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「暖かい……?」 重厚な門を越えた途端、思わず口が動いた。それほどに劇的な変化だった。 「結界が張ってあります。中心に近付けばもっと暖かいですよ」 傍にいた仮面の男が解説する。それにしてもこの男、戦闘の際に指揮を執っていたような立場の人物なのに、どうして捕虜の話し相手なんかしているのだろう。 「……顔色が悪いようですが、大丈夫ですか?」 確かに、気分がよくない。 「あまり急激な変化は身体によくないので段階的に分けてあるのですが、慣れていなければ辛いかもしれませんね」 「……精霊の、気配が」 「ほう、精霊魔法は絶えたとはいえ、その程度は判りますか。その通り、精霊の力を利用したものです」 借りるのではなく、利用と言う。 「……よかった」 「何か?」 「いいえ、何も」 本当に、よかった。 リチアの代わりに俺が来て。 押し込まれ、強引に従わされ力を引き出される、あまりに不自然な気配に吐き気がした。 俺程度でこうなら、精霊との交信能力に長けた巫女である彼女は耐えられないだろう。 彼女には出来る限り穏やかに過ごしていて欲しいから、俺でよかったと思う。 空を見上げる。 結界の外は雪で、灰色の雲に覆われ青さは見えないけれど、空は繋がっている筈だから。 俺は、僅かでも君の役に立てているかな。 君が少しでも心安らかに暮らしている事を、遠い空から祈っているよ。 |
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でもやっぱり体調を崩した。 城壁の中は城下町よりも遥かに暖かくて、一応持ってきたイルージャでの普段着でも大丈夫そうなくらいだったけれど、それでも環境が激変したのには違いない。精神面にも肉体面にも負担が掛かってるわけで、だから仕方の無い事なのかもしれないが、着いた直後に熱を出すというのはどうにも情けない。 一晩で治るといいのだけど、と早々に与えられた寝台に身を横たえているのだが、どうにも寝付けない。 寝心地が悪いのではない。予想に反して、待遇は悪くない。むしろ破格なくらいに良いと思う。 どうも着いて早々に予定が変わったらしく、俺は早速異動になって、その影響での一時的な客扱いなのかもしれない。 最初は中心に聳えた大きな城に連れて来られたのに、城内はやや騒がしくて、仮面の導師が何かを耳打ちされ、少し考えた様子を見せた後、俺は離れに案内された。 この離れは、城内の端の方に位置していて、何と言うか『仕切られた』空間だ。 町よりも暖かいが、本城に比べると肌寒い。庭はあるが、取り囲む高い壁が四方を囲んでいて、気分的に息苦しい。 そんな事を思っていたら、無性に外の空気が吸いたくなった。 暖気を留める結界が張られたのはここ数年のことらしく、建物は寒冷地方らしい造りのままなので、俺からすると息苦しい事この上ない。 少しだけ、と俺は上着を羽織って廊下へ出た。 廊下はしんと静まり返っていた。 何か、おかしい気がする。 建物の規模の割に、人の気配が希薄すぎる。 見張りはいるけれど、本城の兵が外からの侵入者に神経を尖らせているのとは違って、ここのそれは意識が内に向いているような…… 閉じ込めておきたい、ような? 見張りに持ちかけると、あっさり庭に出られた。少し肌寒くて、上着を着てきて正解だったなと思う。 冷えた空気の中に、微かに甘い匂いが含まれているのに気付いて、なんだか楽しくなる。 大嫌いな国の真ん中で、こんな浮ついた気分になるなんて、熱が上がったのかもしれないなぁとぼんやり思う。 花でも探したい所だが、いかんせん真夜中だ。月も見えない事だし、外壁に沿って一回りするくらいに留めておくか。 庭鑑賞は明日しよう、と明日からどんな労働が待っているか分からないのに決める。熱の所為か、どこかフワフワした心地がしている。 この地域だとどんな花が咲くのかな、などと考えながら歩を進めていると、何かが鼓膜を刺激した。 音というより、気配の段階だ。さて人か動物か、とそちらに足を向ける。 狩りをする時のように気配を殺して近付いていくと、やがて乱れがちの呼吸音を耳に捕らえた。 誰だか知らないが具合でも悪いのか、いや……これは、嗚咽? 石像の影からそっと覗き込むと、月色の髪が目に入った。 あ。なんか、綺麗。 大嫌いな国の真ん中で、こんな国の民なんてどうにでもなってしまえと思っていたのに、その感覚は素直に心に沁みて。 熱のせいだと思うのだけど、その時俺の中からは警戒心というものが抜け落ちて、慰めなきゃと思った。 足音を殺すのを止めて、普通に近寄ると、その人物は弾かれたように振り向いて後ずさった。 「あ、驚かせてごめん」 「……誰だ」 なにぶん暗くてよく見えないけれど、声とシルエットからして俺と同世代。いや、人種からするともう少し下かも? そして俺は警戒されている。この離れにはあまり人が多くなさそうだから、見覚えのない俺は怪しまれて当然か。 「俺はレキウス。今日この国に来たばっかりで明日から働く予定。お前は?」 「…………」 あー、すごく警戒されてる。 本来だったら、その警戒慣れした様子から、どんな立場にある人物なのか推察できてしかるべきだったのだろうけど、何しろその時俺は熱に浮かされた状態で、野生動物の懐かせ方なんかを思い出していた。 「芋、好き?」 「は?」 「干し芋持ってるんだけど、食べないかなって」 「……受け取ると思うか?」 餌付け、失敗。でも呆れたような声からは、僅かに緊張感が薄れた。 「……大丈夫?」 「なに……って、近寄るな!」 まだ駄目か。 近付かないよとのアピールで、その場にぺたりと座り込む。 そうして、彼が先程蹲っていた辺りを示した。 「悲しい事があったのかなって。……それ、墓じゃないか?」 「…っ」 当たりか。 少し盛り上がった土の規模からして、小動物。犬猫よりも小さいそれは、鼠か…… 「鳥、かな?」 「よく、わかるな……」 「友達?」 「……鳥が?」 「違うのか」 「…………」 長めの沈黙の後、違わないと聞こえた。 なら、と墓に向き直り、手を合わせて瞑目する。 「何、してるんだ?」 「冥福を祈ってる。御霊が安らかであるように。次の生が幸多きものであるように」 「……こ、こう?」 目を開けると、俺に倣って手を合わせていた。なんだか可愛いなぁと思いながら頷く。 「うん。でも俺の地方の形式に合わせることはないと思うよ」 土地によって祈る形式は違う筈で、この地で逝った魂を送るなら、彼の知る方法で良いと思う。 大事なのは心なのだし。 「知らないから」 「そっか……」 今まで身内に不幸がなかったという事か。だったら幸運な事だけど、死別に慣れてないなら余計に放っておけない。 「近付いてもいいかな?」 「いや、それは…………あれ、お前、胸のそれって」 「え、どれ?」 言われて見るが、他国の服はよく分からない。胸のって、このエンブレムっぽいのか? 「なんだ……グランスの客分か」 「ぐらんす?」 これってそういう意味なのか、そういえば見張りの兵士もここ見てたっけ。 でもその名に覚えは無い。 「あー……ほら、仮面の」 「ああ、『どーしさま』。そんな名前だったのか」 「うわ、それだけ敬う気の無さそうな『導師様』は初めて聞いた」 無さそうか。実際敬意など微塵もないが、気をつけた方がいいかもしれない。 でも、この場では上手く働いた。やっと笑ってくれたから。 「不敬については内密によろしく」 「ん、オレも本当は今ここに居ちゃいけないから、どうせ言えない」 「じゃあお互い様って事で」 口の前に人指し指を立てて笑ってみせると、また笑みの気配。 そうして彼の方から近付いてきて、隣に腰掛けた。 座り込んだ地面は未だ冷たかったけど、懐かせた嬉しさで気にならなくなった。 近くで見ると、けっこう整った顔立ちをしている。 明るい陽の下だと、この髪や瞳はどう見えるのだろう? ああ、その前に、知りたい事がもう一つ。 「名前を訊いても?」 「あ……」 「言いたくないなら別に……」 「いや……エルディ、だ」 何だか、やけに俺の反応を窺うような仕草だ。なんだろう? 「エルディ、エルディ……うん、覚えた。エルって呼んでいい?」 「へっ!?」 素っ頓狂な声だ。知っていて然るべき名なのか? 「駄目か? じゃあ、普段なんて呼ばれてる?」 「愛称なんて、付けられたの初めてだ……」 「呼ばれるの、嫌?」 「嫌じゃ、ないけど……拙いと思う。お前が」 「俺が?」 「オレとこうして喋ったってのも、誰にも言わない方がいい」 「ふぅん……?」 遅まきながら、ようやくここで俺は彼が大層な身分である事を朧げに察したのだった。 「居ちゃいけないってのは?」 子供を相手にする時には、態度を変えてはいけない。信用できないと思われるから。 なので、もう少しすっとぼけさせてもらうことにした。彼の方も、今更ここで改められても寂しいみたいだし。 「今日は部屋から出るなって。それに死は、穢れだから。コイツが見つかったらオレの目の届かない所に捨てられる」 だから、どうやったかは知らないが、抜け出してきて一人で埋葬していたという事か。 ああ、やっぱりそうだ。 他国の風習に詳しくはないけれど、今のロリマー王は色々と型破りで、その噂はいくつか聞き及んでいる。 現王ストラウドの場合は、前王が幼少の頃に他界したので当て嵌まらないそうだが、本来は成人するまでは極力穢れから遠ざけられるのだと。それは確か、ロリマー王家の血筋に連なる者。 目の前の子供は、憎むべき国の、王族だ。 「多分、今日……城で二人は人が死んでる」 「そう、なんだ」 どうりで城内が異様な雰囲気だと思ったら。まぁ普段を知らないから何とも言えないが。 「誰もオレに言わないから確信はないけど、多分そういう事なんだと思う」 「うん。城の方、騒がしかった。人死にが出たなら納得かな」 「オレは、それがオレのせいだとはあんまり思えなくて……でもコイツは」 と、簡易な墓に目をやる。 「オレのせいだから」 イルージャに侵攻してきた奴らは情け容赦なくて、外界の人間は血も涙もないのだと思い知って(というかあの時の兵は実際に精霊力で動く絡繰人形だったらしいが)、だったら俺もロリマー人など同じ人とは思うまいと心に決めて、……なのにその時のエルディの声に、表情に、考える事無く手を伸ばす自分が居た。 「え……」 頬に掌をあて、包み込むようにゆっくりと撫ぜる。戸惑いはするも、振り払われる様子は無い。 「さっき、泣いてるのかと思った」 だから近付いたのに、目元を擦っても指先に返るのはサラリとした感触。 「泣くわけが、ない」 「どうして?」 息を詰まらせていたのを聞いた。あれは幻聴なんかじゃない。 「母さ……母上が崩御された時だって泣かなかったんだ。もう、泣き方なんて忘れた」 「そんな……」 「……いつ、葬儀があったのかも知らなくて…………オレはいつ、泣けばよかったんだろう……」 「………そっか」 困った、嫌いになれない。 清い存在であれと強いられた子供の悲しみが、球体に閉じ込められた精霊以上に痛々しい。 何も言えないでいる俺をどう思ったか、頬に触れたままだった手に彼の手が添えられる。 「お前、体温高いんだな。あったかい……」 ああ、まったく。 そんな事をそんな嬉しそうに言うものだから。 「え…えっ? おいっ!?」 もう、抱きしめるしかないだろう? 「ちょっ、おい! なあ! なぁってばお前!」 ああもう、俺の方が泣きそうだ。慌てた彼の声に応える事なんて到底できない。 「なぁって……おーい………えっと…レキ、ウス……?」 「…………」 声は段々と大人しくなって、身体から力が抜けるのを感じる。 俺は背に回した腕を少し緩め、そっとその月色の頭を撫でる。そうしたら、彼の腕がゆっくりと俺の背に縋った。 あったかい、と聞こえた気がした。 本当に、泣きそうだ。 彼が埋めたかの鳥は……彼の友達は、彼の掌を温めたのだろうか。 それは真実の事なのに、彼が俺を温かいと言うのは俺が今発熱しているからで、こんな行動にでているのも、きっとそのせい。 これは明日になれば消えている筈のぬくもりで、そうでなくてはいけなくて、それがとても、悲しい。悲しくてたまらない。 彼がかなしい。哀しくて、愛しい。 台無しだ。誰にも心を許すものかと決めていたのに、着いて初日からもう、無理だ。 どうしてくれるんだよ、心で呟いて、俺はまた抱きしめた腕に力を込めた。 |
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