小説 地縛                                      とっと  それは突然の出来事だった。  いつものように学校帰りに羽黒那智の店によった霧島榛名は、夕暮れまでの短い逢瀬を楽しんだ後、帰宅の徒についた。彼女はいつも、国道と交差する片側2車線の道路を横断し、向かいにある大学構内を抜けて、ローカル線の駅へと向かう。  学校から家までちょっと距離のある彼女は、大学前のその駅から単線をのこのこ走るローカル線で10分に満たない距離ではあったが電車通学をしていた。那智の経営する喫茶店からは大学の構内を横切るその道が一番近い上に、夜になっても人気が耐えない為、安全でもあった。それでもいつもならば那智は彼女を駅まできっちり送り届けていた。ところがその日は、たまたまカレーの鍋を掛けっぱなしにしていた。それがそもそもの不幸のはじまりだった。店の玄関口で別れた那智が次の瞬間聞いた音は、低く唸るようなクラクションと甲高いタイヤの軋む音、そしてドンという衝突音だった。慌てて振り返る那智の目には宙を舞う恋人榛名の姿が映った。  あまりに突然のことだった。ほんの数秒前に笑いながら手を振り、「また明日」等と言っていた彼女が、僕の目の前で宙を舞っている。やがて彼女の身体は地面に叩き付けられるように落ちると、その周囲にどす黒いシミを作り始めた。彼女をはねた車の運転手が、慌てて飛び出して携帯電話をかけ始めたが、ひどく狼狽えていて、うまく状況を説明できないでいる。僕はもどかしくなってその男から携帯電話を奪い取ると、代わりに事故の起きた場所と状況を説明した。電話に向かって話している自分の声はひどく落ち着いていて、彼女が死にかけているというのにこんなことでいいのだろうかと漠然と頭の片隅で思っていたりした。警察と救急車の出動を要請し、彼女の元へ向かおうとしたら、国道の方から白い影が走ってくるのが見えた。大方、騒ぎを聞きつけて目の前の休日夜間診療所から、誰か来てくれたのだろう。 「大丈夫だから、しっかりして! すぐに先生も来てくれるし、救急車も呼んだから。きっと助かるからしっかりして。」  僕は彼女の血塗れの手を握り、ずっと呼び続けていた。  一瞬、何が起こったのか全然わからなかった。気が付いたら地面に転がっていて、全身に強い痛みが走り、全く動くことが出来なかった。周囲に人が集まりしきりと「大丈夫か?」と声を掛けてくるのを聞いて、ようやく自分が事故にあったのだと気付いた。那智はどうしただろう? そう思って周囲を見渡そうと思ったけど、痛くて首が回せない。仕方ないから目だけを動かして彼の姿を探すけど、それすらも霞んでよく見えない。全てが赤く染まって見えるのは、目に血が入ったせいなのだろうか? 「ええ! 大学の北門前です。大至急…」  聞き慣れた声が、聞いたこともないような大音量で聞こえてくる。ひょっとして那智が救急車を呼んでくれてるの? でもだめよ。あなたがそんな大声出しちゃ。いつも沈着冷静、何事にも動じず、一切の感情を表に出さない鉄仮面なんだから。あなたは周囲の人に、的確な指示を出すだけ。後は私の側に来て、いつものように穏やかな笑みを浮かべてくれなくちゃ。そして一言「大丈夫だからね」って声を掛けて、私を安心させてくれなくちゃ。お願い側に来て。あなたの顔を良く見せて。  結局、彼女は助からなかった。国道を渡って駆けつけてくれた医師は、彼女を見るなり絶望的な表情を浮かべた。それでも一応の応急処置を施してくれたが、救急車が到着する頃には、彼女は事切れていた。僕が見た彼女の最後の表情は、悲しみでも、絶望でも、怒りでもなく、僕を見つめやさしく微笑んだ笑顔だった。榛名、最後に君は、何を想って逝ったのだろう。あの時僕はどうすればよかったのだろう。天国というものがもし、本当に存在するのであれば、君はちゃんとそこへたどり着けただろうか? 何を問いかけても、帰ってくる答えはない。道ばたに置かれた小さな花瓶。それだけが君が此処で逝ってしまった証だった。  私はどうやら死んでしまったみたいだった。那智のうそつき。「きっと助かる」って言ったじゃない。でも死の瞬間に見た彼は新しい発見だった。彼でもあんなに取り乱すことがあるんだ。あんな彼を見たのは多分私だけだろう。ただ、死んでしまえばそれを誰にも自慢することは出来ないのだけれど。  それにしても此処はどこだろう? 真っ暗で何も聞こえないし、何も見えない。これが死後の世界というものなのだろうか?それならば私はいつまで此処にこうしていればいいのだろう。輪廻って言う言葉がある位だから次ぎに生まれ変わるまで、此処でこうしていなくちゃいけないのかな?どこか行ってみたいのだけれども、真っ暗で何もわからないし、それに何故か此処からは一歩も動けなかった。  榛名が亡くなってから早半年が経とうとしていた。店の売上もホットコーヒーよりアイスコーヒーの方が多くなってきた。あの事故から毎日、僕は道を挟んだ店の向かい側、大学の北門前の花を欠かさずかえてきた。そんなことで榛名が浮かばれるのかどうかはわからないけど、僕に出来ることはそれくらいしかなかった。今、この道は一応横断禁止になっている。代わりに近くの交差点に横断歩道が書かれた。でも此処を横断する人は後を絶たない。早い話、大学の北門を出て、僕の店にやって来る学生は皆、事故現場の上を通ってくる。中央分離帯にフェンスか垣根をと言う話もあるようだが、そこまで予算が回らないようだ。不用意な学生がたまたま警邏中のパトカーに怒られているくらいが現状だ。これでは彼女の死に何か意味があったのだろうか。せめて僕だけは彼女の轍を踏むまいと思い、遠回りでも横断歩道を通るようにしている。  死んでから、どのくらい時間がたったのかわからないけれども、どうやら私は死後の世界にいるのではないらしいことが判った。いつも目の前を車が通り過ぎて行くし、やや霞んではいるけれど、那智の店、喫茶吾眠が見える。ただ、生きているときと何となく距離感が違うのと、スクリーンを通して見ているように視界が狭く、周囲が黒くぼやけているので、ひょっとしたら死後の世界から、現世?をかいま見ている形なのかも知れない。でも最初は真っ暗で何も見えなかったのが、だんだん見えるようになってきたのだから、もっと時間がたてば生きていた頃のように全部見えるようになるのかも知れない。  那智は毎朝、店を出ると私の視界から消える。そして次ぎに近づいてきたときは、私の背後に回っている。後ろを振り向くと、道ばたに置かれた緑色の筒型の花瓶に新しい花を挿す彼がいる。それから決まって何か包みを置いて手を合わせてまた、私の視界から消えて行く。わずか数メートルのはずなのに、彼の店も、その反対側の花瓶の所もやけに遠く見えて、彼の姿がはっきり見えない。それがなにかとてももどかしい。もっと近くに来てくれないだろうか。私はいつまで此処にいなければいけないのか判らないけれども、此処から消えてしまう前にもう一度彼に会いたい。彼の優しい笑顔をはっきりと記憶に焼き付けておきたい。お願い。那智、此処まで来て!  昨日、また事故が起こった。大学の北門から出てきた学生が、突然ふらりと車道に飛び出したらしい。口性のない連中は此処で死んだ女子高生(榛名のことだ。)が引き寄せたのだと噂していた。普通、事故が二度起こったくらいで幽霊騒ぎは起きない。ましてや半年で二度だ。これが五回、六回と続けば祟りだなんだと騒ぐ人も出てくるのだろうが…。それだけ今回の事故が異常だったと言うことなのだろう。しかし、僕には彼女が引き寄せたとは到底思えなかった。彼女が逝く最後の瞬間、確かに抱き寄せた彼女は笑ったのだ。まるで安心した可のように薄く笑い、そして逝ったのだ。そんな彼女が他の人を巻き込もうとするとは到底思えなかった。  それから暫くして、また同じ場所で事故が起こった。それからというものそこでは定期的に事故が発生するようになる。ついには中央分離帯にフェンスを設け、横断できないようにしたのに、まるで車に飛び込むかのようにして事故に遭うのだ。最近ではそこの場所が気味悪いと言う人迄出る始末だった。大学側もやむを得ず、一時的に門を閉鎖してしまった。  最近、ここの通りは人通りが少なくなってしまった。相変わらず那智は毎日花を添えに来てくれるけれども、それ以外には滅多に人が通らなくなってしまった。その反面、私の周りは随分と賑やかになった。何人もの人が私と同じように、この場所に蹲っている。最初の一人は、私が那智を呼んだときにやってきた。私が我慢できなくて那智に「来て」と呼びかけたところ、その人が急にふらりと車道に飛び出したのだ。その人は私と同じように宙を舞い、そして事切れた。その出来事に呆然としている私の目の前で、身体から白いものが抜け出し、その場にしゃがみ込んだのだった。どのくらいの時間がたったのだろう。その人は顔を上げると私を睨んだ。私のせいでこの人は死んでしまったのだろうか? あの時私はあなたなんて呼ばなかった。私が読んだのは那智よ。ほんのチョットだけ、彼に側に来て欲しかっただけ。なんであなたが来たのよ。何で周囲も見ずに飛び出したのよ。  それからというもの私は怖くなって、那智を呼ぶこともやめてしまった。それなのに私の周囲には次から次へと人が増えていく。原因は最初に私の側に来たあの人だ。彼は道行く人に次々と声をかけて行く。「こっちへおいで」とか「飛び出せ!」とか。そのたびに新しい人が私の側に増えていく。そして、新しく来た人達も彼に同調して次々と生きている人達を呼び込んでいく。息苦しくなって目を閉じようと思った瞬間、視界に那智の姿が飛び込んできた。  夕べ夢を見た。久しぶりに榛名の夢だった。彼女が亡くなった当初は良く夢に出てきた彼女も、最近はとんとご無沙汰だった。もっとも最初の頃に見た夢はいつもあの、彼女が宙を舞うシーン。悪夢としか言いようがなかった。それでも夢にも出てこなくなると、寂しく思うのだから不思議だ。そうやってだんだん僕の中から彼女が消えていってしまうような気がするんだ。だから久しぶりに彼女と夢の中で出会えたときは嬉しかった。それも夕べ見た夢は、いつもの悪夢ではなかった。彼女はどこか暗いところに一人でしゃがみ込んでいた。そのうち何もなかった空間に、小さな黒い雲のような塊が現れた。その塊はどんどん膨れ上がっていき次第に彼女の周囲に漂うようになってきた。彼女が脅えてそれから逃げようとすると、その黒い塊は彼女を包み込むように広がった。やがて彼女の白い身体がその黒いものにからめ取られ、口と言わず耳と言わず、彼女のあらゆる穴という穴から中へ侵入しようとし出す。榛名はそれを拒むようにいつまでも苦しそうにもがき続けていた。そして彼女の悲鳴で僕は目が覚めた。  早朝、僕はいつものように花と彼女の好きだったパンプキンパイをもって、彼女の元を訪れた。彼女の亡くなったその場所には、今も小さな緑色の花瓶がひとつ置いてある。何人の人がここで死のうと、花瓶はひとつだけ。僕は花を変えるとその前にパイを置いて、手を合わせた。その時僕は誰かに呼ばれたような気がして顔を上げた。事故が頻繁に起こるようになってからはめっきり人通りの少なくなった通り。ましてや早朝なんかには誰もいるはずなかった。朝早くから動き出しているトラックが時折目の前を通り過ぎるだけだった。気のせいかと思い、再び手を合わせようとしたら、何かに引っ張られるかのように僕の身体が揺らいだ。  私の視線が那智を捉えたと思った瞬間、彼の状態がぐらりと揺らいだ。私の周囲にいる彼らの仕業だ。さっきから急に彼らが騒ぎ出したのは那智の姿を見たからだ。彼らは那智も自分たちの仲間に引き込もうとしている。 「来ちゃダメー!」  私は信じられないくらい大きな声を出し、那智を突き飛ばしていた。彼は無様に後ろに転がり、その前を大型トラックが通り過ぎていった。 私は安堵のため息を吐くと共に、全身からもの凄い疲労感を感じた。死んでいても疲れるんだ。漠然とそんなことを考えていると、私の周囲の悪意が高まっていくのを感じた。 「何故じゃまをする」 「何故あいつだけ助けるんだ」 「一人だけ良い子ぶるんじゃないよ」  次々と罵声が浴びせられる。周囲の悪意が少しずつ、少しずつ私を蝕んでゆく。このままいつか私も彼らと同じように悪意に犯されてしまうのだろうか?そして此処で、次から次へと罪のない人達を巻き添えにしていくのだろうか。そしていつか那智も…  前に倒れかけていたはずなのに、気が付くと後ろにひっくり返っていた。僕の足の先を大型トラックがもの凄いスピードで走り抜けて行く。風に煽られたのだろうか? でも普通、近くを高速で通り過ぎるものがあるときは、後ろに飛ばされるんじゃなくて、引き込まれるんじゃなかっただろうか。それに転びそうになった瞬間、僕は榛名の声を聞いたような気がした。元々あんまり、霊魂とかUFOとかを信じる方じゃない。その割にはいつまでも花を添えているんだから大きなことは言えないのだけれども。でもそんな僕が、この時ばかりは榛名に助けられたような気がした。ひょっとしたら彼女は此処にまだ留まっているのかも知れない。一度、供養をかねてお払いをしてみようか。もうじき彼女の命日が来る。  私の所から、那智が手を合わせているのが見える。彼の周囲には何人かお坊さんのような人達もいた。人通りこそ少なくなったものの、未だ車の多いこの通りで、騒音に紛れることなく、私の所まで読経の声が聞こえてきた。生前は気にもとめないと言うよりは、辛気くさくて嫌いだったその声を聞いていると、今は何故か心が洗われていくような気がする。此処しばらくのうちに、私のなかに強引に入り込んできた黒い物が徐々に外へと溶けだしていく。気が付けば私の周囲から一人、また一人と死者の霊が姿を消して行った。消えていくのは怨恨でこの地に縛られていた人達。彼らは皆、お経によってその魂を浄化され、死者の国へと旅立っていく。でも、私は心が洗われていくのは判っても、何故かこの地を離れられない。あんな人達でも、いるのといないのとではずいぶん違う。私はまた独りぼっちになってしまった。那智は私がまだ此処にいることに気付いているだろうか? ひょっとしたら私も成仏したと思って、明日からはもう、会いに来てくれないかも知れない。私はまだ、此処にいるのに、こんなにも那智のことを待っているのに、誰もが、那智までもが私のことを忘れてしまうかも知れない。誰にも気付かれまいままずっと、気の遠くなるような時間を私は此処で過ごさなくてはならないのだろうか?そんなのは嫌。お願い!那智気付いて。私はまだ、此処にいるの!  僕は元々、幽霊だの霊魂だのと言った心霊現象は信じていなかった。毎朝、榛名の事故現場に花を添えるのだって、本当に彼女がそこにいると思っていた訳じゃなく、そうすることで、彼女のために何かしてあげていると言う、自己満足を得るためだった。僕が本当に霊魂の存在を信じようかと思ったのはこの間、事故に遭いそうになったときだった。あの時、明らかに何らかの悪意を感じ僕は車道側にぴっぱられ、そして何故か次の瞬間歩道の方へ突き飛ばされた。周囲には誰もいなかったのに。まるで良くある怪談話みたいだった。こう言うのもポルターガイスト現象って言うんだろうか。  事故現場での榛名の一周忌の供養をお願いした住職が、此処には邪悪な物があふれていると言い出したとき、以前の僕ならば冷笑していたことだろう。でも何となく僕にはその存在が信じられた。いつか夢で見た、榛名を包み犯した黒いもやのような物。それが住職の言う邪悪な物とイメージとして重なったんだ。  住職の読経が止んだとき、周囲の空気が何となく軽くなっているような気がした。僕には霊感なんて全くないし、だからこそこれまで霊魂の存在を否定してきたのだから、それは単に僕の錯覚か、思いこみに過ぎないのだろうけれど、住職も「此処に留まっていた邪悪な魂は全て浄化されました」と言っていたので、そのせいのような気になったとしても、誰もとがめないだろう。ただ、住職はこうも言った。 「しかし、未だに此処に縛られている魂があります。よほど何か未練を持っているようで、それをかなえてやらない限り成仏できないのでしょう。」  何故かはわからないが、瞬時に僕はそれが榛名のことだと思った。根拠は全くないけれど、僕には彼女としか考えられなかったんだ。しかし、彼女がここに縛られたままだとしたら、僕は一体どうしたらいいんだろう。  あれからどのくらいの時間が経ったのだろう。私の周囲にはもう、誰か現れることもなく、ずっと一人で過ごしてきた。那智は相変わらず毎朝、花を添えに来てくれたけど、いつからか、彼の隣には可愛い女の子が一緒にいるようになった。お願い! その人は私の物よ。とらないで。あなたには他にもいっぱい出会いがあるでしょ? 那智じゃなくてもいいじゃない。私にはもう彼しかいないの。お願い私の那智をとらないで!  何度、そう叫んだだろう。でも私の思いは通じなかった。二人は結婚し、やがて子供も生まれた。本当なら私がいるはずの場所は、私とはべつのその女性の物となり、やがて私は誰からも忘れられて、永遠のときをここで過ごすのだろう。私は絶望と諦めの塊と化した。  そんな私の思いとは裏腹に、那智は毎日、私の元を訪れた。いや那智だけでなく、彼の奥さんもその子供達も。彼女は平気なのだろうか。自分の夫が過去に関係のあった女の元を(と言っても既に死んでいるのだけれども)いつまでも訪れる事に。多分、私なら許せないだろう。それじゃあまるで、死んだ人間にいつまでも思いを残しているみたいだ。ひょっとしたら自分はその人の身代わりなんじゃないかと、きっと穿ったことを考えてしまうだろう。でも見る限り彼女は私の存在という物を受け入れているように見えた。でなければ一緒に此処を訪れることもないだろう。ましてや子供なんか絶対に近づけないはずだ。そう思ったとき、私は彼女の存在を認めることが出来た。いや、彼女が私を受け入れてくれているように、私も彼女の存在を受け入れようと思った。そして何よりも那智に幸せになって欲しい。私はもう、彼になにをしてあげることも出来ない。だからね、みんなもう此処には来なくていいよ。私は眠るから。ずっと誰かが迎えに来てくれるまでここで眠っているから。私のことは忘れて、本当に幸せになって。  榛名が亡くなってから一体どのくらいの時間が過ぎたのだろう。彼女をあの地に縛り続けているのはおそらく僕なのだろう。僕の存在が彼女を苦しめている。だから僕だけが幸せになることなく人生を終え、いつか彼女を迎えに行こうと思っていた。でも、そんな僕でもいいと言ってくれる女性が現れ、榛名の存在ごと、僕を受け入れてくれた。僕は自分の妻を愛している。それは榛名と比べてどうのと言うわけでなく、榛名も100%、彼女のことも100%愛しているのだ。人の心はひとつではない。そう僕に教えてくれたのも彼女だった。彼女は僕と榛名は不幸にして現世では結ばれることはなかったが、きっと来世で結ばれる縁なのだろうと言った。だから榛名は僕が迎えに行くのをずっと待ち続けているのだろうと。だから僕は現世に思いを残すことなく、思いっきり生き抜いて彼女を迎えに行ってやらなければならないんだと言っていた。  そんな彼女も、昨年病気でなくなり、子供達もみな一人前になって一人立ちをしていった。もう思い残すことはない。いつお迎えが来てもいい。でも僕にはお迎えが来ることはないだろう。だって僕がお迎えに行かなければならない人がいるのだから。  翌日、羽黒那智はその人生の幕を閉じた。享年84歳。  彼の身体を抜け出したその魂は、そのまま目の前の道路にしゃがみ込むようにして眠り続けるひとつの魂を呼び起こした。二つの魂は絡み合うようにして、暫く漂っていたが、やがてどちらからともなく、どこかへと消えていった。 End