勝手に連動企画 喫茶「吾眠」の日常 第五話 『緑』 23歳 秋                                       とっと  榛名は僕との結婚が決まった途端、地元の営業所に配置転換になった。結婚と同時に妊娠も発覚したため、戦力外通知を受けたのだ。本人はまた復職することを考えているみたいだけれど、育児休暇を終えた彼女に戻る場所があるかどうかは、今の景気を考えた時に疑問だ。まぁ、復職は無理と考えていた方がいいだろう。  彼女があまり希望的観測を持たないように、そう僕が告げると、彼女はものすごくいやな顔をする。 「結婚するからって、一生家に縛りつけられるのはごめんですからね」  まぁ、たしかに僕も彼女が一生主婦として家を守っていくタイプではないことは理解しているし、それもいいのだけれど。  僕の心配事は別にある。それも二件。一つは彼女の帰りが遅いこと。そして彼女はその理由を絶対に「仕事」としか言わない。閑職に追いやられた彼女に残業するほど仕事があるとは思えないのだけれども、それでも「仕事」で遅くなる日が月に何日かあるのだ。  もう一つは夜の生活。僕らは新婚であるはずなのに、これがほとんどない。と言うのも結婚前にたった一度の過ち? で彼女が妊娠してしまったから……。別にだからといってしちゃあいけない訳ではないのだけれども、なんとなくお腹が気になってしまうのだ。それでやっぱりなんとなくそっちも間遠になってしまう。  そんな僕らの新婚生活の中で、その二つは一見かけ離れているようでいて、実は密接にからみ合っているんじゃないだろうかと思う時がある。それは単なる邪推で、根拠もなにもないのだけれども。端から見れば新婚ホヤホヤ。幸せの絶頂期。そんな時に彼女を疑うというのは、幸せな時ほど悪いことを考えるという、アレだろうか?  僕のそんな邪悪な思想を打ち破るように響く電話のベル。今じゃあ珍しくなりつつある公衆電話。でも昔みたいなピンク色ではなく、グリーンのやつだけれども。携帯電話が発達した今、これを使うお客はほとんどいない。 「はい、喫茶吾眠です」 『ああ、那智? 今夜もちょっと残業するから。終わるの八時ごろになると思う』  いつもの残業コール。なんかコレって普通と逆だよね。それに最近は物騒だからあんまり遅くなると心配なんだけどなぁ。まぁ八時じゃぁそんなに遅いと言うわけでもないけれど。それでもこんな田舎町だと、八時になれば大概のお店が既にしまってしまう。  普段ならば夕食を仕込みながら、彼女が帰ってくるのをじっと待っているんだけれども、今日はなんとなくいやな予感がして、僕は彼女を迎えにいくことにした。  ローカル線で五分。その後路面電車に揺られること五分。公共の交通機関を使えばそんなに遠いところではない。電車に揺られる間、彼女とすれ違わないように窓の外に目を凝らしていた僕にとってはあっと言う間の時間だった。  路面電車の駅から徒歩二分。薄暗い路地を入ったところに彼女の勤務先がある。三階建ての小さなビルで、中央に社名の描かれた玄関があり、後はいくつかの窓があるだけ。飾りっ気もなにもない古びたビルは、いくつかの窓を除いて、皆電気が消えている。  彼女の部屋はどこだろう。そう思ってビルの窓を順に眺めていた僕だったけれども一つの窓で釘付けになった。  緑色のブラインドに遮られたその窓に写る一組の男女の影。女性の方は髪も長く、わりと背も高いようだ。ま、まさかね……。そう思いながらも僕はその窓から目が離せなくなっていた。  二つだった影はやがて一つに重なる。心臓がバクバクと音を立て始め、手のひらにも汗をかき始める。窓辺の影の片割れが彼女であると言う証拠はなにもないけれども、このとき僕はそれがそうであると言う妄想に取りつかれていた。ほら、よくあるじゃないか。奥さんの妊娠中に浮気って奴が…… あ、アレは旦那の方か……。  いつまでたっても離れない影に僕が目を離せずにいると、いきなりポンと肩を叩かれた。 「こら! 覗き魔」  振り返った先には意味深な顔で僕を見ている妻の姿があった。 「だめよ、わが社の最重要機密事項を覗き見しちゃ」  そう言って笑う彼女に僕も苦笑する。 「あれが最重要機密事項?」 「そうよ。所長と出入りしている印刷所の女性営業の不倫現場。そんなことで取引が続いてるなんてしれたらイメージダウンでしょ。にわか探偵さん。どうぞご内密にお願いします」  そう言ってぺこりと頭を下げる彼女。でも目は悪戯っぽく笑っている。 「もっともこの探偵さんは別の件で調査に来たみたいだけれどね」  そう言って僕のお腹をつつく彼女に僕は狼狽する。僕はただ、君を迎えに来ただけだよという言葉も彼女の次の言葉で遮られてしまう。 「で、どうでした。人妻の不倫調査の結果は」  もはやぐうの音もでない。無理に笑おうとする僕の耳がいきなり引っ張られる。 「まったくこの坊やは結婚して、しかも赤ちゃんまで作ったって言うのに自分の奥さんが信じられないのかしらね」  あきれ顔でそう言う彼女に僕は精一杯の弁明をするけれど、はなっから信じてはもらえない。 「嘘ついてもすぐにわかるの。この坊やは表向き寛大に見えて、その実すごく嫉妬深くて独占欲が強いことはわたしが一番よく知っているんだから」  そういう彼女の顔はそれでも楽しそうだった。それを見て彼女が怒っているわけではないと悟った僕が甘かった。安堵の色を見せた僕に彼女は悪魔的に微笑む。 「自分の奥さんが信じられない坊やにはお仕置きが必要ね」  そんな彼女に一歩引く僕の腕をしっかりと掴み彼女は言った。 「明日はお休みだし、ここのところご無沙汰だったから、今夜は三回ね」  し、親愛なる奧様。明日もお店は開けるんですけど……。 了