わたくしの生き方 V

アマチュア無線再開50周年記念切手

きっかけは鉱石ラジオ ・・・ラジオ少年時代>
 ハムに夢中になった時代 ・・・電波少年時代
 社会人になって ・・・高度成長の一端?を担う
 わが精神世界の遍歴 ・・・大変革の時代を生きる
 続編 …山野草と戯れる

  右写真のFDC (初日カバー) に、マウスを当ててみてください。


本シリーズの第一章の冒頭でお話したように、私の生まれた年がちょうど開戦の年でした。
1964年東京オリンピック開会式
 そして入学が、新制になったばかりの小学校入学、それまでは国民学校と言って教科書もカタカナで書かれており、入学前まではカタカナを必死に覚えていました。

 その新6・3・3制を卒業し、大学、そして社会人となったころに、ちょうど東海道新幹線開通、東京オリンピックと言った戦後の日本が先進国へと進む初めてのステップを踏み、ここから高度経済成長へと突き進んでいったのです。

 そして、この物語はまだまだ続きます。

 右写真 職場の当時の上司が東京オリンピック開会式に入場できる幸運に恵まれ、そのとき記念に撮っていただいた貴重なものです。カラー写真は、まだまだ高価で、この頃はモノクロ写真が一般的でしたね。
 因みに、東京オリンピック(第18回)は1964.10.10に、 東京代々木の国立競技場で開会式が行われ、競技は東京他で10.24までの15日間、熱戦が繰広げられました。

 後年、私が定年を待たずに第二の人生に踏み出すちょっと前に、ジャパン・アズ・ナンバーワンと世界中から騒がれ有頂天になっていたバブルがはじけて、さていよいよ頼りにしていた年金が60歳からもらえると思ったとたん、それは私のところまで。非情にも何か月違いで、あとの方は一年一年と年金生活が先延ばしとなったのは、つい最近のことです。

 未だバブルの後遺症が影を落としているのを見るにつけ、私が企業戦士であったかどうかは疑問ですが、少なくともひとつの歯車として回っていたのですから、高度成長の一端なんておこがましい、単にバブルの一端を担っただけではないのか、日本は、そして世界はこれからどこへ行こうとしているのか? ・・・今もって自問自答しているのです。
 これぞ表題の高度成長の一端に、クエッションマークがついたと言うわけです。


急きょ 憧れの東京から郷里に帰ることに・・

ラジオ少年、電波少年ときて、大都会でドラムむすこ(どら息子)に興じていた私は、諸事情により、急きょ長野に戻る一大決心をしたのであります。大学四年の夏でした。
 好きな東京を捨てる?ことを、仲間からは「都落ち」と冷やかされましたが、当時はまだUターン、Iターンというしゃれた言葉はありません。正直言ってそのときの寂しい気持は、今でも思い出すと切ないですね。恋焦がれて?東京へ出て行ったのですから。

 さて、長野で職を探さねばならない、どうしようか。当時はまだ定時採用をしている企業は、地方ではほとんどない状況でした。
 できれば放送関係の仕事をしてみたいと、親戚のつてを頼って某放送局の重役さんに聞いていただいたところ、(後日お宅にお邪魔し直にお話しを聞いたかもしれない) しばらく定時採用の予定はない、技術職に空きがあるので良ければ、と言うありがたいお言葉をいただいたのですが、丁重にお断りしました。

 そんなとき、別の親戚筋から「これからおれのところは働きがいがあるぞ」と誘われたのが某金融機関でした。いつまで勤められるか分からないが、転職もあるかと軽い気持ちでお受けしました。本当は紹介していただいた方々にこれほど失礼な話はないと思うのですが、思えば今流の考えだったんですかね。

 早速に親戚の方が勤めていたお店の支店長さんを介して紹介していただき、人事の方と面接し、さっそく内定をいただきました。
 金融機関は、お堅い、お金持ちだけを相手にするとか、敷居が高いとか、まだそんなイメージが少なからずあった時代です。建物も、いかにも時代を感じさせる頑固な石造りでした。

 実際は金融機関も大衆化路線へと舵を切りつつあったときなのですが・・。当時は若気の至りであったのかもしれませんが、生意気にも「そんなイメージを俺が変えてやる」と思っていました。
 後で同期の連中に聞いてみたら、みんなそんなことを考えていたと言うのです。やはり当時は「気概」と言うものが、まだみんなにあった時代だと思います。

 後日談になりますが、先の支店長さんにはわたくしが女房と一緒になるとき、仲人にもなっていただきました。


モービルハムに夢中になる

そんなこんなで長野に戻って、会社に勤務しはじめて結婚、2子誕生など人生の重大な節目を迎えたのですが、長野(市内)にいたのは勤務年数の約半分ほどで、県内は上田市、松本市、県外は名古屋、東京と結果的には長らく地元を離れることになってしまいました。

 昭和40年代半ば、このときはまだ地元での勤務でしたので、先に触れたJA0AS大先輩にしっかり私淑していました。
 そんな中で、当時のはしりであったオールソリッドステート* のトランシーバーを、盛んに手作りしていました。50MHz帯(AM)とか、144MHz,430MHz帯(FM) で、出力はせいぜい 3〜5WくらいのQRP* 機でした。
 終段には高価な 2SC799や、2SC702,2SC703などを使いました。すべてエポキシ基板にエッチングしての手作業です。

 トリオ(ケンウッド)のTR-7100(144MHz帯FM 12ch)を購入するまでは、こんなものを車に載せて、ルーフサイドにホイップアンテナをつけて、モービル運用をしていました。

 車には学生時代からたいへん興味があって、免許は在学中に取っていたので、社会人になってすぐに買いましたから、当時としては比較的早い時期のマイカー所有だったと思います。空冷2気筒というトヨタパプリカが最初で、このときは三台目で、確か大衆カーとして売り出されたトヨタカローラであったと思います。

 無線局免許のほうはこのころは、出力10W以下の送信機であれば、自作・メーカー品を問わず日本アマチュア無線連盟(JARL)本体で、無線設備変更のための保証認定が受けられ、だいぶ簡単になっていましたね。

 *ソリッドステート :solid state 半導体のこと。この当時は、たとえば送信部終段は真空管とするなど、半導体素子だけの無線機器(オールソリツドステート)はまだ もの珍しかった。
 *QRP :少電力(少出力)で送信(運用)すること。QRPと言えば、JA0AS大先輩は生涯にわたって熱心に追求されていましたね。昔JARL-QRPクラブを立ち上げ、初代会長にもなっておられます。

 当時、無線仲間で結構いろんなところへモービル(当時はマイカーと言っていました) で移動して、泊りがけで運用したものです。メーカー品もこのころ、たとえばトリオの TR-5100,TR-7100(その形状から弁当箱なんて言ってましたね) などが出てきていました。

 私は都合で残念ながら参加できませんでしたが、諏訪市の北沢会館で長野県では初めてのJARL長野総会が開催され(昭和46年5月)、長野市からも大勢の仲間が行きました。


モービル移動運用S50年頃 泊りがけ移動運用S46年頃
 モービル運用 1975(S50)年頃
 上田城址でモービルハムしているところ。マイカーは大衆車としてこのころから人気が高かったトヨタカローラ(私にとって三台目の車です)。トリオのTR-7100を搭載。
 社内報に記事を掲載するため、女房が撮影したもの。社内にもアマチュア無線クラブを作りたいと書いた。
 移動運用 1971(S46)頃
 JA0AS大先輩を先頭に、よくモービルであちこちに移動して、運用を楽しんだものです。これは山田温泉に移動したときのものです。写真前列左端の小生の右隣りが、JA0AS大先輩。
 毎月きまって西和田のラーメン屋で、定例ミーティングもしました。そして最後は、ラーメンとお酒?がお決まりのコースでした。

そうそう、固定機では当時出たトリオの 599シリーズ(オールソリッドステート、カスタムデラックス、受信機と送信機は別々の単体)を使っていました。 アンテナは自宅2階の屋根瓦にルーフタワーを載せ、あのモズレーの3エレ TA33jrをぶち上げたものです。瓦の屋根が今にも落ちそうでしたが。
大阪万博EXPO'70入場券
 余談になりますが、1970(昭和45)年には日本がグローバル化への第一歩となった大阪万博が開催されています。世界のことが肌で感じられ、それこそおもしろくて2度も見に行きました。

 当時は8ミリ(今のビデオテープ方式ではなく、このころは1本で三分間しか撮影できない現像フィルムでした。モノクロではなくカラーです) にこっていて、持参して撮影したものです。
 カメラはELMO super106で、フィルムをカットしてつなぎ合せていく編集と、テープレコーダーとシンクロさせた音入れに熱中していましたね。

 写真は、思い出がいっぱい詰まった大阪万博入場券です。


ズク出して 上級資格に挑戦する

無線機器を自作したり、メーカー品を買い換えるたびに、資格(このときは旧2級なので、当時の電話級、現第4級であった上級ハムになる本) により運用周波数とか、空中線電力等に制限* があるのを いちいちチェックするのが面倒くさいなと思うようになってきました。
 いきなり第1級はムリと思い、とりあえずは第2級アマ資格を取得することにしました。1971(昭和46)年のことです。

 CQ社から刊行された「上級ハムになる本」を買い込み(JA4DE 大塚政量著、昭和42年発行第二版、480円とあるところを見ると、もっと前に買っておいたものかもしれない 左写真 )まずは受験対策を考えました。

 そして、無線従事者教育協会発行の「無線実験(160頁220円)」「測定(94頁120円)」「真空管(135頁160円)」「無線機器(175頁220円)」「電波の伝わり方(88頁110円)」の 5冊(いずれも第1級アマ受験用のもの) と、「内国外国電波法規解説(219頁210円)」などの本を新たに注文し、昔勉強したことを思い出しつつ、休日を中心に取り組みました。

CW練習用ソノシートと電鍵 電信(CW=モールス)は、無線従事者教育協会発行のソノシートをテープに吹き込んだりして、毎日、就寝前・起床前に布団の中で聴きました。送信術は、簡単な発振器を自分で組み立てて、ハイモンド社の縦振り電鍵で練習しました。

 この年の10月期の国試を受けて、幸いにも11月17日付で合格証書を受け取ることができました。試験は法規5問で 2時間、無線工学10問で 2時間半が与えられました。
 また、電気通信術は1分間45字の速度の欧文による2分間の手送り送信と音響受信でした。

 *大雑把に言うと、第1級アマチュア無線技士はアマチュア無線局に開放されたすべての周波数が使えるが、第2級は空中線電力が200ワットまでに制限される。また、第3級・第4級になるとそれぞれ使える周波数や、空中線電力がさらに小さく制限され、第4級はモールス通信ができない。
 右写真は、大理石を使ったHIMOUND社の電鍵 HK-1Zと、CQ出版社・無線従事者教育協会製作のモールス練習用の今ではなつかしいソノシート。写真左上の日本短波放送製作の和文欧文用カセットテープも使いました。

 気を良くして、引き続き翌47年の4月期に第1級の国試を受けましたが、学科は残念ながらダメで、電気通信術のみの科目合格通知(5月16日付) をいただきました。

 電信は1分間50字の速度の和文と、1分間60字の速度の欧文によるそれぞれ3分間の手送り送信と音響受信でしたが、和文欧文とも昔学生時代に覚えたことが、やはり忘れなかったんですね。バッチリでした。
 これで三年間の間に学科を取ればOK となりましたので、だいぶ気持ちはラクになりました。

 学科のほうはこの年の10月期に受けて、11月15日付で合格証書をいただき、動機こそDX* をやりたいとか、アワード(賞)に挑戦したいと言うような「純なもの」ではなかったのですが、とにもかくにも遅ればせながらの第1級アマチュア無線技士の資格を頂戴しました。
 このときの試験は法規5問で 2時間、無線工学は5問で 2時間半が与えられました。

 因みに、1アマ2アマともこのときは、まだ全問記述式で、電信の送信術はしっかり鑽孔機にかけられ、打鍵した符合を試験官にチェックされたものです。電鍵は手馴れた自分のものを持って行き、使わせていただきましたが、やはり緊張はしましたね。
 試験会場は両方とも長野市城山の蔵春閣でした。この電信(CW)の実技試験も、時代ですね、本年(2011年)でとうとう廃止されました。

 *DX:Distans 長距離や海外の珍しい局と交信すること。

「ズク出す」
 余談になりますが、表題の「ズク出す」は、信州の方言です。方言独特の微妙なニュアンスがあり、これを「意を決して行動を起こすこと」なんて標準語にしてしまうと当たり前すぎて あまり面白くありませんね。
 例えるならば、厳寒の雪深い信州は、昔はコタツにあたりながら温かいお茶を飲み、漬物(野沢菜漬とか、たくわん)をつついて長い冬を過ごしたのです。農作業ができる春を待ったのですね。それでも、しんしんと降りしきり積もった道路の雪かき、屋根の雪下ろしは生活していくために欠かすことのできない大仕事でした。そこで「雪も小降りになったで、ちょっくら ズク出して雪かきでもやらず」となるのですね。(ちょっくら=少し、ちょっと)


 その後上田市、名古屋、そして東京へ転勤となり、この間 中小企業診断士の資格を取ったり、また仕事も忙しくなったため、ハムのほうはほとんどQRT* 状態となってしまいました。とは言え、今や名機の誉れ高いヤエスの FT-101Eを1975(昭和50)年に買い込みました。

 オールモードのヤエスの名機FT-101EHF 100W機です。送受信機が一体となっているこのトランシーバーは、アナログのダイヤル表示がついた最後の機器となり、以後はデジタル表示となってしまいました。

 当時とすれば、タッチの差で時代遅れの機器と言うことになりますが、そこはアナログで育った世代、とてもタイミングが良かったと喜んだものです。
 この機器は平成になってケンウッドの TS-690Sを買うまで使用していましたから、とりわけ愛着を感じています。現在はシャックの飾り棚に、ひときわ輝いて鎮座マシましています。

 *QRT:送信(運用)を中止すること。
 左写真は現在、私のシャックの棚に飾ってあるヤエスの名機FT-101E。ミッターの上に載せてある真空管は、左から UY-807,2B29,2B94、手前の横になっているのが通称ナス管と呼ばれる UX-201A。
 ちらっと右端に見える本は、JA1FC:藤室衛OMがお書きになられた「真空管半代記」です。われわれ真空管世代には涙が出てくる御本ですね。うれしいことに To JA0KDと、氏のサイン入りです。

 県外勤務の後半には順調に坂をかけ上っていると思われた、さしもの日本経済も、高度成長がピークを迎え、バブルがはじける寸前にきていたときでしたね。

 当時、東京都心部のすざましい「地上げ」、「土地ころがし」を、仕事柄 目の当たりにしてきたのですから・・・。あの高名な政治家の「日本列島改造論」[1972(昭和47)年]の末路が、うたかたの土地神話を産み、恐ろしいことに日本中のすみずみまで浸透していったのでした。

 思い起こせば、確か私が社会人になる以前にぶち上げられていた「所得倍増計画」[1960(昭和35)年]にまで、さかのぼるのかもしれませんね。
 でもまぁ、思い直せば昔 映画でしか望めなかったアメリカのあの豊かな生活が、今 実体験できているのですから、ある意味では感謝? しないといけないのかもしれません。(余談になりますが・・)


念願の会社のアマチュア無線クラブ、結成される

1985(昭和60)年になって、ようやく長野に戻ってきました。会社には、高校時代からのハム仲間であるT君が待っていました。社内にアマチュア無線クラブを作りたいとのことでした。
 T君とのこの夢は、思えば1971(昭和46)年ころにまでさかのぼります。さっそく県内各地の支店のアマ資格を持っている職員に声をかけたところ、総勢26名の会員が集まって発足しました。

 クラブコールサインの免許もいただきました。当時長野県内では長野県西部地震長野市地附山地滑り *などの大きな災害が立て続けに起きており、イザというときに山間地を含めた支店間の緊急連絡網として、電波による連絡網を確保したいと言う時の要請とも合致し、クラブの設立に当たっては会社からもいろいろとバックアップしていただきました。
会社のアマチュア無線クラブの仲間
 業界紙でも災害発生時の非常通信が期待される試みで、全国的にも珍しいとして取り上げられました。まだこのころは、今のような業務無線が確立されていなかったのです。

 *長野県西部地震:1984(S59).9.14 長野県木曽郡大滝村付近で発生 M6.8 長野市地附山地滑り:1985(S60).7.26 地附山南東斜面で発生

 クラブではその後、親睦会やら、ロールコール*、各地へ移動して運用するなどの活動を行いましたが、現在は残念ながら休眠となっているようです。中心となって進めてくれた T君は、惜しいことに平成5年病に倒れ、若くして帰らぬ人となってしまいました。

 *ロールコール :Roll Call 無線仲間が順番に電波を出して話すこと(お空のミーティング)

 右上写真 1990(平成2)年7月 会社のアマチュア無線クラブが軽井沢の山荘でミーティングしたときのスナップ。集合写真の二列目左端にいるのが、クラブ世話役としてご苦労された今は亡きT君。前列右から二人目が小生。お互い高校生時代にハムを通じて知り合った仲で、10何年来のクラブ設立を夢見て、うれしいことに1985(昭和60)年ようやく結成されたのでした。

 その翌年1994(平成6)年、わたくしは定年前でしたが、30年勤めてきた会社を退職し、ご縁をいただいて現在の勤め先(共済事業)の役員として、現在に至っています*。普段あまり気にも留めないのですが、健康で働けると言うことに感謝しないといけませんね。
 *
2014.5.27退任。思えば銀行員生活30年、共済事業役員20年、足掛け50年間休まず走り続けて来たんですね。感慨深いです。最近の状況、これからの生き方については、また改めてアップすることにしましょう。(2014.5.27追記)

 また、この前後に子どもたちはそれぞれ所帯を持ち、現在は四人の孫たちに囲まれた幸せなジージ、バーバになっているのであります(笑)。


再興した長野ハムクラブに加わる

同じ会社のマチュア無線クラブで一緒にやっていたH君から、ある日、地元の長野ハムクラブがまた復活したから、飲み会に出ないかとのお誘いを受けました。

 しばらく休眠中であった長野ハムクラブ(地域クラブ)を、JA0AO大先輩が旧会員にお声がけ、奔走して再興したのが1997(平成9)年でした。ちょうど長野県では27年ぶりの諏訪に次いで二回目の開催となるJARL*総会にあわせての再興でした。
 *JARL: The Japan Amateur Radio League 一般社団法人 日本アチュア無線連盟

 飲み会では、本当に何十年ぶりかのOM方(ハム仲間)との再会でした。皆さんお元気で若々しく、これも生涯趣味のハムのおかげでしょうか、本当に昔と変わらないハム仲間の人たちとの昔話、ハム談義で時間が経つのも忘れた ひとときでした。
長野市浅川青少年の家での移動運用
 左写真は、1998.7.5、ハムクラブの仲間と6m AND DOWNコンテストに参加するため、今はなき長野市浅川青少年の家へ移動運用したさいのスナップです。向かって右端が当時のクラブ会長だったJA0AO大先輩で、三人目が小生。

 ところで、長野県内では二度目の開催となるJARLながの総会(1998.5.31 於長野市長野県民文化会館)では、当時クラブ会長であったJA0AO大先輩は、ながの総会の総務担当責任者として陣頭指揮を執っておられ、私もささやかながらその下でお手伝いすることができました。

 うれしいことにこの大会は、前夜祭を含めてJARLの歴史に残るようなすばらしいものとなり、大成功のうちに幕を閉じることができたのです。
 この思い出の1998(平成10)年は、あの感動の長野冬季オリンピック開催の年でもありました。

 ながの総会も終わったある日、クラブ会長の大先輩から突然に会長職を引き継いでくれないかとの、衝撃的な話が私に来たのです。
 半世紀もの伝統ある、まして転勤族のはしくれ、今までほとんどお手伝いしてこれなかったクラブの運営統括なぞに、とてもではないが諸先輩方がおられるのに僭越千万、まったくの力不足とそのときは丁重にお断りしたのです。

 しかし、AO大先輩のあの穏やかながらも芯のある説得?に、ついにお受けせざるを得なかったのです。大先輩には、高校生のときから何かとご指導を仰いでき1999長野ハムクラブ定例総会たご恩もあり、クラブの維持発展に何もお役に立てなかった罪滅ぼしかとも思い、僭越ながら第16代目の会長としてお引き受けした次第です。
 全国のハムを相手に日夜QSOに励まれたAO大先輩も、残念なことに2004(平成16)年暮に鬼籍に入られてしまいました。

 2007(平成19)年4月に、私はJA0CTE現クラブ会長さんにこの重責をお譲りし、現在の長野ハムクラブを統率、運営していただいています。諸先輩方が築き上げてくれた当クラブの歴史と伝統の灯は、これからも末長く煌々と燃やしつづけていきたいものだ、と願っています。  → 写真に見る長野ハムクラブ50年史

 右写真は、1999.5.30開催の長野ハムクラブ定例総会のもの。前列右から四人目がJA0AO大先輩で、その左隣が会長就任2年目の小生。後列左端がJA0CTE現クラブ会長。


私のQSLカード(交信証) ところで、当アマチュア無線局の中核となる固定局のリグ(送受信機)は、ケンウッドのTS-690SからヤエスのFT-847、そしてアイコムのIC-756PRO、同PROU、同PROVを経て、現在(2013年7月)は ヤエスのFTDX-3000D と買い換えてきています(HF帯&50MHz)。 因みに、V-UHF帯&1200MHzは ケンウッドのTS790 を経て、アイコムのIC-910D が老齢ながら今もがんばってくれています。(笑)

 *左写真は 当局の現QSLカード(交信証)です。写真のリグは、上からTS690S、TS790、TSC-200(SSTV)、IC-756PRO。足元は安定化電源などの機器です。                                                

 私にとって、2000(平成12)年1月に開催できた長野ハムクラブが設立50年祝賀会が、まさに会長冥利に尽きるいちばんの思い出ではなかったかと、今 思い返しているところです。
 それまでいろいろとお世話になった故人を含めた大先輩の皆様方に、これでなんとか報いることができたのではないかと思います。感謝感謝です。


長野ハムクラブ50周年祝賀会 SBCラジオ生放送に出演
 ハムクラブ記念祝賀会
 2000(H12)年1月30日、サンパルテ山王で長野ハムクラブ設立50周年記念祝賀会を、60名という大勢の皆さんのご参加をいただいて無事開催することができました。
 前列中央にいらっしゃるのがJA1AN:原昌三JARL会長さん(当時)、その右隣が小生です。後列左端が当日の司会進行役を勤めていただいた元SBCアナウンサーのJA0UUさん。
 前列右の当時郵政総括政務次官であられた現参議院議員JE0LIG:小坂憲次さんのお計らいで、JI1KIT:故小渕恵三首相(当時)から直々に祝電を頂戴したこともうれしかったですね。当日は本当に幸せいっぱいの小生でした。
 ラジオ生出演
 2000(H12).1.26、SBC信越放送ラジオ番組「長田清のラジオどんぶり」に生出演させていただいた。
 スタジオでは、長野ハムクラブ設立50年の歴史とか、記念祝賀会開催のお話などをさせていただきました。懐かしの真空管などもスタジオに持っていきました。
 そうそう、モダンジャズのレコードも、何枚か持っていって話の合間にかけてもらいましたよ。(笑)    


一所懸命に生きるということ・・・

半世紀以上の私の来し方を、それこそ駆け足で書き綴ってきましたが、ひたすら前を向いて歩いてきた自分の来し方、そしてその結果である、現在のありのままの姿というものを、少しは俯かん的に自分を見つめることができたのではないかと思います。そして、あらためて見えてきたものがあります。

 一つは、あれをやろう、これをやろうと言ったエネルギーの源は、好奇心と探究心にあること。そして二つ目は、結果はどうなろうとも、誠意と熱意をもって今の一瞬一瞬を一所懸命にやるということです。仕事であれ、遊びであれ、趣味であれ、なんに対してもです。

 一所懸命の積み重ねたものが「一生懸命」ということになるのでしょう。これは死ぬまで続けないと言葉どおりになりませんね。人生哲学と言うには恥ずかしいのですが、私自身の理念、生き方と言っていいでしょう。

念願の四国お遍路満願・第八十八番大窪寺にて 平成に入ってからですが、心の修行のために「座禅」を組むことを教わりました。
 同じ道を歩む仲間の会に、女房ともども加わらさせていただいて、かれこれ20年余になります。このご縁に心から感謝するとともに、喧騒な日常をしばし離れて、静かに自分の魂と向き合えることは、まさに至福のひとときでもあります。

 近年では足掛け六年の歳月を費やしましたが、仲間と四国八十八ヶ所お遍路も満願成就しましたし、念願の高野山詣も果たすことができました。高野山には弘法大師がいらっしゃいますが、真言密教にも深いご縁があるようでその後何度か参拝させていただいています。

 左写真
やっと満願かなった四国霊場八十八ケ所巡拝中の小生と女房。これは第八十八番札所大窪寺でのものです。本当に各札所では温かいご接待を頂戴し、お大師様からは たくさんの「気づき」を与えてもらいました。
 右写真 座禅の会・千手会の仲間たちと高野山詣のひとコマ。前列右端が小生。

 座禅仲間と高野山詣で とまれ、仕事も趣味もそうかもしれませんが、若いときからやってきたこと、そして、やろうとしたことが生涯ずっと続けられるなんて言うのは、ひょっとすると稀有なことで、こんな幸せを味わえること自体奇跡かもしれませんね。
 こうした生涯の趣味などにめぐり合わせてくれた神様には、本当に心から感謝しないといけないとつくづく思ってしまいます。

 神様と言えば、夢多きラジオ少年時代から、実はとんでもないこと? を考えていました。いつかは最新テクノロジーによって神様(創造主)にだって会うことができる・・・ と。
 本シリーズでこれまで触れてこなかった私自身の内面の世界(精神世界)について、次章* でたっぷりとご披露することにしましょう。

 私はいったい何もので、どこから来たのか。この自己探求の旅は、じつは物心がついたころから始まっていたのです。そして、この答えをつかみかけた2005年に思いきって書きあげた一文です。


おまけの話 ・・・好きですね〜

1965(昭和40年)代ごろ、好きですねぇ、会社の、昔 楽器をやっていたという連中がなんとなく集まって、「グリーンエコーズ」という軽音楽団を結成してしまいました。どこにも音楽の好きな仲間はいるものです。

 バンドリーダーのK氏のアコーディオンを中心に、ピアノ、ベース、ドラムのほかトランペット、クラリネット、フルート、バイオリン、マンドリンまで加わっての多彩な面々で、クリスマスとか、節目節目の行事にはお声がかかり、気を良くして演奏したものです。友人の結婚式にはアトラクションとして友情出演までしました。

 今となっては良き時代の 良き思い出ですが、最近、また集まりたいネみたいな話が、昔の仲間からなんとなく出てきているのは、みんなそろそろ年のせいと言うことになりますかね。
 プロ並みの腕を誇るK氏は、現在も多忙なお仕事のかたわら、土日には愛用のアコーディオンをかかえて、老人介護・福祉施設などを駆け回ってボランティア活動にも励んでおられる。わたくしも見習わないといけませんね。

 下の写真2枚についてはとくに説明はいらないと思いますので、ノーコメントと言うことにしておきましょう。


S40年代の小生 会社の軽音楽楽団

本章冒頭の写真は、アマチュア無線50年を記念して1977(昭和52)年に発行された切手です。因みに、アマチュア無線は1902年ごろアメリカで開始され、日本では1925(大正14)年ごろから研究が始められ、1927(昭和2)年に私設無線電信電話実験局が初めて免許されています。しかし、第二次世界大戦を前にすべて禁止され、アマチュア無線が再開されたのは、なんと1952(昭和27)年のことでした。

 電気通信をテーマにした切手発行はたびたびあるのですが、ハムをテーマに発行されるなんて、切手マニアでなくてもうれしいではありませんか。
 これは、この記念切手に発売当日の記念スタンプが押された初日カバーです。記念切手には、昭和初期のホーン型スピーカーと電鍵が描かれています。1977年9月24日発行。 (マウスを、冒頭にあるこの初日カバー[FDC]にあててみてください。もう1枚お楽しみいただけます)

「わたくしの生き方」わが精神世界の遍歴〜大変革の時代を生きる へつづく (2011.12.17 記 Copyright (C) 2011-2014 TOKU All Rights Reserved.)
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 *JA0YAG:わが 長野ハムクラブのHPです。アマチュア無線の魅力・新情報が満載です。
 JA0CCR:同じ長野ハムクラブの仲間で、わがPCの先生である 滝澤OMのFBなHPです。
 JA0EQL:なつかしのリグ・雑誌等を熱心に集めておられる 北原OMのHPです。
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 大切な思い出を素敵な電子本に変身させてくれる「ひこばえ研」の 大野信彦さんのサイトです。

アマチュア無線雑誌のコラム「CQ hamradio創刊号の怪?」をアップしました。
音楽がお好きな方は、別編「>わたくし流モダンジャズ道」をどうぞご覧ください。
切手収集に興味のある方は、別編「切手収集ことはじめ」をどうぞをご覧ください。
山野草に興味のある方は、別編「山野草と戯れる」をどうぞをご覧ください。

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