小説 大浅蜊                                      とっと  どこまでも蒼く続く海原から、白い砂浜に静かに寄せる女波。それを追い、大きく覆いかぶさる様に寄せる男波。それは果てし無く続く男と女の追いかけっこを見ている様だった。寄せた女波は男波が覆いかぶさる前にスルリと身をかわしちまって寄せた時と同じように静かに引いていく。かわされて行き場をなくした男波はその鬱憤を晴らすかの様にしぶきを上げ、すごすごと引き上げていくんだ。そして荒々しい男波が去るとまた静かに女波が寄せてくる。  って、俺にしちゃあえらく情緒的なことを考えていたのは、少し離れたところで貝殻を拾い集める女のせいだ。本当はこんな台詞は那智の野郎の専売特許で、俺様はもたもたしている男波に唾でも吐きかけ、「なにやってんだ馬鹿野郎! さっさと押し倒さねぇか」ぐらいの事を叫んでいる方が似合う。男は行動あるのみ。それが俺のモットーだ。 「その割には榛名には想いも告げることなくじっと見つめたままの片思いだったのよね」  おわっ! いつのまに……。  気がつけばさっきまで貝殻を拾っていたはずの女、青葉那珂が俺の隣でニヤニヤと笑っている。俺、声に出していたか? 「リュウちゃんの事なんて全部お見通しよ。一体何年の付き合いだと思っているのよ」  こいつエスパーかと思うぐらいの洞察力で俺の思考を読み取る奴。侮れん。 「九カ月」  俺がそっぽ向いてそう言うと、那珂の奴わざわざ回り込んで俺の目を覗き込みやがった。 「それは付き合い出してからでしょ? 友達していた時から数えれば八年よ」 「友達時代は関係ぇねぇだろ」  そうぼやく俺にこいつはクスリと笑う。どっかの製薬会社のキャラクターじゃねえんだからな。やめろ! そのクスリ、クスリって笑うのは。 「ちゃんと友達自体からリュウちゃんの事も見ていたよ。友達としてだけどね。だからやっぱり八年」 「友達としてと男としてじゃ違うだろ」 「でもどういう人かはだいたいわかるもん」  俺は深い溜息をつくとポケットから煙草を取り出した。 「喫煙反対! 砂浜にごみを捨てるな」  そう言われて俺は反対側のポケットから携帯用の灰皿を取り出す。  なんか締まらねぇよな。この携帯灰皿って。格好つかねぇじゃねぇか。 「ねぇ、リュウちゃん見て」  那珂はそう言うと俺の目の前で手のひら一杯の貝殻をザーッと白い砂の上にこぼした。大きいのや小さいの、白いのやピンク色の……。様々な貝殻が勝手気ままに砂の上へとこぼれ落ちていく。その様子を見ている那珂の目を見た時、初めて二人でここへ来た時の事を俺は思い出した。  あれは那珂が五十鈴に振られたばかりで、俺たちが付き合い出してまもなくの事だ。付き合っているとはいっても俺たちの間にはまだ不確定要素が多かった。俺はそれまで心に決めた恋人ハルちゃんの事が忘れきれずにいたし、こいつも五十鈴の事をまだ引きずったままだった。  あっ、誤解のない様に一応断っておくけど、さっき那珂の奴が言った様に俺とハルちゃんこと霧島榛名は別に付き合っていた訳じゃねぇ。俺の片思いだっただけだ。ただ、惚れられるより、惚れろが俺としてはモットーだから誰がどう言おうと俺にとっては心の恋人って訳だ。ちなみに那珂と五十鈴はちゃんと付き合っていて全盛期にはベタベタ、あまあまのカップルだったが五十鈴の野郎がドジ踏んだおかげで那珂は失恋する羽目になった訳だ。その辺のところは「のがすなチャンスを」でも読んでくんな。  とにかくそんな時に此処に二人で来たのはお互いにけじめをつける為。那智の野郎とハルちゃんが以前、ここで永遠の愛を誓ったという話を聞いて俺もそうしようと思ったんだ。このことは「喫茶吾眠の日常」の二話を読んでくれよ。俺はそう言うのいちいち説明するのかったるくていやなんだ。  てなとこで話を戻すけどよ、何せこの浜の名前は恋路ヶ浜。ぴったりじゃねぇか。これから愛を深めようとするカップルにとってこれ以上の場所は無い。でもこの時は失敗だった。  知っている奴も多いかもしれねぇけれど、この浜は椰子の実で有名になったところだ。島崎うんちゃらとかいう人が流れ着いた椰子の実の話を聞いて詩にしたのが始まりらしい。だから近くには椰子の実の碑なんてものまである。で、この椰子の実がネックだったんだ。那珂の奴、それを見てこうぼやきやがった。 「わたしたちの想いってちゃんとお互いに行き着くのかなぁ?」  俺は思わずはぁ? と間抜けな返事をしちまった。まったく「いんてりげんちあ」って奴は……。俺みたいなシンプルな人間には理解できかねる様な事を時々仰る。そう言えば那智の野郎も高卒の癖して学士様の俺よりもインテリだなぁ。まぁ、いいや。今時インテリヤクザもはやんねぇよ。知ってるやつも多いと思うが俺んちの家業は地道に土着のヤクザ様だ。知らなかった奴は覚えとけよ。 「この歌の椰子の実見たいにちゃんとお互いの浜に流れつけばいいけど……、どこにもたどり着くことなく永遠に漂う事だってあるんだよね」 「まぁ俺の場合、浜にたどり着けるのは何億って言う内のたった一つだからな。あとはさまよい続けるしかないのさ」  俺の冗談に那珂はクスリとも笑わなかった。こう言うのをすべったって言うんだろうな。まぁ俺のギャグがすべるのはいつもの事だけどよ。どうも俺様の大人なギャグはお子さまには通じないらしいから。でも、ここですべったのはちと痛かった。二人の間に沈黙という名の気まずさが漂う。 「ば〜か……。ドスケベ」  長い、長い間のあとに那珂はそう呟いた。なんだ意味わかってんじゃねぇか。だったらもうちょっと思いやりのある反応しろよ。ほっぺた染めてよ、両手を当てて「イヤン! エッチ」とかいって身をくねらせるぐらいのサービスしても罰は当たらねぇと思うぞ。  それにしても畜生! こう言う時、那智の奴なら黙っていてもその存在感で癒してやる事が出来るんだろうけど、俺には到底そんな真似は出来ない。那珂も那珂だ。この俺様が面倒見てやるって言ってやってんだぞ! お前だってお願いしますって言ったじゃねぇか! いい加減うじうじするのやめて裏切られた男の事なんか忘れちまえよ!  ――って言っても無理な話だ。この時はこいつ、五十鈴と別れてまだ三日しかたっていなかったんだから。もともと情が深い奴だけに簡単には割り切れねぇんだろうよ。まぁそういう女は俺の経験から言えば、一度ものにしたらとことん尽くしてくれるからな。こればっかりは気長に待つしかないってことだ。  そん時はそう自分を慰めたんだっけ。  今、目の前で貝殻を散らすこいつの目が、その時の海を見ていたそれと重なる。  こいつ……半年以上経つのにまだ吹っ切れていねぇのか。  那珂は全ての貝殻を砂の上に散らすと、またそこにしゃがみ込んでそれをいじり出した。まったくこいつのやる事はよく判らん。こんなんで俺、よく付き合っていられるよなァ。まぁ行動が読めねぇ分、退屈はしねぇけどよ。 「リュウちゃん、知ってる?」  那珂が貝殻をいじりながら俺に問いかける。 「恋路ヶ浜ってね、昔、許されぬ恋に逃避行を重ねた男女がたどり着いた場所でね、その二人はここで貝になっちゃったんだよ」 「初耳だな」 「そういう言い伝えがあるの。だからだと思うんだけどね、ここを訪れたカップルは別れるって言う噂があるのよ」  ゲッ! ヤバいじゃねぇか。そう言うのは来る前に言えよ! 「この貝殻は、そんなふうにして別れたカップルの愛の残骸なのかしらね。別れてしまったカップルのそれまでの想いがみんな此処に打ち捨てられて、時間と言う名の波に洗われて浄化されていくのね、きっと……」  そう言った那珂の顏はとても儚げで、使い古された表現ではあるけれど、そのまま海の泡となって消えてしまいそうな感じがした。っておお、俺も結構いけるじゃん。ちょっと詩的な表現? でもこれって人魚姫か。  那珂が人魚になったら……。当然胸は貝殻だけで、下半身は……、下半身は……、だめじゃねぇか! 人魚になったら抱けねぇじゃん。  あぁ、ついつい考えが横道にそれるのが俺の悪い癖。それもそれる時はいつもあっち方面だからなぁ。こいつ、俺がいま何考えていたか気付いていねぇよな? 「人を想う気持ちって、きっと心の中からこぼれ落ちて、椰子の実になるんだよね。そうやって海原を漂い続けて世界中から此処に流れ着くの。たどり着いた椰子の実は貝殻になって、長い年月の間に朽ち果てていっちゃうでしょ。そうして脱け殻だけがこうしていつまでも波に洗われるんだよね」  普段威勢がいいだけに、こいつのこんな姿はなんていうか……、そそる。普段元気な奴がかいま見せる弱さって奴に弱いんだよなァ。五十鈴とのいざこざから九カ月。いまじゃ普段は元通りの元気な青葉那珂を演じているが、俺の前でだけは時々こういう顏を覗かせる。多分これは那智の野郎も知らないことだ。俺にだけ見せるって言うのが重要なんだよなァ。 「それならよ、お前も捨てちまえよ此処に。五十鈴への想いをよ。あんな奴の事それで忘れちまえよ」  那珂をこんなに弱気にさせるのは五十鈴の事なんだろう。俺はそう思って言ってやった。ここが儚い想いの集まった浜だって言うのなら、そこに全部余分な想いは捨てていけばいい。  俺の言葉に那珂は、それまで集めた貝殻を弄んでいた手を休め顔を上げる。儚げに見えたその顏にニタァとした笑みが浮かぶ。な……なんなんだこいつ。まさか壊れちまったんじゃないだろうな。  俺の困惑を余所に中は一つの貝殻をつまみ上げる。 「これがね、わたしと高ちゃんの想いの脱け殻……」  白くて大きなそれは、多分巻き貝の一種で尻尾の様に伸びた先からいくつも枝の様なものが突き出している。脱け殻というよりは、まるで白骨死体の様だった。 「――別れる時に散々すったもんだしたからこんなにとげとげになっちゃったんだね。きっと……」  那珂の奴は白骨死体の尻尾を掴んでしばらくの間ぷらぷらさせていたが、不意にそれをぽ〜んと放った。これでもかと言うくらいに高く放り投げられた白い貝殻が吸い込まれる様に蒼い空に溶け込んでいく。「バイバイ」と小さな声で呟いたあと、今度は小さな薄桃色の貝殻を那珂は手にとる。 「これがね、わたしとリュウちゃんの想いがつまっていた貝殻……」  オイオイ、俺たちの想いもすでに脱け殻なのか?  俺の突っ込みにこいつは小悪魔の様な笑みを浮かべる。 「人の想いなんてね、日々変わっていくもんなんだよ。だから同じ人を好きでいても昨日の想いと今日の想いは別物なの」 「昨日よりも今日の方が、そして今日よりも明日の方が俺のことをもっと好きになるってか?」  俺の入れた茶々に那珂はニヤニヤと意味深な笑みを浮かべるばかり。 「相変わらず凄い自信だね。でも古い想いはどんどん朽ち果てて空っぽになっていっちゃうんだよ」  そう言って薄桃色の貝殻を那珂の奴はまた拾い集め始める。それは直にこいつの手のひらを埋めつくし、今にも溢れんばかりになった。 「それが全部、俺とお前の想いの脱け殻なのか?」 「――多分」  俺の問いかけに那珂が曖昧に笑う。  こいつの足元に散らばる、同じような貝殻を俺は指さしていう。 「こいつもか? それと其処のもか?」 「――きっと」 「すげぇ数だな」  俺がそう言うと那珂は困った様に笑った。そんなこいつがおかしくて俺も笑った。 「毎日新しい想いが生まれるんだもん。あっと言う間に一杯になるよ」 「それにしてもよ、これだけの想いが朽ち果てたとなるときっと俺たちの心の中もスカスカになっちまうぜ」  俺がそう言うと那珂の奴はぷーっと膨れた。 「そしたらその分また埋めていけばいいんだもん」  そうだな。そうやっていけばいつも新鮮な気持ちでいられるかもしれない。出来れば長く付き合いたいもんな。朽ち果てていく古い想いを、毎日新しい想いで埋めつくしていってやろうじゃないか。常に心の中がお互いの想いで一杯になる様によ。  俺の言葉に那珂が嬉しそうに頷く。 「と、いう訳でさ。新し想いを補充しに行こうぜ」  俺の指さす先にあるのは「焼き大浅蜊」の看板。 「もう、ムード無いなぁ。リュウちゃんの食いしんぼ!」 「いやなら俺ひとりで食ってくるぞ。貝は空っぽよりも中身がつまっている方がいいから」  そう言って歩き出す俺のあとを那珂があわてておってくる。 「ずるい! わたしもおなか空いてんだから」  色気より食い気ってのもどうかと思うが昼間はそれでいいじゃねぇか。日が落ちれば食い気より色気になるってもんよ。  先を行く俺の腕を捕まえながら那珂が言った。 「言い出しっぺはリュウちゃんなんだから、ここはリュウちゃんの奢りね」  ハイハイ。まったく安上がりな女だよ。お前は……。 了