わたくしの生き方  ・・・大変革の時代を乗りきる

 アマチュア無線局の私のQSLカード(交信証)・インフィオラータ
   はじめに
   きっかけは鉱石ラジオ ・・・ラジオ少年時代
   ハムに夢中になった時代 ・・・電波少年時代
   社会人になって ・・・高度成長の一端?を担う
   わが精神世界の遍歴 ・・・大変革の時代を生きる
   続編 …山野草と戯れる

   上記の青字部分の各項目ををクリックされますと、該当のページに飛びます。

真空管ラジオ・レストア記 [ST管5球スーパー編] [mT管5球スーパー編] もどうぞ。
お友達のリンク集は、第三章「社会人になって・・・」の末尾にアップしてあります。
 右上の写真は、アマチュア無線局のわたくしの交信証(QSLカード)です。


はじめに ・・・これまでの生き方、ライフスタイルを振り返る

パソコンに向かう筆者

今年(西暦2011年、平成23年)で、わたくしも古希、満70歳を迎えました。生まれたのは第二次大戦が始まった年ですから、ここで来し方を振り返ることも、また大きな意味があるのではないかと思います。

 歴史は繰り返されるとよく言われますが、この歳になって思うことは、決してそうではなくて、やはり人間は過去の教訓を、未来に生かす智恵というものを十分に持っており、必ずや新しい時代、平和で皆が幸せに感じられる世界を築くことができる、ということです。

 理想とか、願望とかいう生易しいものではなくて、これはもしそうしなければ、人類はもちろん、この世界、地球がもう持たないところへ来ているのです。

 大変革の時代と言われて久しいですが、本年(2011年)3月11日に起きた東北大震災、そして原発事故という未曾有の大きな出来事を体験した今、歳をとった者だからこそできる、いやしなければならないことが多々あることを、私は悟りました。これは私だけではなく、皆さまもたぶんそうお感じになっておられるのではないでしょうか。

 それは何もおおそれたことをすること、ではないのです。どんなにささやかなことでもいいのです。自分のできることを、今すぐ行動に移すことに意味があるのです。したたり落ちる一滴の水が、大河となることを今こそ思い起こすべきです。

 と言うわけで、私自身のこれまでの生き方、ライフスタイルをここで振り返ってみるために、恥を覚悟で、できる限りありのままの私の来し方をここに吐露することにしました。
 なにぶんにも古い話なので事実が多少前後したり、勘違いがあるかもしれませんが、何とぞご容赦くださいませ。

 皆さまからは、それは単なる自己満足、懐古趣味、郷愁ではないのかと言われてしまいそうですが、自分探しのささやかな物語として、私のつたない文章におつきあい願えれば、まことに幸甚に存じあげます。そして、自分にとって本当の幸せとは何か、豊かで満足できる生き方とは何か、少しでも提起できたとすればこれはもう望外の喜びです。どうぞ皆様のご意見、ご感想をたまわればうれしい限りです。 → 


きっかけは鉱石ラジオ ・・・ラジオ少年時代


鉱石ラジオの製作で目覚める

私が生まれた年の12月に、戦争が始まりました。ここでまず、私の世代は戦前派か戦中派か、いつも考えてしまうのですが・・・。

 でも戦争が始まったころの日本は、まだ生活物資は普通にあり、比較的穏やか日々でありました。
 しかし、それはほんのいっときのことで、戦争が始まってすぐに食べるもの、着るものなど日常生活のすべてに、深刻な物資難が襲ってきたのです。

 そして、敗戦後はさらにひどい物不足と極度のインフレが待ち受けており、とにかくみんなが毎日を「生きていくこと」に精一杯の時代でありました。
 もちろん、子供であった私には、そんな大人の苦労を分かるはずもありませんでしたが。

満一歳の誕生日 満四歳ころ
満一歳の誕生日を迎えたころの小生。このときは戦争が始まったばかりで、このような記念写真が街の写真館で撮れたということは、比較的平穏な時期であり、まだ物資等の余裕もあったのでしょう。
戦中戦後の混乱の中で幼少・少年時代を過ごした小生にとって、大切な数少ない写真の一枚ですね。
満三歳ころの小生。敗戦まぎわか敗戦直後の食料難、衣類等物資不足の時代の貴重な写真です。着ているものと鼻緒のついた下駄から当時の質素な生活ぶりが分かります。
この時代、人物中心の写真が多い中で、長野市街地でも、のどかなたんぼ風景が背景に写っていて、郷愁を感じさせるひとコマですね。今はその近くを長野新幹線がさっそうと走っています。
背景の左上にアンテナ2本が立って見える所が、長野市城山の旧NHK長野放送局です。
小学生時代(高学年) 開局当時のNHK長野放送局
小学生高学年のころの小生。(小学校でのクラスの集合写真から) 終戦後の物資不足と猛烈なインフレがまだ続いていた時代で、みんなが毎日を生きていくのが精一杯の時代でもありました。
幸運にも、熱血先生に出会い鉱石ラジオを作ったのが、ラジオ少年になるきっかけとなりました。当時の坊主頭がなんとも ういういしい?ですね。
おとなしい半面、ひとりでコツコツと努力する芯の強い子供でもあったようです。
長野市城山にあったNHK長野放送局の開局当時の建物全景。長野では昭和6年3月に初めて放送を聞くことができました(JONK開局)。平成9年(長野オリンピックの前年)に長野市稲葉のビッグハット東側に移転しました。
因みに、民放は、SBC信越放送(JOSR)が長野市吉田で昭和27年3月に開局したのが最初。その前年暮の会社創立から開局直後までは信濃放送と言っていたようです。同局は、2006.10.1地上デジタル放送開始にともない、市中心部の昭和通り「TOiGO」ビルに本社屋を移転しました。

混乱と貧しさ、そんな渦中で過ごしたのが、私の小学生時代です。高学年になったとき、担任の K先生が理科のご専門で、放課後には関心(好奇心?)のある生徒を集めては、電気や化学の実験をしてみせてくれました。

 当時の物資不足の時代で、生活そのものにまだゆとりなどあるはずもないときに、学校の授業が終わった後に、科学をテーマに、お話や実験を熱心にしてくれた先生は、たとえご自身が好きであったにせよ、それを教えよう伝えようとする人一倍の熱意とパワーがなければできないことで、今思えば大変な熱血先生だったと思います。

 そんな貧しいながらも恵まれた?環境の中で、あるとき鉱石ラジオの製作がありました。
 木の板2枚をL型に組み合わせて、底板にバリコン、エナメル線をくもの巣のように巻いたスパイダーコイルを取り付け、バリコンのつまみと検波器を両側からはさみこむホルダーと筒状の鉱石検波器、アンテナ・イヤホン用のターミナルを前面につけた簡単なもの(バラック配線)でしたが、両耳式のマグネチックレシーバーから放送が聞こえたときは、本当に感激しました。

 鉱石から音が出ることの驚きと、得も言われぬ不思議な事象を前に生来の好奇心、探求心に一気に火がついたことを、今でも鮮明な記憶として残っています。

 まさかこの出来事が、私のこの後の人生の方向性に少なからず影響を及ぼそうとは、当時は夢にも思っていなかったのですが・・・。
 じつは、その後の私の生き方(人生観)、ものの見方(価値観)と言うようなものに、この先生の影響がかなりあったと思っています。

 後日談になりますが、この直後に親?が作ったと思われる真空管ラジオ(たぶん再生式)を、夏休みの作品として自慢げに学校へ持ってきたクラスのおませな子がいて、羨ましいと思うと同時に、「今に俺だって」という気持ち(負けん気)があったことを、どういうわけか今でもはっきりと覚えています。ラジオ少年に目覚める第一歩だったんですね。

 このときの鉱石ラジオは、中学生になっても大事に持っていて、しばらくは聴いていました。鉱石検波器の筒の中のバネと鉱石との接点がなかなか微妙で、よく聞こえるところを探るのも楽しみの一つでした。

 この後、感度が鉱石と比べると抜群によく安定したゲルマニュームダイオードが出てきて、こちらのほうに夢中となり、小学生のときの作品は残念ながらいつの間にか忘れ去られ、散逸してしまいました。

 ゲルマニュームはソニーの前身である東京通信工業、通称「東通工」の1T23などを使いました。1T23のゲルマをはじめ当時の貴重な部品は、惜しいことにほとんど処分してしまいました。


ゲルマラジオの回路例 ステレオ放送を聴くためのゲルマラジオ
当時の代表的なゲルマラジオの回路例。
回路的には鉱石検波器がゲルマニュームダイオードに代わっただけのものですが、感度・安定度は比較にならないほど素晴らしかった。
コイルは並四用再生つきの検波コイルを使い、再生用の巻き線は使わない。もちろんアンテナ・アースはきちんとしたものを使うことが必要でした。電波実験社刊「臨時増刊No.2最新ラジオ受信機実体回路集」(S34.7.15発行)より引用。
ステレオ時代を迎え、当時NHK第一と第二でステレオ番組が同時放送され、興奮して聞いたものです。これはステレオ放送を聴くための珍しいゲルマラジオ。
ミューラーコイル
は、フェライトコアーを出し入れしてμを加減して希望の周波数に同調が取れた。ミューラー電機製作所製のものが、バリコン同調方式に比べて軽くて超小型の同調器として当時愛用されました。ゲルマニュームの1T23は東通工(現在のソニーの前身)製。電波技術社刊「ゲルマニュームダイオードトランジスター応用回路集第1集」(S32.1.15発行)より引用。

科学とか物理への関心が高かったのは、敗戦後の日本の復興には欠かせないものとして、国をあげてさかんに奨励した時代の要請、風潮もあったわけで、当時多くの少年たちのあこがれでもあったのです。

 鉱石ラジオの製作がきっかけでラジオ少年になっていったこと、それ自体はわたくしに限ったことではなく、また、特別なことでもなく、多くの方々がそうであったと思います。


電気機械もの がおもちゃ

それともうひとつ、教員をしていた祖父、親父の影響もあります。私の祖父、親父とも教員で、「新らし物好き」だったのでしょう。残念ながら三代目の私は、先生の道を選ばず、どういうわけか金融関係に進んでしまいました。

 家には大きなラッパの形をしたマグネットSP(スピーカー)が別にあって、バーニヤダイヤルのような大きなつまみが前面にある、まるでのっぺらぼうな大きな木の箱、中にはナス管(初期の真空管)2本くらいと段間トランスがあったようなかすかな記憶があります。

 それとは別に、大正から昭和初期にかけてのものと思われる、化学実験装置のような四角い試験管の管のようなものが何本も入っている箱 (今思えばあれは間違いなくラジオを鳴らすための鉛蓄電池でした)がありました。これらはまさしく初期の真空管ラジオだったんですね。

 この再生検波式か高一ストレートとおぼしきラジオ* は、小学生のころおもしろくて無惨にも分解してしまいましたが、今になれば大変貴重なものとも知らずに、本当に惜しいことをしたものです。今あればお宝ものなんですが・・・。

 また、手回し式の蓄音機などが家の中に無造作に置いてあり、小さいころの格好のおもちゃとなり、いじっていました。私が赤ん坊の頃、どうしても泣きやまないときは、この蓄音機を廻すとピタッと泣きやんで、キャッキャッと喜んだ、というおふくろの話を思い出します。
 ホント、機械ものと音楽(ひょっとして軍歌?)が好きだったんですかね。

 *再生検波式も、高一ストレート式のどちらも、検波した後に高周波信号の一部をもう一度同調回路に戻して(正帰還)、検波感度を良くした再生検波方式には変わりありませんが、高一ストレートは感度と選択度をさらに上げるため、検波回路の前に高周波増幅回路をもう一段つけたもの。
 この受信機は、0-V-1か、1-V-1のどちらかで、初期の真空管ラジオは、交流式ではなく、蓄電池が電源でした。時代とともに充電の手間がかからない交流式のもの(エリミネーター)へと移っていったのです。

 また当時、モーターを使ったおもちゃなどの電源となるトランスを作るのがはやっていて、親父から何回巻けば何ボルトになるといった計算式を教わりながら、鉄心(ジャンク品* を使った)、エナメル線を買ってきて、パラフィン紙を間に入れて根気よく巻いたものです。

 親父の本箱にトランスの巻き方という本があり、ボロボロになるくらいまで読みあさったものです。いつの間にかなくなってしまっていたのですが、最近この本を古本屋で見つけてなつかしさのあまり、つい買ってしまいました。
 本には鉄心はブリキを切って作るように書いてありますが、実際の工作はそう簡単ではなかったと思います。

 *シャンク品 :junk 無線機器等の部品の中古品。昔は放送局とか駐留米軍などから放出されたものをよく使ったものです。


書籍「モーターと変圧器の作り方」変圧器の写真ページ 長野平和博覧会記念切手
1941(昭和16)年9月5日33版、山北藤一郎著「モーターと変圧器の作り方」(科学教材社発行・誠文堂新光社発売、定価一円也とある)。初版はなんと昭和11年で、当時のラジオ少年、模型少年に愛読されてきたのでしょう。著者の山北先生は当時、「子供の科学」など各種雑誌に連載ものを執筆されておられた。
右側が本書見開きページ、ブリキ製変圧器等の写真が掲載されている。この部分は、粗末なザラ紙ではなく、コート紙風の少し上質な紙が使われています。
この記念切手をご存知でしょうか?
 1949(昭和24)年4月1日に長野市城山で開催された長野平和博覧会を記念して発行されたものです。
図柄は北アルプスの穂高岳(連峰、一番高い奥穂高岳は3,190m)。通常切手でも同じ図柄のものが発行されており、「記念」の文字がないので誠にマニア泣かせの切手です。戦後の国内初の博覧会は長野市で開催され、当時の最新技術であった白黒テレビジョンが初公開されました。

1949(昭和24)年になって、戦後の科学と産業の復興をねらいとした「平和博覧会」が全国のトップを切って長野市城山公園で開催されました。
 このとき両親に連れられて、私も見に行きましたが、当時開発されたばかりの最先端技術の白黒テレビジョンが出展され公開放映しており、記憶は断片的ではありますが、子供心に夢を膨らませるものがあったように思います。

 因みに、長野でもテレビ放送が見られるようになったのは、昭和32年になってからです。当時は街頭や店先に置かれたテレビの前は人だかりでした。
 プロレスラーの力道山が出てくるスポーツ番組などが強く印象に残っています。この白黒テレビが一般家庭に普及したのは、1959(昭和34)年の皇太子ご成婚(天皇陛下と美智子皇后陛下)のころです。


鉱石からトランジスターへ

中学生になったころは、人類初の人工衛星が話題となるなど、科学の発展が著しい時代世相の中で育ち、科学者になりたいとか、エンジニアーになりたいとか、いろいろな夢を膨らませたものです。

 少年たちの頭の中は、宇宙のことでいっぱいで、学校では宇宙旅行とか、人工衛星の話でもちきりでした。旧ソ連が世界初の人工衛星スプートニクの打ち上げに成功したのは、それから7〜8年後の昭和32(1957)年のことでした。

 また、トランジスターが時代の寵児として大きく取り上げられ、町のラジオ屋さんの店頭に登場してきたのもこのころです。
 低電圧で、ヒーターがいらない、消耗するものがないから半永久的な寿命とかの宣伝文句だったと思います。当時は(もちろん今も)本当にすばらしいものが発明されたものだと思っていましたが、材料とかパーツの寿命を考えてみると変なキャッチコピーでしたね。

 いつの間にかラジオ雑誌、結構この頃、ラジオ・オーディオ関係の雑誌の創刊があったような気がするのですが・・・ 本の名が思い出せませんが、入門用の初歩的なこれらの雑誌を読み出し、再生式一石ラジオから組み立てて、二石、三石と手がけていきました。当時は雑誌でもさかんに取りあげていましたね。
 「無線と実験」などの大人向けの専門誌は、内容がむずかしくて当時は理解できませんでした。

 ただ、トランジスターは値段が高いところへきて、ちょっとの不注意でいくつもおしゃか(ダメ) にしてしまいました。
 当時のトランジスターは熱と静電気に弱かったのです。今思えばよくこんな高価なものを親が黙って買ってくれたものと思います。それこそ親の懐も考えずにです。

 こうして私は、石(鉱石=黄銅鉱・黄鉄鉱など)から石(ゲルマニュームダイオード・トランジスター)へと移行していったのです。二石レフレックス* でも、夜になると結構海外放送も聞こえてきて、大いに感激したことを覚えています。

 当時の値段で東通工の2T11 (AF用)などは1個600円くらい、RF用ですと2T54などは一個1千円以上もする高価なものでした。
 当時、真空管の相場が一本200円くらいでしたから、いかに高いかお分かりいただけると思います。これら貴重な初期の半導体、パーツ類は散逸したり処分され手元にはほとんど残っていません。

 *レフレックス :reflex 一個のトランジスター(または真空管)で、高周波増幅(RF)と低周波増幅(AF)の両方を行わせてしまおうというもの。この一人二役?の優れものは、真空管で安定して動作させることはかなりむずかしく、トランジスター時代になって一般的に使われるようになりました。


初期のゲルマダイオードとトランジスター 書籍「ゲルマダイオード・トランジスター応用回路集」
かろうじて手元に残された初期のトランジスターとダイオード。
左上の2本がナショナルのOC71、その下が東通工(SONYの文字が入っている)の2T11。いずれも貴重な初期のトランジスターです。(現在のものに比べるとかなり大きかった) 
左下の2本( 1N263マイクロ波検波用)と右側がツェナー、検波用の各種ダイオード。比較的時代の新しいものもまざってはいますが、右上から1S135,RD9A,RD11A,RD6A,SD46,SD34 2本。(いずれもNEC製)
1957(昭和32)年1月15日に発行された電波技術臨時増刊号「ゲルマニュームダイオード・トランジスター応用回路集第1集」です。
トランジスターラジオを作るため、胸をときめかせながら何回も何回も読みかえした思い出の書籍。だいぶボロボロになっています。
今思えばラジオ少年の入り口に立っていたのでありました。
2石再生式ラジオ回路例 2石再生式高感度ラジオ回路(東通工TR-2)
2石再生式ラジオ回路の例。
PNP形トランジスターを使っています。同じ電波技術臨時増刊号「ゲルマニュームダイオード・トランジスター応用回路集第1集」より引用。
余談になりますが、上記のパーツの中では、両耳式のマグネチックレシーバーが、当時一番高価でしたかね。
東通工でTR-2型として製作された2石再生式高感度ラジオの回路図。
NPN形トランジスター2石、ゲルマニューム2本を使用。2T54で再生増幅し、ゲルマニュームの検波出力を再び2T54で増幅、トランス結合により2T62で増幅しています。同じ電波技術臨時増刊号「ゲルマニュームダイオード・トランジスター応用回路集第1集」より引用。

当時のラジオ雑誌に先端技術について、つぎのような刺激的なことが書かれています。

 『これからの弱電界のリーダーはエレクトロニクスその中で最も華々しい活躍を期待されているのが半導体、すなわちダイオードとトランジスター技術で、この進歩発達がエレクトロニクスの分野即ち弱電界の進展の歴史を創ります。・・・(中略) 皆さんのお手元のラジオ(筆者注、真空管ラジオ)も既に革命の嵐にさらされ、トランジスターを知らざるものは既に今日の技術者の資格はありません。』 と。
 (電波技術臨時増刊「ゲルマダイオードとトランジスター応用回路集第1集」電波技術社昭和32年1月発行より) 

 今になればしごく当り前のことですが、当時の衝撃がいかに強かったかが伝わってきますよね。


・・・そして、ラジオ少年へ

そうした過程の中で、ごく自然と真空管ラジオに私の関心が向かっていったということは、少しずつラジオの理解ができていったということでしょう、高校へ入ってからです。
 当時のラジオ屋さんも良い勉強の場でした。部品の記号、単位の読み方からはじまって、回路図の読み方など面倒がらずに親切に教えてくれたものです。

 真空管は、小さ目のmT管を使ったIFT 1段の変則的な2球スーパーヘテロダインを、雑誌の製作記事を見ながら作ったのが最初だったと思います。周波数変換は6BE6、検波はゲルマニューム(ナショナル0A79)で、低周波増幅と出力段には確か三極五極複合管の6BM8を使いました。整流管は使わず、セレン整流器二個を使った倍電圧整流です。

 放送局が近かったせいもあり、放送はバンバンと入り、何より6.5吋のパーマネントダイナミックSP(スピーカー)から音を出したのがとてもうれしかったのです。今までトランジスターから小さなSPを鳴らすのに苦心惨憺していたのですから・・・。

mT管自作5球スーパー
 その後、やはり本格的なトランスつきのラジオが作りたくて、無謀?にも mT管5球スーパー製作に挑戦しました。

 出力菅は6AR5で、こちらのほうは当時流行したマジック・アイ*(6Z-E1)をつけました。音楽が好きだったので、少しでもいい音が聴きたくて、当時 HiFi(ハイファイ、High Fidelity)と銘打った部品も出回っていましたので高価でしたが、そんなものを使っていろいろと実験していました。

 このラジオは処分しないで大事に取ってあり、たまたま当時の資料も見つかりましたので、最近レストアして、なつかしいラジオの音を聴くことができました(左写真)。半世紀経ったこのラジオのレストア記についてはこちらをご覧ください。

 *マジック・アイ :ラジオの同調指示器として、昔は真空管が使われました。放送局に合わせると、丸い蛍光面の緑色に発光した部分が広がり、同調の具合が一目で分かったんですね。蛍光面の発光しない部分が扇型に閉じたり開いたりする様は、それこそ「眼:eye」のように見えたのでした。


このラジオで、駐留米軍向けの放送をさかんに聞いていました。このころ中波でも聴けた、確かVOA(VOICE OF AMERICA)といっていたような気がしますが、流れてくる音楽はもちろんジャズです。ビッグバンド、ヴォーカルのほか、デキシーランドジャズなんかも好きでよく聞いていました。

 したがって、見に行く映画もグレン・ミラー物語とか、ベニー・グッドマン物語* など洋物中心でした。わたくしの中学生から高校生のころは映画の黄金時代であったと同時に、バックに流れる音楽も良かったですね。

 そういえば、あの当時中学生がひとりで映画館へ行くと、不良だと変な目で見られる おかしな時代でもありましたね。地方でジャズを聴いたり洋画を見たりするのは、大変に変わった人と思われたのですから・・・。
 まして、喫茶店へコーヒーを飲みに行くなんていうのは(わたくしの場合は音楽を聴きにいくのが目的でしたが)、それこそ勘当もの?でした。

「グレン・ミラー物語」は1954年 アンソニー・マン監督の作品で、ジェームズ・スチュアート、ジューン・アリスンが出演。「ベニー・グッドマン物語」は1955年 ヴァレンタイン・デイヴィス監督の作品でスティーヴ・アレン、ドナ・リードが出演。いずれもスイングジャズオーケストラのバンドリーダーの伝記映画で、甘味な本場のスイングジャズをたっぷりと聞かせてもらった。グレン・ミラー(1904-1944):トロンボーン奏者、ベニー・グッドマン(1909-1986):クラリネット奏者

 また、余談になりますが、小学校の高学年ころから切手収集がブーム* となりつつあり、仲間同士でよく交換しあっていたも中学生時代のです。いずれにしても変にませた、生意気盛りで、恐いもの知らずの夢多き少年時代でもありました。

 余談はさておき、このころラジオの趣味と部品代稼ぎ(実益)をかねて親戚、知人などに5球スーパーラジオをさかんに作ってあげたものです。それも強引にムリヤリお願いして・・・です。
 当時はちょうど並四ラジオからスーパーヘテロダイン方式への転換期にあったのですね。

 長野市県町にあったAラジオとか、錦町にあったNラジオ、善光寺下にあったMラジオなど本当によく通ったものです。時代の変遷で、今はもうそこには当時の面影は何も残っておりませんので、本当に寂しい限りです。

 こうしてラジオ少年は少しずつラジオの腕を上げていったのでありました。

 右写真は、仲良しだった同級生のK君、S君と。 向かって右端が、純な夢多き中学生時代の小生です。自分の感性とか、個性というものをとても大事にしていたように思います。

冒頭の写真は、当局の最近のQSLカード(交信証)です。絵柄は、2003インフィオラータ・イン・NAGANO (善光寺表参道一面に敷き詰められた花の絨毯です)。こうしたイベントは、ぜひ毎年継続してほしいものですね。
(ハムに夢中になった電波少年時代へ つづく 2011.12.17記 Copyright (C) 2011-2014 TOKU All Rights Reserved.)
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*切手収集に興味のある方は、「切手収集ことはじめ」もどうぞご覧になってみてください。

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