小説 Калинка                                      とっと ●1945年 オーデル河近郊ゼーロフ  1937年から38年にかけては、まさに凍てつく国土を思い起こさせるような冬の時代だった。当時、ヴァレリーは16歳の少年だったが、赤軍旅団長であった彼の父、リュドミール・ガミドフの言葉を借りるなら、それはまさに『狂人ジュガシビリの吐き出す吹雪がもっとも吹き荒れた時代』であった。この激動の時代に彼の父親も亡くなっている。 「だからよ、共産党なんて言うのは嘘っぱちだって言うんだよ!」  塹壕の中に籠もる同志が声をひそめながらも仲間に言い放った。 「連中が生産するのは同胞の屍だけさ。あとは大量の瓦礫。他のものは小麦も野菜も何もかもおれたちが作り、やつらはそれを掠め取っていくだけだ。共に産むものなんてなんにもありゃしない」  そう言うと男は穴からそっと顔をだし、目の前を流れるオーデル河の対岸に集結した赤軍を睨み付ける。そんな彼を見て、ヴァレリーも対岸の様子を伺った。  彼は赤軍自体を敵だと思った事はない。赤軍に属しているのも自分たちと同じロシアの善良なる者たちだ。だがそれを支配する共産党は敵である。自分たちは共産党と戦い、祖国を彼らから開放する為、敵であるはずのドイツ軍と共にここにいるのだ。  対岸にはソヴィエト全土から人を掻き集めたのではないかと思うほど兵があふれている。それは小さな丘に立てこもるドイツ軍はあっと言う間に飲み込まれてしまうのではないかと言う恐怖感を与えずにはおかないほどの威容を示している。先日までの牧歌的風景を作り上げていた田園はキャタピラーに踏みつぶされ、無残な姿をさらしている。それだけでも気が滅入りそうになるが、今、そこには不気味に黒光りする砲身が針のように立ち並び、明日にでもそれらが自分たちに向かって火を吐くことになることを考えればいくら勇敢な兵士でも多少の恐怖は感じると言うものだ。  ヴァレリーは直に首をすくめ、再び塹壕の壁に背をもたせ掛けた。  情けない。  塹壕に籠もりながらそう思った。  でも、ここでは死ねない。憎んでも憎みきれないあの男を倒し、祖国を共産党の魔の手から救うまでは。  崇高なる使命感は恐怖を抑える。  彼はそう思っていたが、実際に桁違いの兵力を見せつけられると手が震えるのを止める事が出来なかった。共産党を倒し、祖国を開放する為ならば死をも厭わないはずだった。それなのに何故こうも震えるのか? 今のヴァレリーにはわからない。  彼は恐怖心と戦うように小銃を抱えると塹壕の壁にもたれてうずくまった。 「でもよう……」  話し相手の男がヴァレリー同様に塹壕に身をひそめるのを待って、もうひとりの男が再び話しかけた。 「おれっちのところじゃ、立派に作り物をしていったぜ」 「連中が何を作っていったって言うんだい?」  そう問われて相手の男の表情には自虐的な笑みが浮かぶ。 「ガキンチョよ」  その答えに男はやりきれなさそうに首を横に振った。 「実はな、おれ、深夜のノックを経験しているんだ」 「ほんとかよ! 良く無事だったなぁ」 「女房のやつがな、窓からそっと逃がしてくれたんだよ」 「それにしたってよ……」  驚く男に相手の男はまあ待てと言うように手を振った。 「ちゃんとそれには裏があったのよ」 「裏?」 「つまりはデキてやがったんだな。女房と政治将校のやつが。でもギリギリのところで、さすがに亭主をシベリアに送るのは思い止まってくれたみたいでな、今ここにこうしていられるって訳さ……」  最後のほうは声に力がなかった。男はしばらくの間配給された唯一の武器であるドイツ製の小銃を肩にもたれ掛からせるようにして脇に抱えたまま、塹壕の中にうずくまっていたが、やがて「クソッ!」とつぶやくと、踵で足元の土を蹴りあげた。  男たちの会話を聞きながら、ヴァレリーは自分もこの男とさして境遇がかわらないことに気がついた。そして男の態度から、この男もまた、自分を裏切った女を忘れられないでいるのかもしれないと感じる。  所詮、ここにいるのは…… 「みんなよお、それなりの過去を持ってるんだよなぁ」  まるでヴァレリーの気持ちを代弁するかのように話し相手の男がつぶやく。 「よぉ、そっちの兄ちゃんもあのグルジア野郎には募る恨みがあんだろ?」 「こっち来て一緒にうっぷんはらさねぇか? どうだい兄ちゃんもおれっちみたいに、かわいいカリンカをスターリンの犬どもに取られたか? それとも血に飢えたあの殺戮鬼に家族を殺されたのか?」 「――どっちもだ……」  男たちへの返答は低く地を這うような声で紡がれたその一言だけであった。  それだけ答えると彼は再びその場にうずくまり、静かに目を閉じる。  あまりにそっけない彼の態度に男たちは肩をすくめたが、あまり気にすることなく再び話を始める。 「対岸に押し寄せているあいつらだって皆、スターリンの犬どもに追い立てられてやってきた連中なんだ。犬どもを始末して仲間を開放せにゃ」 「おうよ、祖国から卑劣なボルシェビキを追い出して、新しいロシアを作るのよ!」  そう意気込む男たちの耳に、やがて彼方からスターリンのオルガンと呼び、ドイツ兵が忌み嫌ったカチューシャロケットの甲高い音が届き始めた。 ●1941年 モスクワ 「悪いがもう貴様を娘と会わせる訳にはいかん」  先日までの親密さとは打って変わったような男の態度に、ヴァレリーは目を見開く。 「何故です? エゴール・ニコラエヴィチ。僕とナターシャは将来を誓い合った。あなた方もそれを認めてくださったではないですか。それなのに会わせられないとは一体どういうことです?」 「わしらはお前のことを認めた覚えはない! 帰ってくれ」  そう言うとエゴール・ニコラエヴィチ・イグナチェンコは彼を突き飛ばした。玄関前の石段を転げ落ちたヴァレリーは勢い余って石畳で後頭部をしたたかに打ちつける。それでも彼は痛みをこらえて飛び起きると、締まりかかったドアに飛びつく。そのまま無理に閉められようとしたドアに指をはさまれて、メキメキといやな音をたてる。さすがに彼も悲鳴を上げた。  家の奥からあわてた様な足音が聞こえる。だがそれはドアにたどり着く直前で目の前の男の手によって遮られた。  支えるもののなくなったドアから痛む手を引き抜く。その反動でゆっくりと扉が開いた。隙間から両手を広げなにかを制するようにして大声をあげるエゴールの背中と、それに見え隠れするような黒いスカートのすそが見える。 「ナターシャ!」  思わず叫んだ彼の声が、部屋の中のせめぎ合いをいっそう激しくさせる。父親に手を封じられ、身動きのとれない彼女は、それでもなんとか前にでようともがく。 「リェーラ!」  ナターリアの悲痛な叫びが耳に届く。その瞬間。  パーン!  乾いた音が室内に響きわたり、男の向こうでナターリアが崩れ落ちるのがヴァレリーにも見えた。 「ナターシャ!」  再び彼は女の名を叫ぶが、彼女はその場に泣き崩れるのみで、もはや彼の声には何も反応を示さなかった。 「ナターシャ……」  三度目に彼女の名前を口にした時、それはもう呟き以上にはならなかった。  ヴァレリーはその場にガックリと膝をつく。その隙にナターリアは父親の手で奥の部屋へと連れ戻されてしまった。そんな彼の肩にそっと手がさしのべられた。 「とりあえず手の傷の手当てを……」  そう言って彼に声をかけてきたのはナターリアの母だった。申し訳なさそうにそっとヴァレリーの手を取る彼女だったが、それでも彼が視線を向けると、ばつが悪そうに横を向いてしまう。 「どうして……」  そうつぶやく彼に、小さくかぶりを振りながらも、「とりあえず中へ」と彼女は招き入れた。  粗末な椅子に座らされ、ヴァレリーはナターリアの母から傷の手当てを受けた。その間、あまりに納得のいかない仕打ちに何度も彼女を問いただそうとしたヴァレリーだったが、避けるように一切視線を合わせようとしない彼女に、何を言ってももう無駄なのだと悟った。  包帯を結び終わると、もう帰りなさいと言うように彼を扉のほうへと押しやる。  去り際、振り返った彼が見たものは彼女の目に光る涙だった。一瞬、それに気を取られるうちに彼は強い力で押され、そのまま扉の外へと押し出されてしまう。固く閉ざされた扉を呆然と見つめる彼の背後にふいに人影が現れた。 「同志リュドミロヴィチ、こんなところでどうしたね?」  共産党員でないヴァレリーをあえて同志と呼んだ男が、彼の背後から鋭い眼光を差し向けた。振り返ったヴァレリーに少し顎を上げ、帽子の鍔の陰になった目を細める。 「ジェーニャ」  一瞬、愛称で呼ばれたことに男は顔をしかめたが、すぐに冷淡な笑みを浮かべた。幼なじみであるこの男は昔から彼のことをそう呼んだ。子供の頃はそれでもよかった。彼は赤軍将校の息子でそれなりに名士の家柄だったから、貧しい工員の家に生まれた男にとってそんな彼に親しくされることは一種の誇りでもあった。しかし、彼の父親は大粛清で命を落とし落ちぶれ、一方の男は共産党に入りメキメキと頭角を現して末は大幹部かと目されるまでになった。男にとってもはやヴァレリーは過去のものでしかなく、そんな彼に愛称で呼ばれるほど親しい間柄と思われるのは心外でしかない。  それでも男はわざと親しみを込めた口ぶりで彼に応える。 「リェーラ、早く君から同志ワシリエヴィチと呼ばれたいものだね。そうすればわたしも心から君のことを同志と呼べるようになる」  そうは言うが、あたかもそれが社交辞令に過ぎないと言わんばかりに男はヴァレリーにあからさまに軽蔑のまなざしを投げかける。 「ちょうどいい。実は君を探していたのだ」  男はそう言うとついてこいと言わんばかりに手招きをした。  数分後、二人は共産党の事務所の一角に向かい合って座っていた。 「わたしが再三誘ったにもかかわらず、君が共産党への入党を拒み続けるからいけないのだよ。党内でも君をシベリアへと言う声が出始めている」  ヴァレリーの目の前にはモスクワ守備隊への志願書がおかれている。 「いくら幼なじみで、子供の頃に世話になったと言ってもこれ以上はわたしにも庇いきれない。今ここでこれにサインしたまえ。そうすれば君の共産党に対する忠誠の証が立つ。さもなくば君は今夜にでもシベリア送りとなるだろう」  ジェーニャことエフゲニー・ワシリエヴィチ・エルモレンコはそう言うと眼鏡の奥から冷たい目で彼を見据えた。 「もはや君を救う手だてはこれしかないのだ。我が共産党に忠誠を誓い、祖国の為に戦いたまえ。」  そう言っていかにも恩きせがましく志願書を手渡す幼なじみをヴァレリーは感情のこもらない目で見上げた。お互いの腹の内を探るかのようにしばらく視線を絡める。そうしてヴァレリーはおもむろにペンを取ると、言われるままに志願書に乱暴にサインをした。1941年8月、こうして彼は父親と同じ赤軍に身をおくこととなった。  出征の日、モスクワ駅に向かう途中でヴァレリーは一件の家の前で足を止めた。  家の前には人だかりが出来、賑わいを見せている。そこへやがて馬車が到着し、盛装したカップルが玄関前に降り立つ。二人はゆっくりと進み玄関の前まで来ると、集まった衆人の方へと向き直り挨拶をした。その瞬間、女とヴァレリーの目が合った。 「ナターシャ……」  ヴァレリーの呟きは、新郎新婦を迎える衆人の声にかき消された。  最愛の女性のとなりに立つ男の顔を見て、彼はギリッと唇を噛みしめた。彼女の隣には正装用の軍服に身を包んだ眼鏡の男が立っている。その男も花嫁の視線を追うようにして彼のほうへと視線を向ける。その男、エフゲニーはそうしてすぐに彼には興味を失ったように祝辞を述べる衆人達へと向き直ったが、ナターリアは彼のほうを見つめたまま瞳を潤ませていた。そんな彼女を制するかのようにエフゲニーは彼女の方へと向き直ると、頤に手をあててそっと口づけをする。ワーッとその場が盛り上がった。  唇が離れた後、ナターリアは顔を隠すようにしてそっと涙を拭ったが、そんな彼女の様子をヴァレリーは知らない。彼はエフゲニーが自分の最愛の女性に口づけをする瞬間、逃げるようにしてその場を立ち去ってしまった。  全てが納得がいった。ナターリアの父、エゴール・ニコラエヴィチが突然彼に冷たくなったのも、最後に彼が彼女の家を訪ねた時のよそよそしい感じも。急にエフゲニーが志願兵として出征しろと彼に言ったのも。  ヴァレリーは共産党がまた一つ自分の大切なものを奪っていったのを悟った。そして、それなのに何もできない自分が惨めだった。ヴァレリーは共産党に対するさらなる憎しみが自分の中に生まれるのを感じながら、背を丸めて早足でその場から少しでも早く立ち去ろうとする。そんな彼の様子をエフゲニーの冷たい視線が追ってく。惨めなヴァレリーの後ろ姿を見送るエフゲニーの口に勝ち誇ったような笑みが浮かんだ。  エフゲニー夫婦を皆が歌うカリンカの音色が包んだ。その歌声は街道に沿って流れヴァレリーの背を追って来るかのようであった。 ●1945年 ゼーロフ丘陵 1  途切れることのない砲声が、まるで雷鳴のように周囲に響きわたっていた。うっすらと夜が明け始めたゼーロフの丘陵の塹壕に籠もりながら、ヴァレリーは目の前で展開される光景に身震いをした。いま集中豪雨さながらに砲弾が落下しているのは、昨夜彼らがいた地点なのだ。  夜中にたたき起こされ、後退を告げられた時には憮然とした。一発の銃弾も放つ前から後退。しかも真夜中に。  二キロという距離はさしたることは無い。しかし後退とはただ後方へ下がれば良いと言うものではない。移動した先で自分用の蛸壺を掘り、それらを連絡壕で結ぶという作業をしなくてはならない。深夜に始まったそれらの作業は払暁を向かえた今でも完全には終わっていない。  でも目の前の光景を見れば、そんなことに対する不満よりも助かったという思いのほうが強くなる。  フランツ共はこのことを読んでいたのか?  すでにかつての精強なるドイツ軍はもはや存在しない。兵器自体は優秀かもしれないが、それを操る兵の練度は低く、戦闘資材も乏しい。陣地構築も資材が足りずに思うに任せない。図面上に散らばる師団、軍団もその大半が定数割れを起こし、見た目こそまだ戦力が整っているように見えるが、実際は掻き集めても迫り来るソ連軍の半数にも満たず、もし数が揃ったとしてもそれだけの戦車を動かすための燃料も無い。全てが末期症状を向かえた軍隊なのだ。  行動を共にしているから、そんなドイツ軍の状況はヴァレリーにもよく分かった。それだけに未だにこれだけ状況を見通せる将校がいることに軽い驚きを覚える。  同じ犬でもずいぶんと違うな。  このとき彼は素直にそう思った。スターリンとヒトラー。どちらも史上最悪の独裁者であるかもしれないが、優秀な将校を次々と粛清していったスターリンと、見事にそれらを飼い馴らしたヒトラー。その結果の一端をいまかいま見た気がしたのだ。  ドイツの犬は猟犬だ。しかしソ連の犬は飼い主に媚びへつらう愛玩犬でしかない。  それがヴァレリーの感想である。しっかりと軍事教育を受けた将校が指揮する軍隊は強い。少数でも兵の練度が低くともしっかりとした戦術に支えられるとそれなりの戦力になる。逆に戦術のイロハも知らぬものに指揮された軍隊は悲惨だ。数に頼んでただひたすら力押しに押して来る。  砲撃により舞い上がる土埃を眺めながらヴァレリーはこのあとに続く展開を想像し、顔を曇らせた。 「来るぞ!」  砲撃が止むと、小隊長がそう叫んだ。  やがてソ連軍の戦車が土埃と共に姿を現す。彼のいるところからはよく見えはしないが、その周囲には歩兵も数多いるはずである。戦車の姿が見えだすと、小隊長の号令で皆、ゆっくりと塹壕と塹壕を結ぶ連絡通路を移動し始めた。  敵の戦車が見えても彼の所属する第600師団、通称第1ロシア師団はおろか、それ以外のドイツ軍からも目立った反撃はまだ無い。砲の数も、玉の数も少ないドイツ軍は徹底的に敵を引き寄せて、もっとも効果的な場面で反撃をするより他に無い。  ヴァレリーたちは連絡壕を身をかがめるようにして抜けながら、待ち伏せ地点へと再展開をしていった。  やがてソ連軍の戦車がオーデル河を越え、彼らの立てこもるゼーロフ高地の麓付近に近づく。敵の動きは近づくにつれて鈍くなる。ある場所を境にガタンとつんめのるようにして皆、速度を落としていく。湿地帯に突入し、キャタピラが空転するのだ。  ヒュンッ!  頭上をなにかが通りすぎ、一呼吸おいてズドン! という大砲の発射音が聞こえる。その音が聞こえた時には頭上を通りすぎた砲弾が先頭を進むT34戦車を貫いて湿地帯のなかに擱座させていた。被弾した戦車の爆音が周囲の空気を震わせる。 「88(アハトアハト)だ」  裏に続く僚友が物知り顔にドイツ式にそう言う。 「初速が早いから、音より先に砲弾が飛んで行く」  ヴァレリーもその大砲の噂は聞いていた。ドイツ軍の切り札88ミリ高射砲。元々空を飛ぶ航空機を落とす為の大砲であったのがその優秀さを買われ、対戦車砲として使用さるようになったというもの。初速が早く、これに狙われたらどんな戦車でもその装甲を貫かれるという。  そうこうするうちに一台、また一台とソ連の戦車が湿地帯の中で擱座させられてゆく。  ヴァレリーは後ろを振り返ってみたが、隠蔽されていてその雄姿を見ることは叶わなかった。  やがて105ミリや150ミリといった榴弾砲も立ち往生するソ連戦車の頭上から砲弾を降り注ぐようになる。先頭を進む車両を88ミリが、後方の車両を榴弾砲が狙い打つ。隊列の前後をつぶされ進退窮まった車両が周囲に展開する歩兵にかまわずに右に左にと向きを変えようとする。そんな戦車の動きに飲まれて、自軍戦車のキャタピラに踏みつぶされる歩兵まで出てくる始末だ。ヴァレリーは同胞達のそんなむごい姿に思わず目を背けたくなった。  ドイツ軍が立てこもるゼーロフ高地の麓はさながら地獄絵図の様相を呈している。あまりの惨状に後退しようとすると、背後には政治将校がいて、逃げようとする兵士を片っ端から射殺していく。進むも地獄、退くも地獄。味方に煽られてソ連兵はがむしゃらに味方の屍を乗り越えて突き進むしかなかった。  スターリンの犬どもは獲物を間違えているのではないか?  ヴァレリーは麓の様子を見てそう思った。彼の目にはスターリンの飼う猟犬が獲物を追わずに自分たちの勢子を追い散らしているように写る。  猟犬なら猟犬らしく先頭を切って見せれば良いものを……。  彼はまたすこしスターリンが嫌いになった。  一見、ドイツ軍有利に動いているかのような戦況ではあったが、次第に際限なく沸いて出るようなソ連軍の物量に押され始めた。比較的重量の軽いT−34が数両、湿地帯を抜け出してゼーロフの丘を登り始める。傾斜角45度という急斜面の為、のろのろと這うようなスピードで上がって来る。そのうちのさらに数両が直撃弾を食らって擱座する。砲だけでなく、歩兵も敵の戦車に取り付き、至近からパンツァーファウストと呼ばれるロケット弾を打ち込んでいく。そのうちの一両が砲弾に引火したのか、ボムッ! と低い音を立てて爆発し、砲塔が宙をまった。  キャタピラを撃ち抜かれ行動不能になった戦車のハッチが開き、なかからから兵士が脱出しようと出てくる。するとそこへ機関銃が集中する。軽機関銃に加え、重機関銃の太い曳航弾がその戦車兵を貫く。軽機関銃に撃たれ踊るように跳ねていたその兵士は、重機関銃に体の真ん中を撃ち抜かれた瞬間、その上半身がちぎれ飛んだ。ちぎれた上半身が赤い糸を引きながらくるくるとコマのように回転しながら宙を舞う。  ヴァレリーはその時に見てしまった。ちぎれて飛んだ兵士の頭から帽子が飛び、長い髪が宙に広がるのを。  女!?  確かにモスクワ防衛戦でも女性がゲリラ的な活動をすることはあった。事実モスクワ防衛戦で彼と行動を共にしたコムソモール(青年共産同盟)の遊撃隊、カチューシャは女性の志願兵が多く含まれていた。また、スターリングラードの防衛戦でもあの街の女性が兵役に取られたという噂は聞いていた。しかし、ここにきてまで、しかも女性の戦車兵がいるとまではさすがにヴァレリーも思わなかった。  ロシア人女性兵士のあまりにも痛ましい死にざまに彼は激しい怒りを覚えた。それが撃ったドイツ軍に向けられたものなのか、それともか弱き女性を最前線に送り出すソ連の共産党のやり方になのか、それは彼自身にも判別はつかなかった。  怒りに駆られた彼ではあったが、そんな中で今の自分に出来る事というのはしっかりと把握している。何事をするにしても、なし得る為の手段は変えても、目的を見失ってはならない。それは赤軍将校だった父親の教えだ。  ドイツ軍に身を寄せる彼らの目的は祖国からスターリンの共産党を追い払い、恐怖政治から開放する事だ。そのためにはいかなる理由があろうと今は目の前の敵、赤軍を叩かなければいけない。  ちょうどヴァレリーたちがソ連軍の側面に移動を始めた時に、ドイツ軍が守備する陣地から戦車部隊がやってくるのが見えた。ソ連軍の戦車は正面から88ミリ高射砲と対戦車砲の砲火にさらされ、左側面をドイツ軍の戦車に脅かされる形になった。  ヴァレリーたちはそれを見てドイツ軍の戦車を援護するかのようにそちらに移動した。 ●1945年 ゼーロフ丘陵 2 「赤軍の連中は100万もいるらしい」  煙草に火をつけながらセルゲイ・アカトフがそう言った。  もう、何度赤軍の攻撃をはね除けたかわからない。赤軍は日に三度やってくる。攻撃するたびに彼らは多くの損害を伴って退却をしていった。それなのにまた次から次へと沸いて出るかのように新手を投入し、攻撃を繰り返して来る。そのたびに堅牢だったドイツ軍の陣地も薄皮を剥ぐようにゆっくりと、しかし確実に薄くなっていった。始め500両はあった戦車も今や半減している。一方の赤軍の車両も始め何両あったのかヴァレリーは知らないが(史実では約3000両が投入されたとされる資料がある)、このゼーロフの丘の周辺にドイツ戦車とは比べ物にならない数が破壊され、無残な姿をさらしている。 「女まで戦場に送り出すやつらだ。100万が200万でも驚くほどのことじゃない」  戦場から目をそらすことなくそう言ったヴァレリーにセルゲイは少しばかり鼻白んだ顔をしたが、それでも思いなおしたように再び話しかける。 「ここにいる連中はみんな赤軍が嫌いさ。いや、赤軍というよりは共産党の連中かな? それはあんただけじゃない」  ヴァレリーよりかなり年配の彼の口ぶりは、まるで自分の息子に教え諭すかのようであった。穏やかに、ゆっくりとではあるが、しかししっかりとした口調でそう言う。 「特に農民は皆、共産党に苦しめられている。いくら働いても収穫したもののほとんどを連中に横取りされ生活は一向に良くならない。それ以外にも身内が秘密警察に捕らわれてシベリアに送られている者も多い。多くの人が恐怖や貧困にあえいでいる。たしかに女まで兵士として戦場に送り出すような連中だ。けれど考えようによっては、それは兵隊よりも戦車の数のほうが多くなるくらい工業力は発達した証でもある」 「あんたはスターリンを支持しているのか?」  不機嫌そうに問いかける彼にセルゲイは静かに首を振った。 「俺が言いたいのは、ただ恨みだけで戦うなってことだ。どのみちこの戦争は負ける。わしら年寄りにはもう無理だが、お前さんたち若い者はその後もあの糞どもと戦っていかにゃならん。そのためには広い視野を持つ事だ。相手の功罪を見極めただやみくもに批判するのではなく、もっと違った……、そうだなロシアの大地をを味方につけるような戦い方をせにゃならんくなるだろう」 「……」 「女性兵士たちとて無理に徴兵されたものばかりではあるまい。思想教育の影響もあるだろうが、それ以上にドイツ憎しで参戦しているものも多いはずだ。あんたはフランツ(ロシア人はドイツ兵のことをこう呼んだらしい)がロシアの大地でなにをしたか知っているかね?」  ヴァレリーは曖昧に頷いた。早いうちにドイツの捕虜となった彼は祖国に進軍したドイツ兵の行動をあまり見る事はなかった。しかしいわれなくても大体の想像はつく。 「略奪、暴行、強姦……、ありとあらゆる悪事をやつらは働いておる。だから今は共産党の恐怖よりフランツへの憎しみのほうが強いんだろう。憎しみに凝り固まった赤軍がベルリンに突入した時には、フランツは自分たちの犯した罪と同じ行為で報いを受ける事になるに違いない」  セルゲイの言葉にヴァレリーは唇を噛みしめた。彼の言葉を聞いているとまるで今の自分たちの行動を否定されているかのように聞こえる。赤軍を……、共産党を叩く事が自分たちの使命であるはずだ。  俯き、じっと唇を噛みしめるヴァレリーを年老いたセルゲイは穏やかな目で見守る。 「若いの、気をつけなくてはならないのは目的と手段をはき違えぬことだ。我等の目的はよりよい祖国を作る事だぞ。それを間違えると我等はフランツの、そしてヒトラーの犬に成り下がってしまうぞ」  老セルゲイの言葉にヴァレリーはハッと顔を上げた。初めて彼を視線を合わせた彼は、その慈愛に満ちた光に包まれたような気がしたのだった。 ●1945年 ゼーロフ市内 1  唇をかみしめながらも、じっと成り行きを見守るしかなかった。  夜中に突然の激しいノックでたたき起こされた。はじめは何事かと思い訝しんだが、日中激務で疲れているだろう父親を起こすのは忍びないと思い、彼は身支度を整えて出ようとした。が、直にノックは止み小声で話す父親の声とそれに大声で答える男たちの声が彼の寝室まで聞こえてきた。  このころには彼も今起きている事態を把握することができた。我が家にもやってきたのだ、モスクワ市民の恐怖の的である深夜のノックが。あのスターリンの犬どもが。  毎晩のようにモスクワで、いや、ソヴィエト連邦全土において粛清の名の元に深夜、民家の扉が激しく叩かれる。それは地位階級に関係がない。赤軍旅団長という要職にある父親の同僚達もすでに何人もこの深夜のノックによって連れ去られていた。そしてその人たちは誰一人として帰ってはこない。  彼の父親はそのことにひどく憤り、表立ってこそ何も言わないものの政府に対する批判を日に日に強めているのが彼の目にも見て取れた。そしてやがてこういう日が来るだろうことも予想しているかのようだった。  彼があわてて部屋を出、玄関に向かうと、ちょうど二人の男に両脇を抱えられて父親が家を出るところだった。 「父さん!」  去りゆく父親の背に呼びかけた声は届かぬはずが無いのに、父親は振り向こうとしなかった。全ての繋がりを断ち切るかのようにそのまま連行され、夜の街へと消えていった。  ヴァレリーは異臭を放つ下水道の中でいつのまにか寝てしまっていた自分に気づいた。  彼は一つ大きな伸びをする。  もうすっかり下水道の匂いにもなれた。なれたと言うよりは感覚がマヒしたといったほうが正しいのかもしれない。暗闇のなかにわずか数人の仲間の気配が感じられる。寝ているのか、起きているのか定かではないが、誰一人として動こうとするものはいなかった。  父親の夢を見た。ここのところ頻繁に昔の夢を見るようになった。  それは今見たような父の夢だったり、ナターリアの夢だったりする。  いつごろからこんな夢を見るようになったのだろうと考え、はたと思いつく。全てはセルゲイと話したあの日からだ。  自分から全てを奪っていった共産党への恨みは消えない。でもセルゲイは共産党を叩くのが目的ではないと言った。それはよりよい祖国を作る為の手段の一つに過ぎないと。怨恨では国は救えない。  ゼーロフでの防衛線もすでに終焉を向かえつつある。当初、ドイツ軍はよく持ちこたえたが兵数で三倍、車両にいたっては六倍の赤軍に次第に押され、戦線はついに崩壊した。今はごく少数がゼーロフの街に籠もって絶望的な防衛戦を展開しているに過ぎない。セルゲイに言われた言葉が次々と脳裏に蘇る。  この戦争はドイツの敗北に終わるだろう。そうすれば自分たちロシア解放軍の後ろ楯はなくなる。セルゲイの言う通りもう別の戦い方を模索するべきときに来ているのかもしれない。ヴァレリーはひとりただ自分たちの進むべき道を考える。導いてくれたセルゲイは、ゼーロフ丘陵で砲弾の破片に貫かれ、今はもういない。  多岐にわたる選択肢の先にさまざまな出口が見えるような気がする。しかしそのどれが正しい道なのだろうか? 自分たちの籠もる下水道の迷路のように、ヴァレリーの考えは暗闇に溶け込み、先が見える事はなかった。 ●1945年 ゼーロフ市内 2  カチャカチャと腰にぶら下げた手榴弾が金属的な音をたてる。  ヴァレリーはわずか20人となった仲間と共に地下の下水道のなかを走る。パシャパシャと汚水が跳ね上がりズボンのすそを汚すのにもかまわずに皆が下水道の中を疾走する。彼らはこれから最後の戦いを赤軍に挑もうとしていた。セルゲイの言葉に対する答えはまだ見つかってはいない。でもその場にとどまる事も今は出来ない。  途中の枝道で仲間たちは三三五五に散らばってゆく。ドイツ軍を駆逐したと思い込み、規律の緩んだ赤軍に対して複数拠点での同時多発的ゲリラ活動を展開する為だ。その目標は政治将校。それを首尾よく殺害した上で可能であれば赤軍兵士にロシア解放軍への参加を呼びかける。  それでどれだけ反応があるかわからない。ひょっとしたら誰も自分たちに同調するものなどいないかもしれない。しかしこれからどのように活動するにしても、人材は必要だ。政治将校の呪縛から解き放たれれば、ロシア解放軍に加わり共産党と戦いたいと思うものも出てくるかもしれない。なんとしてもドイツ軍抜きで赤軍に対抗できる組織を作り上げたかった。新たなる道を見いだせない以上、赤軍との戦いは続くと思わなければならない。  予定のマンホールの下に到着する。他の者の移動時間を見込んでしばらくそこで彼は待機した。  本来ならばきっちりと開始時刻を合わせるべきところである。しかしロシア解放軍の兵士では時計すら持っているほうが珍しいというのが現状だ。適当に頃合いを見計らい始めるしかない。  しばらく待った後、ヴァレリーはそっと階段を上り、マンホールのふたに手をかけた。彼は市の中心部付近に出るはずのそれをそっと押し上げ、隙間から周囲の様子を伺う。通りには人影は見当たらなかった。赤軍はすでにドイツ軍を全て駆逐したと思い油断しているようだった。また深夜と言う事もあるのかもしれない。赤軍の兵士は街を占領すると、家々を渡り歩き金目のものを強奪する。そして酒を飲んで酔っぱらい、女がいれば犯す。年齢は関係ない。いまだ少女の域をでない者であろうが、60を過ぎた老女であろうがお構いなしだと聞いた。  ヴァレリーは家の陰に隠れながらそっと一件一件様子を伺う。ほとんどの家は皆寝静まったように物音一つしない。もっとも街自体も二、三件に一件は激しく破壊され、壁に焼けた後が見られる。家の陰から陰へと渡り歩きながら、彼は一番立派な建物へと近づいていく。占領下の街は灯がほとんどなく、月の光もまた雲と黒煙に遮られて地上まで届かない。  物陰から顔をだしそっと覗くと、門のところに赤い旗が立てかけてあるのが見えた。おそらくはそこに司令部があるのだろう。旗の陰に見張りよろしく兵が立っているのが見て取れる。  正面から仕掛けるか? それとも裏手に回るか?  逡巡したその瞬間、さほど遠くないところでふいに爆発音がした。赤軍の兵士があちらこちらの建物から驚いたように飛び出して来る。皆、着の身着のままと言ったありさまだ。中には武器すら持っていないものまでいる。彼らは通りを右往左往しながら、なにが起こったのかを確かめようと言葉を交わす。聞き慣れたロシア語の中に、ちらほらと聞き慣れない言葉が混じる。どうやらポーランド兵等の部隊が混じっているようだった。  やがて、最初の爆発に続き、あちらこちらで連続して爆音が響きわたようになった。散発的ではあるが銃声も聞こえる。  路地から路地をつたい、建物の正面付近に回り込む。建物の中もだいぶ混乱しているようだった。人の動きが慌ただしい。玄関口で一つの銃を奪い合ったりしており、その混乱ぶりが見て取れる。  ヴァレリーは手榴弾を使い時限式の爆弾を作ると、建物の正面の何カ所かに仕掛けた。そうしておいて再び路地をつたい今度は建物の裏へと回る。彼が建物の中を見渡せる場所にたどり着いた時、表で最初の爆発が起こった。一段と建物の内部が騒がしくなる。混乱する赤軍兵士の様子を物陰で息をひそめながらそっと見守った。  第二、第三の爆発が起こるにつれて将校とおぼしき物が建物の裏手へと姿をあらわす。これらも皆一様に着の身着のままと言った感じだ。中には上半身裸で、ズボンもやっと引っかけただけと言ったありさまの者までいる。  ドイツ女を犯ってたな  そのこと自体には別段どうとも感じない。どうせドイツ人もロシアの大地では同じ事をしていたに相違ないからだ。しかし彼は銃を構えると、わざとその将校を狙い引き金を絞った。  パンッという乾いた音と共に半裸の赤軍将校が徐に地面に崩れ落ちる。  ヴァレリーは少しずつ位置を変えながら、やはり着衣の乱れた将校を数人狙い撃ちすると、素早く反対側に移動した。 「ドイツ兵だ!」 「表は危ないぞ! 裏へ回れ」 「裏に狙撃兵がいる! ダメだ正面へ回れ!」  一つの報告が入るたびに兵達が右往左往するのが見て取れる。そのうち表で再び爆音が轟く。時限式とは別にヴァレリーが仕掛けたワイヤー式のトラップが作動したのだ。  その音に反応するかのようにひとりの男が建物の中から飛び出して来る。その男の姿を見てヴァレリーは反射的に叫んでいた。 「政治将校殿! こちらです。ドイツの狙撃兵が潜んでいると思われるので気をつけて!」  物陰から飛び出ると、手振りで姿勢を低くするように指示しながら男を招き寄せる。男がついて来るのを確認しながら彼はどんどん人気のないほうへと男を誘導していった。 「一体なにが起こったんだ?」  ようやく追いついてきた男が背後から声をかけて来る。 「ドイツの残存兵による奇襲です。たいした数ではないと思われますが、散らばっている為正確な数を把握できません。安全なところへ御案内しますからしばらく身を隠していて下さい」 「ありがたい」 「こちらへ……」  なんの疑いも持たずについて来る男をヴァレリーは巧みに誘導しながらロシア兵のいない地域へと連れ出していった。  風がでてきた。ベルリン近郊は5月になれば『マイ・ゾンネ(5月の太陽)』と言ってかなり陽気が良くなる。『マイ・ゾンネ』は名実共に春の訪れを意味する。今年は4月でもそんな『マイ・ゾンネ』を思わせるほどに暖かい日が続いたが、それでも夜になればそれなりに冷え込む。もっともヴァレリーを含めたロシア人にしてみれば寒いと言うほどではないが、これから自分のすることを考えると身震いしそうになる。 「どこまでいくのだ?」  背後からふいに声をかけられて振り向いた瞬間、雲に切れ間が出来た。わずかばかり差し込んだ月明かりに彼の構える小銃、マウザーKar98kが鈍い光を発して浮かび上がった。 「貴様! どこの隊のものだ! 何故ドイツ軍の銃を持っている!」 「銃はドイツ軍から頂戴しました。所属は第600師団です。エフゲニー・ワシリエヴィチ」 「我が赤軍に600師団などと言うものは……」  ヴァレリーに連れ出された男、エフゲニーがそう言って拳銃を構えようとした瞬間、雲の切れ間から完全に月が顔をのぞかせ周囲を照らしだす。彼は自分を連れ出した男の顔を見て、思わず息をのんだ。 「ヴァレリー・リュドミロヴィチ……。い、生きていたのか……」  エフゲニーは手にした拳銃を構えるのも忘れ、ヴァレリーの顔を凝視する。そのヴァレリーの顔に冷たい笑みが浮かんだ。 ●1945年 ゼーロフ市内 3  思いもしなかった男との再会にしばらくのあいだエフゲニーは微動だにすることが出来なかった。ソ連の正式拳銃であるツーラ・トカレヴァを握る手に汗がにじむ。 「どうされました? まるで幽霊にでも出会われたようなお顔をされていますが? ワシリエヴィチ政治将校殿」  エフゲニーのそんな様子がヴァレリーの加虐心を煽る。いたぶるように丁寧な言葉を投げかけながらも、彼の構えるKar98kはしっかりとエフゲニーの心の臓をとらえている。問いかけに対して沈黙を保っていると言うよりは、恐怖に引きつり言葉を発することさえ出来ないでいるエフゲニーを見て、ヴァレリーの顔が醜くゆがむ。その顔はかつてエフゲニーが彼に見せたものと同様のものだったが、二人ともそれに気づくことがなかった。 「なにをそんなに怯えておいでなのですか? 共産党の政治将校といえば怖いもの無しなんじゃないんですか」  そう言うとヴァレリーはゆっくりと小銃を構え直す。ヴァレリーの指が引き金にかかるのを見た瞬間、エフゲニーの精神が限界に達した。 「う、うわあぁぁぁ!」  叫び声と共に拳銃を握る彼の腕が振り上げられる。しかし次の瞬間には右肩に焼けるような痛みを覚えてその拳銃を落としてしまう。 「いけませんね。政治将校殿、指揮官たるもの状況をちゃんと把握して的確に動かなくては……」  余裕の態度でヴァレリーはボルトを操作し、空薬莢を捨てて再び射撃体制に入る。そうしながらさらに位置を移し、エフゲニーが落とした拳銃を蹴り飛ばし、彼から離してしまった。 「あなたたちの無謀で無慈悲な指揮でどれだけの同胞が無為に命を落としたことか……」  再びヴァレリーの銃がエフゲニーをとらえる。 「でも、まぁ、祖国からドイツ軍を駆逐した功績は認めましょう。例えそれが多くの同胞の無益な血の上に成り立ったものだとしてもね。でも共産党の役目はそれで終わりです。次はあなたたちが祖国の大地から駆逐される番ですよ」  あくまでも慇懃な態度を崩さないヴァレリーに嫌悪感を抱きながらも、なすすべもなく地面にうずくまるしかない自分にエフゲニーはこれまでにない屈辱を味わった。それは四年前ヴァレリーが味わったそれと同種であることに彼は気づかない。ただ彼の頭にあるのはせっかく出世街道にのった人生をこんなところではフイに出来ないと言うことだけだ。 「わ、わたしひとりを殺しても共産党はなんら変わらないぞ。仲間が一体何人いるのかしらんが、どのみち大した数ではあるまい。そんなのでなにが出来る」 「貴様たち政治将校を根絶やしにした上で赤軍兵に共闘を呼びかける。真の敵はスターリンとその犬たちだとな」  ヴァレリーの言葉にエフゲニーは唖然とした。こいつはそんな夢物語のような計画を真剣に実行しようとしているのか? そんな驚愕はやがて嘲笑へと変わる。 「リェーラ、君はさっきわたしに状況をちゃんと把握して的確に動けと言ったな?」  撃ち抜かれた肩を抑えながら、馬鹿にしたように口の端をゆがめて彼はヴァレリーを見上げた。 「君はひどい思い違いをしている。ドイツ軍が優勢だった初期の頃ならいざ知らず、戦争の趨勢もほぼ決定的となった今、誰がそんな呼びかけに応えると思うのだ。ロシア解放軍の噂は聞いていたがね、君たち自身後ろ楯であるドイツを失った後、どう戦おうと言うのだね」  エフゲニーはゆっくりと立ち上がると、ヴァレリーと視線を合わせる。立ち上がっても頭一つ分くらいは彼のほうが低い。だからそれでもヴァレリーを見上げるようになることは変わりないのだが、今、二人の形勢は逆転していた。まっすぐヴァレリーを見つめるエフゲニーに対し、ヴァレリーは視線をそらす。悔しそうに唇を噛みしめる彼の表情は今にも泣きそうな感じに見えた。 「フランツどもを祖国から追い出したことで同志スターリンの名声は不動となった。君の知らないうちに祖国ではスターリンよりもヒトラーが、ナチスが、そしてフランツ全てが悪となったのだよ。君たちがいくら打倒スターリンを叫んだところで、フランツの犬と見なされるのがオチと言うものだ」  そう言うとエフゲニーはゆっくりと自分の拳銃を拾う。 「動くな!」 「撃ちたければ撃てば良い。君は共産党よりもわたし個人を憎んでいるだろうからな」  拾い上げた拳銃をポケットにしまい、代わりに一枚の写真を取り出す。 「だが、どのみち君に出来るのはそこまでだ。その後は敬愛する我が同志達につかまってシベリアに送られるか、逃げ回ってのたれ死にするかのどちらかだろう。個人的な恨みははらせても、祖国を救うと言う崇高な目的は達せられまい」  取り出した写真を手で弄びながらエフゲニーはヴァレリーのほうへと向き直る。 「君が憎しみだけでなく、本当に祖国のことを思うのであれば、わたしの同志となれ。共産党に入りわたしと共に中から共産党を変え祖国の人々を救えばいい。もはや力では何も解決しない」  そう言うと彼は手に持った写真をヴァレリーの前に差し出す。 「ナターシャに会いたいと思わないかね」  写真を受け取ったヴァレリーは少し驚いた。そこには小さな女の子を抱いたナターリアが移っている。写真の中の彼女は幸せそうに微笑んでいるが、しかしその笑みの中になにか悲しげな様子があるのをヴァレリーは感じた。 「子供が?」 「一昨年の冬にな。レーナだ」  ナターシャが既にエフゲニーの子供を産んでいたというのはヴァレリーにとってショックだった。改めて彼女はエフゲニーの妻であると強制的に認識させられたような気がする。 「彼女は未だに貴様を愛している。貴様が生きていることがわかればきっと喜ぶだろう」  静かにヴァレリーから写真を取り上げると、彼はいとおしそうにそれをなぜる。 「貴様はわたしがドイツ軍内に忍び込ませたスパイと言うことにしておく。そうすれば貴様は祖国解放の影の立役者として大手を振ってモスクワへ帰れる。そこで彼女に会えばいい」  もう、エフゲニーはヴァレリーのほうを見ようともしない。妻と娘の写っている写真をいとおしそうな目で眺めるだけだ。 「彼女とはうまくいっているのか?」  突然の問いかけに彼は顔を上げヴァレリーを見る。 「ナターシャは聡明な女性だ。一度結婚すれば過去を引きずるような素振りは見せない。妻としてよく尽くしてくれる」  そう言うと彼は写真をまたポケットに仕舞った。 「だがな、いくら隠してもわかる。彼女は貴様のことをまだ愛している。だから貴様が無事な姿を見せれば喜ぶだろう。我が同志となり、常にそばにいれば尚更だ。だから無益な活動はやめ、わたしと共に党の改革に力を尽くせと言っている」  しばらくのあいだ、二人は向き合ったまま沈黙を保った。  力を貸せと言うエフゲニーの顔は真剣そのものだが、そのなかに嫉妬の色が見え隠れする。  この男はもともと嫉妬深かったな……  ヴァレリーはそのことを思い出す。 「ナターシャを奪っておいて、いまさらそんなことを言い出すとはな……。何故だ?」  ナターシャの話がでた時からそれは引っ掛かっていたことだ。この男の性格からすれば、さらに彼女から自分を遠ざけようとするのが当然。それを会えとまで言うにはなにか裏があるに違いない。ヴァレリーはそう思った。  ヴァレリーの問いかけにエフゲニーは顔をそらした。 「貴様とナターシャが愛し合っているのを知っていても、わたしは彼女を忘れられなかった。それでも彼女が幸せになれるのならいい。しかし当時の貴様は本当に危ないところにいたのだ。だから彼女を奪った。わたしのほうが絶対に彼女を幸せに出来ると思ったからだ」  そう言って振り向いたエフゲニーの目にはそれまでにない憎しみのようなものが宿っていた。 「一緒に暮らしていればいずれと高を括っていたのは事実だよ。だがナターシャはいつまでたっても貴様を忘れようとはしない。貴様の部隊がオリョルで壊滅した時も彼女だけはお前の生存を信じて疑わなかった。そんな彼女を見続けるにはわたしももう限界だ!」  これほどまでに激しい彼を見たのはヴァレリーは初めてだった。もともと秀才肌で人を見下す感じの強かった彼である。子供の時でもそれほど激しく感情をあらわすことはなかった。それだけに彼のナターシャに対する想いの強さを思い知らされた気分になる。  ヴァレリーは構えていた小銃を静かに下ろした。  いまだに自分のことを愛しているというナターシャに会いたい。  ヴァレリーはそう思った。しかしそれがけして良い結果を招かないと感じた。自分が彼女の前に姿を現せばきっとエフゲニーの家族は崩壊する。  娘を抱く彼女の姿をヴァレリーは思い出した。悲しげではあったが、それなりに幸せそうであり、娘を抱くその手に母親としていきようとする彼女の決意がみなぎっているように感じた。そんな彼女の前に姿を現すことは、彼女を不幸にする。どうあがいても彼女はエフゲニーの妻なのだ。 「俺には俺の戦い方がある。お前は中から祖国を開放するがいい。俺は外から祖国解放のために力を尽くす」  そう言うとヴァレリーはエフゲニーに背を向けた。同志になれと自分を誘ったエフゲニーはそれまで見たことがないほどに真剣みにあふれていた。以前形ばかり自分を誘っていた時とは違うなにかを感じた。今の彼なら信じて良いだろう。自分には出来なくても彼ならば祖国をよりよい方向へと導いてくれるに違いない。  ヴァレリーはそれ以上は何も言わず、もう振り返ることなくその場を立ち去る。 「相変わらず甘い奴だな、ヴァレリー・リュドミロヴィチ・ガミドフ」  エフゲニーが笑ったのに彼は気づかない。  次の瞬間、背後から放たれた銃弾が彼の頭を撃ち抜いた。  ヴァレリーは自分になにが起こったのかわからぬうちに絶命し、その場に崩れ落ちる。  まだ銃口から白煙をたなびかせる拳銃を手にしたままエフゲニーは静かに笑った。 了