芭蕉と湖南地区   佐藤 俊童



芭蕉は漂泊の俳人と言われます。生涯を通じて踏破した距離は驚嘆に値します。
もし芭蕉が今日の万歩計を付けていたら、おそらく驚くべき数値を示したことでしょう。
以下、年表からかいつまんで芭蕉の足跡を辿ってみます。

1644年、芭蕉は、家光の時代に伊賀上野に生まれる
18才、野洲出身の歌人北村季吟に師事
30才、免許皆伝書「埋木」を授与された後、江戸へ
33才、俳諧宗匠として立机し、三年後に深川に隠棲

40才、「野ざらし紀行(約八ケ月間)」の旅へ
  深川、伊勢、伊賀、大和、吉野、近江、大垣、桑名、熱田、伊賀、奈良、
  京都、大津、熱田、甲斐、深川

43才、「笈の小文(約六ケ月間)」の旅へ
  江戸、鳴海、熱田、伊賀、伊勢、吉野、高野山、和歌浦、奈良、大坂、
  須磨、明石

44才、「更科紀行(約半月間)」の旅へ
  名古屋、木曽路、姨捨山、江戸

45才、「奥の細道(約五ケ月間)」の旅へ
  深川、千住、草加、日光、黒羽、白河関、須賀川、飯坂、仙台、松島、平泉、
  立石寺、最上川、月山、象潟、新潟、出雲崎、富山、金沢、福井、大垣

46才〜49才、伊賀上野、近江、江戸などを往来
50才〜51才、余生の二年間を湖南地区で過ごす

芭蕉は、辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を残し、51才、大坂で世を去ります。
では何故にその遺骸を江戸でも故郷の伊賀上野でもなく、湖南の義仲寺、それも木曽義仲の墓の隣に埋葬させたのでしょう。

答えは一つ。
芭蕉は、全国見て歩いた他のどの地よりも、堅田、大津、瀬田など湖南の地が好きだったということに尽きるでしょう。
湖南は芭蕉が最も多く弟子を抱えた地でもあり、「行く春を近江の人と惜しみける」等の句には、近江への愛着が感じられます。

芭蕉が詠んだとされる982句のうち、89句が大津湖南地区で詠まれたことを思えば、奥の細道50句に比しても多いことが分かります。

当時、義仲寺のある場所は、琵琶湖に面した景勝の地だったでしょうし、木曽義仲についての当時の人の評価は現代より遥かに高かったのでしょう。 芭蕉は、全国を何度も何度も歩き廻った末に、終焉の地として湖南地区を選びました。

    木曽殿と背中合わせの寒さかな  又玄

芭蕉は今も、敬愛した木曽殿と一緒に、最も好んだ湖南の地で、ひっそりと安らかに眠っているのです。

       

義仲寺の芭蕉の実

義仲寺の木瓜の花

義仲の墓

芭蕉翁の墓

翁の像のある翁堂内部
  
  杉風による芭蕉像


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