トリノ

トリノはイタリアの歴史の中では新しい街といわれます。
今はフィアットの町。サッカーはユベントス。2006年オリンピックに向けて、準備に大忙しのようす。

しかし、全然ないというわけでもないようです。

古いものも少し眺めてみると、

 テアトロ・ロマーノ
 紀元後1世紀ごろのもの。カテドラーレ(ドゥオモ)の北にあります。明らかに、古い。
ちなみに、この写真の周りには、木屑とかごみが散らかっていました。見学用に考えられているとは言いがたい状態でした。
さて、

トリノの歴史はイタリアの近代史



トリノには、ルネサンス期13世紀にサヴォイア公国が成立したが、その前は神聖ローマ帝国の領土であった。

サヴォイアとは、アルプスのフランス側の斜面の一地域の名称。
サヴォイアとピエモンテにまたがってサヴォイア公国は存在した。

グリエルモ7世 モンフェッラート侯爵 13世紀 マダーマを作った。
ルドヴィコ・アカイア 15世紀 マダーマの後面を作った。
エマヌエレ・フィリベルト アオスタ公爵1559-1580 
カルロ・エマヌエレ1世(エマヌエレ・フィリベルトの息子) 1580-1630

サヴォイア公国はスペイン継承戦争(1701-1714)によってサルディーニャ島を手にいれ、サルディーニャ王国と名前を変えた。そのときの王がヴィットーリオ・アメデオ2世。この後から、繁栄するようになり、グアリーニとユヴァッラによって多くの建築物が作られた。

1800年ごろからのナポレオンの時代には一時フランス帝国領となったが、ウィーン会議1814年の後にはもとのサルディーニャ王国となった。

1849年 サルディーニャ王国はヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が即位。彼はボナパルト家の末裔。
1852年 カヴールCamillo Benso Cavourがサルディーニャ王国首相になる。カヴールはサルディーニャ王国の貴族の出身。
1860年 ヴィットーリオ・エマヌエレ2世はサヴォイアの地をフランスに割譲して、中部イタリア併合承認させた。

この流れとは別に、愛国者ガリバルディGiuseppe Garibardiの1860年の両シチリア王国(このころはスペイン系の王位だった)の占領があり、ガリバルディは、ヴィットリオ・エマヌエ−レ2世にこれを献上。

1861年 イタリア統一。イタリア王にヴィットーリオ・エマヌエレ2世が即位。トリノは首都となる。このとき、教皇領はまだ併合されていない。

1863年にフィレンツェに遷都。

ちなみに
1865年 晋仏戦争に際し、教皇領を併合
1870年 ローマに遷都。
現在のイタリアの原型となる。
サヴォイア王家のイタリア統一は、1946年まで。イタリア共和国となる。
時代はあっという間に飛んで・・・・

ルネサンス期の建物は・・

 大聖堂Cattedrale (Duomo) (1491-98)ぐらいでしょうか。
 この中にある聖骸布の聖堂capella della Sacra Sindoneは1668−94に、グアリーノ・グアリーニGuarino Guariniが作ったものとして有名です。
これ以外で重要な建物は、17世紀以降のものがほとんどとなります。。
イタリア後期バロック巨匠グアリーニとユヴァッラの建築物が多く残っているので、挙げてみると、

グアリーノ・グアリーニ(Guriano Guriani) (1624-1683)
 カリニャーノ宮殿(マダーマ宮殿から南に200m))
 ポルタノーヴァ駅
 サン・ロレンツォ教会(マダーマ宮殿の正面)

フィリッポ・ユヴァッラ(Filippo Juvarra) (1676-1736)
 マダーマ宮殿のファサード。
 ステゥピジーニ宮殿(トリノポルタノーヴァ駅の南南西8kmの平原)
 スペルガ聖堂(トリノポルタノーヴァ駅の東北東6kmの山の上)

この二人に続いたのが、ベネデット・アルフィエーリ(Benedetto Alfieri)で、
 王宮武器庫(王宮とマダーマ宮殿の間にある。ユヴァッラが計画してアルフィエーリが完成)
 テアトロレッジョ(マダーマ宮殿の東側)
などに名前を残しています。

これらの建築物を少し見てみることとしましょう。


カリニャーノ宮殿(Palazzo Carignano)
この二つの写真はどちらもカリニャーノ宮殿です。左が東側面で、右が西側面。
どちらも基本的なバロック建築ですが、面白いのは西側、via Accademia delle Scienzeに面している側です。グアリーニの特徴のひとつである、曲線と楕円の組み合わせによるファサードとなっています。なお、この目の前にあるRistorante del Cambioは由緒正しいトリノのレストランで3つ星となっています。普通のレストランの3倍以上の値段して、客層もやや高齢の印象があり、私は入ったことはありません。


サン・ロレンツォ教会
サンロレンツォ教会は、1634年にその建築が始まりましたが、その理由は、エマヌエーレ フィリベルトのS.Quintinoの戦いの前日の誓い(1557年8月10日)を果たすためということです。

この建物は、僕ははじめ教会と気づいていませんでしたが、それは、0−2階までの建物は、その周りの王宮やキアブレーゼ宮殿(北隣)にあわせてあるためか、完全に溶け込んでいたからでしょう。その屋根の部分がカステッロ広場の西側の建築物によいアクセントを与えているように感じていました。
マダーマ宮殿(Palazzo Madama)
この宮殿も、二つの顔を持っています。左側が、ユヴァッラの後から作ったファサードで、右側が、13世紀に作られたままの部分です。右側の部分は窓が尖頭アーチであることなど、ゴチック様式の建築であることがわかります。それに対して、左側は、バロック様式です。
ですから、側面から見ると、非常におかしい。

でも、その後アルフィエーリは、このおかしさを継承したのでしょうか、このレンガ造りのマダーマに面している部分の建物、王宮武器庫とテアトロレッジョを同系統の配色で、バロック様式で作っています。それが、妙にマッチしていて、不思議と違和感はないように思います。
マダーマ宮殿の前に立つエマヌエーレ フィリベルトが
近代的な服を着て立っています。
1918年の戦争のあとに作られたものです。
この左右には兵士の像がいくつか建てられています。
ストゥピニージ宮殿
ほかの都市の巨大な建築物に比べると、やや簡素な感じがしてしまうのですが、非常に落ち着いた雰囲気の宮殿だと思います。

内装もそのままよい状態で残っています。

バスでその近くまで行くことができます。
歩くには遠い。一度散歩に行きましたが、疲れすぎました。
スペルガ聖堂
トリノの町が一望できる東側の山の上にあります。
駅西側のバス停から61番あるいはカステッロ広場付近で市内電車15番に乗って、Sassi-Superga駅まで約20分。さらにそこから歩いてSassi駅まで1分(この駅はイタリアに似合わないぐらいきれい)。そこから登山電車に乗ってSuperga宮殿まで25分。
ちょっと、面倒です。
トリノの建物の中ではもっとも好きなもののひとつです。
また、ここからのトリノの町、アルプスの山々の眺めはすばらしい。
並べて見ると、ストゥピニージ宮殿と、スペルガ聖堂は、同じ作者ということもあって、よく似ている。
スペルガ聖堂のそばからトリノの町を眺めたところ。西から北側にかけて、すべて山に囲まれている。この日は雪が積もっていて、真っ白だった。霧が出ていたので、町は見えにくいが、ポー川が分かれていて、その袂に町が作られているのがわかる。
ポー川は近くからもいいです。