わたくしの生き方 U

なつかしの送信管UY−807と832A
きっかけは鉱石ラジオ ・・・ラジオ少年時代
ハムに夢中になった時代 ・・・電波少年時代
社会人になって ・・・高度成長の一端?を担う
わが精神世界の遍歴 ・・・大変革の時代を生きる
続編 …山野草と戯れる






ハムに夢中になった時代 ・・・電波少年時代

ハムを知って、2アマ受験へ

あるとき、ラジオ雑誌から国家試験を取って電波が出せるアマチュア無線、ハムというのがあることを知ったのです。

 趣味でも国家試験があるということ、遠くの人たちと居ながらに話ができるなんて素敵ではないか、と持ち前の好奇心がフツフツと湧いてきたのです。

 早速に無線従事者教育協会(この財団法人は今はもうなアマチュア無線の入門手引書い) から発行されている「受験から運用まで、アマチュア無線」(JA1AA:庄野久男氏、JA1AY:徳間敏致氏共著297頁380円)ー右写真ーを取り寄せました。
 記憶は定かでありませんが、たぶんこの本も雑誌の広告を見て注文したものと思います。

 そして、この本を読んで、日増しにこの資格をとらなくては、との思いがつのってくるのを抑えることができなくなっていました。高校2年の夏ごろだったと思います。

 この本は受験に始まって、免許申請、無線機器の製作、検査開局までの手引書として、その後大変お世話になることになります。

 このときは、まわりに相談する人もいませんでしたので、前述の「アマチュア無線」の本の広告欄にあった同協会出版の第2級アマチュア無線技士用の受験参考書を3冊買い込んで、早速に勉強を始めました。
 「無線電話学(120頁180円)」「無線実験及び測定(72頁110円)」「内国・外国電波法規解説(219頁210円)」です。

 しかしです。私のまわりには、実際は高校の同じ学年にもっとすごい人がいたし、ローカル(近所)にも すごいOMさん方* がいたのですが、この当時は知る由もありませんでした。

 このころの国家試験は1月期、5月期、9月期の年3回あるというので、照準をいちおう翌年の1月に定めました。
 いわゆる旧2級アマチュア無線技士資格には、電気通信術は課されていませんでしたので、もっぱら上記の本と、「無線実験・電波法規の各問題回答集」(いずれも同協会発行)に専念すれば良かったのです。

 ・・・といっても送信機、測定器など今まで触ったこともないものを理解して覚えるのは、なかなか骨が折れたと思いますが、そこは若さと、好きこそ物のなんとやらで、その年の暮れには予定どおり受験申請できるところまできたのです。

 申請の宛先は信越電波監理局(後の信越電気通信監理局、現在の信越総合通信局)で、昔は長野市田町(現在の長野市長野大通り沿い) にあり、私の家の近くにありました。

 したがって、これから何かと必要となる申請書類、諸届等の関係の書類は、すべて直接窓口へ持ち込むことができたのは、誠に恵まれた環境だったと思います。

 *OM:Old man 先輩のこと。さらに上の OT:Old timer 大先輩と言うのもあるようですが、普通はOMで通ります。女性の方には YL:Young lady を使います。XYL と言うと奥さん(Wife)になります。

受験当時の参考書類 左写真 受験当時の参考書類。CQ hamradioでも臨時増刊号として「アマチュア無線入門ガイド」が、昭和32年10月にタイミング良く発行された。
昭和33年3月発行の電波技術社の「アマチュア無線回路集第1集」も開局時、大いに愛用させていただいた。

翌年(昭和33年)、第1次試験が1月22日、第2次試験が1月23日、長野市緑町の旧長野市商工会館で試験が行われました。

 第1次試験は「無線実験5問」で、第2次試験は「電波法規4問」で、いずれも記述式、2時間が与えられました。

 無線実験では、1問は過去に出たことのない新趣向の問題が毎回出されていたようですが、これを落としても合格点が取れるくらいの気持ちで受けました。

 法規はそれこそ丸暗記しましたが、記述式のいいところは、択一式と違ってとにかく覚えたこと、知っていることは全部書いたほうがいいと思って、時間いっぱいをかけて記述したものです。

 無線実験科目で言えば、答えだけではなく過程の計算式等も全部書いておき、答えが間違っていても少しは加点してくれるのではないかと、都合の良いように解釈してがんばりました。
(後年、上級のアマ試験でもこの方針で臨みましたが、本当のところはどうだったんでしょうかね) 
 現在の択一式は鉛筆をころがして運良く当たったとしても、オール・オア・ナッシングの世界ですから、今のほうが大変かも知れませんね。

 2月初めに待望の合格証書が自宅に郵送されてきました。
 後で聞けば、長野県では1級はなし、2級は私も含めて19名の方が合格したようです。このとき何人受けられたか分かりませんが、結構このころは不合格の方も多くいたようですね。とにかくめでたしめでたしです。

 当時は地元の信濃毎日新聞にも合格者として名前が発表され、私の名前も掲載されていました。なにか合格したことよりも、そのとき新聞に名前が載ったことのほうが、よほどうれしかったような記憶があります。


晴れて国試に合格、いよいよ電波少年へ

無線従事者免許証の推移

早速に無線従事者免許証の申請を行いました。
 申請と言えば、このとき市長発行の「身分証明書」と医者の「診断書」の添付が必要だったんですね。

 右写真の左端が、そのとき取得した旧第2級アマチュア無線技士免許証です。時代によって中味も、サイズも大きく変わりました。今は運転免許証のように、カード式ですものね。

 *当時の無線従事者免許証(写真左端)は、濃紺色の厚紙の表紙で、丈の長い大きめのサイズでした。貫禄がありますよね。写真中央の小さめの表紙の濃い赤茶色の免許証は、後年 1971.12取得の新第2級アマのもの、右端のオレンジ色の免許証が 1972.12取得の第1級アマのもの。いずれも二つ折りです。

 そしてこの後、すぐに無線局開設の構想を練り始めたのでした。
 先の「アマチュア無線」の本から、送信機、変調器、電源の回路はそのままいただくことにしました。

 受信機は、高周波1段中間周波2段 (高1中2と言いました) のスーパーヘテロダイン方式とし、当時の主流であった小型のmT管を使わず、好きですねぇ、わざわざ大きなST管仕様で製作することにしました。

807シングル10W送信機と共用電源の回路図 受信機のバリコンは三連のスプレッドつき(アルプス電気)、スター製の3BANDコイルパック、IFTは春日無線(トリオ、ケンウッド)の T-11、もちろん信号強度が目で確かめられる丸型の Sメーター(計測器)もつけました。

 電源は送信機と受信機をリレーSWで切り替えて、共用とすることにしました。
 パワートランスと平滑チョーク、変調トランスは近くのトランス屋で巻いてもらいました。

 送信機は、初段を6AG7(GT管)に、ファイナルを当時主流のUY-807シングル、変調器は 6V6PPのプレートスクリーン同時変調、バンドは3.5MHz帯と7MHz帯とし、空中線電力は 10Wを目標としました。

 VFO(クラップ発振回路)は、6C4です(これが後々頭を悩ますことになる)。送信機、変調器、電源は後々のメンテのことを考えてそれぞれ別々のシャーシーに組み込みました。

 右写真は、当局が使っていた送信管807シングル送信機と5Z3の電源回路図。但し、この図では変調器のファイナルはシングル仕様。当時多くの局が使っていた なつかしの回路ですね。

 このほかアンテナ、アンテナカップラーを含めて、とにかくこの時代は、誰もがすべて自作(オールホームメード)の時代だったのです。
 しかも、真空管をはじめパーツのほとんどはジャンク品(駐留米軍、放送局等の中古放出品)をかき集めて組み立てたのでした。

 では、メーカー品はこのときあったのかと言うと、例えば通信型受信機では、春日無線(=トリオ)の9R4J(高1中2、9球4バンド)、デリカのCS-7(三田無線、6球4バンドスーパー)などいくらかは出てきましたが、高嶺の花でとてもお小遣いで買える値段ではありませんでしたね。
書籍「9R59とTX88A物語」
 あのトリオの名機 9R59, TX-88A が発売されたのも、昭和35〜36年になってからです。名機として今でも人気の高いコリンズ、ハリクラフターなど外国産は、それこそ夢のまた夢でした。

 *写真は、CQ出版社から発行されたJA1AMH:高田継男著「9R59とTX88A物語」。氏は当時のトリオでこの名機の開発に直接携われた方だけあって、内容はなつかしいだけでなく、今でも参考となることが多い。(2004.9.1初版発行 2,520円)
 最近、このあこがれの両機器を幸運にも手に入れることができて、飾棚に置いて日夜涙を流しながら、めでている始末。(笑)


 そう言えば、アンテナは、竹ざお2本を買ってきて、家の敷地の両端に立てて(8〜9m高)、約20mほどの間にビニール被服の単電線をこれに張り( 1/2λダブレット)、パラフィンで煮た割り箸(セパレーター)を、はしご状に間に入れた平行2線フィーダー(はしごフィーダーと言った)をこの中央部分につないだのです。
 フィーダーの長さが、ちょうど電圧き電点となった送信機側に蛍光管を持っていくと、送信中はなんと点灯するのです。

 SWR計を使うようになったのは、もっと後になってからのことで、当時はアンテナマッチングのときはこんなものを使ったり、豆球つきのワンターンコイル(ワンターンランプと言った)をアンテナカップラー* に近づけて調整するのが普通でした。

 3.5MHz帯は、同じ長さのカウンターポイズを瓦の1階屋根近くに、別に張って使いました。

 *アンテナカップラー:アンテナと送信機の中間に入れたインピーダンス整合器。今はアンテナチューナーと言いますね。先のSWR計はこの整合度を測るための測定器。


煩雑だった当時の無線局免許手続き

これらのことと並行して、慣れない無線局免許の申請をしなければなりませんでした。
 当時は申請書関係の書類は全部ペンでの手書きであり、必ず正副二通ずつを作らなければならなかったので、結構しんどい作業でした。

 「無線局免許申請書」のほかに、設置場所、周波数、空中線電力、運用時間、工事落成予定等を記載する「アマチュア局事項書」、送信機のほか受信機の内容も記載しなければいけなかった「工事設計書」、また、その添付図面として「無線局の付近を示す概略の地図」「送・受信機系統図」「送信空中線を示す図」まで作らなければなりませんでした。

 中でも「アマチュア局事項書」へ記載する設置場所の東経北緯は、地図上から計算して記載するのに四苦八苦したことが、妙に記憶に残っています。
 そんなこんなで、書類を提出したのは昭和33(1958)年3月18日でした。

 なんとか書類は無事通ったようで、待望の予備免許が同年6月19日付で下りてきました。この日は私だけのコールサイン「JA0KD」が決まった記念すべき日でもあります。

 サフィックス* のKDは「れいなんぱ」だ、これは幸先良しと思ったものです。 
 途中、送信機の発振回路(VFO)などの工事設計変更の申請をしましたが、ほぼ予定どおりのものが完成し、工事期限である7月10日までに落成届を出すことができました。

 *サフィックスは、コールサインの後部2〜3文字の部分を言います。因みに、プリフィックスと言うと国ごとに決められた最初の部分で、この場合は最初の2文字、JAがこれに当たります。また、コールサインの最初から三番目の0は、数字の0(ゼロと発音します)で、無線局の常置場所が長野県・新潟県=信越地方にあることを示しています。


JA0KDの予備免許 アマチュア無線局の系統図
当時のアチュマ無線局の予備免許(承認)状。
ここで初めてJA0KDのコールサインが付与されました。これで晴れて電波を出すというわけにはいかなかったんですね。
試験電波発射届を出した後の試験電波だけが許されたのです。
QSOすることができたのは、期限までに工事落成届を出し、後日に行われた落成検査に合格してからでした。
当時の無線局免許申請書に添付した添付図面。
これは当局の送信機・受信機の各系統図。同じものを正副二通手書きして提出しなければなりませんでした。
添付図面として、このほか無線局の附近を示す概略の地図、送信空中線を示す略図が必要でありました。
受信機の構成:6D6-6WC5-6D6-6D6-6ZDH3A-42 送信機:6C4(VFO)-6AG7-807 変調器:6SJ7-6SJ7×2-6V6×2(pp) 整流:5Z3


緊張した落成検査がすんで、いよいよ開局へ

予備免許が下りると、試験電波発射届を提出して電波が出せるのですが、ここではまだあくまでも試験電波です。試験電波の「本日は晴天なり」の第一声は6月20日 17:15JST(日本標準時)でした。

 最初のお相手は、すでに開局していた同じ高校で同学年のN君で、あらかじめ連絡して待機していただいてあったので、マイクを持つ手が震えて何を話したか分からない、といった緊張した初電波発射ではありませんでした。

 いずれにしても自分の作った無線機で、電波が九州とか北海道といった遠くへ飛んでいくのが、無性にうれしかったことだけは今でも鮮明に覚えています。

 *QSO:交信すること。 *RSレポート:相手局に了解度(R1〜R5)と信号強度(S1〜S9)を送る。それぞれの状態を数字で示し、数字が大きいほど良好。

 それと、やはり頭を悩ましたのが、ご近所さんのBCI* 対策でした。
 大方は「何も影響ありませんよ」と言っていただいたのですが、一軒だけはラジオが旧式の並四ラジオでしたので、「ダイヤルのどこを廻しても同じことを繰り返してしゃべっている訳の分からない放送が聞こえている」と言われて、ほとほと困り果てました。

 当時の試験電波発射のさいは、BCIの調査に限り届に記載しておけば、レコード等の送信は許されていました。
 私は、テープレコーダーに「本日は晴天なり。ただいまBCI調査のため試験電波を発射中です。こちらはJA0KD・・・」 と吹き込んで、近所まわりをしていました。

 幸い親しいお付き合いをしていたお宅でしたので、最終的には新しい5球スーパーラジオに買い換えてくれて(強引に説得した?)、無事解決したのですが・・・ 、工事期限も日一日と近づくやらで、内心はかなりあせっていたと思います。

 *BCI:放送受信に与える電波障害のこと。電波障害が出た場合は、対策をとる必要がある。テレビ視聴に障害を与えることを TVIと言います。

 その落成検査は、7月21日と決まりました。たぶん当日は学校を休んだのでしょう。
 午前中だったと思いますが、近くにあった信越電波監理局(現信越総合通信局)の検査官(郵政技官)がお見えになり、緊張した面持ちで玄関に出迎えたものです。

 シャック* のある2階におそるおそる案内して、早速に検査が始まりました。

 無線機の電源はあらかじめ入れておいて無線機を暖めていたと思いますが、それでも検査開始からもともと自信がないVFO(発振回路)の周波数変動に、内心ビクビクしていたのです。まわりの温度変化で周波数が動いてしまうのです。

 まずは、法で定められた備え付けの書類や時計、申請書類と無線機器との照合などが行なわれた後、忘れもしない周波数計による周波数偏差の測定検査が始まりました。

 温度が安定するまで しばらく時間をおいて何度も測定してくれたのですが、肝心の周波数がフラフラしていて、なかなか規定の±0.05%以内に落ち着いてくれません。

 *シャック:shack 無線室。
周波数計
 どのくらい経ったでしょうか、これはダメかなぁと、検査官も私もほとんど諦めかけたそのとき、ようやく誤差の範囲内に収まってくれたのです。

 とにもかくにも緊張と不安の連続だった落成検査が終了し、検査簿に「新設検査合格」の6文字と検査官の署名押印をしていただいたのでありました。

 この新設検査の半日が、ものすごく長く感じたこと、今でも思い出すと冷や汗が出てきますよね。

 *右写真は、落成検査に使用されたものと同型と思われる JRC製 波515周波数計(昭和29年製、後年縁があって手に入れたが、今は知人にお譲りして手元にはない)。この写真を眺めるたぴに当時のなつかしい思い出がよみがえってきますね。
 それにしても、当時のたかだか趣味のための無線局開設の検査も、商業用の放送局開設の検査とあまり変わらなかったのですね。驚くことに、無線局免許状もまったく同じものでした。公共の電波を使うということの重大性を感じないわけにはいきませんでしたね。

当局初めてのQSLカード(交信証)
 *左写真は、開局時の思い出がいっぱい詰まった当局の初めてのQSLカード(交信証)です。一色刷りのお粗末なカードですが、当時、活版刷りと言ってましたよね。



 また、当時の長野アマチュアラジオクラブ(現長野ハムクラブ)の会報1958(昭和33)年7月号をひっくり返して見ると、「JA0KD開局の弁」として当局が開局にあたって書いた会員への挨拶と、リグを紹介した記事を掲載していただいてあります。


ハムとなって交際範囲が広がる

晴れて電波が出せるようになってから、学校にもご近所にもすばらしいOM方がおられることが分かってくるのに、そう時間はかかりませんでした。
 こうしたOM方とは今でも親しくお付き合いいただけるのは、やはりこの趣味が「趣味の王様」「生涯の趣味」と言われるゆえんでしょうね。

 当時は(今ももちろんそうですが)、交信をしている中でお互いを知り、お空(電波)だけてはなくグラウンド(アイボール)でも親交を深めていきました。そして、地元に長野ハムクラブがあるのを知り、その仲間となり、お友達の輪がみるみる広がっていきました。

 これとは別に高いアンテナが立っているお家を見つけては、飛び込んで無線機器を見せていただき、教えていただくということも日常茶飯事でした。

 今ではちょっと信じられないことですが、まったくの見ず知らずのお宅にです。近所に住んでいるとか、知人の紹介とか言うのでなく、もちろん性別・年齢とは関係なく、当時はとにかく同じ趣味のハムというだけで、それこそ旧知の友達のように招き入れられ、親切に応対していただいたのです。

 こうして趣味である「ハム」を媒介として、お友達がどんどんとふえていきました。今思い出してもとても充実した良き時代であったと思います。

 こうした中の1人に、先に触れた同じ学校で同学年だったN君がいます。N君は高校生ハムとして当時、地元の信濃毎日新聞に特集記事に掲載されたりして、結構時代の先端を行く「時(話題)のひと」だったのです。

 N君とはその後、学校内に無線クラブを作ったり、地域の中高生を集めて長野ハムクラブの若手別動隊を作って、アマチュア無線の資格取得の勉強や情報交換をさかんにしたものです。

 学校祭への参加や、今思えば鉄の固まりのような重い無線機材をよく山間地へ運び込んだものと思いますが、泊り込みの移動運用など、活発な活動をしていました。
 N君とは今で言えば携帯電話のように、毎日電波を通じて情報交換(宿題のやりっこ?)をしていたことが、とてもなつかしく思い出されます。


長野県菅平高原移動運用 学校文化祭での公開運用
S.33(1958) 仲間と菅平高原でキャンプ設営、泊り込みで移動運用したときのスナップ。
後年、気がついて見たら当時のシャックの写真が1枚もありませんでした。かろうじてこの写真に写った機器が、このとき山へ持ち上げた私の自作リグ一式です。左側手前から受信機、電源、送信機、一番奥にあるのが変調器。ラフなトレパンスタイルで一番奥にいるのが小生。
S.33 高校の学校祭での公開運用のひとコマ。
当時はまだ物珍しさもあって、見学者の人気を呼んだものです。オペレートしているのは、親友のN君ことJA0JF。
後年、後輩達が学校のクラブコールを取得して、頼もしいことに今もコンテスト等でアクティブに頑張っています。

また、この道の大先輩として忘れることのできないOMのおひとりに、JA0AS大先輩がおられます。
 氏はゼロエリア* ではアマチュア無線草分けのおひとりで、長野ハムクラブの産みと育ての親であると同時に、JARL(日本アマチュア無線連盟)* の役員を長くおやりになり、その豊富な経験と情報の多さには誰もが驚き、また尊敬されていました。

 また、若手ハムの指導育成にも大変熱心に取り組まれ、ハムの発展に多大な貢献をされてこられた方で、この世界では知らない人はいないという、いわば神様みたいな存在の方でした。
 このような素晴らしい氏とのめぐり合い、そのうえ可愛がっていただいたことは誠に幸運であったと思うと同時に、運命的なものさえ感じるのです。

 よく妻科のお宅にお邪魔し、東京のラジオ街のお話とか、お仕事で行かれる外国のおJA0AS大先輩のQSLカード話(当時海外へ行くなんていうのは、私にとっては夢のようなお話でした)を聞いたり、機器を見せてもらったりと無線にかかわるいろいろなことを教わりました。

 また毎週、城山のアメリカ文化センター(現信濃美術館のあるところにあった)でよくミーティングをして、本当かと思うようなスケールの大きなめずらしいお話を聞くのも楽しみのひとつでした。

 今でも思い出すのは、戦後のハム再開までのご苦労話、再開を今か今かと首を長くして待ったというようなことや、どうしても待てなくて不法電波を出す人(「アンカバー」という)がいて、氏がそのつど当時の電波監理局に謝りにいったことなどよくお話されていました。因みに、JARLが再結成されたのが 1946(昭和21)年、電波法施行が1950(昭和25)年、ハムが再開されたのはなんと1952(昭和27)年の講和条約が発効するまで待たねばならなかったのです。

 大先輩とは私が社会人になってからもいろいろとお世話になりましたが、残念なことに平成8年に鬼籍に入られてしまいました。

 *ゼロエリア:先に説明したとおり、長野県、新潟県(信越エリアのこと)
 *JARL :The Japan Amateur Radio League 一般社団法人 日本アマチュア無線連盟

 右写真は、JA0AS大先輩のなつかしいQSLカードです。当時としては豪華で贅沢なカードでした。


 それともうひとつ、数多くあるQSOの中でどうしても忘れられない大先輩がいます。
 「ステーションタイトルの元祖、JA1KC大先輩のQSLカードご存じ中山安兵衛人斬仇討高田の馬場、JA1KC Just Attempt 1 Kissing Chance・・・ 」の口上で始まる名物男(大先輩に向かってすみません)、ワンエリア* にお住まいだった JA1KC大先輩(OM)のことです。

 当時のハム達はあの独特な語り節に酔って、一度ならず、二度三度とお声がけをされたのではないでしょうか。YLハム養成学校の名物校長でもありましたね。
 電波少年にはまっていたころの思い出に残るOMさんのおひとりでした。

 *ワンエリア:東京、埼玉など関東エリアのこと。
 *左写真は、昔ご当人からいただいたなつかしいQSLカード。TO JA0KD QSO Aug.8 1958 23:45JCT UR RS 58 Band 7MC Fone と書かれています。大先輩の世界(物語)が、小さい文字でカード上にびっしりと書き込まれています。

 
開局後に面倒なことのひとつに、当時は「無線業務日誌抄録」の提出がありました。
 毎年1〜3月、4〜6月、7〜9月、10〜12月のそれぞれの期間のログ* を整理して、期間中何時間運用したとか、一日平均何回何局と何時間通信をしたかなどを報告しなければなりませんでした。
 後年になってこの報告は省略されましたが、これが結構忘れてしまい、不名誉な督促状を頂戴したものです。

 *ログ:log 交信日時、相手局のコールサイン、信号状態などを記録した無線業務日誌のこと。

 因みに、昭和33年度の国内アマチュア局総数は5,615局、1級1,480名、旧2級8,306名と両クラス合わせても9,786名と、1万人にはまだ達していない時代でした。 (CQ hamradio 1972年8月号別冊付録「電波法から見たハムの20年史から)


東京での生活と電気通信術の習得

開局直後はそれでも全国のハム達と朝早くから、そして夜遅くまで交信していましたが、その後大学受験の準備やらでハムにかかわる時間が限られてきたこともあり、どちらかと言うと、送受信機やアンテナなどをいじっている時間のほうが多かったような気がします。

自作のHFトランシーバー 高校を卒業した後、故郷を離れて東京での生活となったのですが、移動用に急ごしらえした無線機器(右写真は下宿先の部屋に置いた自作トランシーバー、これでもファイナルは807でした)だけは荷物と一緒に新宿の下宿先へ運び込み、JA0KD/1の運用を始めました。

 それと開局した年1958(昭和33)年の5月に資格制度が変わり、電信級、電話級(今の3、4級)が新設され、2級に電信(CW)が開放されました。

 この改正にともない5年間の新2級への移行暫定期間が設けられ、電気通信術(モールス符号)を覚えなくてはということで、先述の無線従事者教育協会で出版の「電気通信術(63頁110円)」を購入し、単語カードに符号を書いていつも携行し、欧文と和文の両符号を覚えました。

 また、CW符号の入ったソノシート(薄手のビニール製レコードで、この頃すでにあったと思う)も買って聞いたような気もします。
 最初に視覚でモールス符号を覚えるという方法は、本当は良くないとされていますので、これから本格的にやろうとされる方は、ぜひ耳でテープやPCのトンツー音で覚えてください。

 新2級は欧文だけでよかったのですが、このときすでに上級の1級資格が私の視野にありましたので、和文も一緒に覚えてしまいました。頭のやわらかいうちにと思ってやったのですが、後年これが上級資格取得に絶大なる力を発揮することになります。

 因みに、昭和33年の電波法改正で今まで有効期限が5年だったアマ無線従事者免許証も、終身免許となりました。

 残念ながら、私の場合はそこまでやりながら、後述するように諸事情が重なり結局は試験を受けずじまいで、暫定移行期間の5年が経過してしまい、自動的に資格は電話級(現第4級)となってしまいましたが・・・。

 新2級、1級への挑戦は会社勤めを始めて、しばらく経ってからのこととなります。このあたりのてん末は、次章「社会人になって」の中でくわしく触れたいと思います。

 このころの東京は建築ラッシュ、工事ラッシュのまっ最中で、街全体にものすごい活気とエネルギーが満ち溢れていました。その後の東京オリンピック、そして高度経済成長へと突き進んでいく、まさにその前夜であったのです。

 見るもの触れるものすべてに、田舎では経験したことのないものばかりで、興奮と興味が尽きることはありませんでした。気がついてみれば、いつの間にかハムの世界とは違った別の世界へと、深く足を踏み入れていったのであります・・・ 。

2000.9ニューヨークマンハッタン金融街区 そう言えば、上京したときのあのエネルギッシュな東京の街をなつかしく思い出したのは、2000.9に連合会の研修旅行でニューヨークへ訪れたときのことです。あの同時多発テロが起きた2001.9.11事件のちょうど1年前でした。

 ニューヨークの街は、かつて汚い、怖いと言われていたイメージは見事に払拭されており、とてもきれいで、安全なところになっていたのには、驚きました。

 そして、何よりも街中のアチコチで建築の槌音が鳴り響き、人の動き、町並みの見るものすべてにものすごい活気のある様(さま)は、ちょうど当時私が東京の街を見たときのあの体感を、ほうふつとさせるものでした。

 さすが金融グローバル・スタンダードの中心地として、世界中の目がここに集中しているだけのことはあると思いました。あのころの私であったならば、間違いなく東京ではなく、ニューヨークへ行っていたことでしょうね。

真空管比べ マンハッタン島の南端にあった、あの110階建の巨大な美しい世界貿易センター(ツインタワービル)へも、もちろん足を運びました。この60階の一室で研修をしたとき見下ろした自由の女神像、林立する高層ビル群は今でも忘れられません。残念なことに、今はもうこのビルは見ることができません。(脱線してしまいましたね)

 *左上写真は、エンパイヤステートビル展望台から見た夕陽に輝くマンハッタン南端の金融街区。ひときわ高くそびえ立つ二つのビルが、今はなきあの世界貿易センタービルです。
 *右写真 なつかしの真空管 左からナス管(UX-201A)、ST管(6ZP1)、GT管(6V6)、mT管6AR5, 6BA6) 大きさは、写真下の現行100円硬貨と見比べてください。


しっかり青春してしまった大学生活

大学は周囲の期待した?理系ではなく文系へ進みました。これが良かったか、悪かったかは今でも分かりませんが、当時は理系理系と騒がれていた時代ですから、なぜ?と言われた気持ちも分からないではないですが、私としては今もそうですが、当時から文系理系と分けること自体に大いなる疑問を抱いていたのです。

 今、IT全盛時代となってみて、こうした議論がまともにされるようになっては来ていますが、理系、文系と早くから進路を分けてしまう意味は殆んどなくなっていると思うのです。オールマイティーが、今ほど要求されている時代はないでしょう。

 余談はさておき、下宿先はこの後、鷺ノ宮・上石神井と大学に通うのに便利な、いずれも西武新宿線沿いですが、変わりました。新宿、鷺ノ宮までは家主の子供の刺激(タメ)になると言ってくれて、ダブレットアンテナを張らせてもらいましたが、その後はだんだんとむずかしくなり、自然と無線のほうはQRT* 状態となっていきました。

 *QRT:送信(運用)を中止すること。

 大学へ入ってすぐに、昔から好きだったジャズと楽器をマスターしたくて、ジャズのフルバンド、そして、モダンジャズ研究会 (いずれも大学のクラブです) に所属することになりました。
 ここで生まれて初めて「モダンジャズ」を知ることになったのです。私のフィーリングにぴったりの、まさに今まで求めていたのは、これだと言うものに出会ったのです。

 電撃とはこのことを言うのでしょう。すぐにモダンジャズのとりことなり、次第に深みにはまっていくことになります。
 マイルスデイビス*・クインテットを聴いたのが最初だったと思います。ジョンコルトレーン、レッドガーランド、ポールチェンバース、フィリージョージョーンズ・・・当時としては時代の最先端を行く最強のメンバーでした。

 当時新宿界隈は、ジャズ喫茶なるものがあって、新着のジャズが、なんとコーヒー1杯で何時間も聴けたのです。同じように流行っていた歌声喫茶には興味があマイルスデイビス・LPレコードジャケットりませんでしたので、私は行くことはありませんでした。 

 *マイルスデイビス 1926-1991 米イリノイ州アルトン生まれのトランペッター。モダンジャズ界のスーパースターとして、強烈な個性とともに、常に革新的なモダンジャズを演奏し、新時代を切り開いてきた。バンドリーダーとしてジョンコルトレーン、ハービーハンコック、ウエインショーターなど有望な若手プレイヤーの発掘と育成にも注いだ。
 上記のプレスティッジ・レーベル時代(1955年)に誕生した彼のオリジナルクインテットは、今でもモダンジャズを愛する人たち垂涎のクインテットと言ってよいでしょう。(右写真 マイルスデイビス・オリジナルクインテット「'ROUND ABOUT MIDNIGHT」 1955-56 CBS録音)


 そのうちクラブの中の好きな連中と、モダンジャズコンボ(トランペット、テナーサックス、ギター、ベース、ドラムスのクインテットとヴォーカル。そう言えばピアノレスでしたね)を組んで、演奏活動に入りました。
 楽器(ドラム)のほうは、一時、浅草で教えておられた某有名コンボのプロドラマーにまでついて基本をマスターしました。

 当初「シングシングシング」などの演奏で有名なジーンクルーパ* のソロなんかにあこがれていましたが、これはモダンジャズではなく、スイングジャズの世界ですよね。
 今でも大切に持っていますが、ジーンクルーパはドラムの教則本も出しています。まぁ、ジャズの話は、別編「わたくし流モダンジャズ道」をご覧いただくとして、このあたりでやめておきましょう。

 いずれにしても、このころはマイク片手ならぬスティック両手のハムの風上には置けないフーテンのTOKUさんになっていたのでありました。下の3枚のうち、とくに右の2枚の写真は秘蔵のものだったんですが、本邦初公開してしまいましょう。まさにロマンあふれる青春のひとコマでしたね。

 *ジーンクルーパ 1909-1973 シカゴ生れ。スイングジャズ黄金時代の名ドラマー。ベニーグッドマン楽団などで活躍した。コージーコールとドラム学校も開いた。二度来日している。ジーンクルーパは、日いずる最果ての国ジパングで、まさかこれほど熱心でほんもののジャズファンがいるとは、夢にも思っていなかったらしく、その熱狂的な歓迎ぶりにびっくりしたと言う(1952年初来日のときのこと)。テクニックといい、演奏スタイルといい、かつてはわたくしの憧れのドラマーだったんですよ。


大学キャンパス 大学クラブ屋外ライブ 大学クラブのバンド仲間
青春を満喫した学生時代。
でも、学校ではしっかり法律の勉強もしました。これがその証拠?です。
この頃そう言えば学生マージャンも流行っていましたね。学校の周囲は、雀荘だらけだったような気もしますが。休講のときは、決まってマージャンだったかな。
向かって左から二人目が小生。
屋外演奏会(ライブ)でのひとコマ。
場所は忘れましたが、公園での催し物か何かのアトラクションでしたかね。むずかしいモダンジャズをどこまで理解して聞いていただけたかは疑問ですが。
ステージでは当時はカラオケはありませんから、歌謡曲などのバックもしました。わがバンドのオープニング(曲目)は決まって、ホレスシルバーのあのファンキーな「プリーチャー」でしたね。向かって右から二人目が小生。
わがバンド名は、あのマイルスデイビスのクールジャズをもじって「クール・トーン」と言って、当時は人気バンド?でした。この頃学生の間で流行っていたダンスパーティーにも、それこそ引っ張りだこでした。これは箱根のホテルでのバンド合宿のひとコマです。
確か、夜はホテルのステージでお客様を前に毎日演奏をしたと思います。
前列トップにいるのが、名ドラマーのジーンクルーパ気取りの若かりし頃の小生。

本ページの冒頭の写真は、開局当時のころの送信管てす。左は当時の思い出がいっぱい詰まったマルナナ・UY-807、とてもタフな球でした。右のまるでUFOのような形をしているのが、V・UHF用の832Aです。ホント、真空管は小さなガラスの芸術ですよね。心を癒してくれます。

(社会人になって・・・高度成長の一端?を担うへ つづく 2011.12.17 Copyright (C) 2011-2014 TOKU All Rights Reserved.)
   本ページ冒頭

*モダンジャズに興味のある方は、「わたくし流モダンジャズ道」もどうぞご覧になってみてください。

          きっかけは鉱石ラジオ・ラジオ少年時代へ        社会人になって 高度成長の一端?を担うへ            表紙(コンテンツ)へ