時系列の(5)あたり

 

 

 

 ……よし、今日こそ。

 胸の中で決意表明して、オレはその対象へ向き直る。

「あ、あのさ」

「はい」

 何やら自主的に働いている緑の頭に声を掛ければ、即座に振り向く。

 掃除用具をその場に置き、にっこりと微笑む彼はやっぱり、他の奴とは空気が違うとオレは思う。

「なんでしょう?」

「あ…えっと」

 まっすぐ見つめられる茶色の瞳は優しげなのに、しかしだからこそ余計に俺はたじろいでしまう。

 頑張れオレ、今日こそは言うって決めただろ!

「いや、お前…その……」

「レキウスです」

「え?」

「レキウス、です。王弟殿下」

「ああ……うん」

 呼びかけの段階で口篭っていたから、名を覚えていないと解釈されたらしい。

 実際はしっかり覚えていたのだけど、そう主張するのも子供じみている。

 覚えていなかったと思われているのは癪だけど、ここは流そう。

「じゃあ、レキウス。あのな……」

「はい、殿下」

 うっ!?

 何だコレ。さっきからニコニコしていたのだけど、名を呼んだら微笑み成分が増加した。

 名前を呼んだだけなのに?

 ……違うか。だけ、なんかじゃない。そんなのオレだってよく知ってる。

「オレも、名前で呼んで欲しいかな……」

 ……って、何言ってんだ。

 亡き母に想いをはせていたら、思わず口からぽろっと零れ出た。

「では、エルディ様と。……よろしいですか?」

「え、あ……うん」

 父が健在だった頃の事は覚えていない。兄はオレを嫌い、遠ざける。

 臣下はみな、兄を主体に捉えていて、オレは『王弟殿下』だ。

 それでも全く呼ばれないではない筈なのに、何だかやけに久々に聞いた気がして……懐かしかった。

 

 

 

 そんな感慨に浸っていたので、しばしオレはへらへらと相好を崩していたし、彼も何も言わずにニコニコしていたので、一体どれくらいの時間オレ達は無意味に微笑みあっていたのだろうと、後になって恥ずかしくなった。

 恥ずかしい。……でも、悪くないなぁ、こういうの。

 明日あたり、友達になってくれとか言ってそうだなー、オレ。

 立場上拙いかな? だったら一方的にあっちの負担になるだろうし、迷惑は掛けたくない。

 個人的には受け入れてくれそうなんだけどな。少なくとも嫌われてはなさそうだし……

 

 

 と、思考が若干楽観的な方向に回りだした辺りで気付いた。

「また言い損ねた……!」

 今日こそはと思っていたのに!

 一日でも早く言わなければいけないのに!

 

 先送りにすればするほど言い辛くなる。今の時点で充分ツライ。

 今日なんて、すっかり忘れてしまっていた。慣れてきて違和感を感じなくなってきたのが更に拙い。

 もう、オレが告げなければならない状況なのに。

 明日、明日こそは絶対に……!

 何度か破られている決意を唱え直す。明日こそ言ってみせる、

「それ、女中の服だって」

 

 所謂メイド服と呼ばれるそれを、おそらく何も知らずに着用させられている彼に、そんなもの着なくていいからと平謝りしたい気持ちで一杯の王弟殿下だった。

 

 

 

 

 

 

 

 そもそも何が起こってそんな事態になっているのかと言えば、まぁグランスの悪ふざけというか、嫌がらせか何かじゃないかと思う。多分。

 ああ、その嫌がらせの対象はレキウスではなく、自分にだ。

 だから彼には余計に申し訳ない。

 

 だいたい、何でグランスはオレに対してああいう態度なんだ。

 兄の側近で、参謀で、精霊機関の開発第一人者で……とにかく多才で謎な奴。

 何で兄にすら名乗っていない名前を俺に教えるんだろう。おかげで「グランスは?」と言っても誰にも通じなかったじゃないか。本当、止めて欲しい。兄に「側近に取り入るとは謀反の兆し」と取られたらどうしてくれる。

 だからと言って奴の方からオレに取り入りたいとかそういう雰囲気は感じられなくて、逆にオレに対して不満があるような……苛立っているような態度を取る。勿論表立ってではないけれど、隠す気もなさそうだ。

 オレが何もせずにただ生きているだけ、みたいな生活をしている事に苛立っている奴は他にもけっこういて、そういう奴らは大概オレに兄と争って欲しいわけだけど、グランスはそういった権力争いに関わっている気配は無い。

 兄は昔みたく直接的にではないにしろ未だ俺を疎んでいて、だからオレが死に掛けようがどうなろうが何もしてくれなくて、どうにかしてくれるのは不本意ながらグランスだったりする。アイツがいなければ何度オレは暗殺されている事やら。

 オレを何かで利用したい、というのは間違ってなさそうなのだけど、それが何かがわからない。

 時折俺を見て「貴方なのだと思うのですがね…」と呟く、その意味をオレは知らない。

 そんなわけで、グランスはオレが生きていく為に頼らざるを得ないのだけど、己の直感を信じるなら一番信用してはいけない人物だったりする。……根本的には悪い奴じゃなさそうなんだけど。

 

 そんなグランスと揉めた(というかオレがごねた)のは、奴がイルージャ島に遠征に行く少し前。

 最近、世話係が怖いと訴えたのだ。

 といっても命を狙われているとかではなくて……端的に言うなら子種を狙われているというか。

 オレもそれなりな年頃になったわけだし、世話係が『そういう役割』を兼ねるのは分からなくはないのだが……気合が怖い。それなりの身分の彼女は多分、懐妊したら一生安泰とか言われているのかもしれないが、オレはどうなるのか考えると怖い。

 今は、オレを利用したい奴らがオレを邪魔に思ってる奴らの防波堤になっている状態なわけで、その均衡が崩れたら――‐オレに、『予備』ができたら、きっともう守ってはもらえなくなる。特に成し遂げたい何かがあるではないが、むざむざ暗殺されたくはない。

 そんな事情で、将来的に『継承権のある誰か』ではなく『オレ』に何かをして欲しいらしいグランスに訴えたわけだ。

 

 その時の事を思い出すと未だに眉間に皺が寄る。

 世話役を男にしてくれ、と訴えたオレに、グランスは「おや、そのような趣味が」と言いやがった。

 一瞬意味が取れなかったオレだったが、「では、筋骨隆々で『その方面』に秀でた者を探しますか」と続けられてさすがに理解した。全力で男色を否定するオレをあしらうグランスの口調は絶対に揶揄うものだった。嫌がらせだ絶対。

 そんなわけあるか! と叫んでいたオレは少々頭に血が昇っていて、何を喚きたてたのかよく思い出せない。

 女はやめろ、むさ苦しいのは嫌だ、……他に何を言ったのだったか覚えていないが、まぁきっと不運な事にその辺をクリアしてしまったのだろう、彼―――レキウスは。

 勿論女ではないし、オレより背はあるとはいえ同世代の少年はむさ苦しくない。

 だからといって、メイド服を着せることはないのだが。十代半ばという成長しきっていない顔立ちや体格のせいで見苦しい事にはなっていない辺りが複雑だ。

 つーか、異性装なのってやっぱりグランスからの「手を出しても文句は出ませんよ」というメッセージなのか? その辺全てひっくるめて嫌がらせなのは明白だが。

 世話役が替わったのは、オレの訴えとは関係ない突発的事態であって、この城に連れて来られたばかりの彼にその役が振られたのは偶然の要素が強い。

 何かを仕込まれる暇などなかったろうし、何より稚児めいた気配を欠片も感じさせない彼の振る舞いは色事などとは対極だ。

 そんな彼を、オレと奴とのくだらない諍いに巻き込んでしまっているのが本気で申し訳ない。

 畜生。グランスの野郎、オレが彼と仲良くなりたがってるの見抜いての所業だな!?

 

 ああもう、全くもってグランスがあの格好のレキウスを紹介してきたあの時に、その場で訂正し損ねた事が悔やまれる。グランスだってその程度のその場限りの悪ふざけで終わるつもりだったんだろうに、あの時のオレはいくつか――服の事も含めて――驚く事が重なって、不覚にも頷くしかできなかった。

 他の使用人はグランスよりも身分が低い為、用意したグランスの前では言えなかっただろうし、オレがそのまま流したとあってはもう仕掛けたグランスであろうと正すことはできない。オレにしか正せない。

 ……グランスはともかく、そろそろ使用人にはオレの趣味だって思われてそうだな。

 それはともかく、タイミングを逸したオレは今の今までズルズルと放置してしまっている状態だ。

 今更それが女装だと教えた所で、どうして今まで言ってくれなかったのかと思われるだろう。

 違うんだ、面白がって放置していたわけでも、趣味でもないんだ……!

 嫌われるかもしれない。そう思うとますます言えなくて、どんどん日数が経ってしまって、今に至る。ああ、悪循環。

 

 

「……嫌われたく、ない」

 ふー、溜息をついて枕に顔を埋める。

 難しいよ、かぁさま。

(見極めなさい)

 目を閉じると、母の声が耳に蘇る。

(見極め、そして信頼できる人を作りなさい)

 そう言ったあの強く優しい人は、どんな顔で逝ったのだろう?

(陛下は……あの方はとても寂しい人。誰の事も信じられない、悲しい人。哀しい子。私はあの方の母だから、あの子を独りにしないよう、呼びかけ続けます。ずっと、あの子が気付くまで)

 そうやって継子に呼びかけ、諌め、そして幽閉された母。獄中で逝ったあの人は、近付いてくる最期にも考えを曲げなかったのだろうか。

 ……だったら、オレの事も独りにしないで欲しかった。

 寂しいよ、かぁさま。

 寂しくなくなる為にはどうすればいいかは教わったけど、どうすれば隣にいてくれるのかが分からないんだ。

 

 

 

 ……信じて。

 オレを信じて。

 オレに信じさせて。

 

 彼が、何も演じていない筈が無い。

 だって、オレは彼の本来の口調を知っている。

 オレに敬語を使うのは強制されているからで、この城に――この国に居るのは人質として。

 彼の国を踏みにじった国の、オレはその王の弟で、彼が何も思うところがない筈はない。

 恨まれていて当然で……嫌われたくないだなんて、馬鹿みたいに滑稽な話なのかもしれない。

 

 でも、それでもあの笑顔のすべてが嘘だとは思えないから。

(見極めなさい)

 呼べばすぐに振り向いてくれる。恐怖によるものでなしに、オレの事を気にしてくれてる。

(見極めなさい。あなたの敵を。そして味方を)

 敬語を使うのは構わない。本来の口調でなくとも、親しみを含んだ声。

(信頼できる人を作りなさい)

 嫌われたくない。好きになって欲しい。

 

「信じて……」

 

 

 

 

 

 

 

(8)

 

 

「ごめん、知ってた」

 

 

「……へ?」

「ああほらエル、手元見て。また指切るぞ」

 言われて視線を戻すと、刃が皮膚に当たっていた。

 危ない、またしても芋を血塗れにする所だった。

 作業を続けられそうにないので、ひとまず俎板に置く。

 で、レック今なんて言った?

「だから、女物の服だって知ってた」

 

「……いつから?」

「割と最初から」

 ……嘘ぉ。

「渡された時点で既にそんな気はしてたし、周りの奴らの態度からその日の内に確信も持てたな」

 そりゃあイルージャは独自の文化持ってるけど、そこまで感性かけ離れてはいないぞ? と言われてますます混乱した。

「じゃあ、何で?」

 異性装だと分かっていたなら、どうして何も言わずにそのまま着ていた?

「俺に拒否権あったのか?」

「う……」

 確かに、用意されたものを嫌だと突っぱねる事は出来なかったかもしれないが、

「オレに言えば良かったのに」

 最初の頃ならともかく、それなりに話せるようになってからならその程度の訴えはできたろうに。

 そうしてくれたら、こっちだってあんなに悩まずに済んだものを。

 

「ああ、お前はずっと困った顔してたな」

 クス、と笑みを零してレックが言う。

 オレが無駄に困ってた事、知ってたのかよ。ちょっと酷くないか、お前?

「オレの葛藤は一体……」

「いやいや、無駄なんかじゃなかったぞー。おかげで和んだ」

「酷ぇ!」

 叫ぶオレに、だからごめんって言ったろ、とレックが笑う。

 まぁ怒るなって、とオレの頭に手をやって、ぽんぽんと撫でる。

 同い年なのに、明らかに子供にするような仕草。それがオレは嫌いじゃない。むしろ嬉しい。

 なので、もともと怒ってはいなかったけど、ちょっぴり沈んでいた気持ちが上向く。

 さぞや滑稽だったであろう俺を心で笑っていたのだとしても、だからどうしたという気になる。

 色々と張り詰めていたであろう当時の彼の心が、少しでも和んだと言うならそれでいいや、うん。

 

 怒ってないよと伝えようと目を合わせると、予想に反してどこか寂しそうな目にぶつかった。

「レック?」

「……うん」

 驚いて問いかけるような声で名を呼ぶと、レックはゆっくりと目を閉じて、ぽつりと話し出した。

 

「黙ってたのは、都合が良かったから」

「都合…?」

「見極めるのに」

 首を捻るオレに、やっぱりちょっと寂しそうに口元を歪める。

「滑稽な格好の俺を見て、嘲笑するか、困惑するか。困惑ならいつまでか」

「え……」

「嗤う奴は言うに及ばず。困っているなら性根は善いと思っていいけど、皆すぐにお前の意思なら仕方ないという顔になった。なら、いざと言う時頼れない」

 俺にとってのいざと言う時、『迎合』の人間は味方たり得ないから。

 そう言って、レックはオレに視線を合わす。

「お前は、ずっと困った顔していたな」

 そう言って微笑む。

「使用人の格好なんかどうでもいいって捨て置けば良かったのに。

 あるいは、俺の心情に気なんか使わずに「見苦しいから止めろ」って言えばよかったのに。どっちもできずに、ずっと困ってた。」

 だから、見限る事ができなかった。 そう、柔らかく細められた眼差しが語っている。

「外の人間なんか誰も信用するものかって思って島を出たけど、それって思ったよりずっと辛くて、だから……和んだ」

 感謝してる。好きだよ、エルディ。

 トン、と肩口に顔を埋められて、そんな呟きが響く。

 一緒に逃げようと、あの時手を引いてくれた好意の理由を今知って、嬉しいけれど、何だか哀しい。

 オレは全然、当時のこいつの事を理解してなかったんだなと、少し切ない。

 

 

「……屈辱的じゃなかった?」

「俺は、守人だから」

 くぐもった声は簡潔で、それ以上口にしたくないと言っているのに、オレには意味が分からない。

 困惑するオレの様子は肌で伝わったらしく、緑の髪がふるりと揺れる。

「守れなかった事。それ以上の屈辱なんて、無い」

「……そっか」

 レキウスは、確固とした『守るべきもの』を持っている奴だ。もし、どうしてもオレがそれらの害になるようなら、彼はきっとオレに弓を向ける。

 その、彼の故郷を蹂躙した兄の顔を思い出す。あいつの守りたいものは、王としては残念ながら国でも人でもないけれど、絶対譲れぬ信念がある。

 多分、グランスもそう。それが何かは知らないけれど、その為に奴はきっと、何でもできる。

 オレにはまだ、それがない。

 なので、彼ら―――とりわけ彼の姿勢に憧れる。

 尊敬してるし、格好いいなぁと思う。

 …………思いはする、のだが。

 

 でもやっぱり格好にはもう少し気を使った方がいいような気がするなぁ、信念は格好いいけどそれがメイド姿に直結していたあたり、葬っといた方がいい過去なんじゃないかなぁとか、

 調理する時のエプロンが無いからってメイドエプロン流用するのやめろよ、とか。

 何でまだ持ってんだよ捨てろよ、貧乏性というよりやっぱり感性も相当違うんじゃ、いやいっそ体を張ったオレへの嫌がらせかよ、とか。

 

 流れとしてはシリアスな空気を読んでいるばっかりに、相変わらず突っ込むに突っ込めない元・王弟殿下の日々だった。