.風が流れる川 僕の家の近所には小さな川がある。 「小さな」といっても、幅は8mくらい。両側をブロックで固め、3mは掘り下げられている。 本当は「紀之川」という名前があるのだけどその名前を知らない人も多い。昔からみんな「緑川」と呼んでいる。 ある天気のいい日。 僕は錆びかけた自転車で小さな田んぼの間を抜ける。 子供のころにはそのあたりすべてが、田んぼに覆われていたが、いまやもうわずかにこのあたりを残すだけとなった。緑の穂が風に吹かれてサワサワと軽やかな音を響かせている。 その先には緑川の橋があって、僕はいつもその真ん中あたりで一息入れる。 いつも午後2時くらいだ。 人通りも少なくとても静かだ。 川向こうのバス停に、のんびりとした音を立ててバスが止まる。いつも乗車口を開けてしばらく待つが、乗る人はいなく期待はずれのようにまたのんびりと去っていく。 橋の真ん中あたりで自転車を止め、ま煙草に火をつけて、デニムの後ろポケットを探る。細長いアルミの携帯灰皿を探り出す。マナーにこだわる常識人。と、いうわけでもない。緑川に煙草を捨てるわけにはいかないからだ。これがいつもの行動だ。 すると、風が吹いて大きな音がする。 ざざざざざ。 その川には草しか生えていない。 ただ雑草というにはあまりにも見事な丈の高い草だ。名前はわからないが、平べったくて先に行くほどに鋭角的にとがっていて、葉っぱは太陽の光を反射してつやつやと光る。 それらがびっしりと川を覆いつくしている。 目を凝らせばその間を申し訳なさそうに、水が小さな水路を作ってうねるように流れているのも見えるだろう。ともかくこの川には、まるで誰かがそうしたかのように同じような高さの草が天に向かって、緑のカーペットのようにびっしりと覆っている。 いつからだろうか。 さほど意識したことはないから良くわからない。 僕が立っている場所から上下に1kmほどにかけて、なぜかこの雑草が群生している。 そしてその外側は、切断したようにスパッと草の壁が切れている。とても不思議なことだ。 また強い風が吹いた。 ざざざざざ。 風にあおられて上流から下流に水が流れるように、草たちは見事な縞模様の波紋を描く。 今日のような天気のいい日は、輝くような緑の光を放ち、その間を風が渡っていくのが見えるのだ。とてもきれいな風景だった。 そんな時、僕は「彼」のことを思い出す。 緑川のことを改めて教えてくれたのは、近所の中学生だったのだ。 彼が同じマンションの別の棟に住んでいるのは前々から知っていた。 古い分譲マンションだ。その中で人が生まれ、あるいは死に、このマンションは長屋さながらに情報がいきわたっている。 僕も苗字くらいは知っていたのだが、ただ、もちろん話などしたことはない。いまどきの中学生にうかつに話しかけるなんて、うっかりすると命がけ。そんな面倒はごめんだ。 僕がいつもこのあたりで、ろくでなしな時間に散歩していると必ず彼は上流側に向かって右側の川の淵あたりに座って下を見つめていた。ブレザーの制服を着て、グレーのパンツをぶらぶらさせながら何を考えているのかいないのか。 中学生というには、体格は小さい。髪の毛は少し茶色がかっているが、その下の顔はまるで栄養失調のヒツジみたいな顔をしている。 あまりに何度も真昼間に出会うから、いつしか気になってしょうがなかったのだけど話しかけてきたのは彼のほうだった。 ある日、気がつくと彼は僕の顔をじっと見つめていた。 なんだ?不良ってカンジでもないし、どちらかというといじめられっこってカンジかな。 なんて考えていると、 「なにやってんの?」 と、体つきに似つかわしいちょっと甲高い声で言った。 「お前こそ何やってんだよ」と、僕が言うと彼は視線をそらして立ち上がり、 「べつに」 と、つぶやくように言ってパンツのケツをパンパンと払って、マンションに向かって立ち去った。 それが最初の会話ということになる。 それから2回ほど出くわして、3回目くらいに橋から川沿いに歩いて彼に缶ジュースを差し出した。 彼はまぶしそうに僕を見上げると、意外にも素直に「ありがとう」と喜んだ。 僕は彼の隣にしゃがんで缶コーヒーのふたを開けた。 「おいさんはリストラされたん?」 一言目がそれだった。 「うーん。まあそんなもんだなあ」 「だめだめじゃん」 「だめだめだよなあ」 落ち着きのなさそうな小さな目と、クセの悪そうな口をした彼は、初めてちょっと笑った。 「お前もだめだめなんだろ」 「ちげーよ」 「学校いってねえじゃん」 彼は少し伸びた髪を払うと、少し苦しそうにあいまいな笑顔を作った。 そのとき僕は彼がクラスメートからいじめにあっているのではないか。と思った。よく最近また新聞で見かける。そういう類が似合いそうな男の子だったからだ。 後でわかったのだが、いじめてるのは生徒じゃなくて先生のほうだったのだけど。 それから会えば軽く口をゆがめる程度の間柄にはなって、時々短い会話を交わすようになった。 とはいってもドラマチックな発展はない。 時にはお互い無視を決め込んで緑川をみつめ、時には笑いかけられごく稀に話す程度。 いくつかの短い会話の中で、担任の国語の教師の明らかないじめについても、言葉少なく聞いたのだった。 大人が馬鹿になってるから、まったく最近の中学生も大変だ。 ある時、彼は緑川について語った。 「おいさんこの草の名前とか知ってる?」 「知らない」 「だめだめじゃん」 と、いつものように馬鹿にしたような顔を見せたが、彼も知らないらしい。 彼によれば、この草は太い茎から何本もしっかりした葉っぱがでているという。 葉っぱは横からの風には強いが前後の風にはすぐしなる。 強い風が吹くと茎自体が大きくしなって密生した隣の草を押すのだという。ドミノ倒しのように次々に草を押し倒して起き上がるから、影がきれいな縞模様になるのだという。 「風が流れているのが見えるわけだよ」と、彼は締めた。 「へえ」 と僕は素直にカンシンした。本音を言えば本当かな?とも思ったが「風が流れる」なんて詩的な表現に感心した 彼は川のヘリに腰掛けてぶらぶらしていた足を止め、僕は彼の隣にしゃがんで緑川を見つめた。 僕らの前を風が渡っていった。 ざざざざざ。 「ほら、マジだろ?」 と、彼は自慢げに僕に言った。 「ほんとだ」と僕は笑った。 彼もニンマリと満足げに笑った。 いつもほんの数分間のことだけど、僕は次第にある種の連帯感を感じるようになった。 お互いだめだめじゃん。ってことなのかもしれない。 僕も彼も何かから逃げ回って、風が流れるのを見つめている。というところか。 それから、僕は気をつけて緑川を眺めるようになった。 旅行に行かなくてもすぐ近くに見るべきものってあるんだな。って思った。 彼は。いつしか、恐らくそのあたりからあまり姿を見かけなくなってしまった。 僕はだめだめな時間にただ一人、煙草をくゆらせながら緑川をしばらく眺めてまたその場を去る。 ある日のことだ。 いつものように自転車に乗って緑川にさしかかると、猛烈な雑音が耳を突いた。目の前には川沿いにトラックが3台も並んでいる。 何事かと思って近づいてみて、僕は思わず小さな声を上げた。 緑川は、もう緑川ではなかった。 草刈機を抱えたヘルメット姿の男たちが何人も、荒れ果てた泥地に散らばっていて小さなブルトーザーが2台、土を掘り返していた。 あの強くたくましい雑草達は何箇所かに分けてうず高く山積みなっていて、早くもその色は絵の具で書いたような深緑からくすんだ緑色と茶色の間の色のように見えた。 僕は思わず周囲を見回した。 彼を探したのだ。当然その姿はなかった。 所在なさげにしばらく立ち尽くして僕は橋の中央に移動した。 いつものように、コンクリートの手すりに体を預けて煙草をすい、変わり果てた緑川を眺めた。 くすんだ青色のトラックの脇にたって顔を寄せ合ってバインダーを覗き込んでいた3人の男達は怪訝そうな顔で僕を見た。僕は無視をして煙草が一本吸い終わるまでそうしていて、根元まで吸い終わると、思いっきり川に吸殻を投げて自転車で走り去った。 僕の考えられる限りもっともモラルに反した行為。 この地域を襲った台風と大被害に伴う、全県で唐突に始まった河川改修工事の一環だという。 確かに緑川も過去に火事になったり、あまりにも雑草が元気すぎて水が十分に流れないなんてこともあった。 やむえないことではあるのだろう。 しばらくして食卓の近所のうわさで、彼は引っ越していることがわかった。 父親の仕事の都合なのか、はたまた彼のいじめを回避してのことかはわからない。いずれにしても急な引越しではあったらしい。 それからも僕の数少ない定期的な行為は変わらない。 緑川の橋の真ん中で自転車を止め、煙草を吸う。 ただ、その川にはもう風は流れない。 最近では、醜い泥土の間から早くも小さな雑草がたくましく顔を覗かせている。まったくもって雑草って力強い。幾度かの洪水なんかを乗り越えていけるだろうか。 緑川と一緒に彼は消え去ったように思える。 川の精か。まあ貧相で生意気な妖精ということになるけれど。 そんなことを考えながら、荒れ果てたしかし本来の意味で正しいその姿を煙草1本分だけ眺めている。 なんだか、またひとりぼっちになったような気分だ。 僕の家の近所には小さな川がある。 紀乃川という。その川は、昔は緑川と呼ばれていた。 その川には風が流れる。 風が流れていた。 2003.10 TIN