ある夏。 海岸線を縁取るように大きく弧を描く道路は、その先が真っ青な空に続いているように見えた。 車はゆっくりと走っている。海水浴場の入り口のちょっとした渋滞をやっと抜けたので、前後に車の姿もなく快適だ。 いきなり生ぬるい潮風が、それまで涼しかった車内にどっと流れ込んできた。 隣の彼女が窓を開けたらしい。 チラッと隣を見ると、彼女は乱れる長い髪を左手で押さえながら、目を少し細めて海のほうを見ていた。しょうがない。僕のほうも少し開けた。車内で暴れまくっていた風は、逃げ道を見つけて気持ちのよい風になった。 今走っているあたりは道路からそのまま砂浜に続いていて、砂が時々入ってくるようだ。妙に顔のあたりがざらざらしてきた。 平日だというのに、市内でも有数のこの海水浴場は、遅すぎた夏をなんとか楽しみつくそうという人で溢れている。 穏やかな水面には、時折カラフルな色が揺れていて、その向こうにはサーフィンもいくつか。こんなに波がなくてもいいんだろうか。 強烈な太陽に似つかわしい嬌声が、少し遠い世界からの音のように聞こえてくる。湿度の含まれない、ただただ「楽しい」ってことを示す声。 ハンドルを握る腕は、冷房の利いた車内でさえ「じりじり」と音を立てそうな感じ。 夏なのだ。 僕と彼女はもう30分近くしゃべっていなかった。 もっともその前も、ほとんど無口ではあったけど。 風が耳にあたる雑音や楽しげな声、それらにかき消されがちなCDの音楽。喋らなくても十分な、そんな日だったし。 なにより、僕らには話す事がもうないのだった。 もし、彼女が突然言い出さなければ、僕らは何事もなくそれぞれの道を歩んだに違いない。その時の僕らは静電気を帯びた2枚の紙ほども、近づく気配すらなかった。 人は出会って別れる。 長年連れ添ってもいずれは死が分かつ。僕らはあまりに短かったけれど、それはしょうがないことだ。と、今は思っている。 目の前の道路と海岸の境目あたりに停車している黄色の商用ワゴンが見えてきた。 ボディには汚いペンキ文字で「とうもろこし」と書いている。 「ねえねえ」と彼女。 「あそこのトウモロコシって、あのトウモロコシ?」 僕らの何度目かのデートの時に食べたトウモロコシの屋台を思い出しているのだろう。この道はかつての定番のデートコースだった。 「さーねー」と僕。 「オヤジの歯が抜けてたらそうだろうねえ」 彼女は破裂したように笑った。 確か店主は麦わら帽子をかぶった、干からびたようなおじいさん。笑うと前歯が2本も抜けていたのだ。その日は最後まで妙におかしくて、バカみたいにゲラゲラ笑っていた。 他愛もないが、それはとても楽しい思い出のひとつ。 僕が急ブレーキをかけたので、彼女は思いっきりつんのめって、ビックリした顔で僕の方をみた。僕は後ろに車がないことをいいことに車をゆっくりバックさせた。 「見てみ?」 彼女はちょっとおかしそうに、軽く僕をにらんで窓から顔を突き出した。 トウモロコシのワゴンが真横に見える。窓はフィルムで黒くつぶされていた。 ゆっくりと「トウモロコシ」の文字がテロップのように流れる。 いきなり彼女がぎゃははっと笑って、体を車内に戻した。 「おんなじだったよ。あはは」 僕も笑った。 ちょっとした緊張感が緩んで、僕らは快適にまた車を走らせた。 車が海岸を一旦離れて細い山道に入る頃になって、彼女は「カメラにとっとけばよかったね」と、急にいいながら視線をあちこちに泳がせた。 僕はダッシュボードからカメラの小さなケースを取り出し、彼女に渡した。 彼女は大切なものでも受け取るように、両手でそっと包み込むように受けとった。 僕のカメラは彼女にとっての宝物。 コンタックスというコンパクトカメラ。 そこらの小さなカメラと見かけは変わらないのに、発売当時は10万以上した高級コンパクトカメラだ。 随分前にカメラのことなんか少しも興味ないクセに一目ぼれして買った。質屋の中古品で5万くらいだったか。一緒にいた友人からも全部巻き上げて、おかげで帰りは1時間以上も歩いて帰ったのを思い出す。 手に入ったとなるとどうしても、いい風景の写真をとりたくて友人と海に繰り出した。 そして彼女に会ったのだ。 彼女はカメラを取り出して、撫でてみたりファインダーをのぞいてみたり。 シャッターを押してみたいんだろうけど、あいにく今は旅館や食堂が並ぶ殺風景な風景だ。 陽も少し傾いて来て、濃い影が伸びてきた。 彼女がファインダーをあちこちに向けながら、小さな声で歌を歌い始めた。 ご機嫌だ。知らない人が見たら、僕らはとても仲のよいカップルに見えるだろう。 だけど。僕らはノスタルジーの中にいるだけなのだ。 まあ、決して未来を見ない限り、僕らはずっと仲良しなのだろう。 僕らが目指すのは、この先の展望台だ。正確に言えば展望台でもなんでもないのだけれど、なぜか展望台風に海に向かって張り出している見晴らしのいい町営駐車場だ。海から離れているので、そこは知る人ぞ知る穴場になっていた。 展望台に続く道路以外はすべて、すべて眼下に海が広がっている。 日没前にたどりつかないと。 「どうせなら、女の子にとってもらおうぜ」 と、言い出したのは友人のほうだ。 勢いづいて海には来たけれど、男二人の真夏のドライブはあまりにも悲しすぎた。数組のカップルがいるのに写真なんか撮れない。ホモだと思われるのがオチだ。自意識過剰な汚い男二人。 やがて友人はまんまと二人連れの女の子をひっぱってきた。 真っ赤なタンクトップの真っ黒な女の子と、無造作なショートカットで、もらい物みたいなぱっとしないTシャツの彼女。今にして思えば変な組み合わせだった。 真っ黒な女の子にシャッターを押してもらって、お礼に僕が二人を撮ってあげた。まあ、お決まりのパターンだ。それ!このまんまどこかに行くぞがんばるぞってなもんだ。猛然と話しかけた。ああ、なんだバイト先って俺らの会社の近くだよ、なんて。 ところが。 突然、男が現れた。そう。彼女たちはデート中だったようなのだ。しかも、彼氏はいかにもサーファーって感じで。 この太陽と青空の下、彼らと僕らでは、ダイアモンドと脱ぎ捨てた靴下みたいなもんだった。靴下たちは、お別れの挨拶をすると、惨めな気持ちでそそくさと逃げるように立ち去った。 敗北感に打ちひがれる僕ら。帰りの車内は思い返しても寒かった。 しかし、話は終わらない。 それから数日後、僕は現像した写真を持って、彼女がバイトしているチェーン店の定食屋に出向いた。 突如どーんっと目の前に、海が広がった。 「わぁ」 と、彼女は思わず声を上げた。 ざぁーーっという波の音が、不思議な音色で耳に入った。 ほんのさっきまで真っ青だった海にはオレンジ色が混じり始めていた。陽が大きく傾きはじめている。 「夕焼けが見れそうだよ」 彼女は肩越しに僕に向かって笑った。 「いいねえ」 これからしばらくは、小さな蛇行を繰りかえしながら頂へと続くらせん状の細い道路が続く。もうちょっと早く、せめて明日にしてくれればよかったのに。僕は少しアクセルを強く踏んだ。 あのときの写真。 まあ、僕はなんとなく手元においておくのも惨めだし、近所だし。と、いう軽い気持ちだった。いや、正直なトコは今となってはよくわからない。 ただハッキリしているの、その写真を見た彼女はいたく感激していた。ということ。 それはヒイキ目にみても過分な評価だと思えた。 その写真の彼女は、駐車場の手すりに寄りかかってこちらを見ている。 ショートカットが少し風になびいていて、少し長めの前髪を左手で軽く押さえている。表情は、どうだろう、笑っている。屈託なく。少し小鼻のあたりに皺を寄せて、その後、何度も見たあの表情をしていた。 空は明るすぎて、少し白っぽく写っているが。まあ、スナップ写真だ。 だけど、彼女はこういった。 「生まれてから一番気に入ったよ」 それでも、僕は新しいカメラの腕を誉められたようで有頂天になった。 彼女がもともと写真嫌いだったのを知ったのは、もっとずっと後のことだった。 今、彼女は僕の隣で何を思っているのだろう。 ドアに肩肘をついて少しづつ変化する海の表情を見つめている。昼寝している猫のようにも見える。 髪はすっかり伸びて、色は明るい色に変わった。 実際にもらいものだったTシャツは、ブランド物の1枚7800円のものを着ている。 それから今まで色んなことがあった。あり過ぎたようにも思うし、なにもなかったようにも思える。昔ほど克明に思い出し、今に近づくほど記憶が曖昧になる。こんなことってよくあるんだろうか。 ツライ時期を過ぎて、僕らはある結論を出した。 彼女は身の回りの品をどこかに送り出し、そして唐突に、それこそ唐突に僕にお願いをした。 そう。もう一度同じ場所で写真を撮りに行こう。って。 何度も車はくるくるとらせんを駆け上った。 不思議なことに展望台に近づくにつれ、僕らの会話は弾みだした。 他愛のない思い出話をしては陰りのない笑いを交わし、時折、彼女はハンドルを握る僕の手の甲を二本指でビシッと叩いた。それは彼女のおきまりの「お仕置き」だ。だけど、それも随分ひさしぶりのことだった。 そのたびに、僕は奇妙な感傷に襲われた。それはここしばらく考えたこともない思いにとらわれた。 もしかしたらこのまま、うまく収まるんじゃないだろうか。 いっそ、もう一回考えなそう、って言おうか。 だけど、前を向いたら終わってしまう。それはもう痛いほど分かってしまっているのだ。多分彼女も同じようなことを考えていたのだろう。二人の会話は時折、唐突に途切れた。ほんの一瞬気まずい沈黙が訪れる。 「なんで私ら寒くなるとケンカばっかりしたのかね」 なんとか、沈黙を埋める様に彼女がつぶやいた。 「そうなあ。寒いときは運動したほうがあったまるもんなあ」 彼女がくすっと笑った。イマイチ。 そういわれればそうだった。 思い出す大喧嘩はいつも寒い時期だった。楽しい思い出は暖かい時期に集中してる。そういうもんだろうか。 ずっと夏ならば、僕らはずっとうまく行ったのかもしれない。 そんなつまらない事を思いついたけど、言うのはやめにした。代わりに僕は歌をうたった。適当な調子っパずれの鼻歌。僕はオンチなんだ。 そんな僕を見たのははじめてだったらしくて、彼女は片眉をあげるようにして横目で見ていたが、ついに吹き出し大笑いし始めた。 彼女の優しい気遣いもちょっと。 目の前に今は無いはずの旅館や、ポイ捨て禁止の看板が目立ってきた。もうすぐだ。「あ」 と彼女が弾んだ声をあげた。 駐車場が有料になっているとは思わなかった。 どこにだって止められるような場所なのに。まあ、いよいよ有料展望台になったということかもしれない。 とりあえず、ガラガラの駐車場に適当に止めてエンジンを切ると、同時に彼女は飛び出していった。 ちょうど岬の中ほどから突き出したようなその場所は、手すり側に近づくにつれ段々と広大な海の姿を現してくる。 もう。夕方だ。 空はオレンジ色と青色の境目がわからないほどになっていた。 太陽は右手の奥のほうで沈みかけている。この季節のこんなにきれいな夕焼けは珍しい。 遠くに見える海は、金粉をまぶしたようにキラキラと光って揺れている。 さらに向こうには、フェリーの黒い影。 とても静かだった。 時折、走り屋のバイクがドップラー効果たっぷりに通り過ぎる以外は、鳥の声やかすかな波の音が余計に静けさを増しているように思う。 僕が広い駐車場を横切って手すりに近づいた頃には、彼女はその一番端っこで、小学生みたいに身を乗り出していた。 「あぶないよ」 くるりと彼女は振り返て笑った。 「早く撮ろうよ。日が暮れちゃうから」 「よっしゃ」 僕はコンタックスをケースからだすと、ファインダーをのぞきながらエビのように後ろに下がった。 彼女はあははと笑って、手を頭の後ろに回してモデルのようなヘンな格好をした。 「あーいいよいいよ。すっごいいいよぉ」 オレンジ色の空をバックに、彼女は踊る。 まあ、別に踊ってはないんだけどファインダー越しに見る彼女は踊っているように見えた。 「こう」 「あー、素敵だっ!」 「こう!」 「あーいいなあ、なんとなく脱いでみようか」 「バカじゃないの?」 バカなこと。ホントに。 人様にはお見せできない茶番劇。 僕は笑いながらシャッターを切り続けた。 その中のいくつかは逆光で、ほとんどシルエットのように見えるけどあの写真より遥かに気に入る写真になるだろう。 僕はわかった。 ファインダーの中で踊る彼女を見て、あの写真を気に入ったくれたわけをなんとなく理解した。言葉では上手に言い表せないけどやっとわかった。 写真の中はずっと夏。 彼女は写真から現れて、また写真の世界に帰るのだ。 ありがとう。 と思ったらちょっとファインダーがぼやけて見えた。 僕らはそうやって、日が暮れてしまうまで遊んだ。 ちょっと切ない夏になった。 2003.8.12TIN