ある雨の日。鬱。 雨。 うっとおしい。普段は雨が好きなんだけど、今日はうっとおしいと思った。 闇の中で水銀灯に照らされた雨粒が、水滴感たっぷり光っている。 オンボロ雑居ビルの狭い出入り口の軒先で、こうしてじーっと立っていると寒さが心まで凍らせそうだ。 ひょんなことで知り合いの会社の仕事を手伝っている。毎日ではないが実はノーギャラだ。 やるんじゃなかった。て、ちょっと後悔してる。 この会社は間もなく解散する。 元々、前の会社にWEBサービスの営業で来たのが最初だった。元来は屋外広告の会社だったが新規ビジネスとしてインターネット関連を始めるというものだった。その気になって1年以上なんだかんだと取り組んだものの結局、実現することはなかった。まあ、良くある話。だけど、いくつもある後悔の一つではある。 そこの社長は僕と同い年で、僕としては珍しく深いつきあいをした。 それだけに久しぶりにあった連絡に、心が痛んだ。だからかも知れない。気軽に「人手が足りないならノーギャラで手伝うよ」と。 結局、パートタイマーだけどこの3週間ほどどっぷりと足を突っ込んでしまったみたい。 小さな会社だが、初めて事務所に入ったとき、その広さに唖然とした。既にあらかたの整理はついて、会社が紹介したり、自分で辞めたりと、残務整理の段階に入っていたせいだ。人手が足りないはずだ。 「お待たせしましたあ」 振り返ると森下さんが両手に2本の傘を抱えてやってきた。 森下さん。あゆむちゃん。たったの6人だけ残った社員の中でも、この間で親しくなった女性の一人だ。なにしろ、僕の仕事は彼女のヘルプ。何人か居るアルバイト君と一緒だ。 「結構降ってるよ」と、僕は言った。 「ああ」と、ちょっと覗き込むようにひさしの外に顔を出して「だいじょぶ。まあ、5,6分くらいですから」と、彼女は顔中口にして笑った。 彼女は大柄で僕より身長が高い。ちょっと見、個性的な顔立ちのモデルのよう。27歳だそうだ。 だから、彼女が先に立って歩くとなんだかお嬢様と召使いのように見える。だろう。 「たーさんはお酒は強い方?ですか?」 彼女は僕のことを「たーさん」と呼ぶ。滑舌があまり良くないので「たなかさん」が「たーかさん」になって、ここ数日でハッキリ「たーさん」と呼んでいる。油断するとすぐタメ口になったり。おかしい女性だ。 「普通。飲めるよ」 「あ。いいかも。美味しいお酒あるから」 微妙にアスファルトの舗装が悪くて、どうにも歩く先々が水たまりで困った。 元々は一段落したしたことだし、僕へのお礼もかねて社長と彼女と僕と3人で飲もうと2,3日前に決まったことだった。だけど、昨日から社長は書類屋さんの所へ行ったきりで。こっちは一段落でも彼はまだ大詰め。忙しいのだ。 焼き鳥屋とは聞いていたが、赤と黒を基調にしたペカペカした仕切が打ちっ放しの壁の間に立った随分洒落た店だった。しかし土曜日の夜ってこんなに空いているんだろうか。流行ってないのかもしれない。 あゆむちゃんは従業員が来る前にさっさとベージュのコートを壁に引っかけてさっさとオーダーして、さっさと乾杯してさっさと飲み干した。 「うまっ」また顔中口にして笑い、ふっと怪訝そうな顔になって「なに?」といった。 多分、僕は頬杖をついて面白そうに見ていたのだ。 「そういう顔で仕事してるといいんだけどねえ」 「できませんねえ」 「できないねえ」 彼女について、いくつか知っていること。 彼女はとある建設会社の専務だかのお嬢様であること。 短大は被服科なのに総務の責任者であること。 生理前になると、世間が敵に思えること。 愛車のルノーのダッシュボードにはお菓子が詰まっていること。 彼氏とのつきあいが2年であること。 その彼氏は、この会社の社長であること。 「たーさんはいつまでなんですか?」 「そうだねえ。そろそろ」 ちょっと彼女は悲しそうな顔を一瞬した。 会社が終わる時っていつもそうだ。昨日まで目の前にいた人間が一晩たったら姿を消す。僕がはじめてきた時と比べても、あっという間に半減した。そうやって一人、一人。まして解散だ。社長は社員の受け入れ先探しに奔走していた。らしい。 やがて慣れる。ふっと慣れたことに気が付く。それが悲しい。 僕も結局前の会社を出て行った方だし、そんな雰囲気にかなり滅入った。 リハビリ気分で気軽に足を突っ込むものじゃあない。いい歳して不謹慎だった。 「ねね。映画の話して」 「どんなの」 「どんなのでも。サスペンスとか」 彼女と仲良くなったのは、これだった。たまたま昼休みに「ガープの世界」という映画の話をした。ストーリーを身振り手振りで語ると、さっそくレンタルして面白かった、と興奮して翌日言ってきた。それから、そんな映画紹介は彼女のお気に入りになったらしい。 「じゃキューブは見た?」 「見てない」 「なんかさあ目を覚ましたら、こーんな白い部屋に閉じこめられてるのよ。何人かで。んで逃げようとするんだけどさあ。隣も同じような白い箱で・・・」 彼女は興味深そうに腕を組んだり、焼き鳥をかじりつつ話に聞き入っていた。 張り切って話していた僕なのだけど、途中で彼女があまり集中していないことに気がついた。時折、目が激しく泳いだ。そして、その理由は僕には想像がついた。 「社長おせえなあ。電話してみるか」 「たーさん知ってるの?」 彼女はいきなり、じっと見つめてそう言った。 「知ってるんだよねえ」 彼女は問いつめるように僕を見ている。 「知ってる。社長から聞いた」 ため息混じりに、白状するしかなかった。 彼女も伏し目がちにため息をついて、肩をすくめるようにして椅子にもたれた。 「ま。いいんだけど。もう」 社長とこの会社で初めて飲んだ日に酔った勢いで僕に教えてくれたのは、きっと社外の人間という安心感からだろう。 そして、もう一方の彼女も恐らくそうなのだ。どうも、聞きたくもないことを聞かされるような気がする。どちらにしても、あの社長は人間はともかく経営者としては失格のようだ。 そんな時にBGMが止まる。 陶器ががちゃがちゃ当たる音、微かに炭がはじけるような音、他の数少ない客の話す声。 外で降りしきる雨の音さえ聞こえそうな。故障だろうか。 彼女もまた足の間に両手を挟み込んで、天井を見ながら揺れている。 ひとりぼっちになった気分だ。 彼女が、お嬢様がこんな会社にどうやって入ったのか、15も離れた社長とつきあったのか。それは知らない。ともかく社長も独身、彼女も独身、とやかくいう筋ではないかも知れないが、そこはそれ社内的には秘密ということになっているらしい。だが、実はみんな知っていた。 「別れるんじゃないかなあ」 僕がぼんやりしている間に、彼女は現世に戻ってきたらしい。 「多分別れると思ってるんだよねえ」 グラスにちょっと口をつけて、ちょっと考えるような仕草でそういった。 「そうなんだ?」 「うん」 「どうして?捨てられるの?捨てる?」 彼女は目だけで抗議した。 「夫婦ってさあ。ですね」と彼女は変な話をはじめた。 「子供がね。死んじゃったりした夫婦ってね別れる確率が高いんだって」 「子供って会社のこといってんの?」 「んー違うなあ」 どうやら適切ではなかったらしい。なんなんだ。 彼女は指先でテーブルの上に三角を描いた。 「私、会社、あの人」 「三角関係?」 ニコっ。どうやらこれはいいらしい。 「ていうか、私とあの人の間には会社があって。いつもあってね」 なるほど。それはなんとなくわかる。でも。 「愛だの恋だのってそんなんとちがくない?」 「・・・たーさんは優しい」 「え?」 「社長でなくなる人間は魅力がないんじゃないかって、言われてもしょうがないもん」 それは。 「違う」 彼女が、え?って顔で僕を見た。 簡単に言えば、それは単に共通の話題がなくなるってことじゃないのか。共通の目標がなくなることがコワイだけじゃないのか。でも、人間を好きとか嫌いはそんなんじゃない。というようなことを、だらだら喋ったように思う。 その間、彼女は一瞬たりとも僕の目をとらえて放さなかった。 彼女は小さく拍手した。「すごいっ」 なんだかバカにされたような気分。 そして頬杖をついて、グラスをもてあそんだ。 「そうなのかな」 「ん」 「実はね。昨日あの人から別れようって言ってきた」 ああ。そうなのか。 だけど、彼ならそういうかも知れない。というか、男はバカだから、そんなことを言うかも知れない。でもそれは言わなかった。真意は測りかねた。 それからしばらくしてBGMは復旧して、妙に古いホイットニーヒューストンがかかった。業を煮やしてCDに変えたのかも知れない。 二人ともそれぞれに思いを馳せながら、黙って時間が過ぎた。 焼き鳥は頼みすぎて次々と、山盛りになっていく。 「もっかいよく話してみなよ」 僕が言えたのはせいぜいこれくらいだ。 「でもね。彼がいわなきゃ私が言ったかも知れない」 そう彼女は言って弱く笑った。 そういうものか。 彼女は突然、過去の彼氏の話なんかを始めた。彼氏の二股、自分の二股、友達の彼氏を取っちゃった話。社長の話は微妙に回避しながら、話はどんどん過去へさかのぼっていく。僕は時折笑ったり、突っ込んだりしながら冷めた焼き鳥に対して全力を尽くした。 彼女はよく飲んで良く喋り控えめに笑い、それはどちらかというと懺悔のようにも聞こえた。 それから後は、あまり気のない他愛のない会話が、続いた。 途中で思った。僕らは待っている。 それはちょっとしたゲームのような。時間を浪費するゲーム。 ラッキーコインだ。裏か表か。そのコインは彼だ。 結局、彼は現れなかった。 店を出てみると雨足は少し強くなっていた。 狭い通りを僕が先に歩いて、彼女が後ろをついてきた。 傘に当たる雨音がBGMになってくれて、助かった。 途中、彼女が僕の袖をちょっとひっぱる感触があった。 「会社を畳まなかったらもっと続いていたかなあ」 彼女をひっぱるように僕は数歩、歩いた。 それは。僕にはわからない。 肩越しに振り返ると、彼女は言葉と裏腹に笑っていた。僕も笑ってあげた。 雨越しに見るとそれは泣いているようにも見える。気のせいだ。 駅で別れ際、彼女はなんども振り返って手を振った。階段を数歩あがっては振り返りあがっては振り返り。何度も何度も。 それは僕に対して振っているのかな。そんなことを考えた。 なんとなくちょっとしたスレ違いのようにも思えるけど、もう僕は迂闊に足は踏み入れないだろう。終わる時は色々なもの更地に戻るように向かうのかも知れない。また、花が咲く。咲くものはきっと。 それから僕は帰路についた。 雨はさらに強く、とても冷たい。 雨。うっとおしい。 2003.2.24TIN