小説 五弦の琴                                      とっと  アイヌに古くから伝わる楽器の一つにトンコリというものがある。琴の一種に分類され、弦は五弦。先端が丸くなっており、そこと長方形の共鳴胴は二本の柱のような調弦部で結ばれ、そこに左右合わせて五本の糸巻がついている。共鳴胴の先は細くしぼんだようになって船の舳先を思わせる。  この楽器の面白い所は各部位の名称に人体そそれが使われていることだ。先端の丸型の部分は頭、糸巻きが耳で、調弦部分が首、その下の左右に張り出した部分は肩、共鳴胴の部分はそのまま胴、胴部のふたに開けられた孔は臍と呼ばれる。胴から下の先端が尖った部分は足、そして足部分にある弦の端を結びつける部分にはアザラシの毛皮が貼られており、これは陰部と呼ばれる。  臍からはガラス玉もしくは胡桃を入れる。そうすることでこの楽器に命が宿ると考えられている。だから使えなくなったトンコリは捨てられることなく、供物と一緒に木の根株のそばにおかれて丁重な送り儀式が行われると言う。トンコリとは生き物で、これは鳴るのではなく、話すのだ。トンコリが奏でる音は声なのだ。  トンコリは女性を模って作られた楽器。それは奏者の分身なのかもしれない。  わたしが小山内奏水と再会したのは、昔世話になった箏作家の葬儀でだった。五年前に彼のもとを飛び出してからはまったく連絡も取らなかったのだが、新聞で彼の死亡記事を読んだ時、ふと葬儀には顔を出して見ようと思い立ったのだ。  何故そう思ったのか?  何も言わずに一方的に彼のもとを飛び出してしまったけれど……、いや、飛び出してしまったからこそ、最後のお別れぐらいはしておこうと思ったこともある。彼のもとには十九のときに弟子入りをし、二十七になるまでの八年間いた。最後は喧嘩別れのような感じになってしまったけれど、それでも箏職人としては尊敬できる先生であったのだから。  でも、それ以上に一つの予感めいた考えが浮かんだことが大きかったかもしれない。五年前にやり残したまま未だに出来ないでいる仕事、それをやり遂げることが出来るかもしれないという予感。今でもそこに彼女がいるかもしれないと言うかすかな希望が……。  そんな淡い期待を胸にわたしはずっと大切にしまってあった五弦の琴を取り出すと、それをそっと胸に抱いた。  五弦の琴 「トンコリに見られちゃった」  部屋の隅に立てかけられた二つの五弦琴に目をやりながら奏水はそうつぶやいた。  ひとつは漆で化粧されて艶やかに黒光りするその肢体に、金の蒔絵を施された名人、土屋雅邦作の五弦の琴、もう一つは磨き上げられてはいるものの木目を残したままの素朴なもので、名もなき作者が作りわたしが手をくわえたもの。  彼女はその二つの五弦の琴、トンコリを見てなにを思うのか? それはわたしにはわからない。ただ、じっと二つのトンコリを静かに見つめる彼女の瞳とその横顔、掛け布団から覗いている白い肩とそれにかかる烏の濡羽色とも言うべき艶やかな黒髪をわたしは彼女がトンコリに視線を向けるのと同じように見入るだけだ。  わたしの予感は当たった。もと師である土屋雅邦の葬儀の場にたしかに小山内奏水は存在した。ひょっとすると彼女は既に小山内ではなく土屋になっているのではないかと、会場に佇むその姿を見た時に思ったのだが、彼女は小山内のままだった、彼女は土屋の家族でもなく、弟子のひとりという訳でもない。かといって一般の参列者とも違うという非常に微妙な立場でその場にいたのだ。  なんとなくそんな彼女の様子に近寄りがたいものを感じ、少し離れた所から見ていたのだけれど、やがて彼女のほうがわたしに気づき、驚いたような顔をしたあとで小走りに寄ってきた。  当初わたしは五年前に彼女から預かったものを返し、形ばかりのお悔やみと焼香を済まして全てが終わるものと思っていた。  彼女に対し、何も期待していなかったと言えばうそになる。しかしささやかながら、少しぐらい昔を偲んで話でも出来れば良いほうだと思っていた。彼女はわたしが土屋のもとを飛び出す引き金となった女だし、それは土屋ばかりでなく彼女とも喧嘩別れに近い形で別れたことを意味するのだから。それがこんなことになろうとは……。 「なにを考えているの?」  奏水はけだるそうにゆっくりと向きを変えるとうつ伏せになった。  肘を付き、少しだけ上半身を起こすとわたしのほうへと顔を向ける。同衾している訳だからお互いの距離は近い。気がつけば奏水の顔が目の前にあった。布団の隙間から覗く裸の胸が妙にまぶしく感じる。 「もう君とはこんな風になることはないと思っていた」  わたしがそう言うとちょっとばかりびっくりしたように目を見開く。そしてそのままにじり寄り、緩んだ涙腺を隠すかのようにわたしの胸に顔を埋めながらしっかりと抱きついてきた。  柔らかな双丘の感触と、先程までの行為の余韻を残したかのような火照った体のぬくもり。そして……。 「――わたしも……」  彼女は言った。わたしもと。  それは、わたしと会う気がもう、奏水には無かったと言うことなのだろうか? それとも彼女がそう願ってもわたしのほうが拒絶すると思っていたと言うことなのか……。そんな考えが頭をよぎったが、それはもうどうでも良いことのように思えた。わたしたちは再会し、今こうして一緒に同じ時を過ごしているのだから。  腕のなかで声を押し殺して泣く奏水の頭にそっと手をやると、髪をすくようにしてなぜてやった。  わたしと奏水の出会いとは、そもそも偶然だったのか、それともなにか必然があったのかとこの五年間のうちに何度も考えた。  彼女とはじめてあった時、わたしはまだ土屋のもとで修行を続ける箏職人の卵で、当然給料なんかもほとんどなく、夜の居酒屋のバイトにその収入のほとんどを頼っていた。毎月カツカツの生活をしてはいたけれど、不思議と苦痛は感じなかった。夢があったし、なによりわたしは箏を愛していた。滑らかな曲線で描かれた箏のシルエットやそれが奏でる独特の音色とかリズムに魅せられていたと言っても過言ではない。  バイト先の大将は寡黙な男だったけれども怖いと言った感じではなく、客を迎える声は威勢が良いけれどどちらかと言うと大人しい人だった。わたしはあまり良いバイトではなく、客と話し込むこともしばしばあったがそれを咎められたことは一度もなく、むしろ自分が愛想がない分わたしがそうやって客の相手をすることを良しとしていたところがあったように思う。そんな大将のおかげでわたしはずいぶんと居心地のよい思いをさせてもらっていた。  わたしと奏水の出会いを取り持ったのは、そんな居酒屋の常連客のひとりだった。彼は小さな工場の経営者で、彼の工場は本当にちっぽけなものだったけれどもそれなりに繁盛しているらしく、かなり羽振りはよかったのを覚えている。女の子同伴で――女の子をつれて来るのに大衆の居酒屋と言うのもどうかと思うけれども――やってくることも珍しくなかったし、だからその日、彼が奏水をつれて店にやってきた時もたいして気に求めなかった。ただ、一緒にいる女の子がいつもと雰囲気が違うなと思っただけだった。 「片倉ちゃん、この娘の楽器見てやってよ」  そう社長に声をかけられた時、心底驚いた記憶がある。  社長にとって店に女の子をつれて来ることは前座にしか過ぎなくて、それは適度に酔わすことと巧みな話術で――パッと見さえない社長がかなりの確立で女の子を口説き落としているのは金払いの良さと共に自分のペースに引き込ませるこの話術のせいだとわたしは今も思っている――自分のペースに持ち込んでしまうことが目的だった。だから他の人間に邪魔されることを嫌った。だから女の子をつれている時に店員に話しかけるなんてことはまず無かったし、そんなことがある時は引き立て役にされるのがオチだった。  それまでわざと二人を避けるようにして働いていたわたしは、この時になって初めて社長のつれをまじまじと見た。そして社長がわたしを呼んだ訳も納得した。  社長がいつもつれて来る娘はほとんど素人だけど、いかにも遊んでいますという感じの娘が多かった。多分にお金目当てなのだろうからそれも仕方ない。けれどこの日彼と同伴の女の子――これが奏水だったのだけれども――はどう見てもそういうタイプには見えなかったのだ。  奏水はテーブル席で社長に肩を抱かれたまま、カチンコチンに固まっていた。ひょっとしたら少し震えていたかもしれない。これは遊びなれていないどころかひょっとしたら処女なんじゃないかとそのとき思った。 「片倉ちゃん、琴とか作ってるんでしょ? 彼女ちょっと変わった楽器持ってるんだけど壊れちゃったみたいでね、見て上げてよ」  そんな社長の言葉を聞いてすがるような視線を向けて来る奏水。それが意図するものが、壊れたという楽器に対するものなのか、それとも今自分のおかれた状況に対するものなのか……。  どのみちこのまま彼女を放っては置けないことはたしかだった。そんなことをしたらそのままお持ち帰りされて泣き寝入りコースまっしぐらとなるのは目に見えていた。さすがにそれに対して見て見ぬふりをするのは気が引けたし、それに変わった楽器と言うものにも興味を惹かれた。  結局わたしはちらりと大将のほうを一瞥しただけで、社長に言われるままに彼らと同じテーブルについた。大将は一瞬視線を合わせたものの、やっぱり何も言わずに自分の仕事に戻ってしまった。 「これこれ、これなんだけどね」  わたしが席に着くなり社長はそう言って奏水の横においてあった風呂敷包みをテーブルの上に広げた。その中からでてきたものにわたしはしばらく声を失った。はじめてみるそれはなんとも奇妙な形をしていたが、同時に言葉にできないような美しさをも同梱していたのだから。 「樺太アイヌに古くから伝わる楽器で、トンコリって言います」  わたしが聞いた初めての彼女の言葉は、挨拶でも自己紹介でもなく、その楽器の名前だった。  いまだ腕のなかでしゃくりあげる奏水をなだめながら、わたしは彼女に話しかけた。 「僕らが初めて出会った時のことを覚えているかい?」  わたしの問いかけに彼女は小さく何度も頷く。 「あの時の君は、とても頼りなげでまだまだ子供という感じだった。世間知らずで、危なっかしくて、見ているこちらのほうがヒヤヒヤさせられるくらいにね」  そう言ってわたしが笑うと、彼女も顔を上げ、真っ赤になった目に負けないくらいほおを染めてはにかんだように笑って言った。 「あのころは本当に子供だったから……」 「でも、今日葬儀場であったとき君はとてもしっかりした大人の女性になっていて、はじめは別人じゃないかと疑ったほどだった。まさか五年のうちにこうも変わるとは思わなかった」  わたしの言葉に彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべ言った。出会ったのは、わたしが二十五、奏水が十九のときだから、それも仕方ない……、というか頷ける。 「女の子はね、ある日突然変化するものなのよ」  そう言った後でほんの一寸だけつらそうに顔をしかめる。そしてそっとつぶやくように「でも、ごめんなさい……」とだけ付け加えた。それはよく注意していなければ聞き逃しそうなほど小さな声であったけれど、わたしの耳にはっきりと届いた。それは五年前の別離に対する謝罪、そして空白の五年間に対する謝罪なのかもしれない。  また涙腺が緩んだのか、押しつけるようにしてわたしの胸に顔を埋める。そんな彼女をそっと引き離すと、指で涙を拭ってやる。 「そう、昼間は本当に大人になったなあと思ったのに、本質的な所は何も変わっていないんだね」 「本質的な所?」 「そう、泣き虫で甘えん坊なところ」  そう言って意地悪く笑うわたしに対し、奏水はすねたようにそっぽを向き、わたしのお腹をぎゅうっとつねった。  わたしは痛みをこらえながらもそんな彼女に笑って見せた。 「ほら、そんな所は昔のままだ」  それは彼女を元気つける為の言葉ではなく、わたしの本心だった。昼間、別人のように変わってしまった彼女に戸惑い、どぎまぎとさせられたわたしは、彼女の中に変わらぬ部分を見つけほっとしていたのだ。  社長の魔の手から救い出された後、奏水はしばらくわたしのところへ居ついてしまった。  社長から引き離した後でわかったことだったけれど、当時彼女はほとんど無一文に近い状態だった。トンコリの音色を広めたい一心で上京したが、あてにしていたツテには裏切られ――と、言うかそのツテとやらは最初から彼女を騙すつもりだったんだと話を聞いた瞬間わたしは確信していたが――その後は当てもなくさまよいながらストリートミュージシャンよろしく路上演奏なんかをしていたらしい。  はじめ、この話を聞いた時にはずいぶんと驚いた。とても奏水の第一印象からはとてもそんなことが出来るようには思えなかったから。 「普段大人しいくせに、思い込みが激しくてこうと決めたら頑に意見を曲げない頑固者っているでしょう? わたしは多分そのくちなの」  しばらくしてからわたしがそのことを話した時に、奏水はそういった。彼女を見ていたのはそれほど長い期間では無かったけれども、たしかにそういった面は持ち合わせていたかもしれない。一見大人しくて従順で、流されやすいタイプに見えながら、頑に自分の生き方を曲げようとしない。そんな所が見ていて危なっかしくて放っては置けなかった。  上京する時も家族からは相当反対されたらしい。それで喧嘩して飛び出して来たようなものだからこのままでは家に帰ることも出来ない。そう言って彼女はすがるような目でわたしを見たのだった。  自分ひとりが食べていくのがやっとと言うような貧乏な男がひとりで住む部屋だ。決して広くはない。そんな所へ年頃の娘を連れ込むのは気が引けた。しかし、社長にはもう頼めないし、もし頼めば結果は目に見えている。大将のところとも考えたけれど、彼の住居もわたしのところとさほど変わりはない。結局のところすがられたわたしにも適当な手立てはなく、他の男に任せるよりはと自分の部屋へと招き入れたのだった。 「今になって考えれば、あなたはとても良い人だったわね」  そのころのことを話したら、奏水はそんな風に言って笑った。  散々泣いて少しは気が晴れたようだった。 「まるで今は悪い人見たいな言い方だね」  そんなわたしの意地悪い問いかけにも、 「再会したばかりの女をあっと言う間に押し倒した男が良い人だと思うの?」  とこれまたきつい冗談で返した来たほどだ。  でも、言わせてもらうならば押し倒したのは奏水のほうがそういった雰囲気を作ったからで、当初のわたしの予定にはここまでのことは無かったものだ。そういったら今度は「男の人ってすぐにそうやって逃げるからずるい」と突っ込まれてしまった。  いや、別に逃げるつもりは無かったのだけれど……。 「でもわたしって最初っからとんでもないお願いしたのよね」  奏水は恥ずかしそうに頬に手をやりながらそう言った。 「今思い返すと顔から火が出そう……」 「いきなり泊めてくれだったからなぁ。それも独り暮らしの男の家へ」 「そのときはもう本当に精神的に余裕が無かったのよ。予定は全部狂って、お金も底を突きかけて来るし……」  茶化すわたしに対し、奏水は必死の弁解をする。 「正常な判断力がきっと無かったのよ」  いまさらそんな弁解をしてもと思うのだけれども、彼女は必死だった。五年前の事柄について必死にいい訳をする彼女には、昼間かいま見た大人の女の顔は一切なく、はじめてあったころの少女の顔のまんまだった。  奏水は変わっていない。  そう感じたことがなにかとてもうれしかった。うれしくて、なんか笑いだしそうになるのを堪えていたら、奏水の頬がだんだんと膨れてくるのが見えた。 「馬鹿にしてるでしょ?」  上目づかいににらみながらそう聞いて来る。激しさはないが、ストレートにぶつけられる感情が心地よい。 「馬鹿にしてなんかいないよ」 「うそ……。だって目が笑っているもの。口元だってものすごく締まりが無くなっているし……今にも涎でも垂らしそう」 「発情しているならともかく、馬鹿にしているからって涎は垂らさないと思うけど?」 「ほら、やっぱり馬鹿にしてたんじゃない。やっぱり昔ほど良い人じゃなくなっちゃったんだ」  他愛もない、こんなやりとりが楽しいものだと言うことをわたしはすっかり忘れていたような気がする。それはまるで出会ったばかりのころのような新鮮さがあった。  奏水はしばらくの間、わたしの部屋で過ごさなければならなかった。と、言うのも彼女が持ち込んだはじめてみる楽器は、お世辞にも良い状態とは言い難かった。糸巻の一本は折れていたし、共鳴胴にもヒビが入っていた。  奏水の話からそれらの全てがどうやら社長の仕業らしいこともわかった。社長はどうやら事故に見せかけてそれを壊し、それをきっかけにお近づきになって懇ろになろうと思ったようだ。ほとんど犯罪の世界である。そしてわたしは危うくその犯罪の片棒を担がされる所だったらしい。  とにかく奏水の琴は材質も普段わたしが手がけている箏とはまったく違うし、修理するには材料の手配からはじめなければならないが、決まった仕入れ先しか持たないわたしにはそれもおぼつかない。それなりに時間がかかることを奏水にも覚悟してもらわなければならなかった。 「ご迷惑でなければ、その間ここに泊めていただけませんか?」  ご迷惑ではない……といえば嘘になる。同居人を養うだけの財力は今のわたしにはない。かといってこのまま放り出すことこも出来ない。なにより心配なのは、こんな狭い部屋で共に寝起きして、私自身の理性がどこまで持つかということだ。どうにも彼女の頭の中からはそういったことがすっぽり抜け落ちているようだった。  実はわたしには彼女の宿泊先にまったく当てがない訳では無かった。おそらくは何カ月であろうと無料で泊めてもらえる心当たりがひとつだけあったのだが、それは社長ほどではないにせよやはり彼女にとってあまり好ましくないところであるとわたしは認識していたのであえて口にするのを避けたのだった。  結局は私自身が危機感を覚えた時にもう一度考えることとし、二人の吊り橋をわたるような同居生活が始まった。 「直行さん、一緒にいる間一度もわたしに手を出さなかったのよね」  そういった奏水の声にはからかうような色が含まれていた。 「惜しいことしたと思ってるんじゃない?」  惜しいことをした……。たしかにそう思わなくもない。そうすればむざむざあの男に奏水を取られることも無かったかもしれないのだから。しかし……  しかし果して本当にそうだろうか?  たしかにあのころからわたしは奏水に惹かれていた。それどころか一緒に暮らすうちにどんどんと彼女に魅せられていくのが自分でもわかった。自分が彼女に恋しているという自覚は持っていたし、このままずっと一緒に暮らしたいとさえ思った。その思いは五年のブランクを経て再会した今でも変わらない。このまま奏水を自分のものにしたいと欲している自分がいることをわたしは知っている。でも、その思いはあのころのそれとはなにかが違っているような気がしてならない。 「たしかに惜しいことをしたのかもしれないね。でもあのころに君を抱いていたら、今もこうしていることが出来ただろうか?」  わたしの問いかけにしばらくの間奏水は無言だった。遠くを見るような目でじっとなにか考え込んでいたがやがてひとつため息をつくと、静かに笑った。 「そうしたら今頃は……、ううん、多分一年も経たないうちにだめになっていたんじゃないかしら」  小首を傾げるようにしてそういう。サラサラとこぼれた髪がオレンジ色のライトに照らされて褐色のヴェールを作る。 「意見があったね。僕もそんな気がするんだ」  自分の住む部屋に戻った時、そこが明るい光に包まれているというのは良いものだ。  わたしたちの同居生活は恋愛感情をわざと切り捨てたところを除けば、まるで新婚家庭のような感じであった。わたしは昼間は土屋のところで修行と言う名の手伝いをし、夜は居酒屋でバイト。奏水は昼間掃除や洗濯などの家事をこなし、夕食を作ってわたしが帰って来るのを待つ。どんなに帰りが遅くても、奏水はわたしが帰宅するまで夕食に手をつけようとはしなかった。  そんな生活はまるでおままごとのようで、少々照れくさいものがあった。しかし反面そんな状況をわたしも奏水も楽しんでいるのは確かだった。恋愛と言う男女の基本的な結びつきを覆い隠した疑似新婚生活は決して居心地の悪いものでは無かったのだ。  そこに本当に恋愛観上は存在しなかったのかといえば、多分あったとわたしは答える。同居をはじめたばかりのころはともかくとして、日々過ごすうちにわたしは確実に奏水に惹かれていったのだから。  しかしわたしはあえてそれを無視した。わたしたちの契約にそれは存在しないものだったから。  あるいは契約に新たにその項目を付け加えることは可能だったかもしれない。奏水にしてもわたしに対してまったく好意が無かった訳でもなさそうだから。  ある日、訪問販売員が訪ねてきた時など、「奥さん」と呼ばれたことに舞い上がって高価な健康食品を買わされそうになったりもした。わたしがそれを追い返したときちょっと不服そうだったが、じきに「奥さんだって」と言いながら表情を緩ませたりもした。残念ながらそれがわたしの奥さんと勘違いされたことがうれしいのか、ただ単に誰かの奥さんという肩書に憧れを持っていたのかはわからなかったのだけれども。まぁ万事に控えめで否定的に考えることにしているわたしは、それにも多大な期待は抱かないようにしていたからあえてそれについて聞くこともその後は無かったのだけれども。  今になって思い返せば、そんなささやかな事柄の中にわたしたちもお互いの想いを投げ合っていたことは伺える。ただそれは常に暗号化されて発信され、わたしたちは互いにそれを解く為の暗号表を持ってはいなかった。さらにはそれらの暗号は日常の何気ないやりとりに巧妙に隠されていたから暗号であることに気づくこともまれだった。 「あなたが暗号を発信していたように、もちろんわたしも暗号を送っていたわ」 「僕に?」 「もちろん」  それは出会ってから五年以上経つと言うのに初めて確認する事実。わたしたちは一緒に暮らしている間、お互いに解読されることのない暗号を発信し続けていたのだ。 「お互いの暗号表を持っていなかったということは、時期尚早だったってことじゃないかしら……」  奏水はそう控えめに当時の僕らを判断した。 「だから暗号通信は交わしても、お互いの暗号コードは公開しなかった?」 「そう。きっとそれは時期がくれば自然と手に入るものだったのよ」 「そう?」 「そう……。だって今回はお互いにちゃんと理解できたでしょ?」  理解できた?  わたしは理解したのだろうか? いや、そもそも今回は暗号などあったのだろうか? 「気づかなかったのはちゃんと暗号表を持っていて、瞬時に解読できちゃったからよ。きっと」  そう言って奏水は笑った。だってわたしはちゃんと暗号を発信したものと。  だから…… 「それじゃぁもう、機が熟したと考えてもいいのかな」  そう聞くと、今度は曖昧に首をかしげる。 「直行さんがそう思うのならそうじゃないかしら」  まったくつかみ所がない。  思い返せば、奏水はずっとそんな調子だった。わたしの前に姿を現したのも突然だたら、姿を消すのも突然だった。万事に気まぐれで追えば逃げるようなところがあった。  奏水の関係がおかしくなり始めたのは、土屋がわたしたちの間に入り始めてからのことだった。  しばらくの間はわたしの帰りをじっとアパートで待っていた奏水だったが、やがて工房を覗いてみたいと言い出した。実際にわたしが彼女の琴を直している所を見たいと言うのだ。  わたしははじめそれを渋った。工房にきても大して面白いものではない。わたしは奏水の琴以外にも土屋の手伝いなどいろいろと仕事があり、奏水の相手をしていることなどは到底できなかった。それに他人の目も気になる。工房にはわたしの他にも何人かの弟子たちもおり、奏水をつれて行ったりするとなにを言われるかわからないということもあったが、なにより師匠である土屋雅邦の存在がひどくわたしを不安にさせたのだ。  奏水は頑固だった。奏水がわたしのところに転がり込んできてから早一週間。さすがに退屈しだしたのだろう。どう言い繕おうと頑としてその主張を曲げなかった。挙げ句の果てにはつれて行ってくれないのであれば、後をつけるとまで言い出した。  当時のわたしは奏水のことを全て把握していた訳では無かったが、それでも一週間も一緒にいればおぼろげながらにもその姿が見えて来る。奏水の後をつけると言う発言は十分に実現されそうなことのように思えた。奏水はこうと決めたら後には引かない。なんとなくそれは一週間の間にわかっていた。  たとえばこんなことがあった。  朝、目玉焼きにわたしが醤油をかけようとした時、信じられないという顔をして醤油差しを持つわたしの手を止めた。 「直行さん、いつもお醤油かけすぎ。大体なんで目玉焼きにお醤油なのよ。塩、胡椒のほうが卵の風味も味わえておいしいのに」 「僕は昔から醤油だけど?」 「その食べ方は間違ってる。せっかくの目玉焼きが台無しじゃない」  いや、そんなことはないと思うけどというわたしの反論は瞬殺された。その上醤油差しまで取り上げられてしまう。当然の権利としてわたしは反論を唱え、醤油をかけて食べる目玉焼きがいかにおいしいものかを力説したが、ことごとく奏水に言い負かされてしまった。そうして次の日から目玉焼きは塩、胡椒でという暗黙のルールが作られてしま、彼女が出て行くまでわたしは醤油かけ目玉焼きを食べることは無かった。。  万事にその調子だから、この時もわたしは早々に彼女の説得をあきらめてしまった。その代わりちょっとだけズルをすることにしたのだ。 「直行さんって思慮深いわよね」 「僕が?」 「思慮深いって言うか……ズルい?」  初めて工房につれて行ってからしばらくたった頃に突然奏水がそう言いだした。 「わざとわたしと先生を合わせなかったでしょ?」  半眼でにらみを効かせているが、口元は微妙にほころんで見えた。 「他のお弟子さんたちが片倉さんうまいよなって言っているのを聞いちゃったからね」  確かにそうだ。わたしはうまくやったと思う。奏水との約束を守りながら、しかし土屋と彼女を会わすことなく彼女のデビューを終えたのだから。  土屋は毎週水曜日に地方の大学へ講師として出向く。だから水曜日の朝から木曜日の昼頃までは常に彼は留守だった。わたしは皆に都合のいい日を聞いておくからと言って奏水をなだめ、この水曜日に彼女を工房へと招いたのだ。そのことについては口さがない弟弟子達には後でかなり冷やかされた。しかしまさかそれが奏水の耳にまで入るとは……。 「ちゃんと先生にも紹介してもらえるのかと思ったのに……」  紹介? 先生に? なんの為に?  頭の上に浮かんだはてなマークが奏水には見えたのかもしれない。わたしの表情を見て、奏水はあわてて取り繕うように言った。 「ほら、今回のことでは間接的にとはいえご迷惑かける訳だし、ちゃんとご挨拶だってしたいじゃない。それに先生ってその筋では結構有名人なんでしょ? そんな人に合えるチャンスってめったにないじゃない……」  語尾のほうはだんだんと弱くなっていって、最後には小さな溜息に変わった。 「いいの……、ちょっとそんな風に思っただけだから……気にしないで……」  こんなやりとりも今なら暗号だったのだと気づくのだけれど、当時のわたしにはまったくわからなかった。それは先生に彼女を合わせないという方法で発信したわたしの暗号も彼女にはまったく理解されていないのと同じだった。  わたしはただ、あんまりにもあっさりと引き下がったので奏水らしくないなと思っただけであった。 「たぶん……、今でも直行さんのあの暗号はわからないんじゃないかしら」 「何故?」  先生に合わせないことが暗号だったと話したら、奏水はそう言ってクスクスと笑った。 「だってあの時直行さんは先生がどんな人かってこと、ちっとも話してくれなかったんだもの」 「そうだっけ?」 「そうよ」  確かに……。  そう、わたしは奏水に先生のことをほとんど話さなかった。話さないというのは聞かれないから話さない等と言う消極的なものではなく、話題になるのを避けていたといったほうが正しい。わたしは奏水を土屋と引き合わすつもりは毛頭無かったし、それならば彼に対する情報を与えないほうが興味を引かないだろうと思ったからだ。会うことが無ければ例え相手がどんな危険人物だろうとその情報は必要ない。  今にして思えばもっと情報操作のことを勉強しておくべきだったと思う。存在を知りながら情報を隠されたりすると、人と言うものはかえって興味を抱くものだ。 「あの時ちゃんと話していたら僕らのその後の人生も変わっていただろうか?」 「……」  しばらく考え込んだ後に奏水は用心深く口を開いた。 「たぶん……、変わらなかった……と思う……」  わたしは彼女の答えに小さく頷いた。 「あのころのわたしは恋愛以上の夢を持っていたから……」 「トンコリの音色を世に広める?」 「そう……」  部屋の隅に立てかけられた五弦の琴に奏水は目を向ける。 「トンコリの奏者ってすごく少ないの。たぶんそれは今も変わっていなくて……、弾き手は大抵年寄りばかり。トンコリの奏者だけでもそうだから、アイヌの歌を歌える人はもっと少ない。このままだとトンコリは歴史に埋もれてしまうかもしれないの」  トンコリは部屋の隅でただじっと奏水の言葉を受け止めている。きれいに化粧を施されたものと、地肌をさらした素朴なトンコリ。二つならんだそれらはなにを思っているのだろうか。 「奏水は故郷へ戻って若い奏者を育てたほうがいいんじゃないのか?」  言ってからしまったと思ったがもう遅い。ここで奏水が頷けば、それはわたしたちの別離の再来を意味する。  しかし、奏水は小さく首を振った。 「故郷を出る時に仲間たちと役割分担をしたの」  奏水の故郷ではなんとかしてトンコリの音色を後世に残そうと一部の若手たちが立ち上がったらしい。そして故郷に残り年寄りたちと後進の指導に当たるものと、都会へ出てそこでトンコリの音色を広めるものとに別れたと言うことだった。 「ただ伝統文化を守ろうといっても、なかなか続かないの。はじめは珍しがっていてもじきに飽きてやめちゃう娘も多いから。でもある程度巷でトンコリがブームになったりすればみんなももう少し興味をもって続けてくれるかもしれないから」  奏水は上京してからわたしと出会うまでの間、アルバイトなどで日々の糧を稼ぎながらストリートミュージシャンのようなことをやっていた。時にはアイヌの民族衣装に身を包んでパフォーマンスしたこともあったらしい。二十歳に満たない少女が寄る辺もない都会でひとりでそんなことをやってきたのかと思うといたたまれない気持ちにもなった。しかし反面、自分の故郷にそこまで誇れるようなものがあることに少しばかりうらやましい気持ちにもなる。自分はそこまで故郷を愛しているだろうか? 「わたしはどうしてもトンコリを世に広めたかった。当時のあなたには何も力が無かったけれど、土屋にはそれがあった。」 「それは……」 「少なくともわたしにはそう見えたの。彼自身も芸能関係の人を紹介してくれるとまで言ったし……」  わたしが言おうとした言葉を遮るようにして彼女は話を続けた。 「――だから、直行さんがどうしようと、わたしたちの未来は変わらなかったと思うの……」  わたしと奏水の距離は、その後もつかず離れずの状態が続いた。特に進展もない変わりに、取り分けて疎遠になることもない。恋愛と言うオプションを切り捨てた同居生活はまるでセックスレスな夫婦生活のようだった。  奏水には水曜日だけは工房に来ても良いと言っておいた為、毎週水曜日になると彼女はなにかしらの差し入れをもって遊びに来るようになった。おかげでその日だけはなんとなく作業場が華やいで、弟弟子たちも喜んだ。  ある日、たったひとりの兄弟子がわたしのところへやって来た。実はこの兄弟子とはわたしはあまり良い関係でなく、これは珍しいことであった。 「片倉、もしお前があの娘のことを大切に思っているのなら、絶対に先生と会わせるな。出来ればあの娘はもうここへはつれて来ないほうが良い」  彼は静かに、だけどはっきりと力の籠もった声でそう言った。でもその表情からは彼がなにを思ってそう言っているのかまでは掴むことが出来なかった。 「え〜、奏水ちゃん来なくなったらまたここ殺風景になりますよ。なにせ男ばっかなんだから」  彼の言葉を聞き留めた弟弟子のひとりがそんな風に愚痴をこぼしたが、彼はそれを一蹴にした。 「先生の目に止まればどのみち同じことだ」  寡黙でいつもむっつりとしている兄弟子がシニカルな笑みを浮かべる。わたしの脳裏には先生に関するさまざまな噂が蘇った。 ……曰く、土屋雅邦は助平である…… ……曰く、土屋雅邦は人のものが好き…… ……曰く、土屋雅邦のもとには弟子が居つかない…… ……曰く、土屋雅邦は……  弟弟子たちも噂は聞いているらしく、皆その一言で黙ってしまった。  土屋の元に弟子が居つかないのは彼の女癖の悪さが原因である。土屋は腕はよいが女にだらしがない。それだけならまだ良いが人の女に好んで手を出す。弟子の女となれば手当たり次第口説き回り浮名を流す。それで弟子たちは嫌気が差してみんなやめていく。  巷では有名な話だった。  これまでにも思い当たる節はある。兄弟子達の誰かが彼女の話をすると、必ず土屋はどこかからそれを聞いて来る。そして必ず言うのだ。 「一度工房へ連れていらっしゃい」  と……。  土屋は兄弟子達の前で彼女を褒めちぎる。それでいい気になって何度か連れて来ると、そのうちその彼女が顔を見せなくなる。そしていつのまにかその兄弟子も工房に顔を出さなくなる。どうしたんだろうと仲間うちで話していると土屋がやってきて「あいつはやめた」とだけ言う。長いものほどそのときにしたり顔に「やっぱり」とつぶやくのだ。 「けっこう無茶苦茶やっていたんじゃないかと思ったけれど、不思議と訴えられることは無かったんだよな……」  わたしの言葉に奏水が目をパチクリとさせる。 「無茶苦茶? 土屋が?」  そしてそう言っておかしそうに笑った。 「あの人はあれでけっこう小心者なのよ。無茶苦茶なんてしないわ。まして訴えられるほどのことなんて絶対にできないわよ」  奏水の言葉は土屋のことは全てわかっているような口ぶりだった。わたしと別れてから土屋が死ぬまでの五年間を共にしたのだから、実際そうなのかもしれない。でも、出来ればわたしの前ではそんな姿は見せてほしくなかった。 「でも噂では……」 「噂は噂よ。それ以上でもそれ以下でもないでしょ?」  奏水は平然とそう言って笑った。だんだんと奏水の態度にわたしは面白くないものを感じる。  わたしが黙っているせいか、奏水は得意気に話を続けた。 「土屋の手口はね、基本的に貢ぐことで女の子の気持ちをとらえるの。お弟子さんに彼女を連れて来させている間にいろんな話をして、その娘がなにを欲しているのを探るのよ。そうしておいてそれを与えるかわりに関係を求めて来る。だからそれでころぶ娘はそれだけのことなのよ」 「なるほど。土屋にころぶ程度の娘は放っておいてもいずれは同じことをするってことかい?」  奏水の様子に少しいらだっていたのかもしれない。自分でもそれとわかるくらいに言葉が意地悪くなる。奏水がちょっと驚いたように目を見開いた。  こういう時はそこで話を打ち切るに限る。なぜなら口を開けば開くほどエスカレートしていくものだからだ。  しかし、そこで止めることが出来ない。一度高ぶってしまった感情は出口を求めて体中を駆けめぐるのだ。 「土屋にとって奏水はさぞや落としやすいターゲットだったのだろうね」  結局わたしは言わなくても良いことまで口走ってしまった。  おそらくはこれで奏水との関係も完全にお終いだろう。そう思うとまっすぐ彼女の顔を見ることも出来ずに背けてしまう。  どこから聞きつけたのか、ある日突然わたしは土屋に言われた。 「一度わたしのいる時に彼女を連れていらっしゃい」 と……。  土屋に関する噂は既にわたしのなかでは確信に変わりつつあったため、わたしはあえて無視することにした。一緒に暮らしてはいるが、彼女と言う訳でもない。当時わたしは土屋がどんな手を使って女の子を口説くのかは知らなかったが、それでもこんな微妙な時期に彼に奏水を会わせればろくなことがない、そう思えた。しかし奏水は土屋とあってしまった。  水曜日、いつもの定期便よろしく奏水はまた差し入れをもって工房へとやってきた。そして休憩時間にみんなでわいわいやっていると、講義に出かけたはずの土屋が突然顔を出したのだ。驚くみんなを尻目に土屋は「今日は休講にした」とだけ言うとまるで値踏みするような目で奏水を見た。 「すみません先生。すぐ帰しますから……」  土屋の視線に奏水がさらされることに我慢できなくなったわたしがそう言うと彼は手のひらを振って、それを押しとどめた。その後結局わたしたちは作業に追い払われ土屋がずっと奏水の相手をしたのだった。 「そう、トンコリをねぇ……」 「……」 「なかなか見上げたお嬢さんだ。そういうことなら彼にはそのトンコリの修理を最優先でさせましょう」 「……」  まるでわたしに聞かせるかのように土屋の声だけが大きくわたしのところまで響いて来る。土屋の言うことに奏水がどう答えているのか? 奏水は土屋とどのように接しているのか? 二人に背を向けているわたしにはわからなかった。  本当はほんの少し振り向けば、二人の様子は目に入ったはずだ。しかし出来なかった。見るのが怖かった。  わたしはこのとき既に奏水を土屋に奪われるであろうとあきらめてしまっていたのかもしれない。  ひょっとしたらあの当時から奏水はわたしのことなどなんとも思っていなかったのではないだろうか?  そんな考えが頭をよぎる。  だからあっさりと土屋に転んだ。  しかし、彼女は当時からわたしの気持ちに実は気がついていた。だから土屋がいなくなった今、わたしを受け入れようと思ったのではないだろうか。捨てられながらもずっと想いを断ち切れずにいた惨めな男にただ同情しただけなのではないのか? 「毎日顔を出すのはやめてほしいのだけど……」  奏水と土屋の出会いからしばらくたった時わたしはそう話を切り出した。 「たまに顔を出す程度ならともかく、毎日となるとみんなの作業の邪魔にもなると思うし……」 「あら、先生はわたしがいたほうがみんなが張り切って仕事が進むって言ってたわよ」 「いたほうがって……、ほとんど工房になんかいないじゃないか。毎日先生と出かけてばかりで」 「だったらそれこそ邪魔にはならないでしょ!」  思い返せばこの少し前からわたしたちの関係は変化していったように思う。些細なことで言い合うことが多くなり、お互いの距離が掴みづらくなっていった。この時も話しているうちにお互いにどんどんと感情的になって言ってしまったのを覚えている。 「先生を毎日のように連れ出されちゃ迷惑なんだよ!」 「普段は先生のこと煙たがっているくせに!」 「大体、人に自分の楽器を修理させておいて自分は毎日遊び歩いているなんてどういう神経してるんだか」  もうここまでくるとほとんど痴話喧嘩だ。自分でもわかっているのに、もう止められない。  奏水はぎゅうっと唇を噛みしめ、上目づかいにわたしを睨んでいた。それでも奏水が黙ったことでわたしのほうが彼女に言い勝ったのだと思った。少々の優越感とそれ以上の後味の悪さを感じながらも、これで話を打ち切ろうと彼女に背を向けた時、背後から絞り出すような声が聞こえてきた。 「結局あなたも同じなのよね……」 「あなたもあの社長や先生と一緒。親切と引き換えにわたしからなにか引き出そうとしているだけなんだわ……」 「ちがう!」  そう言って振り向いたわたしが見たものは涙を流しながらもわたしを睨み付ける奏水の険しい目だった。 「一緒よ。ただあなたは他の二人よりもちょっとだけ臆病で傲慢でずるいだけ」 「僕が傲慢でずるいと?」 「そうよ、社長にしても先生にしても自分の欲望には正直だわ。それこそそれを前面に打ち立てて隠そうともしない。変に善人ぶらないで全てをギブ アンド テイクで進めて来るのよ。でもあなたは違う。自分の欲望をさらけ出す勇気もなく、善人の皮をかぶって人をだますのよ」 「そんなことは……」  ないと言いかけてわたしは口をつぐんだ。  別になにか見返りを求めて奏水の面倒を見てきた訳ではない。強いて言うのであれば彼女になにかをしてあげたかった。彼女の力になりたかった。ただそれだけだ。でも……。  でも、本当にそうだろうか? ただ奏水に恩を売ることで気を引こうとはしていなかったか?  そう思った時、奏水の言葉を否定できなくなっていた。  先程までとは完全に立場が逆転した。黙り込んだわたしに畳みかけるように奏水が罵る。 「そのくせ自分の思い通りにならないとなると怒って怒鳴り散らしたりするのよね。最低だわ!」  奏水は泣いていた。こぼれ落ちる涙を隠そうともせず、真っ赤い目をしたままわたしを睨み付けていた。  一方のわたしはと言えばそんな奏水にうろたえ、なすすべもなくその場に立ちすくんでいた。静寂があたりを包み込みまるでわたしたちの間だけが時間の流れから取り残されたかのような錯覚を受ける。  そのくらいそうしていただろうか? 奏水は感極まったように口に手を当て、うつむくとわたしの脇を通り抜けて部屋から出て行こうとした。わたしはあわててその手を握り引き止めようとした。ここで彼女の手を離したらもう二度と彼女はわたしのもとへと戻ってはこない気がしたのだ。掴んだ手を引っ張り、そのまま彼女を抱き寄せる。これまで知らなかった甘い匂いが鼻孔をくすぐる。 「このままここにいてほしい」  手順もなにも無かった。でも一世一代の大勝負でもあった。このときわたしの中にあったのは誰にも奏水を渡したくないという気持ちだけだった。  奏水のからだをわたしのほうへと向けると、その目を見つめながらもう一度わたしは言った。 「このままずっとここで一緒に暮らしてほしいんだ」  驚きのあまり、奏水の目が見開くのが見えた。それまで抵抗しようとしていた彼女のからだからすぅっと力が抜ける。今にして思えば気を許したというよりは、突然のことに茫然自失と言った感じであったのだが、わたしも彼女同様に頭が真っ白になっていてそのときは気がつかなかった。彼女の抵抗が無くなったことに安心したわたしも抱きしめる腕の力を抜いた。その途端奏水は正気に返りわたしを突き飛ばすと、そのまま部屋から飛び出して行ってしまった。  突然のことにしばらくの間、わたしはほうけたようになって動くことが出来なかった。気がついてすぐに周囲を探し回ったが奏水の姿は見つけることが出来なかった。わたしはその夜まんじりともせずに一夜を過ごし、翌朝土屋の工房へ眠い目をこすりながら出向いた。 「片倉君、ちょっと良いかね?」  出勤そうそうわたしは土屋に声をかけられた。この時になってわたしは初めて奏水が昨夜どこに泊まったのかを察した。 「小山内くんなんだが、しばらくうちで預かることにするよ」  土屋のその言葉にもやっぱりという思いしかわかなかった。昨夜、奏水に言った言葉はわたしなりのプロポーズのつもりだった。奏水の態度から察するに、彼女にもそれはわかった筈だ。それなのに彼女はわたしのもとを飛び出し、土屋のもとへと走った。それがどういうことかは考えなくてもわかる。  わたしは土屋のもとを辞すと、そのまま工房から私物を全てまとめてアパートへ帰った。 「もしわたしが落としやすいターゲットだったというのであれば、それはあなたのせいでもあるんだから……」  絞り出すような声で奏水はそう言った。 「あの晩、あなたに言われた言葉、わたしはすごくうれしかった。わたしもあなたのことが好きだったから。でも突然すぎて心がついていけなかった。喧嘩の直後に結婚しようって言われてすぐにイエスなんて言えると思う?」  目にいっぱいの涙をためて奏水はわたしを見る。 「わたしは少し考える時間が欲しかった。でもあなたの側にいたら心が乱れてきっとなにも考えられなかったわ」 「だからって土屋のところにいくことも……」 「しょうがないじゃない! 他にどこも宛は無かったんだもの。それなのにあなたはあの後すぐに土屋の前から……、ううん、わたしの前から姿を消してしまった」 「でも、それだったら……」  それだったら、わたしが荷物をまとめて工房を飛び出した時に後を追いかけてくれれば……。  そう思ったけれども、いまさら言っても仕方のないことだと気づいた。それにおそらくはわたしたち二人とも土屋にはめられたのだ。現に奏水をしばらく預かると土屋が宣言した時、わたしはこうも言われた。 「彼女は君のところで大変に怖い思いをしたらしい。君とはもう一緒に暮らせないと言っている」  と。  その上で、年頃の男女が狭い部屋で同居すると言うこと自体がおかしいのだと言って彼女のほうからアポイントがあるまで奏水には会わないようにとまで因果を含められてしまった。 「わたしも言われたわ」  わたしの話を聞き、奏水も答えた。 「あなたは危ない所があるからしばらくは会わないほうがいいだろうって。あなたには土屋のほうからちゃんと話しておいてくれるって。お互いに少し頭を冷やしなさい。それからちゃんと話し合うべきだって」 「でも、その間に僕は弟子をやめ、土屋のもとを去ってしまっていた?」 「数日後、あなたのアパートを訪ねたら、もうもぬけの殻だったわ。土屋もなにも知らなかったようで、そのことを離したらとても驚いていた。だから結局はあなたもわたしの体が目当てなだけだったんだと思ったのよ」  土屋は老獪だった。わたしが彼のもとを飛び出したことを知らないはずがない。これまでにも幾度となく同じ経験もしてきたはずだ。二人とも見事に彼の策にはまってしまったのだ。そんな土屋への怒りはあったが、それ以上にわたしはお互いの短慮さを感じていた。土屋がどういった人間か知っていたはずだ。あの時もう少し冷静になれば、結果は違っていたかもしれない。わたしがちゃんと奏水と話す機会を持てば。それに……。 「体だけが目当ての男がふられたからって職を捨ててトンズラする訳がないだろう」 「後から冷静になった時にそうは思ったけれど、あの時は一度にいろんなことが起こりすぎて……、感情が高ぶっていたのよ」  奏水はそう言って照れくさそうに笑った。  その後奏水は彼女の生活全面とトンコリの音色を世に広める為の活動を土屋が全面的にバックアップする代償として彼と愛人契約を結んだ。わたしがいなくなった段階で自分の人生から恋愛面は切り捨てたのだと言う。ただ自分の役目と言うものだけを忠実に果たして生きていこうと考えた。もともとそのために上京したのだ。わたしとのことはもともと彼女の人生のオプションとしてはありえなかったと思い込むようにしたのだと彼女は言う。そしてそのために利用できるものはなんでも利用しようと決心したのだと言った。 「でも所詮は小娘の浅知恵。だめね。良いように遊ばれただけで結局は終わっちゃった……」  土屋は奏水の生活面はともかく、トンコリのことに関しては最初から協力する気など無かったらしい。一度自身がテレビに出演した時に簡単にトンコリと奏水のことを紹介しただけで、後は彼女がいくら頼んでも言を左右にして取り合っては貰えなかったようだ。そしていきなりはいろいろと無理があるから、地道な活動も一緒に進めてはどうかと工房の一角でトンコリ教室を開いてもらえただけだったと言う。その教室も生徒の紹介はほとんどしてもらえず、奏水が自分の足で掻き集めたらしい。 「わたしも馬鹿よね。もう土屋は当てにならないことなんてわかっていたのに、それでもいつか……って思っちゃって……」  そう言って彼女は笑ったが、その笑みにはたぶんに自虐的な色が浮かんでいた。 「いつのまにか、あの工房の片隅がわたしの居場所になっちゃったのね。トンコリの演奏だけじゃなくて、道具の使い方を見よう見まねで覚えて、作り方の教室まで開いちゃって……、そこでしかトンコリに関わることが出来なくなってしまっていたのね」  そう言って奏水は深いため息をつく。 「知らないうちにわたしの心もあの派手でけばけばしいトンコリのように虚飾に取り込まれちゃっていたのよ」  溜息まじりの苦笑を浮かべながら彼女は「知ってる?」と聞いてきた。 「トンコリでもね、全然音色が違うのよ。あなたに預けたあのトンコリを弾いているとすごく心が軽くなって、気分がよかったのだけれど、土屋の作ったトンコリを弾いているとなんだかイライラしてきて心がとがってきちゃうの。きっとトンコリに命が宿っていないせいね」  土屋はトンコリを作る時に、臍からガラス玉を入れなかったらしい。そんなものは楽器としては邪魔になるだけだ。余分な音がでて演奏を邪魔するとまで言われたと言う。彼はトンコリの……、アイヌの魂までは理解しなかったようだ。いや、理解する気もきっと無かったのだろう。  奏水の視線の先にある土屋が作ったトンコリ。 「名人、土屋雅邦が作っただけあって見事な芸術品だと思うけれどね……」 「見た目はね……」  再び奏水はため息をつくと口の端をゆがめるようにそう言った。 「飾り物としては上出来だけど、トンコリとしては最低。ずっと弟子任せだったから装飾はともかく、楽器職人としての土屋はもう名人とは言えなかったのよ。わたしが人前であのトンコリを弾いたことは一度もないわ」 「たしかに作家としての土屋はもう、盛りを過ぎてはいたけれど、そんなに酷くなっていたのか……」  どんな作家にも限界はある。特に名声を得てからの土屋は酒と女に溺れていた所はあるから他の職人よりも落ちるのは早かっただろう。しかし、名人と呼ばれた男がそこまで堕落するとは……。  軽いショックを受けているわたしに、奏水はいたずらっぽい笑みを浮かべる。 「あなたが土屋の工房をでた後ね、若い弟子たちがみんな一斉にやめちゃったの。みんなあなたがいたから皆あそこでも持っていたのね。土屋の気まぐれをあなたが調整してちゃんと弟子たちに仕事を振り分けていたから、みんな土屋のもとでもやっていけたんじゃないかしら。現に後藤君はそう言っていたし。その調整役がいなくなった途端、みんな限界に達しちゃったのね」 「青山さんは?」  ただひとりの兄弟子のことを聞くと奏水は顔をゆがめた。 「残ったわよ。みんながやめた後もね。そして土屋を脅迫したの。弟子がひとりも残らなかったら困るだろうって」 「見返りは?」 「わたし……」  どうやらわたしは兄弟子にも恵まれていなかったらしい。大人しそうな顔をして土屋を揺するとは彼も大したものだ。しかもみんな奏水がらみとは……。 「土屋はそれを聞いてものすごい剣幕で怒りだしてその場で破門。土屋の弟子は誰もいなくなった……」  ふいに奏水が黙り込んで遠い目をした。過去を思い出すと言うよりはなにか考え込むかのように……。  なんとなくそんな奏水に声をかけづらくて、わたしも黙って彼女の横顔を見ていた。重苦しいほどではないが、なにか神妙な感じに時間が過ぎる。 「あんまり自覚が無かったけれど……」  どのくらいの時間が立っただろうか? わたしのほうを向くと、また自虐的な笑みを浮かべながらそう、奏水が切り出した。 「わたしって根っからの悪女なのかもね」  自虐的な笑みがいたずらっぽく変わる。そんな彼女の表情は本当に小悪魔的――私情が混じるのか、彼女が言うような悪女には見えなかった――に見えた。そうだね。それでもっと妖艶な感じがあれば悪女になれるかもね。だって君は土屋とその弟子たちの人生をひとりで狂わせちゃったのだものね。でも……。 「直行さんはそのなかに入らないの?」  奏水が不思議そうに聞いて来る。  わたしは「さぁ?」と曖昧に答えた。  わたしは彼女と出会って人生を狂わせたのだろうか? たしかにそれまでの人生からは軌道修正が入ったが、何故か狂わされたとは思わなかった。むしろおかげで良い方向へと変われたのかもしれない。 「入らないね。他人に人生を狂わされる奴はそれだけの器ってことだよ。本人に骨が無いから人生を狂わされるのさ」 「直行さんには骨がある?」 「もちろん。だからどんな悪女が側にいようと道を誤ることはない」  わたしの言葉に奏水はうれしそうに笑った。 「そんな事言って、不幸になっても知らないから」  そんな憎まれ口を利きつつも彼女の顔はほころんでいる。  正直言えば、私の人生も奏水によって大きく軌道修正をかけられた。それはこれからも起こりうるかもしれない。でもものは考えようだ。それが良い方向へと進めばいいのだ。  奏水と土屋のことにしても完全に吹っ切れた訳ではない。どういう経緯であれ、奏水が土屋と過ごした五年はわたしを今後も苦しめるだろう。今でもそのことを思えば、激しい嫉妬と些細なすれ違いが生んだその事に対する悔恨がわたしを苛む。  でも、土屋はもういない。全ては過去の事なのだから、きっと乗り越えられる。 「もう一つトンコリを作ろう。僕自身の分身となるトンコリをね」  並んだ二つのトンコリを見ながらわたしは言った。 「土屋の作ったトンコリなんてくそくらえだ。どこかの木の根元で供養してやる。そしてあの奏水のトンコリの横にはいつも僕のトンコリを置いておこう」  奏水は目を細め、トンコリを見つめる。その目に土屋雅邦のトンコリはきっと写っていない。代わりにもう一体の素朴な木の地肌をさらしたトンコリがあるはず……。 「戻れる……、きっと戻れるわよね」  奏水はつぶやくように、けれどもしっかりとした口調で言った。 「わたしはあの素朴なトンコリに戻れる」  自分の言葉を肯定するかのように奏水は何度も頷いていた。 了