<フォーラム1.>大野説の問題点 : 文法的特徴に関 して  (by 家本 太郎 1996)



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<フォーラム1.>大野説の問題点 : 文法的特徴に関して
著者 家本 太郎
雑誌名 日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻 13
ページ 242-232
発行年 1996-03-31
その他の言語のタイ
トル
A Note on Dr. Ohno's Hypothesis
URL http://doi.org/10.15055/00006201
4。 「日本語 = タミル語 同系説 」 の周辺をめぐって
長田俊樹
 ここでは児玉・家本両氏 のドラヴィダ言語学の立場や山下氏のタミル古典文献学の立場と
は違った角度から大野説を検討したい。 というのは、筆者の専門はアーリア語族、ドラヴィ
ダ語族とともに、インドのもう一つの語族であるムンダ語族の言語学的研究であって、ドラ
ヴィダ語についてほとんど知らず、ドラヴィダ言語学の立場から家本・児玉両氏以上には何
も語れないという筆者の限界があることを、まずおことわりしておかねばならない。ただ、
児玉氏 も指摘す る よ うに大野説 が文化 史を かな り重要視 して お り、 こ うした問題 に もふれ て
お いた ほ うが よかろ うとい う判 断 か ら、 あえて筆 者 の専 門外 で あ る考古学や民族 学 につ いて
も言及 しなが ら、総合的 に検 討 を加 え、 この 「日本 語 一タ ミル語 同系説」 を検証 す る とい う
企画 の責任 を果 た した い と思 う。 なお、 と くに こ とわ らな い限 り、頁 数 は 『日本語 の起源
新版』 の該 当箇所 を示す。
それ で は筆者 の専門 であ る言語学 か らみ た問題 点 を、児 玉氏や家 本氏 の指摘 を ま とめ なが
ら述べ る ことか らは じめたい。た だ し、 こ こではお もに家 本氏 が指 摘 した、助 詞や助 動詞 と
いった文 法 をめ ぐるタ ミル語 と直接 関わ る数 々の問題点 は除 き、大 きな点 に絞 って次 の三 つ
につ いて指摘 してお きたい。
まず第 一 に、児玉氏 が指 摘す る よ うに、 タ ミル語 と日本 語 の言語 だ けを対 象 と して比較 し
た ので はな く、文化史 と関わ る問題 を多 く扱 ってい るのは比 較言語 学 の王道 か らは逸 脱 して
い ることを指摘 してお く必 要が あ る。 と くに文 化史 の問題 で は、大 野説 に不利 な事実 には言
及 しな いた めに、言語学者 以外 か らの批判 も多 く、そ れが よ り大野 説 の否定 的見解 を増幅 さ
せ てい る よ うに思われ る。 そ して第 二 に、言語 の比較 につ いてい えぽ、児玉 ・家本両 氏 が指
摘す るよ うに、 日本語 と比較 す る際に タ ミル語 だ けを取 り上 げるので はな く、言語学 的 に系
統 関係 が証 明 され てい る ドラヴ ィダ語族全体 を視 野 にいれ て議論 すべ きであ ろ う。 ドラ ヴィ
ダ語全体 を視 野 に入れ ること と、大 野教授 が批判 した 「ドラヴ ィダ語 の祖形 を用 いて比較す
る」(32頁)こ ととを混 同 しては な らない。第三 に、家本 氏が指 摘す るよ うに、 オ ース トロ
ネシ ア語基層説 によって、 はた して 日本語 の歴 史が解明 され るのか とい う点 につ いて、大野
教授 の説明 は不十分 であ る。
そ こで、第 一一につ いて は大野教授 が証明 の材 料 と した文 化事項 を取 り上 げて、後 で詳 しく
検討 す る こととし、第二 、第三 の問題 に関わ る具体的 な点 を ここで指摘 してお こ う。
第二 に関連 して、最初 に指摘 しておかね ばな らない ことは大野説 に好意 的 な ドラヴ ィダ語
学者 として登場 す る(35-36頁)ユ トレ ヒ ト大 学の ズ ヴェレ ビル教 授 は大野説 を全面 的 には
支持 していない こ とであ る。 ズ ヴェレ ビル教授 はた しかに 日本語 とタ ミル語(あ るい は ドラ
ヴィダ語)が 多 くの類似 を示す点 につ いて同意 され てい るが、大野 教授が展 開す る タ ミル語
伝播説 には懐疑 的 であ る。 ズ ヴェレ ビル教授 は イン ドか ら直接伝播 した可能性 はき っぱ りと
(1)
否定 してお り、む しろ長 い スパ ン、つ ま り現在 の比較歴史 言語学 の方法 では証 明 で きないほ
(65) 184
「日本 語 ・タ ミル 語 同 系 説 」 を検 証 す る
ど長 い時間 を想定す れ ぽ、 ドラヴ ィダ語 と日本 語 との系統 関係 の仮説 が認 め られ る可能性 を
(2)
示唆 した にす ぎない。 しか も、 ドラヴィダ語 と ウラル ・アル タイ語 の系統 関係 につ いて は、
(3)
す でに多 くの学者 が指摘す るところであ る。つ ま り 「タ ミル語伝播説」 と 「ドラヴ ィダ語 一
ウラル ・アル タイ語 同系説 」 とで は、 同 じよ うに 日本語 とタ ミル語 の類似 性 を指 摘 して も、
まった く解釈が異 な って しま うこ とにな る。
誤解 を恐れず にい えぽ、 われわれ全員 が共時的 な レベルに おいて、 タ ミル語 と日本語 が多
くの類似 点 を もつ ことには賛 成 してい る。 言語学 が この類似 点 を説 明 しよ うとす る とき、次
の三 つの ケースを想 定す る。
(1)系 統的関係 、つ ま り同 じ祖語 か ら分岐 した姉妹 関係 に よる類似 。
(2)地 理的 に隣接 して いる ことか ら生 じる借 用関係 に よる類 似 。
(3)偶 然 の類似 。言語 の普遍性 に関わ る類似 や類型 論的 な類似 を含む。
大 野説 もズ ヴェレ ビル教 授 の指摘 と同様 に、(1)のケースを言 ってい るよ うに思われ るかも
しれないが、直接 古 タ ミル語(あ るいは プレ ・タ ミル語)が 伝播 し、基層言語 に かぶ さって
で きたのが 日本語 で ある とい う大野説 は、基層語 の影響 とい う問題 が ある ものの(2)のケース
を想 定 している ことにな る。そ して この 「タ ミル語伝播 説」 につ いて、一部 の タ ミル人 学者
をのぞ けぽ世界 的 にみ て もほ とん どの研 究者 は反対 す るで あろ うと筆 者 は断言 して もよい。
とい うの は南 イ ソ ドと日本 を結ぶ のはあ ま りに も遠す ぎる。 これは(1)の可能性 を否定 した こ
とを意味 しない。 ズ ヴ ェレ ビル教授 が指摘す る よ うに、現在 の比較 言語学 では検証 し得 ない
程度 の時間 を さかの ぼれば、 日本語 が ウラル ・アル タ イ語 に属す るか ど うかの問題 は さてお
き、 日本語 とタ ミル語 がた とえば 「ドラヴ ィダ ・ウラル ・アル タイ祖 語」 とい った共 通 の源
か ら分岐 した と想 定す る こ とに誰 も反対 しない し、児 玉氏が指摘す るよ うに、二つ の言語 に
親縁 関係が ない とい うこと も証明す る手 だ てはない ので ある。
ところで、大野教 授 が 「タ ミル語伝播 説」 に こだわ らず、広 い意 味で の同系説へ の視 野 を
もちなが ら論 を展 開す れば もう少 し違 った反応 が期待 で きた はず で ある。 そのた めに は、 タ
ミル語 に固執す るの ではな く、 ドラヴ ィダ語全体 に目を配 るべ きで ある。 これ は ドラヴ ィダ
祖語 との比較 をせ よ とい うことではな く、 同 じタ ミル語 と日本語 を取 り上 げ る として も、 ド
ラヴ ィダ語 のなかで、 あ き らかに タ ミル語だ けが発達 させた特徴 を比較 の際 に排除す るこ と
がで きる とい う意 味 におい て重要 なので ある。 また、 そ うした ことが可能 な ほ ど、 ドラヴ ィ
(4)
ダ語 学の蓄積 は多 大 な ものが ある と聞 く。
さて、次 に基層 言語説 につ いて、 その具体 的な問題 点 をみ てお こ う。
大 野教授 は 日本 語 とタ ミル語 の相違 を基層言語 に よって説 明 しよ うとして いる。 そ して具
体 的に は基層言語 としてオ ース トロネ シア語族 の 「ポ リネシア語族 の一 つに近 い音韻組 織 を
持 っていた何 らかの言語 」(217頁)を 想 定 してい る。 そ の理 由 として次 の二つ をあげて いる。
(1)オ ース トロネシア祖語 の母音 は四つ で、原始 日本語 の四母 音 とほぼ一致す る。
(2)サ モア語 を例 に挙 げて、簡単 な子音組織 で、 二重子音 や三重子音 を もたず 、母 音終
止が はなはだ多 く、原始 日本語 とおお よそ の特 徴が一致 して いる。
まず この二点 は オ ース トロネシ ア語族 の歴 史 をみ る と、ず れが あ る こ とを指 摘 してお き
183 (66)
(5)(6)
たい。母音 につ いて、原始 日本語 が 四母音 で あったか どうかにつ いては ともか くとして、四
母 音 を もつ のはオース トロネ シア祖語 で、大野教授 の あげるポ リネシア語 族 は五母 音 を もつ。
一方子音 につ いてい えば、 た しか にサモ ア語 は流音 が一つ しか な く、二重 子音 もな く、 開音
(7)
節で終 わ ってい るが、 これ はオ ース トロネ シア語族全 体 をながめ る と後 の発達 で、 オース ト
ロネシ ア祖 語 では子音終わ りも二重子音 も閉音節終 わ りもみ られ るのであ る。 さ らに、大 野
教授 が引用 したデ ンプ ヴォル フに よれ ぽ、 オース トロネシア祖 語 には タ ミル語 にみ られ る反
り舌 音 カミみ られ る と い うふ う(毘、 基 層 言 語 を想 定 す る『と して も、 オ ー ス ト。ネ シ ア祖 語 に 近
い言語 なのか、 ポ リネシア語 に近 い言語 なのかで、(1)と(2)はうま く両立 しないので あ る。
(1)と(2)が両立 しない ことに加 えて、 もし大野教授 が い うよ うにポ リネ シア語族 に近 い言語
を基 層言語 とす る と、 ここで もまたオ ース トロネ シア語史 とずれ が生 じる。 ハ ワイ大学 の言
語学 者 ブ ラス ト教授 の説 に した が えぽ、サ モア語 の成立年代 は紀元 前1000年 前後 で、東 部 ポ
(9)
リネ シア語 の成立 はさ らに新 し く紀 元前後だ とい う。 またオ ース トラ リア国立大学 のポ ー リ
(10)
イ教 授 とロス教授 に よると、 ポ リネ シア語 の成 立 はや は り紀元前1000年 頃で あ るとい う。縄
文 時代 は紀 元前一万年 か ら紀元前 三世紀前後 とみ られ てい るが、 もし大野教授 が い うよ うに
ポ リネシア語が基層語 だ とす る と、縄文時代 晩期以後 に、 ポ リネシ ア語 ぽ 日本 にや って きた
ことにな る。 こうした可能性 がま った くないわ けで はないが、 そ うす る と、 この ポ リネ シア
語 が入 る以 前 の 日本 で話 され ていた言語 は ど ういった もの なのか、大 きな問題 につ きあた る
ことにな る。 また オ ース トロネシ ア祖語 の時代 に基層言 語が広 が った とした ら、上 で述べ た
よ うにオ ース トロネ シア祖語 では反 り舌音 な どか な り複 雑 な子音構 造 を もってい る ことか ら、
タ ミル語 の子音組織 などが簡 略化 され た理 由 とは残念 なが らな らない のであ る。
日本語 とタ ミル語 の相違 をオ ース トロネシ ア語 とい う基層言語 の影響 で説 明 しよ うとす る
にはオ ース トロネ シア語史 とのて らしあわせが必要 であ る。 またオ ース トロネ シア語 を基層
言語 と認 めた として も、 い くつか説明 がつか ない ものが ある。 た とえば、上代 日本 語 の母音
(11)
調和 の現象 は ど う説 明つ けるので あろ うか。 タ ミル語 にも、 オ ース トロネシ ア語 に も母音調
和 はみ られ ないはずで、初期 の大野説 では原 タ ミル語 が 日本 に広が った後、 アル タ イ語系統
の一 言語が朝鮮半 島 を通 って 日本 の支配 層の言語 として、金属器 、稲作、 高度 の機織 を もっ
(12)
てはい って きた とされ、 それが母音調和 を もち こんだ とある。 しか し、今 回展開 され る説 は
金属器 、稲作 、機 織 も南 イ ン ド起源 とみな し、 は っき りと言 明 はしていないが、 アル タ イ系
の言語が 日本語 の成立 に関与 していない との説 を とっている よ うに思わ れ る。 この母音調和
が 「タ ミル語 一アル タイ語 同系説」 の一つの柱 をな してい ることか らも、 ぜ ひ説明 が望 まれ
るところであ る。
以 上、言語 学 の立場 か ら、 日本語 と比 較す る対 象言語 の選 定 に関す る問題 と基層 言語 の問
題 につ いて述 べた。細 かい タ ミル語 と日本語 の対応 に踏み込 む前 の段 階で も、 まだ まだ大 野
説 が解決 しな くてはな らない問題 が残 って い るよ うに筆者 に は思 えてな らない。 なお、 山下
氏 の指摘 に筆 者が とくにつ け くわ え ることはな く、古典 タ ミル語 か ら、 サ ソスク リッ ト語 、
そ して現代 タ ミル語 まで、広 い知識 に基づ く山下氏 の指摘 に対 す る大野教 授 の反論 が待 たれ
ると ころで ある。
(67) 182
「日本 語=タ ミル 語 同系 説 」 を 検 証 す る
言語 学 か らはなれ、 自然人類学 や考古学 、そ して民族学 の立場 か らみ る と、言語学 の 問題
以上 に、大野説 の反証がみ いだ され る よ うに思 う。 それ は大野教授が あ きらか に自分 に不利
な証拠 に目をつ ぶ って しまわ れ るか らでは ないか と感 じられ るほどで、大 野説 では説 明 で き
ない反証 に はま った くふれ て いない。大野 教授 はな に よ りもまず 「日本 語;タ ミル語 同系
説」 を優先 させ んがため、類似 す る文化 要素だ けを取 り出 して並べ るため、か え.って こ じつ
けてい るよ うに疑 われ て しま うよ うに思 う。む しろ反証 は反証 として、今 後の研究 の課題 と
す るとか、初期 の大野説 の よ うにさ らに アルタ イ系 の言語 が入 ってきた として説 明を試 み る
方が読 者 は納得 す るのではないだ ろ うか。 また よ り基本 的 なことをい えば、文化事項 の伝 播
をい うた めには、そ の文化事 項 の分布 をあ げ、 その時代 を しめ し、 そ して文化事項 の特徴 を
分析 して、他 の地域 よ りもあ きらかに南 イ ン ドか ら来 た蓋然性が高 い と提 示 しては じめ て、
多 くの人 に受 け入れ られ る よ うに思 う。 それ ほ ど日本 文化 との類似 だ けを あげれ ぽ、 「日本
文化の ふる さと」を うたい文句 とす る場 所(た とえぽ雲南や東南 アジアな ど)は 多 く、 これ
(13)
まで にいろんな人 が指摘 して きた のであ る。
まず何 よ りも動かせ ない反証 は自然人 類学者 によ る人 骨 の研究 であろ う。 これ は 「タ ミル
人渡来説」 の立場 か らい えば、致命 的な欠 陥で ある。埴 原教授 らの研 究 に よると、縄文 人 は
南方系古 (14) モ ソゴ ロイ ドであ り、弥生人 は北 方系新 モ ソゴロイ ドであ るとい う。 ところが タ ミ
(15) ル人 につ いてみ る と、 リス レーに よれば ドラヴ ィダ人種 といい、 ハ ッ トンは ドラヴ ィダ とい
う言語名 か らの人種名 を排 し、 まず カース トに よって差 が ある ことを指摘 した後 、高 い カー
(16) ス トの人 は地 中海人種、低 いカース トはオ ース トラロイ ドとみ てい る。 いず れ も、 モ ンゴ ロ
イ ドは登場 しない。 もちろ ん、大野教 授 は人種 と言語 と文化 の三項 を アメ リカの黒人 が英語
を しゃべ る例 を あげて、混 同 してはい けない と戒 めてい る(7-8頁)。 しか し、 「タ ミル人
渡来説」 に立 て ぽ人種 と言語 と文化 は一体 で、言語 と文化 だけが 日本 にもた らされた と考 え
るの は誰 の 目か らみ て もお かしい。 まして墓制 一 セ ッ トが南 イ ン ドか らや って きた とす るな
ら、 その墓 に埋 葬 され てい る人 が タ ミル人 であ る と考 えるのは ご く自然 の ことで ある。 しか'
しなが ら、残念 なが らタ ミル人 の人骨 はみ つか ってい ない。
で はモ ンゴロイ ドの人骨 しかみ つか らない こと と、大野説 の妥協 点をみつ け る とす れ ば、
次 の三 つの ケースが考 えられ る。
(1)南 イン ドに行 って、 タ ミル語を習得 した モ ソゴ ロイ ドの渡来。
(2)日 本 と南 イ ソ ドの 中間 に、 タ ミル語地 域 があ って、そ こで タ ミル語 を習得 したモ ン
ゴ ロイ ドの渡来。
(3)た また まタ ミル人 の骨 が発 掘 され てい ない ケース。
(1)の紀元 前数世紀 に、 日本語 を変 えて しま うほ どの人間 が南 イン ドにい って タ ミル語 を習
得 し、 また 日本 へ渡来す る との想 定は ほぼ不 可能 であ ろ う。(2)の場 合 には、残 念 なが ら日本
と南 イソ ドの中間地 に、 タ ミル語 が話 され ていた形 跡 はみ つか ってい ない。 また筆者 の知 る
限 り、史料 か らタ ミル語 を話す モ ンゴ ロイ ドが いた ことが指摘 された ことは ない し、今 もタ
ミル語 を話 すモ ソ ゴロイ ドはいない。(3)につい てい えば、 そ うか もしれ ない としかい えない
が、上述 の埴 原教授 の弥 生人 と縄 文人の二重構 造 モデルが提 唱 され るほ ど研 究 の進 んでい る
181 (68)
分野 で、発見 され ていないだ けであ るとい う主 張が どれだ け有効 なのか は専 門家 に聞 くしか
ない。 いず れにせ よ、 それ までの 日本 語 を根底 か らくつ が えす ほ どの タ ミル人 が渡来 した と
考 えるな らぽ、一つ ぐらい タ ミル人 らしき骨 がみつ か って もお か し くない と思 うのは素人考
えなのだ ろ うか。
何度 も繰 り返 す よ うに、筆 者 には 「タ ミル人渡 来説」 がすべ ての破綻 を招 いて い るよ うに
み える とい うの は言 い過 ぎだ ろ うか。 アジア全体 の地 図を開 いてみれ ぽわ か るよ うに、海路
南 イ ン ドか ら日本へ来 るため には、 現在で も タンカーの難所 と言わ れ るマ ラッカ海峡 を越 え
て こな くてはな らない。大野 教授 が指摘 す るボ ー トピー プル(225頁)や オース トロネシ ア
語族 の マダガス カル島 への拡散(13-14頁)の よ うに、一一度 船 に乗 った ら海流 な どで漂 流で
きる場 合 とは違 い、 マ レー半島や スマ トラ島 とい う障害物 が存在す るので あ る。 そ の 日本 と
南 イン ドを結 ぶ際 に障害物 となるマ レー半島 やスマ トラ島 にタ ミル人 が いた とい う可能性 を
示す痕 跡 は大野 教授が指摘 す る よ うに巨石文化(223-225頁)を 除 け ばほ とん どない。 しか
も東 南 アジアの巨石文化 は南 イソ ドか ら伝播 した とい う説 がか な らず しも認 め られ てい るわ
(17)
けで はない。 そ うす る と、 タ ミル人 た ちはた だひたす らマ レー半 島に も目を くれず、 スマ ト
ラ島 にも興味 を示 さず、 日本や朝鮮 半島 を目指 した ことに なる。上 で あげた ボ ー トピープル
につ いては、 経済的政治 的動機 づけが ある うえ、い くらボ ー トとはい え二十世紀 ので きごと
であ る。 また、 マダガス カル島へ の移 住 はオース トロネシ ア民族 が海 洋民 であ るこ と、オ ー
(18) ス トロネシア人 の飛躍 的拡散 の時期 で あ る紀元 後600年 頃に お こった こ とな ど、 どち らに も
それ な りの理 由がみつ か る。 タ ミル語 の古 い文献 に、 日本 や朝鮮半 島 に関す る記 述 がみつか
れば 日本 を目指す理 由 もある程度 つかめ るか もしれ ないが、今 の ところ大野教授 も こ うした
記述 に出会 ってい ない よ うで ある。
この 厂タ ミル人渡来説 」 の欠 陥には大野教授 自身 も気 がつ いてい るふ しが あ る。 とい うの
は、 「南 イン ド文 明 の東 シナ海 ・黄 金海域 へ の流入(B.C.7-B.C.2世 紀)」(241頁)と い
う図 には台湾 と中国 の沿岸 部、朝鮮半 島、九州 な ど西 日本 の一部 しか載せ てお らず、南 イン
ドか ら台湾 までの流入経路 は どこに も掲載 してい ないのであ る。大野 教授が 「タ ミル人渡 来
説」 を堅持す るおつ も りならば、 タ ミル人 は どの よ うな経路 で 日本へ や ってきたの か、 マ ラ
ッカ海峡 を越 えて きた のか、 はたまた スマ トラ島や ジ ャワ島を迂 回 したのか等、 は っ き りし
た海 路 を示す べ きで あろ う。 またいずれ の経路 を とるにせ よ、南 イン ドか ら出航 して最初 に
見 える陸地 が 日本で はない こ とはあ きらか な以上 曳最初 の陸地 に上 陸 したか ど うか も含 め、
なぜ タ ミル語 はその地 に定 着せず、 さらに日本 を 目指 したのか、 その理由を提示 すべ きであ
ろ う。
さらに、海上 交通路や船 につ いての大野教授 の説明 はかな りのルール違反で あ る。 エジ プ
トの大 きな船 の話を書 いた り(227頁)、 紀元二世紀 に ローマ皇 帝が南 イ ン ドを経 て 中国の皇
帝 に親書 を もた らした例 をあげ て、 「当時 の東南 アジ ア、西南 太平洋 の海上 交通 の盛 んな さ
まを想見す る ことがで きる」(227頁)と い った りす るが、 問題 となってい るのはエ ジプ トや
紀元 二世紀 の話 で はない。 また 中国 と南 イン ドの交易 とい うことで言 えぽ、す でに漢 の武 帝
(19)
の時代(紀 元前 二世紀頃)に お こなわ れて いた ことは東南 ア ジアの概説 書に書 いて あ り、 も
(69) 180
「日本 語=タ ミル語 同 系説 」 を検 証 す る
う少 し タ ミル人 渡 来 説 に有 利 に な る よ うな 事 実 に は ど ん欲 に な るべ き で あ ろ う。
そ う した例 を 一 つ あ げ る と、 タ ミル語 を 含 む ド ラ ヴ ィダ語 の 《船 》 を意 味 す る語 はHornell(1920)の 指 摘 以 後 、 オ ー ス トロネ シ ア語 研 究 者 は オ ー ス トロ ネ シ ア語 か ら の借 用 とみ
(20)
て い る と い う点 で あ る。 そ の ド ラ ヴ ィ ダ語 か らみ て い く と、DEDR3838に つ ぎ の 語 彙 が み
られ る。
Tamil
Malayalam
Kannada
Tulu
Telugu
pa重avu,pataku
patavu,pataku
paσahu,pa"agu,
pa"angu,ha¢agu,ha¢aga
pa¢avu,pa¢a
ha{量agu,ha¢aga
pa¢ava
`smallboat,
`ship,largeboat'
`ship,largeboat'
`boat'
`ship'
`boat'
一 方 、 こ の ドラ ヴ ィ ダ語 に対 応 す る オ ー ス トロ ネ シ ア語 をみ る と、 マ レー 語padaw古 ジ
ャ ワ語parahaな どが あ る が、 オ ー ス トロネ シ ア祖 語*pa4aguの 語 形 が も っ と も ち か い。
オ ー ス トロネ シ ア研 究 者 に よれ ば、 紀 元 前 二 千 年 紀 の 中 ご ろ か ら紀 元 前1000年 頃 ま で に 、 そ
の ころ 南 イ ソ ドで話 され て い た が 、 今 は消 滅 して し ま った オ ー ス トロネ シ ア語 か ら ドラ ヴ ィ
(21)
ダ語 は借 用 した とみ て い る。 大 野 教 授 は も っ と こ の借 用 語 に注 目な さ るべ きで あ る。.も ち ろ
ん、 海 上 民 で あ る オ ー ス トロネ シ ア人 か ら、 ドラ ヴ ィダ 人 が 船 と と も に、 この語 を 借 用 した
との見 解 は崩 し に くい が 、 タ ミル 人 が 早 くか ら船 を使 って 海 を行 け ば、 オ ー ス トロネ シ ア人
の 住 む と こ ろ に到 達 す る こ とを知 っ て い た こ との 証 拠 に は な る はず で あ る。 た だ こ う した 事
実 を も って し て も、 な ぜ 日本 を 目指 した の か に つ い て は 答 え は み つ か ら な い。
次 に考 古学へ移 ろ う。筆者 はま った く考古学 につ いてはずぶ の素人 で ある。 したが って、
考古学者 が書 いた ものを読 んで理 解 した範 囲での指摘 しかで きない。ただ考古学 の成果 、 あ
るいは発掘 の成果 は考 古学者 でな くとも、 こ うした問題 に関心 のあ る言語学者 は積 極的 に利
用すべ きだ と筆者 自身 は考 えるので、 あえて素人 を承知 の上、大野説 を検討 したい。 この点
にか ん し、大野教授 は 『月刊 日本 語論 』1994年11月 号 に、考古学 と言語学 との噛み合わ せが
うま くいか ないこ とを考 古学者 の責任 と して、か な りはげ し く考古 学者へ の批判 を述べ て い
(22)
るが、 この批判 は次 の点 で あた ってい ない。 まず考古学者 の なかに、 オース トラ リア国立 大
学 のベ ル ウ ッド教授 の よ うに、考 古学的裏付 けの ない空 白部分 に対 してオース トロネシ ア比
較 言語学 (23) の成 果 を積極 的に利用 してい る学者 を忘 れ てはな らない。 そ して皮 肉な こ とに比較
言語 学 を積極 的 に利用す るため に、考 古学者 か ら批判 を浴 びてい ることも大野教授 は理解 を
示 (24)
すべ きであ る。 さ らに、考古学者 が比 較言語学 の成果 を利 用 しない ことへ の批判 をす る前
に、大野教授御 自身 が果 して考古学 の成果 を利用 な さってい るのか、 自問 なさ る方が先 では
なかろ うか。大野 教授 は東 南 アジ アの巨石文化 につ いて、南 イ ン ドに あるマイ ソール大学 の
ラマ ンナ博士著 『南 イ ン ドと東南 アジ アの巨石文 化一 その比 較研究 』の一冊 でかたづ け よ う
として いるのはあ ま りに も安 易 にみ えるのは筆者 だ けでは ない と思 う。
179 (70)
で は具体 的 な問題 に入 ろ う。そ の多 くの問題 点につ いて は、現在 もっ とも精 力的 に活動 中
の考古学者 佐原 眞歴 史民俗博物 館副館長 が、大 野教授 と民族 学者大林 太良教授 や国立 民族学
博物館館長 佐々木 高明教授 らとの シ ンポジ ウムの なかですで に指摘 してい る。そ のシ ンポジ
(25)
ウムの模様 が一冊 の本 とな って いるので、 その本をみ なが ら指摘 して お こ う。
このシ ンポジ ウムのなかで佐原教授 が指摘 した疑問点 の うち、い くつ かにつ いては今度 の
本 で訂正 され てい る。 た とえぽ、 旧説 で はタ ミル語 の伝 播 は縄文 時代 の中期 とされて いたの( 26)
が、 臼や杵 はせ いぜ い縄文 時代晩期 に しかさかの ぼれな い とい う指摘 か ら、今度 は縄 文時代
晩期 に タ ミル語 の到来 を設 定 してい る。 また箸 につ いて もせ いぜい五、六世 紀 に しか さかの ぼ (27)
れない とい う指摘 で、今 回 は対応語 リス トか らはず してい る。 しか し、すべ ての指摘 が受
け入 れ られ たわ けではない。た とえぽ、南 イ ン ドと日本 の甕棺 の比較 につい て、 九州 の甕棺
(28)
について の橋 口達也 さんの研究 をひ いて、 時代 とともに蓄 え るため の壷 が埋 葬用 の甕棺 に変
(29)
化 して いった説 を佐原教授 は紹介 しているに もかかわ らず、 こ うした指摘 は今度 の 『起源 』
にはい っさい言及 されてい ない。 また甕棺 に くわ えて、今 回墓 制一 セ ットが南 イ ン ドか らや
って きた と大野教授 は主張す るが(116頁)、 この うち支石墓 につ いて、佐 原教授 は シ ンポ ジ
(30)
ウムを ま とめた本 の巻 末の一覧表 の なかで、大陸 か ら伝来 した要素 とみ なしてい る。 これ ら
墓制 一 セ ヅ トを南 イ ソ ドと結 びつ ける根拠 は大野教授 の研究 の中心 をなす はず の言語 の対 応
例 としては タ ミル語 、tariと 日本語taruの 例 だけで(127頁)、 その他 の比較言語 学 的な根
拠 はい っさい示 され てい ない。 しか も佐原 教授 はこの樽 は古代 に はな か った と指 摘 して い
(31)(32)
るし、単 なる類似 は考古学的 に意味 のない場合 があ る ことも指摘 してい る。 つま り、 この墓
制 につ いて いえば、比較言語学 の成果 を考古学者 が利用 しな い との批判 とはま った く関係が
ない ことになる。 考古学者 に耳 を貸 さない大野教授 が考古 学者へ の痛 烈 な批判 を述べ るの は、
大野説 を補 強す る考古学的成 果がみ られ ない とい う単 な るい らだ ちに さえみ えるの は筆 者だ
けだ ろ うか。
墓制 一セ ッ トに関 して も う一言つ け くわ えてお くと、 た んに甕棺 が似 てい るだ けでな く、
墓制一 セ ッ トがすべ て並行 的 にみ られ る ことを強調 してい なが ら、副葬 品につい ては まった
くふ れ られ ていな いのは ど うしてなのだ ろ うか。た とえば、吉野 ヶ里 遺跡 か らはガ ラス製管
玉や有 柄銅剣 な どの副葬 品が出土 してい る。結論 だ け言 えぽ、 これ らについて はさす が に大
(33)
野教授 自身 も出所が は っき りしていて、南 イ ソ ド起源説 を打 ち出せ なかっただ けにす ぎない
と筆者 はみ てい る。つ ま り、大野教授 が考古 学的 に反証 が あ らか じめ予測 されそ うな:文化事
項 は一応 のぞいて か ら、南 イン ド起 源説 の可能 性 を探 って きた ことになる。 そ うだ とすれ ぽ、
副葬 品 と同様 、 も う少 し考古学 のデ ータ集 め に熱心 にな るべ きで はなか ったのか。
考 古学 デ ータを軽視 した結果、 墓制以外 で も、考古 学が容赦 な く大野説 を打 ち砕 い てい る。
大野 説 に よると、稲 は縄文 晩期 に南 イソ ドか ら渡来 した こ とに なってい る(244頁)。 ところ
が、 岡 山の南溝手遺跡 で、縄文後期(約 三千 五百年前)の 土器 片か ら稲 の プラン ト・オパ ー
(34)
ルがみつ か ってい るし、 さ らに同 じ岡 山県姫 笹原遺跡 か ら縄文 中期(約 四千五百年前)の プ
(35)
ラン ト・オパ ール がみつか った とい う。 また、南 イ ン ドと日本 を結ぶ 中間地 の東南 ア ジアで
は さらに古 い時代 に栽培 稲 があ った ことがわか ってい る。紀元 前二千年紀 に、 タイ中部、 フ
(7Z) 178
「日本 語=タ ミル 語 同系 説 」 を検 証 す る
イ リピソのル ソン島、 ボルネオ島 のサ ラワクか ら栽 培稲や農 具が出土 し、 しか も石 斧類 の分
布 (36) か ら中国南部 か ら伝 播 した と考古学者 は指摘 してい る。 この時代 は残念 なが らまだ ドラヴ
ィダ祖語 の時代 で、 タ ミル語 は分岐 していず、 タ ミル人 に よる稲 の伝播 の可能性 は ま った く
ない。 また金属器 の うち青銅器 につ いて、1987年 に出版 され た 『岩波講座 日本考古 学』 に よ
る と、青銅器 の最古 の もの は山形 県 の三崎 山A遺 跡 出土 の中国殷 中期 の青銅 刀子 で、縄文 後
(37)
期 か ら晩期 にか けての土器 に伴 うもの とい うし、鉄 器 につ いてい えぽ、縄文 晩期 の鉄 斧 は中
国 ・朝鮮 の鋳 造斧 の系譜 を ひ くもので、直 接的 には朝 鮮 か らの船載 品 と考 えざるを えない と
(38)
い う。
以上、考古 学 の素人 が論文等 を読 んでわ か る範 囲で大野説 の反証 を あげたが、考 古学 の専
門家 であれば (39) 、筆 者 があげた以外 にももっ と多 くの反証 を提示 で きるか もしれ ない。 しか し、
大野説 の全 て に反証 をあげ るのが筆者 の目的で はない。大野説 があげた証拠 は並行 関係 とい
った ものが多 く、今や 自然科学 の助 けで青銅器 の化学 分析や稲 の プラン ト ・オパ ール分析 に
(40)
よって、 日本 の青銅器 や稲 との比較 の精度 が大変 向上 して いるなか、金属器 や稲 を南 イン ド
起 源 とみ るのは これ までの考古学 の成 果 をま った く無視 す る ことに ほかな らない。 こ うした
強引 さは大野説 を受 け入 れ ても ら うため には逆効 果 であ る ことは強調 して も強調 し過 ぎる こ
とはない と思 うが、 いかがで あろ うか。
考古学 か らの問題 点 は これ ぐらいに し、今度 は民族学 の問題点 をみて い こ う。
上 述の シ ンポジ ウムのなかで、民族学 者大林教 授 は大 野説 の問題 点を指摘 して い るが、 そ
(41) の指 摘以上 に門外漢 の筆者 がつ け加 えるこ とはほ とん どない。そ の発 言 を引 用 して お こ う。
「さっき佐原 さんが、考古 学の場合、比 較 には比 較 の方法が あるんだ とお っ しゃった の と同
じことな んで、民族 学で も、 こ うい う比較 をす る場 合 には、や は り分布 の大勢 を押 さ えると
か、 その うえで考 えるとか、そ うい うことが必要 なわ けです」
と述 べ、小正月行事 の類似 が南 イン ドと日本以外 で もみ られ る ことを指摘 した後 、 さらに
こ う述 べてい る。
「そ れをなぜ 日本 と ドラヴ ィダだ け例 をあげ るのか。 これは非常 にア ッ トランダ ムな例 の挙
げ方 であ って、 あま り意 味 がないので はない か と思 います」
大林教授 に は正月行事 や稲作儀 礼 に関連 した著作 が あるが、その なかで は東 アジ ア全体 に
(42)
わ た って、正 月行事や稲作 儀礼 を広い視野 で比 較検 討 してい る。一方、大野 教授 があ げる 日
本 の小正 月行事 の南 イ ン ド起源説 は、 タ ミル語pohkalと 日本 語 「ホ ンガ、 ホンガ ラ」 の対
応語 だ けを核 とし、南 イン ドと日本 各地 の小正 月 の類 似点 をその根拠 として いる(103-107
頁)。 この二つ の比較 の仕方 を くらべ てみ る と、大 野教授 の比較 が いか にア ッ トランダ ムで
あ るか、 また どち らが よ り説得力 を もつ か、民族 学者 で な くともあ き らかで ある。小 正月行
事 の類似 につ いて、民族学 の立場 か らは比較 の仕方 がい いかげんで ある との指摘 で十 分大野
教授 への批判 とな る と思 うが、 こ うした民族学者 の指 摘を待 つまで もな く、 大野教授 の対 応
語 自体 にすで に問題 が ある ことを、言語 学 の立場 か らも う少 し踏 み込 んで述 べ てお きたい。
この比較 はまず 、「単語 の比較 にあた って意味 の同一 につい ては厳格 な吟味 が必 要で あ る」
177 (四)
(23-24頁)と い う大野教授 の指摘 か らい えぽ、大 きな問題 で ある。「ホ ンガホ ンガ」 あ るい
は 「ホ ガホ ガ」 の意 味 は今 はわ か らない との ことで あ るが、 『青森 県百 科事典 』 をみ る と、
(43)
「ホガホ ガ」 を こ う説明 してい る。
「豆 ヌカ とも豆 の皮 ともい うが、豆 の香 りの意 であ る とい う。 酒粕や飴粕 も用 いた。 これ ら
のめでた い香 りをただ よわせ て福 の神 を招 き、穀霊 に よって魔性 を払 った のであ ろ う」
この 「ホ ガホ ガ」 の意 味 を 《香 り》 と解釈 す れ ぱ、 『日本 方言大 辞典 』 に も 「ホ ガ」 の項
に 《香気。 にお い》 の意味 が富山県、石 川県方言 でみ られ、 うま く説 明がつ く。 また 同 じ辞
典 の 「ホ ンガホ ンガ」 の項 では、《わ き見 を しなが らゆ っ くりと道 を歩 くさま。 また、 や っ
と歩 くさま》 の意味 が み られ る。 いず れ の場 合 も、 タ ミル語 の 《沸 き立 て、 豊富 に生 まれ
ろ》 の意味 とは異 な る。大 野教授 自身 、「二 つ の単語 の意味 が一致 してい る もの と、意 味が
お よそ似 て いる とい うもの とを区別す るこ と」(22頁)と 述 べ、有効 な比 較 と無効 な比較 の
違 いを指摘 してい るが、 この比 較 ははた して有効 な のだ ろ うか。
(44)
また、以 前 か ら大野教授 の 日本 の方言 とタ ミル語 を比べ るこ とへ の疑 問 はいわれ て きたが、
この 「ホ ンガ」 や 「ホ ンガ ラ」が古 い文献 で確 かめ られ たわ けではな く、青森 の小正 月行事
の囃 し言葉 として残 ってい るだ けで、古 代 日本 か ら現在 まで この囃 し言葉 が続 い て きた とは
確認 され ていない し、確認 す る手 だて もない。 さらに、 こ うした囃 し言葉 に類 す る擬 態語 ・
(45)
擬音語 などは音韻対 応 の例 とはみ な さない ことは比較言語学 のイ ロハで ある。 つ ま り、 この
比較 自体 が言語学 的 に もか な り無理 が あ り、 こじつ けであ る といわ れて も しかたが ないので
ある。
言語 学的 な根 拠 の非常 に弱 い小正 月行 事 の類似 性 につ い ては、上 述の よ うな大林教 授 の民
族学 的反論 とあい まって、 ほ とん ど意 味 を持 たな い と断言 して もよい。大野教 授が真 剣 に自
説 をあ くまで も展開す るおつ も りであれ ば、 ア ジア全体 の正月や小 正月行事 へ も目を配 り、
なぜ 日本 の小正 月 と中国 との類似例 で は意味 が な く、南 イン ドとの類 似 には意 味 があ るのか、
ほんの一語 の、 しか も誰 もが疑問 を投 げかけ る対 応例 だ けを根拠 とす るので はな く、誰 もが
納得 す る よ うな説明 をす る義務 があ ろ う。小正 月 の類似 は大野説 の初期 の段 階か ら一 貫 して
主張 され てい るが、対応 語例 が増 えたわ けで もな く、他 の小正 月 との比較 を試みた わ けで も
ないの は、 いつ も 「日本 語 一タ ミル語同系説 」の証拠 の一つ として提示す る割 にはほ とん ど
この方面 では努力 してい ない ことを物 語 ってい るにほか ならない。 とて も残念 で あ る。
以 上、言語 学 には じまって、 自然 人類学 、考 古学、 そ して民族学 の それ ぞれ の立場 か ら大
野説 を検討 したが、 「タ ミル人 渡来説 」、 あ るい は 「タ ミル語伝播説 」 は完全 に否定 で きた と
筆者 自身 は確 信 してい る。 ここで強調 してお きた いのは、 これまでの検証 か らいえ るの はあ
くまで も 「タ ミル語伝 播説」 の否 定で あって、 タ ミル語 と日本語 との広 い意 味 での比 較研究
へ の否定 を意 味す るので はない とい うことであ る。
じつ は最近 、比較 言語学 ではか な り大 きな語族 と語族 との問の系統関係 が新 し く提 唱 され
た り、古 い説が見直 され て きてい る。た とえば、 中国語 とオース トロネシ ア語 との系統関係
(46)
が新 た に提 唱 され た り、 オース トロアジア語 族 とオ ース トロネシア語族 との系統関係 を提唱
(鴛) 176
「日本 語=タ ミル語 同系 説 」 を検 証 す る
した シ ュ ミッ ト神父 に よるオ ース トリック語族 説 の見 直 しが真 剣 に論 議 され る よ うに な っ
(47)
た り、 これ までの音 韻対応だ けで はなかなか証明 で きない関係 につ いて積極 的 に取 り組 む機
運 が生 まれ てきてい る。 とくに、 オース トロアジア語族 とオ ース トロネ シア語族 の系統 関係
は従来 (48) の音韻対応 に よる証明 では な く、接 中辞 な どの形 態法 に よって証 明を試み るな ど、比
較言語 学 に とって も新 しい研究法 が提唱 されて いるので ある。 こ うした文脈 の 中で、 ドラヴ
ィダ語 と日本語 との比 較研究 が押 し進 め られ る とす れ ぽ非常 に大 きな意義 を もつ ことは まち
が いない。 また そ うした位置づ けで、将来大 野説が見直 され る時期 が くるか もしれ な い。 そ
のた めに も日本語 とタ ミル語 との比 較だ けでな く、 ドラヴ ィダ語 を視野 にいれ、 ウラル ・ア
ル タイ語族 ばか りでな く、 シナ ・チ ベ ッ ト語 族か ら、 オ ース トロネ シア語族 、そ して オ ース
トロアジ ア語族 にいた るまで、東 アジアの言語史全部 に 目を配 りなが ら、 旧版 の 『日本語 の
起 源』(1957)の 網羅的 な態 度 を堅 持 しつつ御 研究 を続 け られ るな らば、 かな らず大 野 教授
の御研究 がむ くわれ る日が くる と信 じてい る。

(1)ズ ヴ ェレ ビル(1990)に よる と、 タ ミル語 と 日本 語 との類 似 を説 明 す るのに 四つ の ケ ー ス を
あげ、(2)で は こ う述べ て い る。 「考 え られ る可能 性 の一 つ は一 言 語 か ら他 言語 へ の 『直 接』 の
借 用で す。 ……(中 略)… …。 しか しなが ら、… …直 接 の借 用 も除外 され る と私 は考 え ます 」
(181-182頁)。
(2)注1で あ げた四 つの ケ ースの(4)を注 意深 く読 め ばわ か る(ズ ヴ ェ レ ビル1990:182-183)。 長
い ので ここでは引 用 しな い。
(3)Zvelebil(1990:99-103)を 参照 。 関連す る論 文 を あげて お くと、0.Shrader(1935),T.
Burrow(1943-46),K.Bouda(1956),S.A.Tyler(1968),K.H。Menges(1977),J.Vachek
(1978,1987,1993)な ど。
(4)Zvelebil(1990)は これ まで の研 究 を よ くま とめ て い る。
(5)オ ー ス トロネ シア語 族 の歴史 を知 るに は、 『言語 学 大辞 典』 の土 田(1988)の 記述 を みれ ばわ
か るはず で ある。
(6)大 野 教授 は 『日本語 の文 法 を考 え る』 のなか で四母 音説 を展 開 してお られ、松 本 克己(1975-
1976)も 内的再 建 に よって、 四母 音説 を述 べ てい る。 しか し、奈 良 時代 の上代 日本 語八 母音 説
だ けが コ ンセ ソサ スの得 られ た定 説 であ る。 なお上代 日本語 につ いて、服 部 四郎教 授 は音韻 論
的解釈 に よって六母音 音 素説 をi採ってお られ る(服 部1976)。
(7)サ モ ア語 につ いて は、MoselandHovdhangen(1992)を 参 照。 サ モ ア語 には能格 現象 が み ら
れ るが、音 韻体 系だ け都合 のい い言語 を選択 す ると、 また説 明 を くわ えな くて はな らな い現 象
が生 じる ことも覚悟 してお く必 要 が あろ う。
(8)デ ン プ ヴ ォル フのた てた 子 音 体 系 は崎 山(1978:112)が 一 覧 表 に して い る。 また 、最 近 の
Ross(1955:57)の 研究 に よれ ば オ ース トロネ シア祖 語 に、d,s,1/rの 三 つ の反 り舌音 を たて
てい る。
(9)Blust(1984-84:59)。
175 (惣)
⑩PawleyandRoss(1993:445)。
⑪ 母音 調和 とは母音 の生 起 の仕 方 に あ る種 の制 限が あ る こ とを いい、 上代 日本語 に こ うした制
限 がみ られ る こ とが有 坂秀 世博 士 に よ って発 見 され 、今 日学会 の定 説 とな ってい る。
(12)大野(1981:243)。
(13)た とえば、 東南 アジ アにつ いて は岩 田慶治(1991)、 雲南 につ いて は萩原 秀三 郎(1990)な ど。
(1の埴 原編(1990,1993)の 埴原 論文 や尾 本論 文 を参照 。 また、 『モ ソ ゴロイ ドの道』(朝 日選 書)
には 「さて、 日本 列 島 で も古 くは沖縄 ・港 川人 を は じめ縄 文 人、 弥生 人 な どの化石 人 骨 が各地
か ら発掘 され てい る。 いずれ もモ ン ゴロイ ドで あ り、現代 日本人 につ らな る先 祖 で あ る」(139
頁)と の指 摘 があ る。
(15)Risley(1908:43-45)
(16)Hutton(1951:5-8)
α7)巨石 文化 にっ い て はHeine-Geldern(1928)は イ ソ ド ・ア ッサ ムか ら東南 アジ アへ の流 れ を
想 定 した が、 イン ドには イ ソ ドネ シ アの巨石 文化 の早期 の段 階 にみ られ る遺 物 は な く、 後期 の
段 階 の特徴 であ る金属 器 を伴 うこ とか ら、 イ ソ ドネシア か らイ ン ドへ との 方向 が考 え られ て い
る とい う(Mahdi1994b:451)。 なおKim(1982)は 日本 や韓 国 の巨石 文化 はオ ース トロネ シ
ア巨石文 化 を起源 とす る とい う説 で ある。 こ うした文献 に も大 野教 授 は 目をむ け るべ きで あ ろ
う。
(1⑳Pawley&Ross(1993:445)
⑲ 大林 編(1985)の なか の生 田滋 教 授 の記述 が あ る(165頁)。
⑳Hornell(1920:225-246)の 指摘 に よる。 ホー ネル はマ ドラスの漁業 局 の局長 を務 め た人 で 、
Horne11(1922,1943)な どの論稿 は海 上 交通 を考 える ときに とて も役 にたつ はず で あ る。
(2DMahdi(1994b:463)。 なおMahdi(1994a:195)に よる と、 タ ミル語lavankam`clove'も オ
ー ス トロネ シア語 か らの借 用 とみ て い る。 こ うした借 用語 に は注 目す べ きで あ ろ う。
⑫2)大野 教授 は次 の よ うに述 べ て い る。 「今 や、考 古学 は比較 言 語学 の結 果 に 目を配 らな くて はな
らない はずで あ る。 さ,もな くて、 発掘 物 に対す る愛 着 と固着 に執 す るな ら、考 古学 はそ れが本
来歴史 学 の一 方法 、一分 野 なの だ とい う正 当な立場 を見 失 い、単 な る 『物 マ ニヤ』 に落 ち込 む
こ とにな るだ ろ う」(84頁)。
㈱Bellwood(1984-85,1994)。 と くに、後 者 の論文 は比 較 言語 学 の成 果 を積 極 的 に利 用 し よ う
とす る考 古学 者 の姿 を浮 き彫 りに して い る。
¢のMeacham(1984-85),Solhaim(1984-85)な ど。 ここで 問題 とな ってい るの は、考 古学 的 な
裏付 けに欠 け るが、比 較言 語学者 の ブ ラス ト教授 な どが提 唱す るオ ース トロネ シ ア語 族 の 「中
国南 部源 郷説 」 をベ ル ウ ッ ドが支持 して いる こ とで あ る。
㈲ 大林 太 良 ・大野 晋 ・小沢 重男 ・佐 々木 高明 ・佐 原 眞 『シ ンポジ ウム 弥生文 化 と日本 語 』(角
川 書店)。1990年 。
㈱ 前掲書 、105頁 。
(27)前掲書 、105頁 。
㈱ 前掲書 、114頁 には橋 口(1979)を あげ てい る。 その後 の研究 と して、橋 口(1993)が あ る。
また藤i尾(1989)に は文献 目録 が あ る。
(29)前掲 書、114頁 。
(巧) 174
「日本 語=タ ミル 語 同 系 説 」 を検 証 す る
⑳ 前 掲書 、203頁 。
(3⊃前 掲書 、146頁 。
(32)前掲書 、113-116頁 。
⑬ 副 葬 品の うち、 ガ ラスの管玉 につ い ては、 由水 常雄 東京 ガ ラス工 芸所 所長 に よる と、 「中国 の
南部 、 長沙 」(坪 井清 足監 修1989:38)で 、 また有柄 銅剣 につ い て は、近 藤喬 一教 授 は 「朝 鮮
半 島西 南部 の忠 清南道 」(坪 井監 修1989:46)で 、 それ ぞれ作 られ た とみ て い る。 残 念 な が ら、
南 イソ ドに はま った く言 及 され てい ない。
Gの 藤原 宏志(1994:86)。
㈲ 高橋護(1994:42)。
(3⑤横 倉 雅幸(1992:305)。
㈱ 和 田晴吾(1986:265)。
(38)潮見 浩(1986:239)。
㈲ た とえば、今 回ま った くふ れ なか った 記号 文 につ い ては、 大野 教授 が参 考文 献 と して あげ て
い る春成 教授 の論文(1991)は 記 号 が絵画 か ら発 展 して い った過 程 を提 示 して お られ る。 独 自
に発 展 した もの と外来 の ものが両 立 しない ことはあ きらかで あ る。 また、 こ うした記 号文 は中
国 に もない と大野 教授 は指摘 して お られ るが、素人 目 には長江 流域 の大 渓文 化 の記号 文 な どは
牟永 抗 ・余秀 翠(1994)の 紹 介文 や 図表 を見 る限 り、似 てい る よ うにみ える。 ただ し、筆 者 は
記号 文 の総体 につ い て まった く知 らな いの で、本 文 で は取 り上 げ なか った 。
ω 青銅 器 の化 学分析 につ い て は井 上(1993)を 参 照。 また 、稲 の プ ラ ン ト ・オ パ ール分 析 につ
いて は藤 原宏 志(1984)を 参照 。 なお大 野教 授 は(注22)の なか で、考 古 学 を歴史学 の一分 野
とみ てお られ るが、近 年考 古学 はます ます 自然科 学 と接近 して い る ことを認 識 すべ きで ある。
考 古学 の 自然科学 の利 用 につ いて は馬淵 ・富 永編(1981・1986)、 『国立 歴 史民俗 博物 館研 究 報
告第38集 歴史 資料 の非破 壊分 析法 の研 究』(1992)な どを参 照。
ω(注25)で の前掲 書 、147-148頁 。
㈱ 大林(1973)は 大野 教授 が南 イン ドと日本 の並 行 関係 を指摘 して い る 厂カ ラ スに物 を あた え
る」 ことにつ いて、朝 鮮 、中 国、 東南 ア ジア の広 い範 囲か ら類似現 象 を あげ て、分 析 してい る。
また正 月行 事 につ いて も、大林(1992)で 朝 鮮 や 中国南 部 との比較 を展 開 して いる。
q3)東 奥 日報編 集 『青森 県百 科事 典』(1981年)、836頁 。
ω 方言 が古形 を残 す と言 うの は柳 田 国男 以来 の方言 周 圏 論 に よるが、 す で に昭和30年 代 か ら金
田一春 彦(1953)を は じめ、長 尾 勇(1956)な どは方 言周 圏論 を機械 的 に あて はめ る ことを批
判 し、 方言 が古 形 を残 さ ない例 をあ げて い るが、現 在 で は方言 が古 い形 を残 す こともあ るが、
いつ も残す わ けで は ない とい うのが学会 の コソセ ソサ ス であ る。
q5)た とえば、Annamalai(1968)な ど参 照。
㈲Sagart(1993,1994)を 参照 。
q7)Shorto(1976),Diffloth(1990,1994),Hayes(1992b)な ど。
@8)Reid(1994),ま た土 田(1989,1990)も 系統 関係 の指標 と して接 中辞 を あ げ、 リー ド教授 と
同様 の意見 を述 べ て い る。
173 (76)
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