逃げる。 彼が何から逃げているのか誰も知らない。 いつもおなじ時間に店に来て一重の白目がちな目で、おどおどと周囲を見回すとカウンターに座ってフォアローゼスを頼む。そして神様からの授かり物みたいに大事に両手でグラスを抱えて落ち着くまでちびちび飲む。時間は約40分。 昔の青春ドラマみたいな、ぼさぼさした割には手入れが行き届いた緩くウェーブのかかった髪。 太い眉と白目がちだが綺麗な目が印象的だ。 カーキ色のサープラス風のコートの下は、いつも黒いスーツに白いシャツ。ネクタイはしていない。バッグも持っていない。30代中盤、もう少し若いかも知れない。 大体2杯くらい飲み終えると、そろそろ40分だ。 ポケットからグッチの使い込んだ財布を引っ張り出し、一万円札を無愛想にマスターに突き出す。 その間、僕らはというと興味津々だ。 彼が再びあたりを伺うようにして、落ち着かない足取りで出て行くまでの間、平静を装いつつそっと様子をうかがったりている。そして、出て行くのを確認するとお互いに目を見合わせてちょっと笑う。今日もまた来たね。と、いう意味で。 「逃亡者」と自然と名付けられたその男は、酒でほんの少し現実離れした僕らにとってのピンクのゾウみたいなものだ。アルコールと気の張らない会話で、心地よくなりかける頃にいつも現れる。 彼はこの古めかしいバーのアイドルともいえた。 いつしか常連は彼の話題で、想像をめぐらすのが常となっていた。 例えば10人くらい座れるこのUの字型のカウンターが埋まってたら、彼はどうするだろう。とか。やはり5つあるテーブル席のどれかに座るだろうか?そこも埋まってたら?やっぱり帰る?一度、時間を合わせてやってみるかい? そんな時、この土地で長年バーテンダーをしていたというマスターは、決まって僕らをたしなめる。 お客様はお客様。失礼は許さないよ。と。 穏やかな年輪を感じさせるしゃがれた声で、ちょっと笑いをこらえるように。僕らは決まりの悪い笑みを浮かべて、また彼の話題を続けるのだ。 彼は何者?犯罪者かね?ルックスはなかなかだよ?どこかのホストでヤクザの女に手を出したとか?北朝鮮のスパイかも。僕らのアルコール漬けの回らない頭脳で彼の謎をより深め、彼の秘密を作り出していった。 そんな、馬鹿話は退屈な毎日のちょっとしたスパイスになった。 僕らの日常はシュールだけど、おなじ事の繰り返しだ。 僕らは彼の謎が解明される日を願い、真実の彼がわかる日を恐れた。 気持ちよく酔った帰り道、時折「逃亡者」の事を考えたりする。 一度だけ興味本位で話しかけたことがある。僕じゃないけど隣に座っていた、同じく常連の古着屋の店員だった。 「いつも来てますねえ、仕事は何してるんすか?」 カウンターに乗せた両腕に、顔を突っ込みそうなくらいうなだれていた彼は、驚いたように僕らのほうへちょっと顔を向けた。 唇が青い。 「・・・別に。普通の仕事です」と、いって少しだけ頬を歪めた。 それが最初で最後の彼との会話だ。というか、声を聞いたのはという意味で。男っぽいが少し甲高い声だった。よく見ると、さらに若いことがわかった。特撮ヒーローのだれかによく似てるが思い出せない。逃亡者というより、ある種の神経症患者にも思えた。 彼は果たして本当に逃げてるのだろうか。 ある日の事。 常連の一人、アパレルの社員が大事件のように言った。 「逃亡者を見たよ。真っ昼間に」 狭い店内は静かにヒートアップした。マスターでさえグラスを拭きながら聞き耳を立てているくらいだ。 「なにしてた?」と誰かが言った。 アパレルは少し気色ばんで「走ってた」といった。 皆の期待に違わないその雄姿に、僕らは大いに盛り上がった。 街のど真ん中の大きなスクランブル交差点を、100m走のような勢いで駆け抜けたのだそうだ。まあ、多少誇張してるにしても尋常じゃない勢いで走っていたのは間違いないようだ。 僕の頭にカーキ色のコートをなびかせながら必死の形相で走る「逃亡者」の姿が浮かんだ。 その唇は青い。 僕の単調な日常。僕らの退屈な毎日。変化に富んでいるようにも思えるけど、少し離れてみれば「ほぼ直線」程度の単調な毎日。 しかし「逃亡者」は日々怯えながら何かから逃げ回っているんだろうか。 いやいや。僕は(僕らは)面白い方向に想像し過ぎている。僕だって会議に遅れそうになって走ったことだって一度や二度じゃあない。 でも、しかし。 そんなある日、ついに僕も「逃亡者」を目撃した。 そろそろコートがいらなくなって来た頃。地下鉄の終電で。 車内は全体がアルコール漬けのサラリーマンで仮死状態といった様子だった。ホロ酔い加減でうなだれていた僕がふっと顔を上げると見慣れた姿が、遠くに見えた。 彼だ。座っている僕の席からドア2つ挟んだ向こうにいる彼がはっきり分かった。水槽の中の水草のような乗客の中で、彼だけ定規でも背中に入れているようにしゃん立っている。 彼は背中こそ伸ばしているが、遠目にも落ち着きがないように見えた。 片手はいつものコートに突っ込んでなにやらせわしなく動かしている。 彼の前に座っている酔っぱらいのオヤジが、酔いに任せて何事か話かけるが、彼はそのたびに無視して周囲をすばやく伺っていた。 駅に止まるたびにその顔は大きく肩越しにホームをのぞきこんだ。 なんだかこっちがスパイのような気分でどきどきした。 僕は今アルコールの楽園以外で、現実世界の中の彼を目撃しているのだ。と考えると胸が高鳴る。 できるだけ顔を向けずに、盗み見するように様子をうかがった。 終点から4つ前の駅に近づくときだった。 チラっと彼のほうを見ると、彼もこちらを見ていた。 指の先まで冷たくなった。 彼はじっとこちらを見て、微笑みながら軽く会釈した。 どうやらその駅で彼は降りるようだった。しかしホームに向かいながら首だけはこちらを見ているのが分かる。 僕は全身を固くして、彼の視線から逃げた。 電車が動き出した。 どっと緊張感がとける。 あわてて窓越しに振り返ると、ほんの一瞬、彼の後ろ姿が見えた。 走っていた。 ものすごい勢いで階段を駆け上がる姿だった。 見てはいけないものを見てしまったような気分だった。いつまでも胸の激しい鼓動は収まらなかった。 けれど僕はとんでもないスクープをものにしたことになる。 翌日からの長期出張が恨めしかった。都合5日間の間、僕は店の仲間に話したくてしょうがなかった。最終日の深夜にやっと帰ってきて、その足で店に向かったくらいだ。 木のブ厚いドアをいつものように肩で押すようにして開く。 がっかり。店内は随分がらんとしていて、何人か居る客は見知らぬ顔だった。 ちょっと遅かったか。で、マスターはと目で追うと、カウンターの隅の方に背中を向けて客と何事か話しているところだった。 思わず叫びそうになった。 そこに座っているのはヤツだった。 普通でも陰口をたたこうとした相手がその場にいたら気まずいもんだが、まして相手は「逃亡者」だ。緊張しないわけがない。 彼は僕を覗き込むようにして見て、その視線でマスターも僕に気付いた様子。 「やあ。遅いねえ今日は」と、いつもの柔らかい笑顔を向ける。 逃亡者もまた少し笑って、例の気を遣ったぼさぼさ頭を少し払うようにして会釈した。 反対側に座ろうと思っている僕に、彼の視線がこちらへ。と誘った。 どうしよう。 刺されるんじゃないだろうか。あるいはあのコートのポケットから、銃かなにか突きつけられたりして。だが、意を決さねばならない。 単調な繰り返しを僕は偶然にも破ってしまった。会っては行けない場所で会ってしまった。そのバツだ。 なんだか理屈の通らない理屈を頭の中で転がしながら、僕は彼の隣に向かった。 カウンターのUの字に沿って歩くだけの距離。その間に僕は彼の変化に気がついた。 近づくにつれ、彼は以前の神経質なそぶりが目立たないように思え、彼の顔色も随分普通に見えた。 いや。もう一つの可能性。 こっちが変わったのかも知れない。 彼のキャラクターを決めつけていたのは僕らの方だ。つまりはなにがしかのフィルターを通して、実像とは違う彼を作り上げていただけだから。彼の日常を見て想像上の人物でありえなくなったからかもしれない。 カウンターに腰掛けて、マスターにハーパーのロックを頼んだ。彼の様子を伺うと横を向いたまま例によって両手で抱えるようにグラスに口をつけている。 「変なところで見つかっちゃいましたねえ」 初めて僕に向けられた彼の声。 声のトーンも少し落ち着いた感じで、以前聞いたような神経質なトーンもなかった。 マスターがグラスを置きながら少し驚いた顔で 「ああ、どこかで会ったの?」 と、言って僕に少し意味ありげな笑顔を向けた。『お前があわてて来た理由はわかったぞ』と、言わんばかりだ。 「偶然地下鉄で。ねえ?」 と、彼は僕の顔を正面から見た。 唇には血が通っている。違う。今日の彼は別人のようだ。 逃亡者は突然、カウンターの下で手を動かしてポケットに突っ込んだ。 思わず僕は身をひいた。 しかし出てきたのは皮の名刺入れだった。 「私はこういうものです」 彼はら名刺を一枚取り出し、少しよれている隅っこを手でなおして僕の前に置いた。その仕草もとても人間くさい。 会社の名前は聞いたことがないが、なにかの精密機械の販売などを行う・・・要は普通の営業マンだった。 彼は僕を見て穏やかに笑った。 「ごちそうさまでした」と、彼は立ち上がり指で僕と自分を交互に軽くさした。 「いやいや」と僕がいうと、彼は手で僕を制した。「奢りますよ」と言って少し笑って見せた。 「じゃあまた今度」 「そうですね」というが早いか彼は僕の背中をぽんと叩くと、独り言のようにぼそっとつぶやいて立ち去った。 「はあ、今日はなんかご機嫌だねえ彼」 さすがのマスターも、彼の変貌ぶりには本音を思わずこぼしたようだ。 僕はそんな言葉もあまり耳に入らず、ただ飲むばかりだった。少々混乱していた。 それっきり彼は僕らの前から姿を消した。 僕は彼からもらった名刺を、早々になくした。 常連たちは想像力を喚起する「逃亡者」を失ったことを、ほんの少し悲しんで、すぐに忘れた。 繰り返される日常。退屈な毎日がまた始まったのだった。 だけど僕はそれどころじゃあない。 ここのところ睡眠時間は減る一方だ。 常に疲れていて、身なりもだらしなくなるばかりだ。 妙に落ち着きがなくなったようにも思う。誰にも言えない。言えば笑われるのがオチだ。 なにかに追われているような気がする。 でも考えてみれば、僕らはいつだってなにかに怯えて生きている。退屈や平凡は僕らが幸せであることの証でもある。時になにかに怯えるのは、現代人として決して珍しいことではないようにも思える。 もしかしたら、軽いノイローゼなのかもかもしれない。 だけど僕はこんなことを考えている。 どこかでなにかの鬼ごっこみたいなことをやっているってことはあるのだろうか。命を狙われるような、意味のない狂ったゲームのようなものってあり得るだろうか。 「逃亡者」は帰り際に僕に耳打ちした。それは聞き間違いかもしれないけど。 彼は「タッチ」と言った。 2003.8.13TIN