本稿は2000年12月14日 高句麗遺跡踏査報告会の資料としてまとめたもの。出典は末尾に記載

高句麗と渤海の歴史

高句麗の歴史

はじめに

高句麗は、古代東北アジアにおける大国であった。百済・新羅とならぶ朝鮮3国のひとつと知られているが、なかでも最も早くに政治的成長をとげた。鴨緑江の中流域およびその支流である渾江の流域などの谷部や山地を本来の在地として紀元前1世紀の初めに興起し、668年に内紛から唐・新羅連合軍の攻撃をうけて滅んだ。700年余りにおよぶその興亡はひときわ光彩をはなち、しばしばそれを規定した。盛期である5世紀を前後する時期には、南北朝時代の中国王朝を中華としてあおぎつつも、周辺の諸国に対しては、みずから中華と任じた。

そのころ実現した最大版図は、西北は遼河、東北は牡丹江方面、さらには南は朝鮮半島中南部にまでおよぶ広大なもので現在の中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国の3国にまたがった領域を擁していた。政治・経済・文化の中心である王都にかぎってみても、427年までは中国東北部に、それ以後は北朝鮮の現在の首都である平壌地方におかれており、現在の国境の枠にはとうていおさまらない。

そのためとうぜんながら、高句麗の遺跡は3国にひろがっており、また高句麗系の人びとが日本列島に渡来して残した足跡として指摘できるものも知られている。高句麗研究のむずかしさの一因は、じつにそうした現状にある。(田中俊明・高句麗の歴史と遺跡)

建国神話と高句麗族の出自

『三国史記』高句麗本紀−始祖東明王本紀(中国・北魏書の引用)

『広開土王碑』−碑文、その他

卵からうまれ(卵生神話)その卵は母が日の光に感応して妊娠(感精神話)

卒本川にいたり、そこに都することにした。沸流水のほとりに庵をむすびそこに住んだ。
★神話では夫餘から来たとされているが、1=夫餘神話との相違 2=墓制の違いなどから5世紀初めに夫餘をその支配下においたさい、夫餘旧領占有の正当性と歴史的根拠を主張するすぐれて政治的意図であったとする見解が妥当。

  高句麗は文献によるかぎり、貊(はく)族としてあらわれる。貊は狛とも通じ、日本では高句麗とコマとよんだが狛もコマともよむ。文献の書き方はその時代や書き手によって指している実体が必ずしも同じでない。したがって高句麗は高句麗族として把握するのが肝要である。

高句麗の建国(桓仁)

★『三国史記』高句麗本紀では前37年(干支・甲申)とされるがその史実は

★前107年漢の武帝は玄莵(第1・咸興)・楽浪郡をおいた。朝鮮・穢・句驪の蛮夷の地である(漢書)。ここに最も速く史上に高句麗の名前があらわれる。

そのとき高句麗族の住地に県城をおいた。(集安・桓仁など)

  玄莵郡は、前75年に桓仁の西北・新濱県永陵鎮(第2)に移される。このことは、高句麗族が県城攻撃し、維持できなくさせたことに起因し、高句麗の在地を漢が支配・維持できなくなったことを意味し、前107〜前75年が高句麗の建国の時期。

★どこにつくったか。卒本にいたり、沸流水に庵を結んだとある。そこはどこか。

富爾江と渾江の合流点 現在の桓仁の地域に都をつくった。

平地につくる平城と逃げ込み用の山城をつくるスタイルが基本。墓制は積石塚。

  高句麗は、那集団の連合体として、玄莵郡などの中国郡県との抗争を通して成長。

  後32年、後漢に朝貢し、光武帝から王号をもとにもどしてもらった。

  その後も抗争を続け、玄莵郡は後退して郡治を現在の撫順(第3)に移した。

高句麗王の宮・遂成・伯固がその後も玄莵郡や遼東郡と抗争を続けた。

        高句麗当初の中心地は渾河流域の桓仁から鴨緑江流域の集安にかけての一帯で、積石塚 もそこに集中している。高句麗人たちはその地域において某那・某奴と呼ばれる、いくつもの地縁的政治集団(那集団)を構成していた。この那集団が首長連合を形成していたものとみられ、桓奴・絶奴・消奴・灌奴・桂褸奴の有力な5族(部)が支配していたとされる(魏志)

国内城遷都(集安)

  2世紀末、中国が混乱におちいると、遼東方面は公孫氏が勢力を持つようになる。

  3世紀はじめ伯固(故国川王)が死ぬと、その子の間で王位継承をめぐって対立が起こった、民意を受けて弟の伊夷模(山上王)が即位したが、兄の拔奇は公孫氏を頼って抵抗、伊夷模はかねてよりの根拠地のひとつである国内城(集安)に移り、そこに新国を 建てた。拔奇はいったん卒本に戻ったが、子をそこに残し、自身は遼東に移り住んだ。いご、沸流水流域の卒本は高句麗の根拠地であり続け、比較的大きい積み石塚や壁画古墳などもつくられた。

後代の王も始祖廟がおかれたこの地、卒本へたびたび行幸した。

  国内城(集安)が王都になったのはこの時からで、かっての高句麗県城(漢の城)を居城として転用した。(国内城あるいは丸都城ともいう)背後には緊急避難用の大規模な山城を築いた。

高句麗発展の第2段階がここにはじまった。しかし平坦な道ではなかった。

  中国は三国時代であったが魏は南方戦線が安定すると公孫氏を討伐し、同時に楽浪郡、帯方郡を確保した。ここに魏と高句麗は境を接することになり両者の抗争がはじまった。

  魏は将軍カン丘倹を派遣して高句麗侵攻をくわだてた。244年から本格的に侵攻し、王都を陥落させたが、王の位宮(東川王)は妻子をつれて脱出し助かった。翌年、カン丘倹は再びふたたび侵入し、王を追わせ、沃沮・東穢を魏に降らせたが、王は逃げのび王都が陥落したにもかかわらず、再興を期した。

復興と慕容氏との抗争

  魏の侵攻による衰勢もしだいに復興し、美川王の時代、中国の戦乱を機に勢力をたくわえ、魏の楽浪郡や帯方郡を攻撃するようになった。それに耐え切れなくなった郡民は、遼河方面に勢力を持っていた鮮卑族の慕容氏のもとに移住した。(313年)

  楽浪郡や帯方郡は実質的な機能を失い、その故地は高句麗が支配することになった。

さらに平壌を南進の拠点として確保した。

また北の夫餘も攻撃し、夫餘は西に本拠地を移した。高句麗はそれまでの夫餘の中心地を北夫餘として経営した。(現在の延辺朝鮮族自治州)

  319年、慕容氏は遼東を確保し高句麗と直接対峙するようになった。高句麗は第3玄莵郡(撫順)を駆逐し、郡治に隣接して新城(高爾山山城)を築き、西方進出の拠点としたが、その方面をめぐる攻防戦は続いた。

  燕王を称するようになった慕容皇光は342年、5万の大軍を派遣して高句麗王都に侵入、前王美川王の墓をあばき、王母や妃を捕らえ宮殿を焼き払った。ここに再び王都が壊滅した。故国原王は脱出したが翌年、臣と称して朝貢し、父の屍をとりもどした、が、交戦状態が終結したわけではなかった。355年になって人質をいれ、王母をとりもどした。こののち燕の勢力が弱まったこともあり、しばらく戦闘は見られなくなった。

  南方では韓族の百済が成長し、楽浪・帯方の故地をおびやかすようになった。そこで高 句麗は百済を攻撃するようになるが、故国原王はかえって平壌城に侵入した百済軍の流れ矢にあたって戦死し(371年)混乱におちいった。あとをついだ小獣林王は、そのため内政の立て直しに力をそそぐことになった。

  370年に前秦が北中国を統一、高句麗は使者を送り通交を重ねた。前秦からは護国的な仏教が伝わり、寺院も建てられた。朝鮮において公的に仏教を受容したのはこれが最初であった。「律令」も施行し、儒学教育のための大学も設けられ、つぎの故国壌王は国社・宗廟を建てるなど礼制を整えた。

領土の拡大  広開土王(好太王)の時代

  このあとをついで18才で即位したのが広開土王(好太王・391年)。この王の一代は対外的に大きく発展した。この王の死後、その功績を顕彰すべく建てられたのが『広開土王碑』(414年)である。またこの王の墓は将軍塚よばれる大きな切り石による積石塚が有力な候補である。

  395年、西北の俾麗(契丹の一部族)に親征し、無数の牛・馬・羊を獲得、翌年、百済に親征した。この時、百済の王都漢城にせまり、百済王に忠誠を誓わせ、王子らを人質とし、58城邑の700村を奪取して凱旋した。

  398年には、東北の粛真に郡を派遣し、300余りの捕虜を獲得し、朝貢を促した。

  百済は誓約したにもかかわらず、ふたたび倭と和通したためそれを再攻撃するため平壌まで進軍したが、新羅から救援の要請をうけ、あらためて400年、5万の軍を新羅に派遣した。新羅王都にいた倭軍を駆逐し、さらにそれを追って任那加羅(金海)まで進み、安羅(咸安)人の守備兵とも戦い、勝利した。倭におさえられていた新羅はこの結果朝貢するようになった。

  404年には倭が海路、帯方郡の故地に侵入したが、王が親征して排除した。

  407年にも、5万の軍をおそらく百済に派遣し、6城を奪取した。

  410年には、東方の東夫餘(北沃沮)に親征し、その王都にせまり慕化する民を引きつれて凱旋した。

  このようにたびかさなる外征によって、とくに百済領をおおきく獲得し、それとむすぶ倭・加耶南部をうちやぶり、新羅を高句麗の勢力圏にひきもどした。

  対中国関係もこの間に変化がみられた。前秦の崩壊に際して、仇敵の慕容氏では垂が燕を復興していた(後燕)。385年に遼東・玄莵を攻め落としたが、これはすぐに復された。396年に慕容宝がたつと、広開土王を平州牧・遼東帯方二国王に封じたが、高 句麗はその後まもなく遼東郡を奪取するなど燕との攻防はつづきそれを通して遼河以東 は高句麗の領有するところなった。(遼陽などの地域)

  408年に高句麗族出身で宝の養子となっていた雲が馮跋に擁立されて即位すると、広 開土王はすぐに使者をおくり、雲を宗族待遇にすると、雲も使者を高句麗におくりそれにこたえた。また王は、やはり慕容氏の政権で山東に勢力をもっていた南燕にも遣使した。こうして西方戦線は平和的な外交に変化してきた。

平壌遷都と全盛期の現出−長寿王の時代

  広開土王の子、長寿王は長寿というその名のとおり、その治世は79年間におよび高句 麗の全盛期を現出した。427年、高句麗はすでにそれ以前からの南方の拠点であった平壌に遷都し(大城山城一帯、大城山城を逃げ城としてその西南麓の土城・清岩里土城)、本格的に南方経営に乗り出していった。

  413年、捕虜としていた倭人を同伴し中国江南の晋に使者をおくり、435年には河北で勢力をもった北魏へはじめて使者をおくった。436年には宋へも使者をおくった。5世紀の中国は南北朝時代で、北朝(北魏)南朝(宋・斉)とが対立する形勢にあった。

高句麗はその対立を巧み利用ししつ、南北両国に使者を送った。両国とも高句麗の存在意義を高く評価し、歴代の高句麗王に使持節、都督諸軍事、将軍号など称号を与え、冊封下においたが、その地位は百済よりもまた倭よりもはるかに高かった。

  中国との関係が安定すると、高句麗は積極的に南方へ進出していった。新羅は高句麗に従属する姿勢をみせていたが、その王都に軍隊を駐留させ、王の廃位にも関わった。新羅は高句麗の影響を排除しようと百済と結び、450年以後、高句麗と戦闘を交えることもあったが、新羅に対する影響力は5世紀を通して維持された。

  百済に対しては、455年以後、くりかえし侵攻した。長寿王は475年3万の兵を率いて親征し、その都漢城を陥落させ、百済王を殺し、一時的な滅亡に追い込んだ。

さらに南下して、現在の忠清南道の北部にまで、東では小白山脈を越えて、慶尚北道の北部まで領域を広げ、ここに高句麗は、最大版図を実現するにいたった。

  支配層は、王権の伸長に対応して、王を中心とした一元的な13等に分かれた官位制に組み込まれた。王都は、内部および東(左)西(右)南(前)北(後)各部の5部に分けられ(かっての5族の後身)、行政区分として改編されて、支配層を形成した。

平壌遷都以後の高句麗の歴史

  531年 安蔵王殺される 後をついだ安原王の時代 王位継承をめぐって内乱

  557年 陽原王の時代 丸都城主の朱理が反乱をおこし誅殺 以後王権は弱体化

  新羅が成長し、高句麗との関係を断ち切って中国南朝に朝貢するようになり、相対的な地位が低下。百済との戦闘は続くが538年百済は遷都を敢行した。

  551年 新羅・百済との連合軍に漢城を奪取される。新羅は百済を排除し占有、東と西の海への出口を確保した。

  552年 陽原王は遷都を決意、中国的な条坊制を敷いた計画的な王都づくりを進めたが実際には次の平原王の時代566年から工事がはじめられた。586年に遷都(平壌城あるいは長安城とも称した)。

  570年以降、倭に対して使者を送り友好関係を結ぼうとする。(高句麗使)

  581年 随が成立、589年に随が中国を統一。朝鮮三国はみなその册封体制に入ったが三国の抗争はさらに激化した。(平原王は590年に死亡)

  598年 随が30万の軍隊で高句麗に遠征軍を派遣したが嬰陽王が謝罪し一旦収束。 倭との連係をいっそうすすめ慧慈らを派遣した。

  612年 随(煬帝)、百万を越える大軍で高句麗攻撃したが高句麗は乙支文徳の活躍で撃退。翌年再征したが揚幻感の乱により退却。

  614年 再征したが、嬰陽王が遼東城にまで出向き謝罪したため引き返した。

  618年 唐が成立、高祖は積極策をとらずしばらく平穏にすぎた。

  631年に高句麗へ使者を送り(唐の太宗)どうかつをかける、これをおそれ千里の長城を16年の歳月をかけて築く。(泉蓋蘇文が築造監督)

  642年 危機感を持った泉蓋蘇文はク−デタ−を起こし、宝蔵王を擁立。

新羅の金春秋が連係を求めてきたが拒絶、仇敵関係にあった百済と歴史的な和議を結ぶ。逃げ返った金春秋は唐に援助を求める。ここに高句麗−百済−倭の連係と唐−新羅の連係が対立することになる。唐は使者を派遣して新羅との和解を進めたが高句麗は拒否。

  645年から3回にわたり唐は太宗が親征したが高句麗はこれをしのいだ。

  655年 百済と連合し、新羅を攻撃、33城を奪取。新羅は唐に援助を求め唐はこれを受けて、658年、659年と新城と遼東北部を攻撃。

  660年 唐・新羅連合軍が百済を攻撃、百済王都は陥落、百済は滅亡した。

このとき新羅は平壌城を囲み攻撃したが高句麗はこれを凌いだ。

  666年泉蓋蘇文が死亡。あとをついだ男生と男建・男産が対立。男生は遂われて唐に降伏。これを好機に唐は667年新城を破り、男生と合流した。

  668年 唐・新羅連合軍が攻撃。内応もあって王都(長安城)陥落し、宝蔵王以下の臣僚たちは降伏し、唐の長安に連行されここに高句麗は滅亡した。確認された城176、戸69万7千であったという。

(以上、「高句麗の歴史と遺跡・高句麗とは」−田中俊明説より作成)

★唐は旧高句麗領を高句麗人をもって統治にあたらせ(羈縻支配)たが、一方新羅は安勝 (宝蔵王の庶子)を高句麗王に封じ高句麗の使者を倭国に派遣する(新羅使が同行し)などして唐に対抗し、朝鮮半島からの唐の勢力排除を進め、それが完了した684年に 高句麗国を滅ぼした。ここに高句麗の名は完全に消え去った。

  このように高句麗の故地は様々な経過を経ながら、朝鮮半島部分を新羅がその他の部分を唐が支配することになった。

高句麗の存続期間については、900年説(新唐書)800年説(三国史記)700年説(日本書紀)があるが、いずれにしても長期間に渡り大きな勢力を持った国だった。

渤海の歴史

はじめに

7世紀から10世紀初期にかけて現在の中国東北地区(遼寧省南部を除く)と朝鮮半島北部を支配した国が『渤海国』であった。その治世は15代の王、おおよそ200年におよび、海東の盛国と呼ばれるほどの繁栄をほこり日本とも深い関係を持った大国であった。

震国(振国)−渤海国の建国

  高句麗を滅亡させた唐は、高句麗の遺民と高句麗の支配下にあった粟末靺鞨族を、唐の東方の諸民族を牽制し抑圧するための重要拠点であった営州(遼寧省朝陽)へ強制移住させた。その地域は契丹族をはじめ北方の多くの諸民族が居住しており紛争が多発していた。*高句麗滅亡後30年近くたった696年、営州において契丹族の李尽忠による大規模な反唐動乱・反乱が勃発した。これに乗じて粟末靺鞨族の乞乞仲象と乞四比羽は一族と高句麗遺民を率いて営州から離脱し、靺鞨族の故郷である牡丹江上流域へと向かった。

唐(則天武后)は彼等の自立を阻止すべく軍隊を派遣してこれを討伐し乞乞仲象と乞四比羽は殺されたが、仲象の子の大祚栄のもとに結集した一族と高句麗遺民は、唐の武力による圧迫を排除することに成功し、彼等の故地であった東牟山(吉林省敦化)に拠点を構え、698年に自立して『震(振)国』を建国した。

  大祚栄は唐の武力に抗するため契丹や新羅に使者を派遣して国際的な支援を求めながら政権の基盤を固めていった。そのうち唐は政策を転換し周辺諸国との関係改善を進めていったが、大祚栄はこの政策を受入れ唐の冊封体制に入り、713年、国号を『渤海』と改め周辺諸部族の平定、唐との関係修復に力点を置き、渤海の基礎を固めていった。

渤海国の発展と停滞

  719年に大祚栄のあとを継いだ大武芸(武王)は積極的に領域の拡大をはかった。特に周辺の靺鞨諸部族(拂涅・鉄利・越喜・虞婁・黒水)を編入することにつとめたが、黒龍江以北に居住していた黒水靺鞨は最も強大であり脅威となっていたが、大打撃を与えることにより北部の辺境の安定に成功した。一方、南部の新羅に対して旧高句麗の故地を奪取するなど領土拡大をとげたが、緊張関係はますます高まっていった。

  こうした事態を打開するために対日本外交に活路をみいだし、727年に日本へ使節を送った。渤海の使節派遣は35回(研究者によっては33回とする)におよび、一方日本からは15回(研究者によっては13回)にわたって使節が派遣され友好関係を結ぶなかで渤海と日本は新羅に対抗していった。

  唐からの独立と自立のための戦いをへて、北の黒水靺鞨、南の新羅との緊張を克服しながら国際的にも安定した地位を築くことに成功し、唐とも息子を質として送ったり、留学生を派遣することにより使節の頻繁な往来だけでなく、緊密な関係を保ち唐の政治、制度、文化などをさかんに導入した。

  737年に即位した第三代の文王(大欽茂)は前2王の築いた基礎の上に、安定した発展を遂げることに成功した。唐の制度にならい5京を建城し国のかなめとした。その5京は@上京龍泉府(黒竜江省寧安市東京城)、A中京顕徳府(吉林省和龍市西古城)、B東京龍原府(吉林省琿春市八連城)、C西京鴨リョク府(吉林省臨江市)、D南京南原府(朝鮮咸鏡南道北青郡青海土城)とされ、王都は一時中京、東京と移動したが最も長く置かれたのは上京竜泉府であった。

上京から内陸部の中京をへて鴨緑江ほとりの西京を結ぶル−トは唐との交通のための「朝貢道」であり、上京から日本海に望む東京を結ぶル−トは日本との交通のための「日本道」、さらに東京から南京に降るル−トは敵対していた新羅国境にいたる「新羅道」であり、これらのル−トはそれぞれに整備され管理されていた。

  領域内に山城を築城したり高句麗いらいの山城を利用するなど軍事的拠点も強固につくりあげたが、墓制では高句麗的な要素とともにしだいに唐文化の影響をうけ独自の変容をとげていく。壁画古墳などには独自の様式がみてとられ、また仏教も信仰の対象として重んじられ寺院址が5京や地方の土城、幹線道路付近から数多く発見されている。

  このように大きく発展した渤海の国づくりであったが、文王の死後、後継者争いや4代から9代まで短命な王(この間25年)が続いたことにより停滞期が続いた。

海東の盛国の出現と滅亡

  819年、中興の祖ともいうべき第10代宣王(大仁秀)が即位したが、彼は大祚栄の弟の4世の孫であり、このとき渤海の王統は傍系に移った。この新たな王統のもとで支配体制の強化がなされ、外では新羅と北辺(おもに黒水靺鞨)を平定し、内では唐の制度を取り入れて行政区画の整理に乗り出し国内外の混乱を収拾した。版図は現在の吉林省を中心として南は朝鮮半島北部、北は黒龍江省からロシア沿海州におよぶ強大な領地を確保するに至り唐をして「海東の盛国」といわしめた渤海の全盛期を迎えることになった。

  11代、12代とその栄華は続いたが、13代王の大玄錫以降はおきまりの後継者争いや外圧(契丹と黒水靺鞨)によって地方に対する支配力を失い衰退していった。第15代のダイインセンが即位するとまもなく唐が滅び、渤海の支配層の内部で紛争が起こった。 そのころ契丹の耶津阿保機は契丹諸部族を統一して「遼」を建国し渤海と対立していたが、機を伺っていた耶津阿保機は渤海内部の状況をみて925年に出兵し、渤海の対契丹族の拠点であった扶餘府を攻めおとし、翌926年に上京龍泉府を陥落させ、ダイインセンの投降によって渤海はついに滅亡した。

  渤海がつくりあげた制度(ほとんどが唐をモデルにしたものであったが)は、渤海を滅ぼした遼(契丹族)やそれ以後に登場した金(女真族=黒水靺鞨の後裔)に受け継がれることになった。

(以上は李成市の説「『朝鮮史』−三国の成立と新羅・渤海」を基礎に
他の資料も使ってまとめたものである)

  なお、渤海使と遣渤海使については上田正昭氏の見解(「東アジアと海上の道」−日本と渤海の交渉)によって記したが。研究者によって到着回数、派遣回数が異なっているが、それは正式の使者であったのか(国書を持参したか否か)、使の性格になどによって違いが生まれているものと考えられる。

上田正昭氏は、渤海の使節は36回来ているが、36回目は渤海滅亡後の930年に到着した東丹国の使節であり回数には入れない。また正式に国書を持ってきた使節は34回とされる。さらに渤海及び鉄利の漂流民が来着したとの記録が2例ある、と紹介されている。

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