琉球語源辞典の構想 (by 服部 四郎 1979)



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尚、奈良時代中央方言 ɨ, ə の上添え字化は<sup> </sup> を使用した。
on 2022/12/30
cf. ハングル語で つ(tsu)は、どう書くかおしえて下さい。

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法政大学学術機関リポジトリ
HOSEI UNIVERSITY REPOSITORY

琉球語源辞典の構想
著者    服部 四郎
出版者   法政大学沖縄文化研究所
雑誌名   沖縄文化研究
巻 6
ページ   1-54
発行年   1979-06-30
URL http://hdl.handle.net/10114/12437 ---- 非存在。
https://core.ac.uk/download/pdf/223200153.pdf    最新。 2022/12/26


琉球語源辞典の構想


服 部 四 郎

 日本語はその他の言語と、例えば特に朝鮮語と親族関係をもっていそうだとか、あるい は、さらに
アルタイ諸言語、つまりトゥングース語、蒙古語、トルコ語などと親族関係をもっていそうだといわ
れています。私もそれは非常に可能性のあることだと思います。けれども、まだその親族関係は言語
学的には証明されていないのです。その他にもいろいろな説がありまして、例えば、日本語は混淆語(こんこうご)
だというような説もありますけれども、これもちっとも説明にはなっていないのです。実はいかに
も言語学的証明であるかの如く書かれておりますので、非専門家は、つい証明されたのかとお思いに
なるかも知れませんが、それは証明にはなっていないのです。したがって、日本語と他の言語との間
に似た単語がある場合でも、それが同源語である ━━ 同一の祖語から分岐発達したいくつかの同系語
が祖語の同一単語をそれぞれ伝承していると認められる場合に、それらの単語を「同源語」といいま
1
しょう ━━ と断定することは差控えなければいけないのです。
 ところが、例えば英語は、ドイツ語、あるいはさらにデンマーク語、スエーデン語、ノルウェー語、
アイスランド語、あるいは古代のゴート語と親族関係があるということは完全に証明されております。
ですから、非常に事情が違う。さらに、それからゲルマン祖語というものを或る程度再構できるので
す。そのゲルマン祖語と 、さらにギリシャ語、ラテン語、それからサンスクリット語などと比較しま
すと、さらにそれより前の、五千年程前の印欧祖語というものを再構することができる。そういう学
問的には大変幸いな状態にある。ですから、そういうところでは例えば、英語の語源辞典というもの
を編纂することは非常に科学的なやり方でできるわけであります。
 ところが先ほど申しましたように、日本語の場合には、日本語との間に親族関係の 証明された言語
がないので、日本語以外の言語との比較によって同じように科学的な語源辞典をつくることはできな
いわけであります。そういう状態でありますから、日本語の或る単語と同源であることが証明された
単語が見出されたように、時々書かれることがありますけれども、そういうことを断定的に書いては
いけない、そうすることは学問的にはできないのであります。こういうような事をしょっちゅう言っ
ておりますと、どうして否定的なことばかり言うのだろう、もう少し前向きなことをどうして言わな
いのだろうという向きがありますが、これは証明になっていない、あれは証明になっていない、ばか
りで、おまえはどうしてもっと、これとこれは同源語らしいというようなことをわ言ないのか、とい
うようなことも言われているらしい。同源語らしい、ということは言えるのですね。ですけれども、
私はそういうことは言ったことはありますけれども、断定はいつも保留して居る。断定していない。
そこのところが一部の人々とは違うわけですね。断定するかしないかという違いなんです。
 それで私はそういった言わば安全第一主義のようなことばかりを言っていて、それでは、今いろん
な方々がやっておられることは全部無意味だと考えているかというと、けっしてそうではないのであ
ります。どんな言語のどんな単語でも、日本語の単語と似ているものがあれば、どういうふうに似て
いるかが指摘されればされるほど良いという考えですから、例えばある方が『国語語源辞典』という
のをお出しになるとき、そういうのに広告文を一筆書いてくれと言われましても、書くわけですね。
書きますけれども、よく熟読なさればおわかりになるように、そういう研究は奨励しているんだけれ
ども、それらの外国語と日本語の単語とが同源語だと断定してはいけないという事はちゃんと書いて
あるんです。必ず。そういうわけでありまして、決して、そういう研究をやるな、と言って水ばかり
かけているわけではありません。
 そういうわけですから、例えば具体的な例をあげて説明いたしますと、朝鮮語と日本語とがどうも
親族関係を有しているらしい。したがって、両者の聞に似ている単語があれば、例えば中期朝鮮語、
といいまして一五世紀の朝鮮語ですが、「火」のことを pɯl といいます。それに対して奈良時代の日
本語では〔pɨi〕といいますね。これはやはり似ている。それから中期朝鮮語で「水」のことを mɯl と

3 琉球語源辞典の構想

いう。奈良時代の日本語で midu といいますね。これもやはり似ている。けれども、それらは、同源
語であるとは断定できない。なぜなら日本語と朝鮮語との親族関係が証明されていないからです。し
かし、同源語である可能性はあるわけですね。断定はできないけれども。ところが、それらが ━━ 今
度は、こういうことを言えばよくおわかりになるかも知れないと思いますが ━━ 同源語ではないと断
定することもできない
ということ、そこのところが、なかなかおわかりにならないらしいのですね。
非専門家は。(日本語と朝鮮語とが親族関係を持っていないという証明もできていない。)従って、それらの単
語が同源であるとは断定できないと同時に、同源でないという断定もできない。同源でないと断定し
たら、またまちがいになるということです。それで、つまりネガティブな断定もポジティブな断定も
できないということがわからなければいけない。
 一方、奈良時代日本語の「木」という意味の単語は〔kɨi〕です。それに対して、いわゆる「南島祖
語」の「木」という意味の単語は *kahui/*kahiu だから、これと今の奈良時代の〔kɨi〕とが同源であ
る、と断定したら、その瞬間にそれはもうニセ者だということになる。しかし、断定しないで、似て
いるということを指摘するのは結構だと思います。

 ところが、中期朝鮮語にそれに似たものはないかと言いますと、実は二年程前に発見されたのです
が、朝鮮の学生が私に知らせてくれたのですが、中期朝鮮語に kɯrɯh という単語がある。それは、
「株」という意味です。そうすると -ɯh というのは接尾辞かも知れませんから、語根は kɯr- かも知
れない。そうするとこの語根 kɯr- は奈良時代日本語の[kɨi]に似ている。だから、それらはやはり
同源である可能性がある。しかし、そうだという断定はできないが、また、それらは無関係だという
断定もできない。ですから、「木」の意味の単語に関する限り、一朝鮮語には似ているものはない、
たがって、南島祖語の *kahui/*kahiu だけが同源語である可能性があるものだということをいったと
すれば、それは、もう、誤りであるということであります。
 ところが、例えば、インド・ヨーロッパ諸言語はそれら互いの親族関係が証明されておりますから、
そういった断定のできる場合があるのですね。例えば、ドイツ語の「火」という意味の単語は Feuer
[fɔ́yər] で、それに対してフランス語は feu [fΦ] ですから、互いに似ておりますね。日本語の場合の
ようなやり方ですと、これらは同源語であると断定する人があるかも知れない。比較言語学的研究方
法を知らない場合はですね。同源語かも知れないという人が出てきても不思議ではないですね。
Feuer と feu は似ていますからね。ところが、これは、同源語ではないと断定できるのです。印欧諸
言語の研究は進歩していますから、そういう断定ができます。ところが、これに反して、ドイツ語の
「兄弟」という意味の Bruder [brú:dər] とフランス語の frère [frɛ:r] とはですね。ちょっと似ており
ません。ところが、これらは、同源語であると断定できるのです。こういう具合に、似ていなくても
同源語だと、言語学的研究の発達しているところでは、断定することができるのです。
 ところが、日本語の場合にはそういうことはできない、ということであります。で、これは話は変
わりますが国語辞典にいろんな語源説が引用してございますね。いろんな人の語源説が。それらを見
ておりますと、科学的な見地から研究したものはほとんどない。よさそうだと思われるのもあるんで
すけれども、非常にあぶないものが多い。たいていは当て推量に過ぎない。勝手放題にいろんなことを
言っている。そういう状能であります。ですから、日本語の語源辞典というのはまるで成立してな
い、と言ってもいい状態であります。

 これは、実は二つの方法によってかなり改善されうる望みがあると私は思うのであります。その一
つは専門用語になりますけれども、「内的再構」 ━━ internal reconstruction ━━ と言うんですが、他の同
系語との比較によらないで、一つの言語の内部だけで古い形を再構する、そういう方法でありまして、
これは、ある一つの言語、があって、例えば日本語のように他に比較すベき言語がないときでも、その
内部構造をいろいろ調べて屑りますと、母音交替とか、子点目交替というのがありまして、そういうも
のから、その過去の状態をかなりさかのぼって再構することができる場合があります。その良い例を
一つあげますと、金沢大学の教授で、印欧語の専門家なんですけれども、松本克己という人が昭和五
十年の三月に「古代日本語母音組織考」というのを『金沢大学法文学部論集 文学編』に出された。
これが一つの良い例で、これによってかなりそういうことが可能であるということが示されたと思い
ます。この方法は極めて有力な方法ではありますが、しかし余程慎重にやりませんと危険を孕む(はらむ)おそれ
れがあるのでありまして、松本君の論文はそういう意味で完壁とは言えない。かなり問題の点が合ま
れている。それらについて、私は、二回(1)ほど私見を公にしておきましたが、そういう危険な点がある
からというので、あれはだめだというふうに言う向きもあります。全体として非常にいいものを持っ
ているのにそういう点はみないで。実はあの方法をもっとに精密やっていけば随分のことができると
思うのであります。

第二の方法と申しますのは言語学で比較方法と申しまして、先ほど申しましたドイツ語と英語とを
比較してゲルマン祖語を再構する ━━ そういうような同系語が二つ以上あるときに適用できる方法で
す。
 それで、先ほど申しましたように日本語は比較すべき言語がないと申します。朝鮮語はまだ比較す
ることができないと申しましたけれども、実はあるのです。それは琉球方言という、それは非常に貴
重な比較研究の対象があるのであります。もっとも琉球方言以外の方言は興味がないかというと、そ
うじゃないので、八丈島方言、それはやはりそういう観点から非常に興味がある大切な方言でありま
す。しかし、八丈島方言というのはかなり、やはり、中央方言の影響を受けておりまして、変形して
おります。例えば、動詞活用の体系などというのは、言語体系の中では頑固な部分でありまして、そ
ういうところは侵蝕されにくいのですけれどもね。他の部分、などと語彙いうのはやはり、中央の影
響を大いに受けてかなり古い形を失っておるのです。
 ところが、この琉球方言というのは、これもやはり中央方言の影響をかなり受けてはおります。そ
7 琉球語源辞典の構想
れについてはこれからお話しする機会もあるかと思いますが。どこが中央の方言の影響によって変化し
て居り、どこが日本祖語から受け継いだものか、その見わけが非常に大切ですね。実はこれはかなり
困難なことであります。けっして容易じゃないのです。が、まあ、そういう点はあるけれども、しか
し、琉球方言は全体的に見ますと八丈島方言などよりずっと頑固な方言 、つまり、概して体系の独自
性を保持する傾向が非常に著しかった方言であります。と申しましでもこれは誤解を招かないように
特に注意いたしたいのですが、それでは古い形をそのまま持っているかというに、そうじゃないので
す。民俗学なのでよく、琉球は古いものを持っていると、何か、古い形がそのまま保存されているか
のように言われたことがあるようですが、ひとつの方言がその全体系を古い形のまま保持するという
ことはないのです。琉球方言と本土方言が ━━ と概略的な表現を用いましょう ━━ 分岐してから、お
そらく二千年もたっているでしょうが、年月がたてばたつほど、本土方言も変わりますが、琉球方言
もそれだけ変わっているのです。変わっているけれども、両者の聞に断絶があって、ちがった変わり
方をしている、と。したがって本土方言が失った特徴を琉球方言が保存している場合がある。体系全
体じゃありません。特徴の一部分です。そのかわり、逆に琉球方言が失ったものを本土方言が保存し
ているという点もあるのです。そういう見方で見ないといけない。琉球はみな古いんだと、すぐにそ
ういうようなことを言う。言語学は幸いそういうことは言わなくてすむんですね。普通もう少しやわ
らかい科学である文化人類学、民俗学などだと、そういうことをいう傾向があった。この頃はこうい
う科学も発達してきましたからそういうことはあまり言わなくなったと思いますけれども、以前には
よくそういうことがあって、琉球の中に古代の姿を見るなどということが、しばしば言われたように
思います。
 しかし、琉球方言はそういう具合に独自の変化をとげた方言でありますから比較研究をする場合に
非常に貴重なのであります。実は、国語辞典中の語源説のところを見ておりますと、琉球方言はほと
んど引用してないので、どうも国語学者というのは琉球方言の存在を忘れているのではないかと、
極言すればそういう印象を受けるのです。そこでこういう機会に、それは非常に残念なことだというこ
とを強調したいと思うのであります。もちろん琉球方言の研究そのものは非常に盛んになりまして、
そういう専門家たちが琉球方言を忘れているはずはない。むしろそれが対象になっておりますからそ
ういうことはないわけですけれども、今度はどうも琉球方言の専門家の研究を見てると、本土方言と
比較する場合に比較の基点が、 ━━ 少々の例外はあります。全部が全部そうだとは申しませんが ━━ 
本土方言を基点としている。琉球方言と本土方言を比較する場合、本土方言を基点にして、これがこ
う訛っているとか、こう変わっているとか、そういう傾向があることが私には惜しまれるのであります。
これについては、さらに述べたいことがありますが、いまは省略いたします。
 それではどうしたらいいかということを、これから申しますが、つまり、それは琉球方言と本土方言
、あるいは奈良時代の中央方言、そういうのと比べます場合、いずれも対等の資格においてやらな
9 琉球語源辞典の構想
くてはいけない。本土方言を基点にしてやる、あるいは逆に琉球方言を基点にしてやる、それではい
けない。それらを対等の資格において、日本祖語というものを再構して、それからそれを基点として
考えると非常によくわかる、ということであります。で、私の講演の目標の一つは、この種の、今申
しましたような考え方に対する根本的な考え方の転換をする必要がある、頭の切り換えをする必要が
ある、ということを強調することであります。
 日本祖語というのはいったい何年くらい前のものだろうか。これは、私は、この前の伊波先生の生
誕百年記念の講演会で申しましたように、伊波先生がすでに約二千年くらい前ということを言ってお
られます。ほぼ正鵠を得ているのではないかと思います。いろんなことから言って、それくらいのと
ころにを祖語おきますといろんなことが良くわかるように思われます。ですから大分前ですね、奈良
時代よりは。これからよく研究してみればだんだんわかってくると思いますが、奈良時代より少なく
とも五、六百年以上前に持っていかなくてはならない。少なくとも。ですから伊波先生が二千年前と
おっしゃったのは、それは、ひとつの直観でありますけれども、私は講演でそのことを特にひいて賛
成する意味のことをお話ししたのであります。
 そこで、例えば少し例を示しますと、いちばん向うの「表I」でありますが、首里方言と京都方言
の比較をしておりまして、例えば、首里方言の「チン」《着物》が京都では「キヌ」《絹》。「キヌ」
意味がちょっと変わっております。が、奈良時代にさかのぼりますと、「衣」《着物》という意味で、

表I
京都方言等
kinu 《絹》
ki(ku) 《聞》
kiri《霧》
tsuki 《月》
ki: 《木》
ke: 《毛》
kebur-~ kemur- 《煙》 
te: 《手》
首里方言
tʃiN《着物》
tʃi(tʃuN)
tʃiri
tsitʃi
ki:
ki:
kibur (aN)
ti:

同源語であると考えられます。それで「キヌ」の「キ」が首里では「チ」になっている。その次の
《聞く》という意味の動詞が、京都方言では「キク」というのが、首里方言では「チチュン」ですね。
「キ」、が「チ」になっている。それから「霧」ですね。これが京都方言では「キリ」ですが、首里方
言では「チリ」。やはり「キ」が「チ」になっている。次に「月」が京都方言では「ツキ」ですけれど
も首里方言では「ツィチ」となっている。やはり「キ」のところが「チ」になっている。ですから京都方言の「キ」は首里方言の「チ」になるというふうに、ふつう言いますけれど、そういう言い方が
いけないのですね。そうじゃなくて、先ほど申しましたような対等の資格において考えますと、どう
いうふうに言うかと言いますと、京都万言の「キ」は首里万言の「チ」に対応する、というのです。
11 琉球語源辞典の構想
以前は何であったか、ということはそれをもとに考えるのです。「キ」が「チ」になるという言い方
がもうすでにいけないのです。
 そこでさらに「表I」を見ていきますと、樹木の「木」が京都万言の「キー」が首里万言では「キ
イ」ですね。そうすると、これは先ほどの対応の例外になりますね。こういう例外に対して、言語学
者は大いに警戒心を抱かなきゃならないのですがね。そういうのを平気で少しくらい例外はあるだろ
うというのではいけないのです。それから、その次に「毛」ですが、それが京都万言で「ケー」です
けども、首里万言では「キイ」ですね。「ケ」が「キ」に対応する。「なる」のではなく、「対応」し
ている。それから、首里方言では「キブラン」《煙らない》ですけれども、京都方言等で「ケブル」
とか「ケムル」とか言う。その「ケ」のところがやっぱり「キ」に対応している。だから「エ」が
「イ」に対応している。それから「手」が京都では「テー」ですけども、首里では「ティイ」で「エ」
が「イ」。ですから、対応はでたらめでないということがわかります。発音はちがっているけれども、
違い方がでたらめでない。ただ、どうも「キ」については不思議な例外がある、と。そういう状態で
あります。こういうのを「音韻対応の通則」と言いまして、いわゆる「音韻法則」などとも言うので
すが、そういう音韻法則があるのに例外が少なくともこの中にすでに一つあるということです。
こういう例外はよくあるのであります。現在でも例外は少しぐらいあるものだという態度の人もあ
りましてね 。言語学者でも。「音韻法則」などというのが、「法則」というのがよくない、とも言われ
ます。私はもちろん、音韻法則は例外はありえないなどとは申しません。実際はほとんどいつでもあ
るのですからね。ただ、「例外は少しぐらいあるものだ」と当たり前のように考えるのと少し違う所
は、私は、例外があるとき、どうしてこういう例外があるのだろうと考える。そうするといつかそれ
が説明できる時がると来るいうのが、今までの五十年の経験です。さきほどの例外は、実は説明できる、
ということをお話し致したいと思います。
それで、京都方言をさらに奈良時代の中央方言にもっていきますと、やはり多少変わった様相を呈
してまいります。「表Ⅱ」を見て下さい。「キヌ」は「キヌ」で、これはほとんど同じ。「キク」も「キ
ク」ですね。ところが「キリ」がちょっと変わってくるんですね。今の京都方言では「キ」ですけれ
ども、[kɨi]という発音だったらしい。いわゆる、「乙類のキ」というやつですね。それから、その次
に「月」ですね。これが、「ツ」が「トゥ」[tu]だった。奈良時代には「月」は [tukɨi] だったと考え
られます。それから「木」もですね。やはりこれも「乙類のキ」で[kɨi]ですね。今の京都方言とち
がっているということがわかります。それから「毛」になりますと、「乙類のケ」で [kəe]です。そ
ういうわけで、奈良時代までいきますと大分様子が変わってくるのですね。それにもかかわらず、や
はり、奈良時代の中央方言を基点にしたのでは先ほどの例外がよく説明できません。
ところが、先ほど申しました内的再構という方法を使いますと、「表Ⅱ」に示したように日本祖語
の形が再構されるのです。だいぶ様子が変わって来てますね。「霧」が *kuiri になる。それから「月」

表II
現代京都方言等 ← 奈良時代中央方言 ← 日本祖語    →  現代首里方言
[kinu]      [kinu]      *kinu《衣服》     [tʃiŋ]
[ki(ku)]     [ki(ku)]      *kik-《聞》      [tʃi(tʃuŋ)]
[kiri]       [kɨiri]      *kuiri《霧》      [tʃiri]
[tsuki]      [tikɨi]      *tukui(~*tuku-)《月》 [tsitʃi]
[ki:]       [kɨi]       *kəi(~*kə-) 《木》   [ki:]
[ke:]       [kəe]      *kai(~*ka) 《毛》    [ki:]
[kebur-]~[kemur-] [kəebur-]    *kaibur-《煙》     [kibur-]
[te:]       [te]       *tai (~*ta-)《手》   [ti:]

が *tukui、「木」が *kəi、「毛」が *kai、「煙」が *kaiburi、「手」が、*tai 。こういうふうになってくる
んですね。そうすると、次の表Ⅲの日本祖語というものをもとにして考えますと、日本祖語 の *ki は
奈良時代にも「キ」です。ところが、日本祖語の *kui と *kəi がいっしょになって[kɨi](乙類のキ)
になる。で、その「キ」と [kɨi] がいっしょになって現代京都方言 の「キ」になる。そういう関係に
なっている。*kai は奈良時代の[kəe]を経て現代の「ケ」になる。ところが首里方言はどうなるか
といいますと、そのまとめ方がちがっておりまして、日本祖語の *ki と*kui がいっしょになって
「チ」になる。こんどは *kəi と *kai がいっしょになって「キ」になる。ですから、これはごらんに
なってすでにわかりますように、京都方言を中心にして現代首里方言を見ますとこの関係がわからな

表Ⅲ
現代京都方言等 ← 奈良時代中央方言 ← 日本祖語 → 現代首里方言
[ki]      ┏ [ki]        *ki  ┓    [tʃi]
       ┗ [kɨi]      ┏ *kui ┛
                 ┗ *kəi ┓    [ki]
[ke]       [kəe]        *kai ┛


くなります。それから奈良時代の中央方言をもとにしてみてもやはりわからないのです。日本祖語を
基点にしてはじめてどちらもわかる。首里方言の方もわかれば奈良時代、それから現代の京都方言も
わかる、ということであります。ですから、こういう考え方をいつもしなければならないということ
です。比較研究をやります時に。ですから、私が頭の切り換えが必要だというのは、本土方言を基点
にして琉球方言ではこれはこう変化する、という考え方はいけないということです。そうじゃなくて、
これとこれは対応する、と考え、その対応をもとにして、日本祖語をいつも考えるというやり方でな
ければならない、ということを実例をもってお話ししたつもりであります。
そこで、琉球方言でこういう音韻変化がおこったということは、ここでは略しましたが、実は琉球
の諸方言の比較研究によってもそのことがわかるのです。私は昭和七年に琉球語と国語との音韻法則
という論文を書きましたが、あの時代の頃に比べますと、琉球諸方言の研究はずい分進み、いろんな
15 琉球語源辞典の構想

ことがわかってきております。例えば与那国島の祖納方言、八重山の諸方言、宮古の諸方言、それか
ら沖縄島の諸方言、それから与論島、沖之永良部島、徳之島の諸方言、加計呂麻島、奄美大島の諸方
言、喜界島の方言、これらはみな琉球諸方言に属しますが、それらを比較しますと、先ほどの日本祖
語の再構を支持するような対応関係が現れております。これらの諸方言を比較することによってもあ
あいった再構、仮説が支持されます。その証明は省略いたしますけれども。
 そこで私は、そういったような専門的なことを実はここで詳しく話しするつもりではありませんが、
今申したことは専門家向けの話なんで、専門家の頭を切り換えていただくために言ったのでありまし
て、みなさんに関係のないことではあります。しかし、ここで申したいことは、そういう音韻とか音
韻法則とかいうようなうるさいこと、しかも音韻とは何だ、音韻法則とは何だ、人間とどういう関係
があるんだ、というような批評がありまして。おまえたちのやっている言語学というのは人間と関係
のないことだ、あんなものは人間とどういう関係があるのだとか、人間から切り離してことばだけ
を取り扱って、もてあそんでいるんじゃないかとか、そういうような批評もあるようですね。実は、そ
れはそうじゃないのです。結局それはわれわれ頭の中にああいう背韻という形であるものを取り出し
ているのでして、その時、いつも、それは人間にとってどういうふうにあるのかということを忘れて
いるのではないのです。しかし、やはり全体としてみて、いかにも人間と関係のないものを取り扱う
ように見えます。ところが、私が今日お話ししたいことはそういうような、つまり人間の生活史、あ
るいは文化史と関係のないことをやっているように見える言語学というものが、他の人文科学にはで
きないような貢献を文化史研究に対してできるのではないかと、そういうことをひとつの例をもって
お話ししたいと思うのであります。

 その証明は、今、詳しく申しておれませんが、例えば日本祖語の *ki と *kui の両方が、琉球祖語 ━━ 
そういうものをたてていいかどうか厳密にいうとちょっとむつかしいんですけれども ━━ 先ほど
挙げましたいろんな琉球諸方言がわかれる前の琉球祖語というものを立てることが、大まかに言ってできそうです。そこで、「表Ⅳ」に示したような音韻変化が起こったのであろうと推定します。
表IV
日本祖語 → 琉球祖語 → 現代首里方言
*ki ┓  *ki     [tʃi]/ci/
*kui ┛
*kəi ┓   *ke     [ki]/ki/
*kai ┛

日本祖語には、もちろん、この表に示したもの以外の音節があったと考えられますが、それらについては、
しばらく考察しないことにます。
17 琉球請源辞典の構想
実は、この表に「琉球祖語」と書きましたのは、本当の琉球祖語  ━━ そういうものがあったと仮り
18
にしまして ━━ よりはさらに首里方言に近づいた時代かも知れませんが、こういう時代がかなり続い
たのではないかと考えております。こ の *ki と *ke のあった時代を「A時代」と呼びますと、この
A時代から現代の首里方言へは、「表V」に示したような音韻変化が起こったと考えられます。
表V
A時代  B時代  C時代(現代を含む)
*ki   [*ki]    [tʃi]/ci/
*ke   [*kɨi]   [ki]/ki/

この「表V」のような音韻変化が起こったと、どうして考えるか、ということの証明は、専門的に
なるので省略します。しかし、A時代から B時代に移ったときに、元の「キ」には変化がなかった
 ━━ 記号は *ki と [*ki] のように変わっていますが、前者は音韻記号のようなもの、後者は精密音声
表記で、ともに同じ「キ」のような音を表わします ━━ が、*ke は [kɨi] に変わった、と考えるわけで
す。この [kɨi] は先ほど申しました奈良時代中央方言の「乙類のキ」と同じ発音でありまして、[*ki]
の方は「甲類のキ」と同じ発音です。しかし「表Ⅲ」と「表V」とを較べてご覧になればわかります
ように、奈良時代中央方言と「B時代」首里方言の [kɨi] の前身は互いに違っています。このように、
違った言語状態から同じ言語状態が生ずるということは、大変興味があります。
 ですから、私はよくいうのですが、言語の変化というものは、「行く川の流れは絶えずしてしかも
もとの水にあらず。流れに浮ぶうたかたは、かつ消えかっ結びて久しくとどまることなし」。こうい
ううたかたがですね。奈良時代にできて、その後平安時代になると消えてしまった。首里方言でも同
じで、別の原因でB時代に同じうたかたができて、「C時代」になると消えてしまった。これはこの
例ばかりでなくて、方言変化の全体を見ているといつも同じようなことがあって、大変おもしろいと
思います。そういうことを言いますと、それは日本語独特の傾向じゃないかという反聞があるかも知
れませんが、世界の言語をよく見ておればみておるほど同じようなことがあるように思います。です
から、やはり日本語を研究する場合にも、世界の諸言語の様子をみなければならない。そういう知識をもっていればいるほどいいという、つまり言語学を勉強すればするほど良いということになるの
です。

 で 、B時代というものがあったにちがいない、ということを、そういう仮説をずっと前に発表して
おります。要するに、「表V」に示したように、A時代、B時代、C時代と、こいう状態を経過し
て今日に至ったと考えられるのであります。で、こういうふうに考えるのは、いわゆる比較方法によ
る、歴史言語学的考察による結論でありますが、これが非常におもしろい結果をもたらすのであります。
19 琉球語源辞典の構想
昭和三十八年でしたが、国立国語研究所で、昨年亡くなられました比嘉春潮さんだとか、島袋盛敏
さん、それから上村幸雄さんの三人で非常に立派な『沖縄語辞典』というものを作られました。この
辞典は見ればみるほど立派だということがわかってくるのですが。この辞書によって或ることを調べ
ておりましたら、非常におもしろいことがわかってきたのです。これは首里方言を記録した辞典です
が、そこに一種の琉球漢字音とでもいうべきものがあるということがわかってきました。日本にはご
存知のように漢字音というのがあります。漢字音というのは元来シナからはいったものですから、日
本語としては借用語と申しまして、そういうのは横から入って来たもので、親族関係とは関係がない
のです。ところが琉球語にもそういう漢字音がはいっている。そうすると琉球は、もう明とか清とか
と盛んに交通しているのですからね。琉球の漢字音はどうせシナ語がはいったんだろうというような
ことを今でも平気でいう人がいる。私もそういう疑いはあるから、非常にくわしく調べてみたんです
がね。すると、豈にはからんや、それはまったくシナ語とは関係がなくて、日本漢字音と密接に対応
していることがわかったんです。「 表Ⅵ」をご覧下さい。
この表を見ればすぐわかりますように、琉球漢字音と本士漢字音との間には、整然とした対応関係
があるのに、琉球漢字音とシナ語北京音との間にはそれがありません。これは琉球漢字音とシナ語音
との聞には直接的な関係がなく、琉球漢字音と本土漢字音との間には密接な歴史的関係のあることを
物語ります。ところが、これらの漢字音は日本祖語にまでさかのぼるものではあり得ませんから、借

表VI
琉球漢字音  本土漢字音  シナ語北京音
[tʃi]
[tʃiku]
[tʃi]
[tʃi:]
[tʃiŋ]
[dʒi]
[dʒiŋ]
[dʒi]
[dʒi:]
[dʒiŋ]

キク

ケイ
ケン

ギン

ゲイ
ゲン
喜 hsi3、寄 chi4、祈 chi2
菊 chü2
仮 chia3
卦 kua4、系 hsi4、警 ching3、軽 ch‘ing1
縣 hsien4、見 chien4
義 i4、儀 i2、宜 12
銀 yin2、吟 yin3
下 hsia4
藝 i4
元 yüan2、玄 hsüan2、厳 yen2

用要素に違いありません。そして、琉球方日から本土方言方へ借用された可能性はまずありませんか
ら、本土方言から琉球方言ヘ借用された、つまりはいったものに違いありません。それでは、いつご
ろはいったものだろうか。それを明らかにする方法はあるだろうか。これからお話ししようと思いま
すのは、言語学的研究方法によって、その点をかなりの程度に明らかにすることができる、というこ
とであります。
さきほどの「表I」と「表Ⅱ」に示した対応関係は、「木」という意味の単認が例外となる点を除
21 琉球語源辞典の構想
けば、大体次のようであります。
京都方言等   首里方言
ki(キ)    [tʃi](チ)
ke(ケ)    [ki](キ)

ところが、「表Ⅵ」の漢字音の場合には、次のような対応関係が見られます。
京都方言等    首里方言
(a) ┏ ki (キ)  [tʃi](チ)
  ┗ gi (ギ)  [dʒi] (ジ)
(b) ┏ ke (ケ)  [tʃi](チ)
  ┗ ge(ゲ)  [dʒi] (ジ)

このうち、(a) の方は先ほどの音韻対応通則と矛盾しませんが、(b) の方は全く特異なものであります。
(a) の方を正規の対応の通則としますと、(b) の方は例外ということになります。このような例外はどう
して生じたのだろうか。この点が言語学的に説明できなければなりません。
先ほどのA、B、Cという三つの時代について考えますと、まず、これらの漢字音は、首里方言お
よびそれに近い方言の祖先である琉球語の「A時代」にはいったものではあり得ない、ということが、
はっきりいえます。その根拠は次のようです。「A時代」ですと、「表V」に示したように、琉球語に
も *ki (および *gi) と *ke (および *ge)との区別があったのですから、本土方一百の「キ」と「ギ」を
それぞれ *ki と *gi で受け入れ、同じく本土方言の「ケ」と「ゲ」をそれぞれ *ke と *ge で受け入
れるはずです。そして、その後、琉球語(首里方言等)では「表V」のような音韻変化が起こります
から、「表Ⅵ」に挙げました漢字の琉球漢字音は、現在次のようになっているはずであります。
(a) [tʃi](チ) 喜、寄、祈
 [tʃiku](チク)菊
(b) [ki](キ)  仮
 [ki:](キイ)  卦、系、警、軽卦、系、
 [kiŋ](キン)  縣、見
(a) [dʒi](ジ)  義、儀、宜
 [dʒiŋ] (ジン) 銀、吟
(b) [gi]〈ギ )  下
 [gi:](ギイ)  藝
 [giŋ](ギン)  元 、玄、厳


(a) グループは実際と合いますが、
(b) グループは実際と合いません。従って、琉球漢字音は、「A時
23 琉球語源辞典の構想
代」に本土から借用されたものではあり得ないのです。
また「C時代」に借用されたものでもあり得ません。なぜなら、この時代に借用されたのですと、
本土方言の「キ」「ギ」を、(「A時代」の *ke, *ge から来た)[ki] [gi] で受け入れるはずですから、
(a) グループまで、

[ki] (キ)喜、寄、祈
[kiku] (キク) 菊
[gi] (ギ)義、儀、宜
[giŋ](ギン)銀、吟

となるわけで、これも事実と合わないからです。
それでは、「B時代」に借用されたとしたらどうなるでしょうか。この時代ですと、本土方言の
「キ」「ギ」は当然 [ki] [gi] で受け入れます。そしてそれらは、のちにそれぞれ[tʃi][dʒi]に変化
しますから、(a) グループは現在のような音になります。ところが、本土方言「ケ」「ゲ」はどの音で
受け入れられるでしょうか。この「B時代」ですと、「表V」に示しましたように [ki] と [kɨi] との
音韻的対立がありますが、この両者は、大まかに言って、母音が同じで、子音すなわちkの口蓋化の
あるなしが弁別特徴ですから、人々(すなわち琉球諸の話し手たち)の耳は k の口蓋化のあるなしに非
常に鋭敏になっているはずです。そこで、当時の本土方言の「ケ」「ゲ」が、現在の一部の東京方言
の話し手たちのそれのように、k、があまり口蓋化していないような発音だったら別問題ですが、西部
方言、とくに九州方言などのようにいろいろの口蓋化のある発立目だったらどうでしょうか。私自身の
「ケ」のkは東京方言のそれより口蓋化していますが、福岡や鹿児島の人の「ケ」の k は私のより多
少余計口蓋化しているのを観察したことがあります。恐らく当時の本土西部方言 の「ケ」「ゲ」の k
g もその程度に口蓋化したものだったのでしょう。現在の九州方言では「セ」が [ʃe] のように発音
されますが、十六世紀末の日本語の「セ」がポルトガル人には [ʃe] のように聞こえたことが、彼ら
がこれを se と書かずに xe と書いたことによってわかっています。ですから「ケ」も恐らく [ke] の
ように発音されたものに違いありません。この「B時代」ですと、琉球語にはもう ke, ge がありま
せんから、本土方方言の「ケ」を [ki] ・[kɨi]のどちらかでまねするよりほか方法がありませんが、
本土の「ケ」「ゲ」の k g には口蓋化があったのですから、それらは琉球の人々の耳には [ki] [gi] と
聞こえ、本土の漢字音の「ケ」「ケイ」「ゲ」「ゲイ」等は当然それぞれ[ki][ki:][dʒi] [dʒi:] 等で受け
入れられ
るはずで、それらは「C時代」になるとそれぞれ  [tʃi] [tʃi:][dʒi] [dʒi:]等に変化し、現在
の琉球漢字音ができあがったのだ、と考えられます。これを要するに、現代の琉球漢字音は、琉球語
の「B時代」に本土漢字音を借用し、現在に到るまで伝承されて成立したものに違いありません。
 さて、ついでにぜひ申しておきたいことは、 「A時代」、「B時代」、「C時代」というものがあった
という説は、比較方法による史的言語学的考察によって導き出された仮説でありまして、「B時代」
は「C時代」に先行し、「A時代」は「B時代」に先行する、という相対的な年代的順序ははっきり
25 琉球語源辞典の構想
確信できるわけですが、しかし、その各々の時代が何世紀から何世紀まで続いたとか、何世紀は「B
時代」だなどという絶対的年代については、確信できないのが普通です。それでこの「B時代」は実
際何世紀位だったのだろうかと考え ておりました。

 そうしておりますうちに、「B時代」の絶対年代を確定するための一つの手懸りがあることに気づ
きました。それは「語音翻訳」という文献です。「語音翻訳」は中叔舟撰集するところの『海東諸国
記』(成宗二年、一四七一年)の原本にはなかったもので、弘治十四年(一五〇一年)に至って追補され
た「琉球国」の地理国情に関する一記事の末尾に付けられた琉球語の会話、話葉の記録で、僅か八ペー
ジほどのものでありますけれども、「単音文字」である朝鮮文字ハングルで琉球語が書かれているた
め、琉球語史にとって非常に貴重な文献であるばかりでなく、朝鮮語音韻史の研究にも貢献するとこ
ろのあるものであります。去る九月に韓国の学術院で開かれたシンポジウムでは、この文献を通じて
見た朝鮮語の音韻史の方に重点を置いてお話ししましたが、今日は琉球語音韻史の方に典を重点を置いて
お話しします。これはいつもあることで、甲言語の文字を使って乙言語を表記した文献は、乙言語 の
音韻史ばかりでなく、甲言語の音韻史の研究にも役立つのが普通であります。
 伊波普猷先生が『李朝実録』「燕山君日記」を研究された所(2)によりますと、琉球の使臣は弘治十四
年(一五〇一年)の正月から約三か月間滞在して非常に歓待されたこと、その時の接待係が成希顔であ
ることがわかっています。ところが、それに対応する琉球側の記録が未詳のようですが、これはさら
に研究しなければなりません。これは、琉球側で言うと第二尚氏の尚真王(一四七七年~一五二六年に在
位)の時代であります。そこに記録されている琉球語は、首里方言の祖先(あるいはそれに近い方見方言)
と見て差閊(さしつか)えないと考えられます。伊波先生のご論文は、私も以前に拝見したことがありますが、そ
の時には、記録が非常に複雑な様相を呈している。極端にいえば、カオスであるような印象を受けま
したので、これはもっと精密にやって見なければならないと長年思ってきましたが、よく研究して見
ますと、その中に構造が見えてくるといいますか、一見非常に複雑、乱雑であるかのように見えます
けれども、その中にはっきりした構造のあることが、わかってきたのであります。その詳しい研究は
「月刊言語』(3)(大修館書店)誌上に発表しつつあり、また別に発表する予定でありますが、結論を申し
ますと、この「語音翻訳」の代表する琉球語は、正にこの「B時代」のものである、ということであ
ります。ここでその点を詳しく論証しているわけには参りませんので、その点がはっきりわかる数例
を示しましょう。
27 琉球語源辞典の構想

日本祖語  琉球語A時代  「語音翻訳」 現代首里方言 
*kinu (衣服) *kinu    기루[kinu]     [tʃiŋ]
*juki (雪)  *juki    유기 [juki]    [jutʃi]
*tukui (月) *tuki    츠기[tsuki]    [tsitʃi]
*sakai (酒)  *sake   사긔[sak'i]    [saki]
*'agai- (あげ)*age    아긔[?äg'i-]   [?agi-]

これによっ て、一五〇〇年前後は「B時代」であったことは確認されますが、この「B時代」がい
つごろまで続いたか、またいつごろから「B時代」にはいっていたかを、できれば知りたい。それに
は多少の手がかりがなくはありません。その一つは、シナ人が漢字で琉球語を書きしるした文献で、
『華夷訳語』所収の「琉球館訳語」、それに続いて『使琉球録』『音韻字海』『中山伝信録』などがあり
ます。「琉球館訳語」の編纂年代は未詳ですが、論証は省略しますけれども、「語音翻訳」とほぼ同時
代の琉球語を記したものと認められます。『使琉球録』は年代がはっきりしています。嘉靖十三年
(一五三四年)五月に冊封正使として琉球に来て百五十日滞在して帰国した陳侃が同年に序文を書き、
恐らく同十四年(一五三五年)に刊行したものであります。『中山伝信録』も成立年代がはっきりして
います。康熙五十八年(一七一九年)六月に冊封副使として琉球に来て約八か月滞在し、翌五十九年
二月に帰国した徐葆光が著し、同じ年の七月に天覧に供したものであります。
これらの書物は、「琉球館訳語」『使琉球録』『音韻字海』『中山伝信録』の順序でできたと考えられ
ますが、後のものが先のものに依っている傾向が非常に顕著ですから、到底それぞれの時代の琉球語
を観察記録したものとは考えられません。『使琉球録』の著者は百五十日も琉球に滞在しているので
すから、もっと独自の観察があってもよさそうなのに、それが意外に少ないようです。『中山伝信録』
の著者はかなり後世に琉球に来ているのですから、独自の観察・記録をしてくれたならば、琉球語史
の研究にとって大変貴重な資料となったはずですのに、先行の三書に忠実に依っているので、そうす
ることができない。しかも、その記録の中には矛盾がありまして、先行の三書に依っている部分と、
徐葆光自身の観察による部分との聞に認められます。徐自身が観察・記録した部分には琉球語の新し
い形が露れているのであります。こういうようなわけで、これらの四書は、ほぼ同時代の琉球語を記
録したという結果になっている部分が多いのですが、詳しく見て行くと、それでも少しのことはわか
り、おそくとも十八世紀の初には「C時代」が始まっていたらしいと考えられる徴憑(ちょうひょう)が認められます。
 これに関連してぜひ附け加えておかなければならないことは、いちばん元になった「琉球館訳語」
自身が、その全体が必ずしも当時の琉球語を忠実に記録したものではない、ということであります。
これと同時代にできた「日本館訳語」というものがあって、ともに石田幹之助博士のいわゆる丙種本
『華夷訳語』に属し、「琉球館訳語」との聞に密接な関係があって、後者に日本語の混入したと認めら
れる例があるばかりでなく、「日本館訳語」の中に琉球語の混入した例さえあります。この両「訳語」
は互いに密接な関係において編纂されたものらしい。この両「訳語」は明の会同館の通訳官が使った
教科書のようなものかと考えられますが、恐らく琉球語と日本語は近い言葉だということがシナ人に
もわかっており、両言語の通訳を兼任していた者もあったのではないかと想像されます。とにかく、
この両「訳語」の聞には、当時の両言語の実際の姿を反映したのではないのではないか、と考えられ
る共通点があります。
従って、これらの琉球語を記録したシナ関係の四書を琉球語史のための資料として使うためには、
29 琉球語源辞典の構想
以上述べた諸点を考慮に入れつつ綿密な分析を行なわなければならないのであります。

 さて、以上のお話をしました際に、音韻体系のほんの一部分を取り扱いながら、A、B、C、三時
代の音韻変化のお話をしましたが、もう少し多くの音節を考えに入れますと、私の仮説は次のように
なります。

A時代     B時代  C時代
*ki →    [ki] → [tʃi]
*ke      [kɨi]   [ki]
*ka      [ka]   [ka]
*ko      [ku]   [ku]
*ku      [ku]   [ku]
*tu → *tsu → [tsɯ]  [tsi]
*ti       [tʃi]   [tʃi]
*te      [ti]   [ti]

ただし、これらの音節のうち、その直前に母音 [i] があると子音が口蓋化されますが、そういう場合
は除外してあります。例えば、

[ʔika] → [ʔika] → [ʔitʃa]《烏賊》

右のように考える根拠はここで詳しくお話ししている時間はありません。一部の方からは反対を受
け得る問題点はありますけれども、それに答え得る根拠は十分あるのであります。
さて、琉球語史の研究にとって最も準要でそして最も大きい文献は、言うまでもなく『もろさう
し』であります。しかし、この文献はその成立事情から推しても、その内容から見ても、必ずしも等
質的な資料だとはいえませんから、その言語学的研究方法に関する私見の一部についてお話ししたい
と思います。
『おもろさうし』の結集が行なわれたのは、各巻の扉に記されたところによりますと、第一回が嘉靖
十年(一五三一年)で、この時第一巻が成りました。第二回が万暦四十一年(一六一三年)五月二十八
日で、この時第二巻が成り、第三回が天啓三年(一六二三年)三月七日で、この時第三巻以下の巻が
成ったようです。ただし、第十一、第十四、第十七、と最後の第二十二巻には日附がありません。そ
して、奥書きには、大清康熙四十九年(一七一〇年)七月三日の日附があります。仲原善忠、外間守
善『校本おもろさうし』の外間守善氏の解説によりますと、この『おもろさうし』の原本は、一七〇
九年の首里城の火災のため焼失したので、その翌年に、奥書きの日附に、王府で具志川本を台本にし
て書き改めさせたのだということであります。その具志川本も現住まで伝わっておりません。現存の
諸本はいずれも、一七一〇年に書き与されたもの(尚家本)か、同時に出来た安仁屋本を祖本として
たびたび書き写されて成立したものであります。その安仁屋本さえも行方不明だということです。い
31 琉球語源辞典の構想
い換えれば、『おもろさうし』は、一五三一年、一六一三年、一六二三年の三回の結集によって成っ
たもの ━━ 日附のない巻は日附が書き忘れられたのでしょう ━━ ですけれども、我々の見ることので
きる写本は、一七一〇年以前にはさかのぼらない、ということであります。これは、『おもろさうし』
を研究する際に、いつも念頭に置いていなければならない重大な点であると私は思います。
一五三一年は確かに私のいう「B時代」ですが、一六一三年と一六二三年は「B時代」に属するら
しいけれども、そうだと確信できないふしがあります。一七一〇年はもう「C時代」にはいっている
らしいので、それに起因する誤写がないか、警戒を要します。
 さて、ここで、仲宗根政善さんの勝れたご研究に言及しなければなりません。伊波先生生誕百年記
念の論文集『沖縄学の黎明』に載った「おもろの尊敬動詞〈おわる〉について」という論文がそれで
あります。
 仲宗根さんの研究によりますと、尊敬補助動詞「よわる」「わる」が接尾する場合に、四段、カ行
変格、サ行変格、上一段、の活用の動詞には、
敷き、継ぎ、差し、打ち、ふさ(栄)、とよみ(鳴響)、取り、ち(来)、し(為)、み(見)
のような連用形に「よわる」が抜尾し、他の一段活用の動向には、
開け、掛け、寄せ、さうぜ、立て、撫で、揃へ(~そろい)、治(ひぢ)め、歓(あま)ゑ、生れ、呉れ、降(お)れ、群(ふ)

のような連用形に「わる」が接尾するというのであります。(細説すべき問題点があるけれども省略。)
これは、私の観点からいいますと、非常に重大な発見だと思います。『おもろさうし』は申すまで
もなく、平仮名で書いてありますが、もし平仮名が「B時代」に本土から借用されたのだとしますと、
先ほどお話ししました琉球漢字音の場合と同様、当時の琉球の人々には、本土人の読む「き」も「け」
もともに[ki]と聞こえて、「き」と「け」の混用が最初から起こっているはずです。仲宗根さんの
指摘された仮名の遣い分けや、『おもろさうし』に一般に「き」と「け」の混用、が少ないことなどか
ら考えますと、平仮名は「B時代」ではなく「A時代」に借用されたものに違いないと言えると思い
ます。それならば、それは何年ごろかと言いますと、言語学の方からは、一五〇〇年よりかなり前に
違いないとは申せますが、今のところはっきりしたことは言えません。浦添城主英祖の時代の一二六
五年に渡来した禅鑑という僧が仏教と文字をもたらしたといわれていますが、その時に平仮名がはい
ったのだとしますと、十三世紀の半過ぎは、正に「A時代」だったということができるのです。浦添方
言は恐らく後の首里方言へとつながって行く琉球中央方言だっただろうと思います。とにかく、平仮
名が琉球の文字としていつごろ定着したかは、さらに今後の研究に俟たなければなりませんが、以上
述べました言語学的考察によりますと、一五〇〇年よりはかなり前だったということは確信できます。
 ところが、『おもろさうし』の第一巻が結集された一五三一年は明らかに「B時代」ですし、二 回
目、三回目の結集の行なわれた一六一三年、一六二三年となりますと、ますます「A時代」から遠ざ
33 琉球語源辞典の構想
かりますが、それにも拘らず、たとえば「き」の仮名と「け」の仮名が ━━ 部分的な例外を除き ━━ 
遣い分けられているのは何故か。これは次のように説明できます。私の仮説に従いますと、次のよう
になります。
A時代  B時代
き *ki き [ki]  
け *ke け [kɨi] 
く *ku く [ku] 
こ *ko こ [ku] 

すなわち、「A時代」に、「き」という仮名と *ki という琉球音とがが結びつき、「け」という仮名
*ke という琉球音とが結びつきますと、その後琉球語において「A時代」から「B時代」への音韻変
化が起こりましても、琉球語では「き」が[ki]と読まれ、「け」は[kɨi]と読まれ、その上[ki]と
[kɨi]とは音韻として互いにはっきり区別されているのですから、「き」の仮名と「け」の仮名は混用
されないわけです。
 ところが、先ほどの私の仮説が正しいとしますと、「A時代」に「く」の仮名、 *ku という琉球音
と結びつき、「こ」の仮名が *ko という琉球音と結びついても、「B時代」になりますと、琉球語では
*ku と *ko が合流して同音の [ku] となりますから、「く」も「こ」も琉球語では [ku] と読まれる
こととなり、したがって、「B時代」になりますと、「く」と「こ」の混用が始まるはずです。(他の
行の仮名もこれに準じます。)果たせるかな、『おもろさうし』には 、次のような仮名遣の動揺が見掛け
られます。

くだか(久高) ~ くたか ~ こだか
くち(口) ~ こち
くに(国) ~ こに
こめす(米須) ~ くめす
うち(内) ~ おち
うまれ(生) ~ おまれ
おび(帯) ~ おひ ~ うひ

これらの混用、仮名遣の動揺は、『おもろさうし』が結集された時代にすでにあったものに違いあ
りません。尤も、一七一〇年の書き改めのときに、混用がさらに追加されたではありましょうが。
しかしな、がら、私の仮説では次のようになります。

A時代  B時代  C時代
き *ki  き[ki]  [tʃi]
ち *ti  ち[tʃi]  [tʃi]

35 琉球語源辞典の構想
すなわち、「き」の仮名と「ち」の仮名の混同は「C時代」でなければ起こらないことになります。
したがって、

ちりさび(塵鈷)~ちりさひ → きりさヘ〔一例〕
くち(口) → は - くき(歯口)〔一例〕
みち(道〉 → おい - みき(上道)〔二例〕 (4)

のような誤用は「C時代」のものということになります。『校本おもろさうし』によりますと、これ
らの誤用は諸本が一致しておりますから、一七一〇年の書き改めのときの原本、具志川本にすでにあ
った可能性もあります。とにかく一七一〇年はもう「C時代」にはいっていたものと見てよいでしょ
う。『おもろさうし』にはそのほかにも「C時代」的な表記が時々見掛けられますから、ほかの文献
の研究によって、「C時代」がいつごろ始まったかを明らかにする努力をすると同時に、『おもろさう
し』そのものの表記法を精密に研究する必要があります。
『混効験集』は『おもろさうし』と密接な関係がありますから、そういう観点から研究しなければな
りませんが、『おもろさうし』と直桜的関係のない資料の研究によって、琉球語の歴史をさらに明ら
かにすることができる望みがあります。私はそういう点に気づいております。
平仮名が「A時代」に琉球にはいったと考えられますのに対して漢字音は「B時代」にはいった。
それはおそらく単なる「B時代」とか、一五〇〇年前後ということではなくて、尚真玉時代ではなか
ろうか、と私は考えております。これも歴史家の研究をまたなくてはいけませんが。尚真王はあの時
代に芥隠禅師のような偉い僧侶に円覚寺を開かせたりして、日本の文化の輸入に努め、王の時代に仏
教や和学が伝わると同時に漢学も伝わったからです。だから、尚真王の時代にはいった本土の漢字音
が琉球に定着して琉球漢字音になったのではないかというのが私の推定です。そういうことがいえる
のは人間と関係のないように見える音韻や音韻休系を取り扱っている史的比較言語学にして初めてい
えるということをご紹介したいと思ったのであります。

 それで、これはちょっと蛇足になるかも知れませんが ━━ これはまったく想像ですけれども ━━ 、
一六〇九年に島津が琉球に侵入してまいります。そのために琉球はずい分迷惑したわけで。従って琉
球の人々には薩摩に対してたいへん敵意を抱くようになりました。しかし、私の想像するところでは、
それ以前は、本土に対してそういう敵意がなかったのではないかと。尚真王の時代なんか、琉球の人
人は本土に対して案外親近感を持っていたのではないでしょうか。仮名を入れ、漢字音を入れ、漢字
の読み方を入れる。それはもちろんそういう民族感情だけでは説明できない。結局は言語・文化の類
似性も大きく作用しているに違いありません。漢字をシナ音で読むのは大変なことで ━━ 通訳なんか
ゃったでしょうね。シナ語をしゃべれたにちがいない ━━ シナ人のようなふうに漢字を棒読みする
よりも日本式の、返り点などをつけて読む方がぴったりするというようなこともあったのでしょう。
しかしやはり日本に対してはあんまり反感がなかった。本土に対して親近感があったのではないか。
37 琉球語源辞典の構想
ところが、その時代には明と盛んに交通しておりますから、ごく普通に考えるとシナに対してかな
り親近感があったのではないかというふうに想像されるのであります。しかし、よくみておりますと、
それは結局貿易で得をしようということでありまして、冊封を受ければ得ですから。しかし実際はや
っぱりシナの文化は大変違った文化です。上代の六、七、八世紀の日本はシナ文化を直接受け入れる
よりしょうがなかった。ですから、ああいう漢字音をその時代に入れたわけです。琉球の場合は、非
常に違ったシナ語よりも、近くに自分たちに親しみ易い本土の漢学や漢字音がありますから、それに
対して親近感をもっていた。それで、それを入れる方がずっと楽だという状態ではなかったのでしょ
うか。実は、先はど申しました「語音翻訳」の ━━ これは、最初、短い会話で始まっておりまして、
あとは単語がずっと並んでおるんですが ━━ その会話がこういうやりとりで始まっているんです。
「おまえはどこの人か」(ウラ ヅマ ピチュ)。そうすると、その答えが、「私は日本人だ」(ワン ヤマト
 ピチュ)という。そうしてシナ語訳の方は「我是日本国的人」となっている。これはシナ語の口語
ですけれども、朝鮮はシナに近いから、朝鮮の人は恐らく自由にシナ語が話せる人が多かったのでし
ょう。とにかく、「私は日本人だ」と答えている。それから、「おまえはいつ国を発ったか」という質
問に対して「私は去年の正月に発った」。それで「おまえはいつここに来たか」。「私は今年の正月つ
いたちに来た」。そうすると一年かかっている。実際かかったのではないだろうかと思います。当時
はたいへんですから。方々へ寄り寄り、恐らく薩摩に寄ったり長崎に寄ったり、あるいはさらに博多
に寄ったりしながら、途中で一年もかかったのではないかと思います。どうもこの会話は事実を伝え
ているのではないかという気がします。そして、どうして「私は琉球人だ」といわずに、「日本人だ」
といったのか。「語音翻沢」に記録されている言葉は確かに琉球語で、日本語ではありません。また
朝鮮の方でも彼らを琉球の使臣として接待している。そういう当人たちが自ら「ヤマトピチュ」と言
い、朝鮮側の方でも「我是日本国的人」と訳して怪まない。これは小さいことのようですけれども、
私はその背後に何か大きいものを感じます。琉球の人たちの中には、日本つまり本土の言語・文化に
対する強い親近感があり、琉球は日本の一部だ、琉球人は日本人の一種だ、といいたいような気持が
あったのではないでしょうか。朝鮮の方でもそれを卒直に認めて、「いやお前たちは琉球人だ。日本
人ではない。」などとはいわない。私は、薩摩の琉球入り以前の文献を見ていて、ときどきはっとす
ることがあるんですが、こういう点を念頭に置きつつ、古い文献を綿密に検討する必要があるのでは
ないかと思います。

 とにかく、本土の仏教や和文、平仮名、さらには漢字音までが容易に受け入れられたのは、沖縄の
民族感情として本土の言語・文化に対する強い親近感があったのではないかと思うのです。そうだと
すれば、琉球方言と本土方言との比較研究に際しても、本土方言からの借用語を見分けることに最大
の努力を払わなければならないことになります。
39 琉球語源辞典の構想

さていよいよ琉球語源辞典をどういう風に編纂したらいいのかということをお話しする段取りとな
りましたが、時間もありませんので、専門的なことは割愛しなければなりません。理想的なことを言
ってたらきりがありませんが、要するに今まで述べたいろんな文献、過去の諸文献の他に、やはり、
碑文ですね。これは非常に重要だと思うんです。石に彫ってありますから。『おもろさうし』はとに
かく一七一〇年の写本でしょう。ところが碑文はそのまま残ってる。戦争でずい分こわされて残念で
すが、拓本はまだあるだろうと思います。出版されたのは小さい字で読めないですね。実物と同じ大
きさのものを出版していただきたいということを私はずっと前からお願いしておるんですけれど。そ
れに注釈を加えて。碑文の研究によって多くのことが明らかになると思います。そのほかに、古文書
類がありますね。これは案外、今まで発見されたのは少いようです、戦争で沢山失われたに違いありま
せんが、まだ発見される可能性はないことはない。戦争でひどいことになりましたが、そういう古文
書が発見されると良いですね。琉球語の歴史を明らかにするのに、古文書が貢献すると思います。『混
効験集』はもちろん大切な文献ですが、先ほどお話ししたような観点から綿密に分析しなければいけ
ない。それから、「月刊言語』という雑誌(昭和五十三年十月号95、96ページ)に「語音翻訳」の 'akira
に当たる動詞を『混効験集』で「あけれ」と書いてあると、引用しておきました。そして『混効験
集』の「あけれ」という表記法については後に述べると書いておきました。これはまさに「B時代」
の発音の反映だという意味なんですが、先ほどお話ししましたように、『混効験集』は『おもろさう
し』の表記に忠実だからそうなっているので、その成立時代の発音を忠実に反映していると見ること
はできないと思います。『混効験集』はそういう見方から研究しなきゃならないと思います。そのほ
か、琉歌、組踊、等々、過去のあらゆる文献を批判的に調べ上げる必要があります。
これは外間さんが既に気付いておられますが、『おもろさうし』に出てくる言葉で首里方言にない
ようなものが他の方言にある。これはよくあることでして、これだけ沢山の島々にそれぞれ違った方
言が広く分布していますと、辺境の方言に かえって古い言葉が残るということがあります。ですから、
そういう意味で琉球の辺境の諸方言というものも非常に重要視すべきだと思います。
それで、理想的には、現代の琉球の諸方言を全部知りたい。欲をいいますと、網羅的にです。しか
し事実上、それは不可能ですから、少なくとも、主な方言について『沖縄語辞典』程度の記述ができ
ることが望ましい。喜界と奄美大島では、少なくとも喜界で一ヶ所、それから奄美大島では名瀬系の、
アクセントのある諸方言の中の一つ。アクセントもまた重要なんです。比較研究をするのにアクセン
トはのっびきならない鍵になる場合があるのですから。ですからアクセントのある名瀬系の諸方言の
うちの一つ。それから瀬戸内の諸方言のうちの一つ。これは名瀬系の方言と非常に違っていますね。
徳之島もいろいろ方言がありますが、少なくとも一つはいる。それから沖之永良部島、与論島。沖縄
では国頭の方言が必要です。幸い 仲宗根政善さんがやっていて下さるんですが、少なくとも仲宗根さ
んの辞典が出ないといけませんですね。それから宮古。これもいろいろあるんで、欲を言えばみんな
41 琉球語源辞典の構想
知りたいわけですけれども、少なくともそ のうちの一つ。八重山の一か所。それから与那国方言と。
そういう諸方言の中から、少なくとも一つずつはですね。国立国語研究所の『沖縄語辞典』に匹敵す
るような、あるいはそれを凌駕するような記述的研究が望ましい。本当はもっとたくさんつくると良
いんですけど、それは不可能でしょうから、それを補うものとして琉球列島の言語地理学的な研究を
進める。言語史的に見て重要な単語等を選びまして、できるだけ調査地点をふやしてやる。今までの
「面白い言語地図を得る」ための言語地理学ではなく、比較方言学的言語地理学が必要です。
それから、今申しましたような諸方言の辞典には、これは是非お願いしておかなければならないの
ですが、ある種の基礎的な単語に対応する単訪がその方言には無いということがあります。無いとき
に、たいていの辞書は黙っているわけです。しかし、ただ書いてないというだけですと、その単語が
無いのか、あるいは書きおとしたのか、わからないわけです。後世になるとそのことがわからなくな
るし、我々他所者にとってもわからない。その土地の人々にとってはわかりきったことですけれど。
こういうわけで、「ない」とい うことを書いておくことは、非常に重要なんです。「ない」ということ
で、また考えが変ることがありますから。
それからもう一つは、形が対応していても意味が変わっていることがあります。意味を中心にして
調べるとちがった単語が出てくる。例えば「火」という意味の単語を調べると [umatsi] という方言
があることがわかりますが、この方言で「ヒ(火〉」に形の対応する単語がないのではなくて、《火》
とは違った意味になって有るかも知れない。そういうことがあるんです。京都府竹野郡の方言で「ケ」
という単語がありまして、「草木の総称」とある。これはもしかすると、奈良時代の中央方言の「木」
の意味の〔kɨi〕(乙類の「キ」)に対応する単語のなごりではないか。意味は変わっておりますけれど。
そういう疑いがあるんです。そういう意味で、意味は変わっていても、形は対応する単語が、その方言
に有るかも知れないので、そういう単語があれば、ぜひ記述しておいてほしいのです。それによって
意味変化が起こったこともわかります。また、例えば首里方言で「刷毛(はけ)」のことを /haki/ というと
『沖縄語辞典』に見えます。これは、例えば奄美大島の大和浜方言だとか、徳之島浅間方言を調べま
すと、音韻法則の点から、これらの方言に見られる対応の単語は本土方方言から借用した単語にちがい
ないと確信できるのです。ところが、首里方言だけ見ていたのでは、 /haki/ は音韻法則に合っていま
すから、借用語かどうかわからない。しかし、いま申しましたような外の方言と較べますと、首里方
言のも本土方言からの併用語ではないかと考えられてきます。ところが宮古の名嘉真三成君の方言に
は、これに対応する単語は無いというんです。これは有力な情報です。「刷毛」は、首里にとっても、
本土方言からはいった単語である疑いがますます濃厚になる。恐らく借用語であろう、と考えられま
す。そのほかの辺境諸方言も調べれば、そのことは一そう明らかとなるでしょう。こういう具合で、
この方言にはこの単語に対応する単語は無い、という報告もたいへん大切なのであります。
すべての琉球諸方言についてそういった研究ができると琉球語全体の歴史が今よりはずっとはっき
43 琉球語源辞典の構想
りしてくる。どういう時代にどういう借用語が本土方言からはいってきたか、ということも、いろい
ろな程度に明らかになってくるでしょう。このようにして借用語を選り分けて行けば、日本祖語まで
さかのぼる単語はこれこれだというようなことまでいえるようになるでしょう。それにはいろんな方
法がある。今でもまだ絶望ではない。例えば「鏡」という意味の単語は、首里では /kagaN/ ですね。
あれは国頭方言とか、喜界島方言などと比較しますと恐らく借用語だ、日本本土からはいってきた単
語だということが言えるのです。首里方言の /kagaN/ は、ちょっと形だけ見るといかにも日本祖語か
ら来たような顔つきをしておりますけれども。そういうことも琉球諸方言の分布状態からいえる。で
すから、是非、方言の分布状態をも調べる必要がある。
そういう辞典と、先ほど辞典と申しましたが、文典も要るんです。もちろん、文典を除外すること
はできない。国立国語研究所の『沖縄語辞典』の序文の文法はすばらしい。ああいうものがやはり少
なくとも今いった種々の方言について出来なければいけないわけです。それによって琉球語のたとえ
ば動詞というのは、日本祖語以来どういう変化発達をしてきたのか、というようなことがわかる。ま
た逆に日本祖語の動詞の活用はどういうものであったかということも言えるようになるでしょう。で
すから、是非、辞典ばかりではなく文典も作っていただきたいと思います。
それからそういう辞典と文典だけじゃないのです。例えば今、外間さんがおやりになっている歌謡
の集成ですね。これも非常に重要なもので、ことばなどというものはつながりの中で使われるわけで
すから、どういう文脈の中で使われるかということがわかるほどよろしいのです。しかも、その歌謡
には古い単語が残っていて『おもろさうし』のそれと合うというようなこと、そういうものの記録は
大切ですね。先日『南島歌謡大成、宮古篇』という大著を外間さんからいただいた時に礼状に書いた
と思いますが、これは『おもろさうし』に匹敵する文献になるかも知れないと。ああいうものは、宮
古方言だから一そう良いのですね。変わった方言が一そう有難いのですが。ほうぼうの方言にもある
のならば是非今のうちに記録していただきたい。
それから、上村幸雄さんが会話語の記録をしておられる。これも必要ですね。会話というものは歌
謡とは違った特徴を持っていますから、会話語の記録もできるだけ沢山作っておく必要があります。
これを要するに、琉球諸方言の研究は、本土諸方言との比較研究の観点ばかりでなく、それ自身の
観点に立って、すなわち本土方言に依存した形ではなく、本土方言とは独立に自分自身のすべてを明
らかにするために行なわれなければなりません。共時態の記述に際してはそれはいうまでもないこと
ですが、琉球諸方言の比較研究に際してもそうであります。今のところ、日本祖語に到る中間段階と
して、琉球祖語というものを立て得るかどうかはわからないのですが、琉球諸方言の祖語が九州方言
などから分岐して以来、琉球列島の諸方言が一つのまとまった言語・文化圏をなしてきた面があるよ
うに思われますので、まず、琉球諸方言を互いに厳密、精密に比較研究して、相互間の親族関係、借用
関係を明らかにする必要がある。こういう研究をすることによって始めて、日本語全体の史的研究に、
45 琉球語源辞典の構想
本当の意味で有効な貢献をすることができるのだと、私は考えております。

 しかしながら、そういうふうに申しますと、それを琉球方言の研究は本土方言の研究から絶縁せよ
という意味におとりになるおそれがないとは言えませんが、けっしてそうではない。その研究に際し
ては、いつも細心に本土方言との関係、つまり本土方言の単語に対応するものが琉球方言にないか ━━ 
それはあたかも、おもろ語にある単語で、首里方言になく辺境の方言にあるものがありますように、
奈良時代等の日本語の単語に対応するものが琉球にないだろうかということはいつも考えていなけれ
ばなりません。また、逆に琉球にある単語で今のところちょっと本土にないように見えるけれども、
もしかしたらあるかも知れない。そういう考えは決っして棄ててはいけないのです。例えば、首里方
言で「姿」とか「陰」という意味の /kaagi/ という単語があります。第一点目節の母音が長いわけです
ね。東京では〔ゲ〕京都では〔カ〕です。この第一音節の母音が長いという特徴は、中木正智さ
んの研究によりますと、沖縄では、南部ではかなり広がっているし、伊平屋島なんかも長いんですね。
ただ、仲宗根さんの今帰仁村字与那嶺方言では「ギ」ですが、
アクセントの山が「」にあるとい
うことは、首里方言の長母音と、音韻法則的に合うんです。私の考えでは、その長いのが元で、その
長母音が短縮して、アクセントの山がそこにできた。これは徳之島の諸方言を調べている聞にそうい
う考えになったのですけれども。ですから、[ka:gi]というふうに第一音節の母音が長いという特徴は、
日本祖語にまでさかのぼるのではないかと考えていたのです。中本さんの研究によりますと吐噶喇(とから)列
島の尾之間、宮之浦、中種子の諸方言 に [ka:ŋe] という形があるのです。吐噶喇列島というのは琉球
方言外になるわけです、今のところは。本土方言に属すると考えられております。それだけでもこの
長母音は日本祖語にさかのぼる蓋然性が大きくなる。ところが、一昨年でしたか、秋に日本言語学会
が名古屋大学で聞かれました時に、野村正良教授が、だいぶ前から揖斐川の上流の方言に非常に興味
をもっておられまして、長年の研究の結果を発表されたんです。その時に、その方言では語中の「ガ、
ギ、グ、ゲ、ゴ」がちょっと変わった促まるような有声の破裂音 ━━ 私は有声のイムプロージヴ
improsive という音だと思うんですけれど ━━ になる。ところが「カゲ」(影)だけは例外で、[kaŋge]
という。どうしてかわからないとのことでした。私はそれは、第一音節の母音がもと長かったからだ
ろうと申しました。日本祖語形としては、恐らく *kaagai を立てるべきで、第一音節の母音が長かった
ために、*g の前の鼻音化が ŋ に発達したものと考えられます。首里方言の /kaagi/ との援軍が揖斐川
上流に現れたわけです。そういうことがあるんですね。それは、私が首里方言の /kaagi/ を偶然知っていたからすぐそういうふうに言えたわけですけれど、知らないとどうして〔カンゲ〕になるんだろ
うということになります。ですから、両方の知識が連絡がなくてはいけない。揖斐川上流の方言を研
究するにも琉球方言の知識が要るということです。
それからもっとも驚くべきことは、去年の春ですか、金沢大学の上野善道君 ━━ 非常に綿蜜な研究
家ですが ━━ この人が岩手県の東北海岸の九戸郡種市町と久慈市との境界附近の六地点の方言、他か
47 琉球語源辞典の構想
ら隔絶した方言なんですが、それを調べておりました時に、「松」のことを〔マーヅ〕ということを
発見しました。これは首里方言の /maaçi/《松》と合います。それから「針」のことを〔ハーリ〕と
いう。これも首里方言の /haai/《針》と第一音節の母音の長い点が合います。それから「鍋」のこと
を〔ナーベ〕といっている。これも首里方言の /naabi/ と合います。また、首盟方言の /kuub (-aa)/
《蜘妹》、九州方一百の〔コブ〕に対応する〔コプ〕という形もこの方言で発見しました。こんな日本の
最東北部の端に琉球方言の援軍があらわれるというのは、驚くべきことです。
それでは、その辺の方言は全部の体系が古いかというとそうではないんです。やっぱり共通語の蚕
食を受けて、ほとんど中央方言化しているのです。だいたい、私は、東北方言、東部方言というもの
はすでに八世紀にかなり中央方言化していたのではないかと思います。もっとも、いわゆる東歌、防
人の歌というものは、私は、当時の東部方言すなわち東(あづま)言葉をそのまま書いたものではないと思います。東方言をそのまま書いたのではない。そのまま書いたら恐らく中央の人々にはわからなくなった
だろうと思うんです。ですから、おそらくだいたい中央方言的に書いて、その中にちょいちょい東な
まりをまぜて、方言色を出したのが東歌、防人歌だろうというのが、私のずっと以前からの考えなん
ですけれども、 ━━ それにしても、八世紀にもうすでにかなり浸蝕を受けていたのではないだろうか
と思うんです。中央政権は五世紀ぐらいから強くなって来ましたけれども、なかなか東までは勢力が
及ばなかったのではないでしょうか。そうすると、日本祖語から先にわかれた方言がまだ東(あづま)地方にあ
った。中央方言自身も同じように日本祖語から ━━ しかし東方言よりは後に ━━ 分岐してきたのです。
それが政治的文化的に有力になって、東言葉に影響を及ぼして行った。したがって、当時の東言葉は
中央方言に蚕食されつつあったに違いないと思うのですが
『万葉集』に見える東歌、防人歌は侵蝕
された形を忠実に表わすものではなくて、中央方言的文脈の中に東言葉的要素をちりばめたものでは
ないかと考えております。
で、結局、現在の中部地方から関東、東北にかけての方言というのは、東ことば ━━ 東歌、防人歌
に代表される底層の方言 ━━ が、中央方言に消されてしまい、それで今のような状態になった。けれ
ども、その辺境方言にちょいちょい底層方言の特徴が残っている。残念なことに琉球のような形で全
体的に残ってくれるとよかったんですが。先ほどの岩手県の九戸郡の方言が全体的にですね。ところ
がそうじゃない。八丈島方言でも、もうひどく侵蝕されておりますから。でもやはり、八丈島はじめ
本土辺境の諸方言は、ぜひ調べなければいけないものなのです。けれども、琉球方言はその点で侵蝕
が少ないんです。一つには、海に隔てられていたせいです。また八丈島よりも話し手の数が遥かに多
かったので、頑固にその体系を保持することができたのです。

そういうわけですから、本土方言との関係を無視していいという意味ではけっしてない。ですけれ
ども、それにもかかわらず、やはりこれに依存する形ではいけない。本土方言に依存する形でなくて、
琉球方言独自の研究がされなければいけないのです。例えば、奈良時代の中央方言に「いく」と「ゆ
49 琉球語源辞典の構想
く」という形があります。これは、『万葉集』をみているとだんぜん「ゆく」の方が優勢でありまし
て「いく」はちらほら、七例くらいしか出てこない。それで、古語辞典類をみておりますと、どうも
「いく」の方が新しいと考えられているようです。現代の口語で「いく」ですから。東京でも京都で
も「いく」、「いかない」。「ゆく」なんでいいません。そこで、「いく」の方が訛った、新しい形じゃ
ないかという考えがあって、「ゆく」がもとで、「いく」が奈良時代からすでに現われ始めたという考
えのようです。ところが、首里方言では [ʔitʃuŋ] です。「イ」[ʔi]で始まります。このように、首里
方言でグロタルストップで始まっているということは、日本祖語で母音で始まっていたということの
印なんです。それで、琉球方言を見てみますとそれをみんな支持する形が出てきます。ですから、逆
に「ゆく」の方が新しいんで「いく」の方が古いんだということがわかるんです。ですから、「ゆく」
を基点にしまして琉球方言は例外だという。それではいけない。実は逆なので、この点では琉球方言
の方が古いのです。また、例えば「ゆめ」(夢)。これが奈良時代に「いめ」という形と「ゆめ」とい
う形と両方あって、これは古語辞典をみると「い」が「ねむる」という意味で、「め」は「目」と同
じもんだというふうに書かれている。「いめ」の方が古くて、「ゆめ」の方が新しいんだろうというふ
うに書いてあります。これは確かにそれが正しいので、首里方言では [ʔimi]、名瀬でも [ʔimi] で [ʔi]
で始まっています。それで日本祖語形としては「め」が乙類ですから *'imai という形が再構されるの
ですが、「い」が古くて「ゆ」は新しいんだということが琉球方言によっても確認されるわけです。

ところが、琉球にも、例えば宮古の大浦方言の [jumi] のように、「イ」が「ユ」になった形があるんで
す。本土方言と並行的な変化がおこった。そこで私はおたずねしたいんですが、与那国方言ではどう
いうんでしょうか。「夢」のことを。どなたかすぐ教えていただける方がありますか。(会場から [dumi]
という返答があった。)それだとたいへん面向いことになる。私はそれを期待して、多分そうじゃない
かと思っていたんですが。それは、どういうことになるかといいますと、この単語の第一音節は日本
祖語では *'i です。それが、宮古の大浦で [ju-] になっている。それから、与那国でも [ju-] になって、
それが、[du] になったんだということです。与那国では「山」が [dama] などのように、他の方言

の j- に対して d- が対応するので、この方言の d- は日本祖語の *d- を保持するものだという説があ
ります。この説はいろんな徴証から疑わしいと思っていたんですけども「夢」が [dami] ならば、そ
れは一つの証拠になる。与那国の d- は日本祖語にさかのぼる古いものだとはいえなくなる。 [dumi]
の d- は確かに新しく発達したものだ、といえるからです。私は、中本君の本を見ても「夢」に対応
する与那国方言形が出て来ない。ですから、今日ここで質問しようと思って、中本君と飛行機の中で
いっしょに来たんですけれど質問しないできた。そういう観点から見ていくと、与那国方言のことが
またよくわかるようになって行くでしょう。どういう変化が起ったかということが。同様に八重山の b-
も、奈良時代中央方言の w- に対応する b- もですね。これは日本祖語の *b- にさかのぼるといいま
すけれども、私はまだ断定を保留しているのです。もう少し研究しなくてはいけない。いろんな疑わ
51 琉球語源辞典の構想
しい点がある。w- の方が古いかも知れない。これも全体的な研究によってわかってくると思います。

それで、これもやはり本土方言の「ゆめ」を基点にしておいて、仮に日本祖語の形として *jumai を
立てておったら、与那国方言の [dumi] によって、逆に、日本祖語形を *dumai になおさなくてはな
らないということにもなる可能性があります。けれども、そうではなくて日本祖語で *'imai だとい
うことが確認されているわけですから、与那国方言形が [dumi] ならば、これは *'i- → *ju- → du- とい
う変化の結果生じた新しい形だということがわかり、その他の単語においても、
日本祖語 *j- → 与那国方言 d-
という変化が起こったのだ、ということが言えるようになるわけであります。ですから、本土方言の
「ゆめ」を基点としてやっていたんではそういう事はわからないということです。また、例えば、中
本さんの『琉球方言音韻の研究』四〇七ページの表を見ておりますと「行く」のところに、奥武方言
の [ʔitʃuŋ] などいろいろの語形があるんですが、与那国方言のところには [çiruŋ] という形が出てい
ます。これは首里方言などの [ʔitʃuŋ] 《行く》と対応しない形で、別の単語がそこへはいってきた。
その同じ意味のところに。この表だけみていると、 [ʔitʃuŋ] に形の対応する単語は与那国方言にはな
いかのごとく見えますが、もしかすると [ʔitʃuŋ] に形は対応するけれども意味の違う単語があるかも
知れない。そういうことを調べていただきたいと私は注文しているのです。つまり、意味はちがって
も形が対応する単語があるかどうかということ。それを確認するには、音韻法則を考えながらやらな
ければなりません。まあ、いろいろ注文致しましたが、いままでお話ししたことは、ほんの序論で、
「琉球語源辞典の構想」などとどうも、「羊頭をかかげて狗肉を売る」ことになりましたが、木当は本
論はこれからなんです。どういう具合にして語源辞典を編纂するかということは。しかしそれはかな
り専門的なことになります。今日は、どういうこと、がその前になされなければならないかということ
をお話ししたことになりました。

もう時間も大分超過致しましたので、この辺で終わることにいたします。

附記
高橋俊三氏が、右の講演の後で、与那国島に電話を掛けて確かめられた所によると、同方言でも「夢」は [ʔimi] であるとの答を得られた。そうだとすれば、右の議論は成り立たないわけである。
しかし、中木正智氏の研究によると、与那国方一三の仏は次のように対応する(右掲書二〇一ページ)。
与那国 di      da  du
共通語 de      da  do
    zi, ze, zu   za  zo
           'ja  'ju, 'jo
              ro

すなわち
*z → d
という変化が起こっているくらいだから、
53 琉球語源辞典の構想
*j → *ʒ → d
という変化も起こった可能性は十分ある。



(1)伊波普猷生誕百年記念会編『沖縄学の黎明』(昭和五十一年四月、沖縄文化協会)所有の拙論「琉球方言と本土方言」。
『月刊言語』 昭和五十一年十二月号(大修館)所載の拙論「上代日本語の母音素は六つであって八つではない」。
(2)『伊波普猷全集』第四巻所収「海東諸国記附載の古琉球語の研究」(昭和六年三月、および昭和八年)
(3)『月刊言語』昭和五十三年九月、十月号、および、昭和五十四年の恐らく十一月号以下。『言語の科学』
第七号(昭和五十四年三月)所載の拙論、等。
(4)「琉球館訳語」の「烏乜蜜集」(上御路)と同一語か。
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