わたくし流モダンジャズ道
モダンジャズとの邂逅 マイルスデイビス ソニーロリンズ ジョンコルトレーン お気に入りのアーティスト モダンジャズにかける私の夢 エピローグ


U 進化するモダンジャズとともに ・・・偉大なるジャズジャイアンツ

ジョンコルトレーン編


努力と苦悩のアーティスト、コルトレーン

レコードジャケット写真23 このモダンジャズ道を書き始めて、かなり緊張して肩に力が入ったのが、ジャズの帝王マイルス。そして、わたくしをなごましてリラックスさせてくれたロリンズ。
 さて、コルトレーンはどうなるのでしょうか。

 予感とすれば、ひたすら努力と苦闘を重ねて、これ人間修行につとめ、悟りの境地までいった、と言うような、わたくしを励ましてくれるようなハッピーストーリーとなるのかな・・・。

 じっさい、前章でも触れたとおり、早咲きのロリンズに対して、遅咲き、大器晩成型のコルトレーンは、とくに50年代は、自己との闘いの連続だったのではないでしょうか。

 ただ、両ジャイアンツともに、マイルスの特訓? のたまものがあって、開花させたという共通点はありますが、違いを見つけるとすれば、コルトレーンの場合は、後年、マッコイタイナー(ピアノ)、エルビンジョーンズ(ドラムス)、ジミーギャリソン(ベ―ス)というすばらしいパートナーが得られたのに対して、ロリンズの場合は、どうも相性のいいサイドメンに恵まれなかった、と思うのですが。

 まぁ、ロリンズ自身が他のアーティストとのコミュニケーションづくりが不得手だったのかも知れません。あるいは、有り余る自分の才能が、かえって、ミュージシャンとして音楽上のなんらかの迷いを生じさせたのですかね。(凡夫のわたくしには想像もつきません) 

 前段が長くなりましたね。(いつものことだ。はい、すみません) コルトレーンは、40年代前半には、ディジーガレスピーのフルバンドなどで働いたりしているんですね。でも、50年代に入るまでソロを吹く機会を与えられるようなことはなかったのです。

 1955年に入って、当時としては無名のコルトレーンを、マイルスデイビスが自分のクインテットに入れることになるのです。 これも、マイルスが最初はソニーロリンズに入ってもらいたくて声をかけたものの、断られた結果だというのです。運命とは分からないものです。
 でも、コルトレーンに目をつけたマイルスのここがまたすごいところですね。

 新マイルスクインテットを聴きに来た観客や、評論家たちの最初の反応も、コルトレーンをクビにしろ、という実に冷たいものだったと言うんですね。
 しかし、このマイルスとコルトレーンの絶妙な組み合わせが、実は緊張感とスリリングを生むこととなり、「黄金のクインテット」とまでに 言われるようなすばらしいコンボとなったのです。

 マイルスの特訓がどういうものだったかは、知るよしもありませんが、自身のスタイルともいうべきものをつかんだコルトレーンの成長ぶりは、先にも述べたプレスティッジレーベルのマラソンセッション* を聴くと歴然ですよね。

マイルスデイビス編参照。マイルスはCBSに移籍したくて、プレスティッジとの契約を果たすため 1956.5.11, 10.26 の2日間で、なんとLP4枚分をいずれもワンテークで録り終えてしまったという。
 余談ながら、敵?もさるもの、この4枚のアルバムをCBS移籍後、毎年1枚ずつ切り売りしていったという。


 では、コルトレーンがリーダーとなった初レコーディングは、いつだったのか。これが、プレスティッジにあったんですね。「コルトレーン」(1957.3.31録音 本章冒頭の写真)というタイトルのアルバムが出ているのです。

 これがまた、とてもすばらしいのです。当時、彼の激しいブローを称して「怒れる若きテナーマン」だといった評論家がいたようですが、でも、この中の曲目「コートにすみれを」なんかを聴くと、スローなバラードものも、これまたいい味が出ているのです。

BLUE TRAIN john coltrane この録音の前年(1956年11月)に、マイルスのコンボからは抜けているのですが、新手法で苦闘していたのでしょうか、一時期、コルトレーンは心身ともに、健康面でかなりのダメージを受けていたようです。
 でも、この演奏を聴く限り、かなりの自信と気迫が伝わってくるアルバムになっていますよね。

 リーダーアルバムと言えば、1957.9.15録音の「ブルートレイン」というタイトルのレコードも、ブルーノートから出ています。(右写真) ブルーノートにとっては、コルトレーンがリーダーの唯一のアルバムだそうです。
 余談ながらここでのリーモーガン(トランペット)もすごくいいですね。

 マイルスの元で、コルトレーンがひとつのピークを極めることになるプレスティッジ時代の全容については、ぜひ別掲をご覧いただきたいと思います。

 マイルスのグループを退団したあと、コルトレーンは一時セロニアスモンクのグループに参加して、ここでは、モンクから多くの音楽的な示唆を受けることになるんですね。そして、この年の秋(1957年11月)、1年ぶりでコルトレーンはマイルスグループに再び加わることになります。

*ジャケット写真23 コルトレーン
 ジョンコルトレーンの初リーダーアルバム。コルトレーンが自分のスタイルを形成しつつあった時期の作品で、全体に自信にあふれ、喜々として演奏をしている。
 A面に入っている曲目「コートにすみれを」でのスローバラードのコルトレーンも、ぜひチェックしておきたい。ポールチェンバース(ベース)、アルヒース(ドラムス)のほか、曲によってピアノがレッドガーランドからマルウォルドロンに代わるほか、ジョニースプレーン(トランペット)、サヒブシハブ(バリトンサックス)が加わっている。
 バリトンサックスのサヒブシハブがいい味を出していますね。 Prestige 1957.3.31録音
 プレスティッジ時代のアルバムでは、「ソウルトレーン」「スターダスト」「スタンダードコルトレーン」(いずれも1958年録音)はとくにおすすめです。コルトレーンがどうも苦手という方も、きっとほれ込んでしまうことでしょう。


独自のスタイルが生んだモード奏法、シーツオブサウンド

 フリージャズ旋風を、マイルスはモード旋法によって新たなジャズシーンを切り拓き、その結実したものが「カインドオブブルー」(CBS 1959.3.2, 4.22録音 マイルス編に前掲) だと先に言いましたが、コルトレーンはこの過程で、サックスで、二音、三音を同時に吹く手法と、ビートを16分音符、もしくは32分音符まレコードジャケット写真24でに細分化する手法を編み出し、「シーツオブサウンド* 」と呼ばれる彼独自の奏法を完成させていったのです。

 「カインドオブブルー」を吹き込んだ直後の、1959年5月にあの傑作「ジャイアントステップス」(Atlantic)を出して、彼は大いなる自信を持ち、いよいよゆるぎのない確固たるコルトレーンの道を、ひた走ることになるのです。
 旧知のライバル、ソニーロリンズを超えたときといっても、いいのかも知れません。

 *シーツオブサウンド フィーリングとして、まるで幾重にもシーツを敷き詰めていくような音の流れと言うか、いくつもの音波が水面上に波紋を描きながら広がっていくようなさま、とでも表現したらよいのかな。
 要は充満するサウンド、なんて変な解説をするとかえって分からなくなる? 「シーツオブサウンド」という言葉は、じつは、アメリカのジャズ評論家アイラギトラーが、1958年のジャズ専門誌「ダウンビート」で初めて命名したんですね。

*ジヤケット写真24 ジャイアントステップス
 タイトルどおり、コルトレーンのつぎなる発展に向けての巨大なステップとなった傑作アルバム。 じっさい、コルトレーンの自信に満ちた明るい表情が目に浮かぶような熱演だ。
 ポールチェンバースのベースに、曲目によって、ピアノがトミーフラナガンからウイントンケリーに、ドラムスがアートテーラーからジミーコブに代わっている。 Atlantic 1959.5.4-5 12.2録音

レコードジャケット写真25

 1960年(4月)になって、コルトレーンは、初めて自分のカルテットを編成して、演奏活動に入ります。
 当初からのメンバーであったスティーヴデイビス(ベース)に加え、マッコイタイナー(ピアノ)、そして、エルビンジョーンズ(ドラムス)をついに迎えることになるのですね。

 幸運にもコルトレーンが求めたシーツオブサウンドの世界に、最適最良のメンバーとめぐり合い、コルトレーン音楽完成へのスタートを切ったのです。彼は、「マイフェバリットシングス」(Atlantic 1960.10録音) では、ソプラノサックスを使って新境地を開いている。

*ジャケット写真25 マイフェバリットシングス
 はじめての自分のカルテットで、しかも、新たに手にしたソプラノサックスで気持ちよく吹いている。
 シーツオブサウンドがこの楽器によって、一段と磨きがかかり、神秘的でさえある。 Atlantic 1960.10.21 10.24 10.26録音
 レコードジャケット写真26

 そして、ベースがジミーギャリソンに代わって、グループはいよいよ佳境に入っていくことになります。「バラード」(Impulse 1961-1962録音) はこのころの傑作といっていいでしょう。

*ジャケット写真26 コルトレーンのバラード
 コルトレーンのカルテットにベースのジミーギャリソンが新たに加わり、さらなる変遷へと向かうこととなる。
 先の「コルトレーン」(PRestige) にも触れたが、コルトレーンのバラードは、トーンをへたに飾らずストレートに吹くことによって、逆に曲に豊かな情感を与え、より新鮮な味わいがある。 Impulse 1961.12.21 1962.9.18 11.13録音


愛・・・瞑想、そして悟りの世界へ

 1965年に、新たにグループにファラオサンダース(テナーサックス)が加わり、よりフリーな前衛ジャズへと変遷します。
 そして、翌年夏に、奥様のアリスコルトレーン(1937-2007 ピアノ)を連れて、初来日しました。

 このときのドラムスは、エルビンではなく、ラシッドアリになっていたんですね。なんでも、エルビンとマッコイタイナーが、ファラオらの超過激的なすざましいブローに、ついていけなくなったというのです。
 じっさい、このメンバーで吹き込んだ実況盤(Coltrane Live At The Village Vanguard Again,Impulse 1966.5.28録音) などを聴くと、コルトレーンとファラオの延々とつづくソロに付き合っていくのは大変だったのではと思います。それでも、コルトレーンはわたくしには何か惹かれるものがあるんですよね。

 このころから、病がコルトレーンの体を少しずつ蝕んでいたのでしょうかね。と言うより、ジャズへの激しい情熱がコルトレーンの生命を燃焼しつくしていったのでしょうか。
 1967.7.17 享年40才の若さで、とうとう帰らぬ人となってしまったのです。このコルトレーン死すというニュースは、世界中のミュージシャン、ジャズファンたちを悲しませ、暗黒の淵へと落とし込んだのです。
 そして、そこから立ち直るのにかなりの時間を必要としたのでした。

レコードジャケット写真27 コルトレーンは、1964年に、「至上の愛」と言うアルバムをインパルスレーベルから出しました。
 このアルバムに、コルトレーンはわざわざこのタイトルを出すに至った説明と、神への賛美を詩で書いているのです。
 その説明の中で、彼はこう述べています。

 「・・・1957年から聖なる神の導きにより、ある霊的な何ものかを私の心に感じました。それは、私の生活をより豊かに、より充ち足りた、より生産的な方向へと誘ったのです。(中略)私はここで特に言いたいのは、常に神が私たちのそばにおられるという点です。神は恵み深く慈愛に充ちています。神は愛そのものであり、私たち人間はすべて神の愛の中にいるのです。神はまさに「至上の愛」なのです。・・・」と。
 わたくしには、コルトレーンが死を前にして、悟りを開いたとしか思えないのです。

*ジャケット写真27 至上の愛
 レコードのA面B面に各二曲ずつ分かれて入ってはいるが、ひとつの宗教的な組曲ともいうべき作品。題名は承認、決意、追求、賛美の順で、曲の中に自身のラヴサプリームの言葉も入る。
 わたくしには、どうしてもあのインドのサイババが言うソーハム(もっと高次の愛) と同じことを言っているように思えてしまうのです。まさに、神の愛と慈悲に包まれた世界を感じるのです。あなたはどう思いますか?
 コルトレーンのテナーサックスに、マッコイタイナー(ピアノ)、ジミーギャリソン(ベース)、エルビンジョーンズ(ドラムス)のカルテットによる息の合った演奏が聴ける。 Impulse 1964.12.9録音


エルビンジョーンズの熱い想い出

 コルトレーンとともに、どうしても語らなくてはいけない人に、あの名ドラマー、エルビンジョーンズがいます。なんたってコルトレーンのシーツオブサウンドを支え、発展させた第一の功労者です。

 モーダルなピアニスト、マッコイタイナーももちろんそうですが、やはり彼が生み出したポリリズム奏法がなければ、それは考えられないことだったと思います。今でこそ、ごく当たり前に聴くドラミング奏法ですが、当時としては、どうしたらあんな複雑なリズムが打ち出されるのだろうか、と耳を疑ったくらいです。

 これが後年(2001年1月、つい最近のことですよね* )、わたくしはこの長野で、それもすぐ目の前で、彼のドラミングを、それこそ息を止めて(えっ、死んでしまいますよね。殺して、に訂正しましょう) この目と耳で聴き入ったのであります。
若き日のエルビンジョーンズ
 この日は、アメリカから連れて来た自分のバンドの若手メンバーと、息の合ったそれはそれはすばらしい演奏を聞かせてくれたのでした。高齢にもかかわらず、まさにあのコルトレーン時代をほうふつとさせる元気でモーダルなドラミングを披露してくれました。

右写真は、1961年当時のコルトレーンカルテットのメンバー。
 アルバムタイトル「バラード」(前掲)のジャケットの中の写真から引用。真ん中の写真で正面を向いているのが若き日のわがエルビン。
 因みに左からコルトレーン、エルビン、ギャリソン、マッコイタイナーです。


 演奏終了後、疲れもいとわず、エルビンとケイコ奥様は、なんと長野人(びと)であるわれわれ一人ひとりに握手をしてくれたのです。もちろんわたくしも、心を込めて熱演のお礼とお別れと、そして、あこがれのドラマーであったことを申し添えたのでした。

 わたくしとすれば若いときから神様のように思ってきたエルビンの、大きくて少し武骨な両手と握手してもらったときの、なんともいえないぬくもりとやわらかさは、今でも決して忘れることができないのです。そして、コルトレーンとも一緒に握手をしてもらったような気もして、二重にうれしかったですね。(この手は洗わないでずっとこのままでいたい、と本気で思ったミーちゃん、ハーちゃんでもありました)
 これが本当に最後のお別れになってしまったのですが・・・。

エルビンジョーンズ・ジャズマシーン in ながの
 2001.1.10夜 この夢のような出来事が、ホテルメトロポリタン長野「浅間の間」で起こったのでした。
 熱心な長野のファンの熱烈ラブコール(招請)にこたえてくれて、エルビンジョーンズは、ニューヨークからデルフィーヨマルサリス(トロンボーン)、ステファノディパディスタ(ソプラノサックス)、エリックルイス(ピアノ)、ダシリーボンド(ベース)のエルビン自身のバンドの若手メンバーたちを引き連れて来て、熱演してくれたのです。
 大の日本びいきのエルビンは、スタンダードナンバーなどに加え「五木の子守唄」を演奏してくれたり、何度もアンコールに応じてくれてチョー感激! それが残念なことに昨年(2004.5.18) ドラムの神様は、神の国へと旅立たれてしまったのです。
 エルビンのマネージャーでもあった奥様は、長崎のご出身なんですね。長野でのケイコ奥様は、演奏中会場の片隅で、絶えずエルビンの体調を気遣っておられたお姿が、今でも強く印象に残っています。

  本ページ冒頭
 (U 進化するモダンジャズとともに、偉大なるジャズジャイアンツ・お気に入りのアーティスト編 へつづく 2005.4.5記 Copyright (C) 2005-2013 TOKU All Rights Reserved.)

モダンジャズとの邂逅 マイルスデイビス ソニーロリンズ ジョンコルトレーン お気に入りのアーティスト モダンジャズにかける私の夢 エピローグ

       表紙(コンテンツ)へ