小説 のがすなチャンスを                                      とっと SideA(榛名) 「ねぇ、那智。今夜泊まっていってもいい?」  私は精一杯の猫なで声で甘えてみせたのだけれども、那智黒の奴なんか引いてる……。失礼しちゃうじゃない。一体全体、誰のせいで私がこんなことをしなくちゃならなくなったと思っているのよ。  私、霧島榛名と彼、羽黒那智とは高校の時からのつきあいだから、かれこれ六年くらい続いている。大学時代は彼は地元、私は東京と四年間離ればなれになっちゃったけれども、それでもお互いに浮気することもなく無事? に過ごし、この春私ははれて大学を卒業、地元に戻って小さな出版社でOLとして働き始めた。それに対し彼は高校卒業後ずっと地元で喫茶店を経営している。  そんなわたしたちだけれども、周囲がうらやむほどのオシドリカップル(って自分でいうのも恥ずかしいのだけれども)。なんの問題もなく、このまま順風満帆にいけばいずれは結婚って考えていたし、そんな将来を疑ったこともこれまではなかった。もっとも今の私は社会人一年生。それも憧れの出版社とくれば、仕事が楽しくて仕方がない時期。いずれはそうするつもりだけれども、今はまだ結婚なんて考えられない。こちらに戻ってきたばかりのときに一度那智にプロポーズされたのだけれども、私にだっていろいろとやりたいことはある。そのときは彼にお預けを食らわせてしまった。きっと那智のことだから三年でも四年でも、ひょっとすると十年だって私が待ってて言えば、すっと待っているんじゃないかって思えて私は安心しきっていたのだけれど、どうもそうもいっていられない状況になってきたようだ。まだはっきりしないけれどどうも那智が挙動不審なのよね。この間私は見てしまったのだ。彼の胸に抱かれるようにしている女性の姿を。あれは……  ことの起こりは那珂が恋人に振られたことから始まる。青葉那珂、彼女は私や那智の高校の時の同級生で、一応わたしの親友。そして那智とは家が隣同士の、生まれたときからの幼なじみにして元恋人。そんな那珂は高校時代になにを血迷ったのか那智を振って、同じ高校に通っていた五十鈴高雄と付き合い始めたのだけれど、その仲のよさは私たち以上であった。それなのに就職後、彼が関西方面に配属になり、地元を離れたあたりから雲行きが怪しくなってしまった。そして先月、とうとう五十鈴が他の女の子を孕ませてしまったことが発覚。責任をとって彼はその娘と結婚することになり、結果的に那珂は振られることとなったわけだ。  それ自体はまあ、よくある話。五十鈴は最低だし、那珂には気の毒だけれども、仕方のないことだ。那珂もそんな男のことはさっさと忘れて、新しい恋に生きればいい。でも問題なのはその、新しい恋の相手がどうも那智黒っぽいところだ。このところ二人が急接近してみえるのよね。  那智はもともと情にもろいところがあるし、今の那珂の状況に同情して親切にしているだけだと思うのだけれど、那珂の方がどう思っているかはわからない。恋人というひいき目を除いて冷静に見ても、男としては五十鈴より那智の方が数段上だと私は思っている。こうしてフリーになって那智と接してみたときに、彼女がそれに気付いて、昔の恋心を再燃させたとしても不思議じゃない。私と親友やっているんだからそんなことはないだろうと思うこともあるけれど、やっぱりそんなものは当てにならない。恋心の前には友情なんてもろいものだ。  そんなこんなで、これまで那智に心配ばかりかけてきた(一応の自覚はあるのよ)私が、今度は立場逆転して心配しなければならない羽目になってしまった。これを因果応報っていうのかしら。ほかの女の子ならそれほど心配することもないけれど、那珂が相手となると私もちょっと自信がないのだ。なにせ彼女は那智とは生まれたときからのつきあい。お互い相手の良いところも悪いところも全部知り尽くしている。あの二人には私がどう逆立ちしても叶わない歴史があるのだもの。  さすがに私もちょっと焦ってきた。このままじゃきっとまずいことになっちゃう。手遅れにならないうちに何か手を打たないと今度は私が那珂の二の舞になりかねない。そう思った瞬間、私の中に一つのアイディアが閃いた。「那珂の二の舞」にならないようにするためには、その逆になればいい。私が先に那智の子を身ごもれば、さすがに那珂も手を出せないじゃない。  それはすごくいいアイディアのように思えた。それで冒頭の台詞となったわけだけれども、どうも那智が引いている。ひょっとしてもう手遅れなのだろうか? でもいまさらあとには引けない。なんとしても今夜那智をものにするんだ。そうしないとまた一月待たなくちゃ行けない。 「ねぇ、いいでしょ?」  ちょっとしな作って見たりしちゃって。ついでに瞳を潤ませて、上目づかいに彼の方を見てみる。ねぇ那智。こめかみあたりに冷や汗が流れているのは何故? 「い、いきなりな展開だね……」  那智は平静を装ってそう答えたけれど、声がうわずっている。那智も男の子だから……。もう男の子って言う年でもないか。彼も立派な成人男子、そういう風に言われるといろいろ期待しちゃうんだろうな。とりあえず那智にも正常に性欲なんかもあるらしいことを確認できて一安心。だって付き合いだして五年。これまで彼が私のことを求めてきたことは一度もない。もっともそれはわたしのトラウマによる障害を知っているせいもあるのだろうけど。  私は那智と付き合い始める前に、別の男と付き合っていてひどい目に遭い、それ以降軽度の男性不信と、性的な行為に対する極度の拒絶反応を示すようになったしまったのだ。それを知っている那智はあまり私に触れることもない。でも正常な男の子がそんなふうにいられるものかと、ついつい穿った見方をしてしまうこともある。普通、その気があればちょくちょくお伺いくらいはたてるものなんじゃないの? 「でも、泊まるとなったら何にもしないって言う保証はないよ」  しばらく沈黙を保った後、そう続ける那智。その顔には苦笑が浮かんでいて、もう普段の彼に戻っている。相変わらず立ち直りが早い。そう言うところが頼もしくもあるのだけれど、ちょっと憎らしくもある。 「それって脅しのつもり?」 「そう言うわけじゃないけれど、榛名はダメでしょ? これでも一応男だからね、泊めたりしたらホントに自信ないんだよ」  そう言う那智の顔は本当に困り果てている。たしかに私もあまり自信はない。ちゃんと那智を受け入れられるかどうか……。でも今はそんなことはいっていられない。これまでゆっくり時間をかけてキスならOKになった。前に一度那智に襲われそうになった時(拙作『君が、嘘を、ついた』(11)〜(12)参照)はだめだったけれども、あれからさらに2年、多分今ならその先も大丈夫。もっともそれは那智に限定されたことだけれども。 「独り暮らしの男の家に泊まるって言っているのよ。それくらい承知の上よ」  私はそう言って微笑んでみせる。でもそんな私に彼は深いため息で答える。 「何かあったの?」  どうもわたしの真意を計りかねている様子。やっぱり唐突だったかな。 「なにも。強いて言うならそろそろ大丈夫かなぁって。那智だってずっと待っているんだろうし……、それに今日なら両親共に旅行に行っていて留守だからお泊まりしても問題ないしね。ま、那智のところって言うなら別に誰も反対はしないと思うけど」  あんまり理由になっていないけど、仕方なし。まさか那智をほかの女にとられたくなくて、こっそりだましてあなたの子供を身籠もるためです、なんて答えられるわけがない。仕方がないからちょっとサービス。那智に寄り掛かって耳元へ。 「だめ?」 甘えた声で言ってみたりして。うっ……、自分で言っていて鳥肌が……。こういうのってタイプじゃないよぉ。 「いいよ。その代わりどうなっても知らないからね」  ため息まじりにそう言う彼の姿が引っ掛かる。それって那珂のことが気になっているのかなぁ。ひょっとして彼女ともうしちゃったとか? 考えてみれば二人は隣同士。わたしの目を盗んでそう言うことをするのも不可能じゃない。 「それってどういうこと?」  ちょっと口調がきつくなっちゃったかもしれない。でももし那智と那珂がすでにそういう関係なのならば、今から私がやろうとしていることは、すべて無駄になるかもしれない。それどころか万一、二人とも妊娠しちゃったらものすごい悲劇になっちゃう。あの那智がそこまでのドジを踏むとは到底思えはしないのだけれども、一応確認だけはしておかないと…… 「榛名のことだからその辺抜かりはないと思うけれど、失敗して妊娠させちゃうってこともあり得ないわけじゃないからさ。あとでわたしの青春を返せ〜! とか怒鳴られても知らないよってこと」 「五十鈴みたいに他に種蒔いちゃったから?」 「まさか。そんな相手はいないよ」  そう言って苦笑する那智。どうやら嘘はついていないみたい。そしてしばらく苦笑して私を眺めたあとで一言。 「僕は当てにならないからね。ちゃんと自分のことを考えて行動してよ」  はい抜かりはありません。本日はバリバリの危険日です。それこそ私が望んでいることなんだから文句なんて言わないわよ。那智をつかまえておくためだったらば、青春だってなんだって捨てるわよ。って我ながら怖い考え。大分壊れているなぁ、私。 「大丈夫。そこまでのドジは踏まないわよ。まだまだ私だってやりたいことはあるんだから」  笑ってそう答える私に彼は一応の納得をしたみたいだった。まだ少し考えている目をしているけれども、それ以上深くは追求してこなかった。それって一応、お許しが出たってことよね。  結局その後私は彼の作った夕食を取り(悔しいけれど飲食店を経営する彼の方が料理の腕は上)、閉店まで彼の仕事を手伝ったあと、二人して彼の部屋へとさがった。 「さっき風呂入れてきたから沸いたら先に入っていいよ」  部屋に入るなりそう言う彼。緊張しているのか声が固い。そういう私も緊張でガチガチ。ぎこちなく首を振るのがやっとだった。  彼の部屋はいたってシンプル。独り暮らしなのになぜかセミダブルのベッドと、壁際にある小さな本棚。あとは窓に向かって据えられた机の上にパソコンが一台。ただそれだけ。そしてその窓の向こうは青葉家。彼の部屋の対面にあるのは昔と変わりなければ那珂の部屋。その窓にも明かりが灯っており、かわいいピンクのカーテン越しに人影がみえる。私は腰を下ろしていたベッドから立ち上がると、窓際により、そっとカーテンを閉めた。 「榛名?」 「な、なんか緊張しちゃうね…… 」  今は那智にほかの女の子のことを考えて欲しくない。那珂の気配のあるその窓を那智にみせたくなくて、カーテンを閉めたのだけれども、そんな私を不信に思ったのだろうか? 「いまからそんなんじゃぁ身が持たないよ」 「そういう那智だって顔、強張っているよ」  那智の顔にもいつもの笑顔がない。笑いながら軽口を叩こうとしているみたいなんだけど、笑顔が固まっている。私はこんなに緊張している那智を見るのは初めてだった。普段の彼は、何事にも動ぜず、クールな様を装っている。長年のつきあいで私は彼のその仮面のしたでは結構いろんな感情が激しく渦巻いていることをしってはいるけれど、それがこんなふうに表に出てくるのはごくまれなことだった。 「仕方ないよ。初めてなんだから……」  苦笑まじりにそう答えたあと、彼の表情は凍りつき、しまったという感じになった。  そう、那珂となんでもないのであれば、彼は初めて……。対する私はすでに前カレと経験済み。那智はそのことに関してはかなり私に気をつかっている。それというのもそれが私のトラウマと直結しているからだ。 「ご、ごめん……」  俯いて、小さな声でそう私に告げる彼。こんなに不用意にそのことに彼が触れたの初めて。必要とあれば、ずばりとそのことについても切り込んでくる彼だけれども、そこにはいつも細心の注意が払われていたのを私は知っている。それだけ彼も緊張しているのだ。そんな彼がかわいらしくも思えると同時に、そこまで気をつかわせ、そんな一言にさえ、ものすごい罪悪感を追わせてしまうことに、私は申し訳なさで胸が一杯になった。 「気にしないで……。そんなことも全て今夜でお終いだから……」 私は隣に腰を下ろすと、そっと彼の首に手を回す。コツンとおでこを彼の額にぶつけ言葉を紡ぐ。 「今夜私は生まれ変わるの。だから那智も全部忘れて……。今夜私はあなたの物になるの……」  もう、照れもなにもなかった。わたしの計画していた姑息な罠もどうでもよくなっていた。彼が那珂を選ぶのであればそれはそれでいい。それよりも彼をこの苦しみから開放して上げたくなった。那智はこの五年間、ずっと私を第一に考えてきてくれた。それに対し、私は彼になにをしてあげられただろう。  わたしの体が欲しければあげる。そのあとで例えほかの女の元に行ってしまうのだとしても。彼はこれまで充分自分を抑えて来た。もう全てが開放されても良い時期だ。 「もし、その後であなたがだれか別の人を好きになっても私は後悔しない。ただ、今のあなたに全てを開放してほしいの」 「榛名……」  感情に流されたというか、激情のままに口をついて出たわたしの台詞に、那智がやさしく微笑む。いつのまにか彼の胸に顔を埋める形になっていた私をそっと引き離すと、今度は彼の方が私に近づき、唇が重なった。そのままベッドに倒れこむ私たち。ギシっとスプリングの軋む音と、遠くでお風呂が沸いたのを告げる電子音が聞こえたけれど、もうそんなものにかまってはいられなかった。  結果オーライ。その夜、私はなんの問題もなく彼を受け入れることができた。少しは拒否反応が出るかと思ったのだけれど、そんなものは微塵もなく、久々に感じる男の力に私は翻弄され続けた。女の一念、岩をも通すと言うところだろうか。那智も初めてで無我夢中だったのか、なんのためらいもなく私を貪り続けた。結構激しかったけれども、それでも彼は全ての愛撫が細やかで、やさしい。そんな彼から受ける行為に私は何度も嬌声をあげさせられ、やがて心地よいまどろみのなかに落ちていった。  二人で迎える初めての朝はなんとなく照れくさかったけれども、全てはわたしの思惑通りとなってしまった。だって急なことだし、そんな日がいきなりやってくるなんて那智は思っていなかったから、アレ用意していないんだもん。夕べはもう、那智が救われればその後はどうでもいい。ほかの女のものになっちゃってもかまわないなんて考えたけれど、一度肌を重ね合ったら、そんな気持ちはどこかに吹き飛んでしまった。  初めてってこともあって昨夜は那智もずいぶんと頑張っちゃったからきっとできている。私はそっと自分のお腹をさすりながら笑みが漏れるのを禁じ得なかった。  お店の方へ行っていた那智がモーニングコーヒーを入れて戻ってくる。私は満面の笑みで彼に告げた。 「もう、なにがあっても離れないからね」  そんなわたしの言葉に彼は苦笑で答える。それでも彼の表情も嬉しそうで、まばゆいくらいに輝いていた。そして彼も一言。 「それじゃあ、いっそ結婚しちゃおうか」 SideB 「それじゃあ、いっそ結婚しちゃおうか」  僕の二度目のプロポーズに対する彼女の返事は「ありがとう」だった。それを聞いた僕がどれほど嬉しかったかは、一度目のプロポーズの時が「まだいやよ」の即答だったことからもわかってもらえるのじゃないだろうか。でも、それはぬか喜びにすぎなかった。 「勘違いしないでね。今のありがとうは、プロポーズしてくれた事に対してのお礼なんだから」  つまりは返事はまだという事。で、そう言う前置きがつくってことは…… 「少しだけ考える時間がほしいの」  それは最悪のものではなかったけれども、僕が望んだ答えでもなかった。僕は彼女を抱いた責任から結婚しようと言ったわけじゃない。これが二度目のプロポーズである事からもわかる様にただ、早く彼女と結婚したかったんだ。もっとわかりやすく言えば一刻も早く彼女を自他ともに認める自分のものとしたかった。それにはいろいろあるけれど、詰まるところ僕は不安だったのだ。鳶に油揚をさらわれそうで。  僕の不安の理由の一つは先日の幼なじみの青葉那珂と、友人の五十鈴高雄のカップルの破局かもしれない。誰もがこのままゴールインと思われていたカップルの破局。それも高雄が他の他の女の子との間に子供を作っちゃったことが原因だというのだから救われない。  さらなる不安は彼女の今の環境。彼女はこの春から県内の大都市にある出版社に勤務している。通勤に片道二時間かかる上に、商売柄帰宅時間は不規則。電車がなくなって会社に泊り込むことまである。小説家志望の彼女にとって第二の憧れの職業である出版社。周囲の先輩社員たちがかっこよく見えるかもしれない。さらには有名小説家との接触があったりして、その中に年齢的に釣り合いの取れそうな独身作家でもいた日には……志を同じくする二人が親しい関係になるなんてことも……。  いろいろ御託を並べてみるものの、本当は僕が自分に自信がないだけなのだ。常に大切な人を失い続けた僕にとって、恒久的に側にいてくれる存在というのは心から欲するものであると同時に、絶対にあり得ないと思ってしまうものだったから。  今の彼女も、僕が「それじゃあ、いっそ結婚しちゃおうか」と言った瞬間、ちょっとびっくりした様に目を見開き、その後少し戸惑いの色がその瞳に浮かんだのを僕は見ている。彼女にとっては半年前にされたばかりのプロポーズをここで蒸し返されるとは思っても見なかったのかもしれない。だから、びっくりするのはまだわかる。でもその後の戸惑いは一体なんなのだろう? 「僕は、榛名の返事をどれくらい待てばいいのかな?」  ため息まじりに僕は聞いた。とりあえず、先程の彼女のリアクションから、あまり多大な期待は抱かない方がよさそうだ。  僕の問いかけに彼女はしばらく逡巡した後、なにかを指折り数え始める。指が一本、二本…… さらには鞄の中から手帳みたいなものを取り出して、何事か調べ始めた。何を調べているのかと思って、覗き込もうとしたら、あわてた様に閉じてしまった。でも一瞬かいま見得たそれはなにか折れ線グラフ見たいなものが書かれていた。 「スケベ! 何見てるのよ」 「何って……」  僕の視線はすでに別のところに移っていた。彼女はさっき起きたばかり。つまりその…… 彼女の格好は夕べのままなわけで、夕べは…… だから……。彼女はその裸の胸に直接先程の手帳みたいなものを抱く様にして抱えている。手帳を追った僕の視線の行き着く先は……。 「那智のドスケベ!」  次の瞬間にはものの見事に僕の顔面を枕が直撃していた。  結局彼女がだした返答期限は一カ月先。指一本を差し出して見せる彼女に「一日?」と聞いた僕は思いっきり頭を叩かれたのだった。もっともそのため、ずり落ちたシーツのおかげで僕はまた、目の保養をさせてもらったのだけれども。ねぇ、そろそろ服着ましょうよ。榛名さん。  その後僕らは店のカウンターに移動して話を続けた。もちろん彼女は服を着て。 「ひと月ってずいぶんと長いじゃない」 「う〜ん、悪いとは思うけれど、その頃にならないといろいろとはっきりしないのよね」 「はっきりしないって何が」 「いろいろよ」  そう言う彼女の口元には悪魔的な笑みが浮かんでいる。こういう時はろくな事がない。 「榛名がそういう顔する時って、なにか企んでいるに決まっているからね。僕としては後顧の憂いを無くすためにも、ここでそのいろいろって奴をはっきりさせておいてほしいんだけど」 「いろいろはいろいろよ。いろいろあるからいろいろって言っているの。いちいち説明なんてできないわよ」 「そんな早口言葉見たいに……」  彼女がなにかを企んでいる時はいつもそうなんだけれども、この時も僕は、彼女が何を考えているのかさっぱり読めなかった。それがいつも僕を不安に陥れるのだけれども彼女はわかっているのだろうか。  不安げに彼女を見つめる僕の肩をパンパンと叩くと、榛名はニッコリと微笑む。 「なんて顔しているのよ。大丈夫。那智の悪い様にはしないから」  そんな彼女の言葉でも僕の抱える不安を消し去る事はできなかった。そんな榛名に僕はこれまでいろいろと騙されてきたのだから。もっとも本当に悪い結果をもたらした事はないけれど、その過程が問題なんだ。  それに僕にはずっと引っ掛かっていた懸案がある。これまでも何度か問いただそうと思ったけれど、思い止まってきた。それは僕が問い詰めたからではなく、彼女に自分の意思で言ってもらいたかったから。 「榛名、一カ月も待たなければいけないのは会社の人となにか関係している?」  僕の質問に彼女は一瞬きょとんとした後、訳がわからないといった感じで笑った。 「全然関係ないわよ。なんで会社の人が関係してくるの?」  あれ? 僕の思い過ごしなのだろうか? あっけらかんとした彼女の返答に僕は毒気が抜かれた気がした。一瞬このまま続けていいものかどうかと悩んだけれども、この際だ、乗り掛かった船とばかりに僕は言葉を続ける。 「榛名、春の歓迎会で会社の人に抱きつかれたんだろ?」  僕の言葉に途端に彼女の表情が凍る。まさにピキン!とか音を立てそうなくらいに。その後無理に笑おうとして彼女は失敗し、さらに顔を引きつらせる。 「そ、それは……」 「別に榛名が誘ったとか、浮気したとか言っているわけじゃないんだよ」  僕の口からため息が漏れる。彼女の今の様子はまるで後ろめたい事があるのを、自分で認めているみたいだ。いや実際後ろめたいんだろうけれど。  彼女の動揺が演技である可能性は否定できないけれど、今は浮気を演じて見せる必要はないはずだ。となると彼女がここまで動揺するわけは……。 「そのときは抱きつかれはしたけれど、それ以上なにもなかったんだろう?」  あくまで穏やかに話す僕に少し安心したのか彼女の様子も落ち着いてきた。 「な、なんで那智がそのこと知っているのよ……」 「目撃者がいたんだよ。偶然同じ店にね」  榛名ががっくり肩を落とす。顔が俯き加減になり、ちろちろと顔色を窺う様に上目づかいに僕の方を見る。 「誰?」 「リュウ……」  彼女は僕の答えに思いっきり突っ伏した。  リュウ、酒匂蒼龍は僕の親友とも呼べる奴で、彼はその日、街で引っかけた娘と飲みに行って、偶然男に抱きつかれている榛名を目撃したのだと言っていた。彼の実家はヤクザ業を営んでおり、そのせいか地元企業の情報にも詳しい。僕にそのことを話に来た後、酔いに任せて榛名の勤める出版社の裏事情をいろいろと話して言ってくれた。それを聞いて僕はもう榛名をそこには勤めさせてはおけないと思った。つまりはそういう会社なんだ。 「なんで、そんなところにいるのよ〜、アイツ」  思いっきり脱力している榛名には悪いと思ったけれど、僕は一気に畳みかけてしまった。 「で、そのことを今まで僕に話してくれなかったのは、何故かな? ひょっとしてその後その人となにかあった?」  榛名を信用していないわけじゃない。でも榛名の勤めている会社は信用できない。  僕の言葉に榛名はあわてて顔をおこし、これでもかというくらいにブンブンと首を振る。その様子があまりにもおかしくて思わず笑ってしまった。恨めしそうな目で彼女が僕の方を睨む。 「さて、そうなると本当に返事を一カ月も待たなくちゃならないわけがわからなくなったね。僕はてっきりその後にその人となにかあって、それを清算するのに一月くらい必要になったのかと思ったよ。」  それは、いつも浮気を仄めかされたりして、真綿で首を絞める様にジワジワといじめられてきたお返しのつもりだったのかもしれない。あるいは普段に比べてしおらしくなった彼女があまりにかわいくて、ついついいじめたくなったのか。気がつくと僕は言わなくていい事まで口走ってしまっていた。 「那智黒。あんたがわたしの事をどういった目で見ているかが良くわかったわ」  気がつけば、榛名は不動明王のような炎のオーラを背負って(実際にそんなものが見えるわけではないのだけれども)僕の目の前に立ちふさがった。こんなに真剣に怒った榛名を見たのは初めてだった。 「あ、いや…… 今のは冗談で……」  みっともないったらありゃしない。苦し紛れの言い訳をしながらも、僕は彼女のあまりの迫力に思わず後退った。こんな簡単に折れるくらいなら、最初っからちょっかいかけなければいいのにって声が聞こえてきそうだけれども、それには僕も同感だ。でも賽は投げられてしまった。一度口をでてしまった言葉はもう元には戻せない。そしてここは意地を張るべき所ではない。彼女の目には悔し涙さえ浮かんでいたのだから。  それを見た僕は、さすがに動揺した。彼女がそこまで過敏に反応するとは思いもしなかったからだ。あわてて慰めようと近寄った僕の手を彼女は払いのける。 「もういいわよ! 那智がわたしの事そんな女だと思っているなら、その期待に応えてあげるわよ! 本当に浮気してやるから!」  そう言うと彼女は出口に向かって駆けだす。 「待って、榛名! 僕が悪かった」  あわてて後を追おうとする僕の方を、扉の前で振り返る彼女。 「うるさい! もう知らない!」  彼女の右手が宙を切る。そして僕の顔面に今度は彼女の持っていたポーチが直撃した。あまりの痛さに僕が立ち直れないでいる隙に、彼女は扉を開けて外に飛び出してしまった。あわてて後を追ったけれども、店の外に出た時にはもう、彼女の姿は見当たらなかった。  仕方なく店に戻った僕は、のろのろと彼女が残していったポーチを手にとった。それを拾い上げた時、中身がばさばさと床の上に散らばる。きっとぶつけられた時に口が空いたのだろう。緩慢な動作で再びしゃがみ込むとそれらを拾い集める。なんでこんな事になっちゃったんだろう。まさに天国から地獄へ一直線。あれは当分口利いてくれないなぁ。  ポーチの中身をかき集める僕の目にふと見覚えのあるものが止まった。それは、榛名があの裸の胸に抱え込んだ手帳みたいなもの。勝手に見るのはプライバシーの侵害。それは人としての道にはずれる事。僕はしばらくの間躊躇したけれども思い切ってそれを開いた。いけない事というのはわかっているけど、どうしても気になることがあったんだ。  それは手帳なんかじゃなかった。ほとんどなにも書き込まれていないそれの中で一ページだけ記入のあるところ。それはあの時一瞬だけ僕が目撃したページだった。そのページに書かれた折れ線グラフは、横軸に日付が、縦軸に体温が設定されたもの。これは基礎体温表だ。  榛名って結構几帳面なんだ。毎日ちゃんとこんなものつけているんだ。今朝のもちゃんと記入されているよ。そのグラフは昨日がいちばん低いところにあり、今朝はそれが一気に跳ね上がっている。それの意味するところは……  僕はそれに気付いた瞬間、自分で顔が青ざめていくのがわかった。冗談じゃない。榛名が大丈夫だっていうから、夕べはまったく避妊していない。今の状況を考えるに、夕べのでできちゃった可能性が非常に高い。僕はこの時になって初めて彼女がひと月待てといったわけがわかった。それと同時に一ひと月たないとはっきりしないものが何なのかも。つまりは夕べの結果だ。多分、その結果次第で彼女は僕とすぐに結婚するか、もう少し先に伸ばすかを決めるつもりだったのだろう。  もはや喧嘩なんてしている場合じゃなかった。僕はあわてて彼女の携帯に電話をかける。途端に手元でコールが鳴り響く。アイツ携帯まで置いてったのか。僕は一瞬天を仰いだ後、そのまま続けて彼女の自宅にかけ直す。  まさかこんな事になるなんて思いもしなかった。全ての原因は僕のほんのちょっとした悪戯心から来たものだったんだ。  そもそもの始まりは那珂が、恋人である五十鈴高雄に振られた事から始まる。二人の決別が決定的になった時、彼女は僕の所へ来て泣いたのだ。元彼女で今は関係ないとはいえ、生まれた時からのつきあいである那珂を僕は突き放す事はできなかった。もうじき榛名が僕を訊ねてくる事はわかっていたけれど、話せばわかってもらえるだろうと、そのまま僕は那珂に胸を貸していた。  榛名が悪戯心をおこして正面から入ってこなかった事も要因の一つだ。彼女は(多分僕を驚かそうとしてのことだと思うのだけれども)裏口から進入し、居住スペースを抜けて僕の前に現れた。正確には姿を現したわけではなくて、物陰から僕と、僕の腕の中で泣いている那珂の姿を盗み見たにすぎない。そのときすぐに僕が反応すればよかったのだけれども、泣きじゃくる那珂を放ってはおけなかったし、それに僕の心の中にちょっとした悪戯心と打算が動いたのだ。  僕は思った。ちょっとだけ榛名を驚かしてやろう。今の状況を見て彼女が浮気じゃないかと思ってびっくりすればしめたもの。いつもそうやっていじめられているから、たまには仕返しするのも悪くないだろう。それにもし僕を那珂にとられるかもしれないって不安を感じてくれれば、彼女も焦って結婚を承諾してくれるかもしれないって。  今にして思えば浅はかだった。結果的に僕は榛名を必要以上に追い詰めてしまった。そしてそれにも気付かずに彼女を深く傷つけてしまったのだ。  一回…… 二回…… コールが鳴り響いた後、ガチャッと受話器の上がる音。 「はい、霧島です」 「あ、羽黒ですけれども、榛名さんお帰りに…… 」  そこまで話して僕は気付いた。彼女は荷物を全てここに置いていってしまった。家に帰るのであれば歩いていくしかない。徒歩だとここから彼女の家まで一時間近くかかる。彼女が姿を消してからまだ十五分程度。到底家に着くのは無理だ。 「あれ? 那智兄ぃ? 俺よ、俺。鈴谷。なんかあわててるみたいだけどどうしたの」  電話に出たのは榛名の弟、霧島鈴谷だった。こいつは一時僕の店でバイトしていたから気心がしれている。そう言えば榛名の両親は夕べいないっていっていたっけ。 「鈴(リン)、榛名が帰って来たら連絡ほしいんだけど」 「あれ? ねえちゃん? 夕べ帰って来ないからてっきり那智兄ぃの所だと思ったのに〜。違ったの?」  好奇心に満ちた彼の声。なにも知らないのだから無理ないけれどものんびりとしたそのしゃべりが僕の神経をいらだたせる。どうも一度榛名に感情コントローラーを壊されてから、喜怒哀楽が激しくなった様な気がする。最近特にイライラを抑えきれなくなりそうになる。 「余計な詮索はするな。いいか、榛名が帰って来たら必ず連絡くれよ」 「ふ〜ん、そう言うところを見ると、やっぱねえちゃん泊まったんだ。ひょっとしてやっちゃった?」  受話器を置こうとした僕の耳に相変わらずのんびりとした鈴の声が屆く。それをあえて無視して僕はそのまま受話器を置いた。何がやっちゃっただ。あゞ、やったよ。そのうえほぼ間違いなくお前の愛するねえちゃんとやらを孕ませちゃったよ。そう言ったらアイツはどんな顔するだろう。  その日、鈴からの連絡はいつまでたってもこなかった。夜も十時を回ったころ、とうとう待ちきれなくなってこちらから電話をしたがそのときの鈴の返答は僕に大きなショックを与えた。 「ねえちゃん? まだ帰って来ないよ。っていうか今日も帰らないって。さっき電話があった」 「帰らないってどういう事だ?」 「さぁ? 詳しい事は何にも話さなかったから。俺てっきりまた那智兄ぃの所に泊まるんだと思ったから特に追求しなかったんだ。違うの? 那智兄ぃ? 聞いてる?」  僕は思わず受話器を取り落としそうになった。今日も帰らないだって? 一体どこに泊まる気なんだ? 「本当に浮気してやるから!」  榛名の言葉が頭の中にこだまする。まさか榛名の奴本当に? 冗談じゃない。今の榛名の状況で本当に浮気なんかされたら……  気持ちは焦るが僕にはどうすればいいのかまったくなにも思い浮かばなかった。僕は店のカウンター席に座り、自分がどうするべきなのか一晩まんじりともしないで考え続けたのだった。 Epilogue  静かに祝詞が流れ、僕と榛名は固めの杯を交わした。今日は僕と榛名の結婚式だ。榛名と初めて愛を交わした日から四カ月。ここに晴れて僕らは夫婦となった。周囲は僕らの電撃結婚に驚いたみたいだけれども、きっとその理由を聞けばさらに驚いた事だろう。なにせ榛名のお腹の中には僕の子供が宿っているのだから。  この四カ月、本当に大変だった。失踪の翌日、榛名は家に帰って来たけれども、ひと月の間一切僕と連絡をとろうとはしなかった。こちらからいくら電話をかけても居留守を使われたり、電話に出ても一言も口を聞く事なく切られたりで取りつく島もない。彼女の家まで訊ねていった事もあるけれど、全て門前払いだった。何度鈴の奴に同情のこもった目で見られながら「ごめん、会いたくないって」と言われた事か。  それが一月たったある日、彼女はひょっこり僕の店にやってきたのだ。そして悪魔的な笑みを浮かべながら一言。 「出来ちゃった。責任取ってよね」  僕は一月前の不始末をわびると共に、その翌日どこに泊まったのかを彼女に訊ねた。いまさらお腹の子の父親を疑うつもりはないし、それを理由に彼女と別れるつもりもない。全ては僕の不始末が招いた結果なのだから。でもそれだけはどうにも気になっていたのだ。  僕を見つめる冷やかな視線に耐えながら、僕は彼女の答えを待った。彼女の口元にシニカルな笑みが浮かぶ。 「ふ〜ん。やっぱり気になるんだ。そうだよね。その返答次第ではお腹の子が那智の子じゃない可能性が出てくるんだもんね」 「違う。そんなんじゃない。例え事実がどうであろうと、お腹の子は僕の子だ……」 「だったらそんな事どうでもいいじゃない。仮にもし、ここでわたしが、その日浮気しました。どこの誰とも知らない行きずりの男とホテルで一泊しました。なんて言ったら、那智はわたしを許せる? それでもわたしと結婚してうまくやっていく自信ある」  榛名の言い分に僕はなにも言い返す事が出来なかった。あの夜の行動を榛名に問う時、僕の中で期待した答えはただ一つ。単に僕は彼女が浮気していないとそう一言言って欲しかっただけなのだ。考えている様でいて、実際には彼女が本当に浮気した場合の事なんて、これっぽっちも考えていなかったのだ。  カラン!  険悪な雰囲気のまま向かい合う僕らの横で、突然、カウベルが鳴り響く。 「どぉ? 仲直りできた?」  澱みきっている店内の雰囲気をものともせずに、あっけらかんとした態度で入ってきたのは那珂と…… 何故か酒匂だった。二人は店内に入ってくると僕らの雰囲気をまったく感じ取っていないのか、ツカツカと僕らに歩み寄る。そしていきなり僕は那珂に背中をバンバンと激しく叩かれた。 「なっちゃん、この一カ月の間のモヤモヤも一気に吹き飛んだんじゃない? 榛名も人が悪いよねぇ。いくら怒れたからって、私の所に泊まったのひと月も隠しているなんて」  えっ? 榛名ってあの日那珂の所に泊まったの? 僕はびっくりして榛名の顔を見る。さっきまでとはうってかわって、苦笑を浮かべる彼女。 「那珂、ばらすの早すぎ。まだネチネチといじめていたところだったのに」  そんな榛名の言葉に今度は那珂がえっ? という顔をする。 「あんた、まだそんな事やってたの? 性格悪すぎ」 「そうは思ったんだけどね。だって本当に悔しかったんだもん。あれでわたしだって結構傷ついたんだからね」  そう言って最後にちらっとと横目で僕を見る彼女。そんな彼女の言葉に、僕はただただ恐縮して小さくなった。途端に店中に酒匂の笑い声が響きわたる。そう言えば、なんでこいつがここにいるんだ? 「那智、お前絶対に一生尻の下に敷かれるな」 「なんで、リュウまでここにいるんだよ」  ちょっとすねた様な声になってしまったけれども仕方ない。こいつとは親友である以上にライバル見たいなところがあるし、できればこんな姿を見られたくなかった。 「なんでだって? 決まってるじゃないか。自分の仕掛けた罠の首尾を見に来たんだよ」 「罠?」  問い返す僕に、リュウの奴はしたり顔で頷く。 「お前、俺が話したハルちゃんの会社の話し、まだ信じてる?」 「えっ?」 「酒匂〜、あんた一体何那智に吹き込んだのよ」  酒匂の言葉に僕と榛名が同時に答える。 「ハルちゃんの会社は特殊な業界だから社内の男女関係なんて乱れきってるって。会社に女の子なんかが泊り込んだ日には、確実にだれか男性社員に喰われちゃってるよって。うちの組はいつもそれでトラブった時にもみ消しやってやってるから、これまでどんなことがあったか全部知ってるって言ったら、こいつ全部信じ込んじゃってさぁ」 「う…… そなの?」 「そんな事ある訳ないじゃない。そんな会社だったら即日でやめてるわよ!」  あ、また頭叩かれた。 「酒匂ァ、あんたなんでそう那智に変な事ばかり吹き込むのよ。会社の事と言い、飲み会のことといい」  怒り心頭に発している榛名は僕の頭をそのまま抱え込み、髪の毛をむしっている。痛いってば、榛名さん。  そんな彼女の怒りを余所に、リュウの奴は涼しい顔をして僕らを見ている。 「そりゃ、あんた。それで那智がハルちゃんに愛想尽かして別れたとするだろ? そしたらハルちゃんは俺の胸でその痛みを癒すわけだ。そしたらハルちゃんはもう、俺のもの」  ブチッ!  頭でいやな音が響くと共に、激痛に見舞われる。 「絶対にあんたのものになんかならないから! 卑怯もん!」  榛名さん、お怒りはごもっとも。僕もこんな状態でなければ文句の一つも言ってやるところだ。が…… 「っと言う冗談はさておいて」  リュウ、その台詞遅すぎ。むしられた僕の髪の毛をどうしてくれるんだ。 「お前ら全然進展してなかったろ? 付き合いだして一体何年になると思ってるの?」 「高二の時からだから、そろそろ六年よね」  いつのまにか那珂も酒匂の隣に並んでいる。一体なんなんだこの二人。 「情けないにもほどがあるからちょっとだけ後押ししてやったんだよ」 「余計なお世話! それに何よ後押しって」 「いつだったか、誰かさんのいたずらに振り回されていたサ店のマスターがぼやいているのを聞いたんだよ。恋愛にとって嫉妬が一番のスパイスだって。そう思わなきゃ、やっていけないって。」 「誰と、誰のことよ!」  このまま放っておくと、どんどん榛名がヒートアップしそうだ。でも僕、そんな事言ったかな? 「わかっているくせに。で、まあそういうことならちょっと誰かさんがヤキモチやく様な状況をお膳立てしてやれば、少しは進展するんじゃないかって。なっ?」  最後の「なっ?」 は那珂に向けられたものだった。 「偶然なのよね、龍ちゃんとわたし、同じ事考えちゃったのは」 「りゅ、龍ちゃん?」 「ちょっと那珂、龍ちゃんって何よ」  奇しくも僕と榛名の声が重なる。 「へへ、実はなっちゃんの胸で泣く前に、実は龍ちゃんの胸で散々泣いちゃったんだなぁ。これが」 「で、まぁ、こいつは今じゃァ俺の女ってわけだ」  そう言いながら照れくさそうに笑う二人。 「それじゃぁうちに来て泣いた時は……」 「えへ、あれは演技。榛名が来る事がわかっていたから、ちょっとそっちにもスパイスを……」  満面の笑みでそう答える那珂に僕らは顔を見合わせる。 「どうしてわたしが那智の所を訊ねるのがわかったのよ」  そう聞いた榛名に酒匂がニヤリ。そのまま電話機の所へ歩いていく。彼が電話の下から取り出したものは…… 「あ〜、盗聴器!」  小さな板状のそれを得意気にぶら下げながら酒匂の奴は戻ってくると僕らに向かってニヤリ。 「これ、結構聞こえるもんなんだな。」  なんてことだ。電話も全部この二人に聞かれてたってことか。酷いプライバシーの侵害だ。思わず怒りに拳を握ると、榛名の奴も同様にそうしているのが目に入った。 「まあ、これでちっとばかし二人の仲が進展すれば御の字と思っていたんだけれども、まさか結婚までこぎ着けちゃうとはね」 「しかも赤ちゃんまで……」  うれしそうな顔の酒匂と、あきれ顔の那珂。  結局、榛名を騙して? 少し焦らせる事で早期の結婚承諾をえようとした僕、僕を騙して、子供を身籠もり、強制的に僕と結婚しようとした榛名。僕の目論見はある程度成功し、結婚にこぎ着ける事ができた。おまけがついちゃったけど。榛名にいたっては騙すつもりが騙されて……  でも、そんな僕たち二人とも結局は目の前のこの二人に踊らされていたなんて。  僕と榛名は顔を見合わせる。どちらの顔も怒りで真っ赤だ。 「どうしてくれるんだ、結婚してもしばらくは二人でのんびりするつもりだったのに」 「どうしてくれるのよ、もう少し独身気分で自由を楽しむつもりだったのに」 ぶつぶつと口の中でつぶやき会う僕たち。僕と榛名は同時に二人の方へと向き直る。 「ぼ、僕の……」 「わ、わたしの……」 『青春を返せ〜!』  またしても、僕らの声は重なり合い、店の中に響きわたったのだった。 End