ふわりと漂うリンゴの香り。 「姉さん、それ何?」 香りの元を辿ると、由美子がボウルの中身をかき混ぜていた。 お菓子作りが得意な彼女の事だから、期待できるかもしれない。 特に今日は、最近寮に入った弟が帰ってきていることだし。 「クリームにアップルソースを混ぜたところよ。占いに使うの」 ああ、お菓子ではなくもうひとつの特技の方だったのか。 「周助もやってみる?」 「うん、面白そうだね」 アップルソースの香りに惹かれたとも言うかもしれない。 「いい天気」 声に出して、不二は大きく伸びをした。 まだ時間はあるし、もう少しふらふらするのも楽しい。 木々はまだ緑を保ってはいるが、空には夏とは明らかに違う雲が流れている。 「今カメラ欲しいな」 今日はテニス部に顔を出す予定だったのだが、変更して写真を撮りに公園にでも行ってみるというのも悪くないかも。 とはいえ、先程同級生である菊丸に訊かれた際、行くと言ってしまったわけだし。 一陣の風が通り過ぎた。 肌寒いくらいのこの気温は、運動するのに調度いいかもしれない。 結論付けて、不二はそこから部室へ歩き出した。 「朋ちゃん、本当にやるの?」 「何言ってんのよ桜乃。こんなチャンス逃がしていいの!?」 途中、聞き覚えのある声がした。 声をひそめた話し方に興味を引かれて、不二の足は自然そちらへ向いていた。 「よ、よーし。これで………」 「いいのかなぁ……」 「何してるの?」 「「きゃ!」」 故意でなくとも音も無く人の背後に忍び寄っているのは不二の常。 二人の少女は、性格の違いに関わらずそっくりな悲鳴をあげた。 「ごめん、驚かせたね。………あれ、越前くん?」 彼女達に隠れて、しかも視界よりも下にいたものだから気付くのが遅れた。 青学テニス部No1期待株。 ただし今は樹を背にして昼寝中。 「ふ、不二先輩!あ、あのこれは………」 「何慌ててるの?」 何か弁解しようとしている彼女の手に、小さな壜が握られているのを認めて、おやと思う。 あれは確か……… 「………不二先輩?」 掠れた声に思考が中断された。 「あ、おはよう越前くん」 さすがに騒がしかったか、寝起きのボンヤリした瞳が不二を映していた。 「あー!!」 唐突に朋華が大声を出し、本人以外の三人がビクッとした。 視線を集めてしまった少女は、ひどく動揺している。 「あ………しっ、失礼しました!」 「ま、待ってよ朋ちゃんー!」 二人ともあっという間に走り去ってしまった。 「……なにアレ」 「えーっと……」 逃げる際に見えた小壜には色付きの液体が入っていた。 たしか、あの色は……… 「越前くん、ちょっといい?」 「な、何スか?」 驚くのを無視してそっと彼の瞼に触れると、僅かに湿り気を感じる。 やっぱり。 「悪い事しちゃったかな。あの子達にも、君にも」 「オレ?」 「だって今君は僕に恋してることになってるから」 「はぁ!?」 眠気も一気に吹っ飛んだ、といった顔に思わず笑いがこみあげる。 「あはは、詳しくは後で。きっと彼女たちまた来るよ」 「って言ったって………」 納得いかなそうにしている。当然か。 「部活始まるよ。早く行こう?」 「あれ、今日は出るんっスか」 「うん。一年の子に指導して欲しいって言われてるし、英二も出るって言ってたし、暇だし」 「最後ののウエイトが大きそうっスね」 大当たり。 引退後何が辛いかって、暇すぎる事。 僕と、姉さんと母さん。 それと、どうしてもこの二人には逆らえない裕太も巻き込んでの計四人。 揃ってひとつのボウルを見つめた。 白いふわふわしたクリームは、僕の好きな香りがする。 「中には煮沸した指輪とコインとおはじきが入ってるわ。 こうしてスプーンで掬って、入っていた物で占うの」 そう言って姉さんはアップルクリームを口に運んだ。 次の瞬間、 カツン 小さな音がした。 「やった。コインだわ!今年は金運に恵まれるわ!」 子供みたいにはしゃいでいる。 女の人はかわいいなぁ、とか家族に抱くには少し違う感想を持ったりして。 三人一緒にスプーンを差し入れて、姉さんがやったように口に運ぶ。 アップルソースの香りが強くなる。 口の中でゆっくり溶かして……… 「あら、何もなかったわ。はずれなの?」 初めに口を開いたのは母さんだった。 「ううん、その場合当たりでも外れでもない、平凡な一年って事よ。 外れなのは………」 カツン 「姉貴、おはじきが入ってたぜ」 「コレよ」 「あ?」 「外れなのは。寂しい独り身、って意味よ」 「なっ!?」 裕太らしいなぁ。 やっぱり寮やめて戻ってくれば?って言いたかったけど言えなかった。 なぜなら…… 「周助は?」 僕の歯にも当たる物があるから。 「指輪の意味は?」 「あら、周助にもやっと春が来たのかしら」 今秋なんですけど。 「恋愛成就ってこと?」 別に僕好きな人いないからそんなに嬉しくもないんだけど。 「ええ。好きな人ができて、しかも両想いになれるわよ」 姉さんは意味深な微笑を浮かべた。 「って事があったっけ。去年」 「へー」 そういえば今日は十月末日だったな、と思い一年前のこの日を思い出していた。 「それって今日じゃなきゃいけないもんなの?」 「だって、ハロウィンだもの」 帰り際、先に着替えを終えた菊丸に簡単に返す。 「意味わかんにゃいし」 だろうね。 「日本ではあんまりメジャーじゃないって聞きましたけど」 横から越前が口を挟んできた。 こちらも既に制服姿。 なのに帰らないっていう事は一応さっきの件が気になるってことかな? 「まぁわざわざ仮装したりはしないね。でもさ、仮装の意味を知ってる?」 「お菓子貰うためじゃないの〜?」 英二はひとまず無視。 「その日にはモンスターが出てきやすいから取り憑かれないように」 「そう、つまり異世界との境界が薄まる日。よって一年のうちで最も魔力が高まる日というわけ。 この日にやる占い・まじないの類は効果を発揮しやすいんだって」 「ふ〜ん、さすが占い師の弟」 「いや………姉さんOLなんだけど」 「でも去年のあれは当たらなかったと見て良いと思うけどね。確かにあの後彼女はできたけど」 「え、不二先輩恋人いるんスか」 あれ、越前がこういった野次馬根性見せるのは珍しいな。 「いた、が正しいね。とっくに振られたから」 「振ったんだろ」 いつもよりも数段トーンを落とした声で菊丸が呟いた。 「またそう言う。何でかそんな話になってるけど僕が振られたんだってば」 「何でかって、あの子が自分でそう言ってたからだよ。不二に不名誉な噂がたたないようにな。 あんな人格者めったいないよ?ったく惜しいことすんだから」 あくまで僕の話を信じない英二にムっとした。 「だから、何考えてそんなこと言ったか知らないけど、何で僕が非難されなきゃいけないんだよ。 付き合ってる間は大事にしてたし、手を繋ぐのもキスするのも少しづつ距離計って上手くやってたのに、いきなり別れようって言われてショックだったのは僕の方だ!」 そこまで言うと、周りの空気がざわついたのを感じてここが部室だと思い出した。 「………次の段階に進む前に別れたから君達の興味を引くような話は無いよ。 着替え終わった人は早く帰りなね?」 そう、笑顔を向けるとさーっと人が居なくなった。 残ったのは英二と越前のみ。 「不二がショックだったのは付き合い方上手に計算してたのにオジャンにされたからじゃん。振られて悲しかったからじゃない」 「だって………僕は初めから彼女の事好きだったわけじゃ―――」 パンッ! 乾いた音がした。 「痛………」 「それ以上は言っちゃダメ。失礼にも程があるよ不二」 強くはないが、菊丸に叩かれたという事に不二は呆然としている。 「………って、そういう約束だったのに。付き合えないって言ったのに。彼女が、好きじゃなくても好きにならなくてもいいからって言ったんだ。僕に他に好きな人ができるまででいいって」 それは、随分と都合のいい条件だと思ったから。 「だから付き合って、僕なりに好きになろうとしてたのに。そりゃ部活の話ばっかりしてたかもしれないけど、そんなの今までもそうだったんだから今年になっていきなりそれが理由だなんて言われてもあっちが飽きたって事だろ?なのにどうして僕の方が責められなきゃいけないのさ」 「それだけ聞けばもっともだけどね。けど、どうして今年になって、ってのを、気付いてないなら余程の馬鹿だし、気付いてるんなら最低、女の敵だよ。いい加減良く考えて結論出さないとオレもフォローできないから」 今日は1人で頭冷やしな。先帰るから。 そう言って菊丸は部室から出て行った。 「なんなのさ一体………」 しばらく英二の消えた戸を見つめていたが、このままでは埒があかない。 考えるにしろ無視するにしろ、家に帰ってからだ。 「帰ろ………越前も」 「あ、ハイ……」 さすがに割り込めなかったらしい越前も、被害者と言えるかもしれない。 ほとんど僕が引き止めてたようなものだし。 ああ、そういえばあの少女たちは来ないのかな。 てっきり用意しているものと思ってたのに、ないとすると調達が大変だろうな。 そんな事を思いながら部室を出ると………居た。 「あ、あの不二先輩。お願いがあるんですけど………」 予想通り、少女達の手には先ほどと同じような小壜が収まっていて、僕は少し気分がほぐれた。 「いいよ。ああ越前、君も帰っちゃ駄目」 「は?」 驚いたように目を瞬かせたのは越前だけじゃなかった。 「目、瞑って?」 「何で」 「いいから。先輩命令」 朋華から壜を受け取り、滅多に使わない先輩特権を行使してみたり。 蓋を開けて指に軽くつけ、しぶしぶ従った越前の瞼に薄く塗った。 「恋の女神ダイアナよ、白百合の無垢に換えて彼の者の呪を解きたまえ」 歌うように不二の声が響く。 高くも低くも無い中性的な声音はどこか神秘性をもつ。 略式だけど確かこんな感じ。 「これでいいかな?」 「あ、はい。不二先輩知ってたんですね」 「姉がこういうの詳しくてね」 「ご迷惑おかけしました。ありがとうございました」 駆けていくのを微笑みながら見送っていると、背後から不機嫌そうな気配がした。 「で、なんだったんスか?」 そういえばまだ説明もしていなかったっけ。 「三色スミレの絞り汁を想い人の瞼に塗ると、目を開けて初めに見た人のことを好きになるっていうおまじないだよ。でもってその効力を消すには白百合の絞り汁を塗ればいい。君はさっき目を開けて最初に僕を見たけど、今その効果は消されたってわけ。 ハロウィンの日に行うのが効果的っていうのはさっきも言ったよね?」 「馬鹿みたい」 「まあそう言わない。確かに子供だましだけど、彼女たちは真剣なんだから」 「そうじゃないよ。無意味なのにって言ってんの」 「うーん、まあ君には効かなそうだね」 「違うってば。今更ってこと。先輩の呪の方が効きそうだし」 「え?」 どういう意味?と聞こうとして振り向いた。 「越前、くん………?」 大きな強い瞳とぶつかる。 睨むような視線に思わず心臓がドクンとが跳ねた。 「気付いてんでしょ?ズルイよアンタ」 「え?」 それはさっきも英二にも言われたこと。 気付いてない。何を? 「ホント、オレも殴ってやりたい」 そう言って越前は歩き出した。 すれ違う際。 ふわり、とリンゴの香りを嗅いだ気がした。 トクン、まだ心臓がうるさい。 それは、もしかしたら彼が食べていたお菓子とか、ジュースの残り香だったのかもしれない。 だけども、違う。 そんな、人工的な香料ではなくて。 それは本物の……… 「これで占いは終わり?」 「周助だけもうひとつ」 「オレ?」 首を傾げたら、林檎と包丁を手渡された。 「剥きなさい。皮を途中で切らないようにね」 「厄介だね」 「って言いつつ器用よねあんた」 「林檎好きだもん」 話しながらも手は動いていて、ほどなく一度も切れることなく剥き終わる。 「できたよ」 「背中越しに投げて」 言われた通り投げ、その皮を見に行く。 「何のアルファベットに見える?」 「そんなもの見る人の読み方次第だと思うんだけど」 「だからあんたが見るのよ。で、どう?」 「うーん、『R』かな?」 「それが周助の好きになる人のイニシャルよ」 リンゴの香り。 アップルソースなんかじゃなくて、本物の。 床に林檎で描かれた『R』の文字。 それを今思い出したのは何故? どうして『今年』になって彼女が耐えられなくなったのか。 今まで以上に部活の話をしたから。 どうして? 今年で最後だから。今年のメンバーなら全国を狙えるから。 ………すごい一年が入って来たから。 「鈍すぎ。我ながら………」 全ての符合は揃ってる。 (気付いてないなら余程の馬鹿だし、気付いてるんなら最低、女の敵だよ) 初めからの約束。 僕に好きな人ができるまで。 そうだね英二。確かに僕が振ったんだ。 他に好きな人が出来て、なのにそれまでと同じように恋人の『演技』を続けて? 本当、最低。 こんなの長く付き合って、別れ際にも気遣ってくれてたなんて、彼女は本当に人格者だ。 次はいい人見つけてくれる事を願うよ。心から。 でもね、英二。 最低には違いないけど、僕は気付いてた最低人間じゃなくて、本物の馬鹿の方だ。 できるなら教えて欲しかったよ。 そんなもの人から教わるものじゃないのは判ってるけど、僕の鈍さくらい親友なら見抜いてよ。 越前も。 (先輩の呪の方が効きそうだから) どうも傍から見る分には判りやすかったらしい。 殴ってくれて構わないけど、そこまで判るんならもう少し理解して欲しい。 もっと僕のことを知って欲しい。 ………ああ、今ならこんなに言えるのに。 できるならまだ弁論の余地が残ってますように。 (無意味だから) それは、どういう意味? かかってくれたの? それとも全て無駄な事? 顔を上げても無論のこと越前の姿は既に無く。 秋風が虚しく吹きぬけていった。 今年も我が家にはアップルソースがふわりと香る。 「周助、今年もこれやるけど参加する?今年は友達呼んだから無理に付き合わなくてもいいわよ」 「姉さん………当たり前だけどこの占いの効果って一年だよね?」 「そうだけど………そういえば周助、去年指輪当てたわよね。誰か好きな人でもできたの? 恋愛成就のおまじないしてあげようか?」 「いーよ。姉さんのオマジナイって効きそうだし」 『まじない』と『のろい』が同じ『呪』という字であることが今は恐ろしい。 「効くならいいじゃないの」 「なんかズルイもん。自力で落としてみる」 「へー、言うじゃない。脈はありそうなの?」 「からかわれてるんじゃなきゃ多分」 「周助を手玉にとるとはやるわねその子。年上?」 これ以上は秘密、と笑んでみせると姉さんはそれ以上聞いてこなかった。 「それで、まじないは判ったけど占いは?これ参加するの?」 「するよ。景気付けに」 明日、遅くなければ彼に気付いた事すべて伝えよう。 確かにこの占いは当たるのだから。 ふわりと漂うリンゴの香り。 クリームにスプーンを差し入れながら、試合前でもしたことのない祈りをささげます。 ああ神様仏様恋の女神様。 決して去年のように無駄には致しません。 明日にでも有効に使います。 できることならなにとぞ今年もご加護を。 願わくばおはじきにだけは当たりませんように。 願わくば――――― カツン 願わくば、今歯に触れるこの物体が どうぞ指輪でありますことを―――――― 玲さんに誕生祝として捧げたものです。玲さん不二リョなので目指したつもりなんですけど、そういえば私は昔から「あんたの認識は逆だ」と言われる人でした・・・・・・むしろ普段よりリョ不二っぽくなりそうです、この世界の二人の性格設定、続くならですけど。 終わってますけど、続きを書けそうな感じなのでここに置かせてください。 この話→リョーマの誕生日→不二の誕生日、の三部構成あたりで纏まりそうなのです。 本編が暗いのでこういう多少頭軽くなりそうな話が書きたい今日この頃。 |