小説 ジェーニャ                                      とっと ●1946年 モスクワ  ソ連全土を覆い尽くした冬将軍がゆったりとした足どりで去り、漸く首都モスクワにも春の訪れを感じさせる陽気が姿を見せ始めた。この春はロシアの大地に住む人々にとってとりわけ感慨深いものがある。長かった戦争が終わり、漸く迎えた春らしい春と言った感がある。しかも国土のかなりの範囲を侵略と破壊の憂き目に合いながらも結果的には勝ち戦になったのだから、その喜びもひとしおだった。  荒らされた大地にはまだ戦争の傷跡が深く残ってはいるが、国を挙げて全力で復旧作業と近代化に努めている。なにより同志スターリンの影響力が以前にも増してソ連全土に浸透し、国民が一丸となった国家は強い。それが恐怖による物だとしても。  やがてソ連はもっと強大になり、共産主義の思想も世界中に広がっていくであろう。少なくとも世界の半分は共産圏に取り込まれる。そうなった時、最大の敵は戦争中は盟友であったアメリカが最大の敵として立ちはだかることになるかもしれない。  復旧の進む首都モスクワの町並みを眺めながら、エフゲニー・ワシリエヴィチはそう思った。  しかし各地でも急ピッチで復旧が進んでいる。その邁進力を伝え聞く度に思うのだ。やはりロシアの大地に住む人々は強い。そしてソ連の指導者は優秀だと。  窓辺でぼんやりと外の景色を眺めていると、彼の妻が娘を抱いてやってきた。もうそんな時間かと時計に目をやった後で、彼はゆっくりと立ち上がる。戦争が終わっても政治将校達は忙しい。捕虜たちのサボタージュの監視から、相変わらずの軍内の監視などやらねばならぬことは多い。戦争が終わり、目的を失った兵士に新たな目的を与え、内部に目がいかないようにもしなくてはならない。いまだ家族とゆっくり過ごすことの出来ない現状に彼は若干のいらだちを感じると共に、ある種の安堵感をも併せ持つ。  傍らに立つ妻に歩み寄ると彼はそっと抱擁し口づける。その瞬間妻の体に緊張が走った。一瞬、ぎゅっと力が入るのを感じた彼は、ゆっくりと体を引き離し、次に娘を抱擁する。そうした後でまるで何事もなかったかのように穏やかな笑みを浮かべると「それではいって来る」とだけ言って外套を身にまとった。  いまだ、ヴァレリーの亡霊は消え去ってはいない。  彼は心のそこで呪詛めいた言葉を発しながら職場へと向かった。 ●1936年 モスクワ 「ここ、いいかな?」  食事中にそう問いかけられて、エフゲニーは顔を上げた。  眼鏡の奥にある細い目をさらに細めて声の主を伺う。  ヴァレリー・リュドミロヴィチ・ガミドフか……。物好きな男だ。  彼は一切言葉を発することなく、ただ顎をしゃくって同意の意を現す。  昼時の学生用食堂は混雑する。全校生徒が一斉に詰めかけるわけだから当然と言えば当然だが、そんな中で彼の周囲だけがいつもすいている。エフゲニーのことを気味悪がって誰も近づかないのだ。  もっともそれは彼にとっても願ったりだ。高い教養こそが成功の早道と信じる彼の父親は教育に関しては熱心だ。貧しい工員の家に生まれた彼ではあるが、家の手伝いも仕事もさせられることなくこれまで育ってきている。その代わり勉学以外のことに彼が興味を示すことにたいしては非常に厳しかった。だからこれまで彼は友達と遊んだと言う記憶もない。学校から帰っても食事の時間と夜寝る時以外の全ての時間を勉強して過ごすことを強要された。毎晩ウォッカをかっ喰らい、酔っぱらっては彼に延々と説教をする。彼が勉強以外のものに少しでも興味を示そう物なら容赦なく殴りつけた。  父親は階級制度を廃止し、平等な世界を作るとされる共産党の熱心な信望者で、ゆくゆくは自分の息子を共産党に入党させようと考えているようだった。そのなかではきっと彼に受けさせた高等教育が役に立つと信じているのだ。  もっとも彼自身もその判断には納得している面がある。革命依頼もっとも力を持っているのは共産党であり、それに加わることが成功の早道だと思っている。ただそのなかにおいては教養が必要ではあろうが、なまはんかな成績では多くの党員の中に埋もれてしまうだろう。そこから抜け出るにはそれなりの成績が必要なのだ。出来ることなら首席で今の学校を卒業して入党したいと彼は考えていた。  エフゲニーにとっては自分以外は皆敵であり、そのなかで馴れ合いなどするつもりは毛頭なかったのだ。 「まいったよ。ちょっと所用で出遅れたらもうこの混雑。空いている席を探すのにも一苦労だ」  そんな彼の心も知らず目の前に座った少年は話しかけて来る。 「君、エフゲニー・ワシリエヴィチだろ? いつも一人でいるね」  この時になって彼は初めてヴァレリーが自分の目の前に座った意味を知った。  ヴァレリー・リュドミロヴィチは赤軍旅団長の父親をもつ貴族の出の裕福な少年で、特権階級にありがちな高慢さはなかったが、苦労を知らないが故の天真爛漫さは備え持っていた。学業も運動も平均以上にこなし、その上誰にでも分け隔てなく接し、面倒みもよい。教師たち大人からも一目置かれる存在である。自然、クラスのリーダーに祭り上げられている。その彼がクラス内で孤立する自分を溶け込ませようとありがたくも動きだしたのだ。  豆の乗ったスプーンを口に持っていきかけたまま止めると、彼は上目づかいに彼を睨んだ。 「余計なお世話だ」  それだけ言って再びスプーンを口に運ぼうとした時、ヴァレリーの隣にもう一人自分を見つめる人物がいることに気がついた。  ナターリア・エゴロヴィナ・イグナチェンコ!?  彼女はエフゲニーの剣幕に困惑したような表情を浮かべながら、半分ヴァレリーの影に隠れるようにしていた。  迂闊だった……。  エフゲニーは臍をかむ。  ヴァレリーの傍らには大抵彼女がいる。そのことを失念していたことに気づいた彼は少しばかり後悔した。  ナターリアはエフゲニー達と同じ庶民の出であるが、父親がヴァレリーと同じ軍人と言うこともあって彼とは幼い頃から仲がよかったらしい。既に二人の仲は双方の親同士が認めているとの噂もある。  ダークブラウンの髪にやはりブラウンの瞳を持った少女は、一見、勝気に見えるが面倒みがよく周囲からは『ナターシャかあさん』と呼ばれ、頼られていた。かといって自分からしゃしゃりでて来ることはなく、そんな所には好感が持てる。そんな彼女にエフゲニーも密かに好意を寄せてはいたが、異性との交際など許される環境にもおらず、しょせんは人のものと思い、これまで極力興味を示さないようにしてきた。かといって好意自体を持たなくなったと言うわけでもなく、結果的にそんな彼女に対しても乱暴な態度をとってしまったと言うのは、彼の中で大きな失態と思えた。 「そう、とんがらないでよ」  邪険にされたにも関わらず、ヴァレリーはさらに彼に話しかけてきた。それは彼にとって、失態を補う絶好のチャンスに思えた。 「あぁ、すまない。人と話すことに慣れていないんだ」  はにかんだ様な笑みを浮かべてみたが、うまくいっただろうか?  ここでさらに気味悪がられたりしたらもう立ち直れないかもしれない。  ナターリアの顔色をそれと気づかれない様に伺う。  彼女は少し安堵した様に小さく息を漏らした。その手は今だヴァレリーの袖を掴んだままだが、とりあえず彼の笑みはそれなりに成功した様だった。 「エフゲニー・ワシリエヴィチ……、えっと、ジェーニャって呼んでもいいかな?」  ヴァレリーの問いかけに頷いて見せる。 「君はもっとクラスの中に溶け込むべきだと思うよ」  ヴァレリーはナターリアにも食事を促すとそう話しかけてきた。  お節介やきめ!  腹の中ではそう思うものの、ナターリアの手前そんなことはおくびにも出さない。同じ轍は踏まない。彼はそう心に念じる。 「父親の方針でね、勉強以外のことに興味を持たせてもらえないんだ。うちはしがない工員だから俺にはえらくなって欲しいらしい」 「国家を支えていく上ではさまざまな役割が必要になる。工員だって重要な仕事だ。近代化を進める上での原動力だからね。君の父上は自分のことを卑下しすぎなんじゃないだろうか?」  サラリとそう言ってのけるヴァレリーに瞬間、はらわたが煮えくり返る思いがした。それは工員でないからこそ言えるセリフである。どんなに働いても楽にならない暮らしにうんざりしている国民は多い。それもこれもこいつの様な特権階級が未だに存在しているせいだ。  エフゲニーの剣呑極まりない波動が通じたのか、ナターリアがヴァレリーの袖を引っ張るが、彼は「ん?」と首を傾げただけであった。  エフゲニーにはそんな二人のやりとりが既に他人が入り込む余地のない深さである様に感じてしまう。屈辱と絶望にうちひしがれて頭を垂れる。ナターリアの忠告が効いたのか、暫くの間ヴァレリーは思案していた様だったが、やがて徐に口を開く。 「こう言ってはなんだけど、君の父上は少し思い違いをされているね。出世するには個人の質も大切だけど、人脈が物を言うこともある。どうだい、まず僕と友達にならないか? うちの父は赤軍の旅団長だ。きっと君の役に立てると思うよ」  哀れみか!  腹の中で屈辱に震えながらも、エフゲニーは首を縦に振った。  利用できるものはなんでも利用してやる。そうして出世し、やがて今、俺を見下している連中を皆ひれ伏させてやるんだ。  エフゲニーの思惑など知るよしもなく、満面の笑みを浮かべながらヴァレリーは握手を求めてきた。その傍らでナターリアが心配そうに二人を見つめていた。 ●1946年 モスクワ 共産党本部  廊下ですれ違う男たちが軽く頭を下げて通りすぎる。エフゲニーもそれに小さく頷いて返した。  ベルリン攻略戦の最中に起こった小さなゲリラ事件で政治将校ながらにその収拾をつけた彼は党の中でも優位な立場に立つこととなった。主犯とおぼしき男を自らの手で倒し、混乱した指揮系統を建て直した功でスターリンから勲章まで送られている。政治将校の存在を煙たがる軍においても一目置かれる存在となった彼は、先日昇格し、独自の執務室を持つまでになっている。それなのに彼の表情はさえなかった。  執務室の扉を潜ると自分の席へと歩み寄る。簡素な机と椅子、それにいくつかの棚で一杯になる様な小さな部屋だが、人を信じると言うことのない彼にとっては唯一気を休められる場所でもあった。  チャリ!  椅子に座る時に、上着のポケットがひじ掛けにあたり小さな音を立てる。それで初めて思い出したかの様にエフゲニーは下を見、ポケットに手を突っ込んだ。そしてそのポケットの中にあったものに手が触れた瞬間、彼の顔が醜く歪んだ。  あたかもついさっき思い出したかの様に振る舞った彼だが、実際はその存在を忘れていたわけではない。それどころか彼の心は常にそれに縛りつけられていると言ってもいい。  またなのか……。  どんなに忘れようと思っても亡霊の様に浮かび上がって来る物に彼はいらだちを覚える。そしてそのいらだちはやがて恐怖を伴って彼の心を支配する。ポケットの中のものをつかみ取ろうとまさぐるが、指先が震えてうまく掴めない。そんな自分にいらだち、彼は小さく舌打ちする。  過去にとらわれるな……、お前は英雄なのだ……  何度もそう心に言い聞かせて漸く彼は落ち着いた。ただそんな自分を他の誰にも知られたくはなかった。そのため彼はいつも平然とした姿でいられる様に心がけている。けれど誰もいない部屋ですらポーズをとってしまうほどに過去を意識している自分に気がついて、エフゲニーは自分自身を嘲笑した。  ここまで来ると呪縛に近いな……。  奴がいなくなれば……、殺しさえすれば、この呪縛から解き放たれると思っていた。  彼はポケットの中でその手に掴んだものをぎゅっと握りしめた。 「ヴァレリー・リュドミロヴィチ、お前はいつまでわたしを束縛するつもりだ……」  エフゲニーはポケットから手を抜くと、握っていたものを床に叩きつける。  カチンと乾いた音がし、小さなロケットペンダントが転がった。 ●1938年 モスクワ(ヴァレリーの誕生日) 「リェーラに聞いたが、きみはずいぶんと勉学に励んでいるそうだね」  ヴァレリーの父、リュドミール・ユーリエヴィチ・ガミドフにそう問いかけられ、エフゲニーはスープを飲む手を休めてスプーンを置いた。  その日、エフゲニーはヴァレリーの誕生日に呼ばれ、彼の館を訪ねたのだ。つきあいが広いわりに、特に親しい友人をヴァレリーは持っていなかった。そのためこの日呼ばれたのは彼と、ナターリアの二人だけである。人づきあいが苦手な彼も、自然会話に参加しなければいけなくなる。こうなることは予想できたのにここまでのこのこやってきた自分と、お節介な友人に対し彼はいらだちを覚え、心の中でだけ舌打ちをした。  ヴァレリーは基本的に隠し事の出来ない性格だ。自分のことも洗いざらいこの父親に話しているのだろう。  エフゲニーはそう思った。そうであれば変に隠し事も出来ない。 「父にも厳しく言われていますし……、早くえらくなって楽をしてもらいたいですから」  遠慮がちにそれだけ答えた。  本当は父親なんてどうでもいい。もしほんとうに自分が出世すれば、これまでのことを恩きせがましく言って俺にたかって暮らす様になるに決まっている。もし出世しなければ、散々管を巻かれてやっぱり寄生されてしまうに決まっている。  今の彼にとって父親の存在はお荷物としてしか感じられなかった。 「君たち若者はこれから国家を支えていく原動力となる。しっかり頑張りなさい」  リュドミール・ユーリエヴィチは赤軍旅団長らしく鷹揚に頷くとそう言って若者を励ます。  ガミドフ家の夕食は彼には考えられないような物であった。屋敷も大きかったが、食堂も広い。長テーブルの上座に一家の主であるリュドミールが鎮座し、その両サイドにヴァレリー、ナターリアとエフゲニーが向かい合わせで座る。小さな食卓を囲んでの食事しか知らない彼にはまるで別世界での出来事だ。  ヴァレリーと知り合ってからのこの二年間、親友のふりをして付き合ってはきたが、彼には腹にすえかねることも多かった。そして今日、ガミドフ家のありさまを見て、未だに特権階級と言うものが消えずに残っていることを思い知らされたのだ。  しかし彼は気づかない。広い屋敷が閑散としていることに。革命以降、旧貴族もその権力を失い、没落していっているのだ。旧貴族のうちで今も反映しているのはレーニンに付き従い、さらにスターリンへと主を乗り換えたほんの一握りの物だけなのだ。今、真に反映を究めているのはスターリンを中心とした一部の共産党幹部だけなのである。  そんなことまで気が回らないエフゲニーは共産主義とは言っても、所詮は庶民の間でのこと。帝政時代からなんら変わることはない。要は支配者が変わっただけなのだと、強い反発を覚えた。  ならば……。  彼は思う。  ならば、俺はその支配階級にのし上がってやる。国家も共産主義もくそくらえだ。  そう心に誓いながら、彼はテーブルの下で拳を握った。そんな彼を斜向かいに座るナターリアは怯えた目で見つめる。  リェーラは彼のことを親友だと言うけれど、わたしには彼もそう思っているとは思えない……。  いつも二人の側にいたナターリアは二人の関係に薄々気づいていた。  ヴァレリーが彼にお節介をやくたびに、ほんの一瞬だけ彼はヴァレリーを憎悪の籠もった瞳で睨み付ける。時には妖しげな薄笑いを浮かべることすらあった。ナターリアの目にはエフゲニーは裏でなにを考えているかわからない、危険な男としてしか映らなかった。 「今は、酷い吹雪が吹き荒れて先が見えないと思うかもしれないが、止まない吹雪はない。いつかはこの吹雪も止み、凍てついた大地もやがて春を迎えることだろう。そのときのためにも自分をしっかりと磨いておくことだ」  リュドミールの演説をエフゲニーは微笑しながらも一言一句聞き逃すまいとするかの様に真剣に聞いていた。そんな彼は表向き笑いながらもヴァレリーとその父親を少しも笑っていない目で見据えている。彼女は言いようのない不安を覚え、背筋に悪寒が走るのを感じた。  日もどっぷり暮れた頃、晩餐もお開きとなり、エフゲニーとナターリアはそれぞれの帰途についた。帰る方角はさほど違わないが二人は別々に帰る。そしてナターリアの横にはヴァレリーがいた。 「ジェーニャはどうしちゃったんだろうね? どうせ同じ方へ帰るのだから一緒に帰ればいいのに」 「……」 「ジェーニャとなにかあったの?」  なにか言いたげに見上げて来るが、結局は口ごもってしまうナターリアを見てヴァレリーはそう尋ねた。  はじめ、自分とエフゲニーの仲を疑っているのかとビックリした彼女は、目を見開いてまじまじと彼を見上げるが、そこにはなんの屈託もない笑みが浮かんでいた。  この人は疑うと言うことを知らないのかもしれない……  ナターリアは思う。自分に対してもエフゲニーに対しても全幅の信頼をおいている。そんな彼の性格を好ましく思うと同時にえも知れぬ危機感を彼女は感じた。この彼の性格が、いつか彼の足元を救うかもしれない……。  いっそ、彼にあの人の危険さを訴えてみようか……。  焦燥感に苛まれながら彼女はそう思った。  しかし、幾ら彼女が言って聞かせても彼が相手にしないだろうことも判っていた。なんの証拠もないまま人を疑う男ではない。  ナターリアは自分でもどうしていいのかわからずに、いらだちを募らせてポケットの中をまさぐった。そのとき指先に当たるものがあった。思わずそれを握りしめる。  せめてこれが、彼のお守りになれば……  ナターリアはそっとポケットから手を出すと、小さな包みをヴァレリーのほうへと差し出す。 「僕に?」 「ごめんなさい。なんとなくパーティーの場で渡しそびれちゃって……」  パーティーに来てくれるだけでいいからと言われたものの手ぶらで行くわけにもいかず用意したプレゼント。けれど決して義理と言うわけではない。ヴァレリーと違って決して裕福な家庭に育ったわけではない彼女が考えた末に選んだプレゼント。 「こんな、気をつかわなくてもいいのに」 「ううん、わたしがなにかあげたかったの。でもエフゲニーはきっとなにも用意していないだろうから……」  実際はエフゲニーに遠慮したと言うよりはエフゲニーの目が怖かった。ナターリアの目から見ると、エフゲニーは明らかに羨望と嫉妬のまなざしを彼に投げかけている。そして自分にはないものを全て持っているヴァレリーを憎悪しているように感じた。  わたしがリェーラに近づくと、それだけ彼の憎悪が増す。  ナターリアは漠然とではあるがそう感じていた。別に自惚れるつもりはないし、エフゲニーが自分に女として興味を持っているとも思っていない。  そもそもあの男に人を好きになるとか、愛すると言う感情があるのだろうか?  おそらくエフゲニーは人を愛すると言うことを知らないし、愛そうとも思っていないのではないか? そうナターリアは思う。けれど愛されたいと言う願望は強いのかもしれない。自分と言う存在がどうのではなく、それにヴァレリーが愛されているという事実に彼は羨望し、嫉妬するというのが本当のところなのかもしれない。  ナターリアはそこまで考えて、思案するのをやめた。どちらにしろ自分のとるべき行動は同じなのだ。どういう理由であれエフゲニーをこれ以上刺激しない様に、彼の前では必要以上にヴァレリーと接触しないこと……。  ナターリアはそんな自分の決心に寂しさを感じた。ヴァレリーが思っている以上に自分は彼に惹かれている。彼も自分に好意を持ってくれていることは判っているが、自分の彼に対する想いはそれ以上だと言う自信がある。その事に彼は気づいてはいないが、ひょっとするとエフゲニーは勘づいているかも知れない。  最近のエフゲニーはまるでガミドフ一家のあら探しでもするかの様に彼らの行動を注視している。その事にナターリアは強い危機感を持っていた。  だから、彼の目の前ではなるべくヴァレリーには近づかない。その代わり二人でいられる時間を大切にしよう。  ナターリアはそう心に決めるとゆっくりとヴァレリーの体に手を回した。甘える様な目でヴァレリーを見上げる。 「ナ、ナターシャ?」  突然のことに少しどぎまぎしながら問いかけるヴァレリーを見て、見上げたまま彼女はそっと瞳を閉じる。それを見たヴァレリーもそれに応えるかの様に目を閉じるとそっと唇を合わせた。  唇が離されると、ナターリアは恥ずかしそうに俯きながらも上目づかいにヴァレリーを見る。 「ねえ、それ、開けて見て」  ナターリアに促されてヴァレリーは先程手渡された包みに視線を移す。おそらくは有り合わせの包装紙に包まれたそれは、それでも女の子の仕事らしくかわいいものが選ばれていた。 「いいの?」  そう問いかけるヴァレリーにナターリアはそっと頷く。彼が包み紙を破らない様に丁寧に包装を解いていくのを見るだけで彼女は嬉しかった。  ヴァレリーが包みを開くと、中からは小さなロケットペンダントが現れた。ペンダントを開くと、そこにはナターリアの写真。  ナターリアはペンダントをまじまじと見つめるヴァレリーを見て恥ずかしくなった。考えに考えた末のプレゼントであったけれど、こうして手渡してみるとそれは非常に押しつけがましいもののようにも思えた。  やっぱりペンダントだけにしておくべきだったかしら……  ヴァレリーに自意識過剰と受け取られないかとナターリアはどぎまぎする。  まともに彼の顔を見ることも出来ないでうつむいていると、ややあって今度はナターリアのほうがヴァレリーに抱擁される。 「ありがとう。大事にするよ」  そう言われて見上げるように顔を上げたナターリアの顎に手が添えられる。背伸びをする様にして瞳を閉じる彼女の唇に再度ヴァレリーのものが重ねられる。ゆっくりと愛する男の首に手腕を回すとナターリアは自らもそれに応える様に唇を合わせていった。  そんな二人の姿を木の影から覗く男の姿に二人は気がつかなかった。眼鏡のレンズの奥に覗く鋭い眼光が二人を射抜いていた。 ●1946年 モスクワ 共産党本部2 「あなたはほんとうにわたしが欲しいわけじゃない」  エフゲニーは執務室の机の上でペンダントを弄びながら、かつて妻になる前のナターリアに言われた言葉を思い出していた。 「あなたがわたしに興味を持ったのはわたしがリェーラの恋人だったから。あなたはわたし個人が欲しいわけじゃなくて彼のものをただ奪い取りたいだけなのよ」  そう言われた時、エフゲニーは勘の鋭い彼女に舌を巻きながらも、冷笑しただけだった。  確かにそうだ。  エフゲニーは一人頷く。  誰かを愛したと言う記憶はない。そして誰かに愛されたと言う記憶も。  当の昔に求めることはやめた。愛とか正義とか、そんな不確かなものにはすがらない。信じるのは自分のみ。力を手に入れるためであれば他人を蹴落とすことも厭わない。いつか上り詰めて、自分の理想の世界を作り上げてやる。  ずっとそうして生きてきた。そしてこれからもそうやって生きていくものばかりだと思っていた。現にあの時だって……。  執務室の窓からエフゲニーは外を眺める。モスクワ市街からはずれた所にはのどかな田園の風景が広がっていた。 ●1938年 11月某日 モスクワ(ガミドフ邸)  屋敷の中でも南西に位置する一室でヴァレリー・リュドミロヴィチは豪華ではあるが、古びた椅子の背もたれに体を預ける様にして外を眺めていた。そこは彼の父、リュドミール・ユーリエヴィチの書斎で、その窓からは元はガミドフ家の領地であった田園が見渡せた。革命後、それらの領地は全て失ったものの、それらの景色は何ら変わることなく往年のガミドフ家の反映を思わせる。しかし、それももうお終いだった。 「リェーラ……」  ヴァレリーの傍らに立つナターリアが名を呼ぶが、彼は微動だにしなかった。どのくらいそうしているのか? 既に日は傾き始め、茜色に染まった室内に二人の影が長く伸びる。すでにヴァレリーには時間の感覚はなかった。それどころか一切の判断能力を喪失していると言っても過言ではない。 「リェーラ……」  そう呟く様に名を呼ぶナターリアの目から涙がこぼれ落ちた。  この部屋の主はもういない。  スターリンの独裁政治は過酷を究めている。今、モスクワ中が……、いや連邦の領土内全てがスターリンの影に怯えている。  深夜のノック……、秘密警察による粛清活動はスターリンによる富農撲滅政策に端を発し、やがて官僚、軍人にまでそのターゲットを広げていった。粛清の理由もはじめは反革命的な言動や、政府批判等だったが今では単なる「根も葉もないうわさ」や「個人的な好き嫌い」にまで及ぶすさまじさを見せている。現に軍人だけでも後に赤軍大粛清と呼ばれる1937から38年に起こった粛清の中で元帥五名中三名、軍管区司令官十五名中十三名、軍団長八十五名中六十二名、師団長百九十五名中百十名、旅団長四百六名中二百二十名が粛清された。今、ソ連で一番恐れられているもの、それが深夜のノックなのだ。それが昨晩、このガミドフ邸を襲ったのだった。 「リェーラ、おじ様のことはなにかの間違いよ。きっとすぐに帰って来られるわ」  秘密警察につかまったものは二度とは戻って来ない。そのことはナターリアにもよく分かっていた。ナターリアだけでなく、皆が判っていることであった。現にスターリンの身内ですら十人からが犠牲になっているのだ。粛清のやり玉にあげられたものは裁判にかけられることもなく処罰されていく。間違いであったとしても弁解すらすることも出来ない。  ナターリアの言葉に力なく頷くヴァレリーを見て、彼も父親が戻って来るとは信じていないことはわかる。それでも彼女は慰めにもならない言葉を彼にかけるしかなかった。  こんなことになるなんて……、わたしたちは一体これからどうしたら良いのだろう?  ヴァレリーを労りながらも、ナターリアも途方に暮れる。差し込む夕日が絶望と言う名の色に二人を染め上げていった。 「これからどうするつもりだ?」  ふいに背後からかけられた声に二人は振り向いた。部屋の中には二人の他にもう一人、少し離れたドアの前にいたのだ。  感情のこもらない目で自分たちを見つめる男の視線にナターリアが緊張で顔を強張らせる。 「ジェーニャ」  二人に遠慮していたのか、それまでずっと黙って背後に控えていたエフゲニーがヴァレリーの呼びかけに答えるかの様にゆっくりと二人に近づく。 「おそらく、この館を含め財産は全て没収されるだろう。これからのあてはあるのか?」  自分たちの力ではどうにもならない事実から目をそらし、逃避をしていた二人はその言葉に急に現実に引き戻された様に顔を見合わせた。暫くそうした後、ヴァレリーが静かに首を振る。  ヴァレリーの返事は聞くまでもなく彼には判っていた。これまで父親の庇護の元なに不自由なく育ってきたお坊ちゃんだ。敷かれたレールが消滅した時、行き場をなくしてにっちもさっちもいかなくなるのは分かりきったことだ。たった一晩で憔悴しきって、以前の様な明るさも覇気もなくした男を彼は冷静に観察する。  再び椅子にその身を預け、力なく外を見つめる男の姿にエフゲニーは快感にも似た思いを抱く。それまで自分がどんなに望んでも手に入れることの出来ないものを持っていた男が、目の前で全てを失い、うちひしがれているのだ。心のどこかでいい気味だと思う気持ちがある。これまで庶民の上に当然の様に君臨してきた報いだと。しかし……。 「もろいものだな……」  エフゲニーに背を向けたままのヴァレリーを見ながら、彼は一切の感情を交えることなく呟く。呟くと言ってもその声は静まり返った室内ではしっかりと他の二人の耳にも届く。 「エフゲニー・ワシリエヴィチ!」  エフゲニーの労りのかけらも感じないセリフにナターリアがキッと睨み付けるが、彼は意に介せずにヴァレリーのすぐ後ろにまで迫る。まったく悪びれた風もない彼に憤りを感じながらも、まったく無力な自分に彼女は唇を噛みしめる。そんな彼女を揶揄するかの様に口元だけで笑うと、彼はヴァレリーのほうへと視線を移した。 「俺には以前のお前の様に大きなコネはない」  ヴァレリーの背後から、彼を見下ろす様にしてエフゲニーは淡々と言葉を続けた。彼の脳裏にいつかヴァレリーの言った言葉が蘇る。 「うちの父は赤軍の旅団長だ。きっと君の役に立てると思うよ」  皮肉なものだな。そう言って救いの手を差し伸べてきた男に、今自分が救いの手を差し伸べようとしている。それがほんとうに彼にとって救いとなるかどうかは別であるが。  彼は心の中で笑った。たった一晩で二人の立場が逆転してしまったのだ。個人の締める地位や立場等と言うものはそれこそもろいものだ。特に今の様な時代では……。  幾ばくかの優越感が彼を支配する。  一度は彼のことを睨み付けたナターリアも話の展開が見えなくなり、彼を見つめるその表情から険しさが消え、代わりに訝しげに見つめなおす。 「だから、大した力には慣れないが、最下層の生活でも良いと言うのであれば、父の伝で仕事くらい紹介してやる」  そう言って彼は二人の反応を伺う。  不安げにヴァレリーとエフゲニーの間でナターリアが視線をさまよわせる中、ゆっくりと振り向いたヴァレリーが力なく微笑む。 「ありがとう。助かるよ」 「仕事と言っても工員の父が紹介する仕事だ。やはり工場勤務になるだろうが、なにも紹介されないよりはましだろう。工員の仕事は過酷だが、お前は一応高等教育を受けているから直にそれなりのポジションへ配置されると思う」 「それなりのポジション?」  エフゲニーの言葉に今度はナターリアが問いかける。 「ああ、高等教育を受けたものは工場でも貴重だ。おそらくはすぐにでも工員から監督する立場へと移れると思う」  その言葉に二人の表情が緩む。特にナターリアにはあからさまな安堵の色が見て取れる。彼女自身もヴァレリーが生粋のお坊ちゃんであり、エフゲニーが言う様に最下層とは思わないものの、労働条件も厳しく過酷な労働を強いられる工員が彼に勤まるかどうか不安だったのだ。  そんな二人を見てエフゲニーはほくそ笑んだ。  甘いな、ヴァレリー・リュドミロヴィチ。  椅子から立ち上がり、手を握って来る男を彼は冷やかな目で見つめた。今だその表情に力こそないものの、以前と変わらぬ笑みを浮かべるお坊ちゃんを心の中で嘲笑する。  こいつは未だに俺の正体に気づいていない。俺がなんの目的も無しにお前に手を差し伸べるとでも思っているのか?  所詮は世間知らずのお坊ちゃんと言うことか……。  エフゲニーはヴァレリーのことを心の中でそう判断するが、それはナターリアにもいえることであった。彼女にとってもエフゲニーの申し出は地獄に仏と言うべきものであり、それまでの緊張が一気にとけてしまっている。そのためいつもなら気がついたであろう彼の裏の顔には今は気づかない。  安心したのか寄り添う様にして自分たちの世界を作り始めた二人に背を向けると、エフゲニーはヴァレリーの屋敷を後にした。  屋敷の外で一度だけ彼は振り向くと、先程までいた部屋の窓を見つめる。そこにはまだ、二人の影か見える。口の端を少しだけゆがめると、再び踵を返して彼は歩きだした。  ヴァレリー、つもり積もった貸しはしっかり返してもらうからな…… ●1941年 モスクワ イグナチェンコ家 「はっ!?」  ナターリアの父、エゴール・ニコラエヴィチ・イグナチェンコは目の前の男が発した言葉をすぐには理解することができなかった。  男のことは知っている。娘の学友であり、彼女の想い人、ヴァレリー・リュドミロヴィチが親友と呼んで憚らなかったのだから。彼が苦境に陥った時も目の前の男が救いの手を差し伸べたと聞いている。もっともそれが成功したとは言い難かったのだが。  工員たちのほとんどは農村から駆り集められた元農夫だ。そんな農夫たちは大抵二分される。ひとつが元富農で豊かな暮らしをしていたのが、スターリンの富農撲滅政策によって落ちぶれてしまった者たち。もう一つが元から貧農で富農の下で土地を借りて農業を営んでいた者たち。前者は比較的元貴族に好意的で親近感を抱く。それも当然で、彼らは以前は貴族の元で豊かな生活を営んできていたのだから当然立場的に貴族に近いのだ。それに対し後者は体制が変わる前も今もたいして暮らしぶりは変わることなく、どちらにしても過酷な生活であることは変わりない。その怒りが無益な戦争を繰り返し国土を荒らさせた元の特権階級に向くことも珍しくはない。そんな一団にヴァレリーはかなり陰険な嫌がらせを受けていた。  ヴァレリーはお坊ちゃん気質ではあったが、人当たりも面倒みもよく、明るかった。赤軍旅団長の息子と言う立場をおいておいても娘の相手としては申し分ないと思っていた。けれど、そんな彼が日に日に暗くなっていくのをエゴールは感じていた。  きっとつらい生活を余儀なくされているのだろう……  具体的なことはなにもわからない彼だが、それでも彼を取り巻く環境は想像がつく。専門教育を受けていないので兵卒からはじめなければならなくなるが、彼を赤軍に誘おうかと何度も思った。けれど農民の出が多い兵卒からはじめれば例え職を変わったとしても今の環境とさして大差がないことも知っており、その都度思い止まってきたのだ。  ヴァレリーは悪夢の一夜を境にその境遇を一転させてしまったが、そんな不遇の彼に手を差し伸べたのも目の前のこの男ただ一人である。あの時はエゴールでさえ、自分の立場を考えて動けなかった。下手に動けば自分もヴァレリーの父、リュドミール・ユーリエヴィチ・ガミドフの仲間として粛清の対象になってしまう可能性があったのだから。同じ軍人同士だけに余計にやっかいだった。そんな状況下でヴァレリーに救いの手を差し伸べたのだから悪い男ではあるまいと彼は思った。それだけに今、彼がいった言葉がとても信じがたかったのだ。  今、彼はなんと言った? たしかナターシャと結婚させろと?  混乱する頭でたった今、目の前の男、エフゲニー・ワシリエヴィチ・エルモレンコの申し出を反芻する。  どういうことだ? 彼とリェーラは親友同士ではなかったのか?  エゴールにしてみれば、例え惚れていたにしろ婚約者を奪い取る等と言うことは親友としてあるまじきことと感じる。  ナターリアとヴァレリーは正式に婚約を結んだわけではなかったが、ヴァレリーの父、リュドミールが存命中にすでに親同士では話がまとまり、後は本人たち次第と言うことになっていた。その本人たちも特に依存は無いように思える。もともと親同士が本人たちの意向をくみ取ってそう言うことにしたのだから。ただ適齢期と言うか二人が一人立ちできるまでにはまだ時間がかかった。だから後はそのときに本人同士が依存がなければと言うことにしたのだ。  目の前にいる男は今のヴァレリーを比較しても陰気臭く、人づきあいがあまり上手とは思えなかった。娘とヴァレリーのことはそれなりに学校でも噂になっていたとは聞いているが、この男の耳にはまだそれが入っていないのかもしれない。  仮にもヴァレリーの親友と言うことであれば、聞かなくともその辺はわかりそうなものだが、あまりに突拍子もない展開に、思考が追いつかなかったエゴールはそんな風に考える。 「娘はヴァレリー・リュドミロヴィチと付き合っている……」  そう言ってエゴールはエフゲニーの様子を伺ったが、彼はなんの反応も示さなかった。 「――娘はてっきり彼のことを好いていると思っていたのだが……、その……」  いつのまにか彼に乗り換えたのだろうか?  これまでそんな素振りも見せなかったからにわかには信じがたかったが、彼には他に今の状況を説明出来るようなことが思いつかなかった。 「知っていますよ。ナターシャとヴァレリーが未だに付き合っていることも。ヴァレリーがああなった今でも彼女が彼のことを愛していることもね」  一人思い悩むエゴールを嘲笑するかのようにエフゲニーはそう言って口の端をゆがめた。  それならば何故?  喉元まででかかった言葉はエフゲニーの凄惨な笑みに押し込められてしまった。 「リュドミール・ユーリエヴィチ・ガミドフ将軍が、どうして粛清されたか知っていますか?」  まさか、まさか……  冷や汗でぐっしょりと濡れ、シャツが背中に張りつく。緊張で喉がカラカラになり、その体は怒りで今にも震えだしそうなのに彼は身じろぎひとつすることが出来なかった。 「わたしはヴァレリーが大嫌いだった。わたしが喉から手が出るほど欲しても手に入れることが出来ないものを全て持っていて、それだけならまだしも無神経に近づいてきてそれを見せびらかす。腹立たしいことこの上なかった……」  エフゲニーはそう言うと自嘲気味に笑った。 「醜い嫉妬と笑っていただいても結構。そんなことはわたしにも判っている」  笑っている口元とは裏腹に眼鏡の奥にある瞳は眼光鋭くエゴールを睨み付けている。それはヴァレリーに加担するのであれば、エゴール自身も彼の増悪の対象となることを如実に物語っている。 「なんと言われようとわたしは彼から全てを奪い取ろうと決心した。折角我が祖国が共産主義に移行したのだから、旧貴族たる特権階級は徹底的に排除すべき。そうじゃないですか?」 「――それを言うなら今の……」 「同志ニコラエヴィチ、それ以上は口にすべきじゃないでしょう」  エフゲニーのセリフに口をはさもうとしたエゴールだが、すぐさま彼に遮られた。 「わたしも義理とはいえ父となる人を強制労働に尽かせたくはないですからね」  凄味のある笑みを浮かべる男にエゴールは口を噤むしかなかった。  エゴールの中で怒りよりも恐怖が勝っていく。 「ガミドフ将軍はこともあろうにわたしの目の前で体制批判をしたんですよ。今の政府に不満を覚えて、これから国家を支えていかねばならない若者にご自分の歪んだ思想を植えつけようとしたのでしょうね」  言葉づかいこそ丁寧ではあったが、そう言うとエフゲニーはふんぞりかえるようにソファーにもたれ、怒りに打ち震えるエゴールを冷やかに見つめる。尊敬する上司があからさまにいわれのない非難にさらされるのを黙って聞くしかないエゴールは自分の中で再び怒りが込み上げて来るのを感じた。 「実際、彼が粛清されるきっかけを作ったのはわたしですが、幾ら秘密警察でもなんの力もない若造の戯れ言を鵜呑みにするようなことはありません。わたしの密告の後、散々彼のことを調べ回った結果、同じような証言がいくつもでてきたようですよ。彼はわたし一人ではなく、皆に売られたのです」  そう言った後、彼は少し前かがみとなり身を乗り出すようにすると、若干声をひそめる。 「それも仕方のないことじゃないですか? 誰だって自分の身はかわいい。下手にかばい立てすれば次は自分が同じ目に合わないとも限らないんですからね。あなたも彼とは親しかったのだから十分に気をつけないと。今でも秘密警察にマークされていないとは限らないんですよ」  ゴクリッ!  エフゲニーの言葉にエゴールは生唾を飲み込む。  それはたしかに彼自身も危惧していたことだった。上司と部下と言う間柄だけでも疑われるかもしれないのに、彼の娘とリュドミールの息子ヴァレリーは恋仲で結婚すら囁かれているのだ。その位の話は当然秘密警察の耳にも入っていることだろう。  今になって、娘とヴァレリーのことは少々早まったかと彼は後悔した。捕らえられたリュドミールのことをどうこう言うつもりはない。客観的にみて明らかに濡れ衣であるのだから。けれど今のご時世なにがあるかはわからない。人間関係にはもっと注意を払う必要があったか……。 「むろん、あなたが目をつけられるなら当然ヴァレリーにも監視の目は向くでしょうね」  勝ち誇ったような笑みを浮かべエフゲニーはそう告げる。  エゴールはやりきれないように首を振った。娘とのこともあり実の息子のように可愛がってきたヴァレリーではあるが、そんな彼とも縁を切らねばならないかもしれない。  このたった一度の会談で彼はエフゲニーという人物の恐ろしさが身に沁みてわかった。  彼は狂人だ……。この国を支配するあの男と同じような狂気に捕らわれているんだ……。  今度こそ彼は震えが来るのを止めることが出来なかった。このままでは下手をすると一家揃ってシベリア送り等と言うことにもなりかねない。  暫くの間、二人の間に沈黙の時が流れる。  無言の圧力に耐えかねたエゴールがテーブルの上に置かれたカップに思い出したかのように手を伸ばす。お茶でも飲んで気を落ち着かせようとするのだが、それをうまく掴むことは出来ず、カチャッ! と大きな音を立ててカップはテーブルに転がった。 「どうされました? 顔色が優れないようですが……」  エフゲニーはわざとらしくそう言って席を立つとカップを起こしながらエゴールに近づく。 「早く、あの男とは縁を切ることです。そうしてナターシャをわたしに差し出しなさい。そうすればあなた方一家は安泰です。なにがあってもわたしが守ってあげますからね」  カップを片づけるふりをしながら、うずくまるようにして震えるエゴールの耳元でエフゲニーはそう囁いた。 ●1946年 モスクワ 赤の広場 「あなたはほんとうにわたしが欲しいわけじゃない」  今日一日過去を振り返って、それが何時妻に言われた言葉だったのかをエフゲニーは思い出した。  クレムリンを出、赤の広場……ちょうどワシーリー寺院の前で彼はふいに立ち止まる。  この場所だ……。  エゴールは彼の脅しに簡単に屈した。たった一回の訪問で彼はナターリアをヴァレリーと別れさせ彼と結婚させると約束した。そして後日、彼自身がナターリアを誘い出し、この場で結婚を申し込んだ時に言われたのだ。  おそらくは、卑劣な手を使った自分に対する彼女なりの最後の抵抗だったのだろう。それ以後のナターリアは従順に彼に従ってきた。結婚式の当日、衆人の前で彼が口づけを求めた時も、ヴァレリーが見ていることを知りながらも彼女は素直にそれを受け止めた。その後でわずかばかりの涙を流したものの一切の抵抗はなかった。 「ナターシャは聡明な女性だ……」  最後にヴァレリーにあった時、彼に言ったセリフと同じ言葉を呟く。  彼女は気づいているはずだ。彼がヴァレリーの父、リュドミール・ユーリエヴィチ・ガミドフを陥れた事も、彼自身が彼女の最愛の男の死に関わっていることも。しかしそのことについて彼女がなにか言って来ることはなかった。戦場から帰った彼が彼女にヴァレリーの死を告げた時も黙って頷いただけであった。  ナターシャは憾みごとひとつ言うでもなく俺に従っている。不平不満も一切漏らさずに妻としての勤めをきちんと果たす。端から見ればきっと俺たちは仲むつまじいとまでは言わなくても幸せな夫婦に見えるのだろうな。でも……  と、エフゲニーは思う。  彼は知っている。従順に尽くしてはくれるが、決して愛されてはいないと言うことを。彼女が今も愛しているのはヴァレリー一人であると言うことを。  もともとは彼女が言う通り、ヴァレリーのものだから欲したに過ぎない。ナターリアでなくてもヴァレリーの彼女であれば誰でもよかった。ただあの男から全てを奪いたかっただけなのだから。それを……。  それをどこで間違ったのだろう……。  今、彼は間違いなく自分の妻を愛している。そして彼女に心から愛されたいと欲している自分がいる。  エフゲニーは今だナターリアの心を独占している男に激しい嫉妬を覚える。その身を八つ裂きにしても飽き足らないくらいに憎い。憎かったから欲したはずなのに、欲してしまったがゆえに増大する憎しみ。地獄の連鎖の中に一人身を置き、彼は痛くなるほどに拳を握りしめる。  リェーラ、お前は死して尚俺を苦しめるのか? 何時になったら俺は貴様から開放されるのだろうな……。  いつのまにかエフゲニーは自分でも気づかないうちに笑っていた。  教会の前に佇む男を人々は避けるようにして通りすぎていく。中には奇異の目で見るものもいた。  次第に彼の笑い声は甲高く、そして大きくなる。  いいさ、リェーラ。お前が今だに俺にまとわりつくと言うのであれば、今度こそお前の目の前でお前のその一番大切なものを奪い取ってやる。例え何年かかろうともな。どうせお前は俺に取りついていてももう何もできはしまい。ナターシャが……、彼女の心までが俺の物になるのを指をくわえて見ているがいい!  そう叫ぶと彼はポケットの中からペンダントを取り出す。  ロケットの蓋を開けると、陶酔したような表情でナターリアの顔写真を指でなぞってゆく。 「ナターシャ、今度こそ君のリェーラを追い出して見せるよ。ほんとうに奴から全てを奪い取ってやる」  狂気の光を目に宿らせながら彼はペンダントの蓋を閉じ、それを握りしめた。 「まってろよ、子猫ちゃん。必ず落として見せるからな……」  そう呟くと、彼も家路を急ぐ人の流れに沿って闇の中へと消えて行った。 了