも把になって存在する。
それらは単に『物』が似ているというだけではない。それらの『物』にまつわる言葉が一緒についている。コメ、アハ、ハタケ、タンボ、アゼ、クロ、モチ、ヌカ。ハカ。カネ、タカラ。ハタ、オル。これらの単語は、今日、日本語の基礎語として生きている。それが二〇〇〇年以上前のタミル語と対応し、日本にあった『物』が同時代のタミル社会の『物』と平行している。平行とは直ちに両者を結びつけず、単純に同趣の物が存在する現象として把えようとした表現である。しかしこれは単なる平行だろうか。
私は判断を急がず、対応語の数を考えてみた。それは約五〇〇語である。基本語は二〇〇〇語はあるといわれる。その中の五〇〇語しか対応を発見できない。他の一五〇〇語は何なのか。しかし、インド・ヨーロッパ語は同系だと立証されていても、全部で十四語派のうち十の語派に共通な単語はわずか一四九語であるという。してみれば五〇〇語を少ないとはいえまい。そして大切なのは対応語の中味、それが質的にどんな役割を果しているかを見ることであろう。そこで日本人の精神生活の基礎をなすヤマトコトバを取りあげた。そのあるものは日本人の宗教生活に深くかかわり、現代日本にまで生きている。あるものは日本人の美意識、倫理意識の根柢にかかわる言葉として日本人の精神生活の支点となっている。それらのヤマトコトバがタミル語と対応する。
私は考えをめぐらした。そして、これらの『言語』と『物』と『こころ』の対応と平行とは、個々に、ばらばらに成立したと考えることはむつかしいという結論に達した。これらの状況は、包括的に、統一的に理解されるべきものである。
日本からこれらのものが南インドに伝えられて行ったと考えることはできまいか。それは不可能である。何故なら南インドでは稲作や鉄器使用は、紀元前一〇〇〇年、G・ラオ教授によれば紀元前一二○○年にはすでに始まり、一般化していた。それは日本の縄文晩期をさかのぼること何百年という時期である。
事態は逆である。
南インドのタミル語と共にあった文明の方が古い。それが、日本でいう縄文時代の終末期に日本に入って来た。安定的な、美味な、滋養に富む食糧の生産の技術。強力な武器と工具を作る金属の使用に象徴される新しい文明。それらを受け入れた日本人は、ついでその文明の基盤であった当時のタミル語を聞き入れ、使用しはじめ、その五七五七七という歌の形式まで取り入れたのではないか。
その時期を縄文後期からと考えても見たが、縄文晩期から弥生時代とここで限定するのは、イネ、アハ、コメ、ハタケ、タンボ、カネなどの言葉の実体が日本に現われて定着したのが縄文晩期から弥生時代にかけてだからである。これらの『物』は縄文時代、一万年もつづいたその時期には日本に存在しなかった。
考えてみれば、縄文時代の文明が衰えて、晩期後半という時期になったから、そこに新文明が入って来たのではない。新文明が『物』として入って来て広まったから、縄文時代という生活体系が終末を迎え消滅したのである。実体のないところに単語だけがひとり歩きすることはあり得ない。単語のあるところ、それに対するモノやコトがあるはずである。地域としては北九州に、時間としては縄文晩期後半に、南インドのモノやコトが日本に到来し展開した。それらを表わす言語もそれに伴って日本化されて広まった。この激変は、北九州に始まり西日本から東日本へと拡がって行った。これが『葦原の瑞穂の国』つまり今日いう『日本』の言語と文明の誕生である。」
「さて、タミル語など南インドの言語と、朝鮮語との同系説はなお言語学的な立証が困難であるとしても、朝鮮語と、タミル語・カンナダ語の間の文化語を含む単語の約四〇〇語の対応は確実である。ということから、巨石時代の南インドと朝鮮との文明の関係はたしかに存在したと考えられる。つまり日本とタミルとの文明史的関係は、わずかな、孤立した関係ではなく、朝鮮を含めた『三角関係』として成立していたのである。
だから弥生時代にかかわるすべての学問は、これからは南インドの巨石時代を視野に含めた上で、東シナ海、黄海、渤海をめぐる地域の動きとして、時には中国の浙江省を含めてそれを考察しなくてはならないだろう。
してみるとここでの一つの問題は、そうした南インド、日本、朝鮮のかかわりは一体いつ生じ、いつまで存続したものかということである。
日本については、すでにこれまで書いて来たように南インドとの関係は縄文晩期に生じたと思われる。朝鮮についてはどうだろうか。
日本は島国であるから、物の流入について、何がどの方面においてということは、かなりはっきりとらえられる。しかし朝鮮は大陸の一部なので、北からも西からも南からも文明は大小にかかわらず錯綜して波及する。それが単なる『物』の持ち込みなのか、一般化した伝播の残存なのか、などを弁別することはかなりむつかしい。
しかし朝鮮の文明史を青銅器によって区分すると、すでに見たように初期・前期・後期に区別される。初期にはシベリア、あるいは中国東北部の遼寧省あるいは吉林省付近からの物の流入、影響が認められる。前期になると支石墓や箱式石棺が現われ、支石墓には北方式・南方式の区別がなされている。後期になると鉄器の出現、土墳墓、多数の集合した甕棺墓が南部にある。つまり前期のある段階から墓制は南インドの巨石文化と類似する様相を帯びてくる。この時期に南インドの文明と言語とが朝鮮半島に波及したのではあるまいか。韓国の漢陽大学の考古学の金秉模教授が、済州島の支石墓が南インドのタミルの支石墓と類似すると一九九一年に述べている。
前に記したように、揚子江下流地域には紀元前五〇〇〇年紀に稲作があった。それは日本にも朝鮮半島にも長い間伝来しなかった。中国の石包丁と類似のものが雑穀や稲の穂摘みの道具として日本や朝鮮に使われているけれども、穀物栽培に関して言葉の上では中国語からは単語が何一つとして伝来していない。それに対して、日本にも朝鮮にも稲作関係の南インドの単語が多く見出される。南インドの人々は、進んでこの極東の地に住む場所を求めて進出して来た。――おそらくそれはインド亜大陸におけるアリアン人の政治的な動きに対して東南アジアに発展しようとする民族的な活動の一つだったのではなかろうか。東南アジア各地に南インドの墓制が広まっていることと、日本・朝鮮への文明の波及は、同じ源に発するものであろう。
島国である日本は、伝えられた言語と文明の基礎を安定的に保っていた。ところが紀元前一〇八年に中国の楽浪四郡が設置された。これは朝鮮への中国の政治・文明の直接的な進出で、ある程度の成熟に達していた朝鮮と日本はこれと前後して、中国に対する政治折衝に大きな関心を持つに至り、中国の文明の影響は顕著になる。
このような時間的な経過を見ると、朝鮮の言語に対して、南インドのタミル語・カンナダ語が流入した期間は、青銅器時代の前期以後、楽浪四郡の設置以前の間が中心をなしたのではなかろうか。それ以後は南インドの影響は次第に薄れて行き、やがて途絶えたものと考えられる。楽浪四郡の設置によって、中国の直接の出店を持った朝鮮半島は、日本に対して優位を確立し、以後の文明的関係が進んで行ったと見ることができよう。」
「今から五十数年前、一人の高等学校の生徒が、『日本文化』と『ヨーロでハ文化』のはざまに立って『日本とは何なのか』という問いを自分自身に課した。以来答えを求めて、日本の言語と文明にかかわって歩いて来たその人間は道の終着点として一つの仮説に至った。
日本には縄文時代にオーストロネシア語族の中の一つと思われる、四母音の、母音終りの、簡単な子音組織を持つ言語が行われていた。そこに紀元前数百年の頃、南インドから稲作・金属器・機織という当時の最先端を行く強力な文明を持つ人々が到来した。その文明は北九州から西日本を巻き込み、東日本へと広まり、それにつれて言語も以前からの言語の発音や単語を土台として、基礎語、文法、五七五七七の歌の形式を受け入れた。そこに成立した言語がヤマトコトバの体系であり、その文明が弥生時代を作った(その頃、南インドはまだ文字時代に入ってなかったので、文字は南インドから伝わらなかった)。寄せて来た文明の波は朝鮮半島にも、殊に南部に日本と同時に、同様に及んだが、中国が紀元前一〇八年に楽浪四郡を設置するに至って、中国の文明と政治の影響が強まり、南インドとの交渉は薄れて行った。しかし南インドがもたらした言語と文明は日本に定着した。その後紀元四、五世紀に日本は中国の漢字を学んで文字時代に入り、漢字を万葉仮名として応用し、紀元九世紀に至って仮名文字という自分の言語に適する文字体系を作り上げた。
ターミナルとは終着駅である。と同時にそこを起点として四方に分岐する交通網の始発駅である。今後、弥生時代以後の古代日本の文明と言語を知ろうとする旅行者は、きっとこの駅のプラットフォームに立ってそれぞれの行く手を選ぶことだろうと私は思う。」