.天使みたいなもの。 天使みたいなもの。 天使ていうと、小太りの天然パーマの羽が生えた白いガキのことだろう。 頭の周りを蚊みたいにぶんぶん飛び回って、昔の森永のマークみたいななラッパ吹いたりする奴だろう。 何しろ会ったことがないからわからないけど。 だけど、天使っていうのは天の使いのことだろう? それなら会ったことがある。多分。 自殺を考えたことがある。 と言ってもそんなに大したことじゃない。世間に負けやすくて気位ばっかり高い人間にはよくあること。死ぬ気も無いし死ぬ勇気だって無い。できる奴は考えない。するんだ。 考えるだけ。そうやって、ラクする方法を考えた。 その頃の僕は最悪だったよ。 山梨にある標高1000mのリゾートホテルが僕の職場。 まだオープンして半年くらいで、そのホテルの為に同時に立ち上げた会社は組織の体もなしてない状態だった。 1週間以上まともに眠らずに仕事するような毎日。寝てるんだろうけど、どこで寝たのかさえ覚えてないような。休みなんて半年近く取ってなかったし、その間に自律神経失調症が悪化して、息が止まって病院に担ぎ込まれたり。脳が息をする指示を怠ってるわけ。 それでも、病院で気がついたらベッドの脇に書類が積んであった。 ハンコだけでも押してくださいってこと。そんな状態だった。 面白い仕事だったけど、その直前まで遊び半分にしか生きてない僕にはちょっと激しすぎた。 こんなこともあった。 彼女の一大事であわてて羽田経由で福岡に飛んで帰った。空港についたら支配人から電話で帰って来いという。結局、空港から一歩も出ずに往復10時間。そのまま会議が朝の4時までつづいた。 同じ頃、僕の周りで死の匂いが広がっていた。 何度も死に出くわした。僕のお客さんと僕の友人の自殺。親戚の病死。父親が始めて入院したのもこの頃。ついでに言えばその半年前に僕も傷害事件に巻き込まれた。刃物で傷つけられた。 毎日、社内の人間関係の整理と、田舎の村社会の政治に巻き込まれて神経はさらにイカれ、イカれた神経は体中をさらに壊しにかかった。そうなってくると仕事もミスってばかり。ミスの処理で仕事は溜まっていくばかり。 まあ、それ以外にもイロイロ。 今にして思えばそんな時でも、友人にもスタッフにも恵まれていたりするんだけど、そういう時ってそんなことも気付かないんだよね。 すべてのことが、僕をマイナスに引っ張っていった。僕はどんどん追い込まれて、小さな世界に身をすくめるしかなかった。 頭痛が止まなくなり、胃薬と頭痛薬とワケのわからない薬が主食になった。 そして時々考えた。 死んでしまおうかなとね。 辞めようかなとは思わないんだね。責任みたいなのが、僕をあっちこっちからがんじがらめに追い込んできて、小心者には逃げ道がそっちしか考えられなくなるんだなあ。 そんな鬱々とした毎日が続く、ある晩のことだった。 僕の仕事部屋から外を見ると雪が降っていた。昨日から降り続いていて一旦やんだはずなのに、また降っていた。 もともと、この土地はもともとほとんど雪が降らない。 夏だって20度を超える日がほんの数日。冬は零下13度まで下がる。氷の世界だよ。 冬の間に決まって2回だけ大雪が降るんだ。 気が狂ったように2日くらい降って雪が足の付け根くらいまで積もって、何日も溶けない。 明日はまた朝から雪かきだねえ。なんて電話をフロントにして、じっと雪を眺めていた。 デスクの前は前面ガラス張りになっていて、真っ黒なガラスに段々雪が斜めに張り付いてきて白いガラスになっていった。 時計を見るともう夜中の2時だ。 僕は外に出ることにした。 このホテルは山の斜面に沿って作られていて、13000平方メートルの敷地内に両側をホテルに挟まれた、2つの通りが交差するヨーロッパの古い街並を模している。 ひとつは直線の通り、もう一つは曲線の通り。 僕の仕事部屋は、直線の通りのホテルの一角にある。長細い2つのレンガ色のホテルに挟まれた石畳の広い回廊のはずれ。 すぐ傍らのどん詰まりは階段状の花壇になっていて、もう一方の直線に伸びた広場の先には、南アルプスが綺麗に見える。雪の降ってない昼間ならね。 3階建てのホテルの屋上の直線と、回廊の直線。それを伸ばすと南アルプスの一点に結びつく。 顔を出すと、その時はね。 真っ白だった。 灯りも消えたホテルの間で水銀灯に照らされた、真っ白な回廊だけが浮かび上がって、滑走路みたいに南アルプス方面に伸びていた。 しばらく滑走路を眺めていたんだけど。僕は歩き出した。少しづつね。 ずぼっ。足を高く上げてそこから抜いて、またずぼってな具合に。 もともと南の生まれだから、雪が降ると気分転換に時々そんなことをはしゃいでやっていた。だけど、その時はなんか切羽詰って、もう歩かなきゃって感じで。 風が冷たくてね。顔に張り付く雪がうっとおしかった。 20mも進むともう息が切れてきたんだけど、なんとか雪かきをして作った通路にでた。 そこが二つの通りが交差する地点。もうどこもかしこも雪に覆われて真っ白になっていた。右手の300mも続く大きくカーブを描く方の通りは、せっかく何時間もかけて雪をかいたのに、またすっかり雪が厚く覆っていた。 自然が本気出せば、人間なんてなんにもできやしない。 休む間もなく僕は再び前進を始めた。。 両サイドのホテルの1Fはちゃんと屋根つきの細い通路があるんだけど、わざわざ雪のど真ん中を進んだ。南アルプスに向けてね。 段々体温が上がってきて、吐く息の白さが増していく。 右手のガラス張りの洒落た売店も、左手のカジノバーももう暗闇の底に沈んでいる。 ひと気の無い雪の上を一人で黙々と2つの穴をあけながら南アルプス目指して僕はただ歩いた。 膝から下は冷たさに、すっかり麻痺したようにビリビリしているのにもうおかまいなし。 それから30分近くかかって、やっと回廊の端までたどりついた。 風はちょっと止んでいて、雪は粉雪のようになって僕の両肩に積もっていく。 端のコンクリートに手を乗せてぜえぜえ荒い息をついた。 視線の先、遥か下の方に温水プールのガラスの天井が雪の間から少し見える。 目の前は昼間なら眼下に大自然のパノラマが広がるこの場所も、今は真っ暗闇のなかだ。 じっと見ていたら吸い込まれた。 もとより、仕事場の外に出た瞬間から白い雪を踏みしめてだーっと走って、南アルプスに向かってジャンプなんて考えたわけだ。だけど。たどり着く頃にはくたびれちゃって。 雪ってさあ。 吸音効果がすごくてね。僕らの聞き取れないノイズまで吸音するんだね。 だから不自然なくらい静かになる。この世から音が無くなったみたいにさ。 スピーカーの壊れたテレビみたいに雪だけ動いてるわけだね。 やっぱ飛んじゃおうかな。とかね。思った。 あまりにも異常な状況で、なんかそれもできそうな気分だった。 間違ったら飛んだかって?さあ。どうせ飛べない。今はそう思ってる。 ただ、その時はわからない。あんまり何も考えてなかったから。 多分随分長い間、そのままじっとしてたんだね。 いきなり「なにしてるの?」 って声が聞こえた。広い場所で雪の中で声を聞いたことがある?不思議だよ。 耳元で囁かれているような。 その声の主を探すと、右手の土産物屋の軒下の通路にうさぎが立っていた。 短い間隔の灰色の柱のちょうど真中あたりに立っていて、なんかのイラストみたいにさ。 ちいさい女の子。白いふわふわのコートのフードに耳がついていて、それを頭にかぶっているの。白いうさぎだよ。 お店の小さなサインのダウンライトに照らされて、スポットライトにあてられてるようにね。 女の子は両手を三角定規の二辺みたいに斜めに伸ばしていて、白いほわほわがついた袖から小さな手の先が覗いている。幼稚園くらいでほっぺたが真っ赤でさ、特に表情はない。ぼわーっとした顔でちょっとクチを開けて僕を見てた。 「どうしたの?」 ってできるだけ大きな声で僕は聞いたよ。 女の子は、真っ黒なひとみで僕を見て「お部屋に帰りたい」っていった。 それは良くあること。 ホテルなんて、どの部屋も造りも一緒だから。僕だって一瞬迷うくらいだもの。 だけど、午前二時過ぎにちいさな女の子が迷って、飛ぼうかななんて考えてる従業員が声をかけられるのは稀有な事だろうね。 しょうがないから、またずぼずぼ雪を掻き分けてその女の子に向かっていった。 彼女は薄いピンクのパジャマの上からコートを着込んでいるらしい。 女の子は僕の顔を見上げて「寒い?」って聞いてくれた。 すごい格好だモンね。 スーツのパンツは雪でレッグウォーマーみたくなっていたのを覚えてる。 「何号室ですか?」 「しらない」 「どの部屋かわかる?」 と、尋ねると女の子は左上空あたりを指さした。 だけどその先には闇しかないんだ。 フロントに連れて行って名前とか調べるしかない。 僕は女の子の手を引いて、黙って今来た道を軒下伝いに歩いていった。そう。何十分もかけた両脇の軒下を通れば、あっと言う間に戻れるわけさ。 雪はいつまでも降り続いていて、僕の人差し指と中指をぎゅっとつかんだ女の子のちっちゃな手はあたたかかった。 彼女は僕よりも早足で歩き、気がつけば、僕が女の子の手に引かれていた。 変な感じ。 肩越しに後ろを見た。南アルプスがあるだろう闇は、どんどん遠ざかっていく。 目の前のうさぎはまるで行き先をすっかり了解しているように、とことこと先を歩き、階段を下り、1Fのフロントに連れていかれた。 夜勤のスタッフは、フロントの脇から突然事務所に入ってきた僕らを見て腰を抜かしたらしい。 女の子にも、ひどいありさまの僕にもだ。 控え室で、スタッフに女の子は突如として、すらすらと自分の名前を名乗り、予約用の端末で部屋はすぐにわかったようだった。 女の子の座っているソファの傍らで、僕は背を向けるように、ホテルの上等のバスタオルを何枚も重ねられて事務用の椅子に座っていたんだけど、そこら辺で気分が悪くなりやがて失神した。 多分、夢でなければそのとき女の子は、手を伸ばして僕の人差し指と中指をきゅっと握った。 風邪だったらしい。 過労だったらしい。 いろんな部分が病んでいたらしい。 それからたっぷり1週間、僕は久しぶりの休養をベッドの上でとることになった。 ひと月で2度も病院に担ぎ込まれた、馬鹿者は珍しいらしく医者からはこっぴどく説教された。 例によって書類があって、医者は罰ゲームのように体中を検査された。 1週間後やっと医者の許可が下りて自宅療養となった。もちろんその足で会社に向かったんだけどね。 タクシーを降りて石畳の通りに足を踏み入れると、そこには暖かい陽が降り注いでいた。 石畳の端っこや、日の射さない部分にはまだ雪が多く残ってはいたんだけど、空は青く太陽は暖かい。 問題はこの大雪で宿泊客のキャンセルが相次ぎ、ホテルはゴーストタウンになっていたくらいだ。スキー客を見込んでいたホテルの部長は見込み違いに肩を落としていた。 溜まった書類に目を通し、一段楽したのはもう夕方が近づいた頃だった。 昼食を取り損ねた僕はホテルの紙袋を手に外へ出た。 石畳の先には南アルプスが遥か遠くにくっきり見える。 回廊の端に向かって歩いている途中、暇をもてあましているみやげ物屋やカジノバーのスタッフが明るく僕に声をかけてくる。 大丈夫。もう大丈夫。 行き止まりのコンクリートに腰かけて、山々を眺める。 問題は何一つ解決してはいないが、一つだけ大きな問題が解決した。 精神的に開放された。 紙袋から取り出したのはホテル特製のベーグルサンドウィッチ。長野の工房で燻したハムと採りたてのレタス、トマト。牧場で作ったクリームチーズがはみ出るほどに挟まれてラップに雑に包まれている。食いにくいと評判だがとても美味しい。僕は大好きだ。 今日はお客さんのフリをしてそれを食べた。見つかればクビだが構うもんか。 がぶがぶ頬張れば、まだ焼きたてのパンの香ばしい香りとちょっとスモークしすぎのハムが幸せにしてくれる。 どろどろしたわけのわからない黒いものが、抜けたようなさっぱりした気分だった。 きちんと休みは取りましょう。無理な仕事はやめましょう。ていうあたりまえのことなんだろうけど。 実はあの雪の日は大変だったらしい。 2人しかいない夜勤のフロントスタッフは、片やぶっ倒れた僕の為に救急車を呼び(その救急車も雪深い山奥に随分てこずった)、片や女の子の部屋に電話をかけ。普段は偉そうな僕でも、ひたすら平謝りだ。 あの女の子はその後、電話を聞いて駆けつけた母親がすぐに迎えに来たそうだ。 勝手に外に出て締め出されたらしいが、なぜうろうろしていたのか。コートを着ているのだからちょっとお出かけ。ということなんだろうか。それはわからない。 そして彼女の部屋は3階の一番奥。つまりあの時彼女が指した方向は、大体正確といえるわけ。 だけど。あの時、彼女が指した指の先には。 今は空がある。 青い空がある。 そう思ったわけ。 そんだけの話だけどね。雪が降る頃になると思い出す。うん。 2002.12.18 TIN