2005年3月9日

今日は電車の中で書き始めています。ローマからオルヴィエートにかけて約一時間20分の道のりを鈍行ならではのスピードでトンネルと抜け出て約一時間ほどたったところ。すでにラツィオ地方を抜けウンブリア地方にきております。ちょっと前にオルテ,という街が見えました。これは城塞都市ではありませんがやはり丘の上に街が並んでおり,ヨーロッパならでは、中部イタリアの魅力を存分に振り撒いていました。ローマから北の中部イタリアの空はよく目に入ります。それはきっと丘の上にある待ちがたくさんあるからではないでしょうか。丘の上にある建物を見上げると自然に目に入ってくるイタリアの空は,間違いなくイタリアの画家たちの空でもあるのです。

はじめてこの地方にきたのは19歳のとき。大学にはいたばかりだったのころの僕は,イタリアという国が非常に関係ある分野にその身を投じたにもかかわらずこの国のことをまったく知りませんでした。

言葉はおろか,この国がカトリックが宗教として圧倒的に強いという認識以外何も持っていませんでした。後は一般的によくあるイメージであるサッカー、非常にたくさん食べる国民であると言うこと、あと、非常に陽気な人が多い、という印象がありました。住んでみると単にそう見えるだけだ、ということもよく分かるのですが。

僕が広島でお世話になっていた先生が紹介してくださった神父様に付いていって教会めぐりをしたのがはじめてのこの国との出会い。そしてオルヴィエートという街は僕の中に非常に強い印象を刻んでいました。

しかし、今思い出そうとしてもぼくらは一体ミラノから入ったのかローマから入ったのかすら覚えていない。しかしあとでローマの空港に今まで一回も行っていない、ということはローマテルミニ駅に行って分かったので、間違いなくミラノから入ってミラノから出たのでしょう。全部車で移動していたからなあ・・・

その後また2年ほどして西ヨーロッパを縦断していろいろ見て回り,自分にとって一番足りない部分を求めた挙句,結局自分にとって一番足りない部分はイタリアが持っている,という結論に達したわけです。

大学を卒業して次の年の初め、僕はイタリアに飛んでいました。そう,それはただ音楽をするという目的だけのためではなかったと思う。

僕の中にこの国ことは、まず生活習慣が明らかに違う、ということを感じたこと。正直、他の西ヨーロッパ各国を訪問したときに「日本より不便だなあ・・・」という感想以外、すんだときのことを考えるとあまり学べるものがあるという風には感じなかった。ところがイタリアに関してはたとえば昼休みの習慣とか、たとえばまったく仕事をしないで昼間からバールでサッカーの話に花を咲かせているおじさんとか、いろんな意味で日本ではまず「ありえない」ことが目の当たりに出来ることが、ぼくの興味を非常にひいたのかもしれない。



そして5年以上の歳月をこの国で暮らした後再び10年前にイタリア語というものをまったく理解しなかったときに来たこのオルヴィエートという街はしかし、10年前とまったく同じように僕を迎えてくれました。

それでわかったんですよね,何で10年前にこの町がものすごく印象に残ったか。つまり,この町を理解するのに言葉はほとんど必要ないんです。ただウンブリアの山の上にこの街が存在して,紀元前6世紀のエトルリアの時代から中世の後半までの時代に繰り返し壊されては建造されなおされてきたこの街を、ただ眺めながら歩くだけでいいんですよ。

むしろ、あまりいろいろごちゃごちゃ考えずに、道を迷いながら歩くのがちょうどいいぐらい。

この街に着いてまずドゥオーモを参拝。



この教会正面のファサードは他の教会と比べても明らかに特徴がある。

基本的にドゥオーモと呼ばれている建物の正面の彫刻はやけに細かいものが多いんですよ。特にこの手の中世のエトルリア系の都市にあるドゥオーモは、どれもものすごく凝っているものが多い。しかしその中でもこれはその正面を見ただけで溜息が出るほどよく出来ている。きっと、聖書のストーリーが頭の中に完璧に叩き込まれている人なら一日つぶせるぐらいいろいろなお話のレリーフが四つ並んでいる。

知らなくても見る価値はあります。内部に関してはこの教会よりもう美しいところはたくさんあるでしょうが,この正面から見た景色だけはただこれだけをボーっと眺めているだけでも十分にいろんな事を感じることができると思います。

中に入った時点でチャペル内部にあるルーカ・シニョレッリの最後の審判はインフォメーションで3エウーロの切符を買わないとは入れないことが判明。

おなかがすいてきたので、そもそもこの街にきた最大の目的だったかもしれない,ラ・ヴォルペ・エ・ルーヴァ(狐と葡萄)という名のレストランへ。そう、この街に来る、ということがどうしてもはずせなくなってしまっていた理由が、このレストランだったわけです。

がしかし,13時ならないと開かないということが判明。とりあえずコンヴェンションホールになっているらしい宮殿のそばにあるパスティッチェリーアで手紙などを書いて時間をつぶす。しかしこのパスティッチェリーアは中途半端な店だった。しかも僕らはこれから食事をするからコーヒーだけでいい、と言ったらパスティッチェリーアに入ってコーヒーしか飲まないというのはどういう了見なの、とかいわれて。いやだったら同じスペースにバールを作らなければいいじゃないかと思うのだけど。

そして大変おなかをすかしてようやく店に入り,注文しながらこの店を紹介してくれた人のことを話すとシニョーラ・マリア・ジーナ、と名乗る人が出てきて,自分がいかにその人と時間を過ごしたかを語ってくれる。非常にうれしそうだ。

つまりこの店を紹介してくれた人は昨日のローマでの魚料理の店(ブルスケッタがお勧め、ということと豆のパスタが試すべき、という情報しかなかったのだけど)を紹介してくれた人で、その店が特に僕は満足していたので、いやみんな満足していたな、でその人が働いていた店ならきっとおいしいだろうな、ということで行きました。

ラディッキオとトリュフのパスタ,鳥の肝臓のパテのブルスケッタ,豚のカーポコッロ(首肉かと思われる)のワイン煮,ほろほろ鳥のヴィネガーでにおいを取ったものをワインとジンジャーで煮たものと思われる料理をオルヴィエートクラッシコの白と一緒に食べる。

トリュフはかなりサーヴィスしてくれていたと見えて,ワインを飲むときにのどの奥にガツンをくる香りが心まで酔わせてくれる。ほろほろ鳥は以前どこかで食べたことがある味だった。おそらくミラノのレストランか。しかし非常にオーソドックスなのに隙がない。カーポコッロはすばらしい上がり具合だった。

食べた後にもたれる感覚がまったくなく,また使った材料を考えるとどう考えても安すぎる。田舎だからとは言うものの、やはりトリュフは高いのですよ。しかしいいトリュフを使っていたなあ・・・ワインが入るとガツンと喉の奥の方に香りが伝わってくる。何でもとってすぐ加工しないまま使っているものはうまい。

店の外から見るとちょっとわからないのだが,中に入ると非常に雰囲気がよく,もしここを訪れたらぜひ行ってみて欲しい店です。ヴィーア・コルシカにあります。シニョーラも言っていたけど、場所がいりこんだところにあって、地元の人がどうしても主になってしまうとか。うん、あと、中のおしゃれさが微妙に外からは伝わってこないかも・・・こういうことって難しいよねえ・・・

で、このあとお散歩。10年前上から見て気になったのに行かなかったエトルリア人の死者の家。ネクロポリス、というやつですね。



これは・・・何と言っていいのか。入場料は3エウーロ。しかし何というか、決め手にかける観光名所、という感じ。つまり、石造りの家なんですよね。おそらくその当時の人たちも丘の上に似たような家を作っていたのだろうな、という感じ。しかしつまりこの中に王族の墓があったわけですよね。



すべて解明されているわけでもないことで有名なエトルリア文字というやつですね。僕は言語はかなり興味があるんですけど、どちらかというと文字のほうよりも音として聞こえたときどのようになるのか、ということのほうが興味があるので、こうした記号の羅列を見せられてもいまいち反応しません。

さて、このあと上に上がって、なんだか道に迷いました。迷ったときの道。



非常に入り組んでいます。侮れません。急いでいるときは決して迷わないように、真ん中の道だけ歩いたほうがいいでしょう。しかし、この街の魅力は迷い込んだ路地の方にあるかもしれない。だから暇がある人はぜひ迷いましょう・・・何かそれも違うような。

さて、最後のイヴェントとして、この街の地下探検。

丘の上に作ったのはいいんですけど、どんな街でも水は最重要課題なわけです。攻め込まれて街に逃げ込んでも水が無くなったら篭城すら出来ません。ところがこの街を高くしている部分は言ってみればセメントの材料になるあの土と同じぐらいスカスカなもので、当然ですがそうした地盤には水がたまりませんから、この街の人たちはひたすら地上と同じ高さまで井戸を掘り進めて言ったわけ。

そもそもスカスカなので、掘るのには何の句も無かったらしく、どうもその掘った総面積は丘の上の町よりも大きくなるだろう、というのが現在の予測。何故予測って、まだ調査がまったく進んでいないから。進んでいなくても簡単に見つかるだけでも400を越える部屋に分かれているんだから、いろんな用途に使っていたのがちょっと見ただけでもしのばれるわけ。



オリーブ油の生産工場。紀元前からあった部屋を後の時代の人が再利用したもの。洞窟内の湿度は80パーセントを超えていたので、火を使うととんでもない暑さになったとの事。しかし洞窟は洞窟なのでそのままにしておけば温度は14度から16度に保たれる。紀元前に通路だった部分はつぶされてしまっていて、そこにこのオリーブ油製造工場を作るために現在の通路をぶち抜いたらしい。

もともと使われていた通路は空気穴、またその横には水を上から送る装置まであったようです。まあ、水が無ければオリーブを轢くロバも動かない。ぶち抜いた通路を毎回行き来するのは効率も悪い。



100メートル近い井戸。どうも壁を伝って上に上れるように掘っていたらしい。器用な話。上の方に空気を送る担当の人間がいて、フイゴを使って下に空気を送っていたらしい。ここで危うくカメラを落としそうになってしまった。




山鳩の巣。彼らに自給自足させた後、食用としていたらしい。山鳩のほうも適当な巣穴だったらしく、戻ってきたとの事。なんだか本能が悲しい。写真では分からないのだけど、こんな巣が1000は余裕に超える数だった。



われながらこんなきれいな街に来て、まともな写真があまりないのがあれなので、なんでもない風景写真だけどおいておきます。中世都市は夕焼けがどこでも最高にきれい。

このあと食事のためにローマに戻らざるを得ませんでした。なぜならこの街の登山電車は最終が確か20時ぐらいだったかと。とにかく食事をしていたら絶対に間に合わないのです。しょうがないので心ひかれつつもローマへ。

ローマでは適当にホテルの近くのレストランで食べました。しかし比較的あたりです。ローマのすごいところはそういうところか。でも、あまり適当に探しちゃだめですよ。駅周辺では気取った店には行かないほうがいい。かと言って、あまりみすぼらしいのものねえ・・・とにかく、こういうのはアンテナみたいなものですから、鍛えるしかないと思います。

そんな感じでこの日は終了。