夏予報

 

 

――――――チリン

 

 澄んだ音が響いた。

 それに反応してか、薄紫の毛玉がもぞ、と動く。

「ほぁら」

 毛並みに埋もれていた顔を上げ、猫は一声あげてから移動する。

 今まで丸まっていた机から、定位置へと――――跳んだ。

「ぐっ・・・・・・」

 定位置、すなわち横になっていた飼い主の背に着地すると、うめきは無視して再び丸くなる。大丈夫、主はそれほどヤワじゃない。

 しかし、

「カルピン・・・・・・暑い。悪い、離れて」

 うつ伏せのまま、後ろ手に追いやられた猫は不満げに振り返る。

「ほあ〜」

「御主人様、ひどーい。冬場だったら抱きしめてくれるのに、やっぱり体目当てってこと?」

 

 ・・・・・・・・・いや、同時に聞こえたからといって、もちろん猫語を解したわけでもカルピンが喋ったわけではない。

「うちの猫の価値を下げるような頭の悪いアフレコ入れないでください・・・・・・不二先輩」

 言いながら戸の方に目をやると、いつの間に入ってきたのか、シャワーを浴びていた筈の不二がクスクスと笑って「お先に」と手を振った。

 涼やかな様子は、先程までラケットを握っていた鋭さをかけらも残していない。

「そんなつもりはないよ。今の越前を僕から見てのただの感想」

「冬に会った事ないでしょーが」

「それは想像だけど、間違ってる?」

 こう暑くなければ夏に限らずだ、という事くらいしか否定できないので越前は肩を竦めるに留めた。

「ってゆーと先輩の『ご主人様』はオレってことっスね」

「うーん、相変わらず揚げ足取りが上手いね。帰国子女とは思えないくらいに巧みに日本語を駆使して曲解してくる様子が、得た知識を何とか使えないか頑張る幼児みたいで、微笑ましくて可愛いよ」

「・・・・・・・・・にゃろう」

ニヤリと笑っての反撃も、ニッコリ笑顔と長台詞にかわされる。

 脱力して、起き上がる気にもなれずに畳に寝転んだまま、涼しげな顔の人を睨む。

「大体暑いのは先輩のせいも大きいってのに。いい加減クーラー入れさせてくださいよ」

「さっきまで炎天下でテニスしていた事に比べれば、遥かにましだと思うけどね?

 せっかくオプション揃えたんだからもう少し満喫しようよ」

 前もって人の家でクーラー禁止令を出しておいた不二は、くるりと周りを示しながら寄ってくる。

 オプション、というのは彼が持ち込んだ『THE・日本の夏』というタイトルでも付きそうなアイテム達の事だ。

「妙に大荷物だと思ったら・・・・・・・・・」

「この蚊取りブタさんなんか今どき無いよ?最近は蚊取り線香どころかマットですらないからね。風情が無いったらもう」

 言いながら、口から煙を吐いている陶器製のピンクのブタを引き寄せる。

 どうでもいいが殺虫作用の煙を人の顔の前に置かないで欲しい。暗に起きろとでも言っているのだろうか。

「風情より何より煙いっス。余計に暑いし」

「こういう縁側から吹き込む夏の風っていうのも僕は割と好きなんだけどね・・・・・・」

 とりあえずこのへんで、と日本の夏グッズのひとつ、うちわで扇いでくれる。

 彼の手が生み出す風は確かに心地よかったので、少しホッとして目を閉じた。

 パタパタと風を呼ぶ軽い音が好ましかった。

 

――――――チリン

 本物の風が吹いたらしく、吊るしておいた風鈴が高く鳴る。

 耳を澄ますと、その後も続くチリチリと磨りガラスをこする小さな音。

 取り付ける際の不二の言によると、この音は秋の虫の声を模しているらしい。

 

 縁側を越えれば、本物の風と夏の虫。

 家の中には、人の手が作る風と秋の虫。

 二つの世界を同時に感じることが不思議な気がした。

 煩いだけだと思っていたセミも、悪くは無いなと思えた。

 

 

「ちょっと、楽しくない?」

「・・・・・・・かもね」

 心を読んだようなタイミングで訊いてくるから、目を閉じたまま素直に認めた。

「うん、良かった」

 とろりと沁みる穏やかな声に、何やら気恥ずかしくなる。

「だからってこう準備万端で臨むアンタの気持ちは解んないけどね」

 投げ出すように言うと、扇ぐ手がパタリと止まった。

 目を開けると、クスリと笑った瞳に覗き込まれる。

「愛が足りないんじゃない?」

 言葉の割に楽しそうだ。

「それは、先輩への?それとも日本へ?」

「両方」

 告げて、引いた顔を追いかけて身を起こす。

「少なくとも、アンタへの方なら溢れるくらいに注いでるつもりだけど?」

 言いながら頬に手を伸ばすと、不二はくすぐったそうに笑った。

「溢れさせちゃ駄目だよ、もったいない。上手く注いで?」

「受け止められるわけ?」

「足りないよ、まだまだ全然足りない」

「言ったね」

 

 近づけば、清涼な水の匂いが鼻孔を掠める。

 重ねた唇は、いつもよりひんやりとした感覚を伝えてきた。

 

「・・・・・・はっ」

 少しずれたのを機に顔を離すと、不二が小さく息をつくのが見えた。

 越前は圧し掛かるように体重をかけ、更に奥をさぐろうと再び顔を近づける。・・・・・・が、

「暑苦しい」

 ぐき

 下から伸びてきた手に顎をつかまれ、勢い良く引き剥がされた。

「・・・・・・・・・・・・・・っ!」

「あれ、何か言われるかと思ったのに?」

 越前も大人になったねぇ、と朗らかに笑う人をきっ、と睨みつける。ただし首を押さえながら。

 ・・・・・・・・・言わなかったのではなく、痛みで何も言えなかっただけだ。

「首から変な音したんだけど」

「大変だね、お大事に」

「アンタなあ!」

 やっと言った抗議もさらっと流され、思わず声を荒げた越前だが、しかし不二は当然ものともせず常以上ににっこりと微笑んだ。

「汗臭いのは嫌」

「先輩・・・・・・・・」

 今度こそ何も言えなくなった越前に、不二はふわりと目を細め、首にかけていたタオルを放った。

「そう熱くならないの。水でも被って頭冷やしておいで」

「・・・・・・・・・・・・・・」

「ほらほら拗ねないで」

「拗ねてません」

 数十分前に自分が彼に与えたタオルを引っ掴み、廊下に向かった。

「やっぱオレ、夏嫌いです」

 去り際に、捨て台詞にもならない事を言ったのは、ただの意地だったのだが、

 

 

「好きだよ」

 

 

 妙にはっきりと響いた声に足を止めた。

 目的語どころか、主語すら省略した言葉は今の流れとして少しおかしい。

 

「・・・・・・・・・・・・夏が?」

「両方」

 一応問い直せば、予想外のような期待通りのような答え。

「だから、好きになって欲しいな」

「両方?」

「そう」

「・・・・・・・・考えとく」

 肩をすくめて、今度こそ越前は風呂場に向かった。

 

 

 

 

 

 

 

「暑い・・・・・・・・・・・・」

 残されたままの姿勢で、ぽつりと不二は呟いた。

 先程まで自分が握っていた団扇はどこだろうと周囲を見回し、不意に一人きりと思っていた部屋で一対の瞳と目が合う。

「・・・・・・カルピン」

 そもそもこの猫から派生した話をしていた筈なのに、その存在をすっかり忘れていた自分の単純さに呆れた。

「ほぁら」

 名を呼ばれたから、とおざなりな返事だけを返してすぐに丸くなる様子は、やはり飼い主譲りだなと思った。

「それだけ君の御主人様しか見えてなかったってことかな」

 落とした視線の先に、探し物を見つけて今度は自分を扇ぐ。

 本当に暑い。

「ちょっといじめ過ぎたかな・・・・・・・・・?」

 パタパタと扇ぐ手を早める。あつい。

 もっとも、湯を使った事により暑いのかそれとも違う理由で熱いのか、もはや不二自身にも判別不可能なのだけど。

 

「クーラー入れよ・・・・・・・・・」

 口に出して、立ち上がったところでカルピンが「ほぁー」と鳴いたので、一瞬咎められたようでビクッとした。

 少し後ろめたさがあったこのタイミングで鳴くあたり、さすがは越前の猫だと妙な感心をしてしまう不二だった。

「いや、そうじゃなくて、ご主人様が戻ってきた時に快適な環境にして置いた方がいいと思わない?」

「ほぁら」

「ホラ、せっかくシャワー浴びたのにまたすぐ汗だくになったら意味ないし・・・・・・」

「ほぁー」

 ・・・・・・・・・どうして僕は猫相手に言い訳並べ立ててるんだろう、と何だかむなしくなった辺りで会話―――独り言に近い―――を切り上げ、まずは蚊取りブタを外に出した。

 雨戸を閉め、リモコンを手に取り電源を入れる。

 

 ピッ

 

 軽い電子音とともに冷気が流れ出す。

 しばらく様子を見てから、もう2、3度下げようかとリモコンの設定温度を弄り、送信ボタンを押そうとした時、足元に気配を感じた。

「ん?」

「ほぁら〜」

 素足に擦り寄る薄紫は勿論さっきまで素っ気無かった猫で。

「どうしたの?寒かった・・・・・・・・・わけないよね?」

 しかし先刻までこの猫の居た場所はエアコンの風向を見れば直撃位置であり、もしかしたら本当に寒かったのかもしれない。

 送信ボタンに手を置いたまま逡巡していると、もうひとつ思い出したことがある。

 この猫の飼い主に、先程自分は水を被れと言った。

 もしも本当に冷水シャワーを浴びていた場合、この部屋の温度から更に下げたら涼しすぎるのではないだろうか。

「・・・・・・えーっと・・・・・・・・・・・・」

 どうしようかな。

「ほぁ〜」

「うん・・・・・・・・・おいで」

 鳴き声に促されて抱き上げると、やはり少し暑い。

「そう・・・・・・・だね。うん」

 ひとり何かに納得して、決断。

 

「擦り寄って不自然じゃないくらいの方が、都合がいいよね」

 

 

 ピッ

 

 運命の電子音が今鳴り響いた。

 

 

 今年の夏は人肌恋しい寒気のち、大変あつくなる事が予想されます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

リョ不二・夏祭りに捧げました。桜祭りは間に合わなかったので今度は早めに、と6月初旬から準備。

冷夏になるとは思ってなかった頃でした・・・・・・(遠い目)

タイトルは奥井亜紀

書き終わって浮かばなかったので持ってるCDで題名が夏っぽいものを探したらこれになりました。

それに合わせて最後の一行だけ付け足したのでちょっと浮いてるかな?

いつもの如く歌詞には全然沿ってませんが。あの曲は片想いでしんみり系の曲だろうに。

夏らしく、頭の悪そうな可愛いカップル話を書こうと思ったんですけど、達成できてるのか否か?

夏らしくはなったと思うんですけどね。

書きたかったのは「両方」の部分。3回出てきますね。繰り返し使用する言葉というのが好きです。