切手収集ことはじめ


目 次 収集スタンス 記念切手編1 -2 -3 -4 通常切手戦前編 戦後編 補足編1 -2 TOPICS-1 -2

V 切手コレクションの醍醐味

1 通常切手の尽きない魅力・戦前編

 通常切手がおもしろいわけ

わが国初の切手・手彫龍文切手 前章ではそれこそ駆け足で記念切手を見てきましたが、後ろ髪を引かれつつも次に移ることにします。

 何度も言うようですが、美しい記念切手がきっかけで始まったわたくしのコレクションだったのですが・・・ ところがです。
 片手間に集めていたはずの地味な通常切手の魅力のほうにも、いつしか引きずり込まれていたのですね。冒頭からいきなり龍文切手で飾りましたが、これについては後ほど語ることにしましょう。
 特殊切手に対して普通切手と言うのですが、日ごろ使い慣れている通常切手ということでこれから話しをすすめます。

 通常切手はいつでも欲しいときに郵便局へ行けば買えるのですが、おもしろいことに、これがある時から忽然と窓口から消えてしまうものもあるんですね。郵便料金改正とか、図柄変更などにより、まさに在庫限りとなってしまうのです。

 未使用に限っていえば、市場価格は記念切手より通常切手のほうが高く、そのうえ入手困難となっているものが結構あるのです。カタログを見ると分かるのですが、額面の高額な通常切手なぞはバカ高くて、買おうか買うまいかホント躊躇してしまうのです。

 もちろん使用済でも消印などにこだわると入手困難なものが出てきますが、発行数量に制限がなく、使ってもらうのが通常切手の目的ですから、使用済みがゴマンとあるのはこれは当たり前の話です。
 そして、その多くが捨てられてしまうのもまた通常切手の宿命なんですね。

 こういうことからすると、記念切手は使わないで保存してもらう?のが主目的ですから、逆に使用済みの旧小判切手2枚を貼ったエンタイア例ほうが稀少価値のあるものさえ、出てくるのですね。
 しかしありがたいことに、近年は未使用の通常切手も切手商がある程度は在庫を抱えてくれているので、それほど入手には困らなくなりましたが・・。

左写真 通常切手のエンタイア 使用済みの切手も、できることなら、はがき、封筒に貼ったままの状態のもの(エンタイアという) のほうがおもしろいのです。
 これは明治9年(1876.5.17)発行された壱銭ブラック、弐銭オリーブの旧小判切手2枚を貼った実逓使用例です。このときの封書の基本料金は市内1銭、市外2銭で、配達局のない地域には持込税*(増料金)1銭が付加されたようです。
 切手面の二重丸型日付印の消印は残念ながら不鮮明ですが、7月14日付で「山城・上嵯峨」(今の京都) と読めます。
 いずれにしても切手と消印ひとつから当時のいろいろなことが分かるのだそうですが・・? とにかく奥が深いですね。

郵便料金は、かつては「郵便税」といわれた時代があるんだそうです。各種税金と紛らわしいからと、明治11年に今の呼称になったらしい。郵便制度ができたての頃は、町飛脚からの名残りか「郵便賃銭」なんていわれた時代もあったと。


前置きが長くなりましたが、いずれにせよ「通常切手は在る時に買っておけ」ということを思い知って、わたくしは郵便局で記念切手と一緒に買い足してきたのですが、ある程度コレクションができあがった時点で、これは意外におもしろいと気づいたのです。

 遅ればせながら、記念切手にはない魅力を通常切手の中に発見したのですね。図案の美しさはもちろんですが、発行のいきさつとか、使われた時代背景とかが、そのときどきの郵便料金体系などと相俟って、まことに奥深いことが分かってきたのです。

 そして、使われた用紙とか、目打、印刷方式、色調、銘版などの違い、定常変種(印刷上の版の磨耗、汚れなど)、そして消印なんていうものにまでコレクションの幅を広げれば、これはもう無限におもしろさが広がっていく世界でもあったのですが、残念ながら、わたくしはそこまでいくことはできませんでした。


戦前の通常切手のおおまかな移り変わり

ここで、わが国初の切手誕生から、昭和切手誕生の前夜までの戦前の通常切手について、その歴史をザッと振り返ってみましょう。


ハンドメイドの時代 ・・・手彫切手

冒頭の切手写真がわが国最初の通常切手4枚のうちの一枚、銭(ぜに)五百文です。第1章で簡単に触れましたが、四十八文、百文、二百文、五百文の四種類の「竜文切手」が発行されたのは、1871(明治4)年4月20日、旧暦の3月1日のことでした。

 通貨単位は、江戸時代から使われていた「文(もん)」のままで、距離により書状一通五匁(およそ19g)までを最短銭百文、最長となる東京大阪間を銭一貫五百文(1,500文)としました。
 そして、五匁を超える重量超過割増料金は規定の半額とし、最短四十八文* とされたのでした。因みに、東京から大阪までの所要日数は、驚くことに当時三日ほどで届いたんだそうです。


当時「九六(くろく)勘定」という商慣習があり、九十六文を百文と換算していたようで、百文の半額、すなわち四十八文としたのですと。この慣例は「円・銭・厘」位に通貨単位が変わったところで廃止され(1871年12月新貨条例公布)、今の十進法になったんですね。

下の写真 竜文切手(左側の三枚) 四種類発行されたうちの左から 四十八文、百文、二百文の三種類。雷紋と七宝の模様の枠の中に二匹の龍を向かい合わせて、真ん中に黒色で額面「文」を印刷した二色刷りの贅沢な切手です。原版は各額面二面ずつ作られたようで、それぞれに違いがあり第1版・第2版と明確に区別されています。
 これらの切手の制作を請け負ったのは、「日本切手名鑑」第二巻手彫編によれば、当時銅版技術で秀でた技能を持っていた玄々堂の松田敦朝(あつとも)であったという。彼は、偽造防止の点からも、太政官札・民部省札の製版で刷り慣れていた精巧な龍の図案にすることとしたらしい。しかも、原版彫刻から印刷完了まで、わずか3か月という短期間で成し遂げたのだそうです。

 因みに、下写真の48文は第2版、100文、200文、冒頭の500文は第1版です。図柄は精巧な手彫りで、ご覧のように一枚一枚が立派な芸術作品といっていいでしょう。刷色も当時のインクの質、版の摩滅などから、これが同じ額面の切手かと思うほどさまざまで、興味が尽きません。

 手彫切手は、未使用・使用済ともにいずれもその稀少価値から高価なものですが、切手コレクターにとっては日本切手収集の起点となる切手ですから、多少ムリをしてでも揃えたいというのが本音ではないでしょうか。
 マニアの悲しい習性ですよね。(笑) 手彫切手写真は、図柄が見やすいようにいずれも実寸(19.5×19.5ミリ)より拡大してあります。


手彫龍文切手手彫龍銭切手

竜文切手が発行された翌年(1872年)の2月に、郵便料金額面の単位も新貨に変わり、半銭、壱銭、弐銭、五銭の四種類の「竜銭切手」が発行されました。なんと図柄は、竜文切手の第2版をそのまま流用し、額面だけを変えて発行されたのです。

 上の写真右端二枚が、竜文切手の四十八文、二百文の原版をそのまま使って発行された竜銭切手の半銭、弐銭です。この切手から、わが国初めての目打がつけられ、後期には裏のりもつけられました。しかし、この切手は短命に終わるんですね。

 同年(1872年)7月には、竜切手に変わって「桜切手」と呼ばれる図柄の四隅に桜の花が入った切手が誕生します。この桜切手は、新時代の幕開けとなる「小判切手」が発行されるまで、何度か改変されて発行されることになります(1872-76年)。

 そして、初めて「郵便切手」という文字と、菊の紋章がこの切手に入りました。しかし、竜切手のような二色刷りでは到底当時の需要増に対応することができず、一色刷りとなってしまいます。
 因みに、1873年4月から全国均一の重量制郵便料金となっています。(従来の距離制を廃止したことは近代化への第一歩となったのですが、配達局のない市外地の増料金・市内の半額割引料金などはそのまま据え置かれました)


下の写真 桜切手 左から、
 ・
桜和紙カナなし二銭(1872[明治5年].8.23発行、この切手は約一年後に刷色が黄色に変わった)
 桜洋紙カナ入り一銭(1874.2-発行、図柄中央の郵便切手の文字の下の□の中のカナ文字「り」に注目しましょう。用紙は従来の脆弱な和紙から丈夫な西洋紙へと変わった)
 桜洋紙改色カナ入り半銭(1875.2.4発行、カナ「ハ」。この切手から今まで額面により大小とあった通常切手のサイズを、小型のもの[19.5×22.5ミリ]に統一した)
 同二十銭(1875.2.4発行、カナ「チ」。外郵花型抹消印使用済)
 桜洋紙図案改正二銭(1875.6.12発行、白抜十字消印使用済。このカナなし図案改正切手が手彫切手最後の切手となりました)


 余談ながら、使用済切手は嫌いなぞというわたくし的な好みも、手彫切手を前にしては突然別人になってしまうんですから、まか不思議です。手彫切手が放つ魔力のせいなんでしょうかね。
 桜切手は、額面の違いだけではなく、発行時期によってさまざまな切手が出ていますので、カタログコレクションが極めてむずかしい部類の切手でもあります。超僅少でほとんど入手不可能な切手もあるんですね。


桜切手

また、この間に外国郵便用として、鳥をテーマにした十二銭、十五銭、四十五銭の三種類のいわゆる「鳥切手」が発行されました(1875年発行)。
 わが国として初めて外国郵便の取扱いが、日米郵便交換条約にもとづいて日米間で始まったのですね。じつは、この3種類の鳥切手、十二銭を除いて図柄の中にいずれも桜の花があることから、桜切手のグループに入いるのですと。

下の写真 鳥切手(1875.1.1発行) 左から 日本を代表する3羽鳥
 雁[かり] (12銭、カナ「イ」)
 ・
せきれい (15銭、カナ「イ」)
 ・
鷹[たか] (45銭、カナ「イ」)を、それぞれ図柄の中央に描いた三種類。日米間の書状基本料金は当初15銭でしたが、1年後には12銭となりました。(1876.4.1からは5銭となります。いずれも15gまで)


ちょっと専門的な話になりますが、初期には技術的な面での制約から、手彫切手の制作はすべて民間(先の竜文切手で触れた松田印刷)に委託していたそうですが、この鳥切手は政府原版を使った印刷の最初の切手だといわれています。


鳥切手・せきれい十五銭

じつは、手彫切手には、上記に見てきたように図柄の中に「カタカナ」の入ったものが散見されます。これは局内の切手在庫を適正に把握管理するために、1874年(明治7年)から切手発行のつど版に異なるカナ文字を刷り込み、旧い在庫切手を回収するさいチェックできるようにしたんですね。 (早い話が不正防止策っていうやつですね。翌年6月には廃止されましたが…)


ここまでは銅版に図柄をエッチングして、少しずつ手で刷り上げていく、まさにハンドメイドの切手、手彫切手と称される時代です。出来はマチマチで、発行枚数も知れたものでしたが、一枚一枚がそれこそみんな第一級の芸術品です。

 コレクションの世界でいうと、ものすごくバラエティに富んでいて、これにはまったらまず生きては戻って帰れない?というような魔界でもありますね。(これは冗談。でもこれってまんざら嘘でもないんです)

手彫切手は、1シート40枚構成(横8枚×縦5枚)で、この40枚の切手面を1枚ずつ手で彫っていくという、まさに気の遠くなるような作業だったのです。


新技術導入の時代 ・・・小判切手

手のかかる旧来の方式を転換させることに大きく貢献したのが、イタリアから招いた彫刻家エドアルド・キヨッソーネ*でした。
 キヨッソーネの手になる精巧な原版から、電胎法と呼ばれる新技術により たくさんの同じ版が作られ、ドイツから輸入した最新の印刷機で、凸版印刷による大量の切手発行が可能となったのです。これが、切手の中央に小判型の枠で囲まれた、世に言う小判切手の誕生です。

 この切手にも紙質、色調、目打などに多くのバラエティがあり、長らくこの時代が続きます。この小判切手からシートに銘版(大日本帝国政府大蔵省紙幣寮刷版局など)が初めてつけられました。(1876-1892発行)

 この時代に前章で触れた万国郵便連合(UPU) への加盟 (1877年、明治10年)、そして世界にも通用する新しい郵便条例が施行され (1883年、明治16年)、国内郵便料金均一制など郵便制度の近代化がはかられることになったのです。イタリア記念切手和服姿のキヨッソーネ

エドアルド・キヨッソーネ 1833-1898 イタリアの銅版画家、画家。1875年(明治8年)明治政府からの招へいで来日。1891年(明治24年)退任されるまでに、郵便切手だけではなく、紙幣、印紙、国債、証券などに多数のすぐれた彫刻を残しています。
 退任後も母国へ帰ることなく日本で生涯を終えたようです。母国イタリアでも、1988年12月に彼の功績を称え、和服姿のキヨッソーネの肖像と紫2銭の旧小判切手が描かれた記念切手を発行しています。お似合いですね。(右写真) 
 そうそう、わが国では、1994.11.18に発行された郵便切手の歩みシリーズ第2集「小判切手」(連刷4枚ストリップ)で、こちらは洋服を着たキヨッソーネが見られます。

下の切手写真(左側の三枚) 新小判切手(1888-1892年発行)
 小判切手は発行時期によって、旧小判(1876-79)・U小判(1883.1.1 国際郵便用として発行。UPUの協議に基づき印刷物用緑色、はがき用赤色、書状用青色で印刷するよう統一された最初の切手)・新小判(1888-92)の三つに分類されていますが、これは後期に発行された新小判といわれている10枚の切手のうちの三枚、5厘、4銭、50銭です。

 いずれも発行当初から図柄の中央が小判の形をしているので、こう呼ばれているのです。なお、5厘という表示は今まで「半銭」と呼んでいたものを、外国人にも分かるように小判切手から変えたんですね。
 余談になりますが、この新小判切手が登場した1888年(明治21年)3.10から1年8か月後の1889年(明治22年)11.30には、今まで発行された手彫切手と5厘を除く旧小判切手のすべてが使用禁止となりました。


小判切手・菊切手


自信と安定の時代 ・・・菊切手

そしてこの後、日本人の手になる菊模様を真ん中にすえた、いわゆる菊切手の時代に入りました。(1899-1908菊5厘切手を追加貼りしたはがき年発行) 外国から導入した新技術が日本の地にしっかりと根付き、また、国家の品格を内外に示すにふさわしい格調ある図柄が採用されたことにより、菊切手の時代は長く続くことになります。

 1908年(明治41年)2.20には、神功(じんぐう)皇后の肖像を図柄とした主として電話料金用に使うための高額の5円切手、10円切手の二枚(旧高額切手という)も登場します。通常切手に初めて肖像を使いました。

上の切手写真(右側の三枚) 菊切手(1899-1908年発行)
 全部で18種類発行されているうちの三枚、4銭、8銭、1円です。この切手と旧高額切手、後述する田沢切手には、「朝鮮」「支那」「軍事」と切手下部に加刷したものも見られます。

右の写真 菊5厘切手の使用例 菊切手の5厘、1銭、2銭の三枚が、1899(明治32).5.17に発行されました。これは この菊5厘切手の葉書への使用例です。郵便料金改正にともなう発行でした。
 このとき、はがきの料金が 1銭5厘になったので、手持ちのはがきに発行されたばかりの菊5厘切手を加貼して投函されたんですね。
 消印は丸一型日付印便号入りで、明治32年7月21日に羽後西馬音内局から発信して、翌22日に同管内矢嶋局で受信されています。(現在の秋田県羽後町ですかね)


変革を模索しはじめた時代 ・・・田沢切手

大正時代に入って、旧来のイメージを一新するため、初めて切手の図案を一般から公募して作るという、いわゆる田沢切手の時代に入ります。採用された制作者・田沢昌言(まさこと)氏の名前を取ってこう呼ばれるのですが、幾何学模様がとても美しい切手です。

 こちらも20年以上の長きにわたって続くことになります。(1913-1938発行) この間に関東大震災に見舞われたり、昭和の時代へと変わっていくのですね。使用期間が長いぶん、この切手にも用紙、印刷の違いにより多くのバラエティがあり、頭の中が混乱してきます。


田沢切手(旧大正毛紙)・震災切手

上の切手写真(左側三枚) 田沢切手
 これは1914(大正3)-1925(大正14)年に発行された16枚のいわゆる旧大正毛紙切手と呼ばれるうちの三枚、3銭、13銭、1円です。偽造防止のため、初めて紙にすかしを入れたのもこの旧大正毛紙切手からなんですね(このときの波型すかしを「大正すかし」と言う)。

 ちよっと専門的になりますが、田沢切手には発行時期によって、大正白紙切手(1913年[大正2]年発行)、旧大正毛紙切手(1914-1925年発行)、新大正毛紙・輪転版切手(1926[大正15]-1935[昭和10]年発行)、新大正毛紙・平面版切手(1926-1931年発行)、昭和白紙・輪転版切手(1937年発行)、昭和白紙・平面版切手(1937年発行)に細かく分類されています。


1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災では、逓信省建物も印刷局もすべて燃えてしまい、同年10月25日に応急の暫定切手(いわゆる震災切手)9種が発行されました。上の写真 右側の三枚、4銭、8銭、20銭が 震災切手です。目打なし、裏糊なし、震災すかしといわれる 特殊なすかし入りの切手です。この震災切手は、印刷局等の復旧により、大正14年4月30日をもって廃止となりました。

 これらとは別に、外信用として、風景を図案の一部に取り入れた富士鹿(ふじしか)切手(1922-1937)と、風景そのものを主題とした画期的な切手が発行されました。(1926-1937)。


富士鹿切手・風景切手

上の切手写真(左側の三枚) 富士鹿切手 1922(大正11).1.1発行
 外国郵便料金が改正され、印刷物4銭、はがき8銭、書状20銭の三種類の切手が発行されたのです。
 図柄は、富士山と菊の紋章、松林に鹿を配した斬新なデザインで、旧来の証票的なイメージが払拭されている。同じ図柄で何度か版を替えてその後発行されることになります。

 ・上の切手写真(右側の三枚) 風景切手 1926(大正15).7.5発行
 この発行の前年10月1日に外国郵便料金が引き下げられたのにともない、初めての本格的な風景切手が通常切手として登場しました。
 左から日本の代表的な景勝、建築物である、富士山(2銭)、日光東照宮陽明門(6銭)、名古屋城(10銭)の3種類。このうち、陽明門、名古屋城はこの後に版を替えてまた発行されることになります。


風景こそ違いますが、三枚の切手の統一感が見事に表現されていて、気持ちがいいですね。先に詳説した公園切手などシリーズものの風景切手のさきがけとなるものでした。横型というのも通常切手では初の試みなんですね。
 なお、震災切手とこの風景切手の国名表示だけが「日本郵便」となっていることにも注目しましょう。


画期的な図案を取り入れた第1次昭和切手群

先にちょっと触れた富士鹿切手、風景切手にその先駆的な流れが出てはいたのですが、永年使われてきた証票的な図柄から、建造物、人物、風景、名画などを題材としたものに変えてみようという機運が高まってきていました。

 そして、周到かつ綿密な計画、準備のもとに、斬新な図柄で登場したのが、第1次昭和切手と呼ばれる19種類の通常切手群です (1937-1940年発行)。図柄といい出来といい、戦前切手のひとつの頂点をなす立派な作品といえるものだったのです。

 この発行された1937年は、ちょうど前章の記念切手編て詳しく紹介した第1次国立公園切手の発行の動機と時期を同じくするものだったのですね。
 用紙も、印刷効果を高めるため従来の着色繊維を使った大正すかし入り用紙ではなく、初めて昭和すかし入りの用紙(白紙)が使われました。
 以下にその傑作をご紹介しましょう。


第1次昭和切手の内容  (発行順に掲載)
第1次昭和切手・2銭乃木大将 1937.5.10発行
二 銭
乃木大将
凸版輪転版印刷(ゲーベルともいう)・平面版印刷(平台ともいう)。発行当初の刷色と後期の刷色が違う。戦争末期には無糊、無目打で発行されている。1937.4.1からの郵便料金値上げによる第二種葉書用として発行。
図柄は日清戦争に従軍し、日露戦争では 203高地での激戦などで名を馳せた名将軍の乃木希典(1849-1912 東京出身)。国名表示も「大日本帝国郵便」に統一されました。
同年10.16には切手帳ペーンも発行されている。
第1次昭和切手・4銭東郷元帥 1937.8.1発行
四 銭
東郷元帥
凸版輪転版印刷・平面版印刷。発行当初の刷色と後期の刷色が違う。第一種封書基本料金用(20gまで)。外信用船便印刷物基本料金。
図柄は日清戦争をはじめ、日露戦争では当時無敵と言われたロシアのバルチック艦隊と戦うなど、名将としてその名を世界に知らしめた東郷平八郎(1847-1934 鹿児島出身)
同年10.16には切手帳ペーンも発行されている。
第1次昭和切手・5厘御朱印船 1937.11.1発行
五 厘
御朱印船
凸版輪転版印刷・平面版印刷。発行当初の刷色と後期の刷色が違う。第三種基本料金用(定期刊行物60gまで)、低料金第三種便用(120gまで)。
図柄の御朱印船は、海外貿易に熱心だった豊臣秀吉が貿易船に朱印状を与えて、東南アジアとの交易を許可奨励したのが始まりという(1592)。長崎を舞台に徳川幕府の鎖国令(1639)が出されるまで続けられた。戦後の追放切手にはなりませんでした。
第1次昭和切手・1銭稲刈り 1937.12.11発行
一 銭
稲刈り
凸版輪転版印刷・平面版印刷。発行当初の刷色と後期の刷色が違う。第五種農産物種子用、低料金第三種便用(120超240gまで)。
富国強兵のための大切な食糧として米の増産が、当時としては重要な課題だったのですね。切手の図柄に産業図案が初めて登場した。戦後の追放切手にはなりませんでした。
第1次昭和切手・14銭春日神社 1938.2.11発行
十四銭
春日神社
凸版輪転版印刷(濃淡2色刷り)。発行当初の刷色と後期の刷色が違う。1937.4.1郵便料金値上げによる発行(書留料金は据え置かれた)。書留封書料金用(20gまで、4銭+10銭)。
春日神社は、奈良時代、藤原氏の氏神として 768年に建立されたと伝えられるが、それ以前に平城京の守備のため創建されていたようです。現春日大社(奈良県)。この中門は重文。
第1次昭和切手・25銭法隆寺 1938.10.11発行
二十五銭
法隆寺
凸版輪転版印刷(濃淡2色刷り)。発行当初の刷色と後期の刷色が違う。市外速達追加料金(8km超12kmまで)。局内での為替等に使用。
世界最古の木造建築で、聖徳太子が 607年に建立したとされる。1993年に日本最初の世界文化遺産に登録される。金堂、五重塔は国宝。戦後の追放切手にはなりませんでした。
第1次昭和切手・10銭東照宮陽明門 1938.11.1発行
十 銭
日光東照宮
陽明門
凹版印刷。凹版乾式印刷の第1号です。発行当初の刷色と後期の刷色が違う。書留料金、外信葉書料金用。
1617年、徳川家康を祀るため創建。1999年に世界文化遺産に登録される。陽明門は一日中見ていても飽きないことから「日暮らし門」とも呼ばれ、国宝。
第1次昭和切手・30銭厳島神社 1939.4.3発行
三十銭
厳島神社
凹版印刷。発行当初の刷色と後期の刷色が違う。市外速達料金(8kmまで)、航空便料金用に使用。
広島県宮島にある厳島神社は 593年創建と伝えられ、社殿は1168年に平清盛の造営により今のような形になったという。日本三景のひとつで、国宝。1999年世界文化遺産に登録されている。
第1次昭和切手・6銭ガランビ灯台 1939.6.1発行
六 銭
オーロワンビ燈台
凹版印刷。発行当初の刷色と後期の刷色が違う。市内小包郵便料金(6kgまで)、外国宛航空郵便増料金として使用。
旧植民地であった台湾の最南端、高雄のオーロワンビ岬に立つ白亜の灯台です。昔はガランビ灯台と読んだ。ここは現在も景勝地(台湾の国立公園) として訪れる人が多いという。
第1次昭和切手・50銭金閣寺 1939.6.11発行
五十銭
金閣寺
凸版輪転版印刷(濃淡2色刷り)。発行当初の刷色と後期の刷色が違う。発行当初、適応料金なし。
京都市北区にある禅寺、北山鹿苑寺という。1397年足利三代将軍義満が別邸として造営。1950年放火で焼失、5年後に再建され、1987年に金箔全面張替えにより当初のきらびやかな姿に戻った。1994年、古都京都が世界文化遺産に登録されている。 戦後の追放切手にはなりませんでした。
第1次昭和切手・1円鎌倉大仏 1939.7.1発行
一 円
鎌倉大仏
凸版輪転版印刷(濃淡2色刷り)。発行当初の刷色(灰味橙と淡茶)と後期の刷色が違う。左写真は濃橙茶色で目打が悪いところを見ると、後期印刷になりますかね。発行当初は適応料金なし。
図柄は阿弥陀如来座像。1238年、北条泰時が建立を始めたという。大仏は当初木像であったが、1252年に金銅像で社殿の中に納められていたと言う。何度も台風、津波で壊され現在のような大仏だけとなった。(鎌倉市長谷・高徳院) 高さは台座を含めて12.38m。国宝。戦後の追放切手にはなりませんでした。
第1次昭和切手・5円藤原鎌足 1939.7.21発行
五 円
藤原鎌足
湿式凹版印刷。発行当初の刷色と後期の刷色が違う。発行当初の適応郵便料金はなく、局内の為替等に使用。
図柄は飛鳥時代の藤原氏の始祖、初めの名は中臣鎌足 (614-669)。後に天智天皇となる中大兄皇子とともに大化改新を起こし(645年)、律令制国家へと導くなど、生涯にわたって皇子を支えた論功により藤原姓を授かる。奈良県談山神社に祀られている。画は同神社所蔵。
第1次昭和切手・8銭明治神宮 1939.8.11発行
八 銭
明治神宮
凸版輪転版印刷 (濃淡2色刷り)。発行当初の刷色と後期の刷色が違う。第一種封書(20g超40g)、市内速達基本料金用。
明治天皇、昭憲皇太后を祀るため、1920(大正9)年に、代々木に創建された。戦災に遭い戦後に再建された。
第1次昭和切手・10円梅花 1939.9.21発行
十 円
梅花模様
湿式凹版印刷。発行当初の刷色と後期の刷色が違う。用紙は昭和すかしのみ。発行当初の適応料金なく、局内の電信・電話料金納付用などに使用。
図柄の文様は静岡県三島大社のすずり箱の蒔絵から取ったという。
戦後の追放切手にはなりませんでした。
余談ながら、この切手のオフセンターがやはり気になりますね。
第1次昭和切手・7銭金剛山 1239.10.16発行
七 銭
金剛山
凹版印刷。発行当初の刷色と後期の刷色が違う。適応する郵便料金なし。10円までの小為替料金用。
旧植民地時代に、朝鮮半島最大の観光地として日本人で賑わったという。奇岩が連なる秘境で、現在は北朝鮮最大の観光地だという。クムガンサンと呼ばれる。
第1次昭和切手・12銭航研機 1939.12.1発行
十二銭
航研機
凹版印刷。発行当初の刷色と後期の刷色が違う。市内封書速達便用(20gまで、4銭+8銭)。
1938(昭和13).5.15、東京帝国大学航空研究所で設計された純国産の長距離機(航研機)が、周回航続距離の世界記録を樹立。世界に日本の技術の高さを示すとともに、日本人に誇りを持たせてくれた出来事でもあったのです。
第1次昭和切手・3銭水力発電所 1939.12.11発行
三 銭
水力発電所
凸版輪転版印刷・平面版印刷。発行当初の刷色と後期の刷色が違う。第一種開封(印刷)書状料金用・第四種印刷物等(いずれも120gまで)。1944.4.1料金値上げで葉書にも使用された。
資源を持たない日本国が殖産興業のエネルギー源として水力発電所は当時の切り札だったのです。治山治水のためでもあったのでしょうかね。図柄は、特定のどこかの発電所というのではないようです。戦後の追放切手にはなりませんでした。
第1次昭和切手・5銭上高地 1939.12.21発行
五 銭
上高地大正池
凹版印刷。発行当初の刷色と後期の刷色が違う。発行当時、郵便基本料金として適応するものなし。引受時刻証明料金用など。
1915年(大正4)に焼岳が噴火し、火山灰で梓川がせき止められて大正池ができたんですね。
戦後の追放切手にはなりませんでした。
第1次昭和切手・20銭富士と桜 1940.2.1発行
二十銭
富士山と桜
凹版印刷。発行当初の刷色と後期の刷色が違う。
外信書状用(船便、20gまで)の切手として発行されたもので、図柄も外国人にとって親しみのある題材となっている。
戦後の追放切手にはなりませんでした。

通常切手には、コイル切手というものがあります。現在も発行されている郵便切手の自動販売機用の切手ですが、じつは 1933(昭和8)年に初登場しています。

 しかし、設置場所とか機械の性能などに問題があり、一般に広く使用されるようなことはどうもなかったようです。切手が自動販売機の中にテープ状で巻かれているので、左右に目打ちがないのが特徴です。
 下の写真は、1938-1939年発行の昭和コイルと呼ばれる四種の切手で、図柄は先の通常切手と同じです。


コイル切手四種

戦時体制下における通常切手

第2次大戦の足音が近づくにつれて、勤倹節約が 国民の義務となり、生活物資は戦争準備に廻されることになります。
 そして、戦争に入ってまもなく極端な物資不足に悩まされることになり、国民には厳しい耐乏生活が待っていたのです。当然切手の発行にも大きな影を落としていきます。

 用紙、インク、裏糊の調達もままならない状態になり、最後にはまことに粗雑な切手となっていくのであります。世に言う第2次昭和切手、第3次昭和切手の時代なんですね。切手にとっては受難の時期だったのです。(1942-1946年)

 驚くことに、これらの切手は終戦後もしばらく発行が続けられ、進駐軍から軍国調、神道の類はいわゆる「追放切手」として禁止されるまで、じつは使用されたのです。
 これら第2次昭和切手、第3次昭和切手の発行概容については、別掲をどうぞご覧いただきたいと思います。

 次ページでは、通常切手戦後編として少し時代をとばして、終戦直後の混乱期に、苦労のすえ復興を願って発行された第1次新昭和切手と産業図案切手に焦点を絞って、眺めてみてみたいと思います。
   本ページ冒頭へ    前ページ(記念切手編その4)へ

 V 切手コレクションの醍醐味 2 通常切手の尽きない魅力・戦後編 へつづく (2005.11.10記, 2007.6.20手彫切手補記 Copyright (C) 2005-2013 TOKU All Rights Reserved.)


目 次 収集スタンス 記念切手編1 -2 -3 -4 通常切手戦前編 戦後編 補足編1 -2 TOPICS-1 -2

表紙(コンテンツ)へ