小説



伝えたいことがあるんだ



                                     とっと







§1.

 とある地方都市の中を横切り、風光明媚で知られる岬へと続く国道。その国道沿いに立つ私立大学の脇の交差点から200メートルほど入ったところに私たちが集う、喫茶「吾眠」がある。この辺は市の文教区に指定されていて、この大学の他にも高校が二校、中学校や小学校が数校存在する。だから「吾眠」のお客さんも自然とそれらの学生を中心にその職員などが多い。かく言うわたし、霧島榛名もその中の一つに通う現役の女子高生なのだ。
 わたしも今年で高校三年生、なんの因果か三年連続でクラス委員長を努めることになってしまい、そんなわたしにとって喫茶「吾眠」はなくては成らない憩いの場所であり、委員長としての雑務をこなす仕事場ともなっている。それともう一つ……。

 新しい年度が始まってしばらくのこと、桜も花が落ち、すっかり葉桜になろうかというある日の放課後、私はいつものように「吾眠」のカウンター席に陣取ってマスターの入れてくれたハーブティーを片手に文庫を読んでいた。。果実系の香りがふわっと口の中に広がる。彼はわたしの様子を見てその時々で入れるお茶を変えてくれる。そのおかげでわたしはいつも此処ではゆったりとリラックスした時を過ごすことができた。
 カウンターには昨年からすっかりなじみになっている仲間がずらりと並び、カウンターの中にはマスターが一人みんなの相手をしながらも、ドリンクを入れたり、軽食を作ったりと忙しく動き回っている。マスターとはいうけれど、彼も私たちと同い年、同じ高校に通う同級生で、一応私の彼氏でもある。それが、わたしが此処に通うもう一つの理由。
 この「吾眠」のマスターであり、わたしの恋人でもある羽黒那智には身内と呼べる人はいない。彼のご両親はまだ、彼が幼いころに飛行機事故で他界したと聞いている。その後は父方のおじいさんに育てられたと彼は言っていた。
 もともとこのお店もそのおじいさんが経営していたもので、学生相手というのに派手な所もなく、どちらかといえばどっしりと落ち着いた雰囲気を醸しだしている。カウンターもテーブルも全て木製でずいぶんと使い込まれているのに、それでもピカピカに磨き上げられていて、先代の思い入れがうかがえた。そんなおじいさんも一昨年には亡くなり、今は彼が一人でおじいさんの遺志を継いで放課後だけ営業をしているのだ。
 そんなわけで、彼には自由に遊び歩ける時間はなく、ここがわたしたちの逢い引きの場なのだ。逢い引きなんて言うと古くさくてなんとなくイヤラシイ感じもするけど、なんとなく情緒みたいなものを感じてわたしは好きだ。そう言うと必ず彼は「さすが大和撫子」ってわたしのことをからかう。本当に大和撫子だったらよかったんだけれども……。

「ねぇ、那智。私最近おかしな視線を感じるんだけど……」
 わたしは読んでいた文庫から視線を外すと、ここ数日ずっと悩んでいたことを彼に告げた。今日、ここに来た時からずっと言おうか、言うまいか悩んでいたのだけれども、一人で考えていても結論もでそうになかったので、思い切って彼に相談してみたのだ。
 わたしの問いかけに彼はカップを洗う手を休めて振り向いてくれた。柔らかそうな褐色の髪に彫りの深い顔だち。そのどれをとっても日本人離れしている彼だけれども、それもそのはず。彼のおばあさんはドイツ系のアメリカ人で、彼はバリバリのクォーターなのだ。
 わたしから言うのもなんだけれども、恋人と言うひいき目をのぞいてもかなりのハンサムさんと言っていいと思う。そんな彼に見つめられて、涼しげに微笑まれたら、慣れているはずの私でさえもドキッとする。彼の振りまく営業スマイルは女性常連客のなかでも評判なのだ。
 でも、一応ながら彼女と言う一番彼に近い位置にいるわたしにはわかっている。この見てくれに騙されてはいけない。柔和な笑みを浮かべながらも彼は、涼しげな顔で結構きついことをサラリと言ってのけるんだから。
「榛名さん、おモテになるから」
 う、イヤミ。去年、那智が反対したにもかかわらず、学内のミスコンに出場したことを根に持っているんだ。
「二年連続で学内ミスコンを制覇すればね。そう言うこともあるよ」
 返す言葉もない。でも言わせてもらうならあれはわたしが望んで出場したわけでなく、友達の陰謀だったのだから情状酌量の余地はあると思う。そりゃ、最終的に出場の意思表示をしたのはわたしだけど、執行部に頭下げられて断るに断れなかったのだもの、仕方ないじゃない。それに去年、あれにでた時はわたし、本当に大変だったんだからね。
 その辺の事情を彼は全て知っているはずなのに時々それをネタにチクリと苛めてくるのだ。それだけ腹にすえかねたと言うことなんだと思うけど。
 わたしは溜息をつくとできうる限り恨めしそうな顔をして彼を見上げる。でも、彼は今時分の言った言葉など忘れてしまったかのように涼しげな目でわたしの方を見つめ返してくる。それだけで、わたしはすっかり毒気を抜かれてしまい、なにも言い返せなかった。これってなんかずるい。
 本当はそんな視線じゃなかったんだけどなぁ。
 わたしは心の中で呟いた。
「はるな〜、またストーカーか?」
 不意に背後から声をかけられる。それと同時に横合いからにゅうっと湧いて出てきた顔がニヤニヤ笑みを浮かべながら、わたしの顔を覗き込む。霧島鈴谷、通称リン。紛れもないわたしの弟だ。今年、わたしたちと同じ高校に入学してきたピカピカの一年生で、ここ吾眠のウェーター。何故か那智にとても懷き、今年からこの店に雇われている。
「ちょっと、リン。名前で呼ばないでよ。ただでさえなれなれしいあんたがそんなだと知らない人から誤解を受けるでしょ」
 別にイチャイチャしているわけじゃないけれど、それなりに恋人同士の時間を楽しんでいる時に割り込んでくるとは我が弟ながら無粋な奴。那智もなんでこんなのを雇ったのだろう。限りある二人の時間をなにが悲しくて弟に監視されなくてはいけないのか。よそう。あんまり考えると自分がすごく不幸に思えてきちゃう。
 でも、あんまり腹立たしかったから持っていた文庫をペシャリと彼の額に打ちつける。。
「イテテ、那智兄ィも大変だよな。こんな乱暴な女、彼女にしちゃってさ。那智兄ィも見てくれに騙された口か?」
 失礼しちゃうったらない。教育的指導としてわたしは、今度は文庫の背で彼の頭をポカリとやってやる。
「乱暴なのはあんたがしょうもないことばかり言うからでしょ」
「そこで、やんわりとお諭しになるのがやさしいお姉タマでしょ。いきなり叩くのはただの乱暴女」
 ペシッ
 もう一度生意気な弟に教育的指導を施した後、わたしは彼を開放した。そしてそのままシッシッと犬でも追い払うように彼を店の隅に追いやる。
「マスター、この客やたらと従業員に暴力振るうよ。追い出してもいい?」
 開放された途端に那智のところへ走り寄り、そう言って哀願する弟を見て、わたしはもっと思いっきり殴ってやるべきだったと心底後悔した。しかし、那智に泣きついても無駄よ。かわいい彼女を表に放り出すわけがないじゃない。
 そんなわたしのささやかな期待も那智の一言で物の見事に打ち破られた。
「お客様、当店の従業員の不始末は代わってお詫びいたしますが、他のお客様のご迷惑になりますのでどうかお静かに願います」
「那智ぃ。あんた一体どっちの見方なのよ」
 思わず悪態が口をついて出る。精一杯恨めしそうな目で睨んでみても、睨まれた方はどこ吹く風といった感じ。まるで暖簾に腕押し、糠に釘。憎らしいったらない。私よりリンのほうがかわいいのか!
「榛名、無理よ。あんたと違ってリンちゃん、那智にはものすごく素直なんだから。そりゃぁさすがの那智でもわがままな彼女より、従順な弟の方を可愛がるわよ」
 それまで沈黙を保っていたというか、自分たちの世界に入り込んでいた隣人が話に割り込んできた。青葉那珂。私や那智のクラスメイトで那智の幼なじみ。その上彼の元彼女と三拍子揃った? ショートカットのかわいい娘だ。大きくてくりくりの目がチャームポイントで、もし真剣に那智を争うことになったらちょっと適わないんじゃないだろうかと思わせる美少女なのに、何を血迷ったか一昨年に他の男に走って、那智を捨てた愚か者だ。ちょっと紹介に私情が混じっている気がしないでもないけど。
「那智は妬いてんだよ。ハルちゃん、那智よりもリンとの方が仲がいいからさ」
 とは酒匂蒼龍。お家が地元ヤクザの元締めでゆくゆくは自分も親分になるっていう剣呑極まりない人物だけど、何故か那智と気が合う。もっとも堅気には絶対に手を出さないっていう昔気質の組だから、それほど皆に恐れられている訳でもないのだけれど。
「別に妬いているわけじゃないけど、でも本当に仲がいいよね。僕は兄弟がいないから羨ましいよ」
「那智兄ィ、こんな暴力女でよければいつでもやるよ。そのかわり返品不可だからね」
 那智のやつ勝手なことを言って、と思わないでもないけれど、きっと端から見たら仲のいい姉弟なんだろうな。それより問題は
「酒匂ぁ〜。そのハルちゃんってのもやめてよ。気持ち悪いんだから。あとリン、そんな事言うと、あんたの分だけご飯作らないからね」
「リン、よかったな。明日から毎日那智の作ったうまい晩飯が喰えるぞ」
 まったくここの男共と言ったら!
「酒匂! いい度胸してるじゃない。いいわよ、今度酒匂の為に榛名さん特製弁当を作ってあげるから覚悟しなさいよ」
 なんか言っていて虚しい。自分より料理の上手な彼氏を持つと惨めだ。いや、那智は家事全般が私よりも上なんだけど、特に料理に関しては素直に兜を脱ぐしかない。でもそれをこの男に言われるのは癪だ。
「それが自動的にその弁当は俺が受け取った瞬間に那智の口に放り込まれることになっているんだな。ハルちゃんの愛情いっぱい、愛妻弁当を他の男が喰うわけにはいかないもんな」
 口の減らない男。それになによ、愛妻弁当って……。
 妻と言う言葉に反応して、わたしは顔は火が出そうなくらいに火照ってしまったけれど、それと同時に胸の奥がズキンッと痛んだ。この先、那智との関係がいつまで続くかわからないけれど、わたしにそう言った日はきっとやってこない。那智だけでなく、わたしは誰ともそういった関係になることはできないだろう。

「酒匂ァ〜。そのハルちゃんって言うのやめてよ。気持ち悪いんだから。」
 わたしは悲しい考えを自分自身から隠すかのように大きな声を張り上げた。何だかんだ言っても那智はやさしいし、こうやってみんなで馬鹿話をするのも楽しい。こんな生活がいつまでも続くわけではないから、せめて今だけは悲しいことは忘れて、この至福のひとときを楽しみたい。
「なんだよ、名前くらい好きに呼ばせろよ。減るもんじゃなし」
「減らなくても、汚染されるかもしれないでしょ。わたしを名前で呼んでいいのは一人だけなんだからね!」
 顔を思いっきり崩してベーッと舌を出す。店内にいた男連中が一斉にピューと口笛で冷やかす中、那珂の「アラいい顔」と言う茶々が入った。で、冷やかされているもう一方の対象はと言えばやっぱり柔和な笑みを浮かべて、一人カウンターのなかで澄ましている。なんか思いっきり脱力。結構のろけまがいの台詞を口にするのは勇気とパワーがいるんだからね。少しぐらいなにか反応示してもよさそうなもんじゃない?
 そう心の中でつぶやきながらも彼には申し訳ないと思う、きっと彼はわたしに同情をして付き合ってくれているだけなのだから。わたしが抱えるトラウマを知り、そのリハビリの為にボランティアでもしているつもりなのだと思う。本来やさしい人だから、そんな様子はおくびにも出さないけれど。
 今のわたしには自分に対する自身と言うものが全くない。女性として不完全になってしまったわたし。だからそれを全て知っている彼が本当に恋愛対象としてわたしのことを好いてくれているとは到底思えない。だからかもしれない。虚構とすらわたしの心に映る今を可能な限り楽しみたいと思うのは。それはやがて来る終末を予感しているから。

「お熱いこって。那珂もたまにはそれくらいの台詞言って見ろよ」
 そう言ったのは那珂の今の彼氏である五十鈴高雄。彼女が那智を振ってまでしてつきあいだした男だけれど、私はこいつにそこまでの魅力を感じないんだけどなぁ。たしかに運動部に所属するだけあって体格はいいし、ある意味那智よりも男は感じさせるけれども。
 五十鈴の台詞に那珂は間髪入れずに答える。
「高雄のこと高ちゃんって呼んでいいのは私だけだからね」
「や、やめろ〜。なにが悲しくて高校生にもなって彼女からちゃん付けで呼ばれなくちゃいけないんだ!」
 何だかんだと言ってもこの二人は本当に仲がいい。いつも喧嘩しているようにみえるけど、それが彼女たちのスタイルなんだ。仔犬のじゃれ合いみたいで見ていて微笑ましいとは言うものの、ちゃん付けに関しては私も五十鈴に賛成だ。
「なにかご・ふ・ま・ん? なっちゃんは、ちゃん付けで呼んでも文句のひとつも言わないわよ」
「那智と比べるな! こいつは普通じゃないんだ」
 むっ! 那珂、あんたはもう彼女じゃないんだからわたしの那智のことをなっちゃんなんて呼ぶな。
 その辺の感情は我ながら矛盾していると思うけれど、彼が実際のところわたしのことをどう思っていようとも、現に一応わたしたちは付き合っているわけだし、少しくらい独占欲を持ってもいいかと自分を納得させる。いずれは覚めてしまうのだから、今だけはこの夢にひたらせて。甘えちゃっていいよね。那智。
「霧島さん。この男、あんな事言ってますけど?」
 那珂がわたしに振ってくる。だからわたしもそれにのる。
「五十鈴もいい度胸してるわね。全ての面において普通を脱しきれない男に言われたくないわ。でも、私も『なっちゃん』はちょっとやめてほしいんだけど。それにしても那珂、なんであんた霧島さんなんて他人行儀に呼ぶのよ」
「だって、名前で呼んでいいのは一人だけって……」
「それは男限定!」
 わたしは笑う。みんなも笑う。わたしの周囲に笑い声が渦巻き、ちょっとだけ幸せを感じるひととき。
「ところで委員長。さっきから横道にそれちゃってちっとも話が進んでないんですけど……」
「なんであんたが名前で呼ばないのよ! 那智」
「いや、一人だけって言うから、てっきり名前で呼んでいいのは君のお父さんだけかと……」
「那智黒!」
 天然なのか、わざとなのか……。彼の本音が見えない。それでもわたしは笑うし、みんなも笑う。でも、それはどこか虚ろに感じた。そんなわたしに那智のやさしい視線が向けれれる。その全てが信じられたら。
 偽りの時間が過ぎてゆく。

§2.

 カラン! カラン!
 笑いすぎて力尽きた私が思わずカウンターに伏せた時、背後でカウベルの鳴る音がした。
「こんにちは、マスター。相変わらず仲いいんですね」
 聞き覚えのある声に振り返ると、入り口のところにうちの高校の制服を着た少女が二人立っていた。どちらも今年入学したばかり。リンの同級生でやはりピカピカの一年生だった。えっと、名前は、名前は……
「いらっしゃい、東雲さん。今、部活の帰り?」
 そうだ、たしか東雲伊吹(しののめ いぶき)て名前だ。地元では結構有名な実業家の一人娘。バリバリのお嬢様。そしてもう一人は橿原千歳(かしわら ちとせ)って言った気がする。伊吹ちゃんはなんか、素直で人懐っこくてとてもいい娘なんだけど、橿原さんはちょっとツンケンしていてなんかとがっている感じ。それに時々私のことをすごい目で睨む。ひょっとしてこの娘、那智のことが好きなのかなぁ。
 私がそんなことを考えている隙に伊吹ちゃんはちゃっかりカウンターの空いている席に腰を降ろして那智とおしゃべりをはじめていた。一方の橿原さんは…… あれ? リンのやつがちゃっかり隣に座って相手をしている。ふ〜ん。リンのやつああいうのがタイプなのか。たしかにこの娘も美人ではあるけれど、ちょっと冷たい感じで姉としてはあんまりおすすめできないけどなぁ。っていうかそれよりこいつ、仕事はどうした?
 伊吹ちゃんはすっかり溶け込んで、ずっとそこにいたかのようにみんなとおしゃべりをしている。この人たち、二人で来たのにお店のなかではバラバラなのね。
「実はですね、わたしたちしばらくお店の外でみなさんの様子を眺めていたんです」
「暗ァ〜」
 酒匂が大きな声で呟く。呟いているつもりなのかもしれないけれど丸聞こえだよ。もっとも言われた本人はちっとも気にした風もなくニコニコ笑っているけど。
「すぐに入ってくればいいのに」
 これは本心。言うときに思わず苦笑してしまった。だってこの娘たちが窓の外から、中の様子をうかがっている所を想像したら、かなり怪しい構図になってしまった。できればやめてほしい。でも。
「でも、みなさん。端から見ているととっても面白いんですよ」
 だめだ。全然わかっていない。この娘も鈍感というか、なんというか……。私の周囲ってこんな人ばかりだ。
「たしかに那智とか見てて面白いよな。いっつも澄ましちゃって我動ぜずって感じなくせに霧島にはこれでもかってくらいに尻に敷かれているし」
「五十鈴、いつ私が那智を尻に敷いたのよ」
 私の反論に那珂が一言。
「自覚なし……」
 しょせん、女同士の友情なんてそんなものよね。さっきから孤軍奮闘しているような気がする。那智も何か言ってくれればいいのに。なにも言わないって事は本当に尻に敷いちゃっているの?
「でも、お二人の関係って憧れますよ。羽黒先輩が霧島先輩を見る目って、他の人を見るときと違ってなんかこう、本当にやさしい感じなんですよ」
 よしよし、伊吹ちゃん。あなたは偉い。よく分かっていらっしゃるって、あれ? ひょっとして今褒められたのは那智だけ? でも、端から見てそう思えると言うのはわたしにとって嬉しいことだった。恋愛感情の有る無しに関わらず、わたしのことを大切に思ってくれていると言うのが第三者の目から確認できたみたいだ。
「馬鹿みたい。恋敵にフォローなんか入れちゃって」
 わたしが相好を崩した瞬間に現実に引き戻す一言。伊吹ちゃんに話しかけてるくせに私の方を睨み付けてくる。でもそれ以上にショックなのは伊吹ちゃんも那智のことを好きらしいと言う事実。那珂相手でもそう思うけれど、この娘が本気になったらきっとわたしは叶わない。この娘だけでなく、誰が相手でもそうなのかもしれないけれど。でも、こんなにいい娘に好かれたら那智だって……。
「ば、馬鹿。な、何言ってんのよ」
 一応は否定してみるものの、彼女の顔はこれ以上ないってくらい真っ赤になっていた。
「へぇ、そうだったのか。伊吹ちゃんが那智をねぇ」
 馬鹿五十鈴。こんな純情な娘に茶々入れるんじゃない。泣いちゃっても知らないよ。
「そ、ソンなんじゃないんです。え、えっとなんて言うかそんな恋愛感情とかじゃなくて、憧れって言うか……それも羽黒先輩にって言うよりお二人の関係にって言うか……」
 あら、意外とタフ。あわててはいるものの感情が揺さぶられた様子はない。でも、あわてて取り繕ったそんな言葉よりも、彼女の顔が真実を如実に物語っている気がした。
「相変わらずおもてになるのね、この人は。それにしてもこんなかわいい娘にまで恋されちゃうなんて」
 思わず口から皮肉が漏れてしまう。こんな時わたしはよく、感情を抑えられなくなってしまう。せめてわたしが昔のように普通でいられたらばそんなこともなかっただろうに。
 那智は本当によくモテる。日本人離れしている上にきれいな顔だちをしているから、それだけでもモテる要素はあるのだけれど、穏やかで誰にでもやさしいから尚更だ。ただ、顔の割に性格が地味で、自分から人に近づくタイプではないので、これまでおおぴらに騒がれることがなかったのだけれども。
 それが今年になって状況が変ってきた。どう言うわけか新一年生の間で彼は急激に票を伸ばしてきているのだ。まだ新学期も始まったばかりで目立った行動に出る娘はいないけれど、その娘たちが学校に慣れてきたらどうなるかはわからない。現に今、わたしの目の前にはライバル予備軍…… いや、既にライバルかもしれない娘が二人いる。
 わたしはいつまで彼と一緒にいられるだろう? 嘘でも同情でもいい。彼の口からわたしに向かって好きと言う言葉が紡がれるのはいつまでだろう。それを考えると……。
「自信ないなぁ……」
 知らず知らずのうちに声がでていた。
「あらあら、とても学内ミスコンを二年連続で制覇した御方の台詞とは思えないわね」
「こう言う場合、往々にして自分のことは棚上げで相手のことが気になるもんなんだよ」
「そういう意味じゃあ、モテモテ同士のイヤミなカップルだよなこの二人」
 みんな勝手なことを言っている。
 ミスコンなんてみんな上辺を見ているだけ。それで優勝したってアイドル的にもてはやされたってだけ。那智にしてもそうだと言えばそれまでだけれども、わたしと彼では決定的な違いが一つだけある。わたしには彼しかいないけれども、彼は誰でも自由に選ぶことができるのだ。
 わたしの本当の悩みを知らない三人は好き勝手言って盛り上がっているが、それに反論する気力もなくわたしはため息をついた。そんなわたしの目の前に差し出される小さなケーキとカフェオーレのカップ。
 こんな時にわたしは本当に彼のやさしさを感じる。全てを知った上でちゃんとわたしのことを見ていて、さりげない気遣いを見せてくれる。わたしがささやかな幸せを感じる一瞬。彼の気持ちが恋愛感情だろうと同情だろうと構わないくらいに。どういう理由であれ、大切に思ってくれているその気持ちの現れなのだから。
 わたしは多くは望まない。彼のことを好きになった時からそう決めている。

「霧島先輩、自信持って大丈夫ですよ。だって本当に羽黒先輩って霧島先輩の事しか眼中にないって言うか、一途なんだって端から見ていて私も思いますもん。ほら、今だって絶妙の間でケーキ出してくれたりするし。ほんと、そんなところに憧れるんですよね。わたしにもそういう人が早く現れないかなぁ」
 伊吹ちゃんはそう言うと、一人自分の世界へとお出かけしてしまった。
 自信を持っていい?
 わたしは自分自身に問いかけて首を振る。
 わたしは彼から言葉にできない沢山のものを貰っている。でもわたしには彼に何かをあげることはできない。そんな不完全な関係に自信を持てるわけがない。
「脛に傷でも持っているから自信が持てないんじゃないの」
 突然耳に飛び込んできた言葉にわたしは、心臓を直接つかまれたかのように胸が痛んだ。自分でも顔が青ざめるのがわかる。
「ちー! てめぇ!」
 リンの放つ罵声が遠くで聞こえる。那智の顔も瞬時に険しくなった。
 ガタン! と大きな音を立てて酒匂が席を立つ。那珂も五十鈴も怖い顔をして声の主、橿原千歳を睨んでいた。
「おめー言って良いことと悪いことがあるぞ!」
 かいがいしく彼女の相手をしていたリンがまるで別人のように見える。彼は知っているのだ。わたしのトラウマを。そしてその原因を。だから、彼は先程の彼女の一言がわたしにどれほどの衝撃を与えるかわかっているのだ。酒匂や那珂たちは理由はわからないでも、わたしがひどく侮辱されたことに対する抗議なのだろう。そして那智は……。

 酒匂がリンと橿原さんの間に入ろうとするのをいつのまにかカウンターの奥から出てきた那智が制止する。そして彼はリンすらも彼女から引き剥がすと、その前にしゃがみ込み彼女と視線の高さを合わせた。
「どんな人でも大抵はその大小に関わらず傷を持っているんだ。二度とそんな口を聞くんじゃないよ。もしそれが守れないと言うのであれば、残念だけど二度とうちの店の敷居はまたがせない」
 そう言う那智の口調も声もこれ以上ないと言うくらいやさしかったけれど、わたしは見てしまった。その目が氷のように冷たかったのを。その表情はあの酒匂をして「メデューサの微笑み」と後で言わしめたほどだった。その心は固まって動けなくなる。つまりは酒匂でさえもそれほどの威圧感を感じたと言うことらしい。
 店内の時間が止まった。皆が柔和な笑みのその後ろから恐ろしいほどの怒りの波動を伝えるマスターと、その前で固まる少女に注目していた。わたしも青ざめた顔のまま、はじめてみるそんな那智の姿に目を見張った。そんな中で、わたしの隣に座る青葉那珂だけが平然とストローでジュースを啜る。
「ばーか」
 彼女が小声でそう呟くのを聞いた。この中でただ一人平然としている彼女を見た時、彼女と那智の付き合いの長さを、そして深さを思い知らされたような気がした。わたしにははじめての体験でも、彼女はこれまでに何度もこんな彼を見ているのだろう。
 那珂の発した声は本当にとても小さかったけれど、それでも静まり返った店内全てに屆くくらいには大きく聞こえた。彼女のその一言が吾眠の中の時計の針を再び動かす。
 それまで固まって動けないでいた橿原さんが弾かれたように席を立つとそのまま、出口へと駆け寄る。
「伊吹! わたし帰るよ。こんな暴力団の組事務所みたいなところになんか、危なっかしくていつまでもいられないわ!」
 彼女は、扉の前で振り向き、そう捨てぜりふを残すと、一目散に外へとかけ出してしまった。
「千歳!」
 伊吹ちゃんはちょっとだけ逡巡したけれど、荷物をまとめるとすぐに彼女のあとを追って行った。
「すみません。本当はあんな娘じゃぁないんですけど……。それじゃあ、私も失礼します。」
 彼女は本当に済まなそうに出口のところでそう言って頭を下げると表へと飛び出していく。その背中に向かって那智が声をかけた。
「気にしてないから、またおいでね」
それはもう既にいつもの那智だった。

 二人が出ていったあと、わたしはそっと那珂に聞いた。
「那智って本気で怒るといつもあんななの?」
 わたしの問いかけに彼女はニィっと笑う。
「まさか、なっちゃん本気でなんて怒っていないわよ。あれは教育的指導」
「えっ?」
 あれが本気で怒っていない? それじゃあ本気で怒った時って一体……
「なっちゃんに本気で怒られたらね、それこそ全身全霊を込めてその存在を無視されるわよ」
 それだけ? それならばさっきの教育的指導の方がよっぽど怖いし、相手に与えるダメージも大きいんじゃないかしら。
「今、それだけって思ったでしょ。榛名も一度やられてみたらわかるわよ。なんなら一度試してみる?」
 わたしはあわてて首を振った。そんなことをすればきっとわたしは永遠に彼を失うだろう。
 そんなわたしを見て、那珂は軽くため息をついた。
「なっちゃんの元彼女として一つだけ忠告しておくけど……」
 そう言う彼女の顔は真剣で、イヤミや冷やかしは一切感じられない。そんな彼女の態度にわたしも居住まいを正す。
「榛名がなにをなっちゃんに遠慮しているのか知らないけれど、この先長く付き合っていこうと思うなら、早いうちに彼の本音を引き出しておいた方がいいよ」
 わたしにはなにも答えられなかった。だって、それは今、わたしが一番知りたいことでもあり、そして一番知りたくない事でもあるのだ。それで彼を失うくらいなら、偽りの恋愛でもいい。もう少しだけ今のままでいたい。


「僕はいつも本音を晒しているつもりだけどね」
 突然、背後からかけられた声にわたしは飛び上がらんばかりに驚き、那珂はしくじったと言う顔をした。
 後ろから伸びた手が、わたしの前のカップを下げる。
「冷めちゃったね。入れ直すよ」
 背後を人が通る気配がするけど、わたしは怖くて振り向くことができなかった。そしてその気配がわたしの隣に映った時に低く呟くような声がした。
「人のこととやかく言うより、自分たちの心配したら? 五十鈴が嘆いていたぞ。最近マンネリだって」
 見る見るうちに那珂の顔が真っ赤になる。最初に那智を次に五十鈴を睨むようにして見る。
「それこそ余計なお世話よ! 高ちゃん! あんた、そんな恥ずかしいことぼやいていたの!」
「い、いや……それは…… な、那智! お前、那珂には内緒って!」
 那珂の剣幕にしどろもどろになりながら弁解を試みる五十鈴と、まったく動ぜずに笑みを浮かべる那智。
「いいわけはいいから、ちょっときなさいよ!」
 五十鈴は那珂に耳を引っ張られながら外へ連れ出されてしまった。
「霧島ぁ〜、これで判ったろ。こいつこういう陰険なやつだからお前も気をつけろよ〜」
と言う言葉を残して。
 わたしはまた、深いため息をつく。あの人たちといると真剣に悩むのが時々馬鹿らしく思えてくる。そんなわたしの前に差し出される新しいカップ。顔を上げると、そこには那智が爽やかな笑みを浮かべて立っていた。
「なんかずいぶんとすっきりした顔してるわね」
 わたしは騒ぎの現況とも言える男に苦笑まじりにそう言った。
「そう、これで邪魔者はいなくなった」
 爽やかな笑みが悪戯っ子の笑いに変わる。台詞の割に甘い雰囲気にならないのはそのせい。彼からは男の匂いが感じられない。普通ならこんな時、隠しても男の欲望みたいなものを感じるのに、彼からはそれが一切感じられないのだ。
 微妙なバランスの中で二人の世界を作っていたわたしたちにぽつりと呟く声。

「まだ、俺はいるんだけどな……」
「あれ、リュウ。まだいたの?」
 結局酒匂も退場を余儀なくされたのだった。

§3.

 那智のお店でのいざこざがあった後、しばらくあの二人がお店に来ることもなく、平穏な日が続いた。ただ、相変わらず私は刺すような視線に悩まされ続けてはいるけれど、先日の一件で、その原因も何となく分かってしまった。それは多分、嫉妬の視線。それも仕方ないかと思う。那智の本心が判らないからなんとも言えないけれど、もし形だけであったにしろ彼をわたしが独り占めしているのは事実なのだから。
「みんななっちゃんのあの見てくれに騙されちゃうのよね」
 那珂はよくそう言う。
「本当は史上最悪の陰険根暗男なのにさ」
 那珂はわたしも彼の見てくれに騙されている口だと言ってはばからない。わたし自身は別に彼の容姿に引かれたわけでないのだけれど。ただ、それを言葉にするのは難しい。強いて言うのであれば安らぎだろうか。

「僕の方が榛名の本音を聞きたいね」
 不意にあの日、那智が言った言葉がわたしの胸に蘇る。それは、那珂の言った「早いうちに彼の本音を引き出しておいた方がいいよ」と言う言葉に対する彼の返礼。
 わたしには彼の言葉の意味が判らなかった。
「わたしの本音?」
 そう聞き返すわたしに彼はシニカルな笑みを浮かべただけだった。
 那智はなにをいいたかったのだろう。

 那智の言った言葉の意味を考えながら、わたしは電車を降りて喫茶「吾眠」へと足を向ける。市の中心部に住むわたしはいつも市内と校外を結ぶこの電車で通学する。一方那智のお家でもある喫茶「吾眠」は、わたしたちの通う学校から徒歩5分という距離にある。毎朝、最寄り駅で下りたあと、「吾眠」に立ち寄り、お茶を一杯御馳走になってから、二人して登校するのがわたしたちの日課になっていた。

 カラン!
 いつものようにお店の扉を開けて中に入ると、すでにお茶の準備を整えて那智が迎えてくれる。
「おはよう、榛名」
「ん、……。おはよう」
 わたしが席に着く前に、テーブルの上に紅茶の入ったカップが差し出される。カウンター席の端から二番目。そこがわたしの指定席。考えてみると、わたしが彼と付き合うようになってから、ここに他の誰かが座るのを見たことがない。どんなにお店が込んでいる時でも、そこはまるで予約席のように空いていた。
 わたしがお茶を飲んでいる間に那智も自分の食事を済ませる。でもその間も彼はお店の仕事をこなしてゆく。放課後すぐに開店する為、彼は朝のうちにすべての仕込みをおえておかなければいけないのだ。毎朝そんな風景を見るたびに大変だなぁと思う。親の庇護の元でぬくぬくと暮らす自分。お昼に食べるお弁当すらおかあさんに作ってもらっている自分と比べた時に、こんな事でいいのだろうかと反省する。

 わたしの本音……
 ひょっとして彼はわたしのような甘えた生活をしている者が、彼のような苦労人と本当に一生を共にしていけると思っているのか疑っているのだろうか? 那智にお嬢様と言われたことも一度や二度ではない。「しめじ」と「えのき」の区別がつかないことを知った時には心底あきれた顔をされたものだ。
 って、そこまで考えてわたしは顔が真っ赤になった。わたしも彼もまだ18。とてもそんな先のことまで考えているはずがない。一生を共にするなんて……、共にするなんて……

 考えてみれば、わたしが誰か男の人と寄り添って生きていくなんて事はありえる話ではなかった。彼にしたってきっと、わたしがいつまで彼を束縛するつもりなのか、その真意を疑っているんだろう。

 気がつくと那智が不思議そうな顔でわたしのことを眺めていた。
「なに?」
 そう問うわたしに彼は笑みで答える。やっぱりこの人の考えていることはよく分からない。日常の些細なことから、わたしのことを本当はどう思っているかまで……。その柔和な笑みで全てを煙に巻いてしまう。口に出して言えないから、そうやって全てをごまかしているんじゃないだろうか? その心にしまわれたものをわたしが知ることで傷つけることがわかっているから。
 わたしたちの関係は今、微妙なところに来ている気がする。形だけの恋人と言う関係。それはきっと彼のたった一言で跡形もなく消え去ってしまう。一方的にわたしが彼の庇護を受けているそれは、偽りの関係なのだ。

「笑ってないで、ちゃんと口で言ってよ……」
 口を尖らせて呟く。でもそのあとでわたしは全身に震えが走るのが判る。言ってほしくない。偽りでもいいから、一分、一秒でも長く今の関係を続けたい。わかっているのに。黙って彼の笑みを自分の都合のいいように受け取って、騙されているふりをすればいいのに、そんな彼の態度が癪に障ってついつい突っかかってしまう。
「真剣に考え事をしているところ申し訳ないんだけど、そろそろでないとヤバい時間なんだけど……」
 わたしの言葉に彼は時計を指さしながら答えた。いつもそうだ。そうやって話をはぐらかしてしまう。そしてそれは、わたしに安堵の気持ちと一緒に新たな怒りを感じさせるのだ。
「なにがヤバい時間よ……」
 わたしは口の中で呟く。
 ……時間? そう思って時計を見上げわたしは悲鳴を上げる。始業まであと3分。
 わたしたちは学校までの道のりを全力疾走する羽目になったのだった。


 朝からマラソンをする羽目になったわたしたちだけど、どうにか遅刻だけは免れた。那智黒の馬鹿。もっと早く現実に引き戻してくれればよかったのに。でもあんな時間になっていたなんて、今朝、わたしはずいぶんと長いこと彼を置いてきぼりにしてお出かけしてしまったようだった。
 帰り支度を済ませたわたしが、そんなことを考えながら下駄箱の扉を開けた時、中に白い封筒が入っているのを見つけた。わたしはあわてて一度それを閉じる。なにせすぐ横には那智がいるのだ。どういう理由で付き合っているのであれ、自分の彼女が他の男からラブレター貰うなんて面白くないよね。
 わたしは一度横目で那智が酒匂と話し込んでいるのを確認した後、もう一度そっと扉を開いてそれを取り出し、素早くポケットに入れた。いや、入れようとした。でもその途中でその白い封筒はわたしの手から忽然と姿を消してしまった。
「おやおや、これは……」
 いつのまにか背後にまわっていた酒匂の手にそれはあった。
「ちょっと、返してよ。プライバシーの侵害!」
 わたしは彼の手からそれを奪い返そうとするが、酒匂の奴は手を高く上にあげていて届かない。取り返そうと何度も飛び掛かるわたしは端から見れば柳に蛙だっただろう。酒匂の身長は180を超える。わたしはせいぜい160。どうあがいてもかないっこない。そうこうするうちにわたしは勢い余って酒匂にぶつかりそうになり、体をひねってよける。その時体制を崩して転びそうになった。那智が鞄を押し当てるようにしてわたしを支える。
「なにやってんだ? お前ら」
 酒匂が嘲笑するかのように言ったが、わたしはそれどころではなかった。
「ご、ごめん……」
 わたしはあわてて那智から離れる。彼は軽く溜息をつくと、げんこつでわたしを叩く真似をした。こう言うのも端から見れば仲のいいカップルに見えるんだろうな。
「しかし、これ差出人の名前が書いてないぞ」
 酒匂はすでに興味が封筒に戻ったらしく、ひっくり返し見ている。
「なんか紙が厚そうだね」
 那智も酒匂の手にある封筒を見つめている。それだけでわたしはいいようのない罪悪感にとらわれた。彼はなにを考えてその封筒を見ているのだろう。
「たしかにな。日に透かしても中が見えない」
 わたしはそれが自分に宛てられたものだと言うことも忘れて、二人の封筒に関するやりとりをぼんやりと聞いていた。酒匂は興味津々と言う感じだったが、那智はすごく険しい顔をしている。彼、怒っている? 彼女として彼に何もしてあげられないくせに、他の男に色目を使っているとでも思っているかもしれない。
「誰だか知らねぇけど、いい度胸しているよな。俺に喧嘩売ってんのか?」
 ちょっとなんであんたに喧嘩売ったことになるのよ。それを言うなら那智にでしょ。
 心の中で酒匂に突っ込みを入れながら、彼の胸のところまで下がった封筒を取り返そうとわたしが手を伸ばすのと、彼がそれの封を切るのと同時だった。あっと言う間もない。
「待て!」
 那智が叫んだ時にはビリビリと言う音と共に封筒は裂け、次の瞬間わたしの目に赤いものが映った。
「痛!」
 封筒がヒラヒラと酒匂の手からこぼれ落ちる。真っ白だったそれは赤く染まり、見れば酒匂の手がすっぱりと切れている。
「酒匂!」
 わたしはあわててハンカチを掴むと彼の手を包もうとする。でもその直前で体が硬直した。那智がわたしの手からそっとハンカチをつまむと、それで彼の手を包む。呆然とそれを眺めていたわたしは、足元に落ちている封筒に気づき、それをそっと拾い上げた。
「気をつけろよ。剃刀が仕込まれている」
 剃刀? なんでそんな……
「きゃあぁぁ、一体どうしたんですか!」
 突然背後で悲鳴が上がり、わたしたちが振り向くと、一人の女の子が外から玄関の中に駆け込んできた。
「伊吹ちゃん?」
 それは東雲伊吹さんだった。どうして三年用の玄関に一年生のこの娘が?
 ふと、私の中にそんな疑問がわいたが、それも彼女の言葉にかき消されてしまった。
「すぐに保健室開けますから、先に行っていてください」
「東雲さん、保険委員?」
「ええ、今日は当番じゃないけど、何とかなりますから」
 そう言うと彼女は職員室の方へと飛んで行った。
 最近は保健室からクスリを勝手に持ち出すやからがいたりするから、養護教諭のいない時は保健室は施錠される。そして今日は放課後定例の職員会議のある日。養護教諭のいない時は、保険委員の立ち会いがある場合に限り、保健室が開放される。
 酒匂は大したことないと強がっていたけれど、結局那智に促されて保健室に向かった。


 翌日の昼休み、私たちはお弁当を食べるために屋上に上がった。屋上は周囲をぐるっとフェンスで囲まれており、ベンチなんかもいくつか置かれて、一応生徒たちにも開放されている。そのベンチのひとつを私たち(私と那智と、酒匂と那珂と五十鈴、つまり放課後の吾眠のメンバーだ)はいつも占領している。
「はい、榛名」
 私は那智の差し出す弁当箱を受け取る。
「いつも思うんだけど、これって普通逆よね」
「これに関していえば、霧島には女としてのプライドのかけらもないな」
 みんな好き勝手なこと言ってくれる。仕方ないじゃない。那智の方がお料理上手なんだもん。
「そう言う、那珂だって一度も五十鈴にお弁当作ってきたことないでしょ」
「作って来ないのと、作ってもらうのとじゃァ、随分差があると思うんだけど」
 悔しいったらありゃしない。みんな私が那智にお弁当作ってもらって平気でいると思っているんだろうか。
「那智の奴が霧島を甘やかしすぎるんだよ。俺の弁当もたまには作って来いぐらい言って見ろよ」
 そう言う酒匂に那智は笑ってなにも答えない。そんな彼に業を煮やしたのか那珂が噛みついてきた。
「なっちゃんのそう言うところが榛名の評判落とすんだからね。端からみると榛名がなっちゃんのことどっしり尻に敷いていて、いいようにこき使ってみえるんだから。榛名、なっちゃんのファンには評判悪いんだよ。こんな事しているとまた昨日みたいなことがきっと起こるよ」
 那珂の台詞に、みんなシンとなってしまった。幸い酒匂の傷は見た目ほど酷くはなく、簡単な手当てのみで事足りた。切れた部分は結構深く、スッパリいっているけれど、もともと全部開封するつもりだったわけではなく、手の動きに勢いがなかったため、切れた部分は短かったのだ。それは不幸中の幸いだった。
「ごめんね、酒匂。私のせいで……」
 巻き添えになった酒匂には申し訳なくて、私は素直に彼に誤った。
「別にハルちゃんが悪いわけじゃないさ。どういう理由にせよ、剃刀仕込んだ奴が悪いんだ」
 そう酒匂は慰めてくれたが、やっぱり気は重かった。
「まあ、話を聞くかぎりじゃあ、酒匂の怪我は自業自得だよな」
「他人宛の手紙を勝手に開けようとしたから、天罰が下ったのかもね。リュウちゃん、そのスケベな性格直さないとまた、イタイ目にあうよ」
 沈んでしまった場を盛り上げるためか、五十鈴も那珂も攻撃の対象を酒匂に切り換えた。しかし酒匂相手にもちゃん付けで呼ぶ那珂って一体……
「馬鹿言え! 好きな女を守るため、身を挺した俺の行為は美徳と言ってもいいぞ。なんとなく危険な香りがしたから、悪戯を装って代わりに封を切ったんだ」
 ちょっと待ってよ。好きな女って何よ。本当なら酒匂の爆弾発言に突っ込みを入れる所だけれども、今の私にはそれだけの余力はなかった。だからわざと聞かなかったことにして、一人黙々と那智の作ったお弁当を食べる。
「酒匂、そんなことばっか言っているからいつまでたっても一人なんだぞ。お前、那智に負けないくらいに影では人気あるのに」
 五十鈴の指摘を酒匂は豪快に笑い飛ばす。
「惚れられるより、惚れる方が性分に合っているからな。今に見ていろ、必ず那智からハルちゃんを奪ってやるからな」
 どこまで本気で言っているんだろう? 那智はどう考えているんだろうか。そう思って彼の方をみると、いつのまにかお弁当を食べ終わって、一人考え込んでいた。
 真剣な面持ちでグランドの方を見つめる那智の視線を追うと、そこには木陰に座る二人の少女の姿があった。
「伊吹ちゃんたちがどうかしたの?」
「昨日、なんであんな三年生用の玄関にいたんだろうな?」
 私たちの学校は、一、二年生と三年生で使用する玄関が別れている。そのため、普通なら三年生用の玄関に下級生の子が顔を出すことはない。昨日は気が動転していて気づかなかったが、あそこに伊吹ちゃんが現れるのは不自然だったかもしれない。でも……
「なにか用事があったんじゃないの? あの後、酒匂の手当てもしてくれたんだし、疑うのはお門違いだと思うけど」
「いや、東雲さんの他にもう一人、玄関とは反対の廊下の影に橿原さんもいたんだ」
「なんだ、那智も気づいていたのか?」
 私は二人の会話にビックリしてしまった。まさか二人が疑っているのは橿原さん? たしかにきつい娘だし、私を敵対視しているようだけど、いくらなんでもあんな酷いことをする娘には見えない。なによりあれだけあからさまに私を嫌っている様を見せつけておいてこんなことをすれば、真っ先に疑われる。その辺のことがわからない娘じゃないと思う。
「今回のことはあの娘がやったことなの?」
「なんかいかにもって感じだけど」
 那珂や五十鈴まで話に加わって、そのまま彼女を糾弾しに行きそうな雰囲気に発展していく。私が一応、なだめてみるがとても治まりそうにない。そんななかでまた那智一人が黙ってなにか考え込んでいる。
「那智?」
「考えていたんだ」
 私の問いかけに那智が重たい口を開く。
「なんで二人ともあんなところにいたんだろうって。誰が犯人であるにせよ、あそこで出現するのは危険だ。まるで私が犯人ですって言っているようなもんだよ」
「でも言うだろ。犯人は現場に戻ってくるって」
 酒匂の切り返しに那智は納得していないようだった。
「野次馬とかが屯している状況でならそれもあり得るけど、今回あそこにいた下級生は彼女たちだけだ。明らかに異色の人間がいれば真っ先に疑われることは犯人ならわかるはずだよ」
「それじゃあ、なっちゃんは犯人は別にいると思っているの?」
「わからないんだ」
 那珂の問いかけに、那智は静かに首を振る。
「どう解釈していいかわからないんだ」

§4.

「なっちゃんのファンには評判悪いんだよ」
 那珂がわたしに言った言葉が耳について離れなかった。
 わたしは那智に甘えすぎていたのかもしれない。わたしの秘密を全て知る彼は、なんの見返りもなしにとてもよくしてくれる。彼女の言う通りわたしは、そんな彼のやさしさの上にあぐらをかいていたのかもしれない。
 彼から本当に愛されているわけじゃない。彼はただわたしの境遇に同情して、それでわたしをかばってくれているだけ。ただそれだけでこうまでよくしてくれる男が本当にいるのかどうか? その答えは今も判らない。愛されているという自信はまったくと言っていいほどない。でも、それなのにわたしは、彼から与えられる温もりと慈愛をいつのまにか当然のこととして受け取っていたんじゃないだろうか?
 そんな自分を振り返った時、わたしはわたしと言う女がとても汚れた醜い存在のように思えてきた。わたしには彼を縛る権利なんてなんにもない。でも彼はやさしいから自分から離れていくことなどできないだろう。自分の中の全てを覆い隠してずっとわたしの側にいようとしてくれると思う。
 でも、それでいいの? わたしはそれでも満たされる部分はあるかもしれない。でも彼は……。わたしは自分のわがままでこれ以上ないと言うくらい素敵な男性を自分の不幸の巻き添えにしようとしているのかもしれない。
 今度のことの片がついたら、彼と別れよう。
 わたしはそう心に誓った。わたしはもう、充分彼によくしてもらった。でもわたしからは彼になにもあげられない。わたしが唯一彼にできること。それは彼を自由にあげること。ただそれだけ。


 一年生のとある教室の前でわたしは足を止める。
 わたしは自分自身の悪行を振り返り、わたしが誰かに何かされることがあってもそれは仕方のないことだとあきらめも付いた。でも今回、酒匂がわたしの身代わりになったことでわたしは自分自身が許せなくなってしまった。そしてその怒りは犯行に及んだ人物にまで向くこととなってしまった。
 わたし自身は二度とこう言うことが起こらないように彼と別れる。だから犯人にも、自分のやった卑劣な行為を反省し、一言謝って貰いたい。それでお互いに痛み分け。筋だけは通して貰うべきだ。
 でも、犯人が誰なのかはまったくわかっていなかった。犯人にたどり着く為には一つずつ疑問を解決していくしかない。そこでわたしはまず、最初の疑問だった伊吹ちゃんと橿原さんの行動から追求することにしたのだ。

 教室をそっとのぞくと、いた。机の並んだ教室の真ん中辺りに伊吹ちゃんと橿原さんが向かい合って何か話し合っている。不意に橿原さんと視線が合い、彼女がつと目をそらす。そのしぐさにこちらを振り向いた伊吹ちゃんもわたしに気付いた。
「霧島せんぱ〜い!」
 彼女は大きな声でわたしの名を呼ぶと、大きく手を振ってこちらにやって来た。彼女の声に教室中の視線がわたしの方へと集まる。なんとも居心地の悪い思いがしてわたしは彼女を教室の外に連れ出した。
 わたしたちは人気のない、階段横の小さなスペースに身をひそめるようにして入った。
「何かご用ですか?」
 そんな場所に入った為か、彼女が小声で問いかけてくる。そんな様子がとてもかわいくてわたしは思わず笑みをこぼした。そんなわたしに対し、彼女は不思議そうに首をちょこんと傾ける。そんなしぐさがまたかわいい。
「あ、ごめんなさい。大したことじゃないんだけど、昨日のことで……」


 わたしの疑問を告げた時、彼女の顏がちょっと強張り、しばらく何かを考えているかのように口をつぐんだ。
「伊吹ちゃん?」
 わたしがもう一度声をかけると、彼女は意を決したかのように顔を上げると、周囲を確認してから口を開いた。
「まだ、誰にも内緒にしておいてほしいんです」
 彼女はそう言って自分が三年生用の玄関にいたわけを話してくれた。
「あの日、昼休みに千歳の姿が見えなかったんで捜していたら、ふらふらと三年生用の玄関へ向かう彼女を見たんです。気になったんだけどわたしお弁当じゃないから購買にもいかないといけないし、とりあえず先にそれを済ませたんですけど、やっぱり気になって放課後にあそこまで行ってみたら、あの場面に出くわしちゃったんです」
 昼休みのことを放課後に? そう思ったけれども、お昼はもう時間がなかったのかもしれない。それよりも橿原さんの行動の方が気になった。それは彼女が実行犯である可能性を示唆している。
「なんで橿原さんは三年生用の玄関なんかに行ったのかしら?」
 わたしの問いかけに伊吹ちゃんは俯くと小さく首を振った。
「わかりません……わらないけど……」
「わらないけど?」
「あの娘、ずっと好きな人がいたんです。いとこのお兄ちゃんだとか言っていましたけど……」
 突然変な方向に話がとんで、わたしは面食らってしまった。橿原さんの好きな人? それが那智じゃなくて従兄弟のお兄ちゃん?
 わたしにはわけがわからなくなってきた。那智絡みじゃないのだとすれば、彼女がわたしに危害を及ぼす動機はなくなる。それでは彼女は犯人ではないのか?
 混乱し、考え込んでしまったわたしを見て、伊吹ちゃんが再び口を開く。
「その従兄弟の人がなんか、霧島先輩とかかわりがあったみたいなんです」
「私と?」
 私の問いかけに伊吹ちゃんは静かに頷いた。上目遣いで私を見つめるその瞳はなにか含みを感じさせ、私を不安な気持ちにさせる。
「たしかすぐそこの大学に通っているって聞きましたけど……」
 伊吹ちゃんの顏がぐにゃりと歪んだ。彼女が発した言葉。それはわたしにとって最悪の答えだった。


 カタッ
 まだ、一度も口をつけていなかったハーブティーが下げられ、新しく入れ直したそれがわたしの前に置かれる。いつもならその香りを嗅いだだけで寛いだ気分にさせてくれる特製ハーブティーも、今日ばかりは効果がないようだった。これにしても那智がわたしの為に特別にブレンドしてくれている物なのに。
「らしくないね、ぼ〜っとしちゃって」
 それでも心配しているつもりなのだろうか? というような笑顔で話しかけてくる那智に、私はため息で答えた。
「那智、ちっとも心配してくれているような顔には見えないんだけど」
 本当は彼がすごく心配していることが分かっている。でも、彼までそれで心配そうに顔を曇らせれば、余計にわたしの気持ちが沈むだけ。だから彼はいつもこんな時ポーカーフェイスを決め込む。それがわかっていながらわたしは、私自身に後ろめたい部分があるため、逆に彼に冷たく当たってしまう。私は今日、伊吹ちゃんから聞いた話を那智に話していいものかどうか悩んでいたのだ。
 それにしても、どうして考えつかなかったのだろう。
 橿原、それはわたしにとって疫病神にも等しい名前だったと言うのに。
 わたしは那智と知り合う前に一人の男性とおつきあいをしていた。その男性は那智のこのお店、吾眠の目の前にある大学の学生で、わたしは当時まだ、中学三年生だった。どちらかと言えば優男の那智と違って精悍な顔つきで、でもやっぱりハンサムの部類に入ったように思う。それを考えるとわたしは面食いなのかもしれない。もっとも那智との場合は特殊で、彼とは彼がこんなにきれいな顔だちでなくてもお付き合いしていたかもしれないけれど。
 那智のことは置いておいて、映画とか、演劇の好きだったわたしはここの大学の演劇部の公演を見に行き、その時たまたまその彼、橿原 潮(かしわら うしお)にナンパされたのだ。
「え〜、てっきり高校生だと思った」
 わたしがまだ中学生だと告げた時にそう言った彼の言葉が本当かどうかはしれないけれど、そんな一言にわたしはすっかり有頂天になってしまった。男の子とお付き合いするのはそれがはじめてと言うわけではなかったけれど、これまで付き合ってきた同年代の男の子と比べ、はるかに大人な彼と一緒にいることで、自分も他の娘より一歩リードした大人の恋をしているような気分になってしまったのだ。そんな彼とわたしの付き合いがどんな物だったかは語るまでもないことだった。
 那智はその辺のことを大体は知っている。だから今更と言う気はしないでもないのだけれど、やっぱり過去の男の名前を聞くのは彼にとっても不本意なことなんじゃないだろうか。わたしがずっと忘れたがっていた名前。でも忘れきれなかった名前。ようやくここにきてその名前がもたらす恐怖よりも、那智のくれる温もりが勝ってきたところなのに、今になってまた亡霊のようにそれが蘇ってくるとは誰が予想し得ただろう。
 過去の亡霊は少しずつまるで真綿で首を絞めるかのようにじんわりと、わたしの周囲を取り囲みはじめている。そう感じた。誰にも言ってはいないけれど、今日帰る時にはわたしのローファーの中に画鋲が仕込んであった。この分だと明日も何か仕掛けてあるかもしれない。
 まだ、橿原さんが犯人と決まったわけではない。でも、彼女が橿原 潮と結びついた時、私の中で彼女が無関係とはどうしても思えなくなってしまった。そしてわたしと彼女を変に結びつけてしまった彼は今、どこでどうしているのだろうか?

 彼はしばらく考え込んでいるわたしの側についていたけれども、やがて伊吹ちゃんに呼ばれてそちらに行ってしまった。マスターとして彼は全てのお客さんに平等に接しなければいけないことはわかっているのだけれど、こんな時はずっと側にいてほしいと思ってしまう。もう、彼とは別れると心に決めたはずなのに、やっぱり彼が側にいないと落ち着かない。改めて自分がどれだけ那智に依存しているか認識させられてしまう。
 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、那智は久しぶりに訪れた伊吹ちゃんとカウンターを挟んでなにか話をしている。私はカウンターに頬杖をつきながら、そんな二人の様子を見るともなしに見ていた。二人は何か真剣な面持ちで話をしている。どちらも身を乗り出すようにして、手で口元を覆い、内緒話でもしているかのようだった。一体なんの話をしているのだろう? ちょっと気になる。
 時々、伊吹ちゃんは何かを確認するかのようにわたしの方を見る。それに対し、那智はわざとわたしの方を見ないようにしているようだった。不自然に彼の視線が固定されている。しばらく真剣な面持ちで伊吹ちゃんの話を聞いていた彼の表情が、やがて驚きに包まれる。その時になってはじめて彼はわたしの方を見た。
 例えようのないような彼の視線にからめ捕られて、わたしはしばらくの間硬直してしまった。でも、直にその視線に自分がさらされていることに耐えられなくなって、無理やりそれを引き剥がすかのように顔を伏せる。わたしを見る彼の視線にはいつもの温かさがなく、同情とも、悲哀とも取れるような色が浮かんでいた。多分彼は聞いてしまったのだ。今日、わたしが伊吹ちゃんの口から聞いたことを全て。

「しの〜、彼女持ちの男相手に何やってんだよ!」
 突然ペシッという音と共にリンの苛立った声が聞こえた。いつのまにかリンが伊吹ちゃんの背後に立っていて、彼女は痛そうに後頭部をさすっている。
「鈴谷君、酷いじゃない」
 リンの奴よっぽど強く叩いたのか、伊吹ちゃんの目が涙目になっていた。
「那智兄ィはねぇちゃんと付き合ってんだからな。あんまり怪しい行動とると、許さねぇぞ」
 多分、一部始終を店の隅から見ていたリンはわたしが二人にヤキモチを焼いていると思ったのだろう。それで二人を牽制したのだ。的外れではあるけれど、彼の気遣いは嬉しかった。
「那智兄ぃも、ねぇちゃん泣かせたら承知しねぇからな」
 そう言って釘差すリンに那智は笑って答える。そして彼はそのまま神妙な面持ちでわたしの方にやって来た。わたしの前に来た時にはすでにその表情から険しさは消え、いつもの穏やかな表情に戻っていたが、目だけは真剣だった。
「榛名。今、君は一人じゃないんだからね」
 なにを思って彼は突然そんなことを言い出したのか? それと知らずに忍び寄ってきた過去の因縁に怯えているであろうわたしに同情したのか?
 怯えるような目つきで彼を見上げるわたしに彼は、これまでに見たこともないような真剣な眼差しを向ける。
「僕がついているから。過去の亡霊にとらわれるなよ」
 彼の言葉が奔流のように私の中に流れ込んできた。
「僕がついているから」
 その一言がこれほどまでに頼もしく感じたことはなかった。感情のコントロールが効かなくなって、目頭が熱くなる。別れる。そう決めていたのに、その一言を聞いた瞬間、もう別れるなんて考えられなくなりそうだった。
 彼はわたしのことを守ってくれる。なにがあっても。だからわたしは彼と離れられない。わたしの抱える闇の部分まで全てを知り、尚且つわたしをやさしさでくるんでくれる。だからわたしは彼のことが好きなのだ。

§5.

「やぱり榛名は、みんなと一緒に吾眠で待っていた方がいいんじゃないかな?」
 目的地が近づくにつれ、歩みが遅くなるわたしに那智が心配そうに声をかけてきた。わたしたちは今、橿原さんの従兄弟……橿原 潮が通っている大学に向かっている。彼が今、どうしているのかを知る為だ。
 わたしの過去の亡霊の存在が発覚したあの日以降、わたしと那智はいろいろと相談した。その後もわたしに対する嫌がらせの数々は続き、悠長には構えていられなくなったのだ。そしていろいろと検討した結果、動機の点で橿原さんが一番再有力候補と言うことで落ち着いたのだ。那智をめぐるトラブルと考えた場合、心当たりが多すぎるというか、逆に誰にしてもそこまでするほどの強い動機が見当たらないと言うか……。要は決め手に欠けるのだ。その点、橿原 潮絡みの彼女の方がわたしを恨む理由があった。

「行くわ。ここから目をそらしていたら、いつまでたっても過去の呪縛から逃れることはできそうにないもの」
 わたしは那智の気遣いを振り切るようにそう言った。
 そのあとずっと考えていた。那智はわたしといて楽しいだろうかと。ずっと側にいながら手さえ握らせない女を彼女としていて、それで満足しているのだろうかと。
 わたしだってそれなりに同年代の男の子の事はわかっているつもりだ。那智だって年頃の男の子。女の子と付き合うと言うことに関していろんな期待もあるだろう。それなのに彼はそう言った物を一切おもてに出さない。気配すら感じさせない。その姿はさながらお姫様に付き遵う騎士のようだ。かしずかれる側はそれなりに気分がいいかもしれないが、かしずく側には悲壮感すら漂うような気がする。わたしは彼にふさわしくない。別れる、別れないでわたしの心は常に堂々巡りを繰り返す。でもこのままではいけないことはわかる。
 強くなろう。わたしはそう決心した。那智がいなくても一人で生きていけるくらいに。そうなった時はじめて彼はわたしと言う呪縛から本当に解き放たれる気がする。きっと今、わたしが彼を拒絶しても彼は納得しない。彼は全てを知っているから、わたしが彼を拒絶するわけもきっと気付いてしまう。そうしたら彼はなにがあってもわたしを離すことはないだろう。だからわたしは強くならなくてはいけない。
 わたしの言葉に那智は軽く頷くと、やさしく微笑んだ。今回のことが解決したら、別の人の物になってしまうかもしれないそれにわたしは勇気づけられて、再び歩き始めた。

 大学のキャンパス内を私たちはゆっくりと歩みを進めた。私は当初、橿原の住んでいる学生寮を尋ねるのかと思っていたが、那智はその前を通りすぎ、どんどんと奥へ向かっていく。聞いた所では老朽化の進んだ寮はすでに取り壊しが決まっており、現在は誰も住んでいないとのことだった。
 このキャンパスのあった場所(本当は私たちの高校の建っている所も含めてなんだけれども)元々、戦時中軍隊の駐屯地のあった場所で、今でもいくつかの古い建物がそのまま利用されている。学長室等がある本館と呼ばれる建物もそうだし、取り壊しの決まった学生寮も元兵員宿舎をそのまま利用していたという話だ。古ぼけた木造平屋のその建物は、過去のさまざまな怨念が染みついているようで、薄暗くなりかけたキャンパスの片隅にその不気味なたたずまいを忍ばせている。ひょっとしたら、私の不幸な体験もそれらの怨念のなせる技だったのかもしれない。
 すでにお化け屋敷の体をなしている学生寮の脇を抜け、私たちは学生会館と呼ばれる、食堂や購買、多目的ホール等が集まった建物の中に足を踏み入れた。入ってすぐのロビーのベンチに一人の男子学生が座って私たちを待っていた。どうやら那智は先に色々と手を回していたらしい。
「よぉ! マスター久しぶり」
  その男子学生は、すでに那智と顔見知りらしく、親しげに話しかけてきた。
 ロビーで私たちを待っていた男子学生(大淀さんというらしい)は元寮生で、現在在学七年目というこの大学の主と化しているとのことだった。彼は私たちを学生食堂の片隅に案内してくれた。結構体格がよく、髭もじゃらな顔をしていて熊のような人だ。格闘技系か、もしくは登山部なんかが似合いそう。彼の醸し出す男臭さにわたしは体が硬くなるのがわかった。それと察した那智がわたしを少しその人から離れた位置に座らせてくれる。
「えっと、橿原 潮のことを聞きたいんだよな?」
 大淀さんは少し困ったようにそう言った。わたしと那智が頷くのを見て彼は困ったように頭を掻いた。
「わかる範囲でいいんです。できれば今彼がどうしているのか。それと、わかれば彼の従兄弟の女の子のことを。」
 那智がそう言うと、大淀さんは不思議そうにそれだけか? と聞いた。
「電話ではあんた、過去の女性関係も……」
 そう言ったところで彼は言葉をつまらせる。そしてわたしの顔をまじまじと見た。そしてまいったなと言うようにまたポリポリと頭を掻く。
 そのやりとりを聞いて、わたしは彼がわたしをつれて来たがらなかった訳がわかった。過去の女性関係……。それにはわたしも含まれてしまう。一人で聞いたのであれば知らないふりをすることもできるが、わたしと一緒ではそれもできない。彼の口からわたしが那智に知られたくないようなことまで伝えられる可能性だってあるのだ。それに本当に聞きたいことが聞けない可能性も。
 もし、わたしと橿原の事全てを包み隠さず那智が聞いてしまった時、彼はそれでもわたしの側にいてくれるだろうか?
 一抹の不安……。そう考えた時わたしはそんな物ではなく、いくら那智でもわたしに見切りをつけるだろうことを確信にも似た思いで持っていた。でもわたしは決めたのだ。強くなると。そうして一度彼の手を離し、それでも彼がわたしを選んでくれた時にわたしは本当の意味で彼の彼女となれるような気がする。
「大丈夫です。知っていることは全て話してください」
 わたしは意を決して、大淀さんにそう言った。
 わたしの言葉にびっくりしたように那智がわたしを見る。大淀さんもちょっと驚いているようだった。いいのかと問うような視線で那智を見る。那智はその視線を受けて一度わたしの方を見、そして深いため息をついた。あきらめたような顏で渋々と同意するように首を縦に振る。それを見て今度は大淀さんがため息をついた。
 大淀さんはゆっくりとした動作で煙草に火をつけると、大きく一息吸い込む。吐き出された紫煙がゆらゆらと上の方へ散っていくのを見ながら、彼は徐に口を開いた。
「それじゃあ、知っていることは可能な限り全部話すけど、実は俺もそれほど大したことを知っているわけじゃないんだ」
 そう言うと彼は火をつけたばかりの煙草を灰皿でもみ消す。
「橿原の奴ナァ、もう二年近く行方不明なんだよ」
 はじめて知る事実にわたしはちょっとびっくりした。二年と言えばちょうどわたしが彼と決別した頃だ。
「そっちのお嬢さんは知ってるかもしれないけど、アイツギャンブル好きだったろ? それでなぁ、あっちこっち借金しまくって、挙げ句の果てに結構危ないところに借金作っちまったみたいなんだよ。それで今でも逃げ回っているって噂だ」
 たしかに彼はギャンブル好きだった。時間さえあればパチンコ、麻雀、競輪のいずれかに行ってしまう。だからいつもピーピー言っていて、わたしはよくお料理をして、彼の住む寮に届けた物だった。
 彼が多くの借金を抱えていたことも知っている。それがかなり危なそうなところであったことも。わたしと一緒にいる時にも何度か借金取りが訪れたことがある。彼の名前を呼ぶ大きなだみ声と共に、ドンドンと扉を叩く音が聞こえると、わたしは必ず窓から追い返された物だった。
 今考えると、彼はそれなりにわたしのことを大切にしてくれていたのかもしれない。窓から逃げ出すなんて、間男のような真似をさせられたけれども、それは少なくともわたしには危害が及ばないように彼なりにがんばってくれていたのだ。
「だからなァ。俺の知っている情報も二年前までだ。それでもいいか?」
 大淀さんの言葉にわたしたちは頷いて見せる。彼は昔を思い出すかのように遠い目をしてしばらくの間無言でいた。
「あんた、一時でもアイツと付き合ってたんだろ? そういう娘の前であんまり言いたくないんだけど……」
 口を開いたかと思えば、大淀さんはそう言って言葉尻を濁す。結構気をつかう人なのかもしれない。私の方を見ながら言い難そうにしている。
「もう、彼のことはなんともおもっていませんから」
 私は先を促すためにも彼のことをきっぱり否定した。
「そりゃそうだろうけど」
 わたしの言葉に納得したように何度も頷く大淀さんを見て、わたしはひょっとしたらわたしと彼のことを全部知っているのかもしれないと思った。わたしが彼にされたことがわかっていれば、わたしが彼に思いを残すどころか憎悪すらしていることを感じ取れるはずだ。
 大淀さんはまたポケットから煙草を取り出すと、その一本に火をつける。そうしながらどこから話そうか考えているようだった。それは多分、わたしに気づかって与える情報の取捨選択を行っているのだろう。
 大きく煙を吐くと、彼は努めてゆっくりと話し始めた。
「あいつなぁ、ひどく女癖悪かったんだよ。結構マメだし、用意周到だから女の子には気づかれなかったみたいだけどな、常に複数の娘と付き合っていたんだよ」
 それはわたしもうすうす感じていた。付き合い出してからずっと彼には他の女の影を感じていたのだ。それは時々掛かってくる携帯電話だったり、部屋の隅に転がっていた口紅だったりしたのだけれど。それと不思議だったのは彼の遊興費。信じられないほどの負債を抱えながら、それはつきることがなかった。当時は深く考えなかったが、今にして思えば彼を取り巻く彼女たちに貢がせていたのではないだろうか? 現に彼はわたしにすら借金をしているのだ。
 ほのかに見え隠れする他の女性の存在にわたしもむきになっていたんだと思う。今から思えば信じられないくらいにわたしは彼に尽くしていた。毎日のようにお弁当を届け、残ったお小遣いは、その大半が彼の遊興費に消えて行った。のぼせ上がっていたのだ。全てを投げ出しても彼を他の女の子に取られたくなかった。
「そんなかでな、例外的に本命かと思った娘が二人いてな、その一人があんただ」
 そういった後で大淀さんは、俺の主観だけどよ、と付け加えた。
「金の切れ目が縁の切れ目ってやつかなぁ。貢がなくなった女はすぐに切り捨てられてたから。まっ、その前に自分から愛想つかせて離れていく女も多かったけどね」
 煙草の煙がくゆるなか、わたしと那智は彼の次の言葉を待つ。
「そんな女の子の中で例外的に長く続いていた娘が二人いたわけだ。そしてそのどちらも中学生から高校生くらいの年齢だった。それじゃあ、大した金も持ってないだろうになんで? って思ったね」
 もう一人の本命の娘もわたしと同じくらいだったと言うことに、わたしは驚きを禁じ得なかった。それじゃあまるで……。
「ひょっとしたらロリコンの気もあったのかもな」
 冗談めかして大淀さんはそう言ったけれど、それはわたしの考えでもあった。彼を取り巻く大人の女性(といっても大抵が大学生だろうけれども)は、単なる金づるで、彼が女として求めたのはわたしやもう一人の娘のような年下。どんな事実がでてきても驚かないと思ったわたしだけれど、さすがにその事実にはちょっとショックを受けた。
 わたしが黙ってしまったのを見て、那智が口を開いた。
「大淀さん、そのもう一人の本命の娘って言うのがどんな子だかわかりませんか? 榛名のこともご存じだったようですから、その娘のことも見たことがあるんじゃないですか?」
 那智の言葉に彼は苦笑する。
「ご存じもなにも、そっちの娘……、榛名ちゃんって言うのか? は大らかだったからなぁ。よく寮の廊下でも挨拶したし、たまに弁当のおすそ分けとかも貰ったし。それに……、いやなんでもない」
 急に言葉をとぎらせた大淀さんに那智は不信感を抱いたようだった。逆にわたしは彼がなにを言おうとしたのか察し、顏から火が出そうだった。
「それに、なんです?」
 那智、なんで今のこの空気を読めないのよ。そう突っ込みたかったけれどわたしは恥ずかしさのあまり声を出せない。ただ心のうちで大淀さんが致命的なことを言わないことを祈るばかりだった。
「察するにお宅ら今、付き合ってんだろ?」
 大淀さんもあきれた感じで那智に問いかけた。
「やめようぜ、そういう話は。どうしても聞きたければ本人から聞きな」
 大淀さんのその台詞にようやく意味を悟ったらしく、那智は小さな声で「ごめん」と謝ってきた。

 結局、いろいろその後も訊ねたが、大淀さんの知っていることもそれほど多くはなかった。
 もう一人の本命の娘というのはずいぶんと用心深い娘で、寮のなかに入ってくることはほとんどなかったそうだ。中に入る時はいつも帽子とかスカーフとかで顔を隠し、大きなサングラスをかけていて素顔を見せなかったそうだ。だから顏はわからないと彼は言った。ただ、当時のわたしよりももっと幼い感じがしたから、多分中学生だったのではないかと言うことだった。
 また、橿原の従姉妹と言うのも存在は知っているが、やはり見たことはないとのことだった。ただよく電話がかかって来ていたと言うことだ。その電話口で橿原が相手のことを「ちーちゃん」と呼んでいたと言うので、橿原千歳が彼の従姉妹というのは間違いなさそうだった。
 なんか無防備に全てをさらけ出していたのはわたしだけだったようで、ちょっと気分が重くなった。みんなは何故、そこまで用心深かったのだろうか? ただ単にわたしに警戒感が欠如していただけなのだろうか?
「そう言えば、あんたからは時々電話があったけれども、もう一方の娘からは電話がかかってくることはなかったなぁ」
 最後に大淀さんはそうぽつりと呟いた。その言葉は私の中でなにか引っ掛かったけれど、それがなにかはわからなかった。
 大淀さんは、ひょっとしたらもう一人の娘を見た可能性がある人を知っていると言うことで、後日その人とアポイントをとって貰うようにお願いして、わたしたちは別れたのだった。

§6.

 カラン!
 いつものメンバーが吾眠で談笑していると、カウベルが小気味良い音を立ててドアが開いた。
「よぉ!」
 そのドアを塞ぐような感じで髭もじゃらの熊、大淀さんが立っていた。熊さんはのそりと言った感じで入り口をくぐると、わたしと那智に手を挙げる。カウンター席に座るわたしが会釈を返すと、彼の影からもう一人、男の人が姿を現した。痩せぎすで、銀縁眼鏡の奥からのぞく細い瞳がわたしのことをなめ回すように見ている。そして視線が合った瞬間、にぃっといやな笑みを浮かべられ、わたしは身震いした。
「いらっしゃいませ。その人が?」
 那智の問いに熊さんこと大淀さんが頷いてその人の方を見る。そして彼の異常な態度に気づきあわてて入り口近くの席に追いやった。
「わりい、ちょっと特殊な趣味もった奴だもんで」
 そう言って大淀さんはすまなそうにわたしの方に手を合わせる。わたしは気にしないように微笑んで見せたけど、ちょっとぎこちなくなってしまったかもしれない。
「あいつな、橿原と結構親しかったみたいだから聞いてみたら、見た事あるって言うんだよ」
 カウンター席に取りつくと、小声で大淀さんはそう言った。それに答えるように頷く那智。彼はそっと封筒を大淀さんに渡す。中になにが入っているのか気になって、わたしはそっと那智のことを見上げた。
「面通しの為の写真。一応心当たりの写真をね、見てもらおうと思って」
 それならここで見てもらえばいいのに。そう言おうとしてわたしは振り返り、口を閉じた。その男の人は入り口横の席からずっとわたしのことを見ていたのだ。それもニタニタと笑みを浮かべながらイヤラシイ視線で。わたしは背筋が凍る思いがした。
 わたしは知っている。今、わたしに向けられているような視線を。
 体がガクガクと震えだし、吐き気までも覚える。少し離れた席で五十鈴と話していた那珂がわたしの方へと飛んでくる。すぐ側にいた大淀さんも驚いたようで、あわててわたしを支えようとするが、それを那智に止められた。
「なっちゃん! なにやってるのよ!」
 那珂が彼に食ってかかるが、那智はちょっと悲しげに顔を歪ませただけで那珂にわたしを奧の居住区へ運ぶように指示した。
「なんでわたしが……」
 彼女はブツブツいいながらもわたしを抱え起こしてくれる。でもやっぱり女の子一人では荷が重い。
「高ちゃん、ちょっと手伝って」
 そう言って五十鈴に助けを求める那珂に那智が言った。
「だめなんだ……、男は誰も榛名には触れないんだ」


 わたしは男の人に一切触れることはできない。そして触れられることも。それだけでなく男性からの性的な欲望を感じ取っただけでも発作を起こすことがある。目眩、吐き気、震え等の症状をもつそれは家族である父や、弟のリンに触れられただけでも起こる。心身症の一種、心的外傷後ストレス障害と医者には診断された。
 わたしが心的外傷後ストレス障害になったのは2年ほど前。橿原 潮と別れてからのことだ。

 中三の秋から付き合いはじめて半年、はれて高校生になった時、私ははじめて彼の住んでいる寮の部屋を尋ねた。そこで私は求められるままに大学生の彼に初めてを捧げた。入学記念とかなんとか言われたけど、さすがに中学生に手を出すのはまずいとおもっていたらしく、それまでは我慢していたらしい。そしてその後も、ことあるごとに私たちは肌を重ね合った。私ものぼせ上がっていてそれが大人の恋愛だと勘違いしていたのだ。しかし、其処までならばよくあること。取り分けて嫌悪するような過去でもない。当時私は本当にその彼のことを好きだったのだから。
 彼がギャンブルにお金をつぎ込んでいることはそのころから知っていた。講義にもろくにでないで、昼間っから近くの雀荘に入り浸り麻雀に興じ、負けが込んで危なそうな男たちに結構な額の借金をこしらえていたのだ。わたしは心配して毎日お弁当を作り彼に届けた。高校生の少ない小遣いをやり繰りし、材料を買ってお弁当を作る。月末に余ったお小遣いは全て彼に渡していた。でも、そんなことでは彼の借金はどうにもならない。お金を渡してもそれは借金の返済に当てられることなく、全て遊興費へと消えていくのだから。
 荒々し声で罵りながら彼の部屋のドアが叩かれるようになるにいたって、わたしは全ての貯金を下ろして彼に差し出した。高校生の貯金だから高々しれている。それでも10万くらいはあったのだけれども、彼の借金はそんな物ではどうなる物でもない。多分、ひと月の返済額にも満たなかったのだと思う。結局ギャンブルに溺れた人にはいくらお金を渡してもだめなのだ。彼はそれすらもギャンブルにつぎ込み、全部すってしまった。
 その時の彼は相当に追い込まれていたのだと思う。時々身の危険を感じるとさえ言っていた。わたしが窓から追い返されるようになっていったのもこのころからだ。多分、そのころからわたしは目をつけられていたのだ。
 彼と別れることになった最後の夜、彼ははじめてわたしに頭を下げた。もう、借金まみれでどうにもならないと。自分一人では返済できないと。それで、わたしに返済を手伝ってくれと彼は言ったのだ。
 わたしは彼のお願いに困惑した。借金の返済を手伝うと言っても高校生のわたしにできることはたかが知れている。バイトをするにしても月に入る給料はほんの僅かだ。それでは到底彼の抱える借金を返せるとも思えなかった。
 わたしの疑問に対し、彼はもうすでに段取りをしてあると言う。どう言うことかわからずにわたしが混乱していると、彼が何人かの男の人を部屋の中に招き入れる。わたしは売られたのだ。はめられたと気付いた時には遅かった。出口はすでに一人の男が立ちふさがり、残りはわたしの方へとじわりじわりとにじり寄ってくる。橿原は部屋の隅でうなだれて、ふてくされたようにお酒を飲み出している。助けてくれる者は誰もいなかった。
 無我夢中だった。その辺にある物を掴んでは男たちの方へと投げつけ、暴れられるだけ暴れた。それで男たちが少しでもひるんでくれれば逃げ出す隙ができるかもしれない。そんなわたしに業を煮やした男の一人が飛び掛かってくる。それが偶然にもタックルを当てられた形になり、わたしは後ろへ吹き飛んだ。
 運がよかったのだと思う。わたしの背後はちょうど窓だった。わたしはその窓を突き破り、そのまま外へと転がり出てしまった。ガラスであちこちを切ったみたいで体中が痛んだけれど、かまってはいられなかった。わたしは裸足のままかけ出した。
 あとはどこをどう逃げ回ったのかわからない。広いキャンパス内を無我夢中で駆け回り、気がつけば大学の外へと飛び出していた。誰かに助けを求めなくては。そう思い近くの家に飛び込む。そのわたしが飛び込んだ先がここ、喫茶「吾眠」だったのだ。


「榛名にそんな過去があったなんてね……」
 わたしの話を聞き終えた時、那珂はそう言ってため息をついた。喫茶「吾眠」の奧にある居住スペース。和室に敷かれた客布団に横たわりながら、彼女に全てを話した。さすがの那珂も言葉が続かないようだ。それもそうだろう。酒匂の言うところの「モテモテ同士のイヤミなカップル」。実はその片割れは男性恐怖症でしたなんて笑い話にも成らない。
「もっと早くに言ってくれれば、わたしもなにかできたかもしれないのに……」
「ごめん。あんまり人には知られたくなかったの……」
「それはそうだろうけどさ……」
 ぽつりぽつりとかわされる言葉。くらい部屋の中がさらに澱むような気がした。
 不意に那珂がハッとしたように顔を上げ、わたしの方を見る。
「ねぇ、榛名。それじゃあ、なっちゃんとあんたって……」
 彼女の言葉にわたしは頷く。
「那智はわたしに指一本触れたこともないわ。付き合い出して半年。その間キスはおろか手を握ったことさえも……」
「とても恋人同士って感じじゃないわね」
 また那珂がため息をつく。
「恋人同士……じゃ、ないわね。正確に言うとわたしたちは表向きそれを演じているにすぎない」
「どう言うこと?」
「表向き恋人ってことにして、那智はわたしに他の男が近寄らないようにかばってくれているのよ。実際のわたしたちは名目上のカップルでしかないわ」
 那珂の表情が険しくなるのがわかった。彼女も気がついたのだろう。わたしがただ那智を利用しているにすぎないと言うことを。わたしが自分のわがままで彼を拘束していると言うことを。わたしと出会わなければ、彼は今頃きっとかわいい彼女と本当の恋を楽しめたはずだ。彼にふさわしい華やかな青春をわたしが奪ってしまったのだ。
「榛名……、あんたそれって」
「わかってる。那智とはもう別れるつもりだから……。今回のことが解決したら、ちゃんと彼を開放するから……」
 わたしの言葉に彼女は唖然としたようだった。目を見開き、口も開けてポカンとわたしを見つめる。そしてふと我に返るとあわてたように首を振る。
「ちがう! わたしが言いたいのはそうじゃなくって……」
 彼女が突然張り上げた大声に、今度はわたしの方が驚く番だった。彼女の声はよほど大きかったのだろう。お店の方から那智も様子を見にやって来た。すっと襖が開いて褐色の頭がのぞく。
「どうしたの?」
 那珂はなんでもないのと一言呟いて、そのまま俯いてしまった。わたしは体を起こすと、襖の隙間からのぞく彫りの深い顔だちに見入ってしまった。今はけっして触れることのできない人。今さっき那珂にもう別れると宣言をした人。でも彼の穏やかな眼差しを受けた時、わたしは気分がすっと落ち着くのがわかった。
「那智……、話しちゃった。那珂にわたしたちのこと話しちゃった」
 わたしの台詞に那智もちょっとびっくりしたようだけど、すぐにいつもの笑顔に戻って「そう」とだけ言った。
 わたしが那珂に全てを話したことに関して彼がどう思ったかはわからない。でもこれまでわたしと彼だけの秘密だったことを知る第三者ができたと言うことは、彼の負担を少しは減らすことになるんじゃないだろうか? わたしが彼にしてあげられること。それはゆっくりと、でも確実にわたしから開放してあげること。
「那智、ごめんね。いろいろ迷惑かけちゃって」
 わたしは努めて明るくそう言った。本当はごめんねの後には「今まで」って言葉が入るんだけど。
 これはわたしからの彼に対する決別の挨拶。今すぐにどうこうと言うわけじゃないけれど、そう言うことでわたしは自分の気持ちに踏ん切りをつける。那珂に全てを話したのも、彼に今そう言ったのも、全部自分の気持ちにけじめをつける為。わたしに関しては密かに敏感な彼もさすがにそれには気付かないだろう。でもそれでいい。今は。
 わたしの言葉に那智は一切表情を変えることなく、穏やかな笑みを浮かべているだけだった。そんな彼の態度にわたしはほっとすると共に、ちょっと寂しい気もした。
「大丈夫? もう起きられるようなら送っていくけど」
「お店はどうするの?」
「眠り姫様、今はもう8時。これから閉めるところなんですけど」
 どうやら那珂に全てを話す前、わたしはずいぶんと長い時間寝ていたらしい。ちょっとした浦島気分できょとんとするわたしを見て、那智は笑った。


 わたしが心的外傷後ストレス障害による発作で倒れたあの日から、大淀さんともう一人の人は毎日「吾眠」に顔を出すようになった。あの日、那智は橿原さんの他、数名の女の子の写真を二人に見せたと言うことだった。そしてその結果、実物を見るまでははっきりと言えないと言われたと言う。それで那智は裏から手を回して、それらの女の子をお店に来るように仕向け、二人に面通しをしてもらっている。今日までに大概の女の子がすでに「吾眠」を訪れており、残すは橿原千歳と東雲伊吹ちゃんの二人だけだ。

「全然関係ない女の子まで合わせる必要があるの?」
 わたしは那智に聞いてみたけれど、こう言うのは捜査の常套手段だと笑われた。この人ですか? と聞くと先入観が混じってしまい間違いが起きやすくなるからと言われたけれども、わたしたちは警察じゃないし、関係ない娘をあの視線に晒すのはわたしは気が引ける。
 二人はいつも入り口脇のテーブル席に座る。そこなら店に出入りする際によく見えるからだ。ただし、わたしの指定席も丸見えになってしまう。那智は観葉植物の配置を変えるなどして、例の視線からわたしを隠すようにしてくれた。
「あんな奴に頼らにゃイカンってのもなさけねぇな」
 酒匂がぽつりと呟く。それはきっと大淀さんのつれてきた人のことを言っているのだろう。できることならわたしもこれ以上お近づきになりたくはなかった。

 カラン!
 カウベルが鳴り、またお客さんが入ってきた。
「いらっしゃいませ」
 那智がお客を迎え入れる。
「久しぶりだね」
 振り向いたわたしの視線の先には伊吹ちゃんと橿原さんの姿があった。
「こんにちは」
 伊吹ちゃんはそう挨拶すると、橿原さんの腕を引っ張るようにしてわたしの前につれてきた。
「さあ、千歳。まずあやまんなさいよ。あんたこの間ものすごい失礼なこと言ったんだから」
 そう言う伊吹ちゃんに橿原さんはキッと目を剥く。
「そんなことの為にわたしを此処に連れてきたの! だったらわたし帰るわよ!」
 そう言って踵を返す彼女の目の前で再びドアが派手な音を立てて開いた。
「那智兄ぃ! ごめん。遅くな……」
 そう言って飛び込んできたのはリンだった。彼は橿原さんの姿を見つけると那智への謝罪も途中のまま「ちー!」と大声で叫んだ。
「来てくれたんだ。俺もう、来てくれないかと思った。もう誰もちーのこと怒ってなんかいないからよう、ゆっくりしてけよ」
 リンの奴はそう言うと橿原さんを伊吹ちゃんの手から奪い取り、カウンター席の一つ。わたしから一番離れた席に案内した。不思議なことに、そうしたら彼女も大人しくそれに従った。ひょっとしてあの二人うまいこと行きそうなのかな? 弟の相手としてはちょっと気が重たい娘だけれども、姉としては弟の恋の成就を祈ってやらないといけないのかもしれない。
 わたしがため息をついて那智を見ると、彼も苦笑している。伊吹ちゃんも肩をすくめると、わたしの隣にトンと腰を下ろした。そのまま那智や酒匂達と談笑をはじめる。吾眠の中を穏やかな時間が流れ始めた。

§7.

 髪に匂いがついちゃう……
 背後でくゆる煙草の煙を感じながら、わたしはそんなことを思ったりして。揃っている面子の割りには穏やかに時間は過ぎていく。
 リンはバイトとして雇われているくせにちっとも働かないで店にやってくるなり橿原さんにベッタリ。首になっても知らないから。那珂と五十鈴はそんな二人を気にするかのように、時折視線をやりながらも二人仲良く自分たちの世界を築いている。そのかたわらで煙草をふかしながら伊吹ちゃんをからかう酒匂。那智はそんなみんなを平等に相手しながら、一人で仕事をしている。
 こんな風景を目にしていると、今自分が巻き込まれている事件が信じられない気がする。それだって最初はちょっとした嫌がらせ程度のことで、割り切って言ってしまえばよくあることのはずだった。それがその嫌がらせの背後にわたしの元カレ、橿原 潮の影が見えた為に、那智とわたしがナーバスになってしまったのだった。
 嫌がらせは最近ではその頻度が減ったものの未だに続いてはいる。そしてそれはわたしへのガードを確実に堅くしていった。今ではわたしが受けている嫌がらせはクラスのみんなの知るところとなり、誰彼かが気を配ってくれるようになっていた。その分わたしは窮屈な思いもしなければいけなかったけれども、今の状況では仕方のないことだった。

 不意に寒けを覚えて振り返ると、入り口近くの席にいたはずの眼鏡さんが背後に立っていた。悲鳴が漏れそうになるのをわたしは、すんでのところでこらえる。心臓がバクバク言っているのが自分でもわかった。どうもこの人は苦手だ。わたしのトラウマを刺激する全ての要素が凝縮してできているような感じがする。わたしは那智に悟られないようにそっと精神安定剤を取り出すと口に含み、心の中で自分に大丈夫だと言い聞かせた。彼にはもう、弱いところは見せない。

「トイレは……」
 眼鏡さんはカウンター席に集う人たちをゆっくりと確認するかのように見回した後、陰気な声でそう言った。洗い物をしていた那智が指さしながらトイレの場所を教えると、彼は無言でその扉の向こうへと姿を消す。それを見てわたしは小さくため息をついた。那智はそんなわたしに気付く様子もなく、真剣な面持ちで眼鏡さんを見ていた。

 やがて眼鏡さんがトイレから戻って来るのを合図にしたように大淀さんが席を立った。そしてそのまま店を出て行こうとするのを見て、この人たちはお金を払わない気なのだろうか? と思ったが、思い起こせば彼等が、ここ数日一度もレジの前に立ったのを見た記憶がないことに気付く。ずっと那智の奢りだったんだ。わたしは今回のことで那智に経済的な負担もかなりかけていることを知った。
 二人は扉のところで振り向くと那智を手招きし、そのまま三人でおもてに出る。そしてそのまま店の前でなにか話を始めた。ニヤニヤいやな笑みを浮かべながら、時々店内を盗み見るようにしている眼鏡さんの話を、那智は険しい顔をして聞いている。やがて、話が終わったのか、那智が二人に頭を下げる。その時わたしの目が眼鏡さんのそれとあった。彼は那智に気付かれないように小さく指でわたしの方を指し示す。その指の動きを追って視線を下にずらしていくと、わたしの鞄に小さな紙切れが挾んであるのが見えた。
 いつのまに?
 そう思いながらそっとそれを手にとる。クシャクシャに丸められたようなそれをそっと取り出すと、中からはコインロッカーの鍵となぐり書きのメモ。
「駅前のコインロッカーの132番」
 書かれていたのはただそれだけ。あまりに簡潔すぎて想像の余地もない。そこに何があるのかはわからないけれども、わたしはそっとそれらを制服のポケットにしまい込むと周囲を見渡した。なんか誰にも知られてはいけないことのように感じたのだ。幸いにもわたしのことを見ている人は誰もいなかったようだ。店の奥でリンと橿原さんが大きな笑い声を立てている。みんなの視線はそちらへと向いていた。すぐ隣にいた伊吹ちゃんですらもわたしの存在を失念しているかのようだった。
 わたしがほっとため息をつくのと、那智が戻ってくるのが同時だった。お店に戻ってきた彼はまったくと言っていいほど普段通りで、先程までの険しさは微塵も感じられなかった。わたしと目が合うと、ふっとその顏から笑みが溢れる。一方のわたしはそんな彼から思わず視線を逸らしてしまった。ポケットの中に潜む鍵がやけに後ろめたく感じる。これの存在を知ったら、那智はきっとわたしを一人でそこに行かせるようなことはしないだろう。わたしの本能も一人でいくことに関して頻りに警鐘を鳴らしている。
 冷静に考えれば当然のことだ。手紙の主である眼鏡さんはわたしたちに協力してくれているように見えるが、何を考えているのかまったくわからない人だ。これが何らかの罠である可能性は否めない。
 ――でも……、わたしの本能は那智を連れて行くなとも告げていた……。
 それがなぜなのかはわからない。ただ、彼と一緒に行っても決してよい結果は現れないような気がした。

 わたしは那智から逃げるようにそっと席を立つとお手洗いに逃げ込んだ。ポケットに忍ばせた手がぐっしょりと汗ばんでいた。手に握られたメモをもう一度開き、読み直す。しかしいくら読んでもそこからは新しい情報は読み取れない。そこには何があるのだろう? あの人はなぜ、こっそりとわたしにこれを渡したのだろう? わからないことだらけだった。
 わたしが席に戻ると、那智と伊吹ちゃんが話をしていた。伊吹ちゃんはわたしの姿を認めると、バツの悪そうな顔をして那智から離れる。那智もとりあえずそんな伊吹ちゃんを庇うかのように、わたしに笑いかけたが、それはいつものような笑みではなく、いかにも作り笑いと言った感じの硬い笑みだった。
 ひょっとしたら水面下でこの二人の仲が進展しているのかもしれない。
 わたしは二人を見てそう思ったけれど、感情を表に出すことなく元の席に座ると、すっかり冷めた紅茶を啜った。いつもならわたしが席を立った隙にそっと新しいのと入れ換えてくれたりしているのだけれど、伊吹ちゃんとのお話しに夢中で気付かなかったんだろうな。そう考えると胸の奥が痛んだ。でも、伊吹ちゃんと那智の仲が進展しているのであれば、それは彼にとって良いことだ。わたしなんかといるよりもずっといい。彼女なら彼から微笑なんかでなく破顔するくらいの笑顔を引き出せるだろう。

 あの二人が帰ってからの「吾眠」の中では本当に静に時間が流れていた。特にわたしが那智と一言も話さないばかりか、視線すら合わせようとしない為に、みんなも次第に声をひそめていき、とうとう黙り込んでしまった。わたしはお手洗いから戻ってきた後ずっと文庫を読んでいるふりをしていたのだけれど、店内が静まり返ってしまうとどうにも居心地が悪くなり、いつもよりちょっと早いけど帰ることにした。読んでいた文庫を閉じるとポケットにしまう。その時、コインローッカーのキーに文庫がつかえる。仕方なく文庫は反対側のポケットへ。

 これ、どうしようか……
 わたしは心の中で呟く。そこに何があるのか、気にならないと言えば嘘になる。でも、わたしにとって決して良い物ではないと思われるだけに一人で行くのも怖い。一人で行くのも怖いけれど、何があるのかわからないだけに、誰かを連れて行くことにもためらわれるのだ。わたしは手の中でキーを弄びながら、そんなジレンマに陥っていた。
 その時不意に店内に電子音が響いた。チープな電子音で構成された軽快な音楽。みんなの視線が一点に集中する。わたしの隣で伊吹ちゃんがあわてて鞄の中を探っていた。
「もしもし……えっ? 誰?」
 電話を持つ伊吹ちゃんの眉間に皺がよるのが見えた。彼女は席を立つと店の外へと出てゆく。わたしはそれをぼんやりと見るともなしに眺めていた。相変わらず右手はポケットの中。小判形のプラスチックのプレートがついた鍵を弄んでいる。伊吹ちゃんの携帯のおかげでなんかお店を出そびれてしまった。どうしよう?
 ふと視線を戻すと、那智がわたしの右手をじっと見ているのに気付いた。わたしはあわててポケットから手を出したけれども、その時袖口に引っ掛かったらしく、鍵がそこから転げ落ちてしまった。
 カチャッ
 小さな音を立ててそれは床に落ちた。
「それが長良さんから渡された鍵?」
 床に落ちた鍵を拾おうと身をかがめたわたしの頭上から那智の声が降ってきた。わたしはびっくりして顔を上げる。那智はひどく険しい顔をしていた。
「長良さん?」
 聞き覚えのない名前にわたしは首をかしげる。でもすぐに眼鏡さんのことだと思い当たった。静かな物言いだけれども威圧感のあるその声に、わたしはまるで浮気がばれた時みたいな心境になり俯く。そんな経験はないのだけれども。
「見てたの……?」
「東雲さんが教えてくれた。榛名が席を外している時に」
 伊吹ちゃんが? それじゃあ、わたしがお手洗いから帰って来た時に二人が話していたのは……。
「彼女……、見ていたんだ……」
 那智の視線を避けるようにして鍵を拾いながらわたしはそう呟いた。那智から怒りの波動が伝わってくる。
那智……、本気で怒っちゃったかな? そしたらわたし、それこそ存在を拒絶されちゃうんだろうな。
 そんなことを考えながらノロノロと立ち上がる。怖くて顏は見れない。わたしは緩慢な動作でまた、鍵をポケットにしまおうとした。そのわたしの目の前ににゅうっと手が突き出される。 顔を上げると、那智が怖い顔をしたまま鍵をよこせと言わんばかりに手を突き出している。有無を言わさないようなその態度にわたしは反発するように手の中のそれをぎゅっと握りしめた。そんなわたしの態度に那智の口から溜息が漏れる。
「いいかい? 長良さんは今度のことでは協力してくれたけど、ああいう人だ……」
 ああいう人……、那智のいいたいことはなんとなくわかる気がした。
「いつも味方でいるとは限らない。協力してもらってこういう言い方はしたくないけど、信用できない。だから」
 だから決して一人で会ったりしようと思うな。
 那智はそうわたしに言った。那智はわたしに心底怒っているようだったのに、見捨てられなかった。彼はわたしから鍵を取り上げると、いつもの笑みを浮かべる。いたずらを見つけられた子供のような居心地の悪さを感じながらも、それでいてちょっとほっとするような安堵感に捕らわれる。自分以外の手で決断が下される時、……それが特に自分では結論を出せないような究極の選択だった場合はこんなふうに感じるものなのだろうか?
 わたしがほっと一息ついたころに伊吹ちゃんが戻ってきた。戻ってきたが表情が硬い。携帯をぎゅっと握りしめ思い詰めた様な顔をしている。

「どうかしたの?」
 わたしが声をかけると彼女は一瞬さらに表情を強張らせたが、その後すぐ、無理に笑おうとした。でもそれは失敗し、返って凄味のあるいやな笑顔になってしまた。口元は笑おうと歪んでいるのに、目がちっとも笑っていないのだ。まるでわたしのことを睨み付けている様な感じだった。彼女自身もそれに気付いたらしく、わたしから視線をそらすと「なんでもないんです」と一言呟いて、隣に座り直した。

 コトッ
 静かに伊吹ちゃんの前に新しいカップが置かれた。この店のマスターはお客をよく見ている。そしてお節介なくらいに世話焼きだ。それは先代の時からそうだったと古い常連客の人に聞いたことがあるけど。誰にでもやさしいマスター。
 わたしにだけじゃないんだ……。
 そう思ったあとで、わたしは自分の考えを嘲笑った。わたしは何を期待しているのだろう。最初からわかっていた事じゃない。ただ隠れ蓑として利用しているだけの名前だけの恋人と、彼に好意を抱いてお店に通ってくる女の子。どちらが本来大切にされるべきか……。だから自分から別れようと決めたのに。馬鹿みたいだ、わたし。もうずっと同じところをグルグルまわっている。心の迷路にも、普通の迷路みたいに絶対に抜け出せる必殺技でもあればいいのに。
 那智は伊吹ちゃんになんにも言わなかった。ただそのやさしさと労りをカップに込めて差し出すだけ。もちろん彼女が相談を持ちかければ、親身になって出来る限り相談にのると思うけど、そうでなければ自分から立ち入ったりしない。その辺が彼の人気の秘密なんだろうな。

 気がつくと那智は酒匂となにか小声で話し込んでいた。直に酒匂が携帯を取り出す。電話をかけている酒匂の顔は、いつもの人懐っこい同級生のものではなく、厳しくて凄味を含んだやくざのそれだった。
 長良さんから渡された鍵を那智に見つけられたあたりから、急にわたしの周囲が慌ただしく動き始めた。那智自身は、酒匂と話したあとはいつものように那珂たちと馬鹿話をしたり、伊吹ちゃんを気づかったりしている。心なしか伊吹ちゃんの顔がさっきよりも青ざめていっているように感じた。どこか具合でも悪いのかもしれない。
 一方、酒匂は那智からなにか話を聞いてから一人忙しそうに動いている。ひっきりなしに電話をかけたり、受けたりしている。そのたびに席を立つので、彼の座っていた椅子は温まる暇もない。
 そんな中、コインロッカーの鍵を那智に渡してしまったことで、私は当事者でありながらすでに蚊帳の外。気がつけばすべてがわたしの手を離れてしまい、ちょっとした疎外感を味わいながら、暇をもてあます羽目となった。
(私……何やってんだろう?)
 心の中でそう呟くと、深い溜息をついた。さっきから時計の針の進み具合ばかりが気になる。吾眠の閉店まであと15分。自分が今、ここにいる意義を見失った私が那智に暇を告げようとしたその時、表に慌ただしく車が止まった。
 店の前に横付けされた黒塗りの高級車の扉が開き、強面のお兄さんが一人入り口から中を覗く。瞬間、那智の顏が険しくなるのが見えた。車からおりてきたお兄さんは酒匂の顔を見つけると、きっちりお辞儀をした後で目で何かを訴える。それに酒匂は頷くと、静かに一人で店の外へと出て行った。
 強面のお兄さんに導かれて車に乗った酒匂だけれども、彼の車は一向に出て行く気配を見せない。那智も最初こそちょっと険しい顔をして見せた物の後はまったく普段通り。先程までと同様わたしを無視してお客の相手をしたり、洗い物をしたりと忙しく働いている。わたしは酒匂のことが気になったけれども、窓には真っ黒なスモークが貼られていて中の様子を伺うことはできなかった。那珂や五十鈴達も心配そうに窓の外を見ていた。
 やがて酒匂は戻ってくるとドアから顏だけ覗かせて那智に一言「ちょっと出てくる」とだけ言って車に戻ってしまった。今度は彼の車もすぐに動き出す。派手にタイヤを軋ませながら、周囲の車を威嚇する様にして黒塗りのそれはあっと言う間に視界から消え去った。その様子が彼がすごく深刻な状況に置かれている様でわたしは不安になったが、那智はそれに対してまったく関心を示さずに黙々と自分の仕事をこなしている。一体今、何が起きているというのだろうか?  心の中でそう呟いたわたしの疑問に対し、誰も答えるものはいなかった。

§8.

 ジリリリリン!
 吾眠に設置されているピンクの電話がけたたましい音をたてる。那智は洗い物をしていて手が汚れていた。だからいつもの様に(といってもこの電話が鳴ることはめったにないのだけれど)わたしが取ろうとしたら、それを制するかの様に那智の手が伸びてきてそれを掴んだ。
「はい、喫茶吾眠」
 那智はわたしの方を牽制するかの様に鋭く一瞥するとまったく普段と変わらない声で電話に出る。わたしには聞かれたくない相手だったみたいだ。だれなんだろう?
 彼は電話に向かって何度か相槌を打った後、「待ってる」とのみ答えて電話を切った。待ってるって今から? どこからの電話なのか気になったけれども、今のわたしにはとても聞けなかった。
「もう遅いからわたし帰ります」
 店の奥でそう声がすると同時に橿原さんがレジの前にやって来た。
「いくら?」
 そう訊ねる彼女に那智はにこやかな営業スマイルを浮かべ「今日は奢り」とだけ答えた。そしてリンに
「リンも上がっていいから彼女送ってあげて」
 と、彼が踊り出しそうなくらいありがたいことを言ってくれる。リンの奴、いろいろがんばってはいるみたいだけれども、いま一つ詰めが甘いから口説き落とせないでいるみたいだった。実際、那智に言われて彼女を送る大義名分のできた彼はいそいそと帰り支度を始める。
 「そんなに遅いわけじゃないですし、いいですよぉ」と言う彼女に那智は意味ありげに「なんか今日はいろいろと物騒みたいだから」と那智は言った。変な台詞に那智がなにか鎌をかけたのかと思ったけれど、橿原さんは笑みを浮かべて「なんですかそれ? まるで予言者みたいですね」と平然としたままだった。那智もそんな彼女の反応に、「でしょ?」と悪戯っぽく笑うのみだった。

「いいなぁ、彼氏持ちは」
 隣で独り言にしては大きな声で伊吹ちゃんが呟いた。
「まだ彼氏にするって決めたわけじゃないわよ。何たっておネータマが……」
 いつぞやのリンの口調を真似てそう言うとわたしの方をチラッと見る。リンはちょっと顔をしかめたけれどもなにも言わなかった。彼女がわたしを嫌う様に、わたしも彼女に対しては思うところもあるけれど、今は弟の幸せの為に口を噤むことにした。
「それでもいいわよ。マスターは当然、霧島先輩ですよね」
 そう言う伊吹ちゃんの言葉には媚びる感じがあった。わたしはそんな伊吹ちゃんにちょっと驚く。これが常に敵意をまるだしにしている橿原さんならば、そう言う事もあり得ると思える。でもわたしが伊吹ちゃんにこれまでもっていた印象ではそこまで積極的な娘とは思わなかったのだ。ましてや彼女はどちらかといえばわたしに好意的だった。そんな彼女が実際はどうであれ、一応わたしと付き合っている事になっている那智にそんな風に色目を使うなんて予想だにしていなかったのだ。

「しの〜、当然だろ」
 リンが牽制するかの様にそう言う。
「青葉先輩がすぐ隣なんだから、五十鈴先輩が送ってくれるって。なっ!」
 最後のなっ!は五十鈴に向けられた物らしいけれど、彼の提案は那珂によって否定された。
「馬鹿ね。ここからがオ・ト・ナの時間なんだから。送れる訳ないでしょ」
 その発言にはさすがの那智も苦笑していた。言われた五十鈴の方がうろたえている。そんな二人に伊吹ちゃんも苦笑している。元とはいえ好きだった女の子のそんな発言を彼はどんな気持ちで聞いたのだろう? それを思うと少しだけ那珂のことが疎ましく思えた。
 いろいろ事情があるのだけれども、それでも一応那智の彼女と言う名目からわたしには優越感見たいなものがあった。だからとりあえずここで待っていて那智が伊吹ちゃんを送った後でわたしは送ってもらおうと思い、そう言おうとした瞬間、那智の口が開いた。
「そうだね、東雲さんは僕が送っていくよ」
 その台詞にわたしはちょっとショックを受けた。自分でそうしてもらおうと思ったことだけど、わたしから言い出すのと、彼が自主的にそうするのとでは全然意味が違う。わたしの方を一瞥することもなくそう言った彼に、わたしは彼の気持ちはもう、彼女に傾いているのだと感じた。
「那智兄ぃ! それはねぇだろう!」
 リンがなにか抗議している見たいだったけれども、その声もほとんどわたしの耳には届かなかった。茫然自失とはこう言うことなのか。わたしは身をもってその言葉の意味を知った気がした。涙の一つでも溢れるかと思ったけれど、こんなわたしにもまだプライドは残っていたのか、それともショックが大きすぎたのか、みんなの前で泣く様な醜態は晒さずに済んだ。
 わたしは鞄を手にとると、静かに席を立つ。
「それじゃあ、那智。また明日……」
 そう言って扉に向かう。
 また明日……
 それはわたしの精一杯の虚勢だった。
 もう明日はきっとない。
 だからまた明日…… 今度はクラスメイトとして会いましょう。
 扉のところでゆっくりと振り向いて笑って見せる。それがわたしの決別の挨拶。
 でも、店を出る為に踵を返そうとした瞬間、那智が外を指さした。
「榛名は今日、アレで帰って」
 振り向くと、いつのまにか表には先程走り去ったはずの黒塗りの車が止まっている。リアシートの窓が空いていて、中から酒匂がコイコイと手を振っていた。


「暗ぇなぁ。ハルちゃん、まるで振られ女みたいだぜ」
 送ってもらう車内で黙り込んでいるわたしに耐えきれなくなったのか酒匂がそう言った。
 振られ女……。
 わかってはいるけれど、声に出してそう言われると結構くる物があった。もっともわたしの場合は振られたと言うよりは見捨てられたという方が正しいのかもしれない。
「……振られたのかな……。もともと振る、振られるって関係でもないんだけどね……」
 わたしはそう答えると、深い為息をついた後に流れる車窓へと視線を移した。横から酒匂の視線を感じてわたしは少し緊張した。わたしが落ち込んでいるせいか、酒匂のそれにいつものような男臭さを感じはしなかったけれど、普段の彼を知っているわたしは、この逃れようのない動く密室の中で至近から彼に見られていると言うだけで、息苦しさを感じだ。
「言ってることがよく判らねぇけどよ、つまりはハルちゃんは那智の野郎と別れたってことかい?」
 しばらくして酒匂はわたしにそう聞いてきた。その口調にどこか揶揄するような響きが感じられたのは気のせいだろうか? わたしはまるで猛獣の檻に閉じ込められたような気分になった。その猛獣はまるでわたしをいたぶる機会を伺うようにじわりじわりと間合いを狭めてくる。
「考えれば判るでしょ? 那智が送っていったのは伊吹ちゃんで、わたしはこうして酒匂の車の中にいるんだから」
 わたしが精一杯強がってそう言うと、酒匂は可笑しそうに声を殺して笑った。
「なるほどね。それじゃあどう? このまま俺に口説かれてみない? こうみえても俺、那智と比べても遜色ないくらい女の子にはやさしいし、そのうえハルちゃん一筋だぜ」
「わたしの相手役じゃ酒匂には役不足よ。でも、もし貴方がそう感じないのであれば貴方では力不足ということになるけれど」
 わたしの言葉に彼は目をパチクリさせた。そしてしばらく唖然とした表情でわたしを見ていたが、やがてポリポリと頭を掻く。
「優等生のいうことは小難しくていけねぇ。もっとわかるように言ってくれよ」
 わたしは溜息をもらした。酒匂にも全てを話さないといけないのかもしれない。それは気の重いことだったけれども、それでもし酒匂がわたしにちょっかいをかけなくなるのであればそれもいいのかもしれない。
「酒匂はわたしみたいな女の子の相手をするにはもったいない人だって思うけど、それでももし、酒匂がわたしをって思うのであれば、今の酒匂では無理だってこと」
「どうしてよ? ハルちゃんぐらい極上の女こそ俺に似合うと思うし、その気になってくれりゃ那智以上に良い思いさせてやるぜ?」
 畳みかける様に話すわたしに、酒匂は心外だと言う様な顔をする。でも彼の最後の言葉の意味を察した時に、私の中のスイッチが入りそうになる。震えが来そうになるのを必死の思いで留める。
「……めなの……」
「はっ?」
「それがだめなの!」
 わたしのあまりの勢いに一瞬酒匂が鼻白む。でも直にわたしの状態が普通ではないことに気付いた様だった。わたしは車の中で自分を抱きしめる様にしてかがみ込んでいた。そんなわたしを開放しようとするかの様に酒匂が手を伸ばしてきた。
「さ、さわらないで!」
 わたしの声に酒匂の動きが止まる。
「ごめん……。わたし、男の人だめなの……」
 わたしの言葉に彼は心底驚いた様だった。
「じょ……うだん……だろ?」
「本当よ……」
「だって那智とは……」
 確かに彼氏持ちの女が男性恐怖症だと言っても説得力ないだろう。でもそれはその二人が本当に恋人同士であったならばの話。わたし達はそうじゃない。
 わたしは、結局酒匂にも那珂に話した様な説明をすることとなった。
「つまりは那智とハルちゃんが付き合っているって言うのは単なるカモフラージュって言うことなのか?」
「そう言ったでしょ? 那智は心的外傷後ストレス障害のわたしに男の子が近づかない様に、近づいてきたら排除できる様に側にいるだけ。彼氏、彼女を演じているのはその方が那智がやりやすいから。大義名分は必要でしょ?」
 信じられないといった感じに酒匂の表情が固まる。
「二人の間には恋愛感情は一切ないって言うのか?」
 彼はそう言うと考える様な目をしながらゴソゴソとポケットを探った。そこから煙草とライターを取り出す。わたしはその質問に答えられず、彼から視線を外す様に窓の外にまた、目を向けた。窓の外を流れる水銀灯の青白い光を見るともなしに眺めていると、背後が暖色の光に包まれた。途端に車の中が煙たくなり、燻し臭い匂いが充満する。あわてて真っ黒な窓を開けると、気持ちのいい夜風が車内に流れ込んできた。
「少なくともハルちゃんの方にはある訳だ?」
「……」
 微妙に語尾が上がって問いかける様な口調の癖に、自信タップリに断定している様に聞こえる。でも、わたしにはわからなかった。今、自分の中に芽生えている感情が一体なんなのか。
 そもそも男性に対して恐怖心を抱くわたしが、男である那智に恋愛感情など抱ける物なのだろうか? 指一本触れることも、触れられることも出来ないと言うのに……。
 ただわかっている事は、彼だけが他の男性と違いあまり恐怖感を抱かずにいられるという事……。
 何故だかはわからない。男臭さをあまり感じさせない人だからなのか、それとも恐怖からわたしを救ってくれた恩人だからなのか、あるいはそれ以外になにかあるのか……。とにかく肉親である父親や、弟の鈴谷よりも彼といる方が落ち着く。わたしにとって彼が一番安心できる存在なのだ。だからといってそれを恋愛感情だと言う事はできない。
「――那智に恋愛感情持っていたら、多分側にはいられないんじゃないかな……」
 那智にしたって同じなんじゃないだろうか? こういう時代だからそんなに過去は気にしないのかもしれないけれど、その相手を知っていて、そして具体的な内容まで大体の想像がついたとき、それをまったく気にせずにいられるだろうか? ましてや私はそのことが原因でトラウマまで抱えてしまったのだ。心身ともにそこまで深い関係のあった男との過去を持つ女なんて、私ならいやだ。本当にその過去を忘れられるのか疑ってしまうだろう。
 私の言葉に酒匂は無言だった。聞いているのかどうかさえ怪しい態度で黙ってたばこをもみ消す。
「本当は余計な不安を与えたくないからって口止めされてんだけどよ、なんか言わないでいるのもフェアじゃない気がするから……」
 酒匂はそう言うと、ポケットから小さな封筒を取り出した。
 それはなんの変哲もない白い角形封筒だった。まだ封は切られていない。封筒の中央が四角く膨らんでいて、なにか硬質なものが入っている。
「これがどうしたの?」
「ロッカーに入っていた。例の手紙で指定されていたロッカーに……」
 私の問いかけに酒匂はそれだけ答えると、しばらく口を噤んでしまった。それで私も封筒をひっくり返してはいろいろ調べたけれど、差出人も何も書いていない。以前のように剃刀が仕掛けられている事もなさそうだ。
「これ、開けてもいい?」
 私の問いかけに「そりゃ、ハルちゃんが受け取るはずのものだから……」と酒匂にしては珍しく煮え切らない返事が帰ってくる。彼の態度は気になったけれども、躊躇していては先に進めない。私は思い切って封を切った。

 封筒の中身は、一枚の紙切れとオーディオテープが一本。紙切れにはコインロッカーの場所を示したメモと同じ字でたった一言「一人で聴くことをお薦めするよ」と書かれていただけだった。
「何が入っていたんだ?」
 酒匂がそう言って興味深げに覗き込んできた。そんな彼の行動に、わたしは反射的に手に持っていたものを隠してしまった。
「?」
 酒匂からの声にならない疑問の声が聞こえてたような気がする。
「大したものじゃないから」
 自分でも馬鹿な事言っているのはわかった。大したものじゃないのであれば素直に見せればいい。そうしたくないから隠してしまったというのに……。
 テープに何が入っているのかはわからない。でもそれの存在を何となく酒匂には知られたくなかった。それは多分酒匂だけでなく、那智にも。ほかの誰にも知られたくない。そう思うのにはなにか根拠があるわけでなく、ほとんど直感的なものだ。
 わたしの見え見えの嘘に酒匂は「ふ〜ん」と言っただけで、それ以上の興味を示そうとしなかった。それは、わたしのことを気づかっての事なのだろうか? ひょっとしたら酒匂も口で言うほどわたしのことに興味がないのかもしれない。あるいは話を聞いて霧島榛名という女に幻滅したのか……。

「それを取りに行った時な……」
 しばらく黙っていた酒匂が、徐に口を開く。
「コインロッカーの前によ、チーマーって言うのかな……とにかく危なそうな感じの連中が数人いたんだ」
 チーマー? その人たちと、わたしになにか関係があるのだろうか? まさかわたしがコインロッカーにやってくるのを待ち伏せしていた?
「今日、那智がハルちゃんをおれの車に乗せたのは、やつなりに一番安全と思われる手段を選んだだけなんだ。ああいうやつだから何も言わねぇだろうけどな」
「コインロッカーの前にいたその危なそうな人たちの狙いがわたしだったの?」
 わたしの質問に酒匂は静かに首を振る。
「今のところ根拠もないし、断定はできねぇ。でも用心するに越した事はねぇからな……」
 そういった後で酒匂は「おれも馬鹿だね。黙っときゃ良いものを」と言って笑った。ほんとだね、酒匂。黙っていてくれたらわたしも今日の事できっちりあきらめが付いたのに。

§9.

 リン……、遅い……。
 私は一人暗い部屋の中で弟の帰りを待った。傍らには引き出されて丸められたオーディオテープ。わたしは追いつめられていた。このことは誰にも相談できない。酒匂や那珂みたいに私の過去を知り、それでもなお、変わらぬ付き合いをしてくれる人達にも言えない。ましてや那智になど到底相談はできない。いくらやさしい彼でもこれを聞いたらきっとわたしから離れていく……。
 わたしは今日の事ではっきりと悟った。好きとか嫌いとか……、恋愛感情があるかどうかは別にしても、彼の側にずっといたい。彼の手を離したくない。

 酒匂に送られて家へ帰って来たわたしは、晩御飯もそこそこにすぐに酒匂から渡されたテープを聞いてみた。何が録音されているのかわからないから、イヤホンを耳に当て、ボリュームも絞ってそっと。
「……、……」
「……。」
 ボリュームが低すぎてよく聞き取れなかったけれど、誰かの会話を録音されたものという事だけはわかった。それも多分男と女。
 ボリュームを少しだけあげてみる。それくらいではちゃんと会話が聞き取れない事はわかっている。でも……、一気にボリュームをあげるのは怖かった。
「……よ」
「よ……た」
「ま……でを……な」
 どちらも聞き覚えのある声。また少しボリュームをあげる。聞くのは怖い。でも……、でもわたしは聞かなければならなかった。

「榛名の作ってくれる弁当もうまいけど、榛名自身の方がもっとうまい」
「すぐ、そっちに話し持っていく〜。エッチなんだから」
「おなかも膨れたし、今度は榛名を食べた……」

 自分のものとは思えないような甘い声。男にのぼせ上がっていた馬鹿な自分の姿がよみがえってくる。
 それ以上聞いていられなくて再生を止めた。そうしてカセットを取り出し、中のテープを思いっきりひっぱりだした。この会話のあとに何が入っているのかわたしにはわかる。ううん、わたしじゃなくたって今の会話を聞けばその後二人がどうなったかは容易に想像がつくだろう。
 ひっぱっても、ひっぱっても、後から後から繰り出されてくる茶色の帯をわたしはクシャクシャに丸めながら引きちぎった。そして、さんさん暴れた後は、いつものように体中に震えが走ったのだった。

「とにかく危なそうな感じの連中が数人いたんだ」
 車中での酒匂の言葉がよみがえる。その人たちと長良さんというあの眼鏡の人が仲間なのだろうか? あのテープは長良さんが所持していた物なのだろうか? だとしたらあの人はどうやってそれを手に入れたのか?
 発作を抑えるために飲んだ精神安定剤のおかげで、頭の中に白く靄がかかったようで考えがまとまらない。そのくせ疑問だけは次から次へと浮かんでくる。わたしは体中に絡みついてくる冷たくて重い霧の中をひとりさまよい歩いていた。

 トン、トン。
 ドアをノックする音にわたしは顔を上げた。いつの間にか寝てしまったようだった。薬を飲んだあとはいつもこうで、目を覚ました今も頭の中ははっきりしない。
「榛名? 鈴谷がまだ帰らないんだけれどあなた知らない?」
 ドアの向こうから聞こえてきたのはお母さんの心配そうな声だった。リンは男の子なんだからちょっとぐらい遅くなったってそんなに心配することないだろうに……。はっきりしない頭でぼんやりとそう考えて時計を見る。そして我が目を疑った。
「十一時半?」
「そうなのよ……、あの子ったら一体どこほっつき歩いているんだか……」
 喫茶「吾眠」の閉店時間は午後八時。それに合わせてみんな帰ったのだから、リンがお店をでてから三時間半が経過した事になる。
「榛名、あの子からなにか聞いていない?」
 橿原さんの家がどこにあるのかまではわからないけれど、たしか彼女は徒歩通学のはずだ。という事は学校からそんなに離れていない。多めに見積もってもせいぜい三十分くらい。多少のおしゃべりをしたとしても……。
「いつもなら遅くなるときにはちゃんと連絡よこす子なのに……、あなたなんにも聞いていないの? ちょっと榛名、聞いてる?」
 おかあさんに呼ばれてわたしは我に返った。
「あぁ、今日遅くまで女の子のお客が残っていたから、あの子那智に言われて家まで送っていったのよ。クラスメートだから。それでどこかで寄り道してるんでしょ」
 わたしはそう、そっけなく答えたものの本当のところは気が気じゃなかった。いくらなんでも遅すぎる。
 おかあさんは女の子を送っていったということで余計な気を回し始めて変なことしてないでしょうねとか、こんな遅くまでよそ様のお嬢さんを引き連れ回すなんてとかぶつぶつ言い始めた。リンにそんなことできる分けないじゃない。
 わたしのことをずっと見てきただけにあの子はそう言うことにはかなり慎重だ。わたしの場合は例としては極端な物かもしれないけれど、だからこそあの子はそれで女の子がどれほどひどく傷つくことがあるかというのを身に沁みてわかっている。そんなリンが軽はずみな行動に出るとは到底思えない。万一橿原さんのほうから誘われることがあっても、きっとあの子は断るんじゃないだろうか。今のあの二人の様子じゃそんなこともあり得ないとは思うのだけれども。
 とにかくそれだけにリンがここまで遅くなる理由がわたしには見当つかなかった。わたしが親に心配をかけたぶん、あの子はそれにもすごく気をつかう。遊びたい盛りだから帰りが遅くなったり、泊まりになることもあるけれど、そう言うときは必ず連絡を入れる子だった。だからこんなことは初めてだ。
 ひとり考え込むわたしと、いつまでもぶつぶつと小言のようにつぶやき続けるおかあさん。そんな二人の不毛な時間を電話のベルが引き裂いた。


「酷い……だれがこんなことを……」
 長椅子に座り泣きじゃくるおかあさんとそれをなだめるお父さん。そんな二人の横でわたしは呆然と点灯している手術中のランプを見上げていた。
 電話は警察からだった。リンは暴漢に襲われ、救急外来のあるこの市民病院に担ぎ込まれたのだ。だれがそんなことを……。おかあさんの台詞をそのまま頭の中で繰り返す。
 リンは肋骨と右手を骨折したうえ、内臓にもダメージを受けるほどの重傷だった。それでも手加減はしてあったらしく、警察の人の説明ではちゃんと計算された上で死なない程度に痛めつけられた可能性が高いそうだ。それでなにか恨みを買っているとかいうことはないかとしつこく尋ねられた。もちろんそんなものはわたしにも両親にも思い当たる節はない。
 警察は怨恨の線をまず考えているみたいだった。通り魔にしては変に手加減していたりして様子が違うと言う。あとはたまたまけんかを吹っ掛けられたか……。
 でも、この時わたしはひとつの可能性に気づいていた。リンはわたしの身代わりになったんじゃないだろうか?
 酒匂はわたしになんと言った?
「とにかく危なそうな感じの連中が数人いたんだ」
 そうたしか、そんなことをいった筈だ。それとリンを襲ったのが同一人物だとしたら……。
 狙われていたのはわたし。なのに今日、彼らはわたしを襲うチャンスを逸した。那智と酒匂の機転のおかげで。それで標的をリンに移したのかもしれない。
 問題なのはそれがだれの差し金かということ。わたしはもちろん、リンだってそんな人たちとは面識がない。一方的に襲われるいわれなんてこれっぽっちもないのだ。順当に考えても誰か彼らに依頼した人たちがいる筈だ。
 とりあえず今、わたしに接触してきたのは長良さんだけ。彼がリンを襲った人たちと結びついているのかどうかはわからない。得体のしれないところはあるけれど、チーマーと呼ばれるような人たちに受け入れられるようなタイプにも見えない。そう考えると自信がないけれど、とりあえず手がかりとなるのは今は彼だけだ。だって彼の指定した場所にそのチーマーの人たちはいたのだから。わたしは一度こちらから長良さんと接触を試みようと心に決めた。
 わたしが心の中で密かに決心を固めたとき、キュッキュッとリノリウムの廊下をこするような足音が聞こえた。振り向くと那智が少しだけ、ほんの少しだけ顔をゆがめたまま立っていた。
「那智……」
 彼の顔を見たら、それまで押さえ込んでいた感情が一気に爆発しそうになった。ちょっとだけ目頭が熱くなる。彼の顔を見てちょっと安心した分、心の中にゆとりができて、この理不尽な状態に対する怒りや悲しみが込み上げてくる。こんなとき、彼にすがりつけたら、少しは楽になれるのだろうか? 以前テレビドラマで見たシーンを思い出しながらふと、そんな風に思う。なんのためらいもなくそうできる普通の女の子たちがなんともうらやましく感じる瞬間だ。

「ごめん……。迂闊だった……」
 那智はわたしと目が合うなりそう言って頭を下げた。その表情はほとんどいつもと変わらない。でも何となく那智がものすごく落ち込んでいるようにわたしは感じた。
 いつもにまして鉄仮面をかぶった彼はしばらくの間、次の言葉を探すかのようにわたしの前に立ち尽くしていたけれど、やがてゆっくりと踵を返し、お父さんたちのいる隣の椅子の方へと向かった。そしてそこでも彼は深々と頭を下げる。おかあさんが彼に一言、二言なにか言ったようだけれど、お父さんが取りなしたようだった。そしてまた促されるようにしてわたしの方へと戻ってきた。
 那智はわたしの横に腰を下ろすと小さく息を吐いた。
「迂闊だった。まさかリンの方へ矛先が向くとは思わなかった。僕のミスだ」
 那智はわたしの顔を見ることなくそうつぶやく。こんな彼を見るのは初めてだ。彼はいつだって落ち着いていて……、わたしと初めて出会った時でも冷静に状況を判断し、窮地のわたしを救ってくれたのだ。決して自信にあふれていると言うわけではないが、常にどっしりと構えていて不動の山のようなイメージがあったのに……。なのに今は彼がとても小さく見える。
「那智のせいじゃないわ。見えない相手にすごくがんばってくれている。那智や酒匂がいなければきっと今、わたしがここにこうしていることはできなかったと思うもの。」
 わたしの言葉に彼が静かに顔を上げる。
「プロじゃないんだもの。たった二人で全てをカバーするのがどだい無理なのよ。それにこれまではほんの嫌がらせ程度のことしか起こらなかった。まさかこんな酷いことをするなんて……」
 わたしがそう言うと那智は静かに首を振った。
「違うんだ。僕は調子に乗りすぎていた。榛名が言ったように僕らはプロじゃない。できることなんか限られている。だったら必要最低限のことに止めておけばよかったんだ。僕らがまずやらなくてはいけないことは榛名の身の安全を図ることだった。それだけなら何とかなった筈だ。それを調子に乗って犯人をつかまえようなんて思ったばかりにこんなことになったんだ……」
 彼の声は普段とあまり変わりのない落ち着いたものだ。でもその口調はまるで誰かに言い聞かせるような感じだった。
「那智……。危ないことはしないで」
 彼が犯人をつかまえようとまでしていたのは初耳だった。たしかに嫌がらせはいつまで続くかわからない。それをやめさせるには犯人をつかまえるのが手っとり早いのかもしれない。でも、そんなことをしたら彼にまで危害が及ぶかもしれない。
「大丈夫。犯人は急いてことを大きくしすぎた。今、酒匂が裏のルートからリンを襲ったやつを洗い出している。蛇の道は蛇ってね。多分警察より早く犯人を見つけるだろう」
 静かだけれど、とても激しい怒りの波動がわたしのところまで伝わってくるような気がした。
 きっと傍目にはやさしく微笑んでわたしを励まそうとしているようにしか見えないだろう。でも、その心の奥では埋火のような怒りが燃えている。ふっと一息吹きかければ大きな炎となって燃え盛ってしまうだろう。
 彼にこんな感情は似合わない。きっとわたしと出会った瞬間に彼の人生の歯車が大きく狂ってしまったのだ。このままわたしが彼に関わっていくことで、彼が彼でいられなくなりそうな……そんな予感がした。
 わたしを救ってくれた人を、わたしがだめにしてしまう……。早く彼を彼の人生に戻してあげないと……。
 それには今がチャンスだった。那智の庇護から離れる正当な理由が今ならある。しかしそうすると今度はわたしの心の中に葛藤が生じる。彼とは離れたくない。彼の隣にいることでわたしはとても安らげる。
 今のわたしにはわかる。彼はわたしにとってかけがえのない人。その感情がどうであれ、今はそれを素直に認められる。でも……彼にとってわたしはどうなのだろう?
 わたしは彼からたくさんのものを貰っている。でもわたしから彼にあげられるものは何もない。唯一与えるものは負の感情だけなのだ。わたしのエゴが彼を壊してしまうのだ。
(大丈夫……、わたしは強くなれる)
 心の中でわたしは何度もそうつぶやく。
(わたしは強くなる。強くなれる)
 わたしは彼の開放を決断した。 

 これからわたしがすることはひどく彼を傷つけるかもしれない。でも一時傷ついても、彼はきっと立ち直ってくれるだろう。わたしは腹を括った。
「那智……」
 わたしは静かに彼に微笑みかけた。わたしの声に応えるように彼が視線を向けてくる。一見普段と何ら変わることのないように見える彼の瞳の奥に怒りと悲しみが宿っている。わたしは彼に気づかれないように深く息を吸い込んだ。
「那智……、大丈夫よ。今回のことは立派な傷害事件だもの。警察も動きだしたし、きっと直に解決される」
「榛名……」
 守るべきはずのものに慰められる。そんな屈辱に耐えるかのように那智の瞳は暗い。こんな状態の彼にさらなる追い打ちをかけていいのかどうか、一瞬判断に迷った。けれどこれが彼のためなのだと思い直し、言葉を続ける。
「あとは警察が解決してくれるわ。事件解決まではまだゴタゴタするかもしれないけれど、このことはもう、わたしたちの手を離れる。これからは普通の生活に戻ればいいのよ。わたしはわたしの生活に、あなたはあなたの生活に」
 わたしがそう言ったとき、一瞬那智の表情がゆがんだ気がした。でも、そう思って彼の顔を見直したときにはいつもと変わりなかったから目の錯覚だったのかもしれない。
「どういうこと?」
 那智の発したその声はひどく落ち着いていて冷静そのものだった。その分感情が一切取り払われているようにも聞こえる。わたしにそう感じさせるなんて、彼も相当精神的に追い詰められているのかもしれない。そんな彼にわたしは止めを刺そうとしているのだ。
「今日限りであなたをわたしから開放してあげる。あなたにはあなたの人生を歩んでほしいの。これ以上わたしと同じ道を歩む必要はないわ」
 わたしはそう言って那智に微笑みかけた。
「さっきも言ったように事件は警察が片づけてくれる。わたしも一年以上あなたに守ってもらったおかげでずっと強くなった。これからもっともっと強くなる。そのためにもいい加減ひとりで歩かなくちゃね」
 わたしはそう言いながら彼に向かって微笑み続ける。自身なんてない。わたしは一年前からちっとも強くなんてなっていない。これからだって強くなれるかどうかなんてまったくわからない。でも……、もう潮時なのだ。
 自分の感情をわたしは全て心の奥に押し込んで笑った。そんなに難しいことじゃない。那智だっていつもやっていることだ。
「本気?」
 那智の乾いた声がわたしの耳に届く。わたしを見つめる彼の目に感情の色が浮かぶ。それをわたしははじめて見た。いつもは涼しげな彼の目には、今は悲しみと哀れみの混じった感情があふれかえっている。一切の表情を変えることなく、彼は目だけでわたしになにかを訴えようとしていた。
「本気よ」
 わたしはそれだけ言うと椅子から立ち上がる。そのまま彼に背を向け両親のいる長椅子の方へと向かう。
「榛名……」
 那智の声にわたしは振り返った。
「今までありがとう」
 それだけ言うとあとは彼を無視してわたしはリンが戦っている病室の前へ向かった。

§10.

 那智に別れを告げてからのわたしは放課後暇をもてあますようになった。
 別段、彼を嫌いになったから別れたわけではないのだから、喫茶「吾眠」に出入りしても問題ないのかもしれないけれど、やっぱり何となく顔を出しづらい。それに那智の顔を見たら、また彼に寄り掛かってしまいそうな気がして、どうしても顔を出せないでいた。那智と別れたことで、彼を介して知り合った友達とも縁が切れてしまったような気がする。那珂や五十鈴、それに酒匂といった面々と顔を合わすこともなくなった。わたしは毎日、学校が終わるとそのままリンの入院している病院へ行き、日が暮れるころ家に帰るのが日課となってしまった。
 リンの怪我は最初に聞いた通りかなり酷くて、しばらくは入院が必要だった。当面集中治療室にいるため面会も思うようにできない。それでもお医者さんの話では確実に快方に向かっているし、ひと月程度で退院できるだろうとのことだった。

「ごめんね……わたしのせいで……」
 たまたまリンが起きていたときにわたしがそう言ったら彼はにっこりと微笑んだ。まだ酸素マスクをしているために思うように話せないが、静かに首を振る彼を見て、わたしは目頭が熱くなるのを感じた。こんなのはもうたくさんだ。わたしのために誰かが傷つくなんて金輪際もうあってほしくない。そのためならわたし自身がどうなろうともかまわない。
 痛々しい弟の姿を見て、わたしは心の底からそう思った。そういう意味では那智と別れたのも正解だったかもしれない。これで彼らがわたしの巻き添えとなることも、きっとなくなるだろう。


「ねぇ、霧島さん、羽黒と別れたって本当?」
 お昼休みにひとりでお弁当をつついていると、いきなりそう声をかけられた。いつも那智たちと屋上でお弁当を広げていたから、教室には一緒にご飯を食べる人がいなかったのだ。
 那智と別れて一週間、いずれこういうこともあるかとは思ったけれど、声をかけてきたのは同じクラス委員を努める阿賀野君だった。同じ国立大志望コースの中でもトップクラスの成績を納める上に、医者の息子で金回りがよく、ある意味女の子には不自由していない彼が自ら女の子に声をかけるのは珍しいことだ。一部からやっかみの視線が突き刺さるのを感じた。
「本当よ」
 彼の本位がわからない……わけでもないので、なるべくそっけなくそう応えた。今はそう言ったイザコザには巻き込まれたくないのに。那智とは嫌いになって別れたわけではないし、わたしは男の子と付き合うというのはそれ以前の問題なのだから。でもプレイボーイを気取る彼にはわたしの意図は伝わらなかったようだ。あるいはあえてそれを無視したのか。
「それじゃぁもう遠慮は要らないかな? どう? 今日あたりなにかおいしいものでも食べにいかない?」
 あんた本当に高校生? 真剣にそう思わせるような台詞で誘ってくる彼に苦笑してしまう。
「わたしにあなたの取り巻きの一人になれっていうの?」
 我ながら少し意地が悪いかと思うけれど、やんわりと断ったくらいじゃ引きそうにない。これからはこういう手合いにも自分で対処していかなければいけないんだな。そう思うと手段を選んでもいられなかった。今まで守られていた分、わたしもどう対処していいのかわからなかった。でも、彼は強かった。わたしの厭味などまるで気にする様子がない。
「君は僕のことを誤解している」
 肩をすくめるようにして両手を広げるオーバーアクションでわたしの厭味に応える彼の姿は、彼の信者にはかっこよくうつるのかもしれないがわたしとっては滑稽なだけだ。
「これまで僕は自分から求めた女性はひとりとしていない。ただみんなが放っておいてくれないだけだ。僕が自ら求めるのはただひとり……」
 そう言って彼の指がわたしを指し示そうとしたとき、全てを打ち破るような大声が教室中に響きわたった。
「ちょっとまったぁ〜!」
 思わずわたしは頭を抱える。振り向くまでもなく、声の主は明らかだった。
「ハルちゃんは俺が前からモーションかけていたんだ! おめぇの出る幕はねぇよ!」
 ものすごい勢いで教室に飛び込んできたかと思うと声の主、酒匂蒼竜はあっと言う間にわたしの前に立ちふさがる。一瞬、あっけにとられた阿賀野の顔が、みるみる恐怖に青ざめてゆく。気がつけば彼は知らぬ間に酒匂に胸ぐらをつかまれていた。目の前で酒匂にガンつけられて平然としていられるのはきっと那智くらいなものだろう。阿賀野はあたふたと酒匂の手から逃れると、「そう言うことじゃ仕方ないね」とか何とか言って姿をくらましてしまった。

「酒匂、わざとでしょ?」
「わかる?」
 わたしの問いに彼はしれっとして応える。きっと那智の差し金に違いない。一応振られた手前、おおっぴらにわたしを守れないもんだから、間接的に一番効果的な方法を選んだに決まっている。こうやって酒匂がにらみを聞かせればわたしがいくらフリーでもだれも言い寄りはしないだろう。策士な彼らしいやり方だ。助かったと思う反面、わたしは面白くないものも感じた。これでは彼と別れた意味がない。
「那智の差し金ね」
「ノーコメント」
 そう即答する酒匂を睨み付けながらも、彼にいくら話しても無駄だと悟る。簡単に口を割るようじゃ、やくざなんてやってられない。わたしが直接那智に話をつけようと席を立ちかけたとき、それすらも見透かしたように酒匂が言った。
「那智なら今日、休みだぜ」
 見事としか言いようのないタイミング。すっかり出端をくじかれたわたしはおとなしく席に戻るしかなかった。打ちのめされたように机に突っ伏すわたしに酒匂が一言。
「そう言うわけで、これからよろしく!」
 どういうわけで、よろしくなんだか……。わたしはもうすでになにも言う気にはなれなかった。

 放課後、わたしは那智に一言言うために吾眠までやっていた。とは言うもののどうにも入りづらくてしばらく辺りをうろうろしていたのだけれども。ようようのことで意を決し、扉に手をかければ鍵がかかったまま。よく見るとまだ準備中の札がかかっている。なんか今日は出端をくじかれてばかり。何もかもうまく進まない。
 考えてみれば彼は今日、学校を休んだのだからひょっとしたら体調を崩しているのかもしれない。そんな単純なことにまでわたしは頭が回らなかった。もし、風邪とかひいているのであれば、彼はひとりでどうしているのだろう。彼は繊細な見かけの割りにタフで、これまでそう言うことが一度もなかったから、そんな姿も想像がつかない。ひょっとしたらあとで那珂とかが様子を見に来るかもしれないけれど、でも見に来ないかもしれない。
(これは彼に対する恩返しなのよ)
 どうにも気になったわたしは自分自身にそんな言い訳をして裏口に回ろうとした。そのとき、背後から人の話し声が聞こえた。とっさのことでわたしはあわてて影に隠れる。考えてみればわたしはもともと彼に苦情を言いに来たわけだし、なにもやましいところはない筈なのだから堂々としていればいいのに、反射的に隠れてしまったのだ。でもそれは結果的によかったようだ。声の主はどうやら那智と……、伊吹ちゃんのようだった。
「先輩、霧島さんと別れたって本当ですか?」
 あまりに不躾な質問に那智は苦笑していた。物陰に潜むわたしに気づくことなく、二人は話を続ける。
「そうだね、振られちゃった」
「なんで? この間先輩が霧島さんではなく、わたしを送って行ったからですか?」
 そうか。そういう見方もあるんだ。伊吹ちゃんはひょっとして責任を感じちゃっているのかもしれない。彼女はわたしと那智にはまったく関係のないことなのに、結局巻き込んでしまったのかもしれない。すぐにでも飛び出して言って全てを説明したいけれど、そうするとわたしが二人の会話を盗み聞きしていたことがばれてしまう。それもちょっと決まりが悪い。
「ん〜、それが原因じゃないよ。いろいろとあってね、とりあえず彼女が次のステップに踏み出すために別れたってところかな」
 那智の台詞に伊吹ちゃんは一瞬笑ったような気がした。でも次の瞬間にはものすごい形相をして那智に食ってかかる。
「それって、霧島さんが自分の都合で一方的に先輩を振ったってことですか? 先輩はそんな霧島さんの言い分を黙って受け入れちゃったんですか? それで先輩は納得しているんですか!」
 そのまくし立てるような勢いに那智もちょっと気押された感じだった。
 この娘も那智のことが好きなんだな……。
 最初のあの笑みを見なければわたしはそう思ったことだろう。でもわたしは見てしまった。一瞬だけであったけれど。それもほんのちょっと口の端をゆがませるようなものだったけれど、わたしたちが別れたことを確認した瞬間彼女は笑った。それは目の錯覚ではない。あの笑顔を見たあとでは、彼女がどんな姿を演じようとも空々しく感じてしまう。一体この娘はなにを考えているのだろう?
 この日はじめて、わたしは東雲伊吹というひとりの少女が、橿原千歳よりも不気味な存在として写った。

「完全に納得しているわけじゃないけどね」
 伊吹ちゃんの変化に気づいているのかいないのか、那智は相変わらず苦笑したまま彼女の問いに答える。
「お互いに嫌いになって別れたわけじゃないから。榛名がステップアップした暁には、寄りが戻らないとも限らないだろう?」
「でも、それじゃあ先輩単にふりまわされてるだけじゃないですか。自分の将来に邪魔になったから別れる。都合がついたからまた引っつくなんて行ったら霧島先輩自分勝手すぎます。そんな事していると、いつか先輩、ひどく傷つけられますよ」
「そうかもね」
 ものすごい勢いでまくし立てる伊吹ちゃんの言葉にも那智はただ笑うだけ。伊吹ちゃんにしてみればのれんに腕押しといった感じだろう。伊吹ちゃんとは違った意味でこの男の考えることもわたしにはつかみきれない。散々利用するだけして、あっさりと自分を捨てた女のことなんて怨んで当然なのに、彼からは一向にそんな感じを受けない。それどころか今日の酒匂のことといい、未だに彼はわたしのことを守ろうとしている。なんの見返りも期待できないというのに。
「先輩、馬鹿ですよ」
 伊吹ちゃんはそう言って那智にしがみつく。彼の服をつかみ胸のところに顔を埋めるようにしてくぐもった声を上げる。
「わたしだったら、絶対に先輩を振ったりしないのに……。そんなに霧島先輩がいいんですか? こんなに酷いことされていても、それでもあの女がいいんですか」
 二人のそんな姿を見ていたら胸の奥が痛んだ。それはわたしの存在が二人を苦しめているから? 多分それは違う。モヤモヤしたものが込み上げてくる。何となくそれ以上二人のことを見ていられなくなってきたのだけれど、彼らの前に姿を現さなければここから逃げだすことも叶わない。
「彼女はね、強がって見せているけれど、本当はとても弱いんだ。だから彼女が本当に僕なしで大丈夫だとわかるまで……、それはひょっとしたらぼくの代りに彼女を守ってくれる人が現れると言うことになるかもしれないけれど。――とにかくそれまでは僕はだれとも付き合うつもりはないんだ」
 彼のそんな言葉を聞いたとき、わたしの目から涙が溢れだしていた。わたしは物陰に隠れたままひとり声を殺して泣いた。
「那智は馬鹿よ……」
 伊吹ちゃんが彼に言った言葉そのままにわたしもつぶやく。ほんと馬鹿なんだから。それじゃぁ別れた意味がないじゃない。もう自由の身なんだから、わたしのことなんて忘れてだれでも好きな娘とお付き合いすればいいのに。今日わたしに言い寄った阿賀野なんかよりもずっともてるんだから、だれでもより取り見取りなのに……。馬鹿も馬鹿。大馬鹿なんだから……。

 どのくらいそうしていたのだろう。不意にわたしは人の気配を感じて顔を上げた。わたしの目の前にはいつのまに来たのか、那智が目線を合わせるようにしゃがみ込んでいた。突然のことに驚いたわたしが後ろにはねるようにして立ち上がると、彼も苦笑しながらゆっくりと立ち上がる。
「盗み聞きなんてあんまり言い趣味とはいえないね」
 彼は冗談めかしてわたしにそう言った。多分わたしの顔は真っ赤になっていたことだろう。それは彼の言う通り、盗み聞きをしてしまったということに対する後ろめたさと……、多分泣き顔を見られたことに対する恥ずかしさ。そんなわたしに彼はさらに揶揄するように言った。
「そんなわけで僕は結構諦めが悪い方だから、榛名に他に良い人ができるまで、つきまとうからね」
 今のわたしにそんな人ができるわけないことわかっているくせにそんなことを言う。
「馬鹿なんだから……」
 わたしはひとりつぶやいた言葉をまた、彼のために口にする。
「救いようがないくらい馬鹿なんだから。なんでよ! あなたはもう自由なのよ。わたしなんかに遠慮することないのよ。だれでも好きな人と付き合えば良いじゃない。なんでわたしなんかにいつまでも関わるのよ!」
 わたしの悲鳴にも似た叫びに那智は急に真顔になる。どちらにしても感情を隠したポーカーフェイスに変わりはないけれど、そんな彼の変わりようにわたしもちょっとだけ居住まいを正してしまう。
「ひとつは、榛名が今は放っておけないくらい危険な状況にあるということ。今回の犯人は自分で自分の首を締めてしまった。リンを襲った人物がつかまるのは時間の問題だ。それが警察の手によってか、リュウの手によってかはわからないけれど。そうなったら確実に自分たちも尻尾をつかまれることはわかるだろう。その前にもっと強硬な手段に訴えてくる可能性は否定できないんだ」
 那智の言い分にわたしは頷くしかなかった。たしかにその可能性は否定できない。と、言うことは絶妙のタイミングで別れを告げたつもりだったのに、一番まずい時期にそれをしてしまったと言うわけか……。
「だから榛名の気遣いを尊重したいところだけれども、この件が本当に解決するまでは受け入れられない」
 ちょっと皮肉った感じの彼の台詞が胸に突き刺さる。その一言であの晩、彼がどれほど傷ついたかがわかる。それでもなお、彼はわたしを守ろうとしてくれるのだ。
 そしてそのとき、わたしはあることに気がついた。
「那智……、さっきひとつはって言ったわよね」
 わたしの問いかけに彼はまた苦笑して見せた。
「つまりはほかの理由もあるってこと?」
「そうだね」
 済ました顔でそう言ったきり彼はなにも答えようとはしない。
「なんなの? それは」
 わたしがそう尋ねても彼は笑って答えない。
「気になるじゃない。教えてよ」
 再度わたしがそう尋ねると、彼は冗談めかしたように言う。
「それはね、事件が解決するまで秘密にしておこう。宿題にするから自分でよく考えてみてよ」
 茶目っ気たっぷりに彼はそう言うと、あまつさえウインクまでして見せる。それがあまりにもらしくなくて、似合ってなくて思わずわたしは笑ってしまった。
「酷いなぁ。そんなに変だった?」
 頭をかきながら照れくさそうにそういう彼を見てわたしは涙がまたでてきた。彼は本当にやさしい。

 いいんだよね。もう少し、そのあなたのやさしさに甘えちゃっても本当にいいんだよね。

 でも、修羅場の中にいるわたしには安らげる時はない。那智に家まで送ってもらったわたしは、玄関先のポストに入れられた白い封筒を見つける。その中にはメモ書きのような手紙と、またオーディオテープが入れられていたのだった。

§11.

「よっ! ハルちゃん元気にしてたか?」
「その顔見たら元気じゃなくなったかも……」
 わたしは休憩時間になる度に遠慮会釈もなく人の教室にやってきては隣の席に取る酒匂に、ため息まじりにそう答えた。
「ひでぇなぁ。それが彼氏に向かって言う台詞か?」
「だれが、だれの彼氏だって言うのよ……」
 そこにあるものがどうであれ、わたしと那智が元の鞘に納まってからも、酒匂は相変わらずわたしにつきまとっていた。代りに那智は人目がある場所ではわたしと距離を置いている。表向きはわたしはフリーのままだ。フリーというよりは酒匂の女になったというのが衆目の一致した見解らしい。これは全て那智の策略。もし一連の嫌がらせが那智絡みであったのなら、これで納まる筈というのが彼の意見。でもそれではリンが襲われたのは明らかにやりすぎだし、長良さんが絡んでくる理由が見えない。そう那智に言うと、「敵の敵は味方って知ってる?」と言って笑われた。
 それからもう一つ理由があって、今は自分よりも酒匂の庇護下にいたほうが……、いると周囲に思わせたほうが安全だという事。リンを襲ったような相手ならば、那智にたいしてだと暴力に訴えてくる可能性もある。その場合、那智もわたしを守りきる自信はないと言った。酒匂ならよほどの事がない限り実力行使に出てくるものもいない。それだけ安全性が高まるのだ。
 こうしてさりげなく、それが自然の成り行きであるかのようにわたしの周囲は固められていく。酒匂はまさにわたしにぞっこんという演技を(ひょっとしたら演技じゃないのかもしれないと思うのはわたしの思い上がりだろうか)し、一切ほかの男は近づくなと言わんばかりに威嚇している。朝のSHR前、休憩時間、放課後の全てをわたしの側で過ごし、どうしても都合がつかないときは彼の舎弟ともいえる男の子たちが数人教室のドアのところにへばりつく。このところわたしはクラスの女の子から冷やかしと同情が半々に入り交じった目で見られるようになった。

 でも、こうしてみんなに守られてただ事件が解決するのを待っているのはいやだ。リンがあんな目に合わされて、そしてまたみんなを危険に巻き込みながらわたしひとりが守られているなんて我慢できない。

「そうテレるなって。俺とハルちゃんの仲じゃんか」
 酒匂はそう言いながらわたしの隣の席にいた男子をひと睨みでどかすと、そのままそこに腰を下ろす。でもそれ以上はわたしに近寄らない。彼なりにちゃんと距離を計ってくれる。
「わたしと酒匂の仲って飼い主と番犬ってこと?」
「ハルちゃん、そりゃひでぇぜ。せめて・オードリー・ヘップバーンとケーリー・グラントぐらいにしてくれよ」
「せめてって言うには贅沢な例えね」
 わたしは思わず苦笑してしまった。ヘップバーンとグラントといったらアレしかない。
「酒匂、シャレードなんて見るんだ?」
「おうよ! 俺は話題の映画は見逃さないんだ」
「話題の映画って……」
 いとも簡単に馬脚を現す酒匂は天性のコメディアンなのかもしれない。
「一体、いつ見たのよ。あれ1963年に作られたのよ。おじさん」
「……」
 わたしの言葉に酒匂は言葉をなくし、口をパクパクさせた。きっと那智の入れ知恵なんだ。わたしがシャレード好きなの知っているから。長い事一緒にいると酒匂が間が持たないとでも思ったんだろうな。この男に限って間が持たないなんてことあり得ないけど。
「ひょっとしてばれちゃった?」
「もちろんばれちゃったわよ」
 そう答えるわたしに酒匂はちょっときまり悪そうな顔をしたけれども、直に不敵な笑みを浮かべる。
「じゃぁさ、シャレードの意味って知ってるか?」
「意味?」
「へへ、シャレードってのはな、フランス語で……」
「謎解き……でしょ」
出鼻をくじくようにわたしがそう答えると、酒匂は今度こそ思いっきり肩を落とした。
「知ってたの?」
「前に那智が教えてくれたの。あの人変な雑学だけは豊富なのよね」
「あの野郎……、最初っからこうなる事わかってて教えやがったな」
 机に突っ伏し、恨めしそうに酒匂は前を睨んだ。そんな酒匂を見ながらわたしは気がついた。これは那智からのメッセージなんだ。彼もまた、犯人を突き止める事をあきらめたわけじゃない。
「シャレード……か。今のわたしたちにぴったりね」
 そうつぶやくわたしに酒匂が顔をほころばせる。
「いいねぇ、ハルちゃん。やる気?」
「もちろん……、リンにあれだけのことされて黙ってられないわ」
「そうこなくっちゃ」
 酒匂が腕を突き出し、親指だけを上にたてて手を握る。そしてわたしの目の前で手首を返して親指を下に向けた。そのジェスチャーにわたしは頷く。
 リンが襲われたときにあれだけ落ち込んでいた那智がやる気になったんだ。わたしもうかうかしていられない。どうせひとりでもやるつもりだったんだ。みんなが力を合わせればきっとできる。それにもう同じ過ちは繰り返さない。


 酒匂に送られて病院へ行くと、リンは一般病棟へ移っていた。
「いつ移ったの?」
 付き添い用の丸椅子に腰を下ろしながらわたしはそう聞いた。
「昨日……。ねぇちゃんひでぇや。看護婦さんに言われなかった? 荷物とか移さないといけないから来てくれって」
「あっ……」
 リンに言われてわたしも思い出した。昨日は酒匂や那智の事でいろいろあってすっかり忘れていたのだ。
「偶然那智兄ぃが立ち寄ってくれたから手伝ってもらったけど、そうじゃなきゃ俺、この手で荷物を全部運ばなきゃいけないところだったんだぜ」
 そう言ってリンはギプスで固められた右手をブンブンと振り回した。
「ご、ごめん。昨日はいろいろあって……」
 すっかり狼狽して頭を下げるわたしに「まあいいや」とあっさり引いたあとで、リンはその顔に意地の悪い笑みを浮かべる。
「ところでねぇちゃん、男乗り換えたのか? どうりで昨日那智兄ぃ寂しそうにしていたわけだ」
「ち、ちが……」
「やっぱ、わかっちゃった? 弟よ、これからヨロシクな!」
 わたしの否定の言葉を遮るように酒匂が口をはさむ。このB型男は一度調子に乗ると止まらない。限度というものをいとも簡単に踏み越えていってしまう。わたしは酒匂を軽く睨むと、彼の口から漏れる軽口を無視してリンに話しかけた。
「冗談は置いておいて、那智は昨日ここに来たの?」
「ひでぇハルちゃん。少しはなにかリアクションしてくれよ」
 そんな酒匂の戯言をリンも無視してわたしに答える。
「そう言ったろ。三時ごろかな。ふらりとひとりでやってきたんだ」
「何しに来たの?」
 酒匂の存在を忘れたかのように話しだすわたしたちに彼は「この姉弟は……」とぼやくが、それよりも那智の行動が気になった。彼は学校を休んでまでなにをしているの?
「那智兄ぃには、病室移るの手伝ってくれたあとで、ちーのこといろいろと尋ねられた。そのことで俺、ねぇちゃんにちょっと話しとかなきゃいけない事があるんだけど……」
 リンはそう言うとうかがうような目で酒匂のほうを見た。酒匂もそれに気づき、静かに頷いた。
「それじゃあ俺はディールームででも待ってるわ。終わったら呼んでくれ」
 そう言って病室を出て行こうとする酒匂をわたしは引き止める。
「酒匂には聞かせられない話なの?」
「――ねぇちゃんの秘密に関することなんだけど……」
 言いづらそうにそう言ってわたしの顔を上目づかいに見るリンの姿をを見てわたしは苦笑した。最近男の子になってきたなぁと思っていたのだけれど、こういう顔をされるとやっぱり弟は弟だ。
「わたしのことなら酒匂はもう知ってるわ。過去のことも含めてね」
「――そっか……。それじゃぁ俺のやったことも許されるかな……」
 リンは一瞬驚いたような顔をしたけれど、次第に表情をゆるめ、ほっとしたように肩の力を抜いた。彼の口から漏れる深いため息が如何にこの子が緊張していたかを物語っている。リンは女の子を傷つけるということにたいして敏感になりすぎるのかもしれない。臆病と言っていいほどに。そしてそれは全てわたしの影響なのだ。
「大丈夫よ、リン。いつまでも繊細な悲劇のヒロインを演じてはいられないわ。今度のことで決めたの。わたしは強くなるって。だから話して」
 わたしの言葉にリンも表情を引き締めると力強く頷いた。


「どう思う?」
 帰りの車のなかでわたしは徐に酒匂にそう尋ねた。尋ねたあとで自分の馬鹿さ加減に気づく。主語のない質問。わたしはリンの話を聞いてからずっと彼女、橿原千歳のことを考えていたため会話からそのへんの配慮が抜け落ちていた。でも、彼女のことを考えているのは酒匂も同じだったらしく、話は通じた。
「橿原千歳か? 少なくともリンの件に関しては白に近いだろうな」
「どうしてそう思うの?」
 わりと酒匂も彼女にたいして否定的な目を持っていた筈だ。その彼があっさりと彼女の反抗に対し懐疑的な答えを返したことにわたしはちょっと驚いた。リンの話を聞いて、わたしは彼女への嫌疑を少しだけゆるめてしまった。リンは彼女にわたしが橿原潮という男からどのような仕打ちを受け、そのためにどれだけ傷ついたのかということを全て話したと言っていた。それに対し彼女はリンには素直に謝ったと言うのだ。彼もそうなのだろうか?
 酒匂はわたしが驚いていることに、驚いているみたいだった。彼はしばらく信じられないといった感じでわたしの顔を見つめていたが、やがてポリポリと頭を掻くと苦笑するかのように笑った。
「やっぱり、優等生って言っても大したことねぇんだなぁ」
 酒匂のその言葉には蔑みよりも親しみを感じた。何となく彼が安心したように見えたのだ。彼は一瞬、ニヤっと笑うとわたしのほうへと向き直った。その顔は学校の成績では叶わないわたしに講釈できるのがうれしくてたまらないのだと言っている。そんな彼を見て、今度はわたしのほうが苦笑する。
「いいか、リンが襲われた現場は橿原千歳の家から百メートルほどのところにある公園だ。ちょうど彼女の家からリンの……、つまりはハルちゃんの家までの途中にある」
 酒匂は前のシートの背中を指でなぞるようにしてそう説明したあとで、わかるか? と聞いてきた。わたしも静かに首を縦に振る。
「もし橿原が犯人なのだとしたら、リンのやつが彼女の家を離れてから現場に到着するまでのわずかな時間で兵隊を揃えないといけない。何せリンがあの娘を送っていくことが決まったのは帰る直前。そのあとはターゲットであるリンがずっと側に着いていたんだ。携帯電話を持っていたとしても誰にも連絡はつけられない」
 そこで酒匂は言葉を区切ると、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「つまり、橿原千歳には物理的に犯行は無理だったということだ」
「酒匂って……、結構すごかったのね。それともそれも那智の入れ知恵?」
「そりゃねぇせ、ハルちゃん」
 わたしの感嘆の声に酒匂はこれ以上ないというくらい情けない顔をする。こうしてみていると酒匂の表情は実によく変わる。なんかちょっとかわいいかもと思ったけれど、それをいうと彼が傷つきそうなのでやめておいた。あんまり男の人のプライドを傷つけるのってよくないよね。
「まったく、ハルちゃんはいつもふた言目には那智、那智だもんな」
 酒匂が口をとがらせてぼやく。一応理由はどうであれ彼氏なんだからほかの男の子と比べれば名前の出てくる回数は多いかもしれないけれど、そんなに年中那智の名前を読んでいるつもりはない。でも、そう言うと彼は「自覚ねぇの?」と言って笑った。
「ハルちゃんの言動見てるとな、どれだけハルちゃんんが那智に依存しているのかってよく分かるぜ」
「依存って……」
「あっ、勘違いするなよ。別にそれが悪いってわけじゃないんだから」
 酒匂の言葉はわたしをひどく打ちのめした。まったく自覚がなかったわけじゃない。むしろ自分でもわかりすぎるくらいにわかっていた。彼のためにならないからと何度も別れようと思いながらそれができなかったり、やっと別れたと思ったらたった一晩で縒りを戻してしまったのもそのせい。
 わかっていたことだけど、やっぱり人に言われるとそれはショックだった。多分、今のわたしは那智なしには成り立たないくらい彼への依存度が高いのだ。酒匂はそれが悪いことではないと言ったけれど、本当にそうだろうか。酒匂にわかるくらいだから、そんなわたしの状態を那智はもっとわかっている筈だ。やさしい彼はなにがあってもわたしを支えようとするだろう。やっぱりわたしは彼を縛っている。そして、なにより恐ろしいのは彼が本当にわたしから離れてしまったとき。そのときわたしはどうなってしまうのか……。
 馬鹿げている。一度は自分から別れを切り出したのだから、今更そんなことを考えるのはおかしい。でも、あんな仕打ちを受けながら、それでもわたしを守ろうとしてくれた彼。そんな彼の姿にきっとわたしは以前にも増してその依頼度を高めてしまったのだろう。

 ひとり悶々とするわたしをよそに、酒匂は頭の後ろに手を組み、車のシートに深くもたれる。彼はわたしのほうを向くと、悩んでいるわたしの姿がたまらなくおかしいといった感じで笑った。
「いいねぇ。このすれ違いな感じが。たまには俺もそんな複雑な恋をしてみたいよ。何せ俺のはいつも至ってシンプル。するかしないかだけだもんな……。おっと、失礼。こういう話題はだめなんだったな」
 相変わらずな話だけれども、おどけて見せる彼の姿にわたしはあまり嫌悪感を抱かなかった。ここのところ常に一緒にいるし、少し彼にも慣れてきたのかもしれない。それでもちょっとため息は漏れるけど、はじめてこの車に乗ったときのことを思えばだいぶましになったと思う。
「ハルちゃんさぁ、那智のキモチって考えたことある?」
 そんなのいくらでもある。どれだけ彼に迷惑をかけているかもわかっている。だからこそ悩んでいるんじゃない。別れようと思ったんじゃない。
 そう言うわたしの言い分に彼は苦笑する。
「そうじゃなくてさ、頼られるってことは結構気分いいもんなんだぜ。たとえばハルちゃんが奴を必要としているように、那智の野郎もハルちゃんを必要としているとしたら?」
 那智が? わたしを必要とする?
「そんなのあり得ないわ。彼は充分に自立しているし、普段から誰かの助けを必要となんてしないでしょ。ましてやわたしなんか足手まといなだけよ」
「そこそこ。そこがなわかっていないんだよ」
 そう言うと酒匂は右手の人指し指をたてて舌打ちしながらワイパーのようにそれを動かす。
「那智の野郎もな、本当はハルちゃんに対する依存度がかなり高いんだぜ。それこそハルちゃんがいなくなったら生きることすらやめちゃうんじゃないかってくらいに」

 酒匂の言った言葉がわたしにはにわかに信じられなかった。あの那智がわたしに依存しているところがあるなんて……。きっとわたしを勇気づけるための酒匂の嘘だ。でも……。
 でも、那智がわたしのことを必要としているかもしれない。それはわたしの心の中に小さな喜びを生み出したのだった。

§12.

「那智の生い立ちについてはハルちゃんも知ってるよな?」
 これを俺の口から言っちゃっていいもんかどうか悩むんだけど、と前置きしてから酒匂はそう話を切り出した。
 さっきまで締まりのない顔でいたくせに、急にまじめな顔をする。ちゃんと自分だけでなく、聞き手の気持ちを切り換えさせる術を知っている。こんなとき彼が人の上に立つ人間なんだと実感させられる。わたしも少しだけ居住まいを正ながら小さく頷いた。
「じゃぁ、青葉とのことは?」
「幼なじみだって言うのと、昔付き合っていたってことだけ……」
「そっか……」
 そう言うと酒匂は黙ってしまった。わたしから見える彼の横顔はどこか遠い目をしていて、珍しく深い思索の海に沈んでいるようだった。おそらくどこから話したものかと考えているのだろう。こうしてみると彼も端正な顔だちをしており、那智のような繊細さがない代りに力強さを感じる。彼も密かに女の子に人気があるのだけれど、こんな表情を見せられるとそれも頷けてしまう。見ている娘は見ているんだ。わたしって酒匂の言う通り、本当に那智しか見ていないんだな……。
 ところで、那智の生い立ちに那珂がなにか関係あるのだろうか? 酒匂の口ぶりだと彼女がなにか鍵を握っているように思える。たしかに幼なじみで生まれたときからのつきあいだとは聞いたことがあるけれど……。そう考えると彼女が那智の人生に大きく関わっていても不思議じゃないのかもしれない。一時は恋人同士だったのだし、別れるときになにかあったのかもしれない。
 ――でも、あの那智が例えば女の子に振られたぐらいで人生を揺るがすような人とも思えない。そうなると二人が別れた原因になにかあるのだろうか?

「那智ってな、あの容姿だろう? 子供のころは結構いじめられっこで友達らしい友達ってほとんどいなかったらしいんだ」
 わたしも酒匂同様に思索の海に浸っていると、不意に覚醒した彼が話しかけてきた。
 彼の言ったことはわたしには初耳だった。考えてみればわたしは那智の過去と言うのをほとんど知らない。家族のこととそれに関係する簡単な生い立ちは聞いていたけれど、そう言ったことまで彼がわたしに話すことはなかった。那智はわたしの過去をほとんど知っているというのに……。一瞬、わたしが那智に信用されていなかったのかと思ったけれども、それは違う。わたしに那智のことまで受け止めるだけの余力がなかったのだ。
 彫りが深くて日本人離れした容姿に栗色の髪。特異な容姿の那智が子供の頃にはいじめにもあったかもしれないことは、確かに容易に想像がつく。でも、そんな簡単なことにまでわたしは考えが及ばなかった。

「那智にとっての全てはそこから始まるんだ……」
 自分の考えに落ち込むわたしを余所に酒匂は話を続ける。
「それでもまだ、奴の両親が健在ならばよかったんだけど、とうに他界しちまっているから奴の味方といったら育ての親でもある祖父さんと、隣に住む幼なじみ……青葉那珂だけだったらしい」
 はじめて知る彼の生い立ちに胸が痛む。孤独な少年期を送る彼はなにを考えていただろう?
「で、そんな下地があった上で奴が高校一年の夏に祖父さんが亡くなったんだ。そして青葉の心変わりが発覚したのもそのころ……」
「それって……」
「そう、その時期に奴は味方となる人間を一度に皆なくしちまったんだ……」
 普段涼しげに微笑んでいる彼の笑顔の裏にそんな過去があったなんて……。
「唯一の身寄りを亡くした直後の裏切りだけに、那智の野郎もそれには相当答えたらしいな。青葉の話だとそれからしばらくは誰とも口を聞かなくなったらしい。俺と出会ったころだって酷いもんだった。偉く冷めた感じで、誰も寄せつけないようなオーラを思いっきり放ってやがった」
 それも頷ける。唯一の味方となる筈だった自分の彼女、那珂に裏切られた傷は相当に深かっただろう。一番そばにいてほしい時に那珂を失ったことで、きっと彼は頼るべき心の縁をも失ってしまったのだ。そんな状況にわたしは耐えられるだろうか? そして、それからわずかの間に他人を支えられるまでに立ち直ることができるだろうか?

 そんなわたしの弱音を聞いて酒匂は笑った。
「奴だってひとりでそこまで立ち直った訳じゃねぇんだぜ」
「じゃあ、彼が立ち直ったのは酒匂のおかげなの?」
 確かにひとりで立ち上がるのはかなりしんどい話だと思う。誰か引き上げてくれる人がいなくては……。でも今も彼の側にいて、彼の理解者である人物といったら、目の前にいる酒匂しかいない。彼はどうやって那智の心を救ったのだろう? わたしの疑問に彼はさらなる謎を吹っ掛ける。
「まさか。確かに俺が知り合ったのはあいつが青葉に振られた直後だったけれど、俺なんかじゃ大した力になれなかったね」
そう言った後で酒匂は肩をすくめて、いたずらっぽく微笑む。
「誰だか全然心当たりない?」
 そんな風に言われれば、想像がまったくつかないわけじゃない。心当たりというか話がこういうパターンできた場合、大抵答えはひとつ。それはわたしだ……。でも、そんなことはおこがましくて自分の口からなんて言えない。ましてやそんな自覚はわたしにはない。常に彼におんぶ抱っこだったわたしが彼を救うなんてできっこない。そう言うわたしの言葉を彼は否定する。
「手をさしのべてひっぱりあげるだけが立ち直らせる方法じゃないんだ」


 那智は孤独だった。頼るべき身寄りを失い、本来その穴を埋めてくれる筈だった恋人と親友にまで裏切られて……。その後酒匂という友人はできたものの、最初のうちはそれすらも表面的に合わせているだけ、友達でいることを演じているように感じられたと酒匂は言った。そのころの那智はまったく生気が感じられなかったらしい。そんな彼が変わったのが高校一年の秋……。ちょうどわたしたちが知り合ったころ。

「立ち直らせる方法って言うのはな、その時々で違うもんなんだよ。躓いた相手がなにを求めているかによってその方法なんざぁ変わるもんなんだよ」
 酒匂はそう言った。そしてそのとき彼が求めていたものは……。
「那智はな、青葉にまで見限られたことで完全に自分の存在意義を見失っちまったんだよ。惰性では生きているもののなんのために生きているのか、なにをすればいいのかさっぱりわからなくなっちまったんだろうな。自分がもしこのままいなくなっても誰も気づかないんじゃないか? もし気づいても気にする奴なんていないんじゃないか? そう考えたら生きるのも馬鹿馬鹿しくなっちまうかもしれねぇな」
 つまりは彼の前にわたしが出現したことで、にわかに彼の存在理由が発生したということだ。
 彼とはじめてあったとき、わたしはぼろぼろだったけれども、彼もまた、ぼろぼろの状態だったのだ。彼と出会った直後、わたしは全面的に男性と言うものがだめになった。それは那智のせいではなく、橿原のうらぎり行為に寄るものなのだけれど、ばらくの間、肉親である父親や弟のリンでさえわたしは受け入れることが出来なかった。そんな中で那智だけが別格だった。彼ならば大丈夫と言うわけでもなかったけれど、彼と一緒のときが、ほかの誰よりも症状が軽かったのだ。原因はわからない。ひょっとしたら窮地からわたしを救ってくれたのが影響しているのかもしれないし、心的外傷後ストレス障害に陥る瞬間のような時に出会ったのがなにか影響しているのかもしれない。とにかくそんなこんなで当面彼がわたしをガードすることになった。彼に対するわたしのなかでの複雑且つ微妙なポジションが彼自身にその存在理由を与えた。

「だから、ハルちゃんは奴に何も与えていないわけじゃないんだ。凄く特殊な関係ではあるけれど、ちゃんとお互いに寄り添っているんだよ」
 そう言う酒匂の笑顔はどこか寂しそうだった。
「さあて、これで俺がハルちゃんを口説き落とせる可能性もなくなっちまったな……、もっともそんな二人の関係を理解しちまうと本気でなんて口説けねぇんだけどよ……」
「酒匂……、わたしのこと本気だったの?」
「本気も本気。俺はいつだって誰にたいしてだって本気だぜ。ただいつもターゲットが複数存在するだけだ」
 冗談めかしているけれども、彼の真実の気持ちがわたしに伝わってくる。それはとても嬉しいし、ありがたかったけれども、でもやっぱりわたしは彼の気持ちに答えられない。彼も心のどこかでそれを望みながらもそれを潔しとしていない。わたしたちの側にいるのはそれなりに苦しいこともあるだろうに、それでもこうして助けてくれる彼にわたしは心の中でそっとお礼を言った。

「まぁ、ハルちゃんにとって本当の彼氏である那智が水面下に隠れている間、こうして恋人ごっこが出来るだけでも役得だわぁな」
 そう言った酒匂はすでに哀愁を漂わせた男ではなく、いつもの彼に戻っていた。
 しかし…
「本当の彼氏か……」
 彼の話から、現在のところわたしと那智がお互いに必要としていることはわかった。その上で切っても切れない関係にあるということも。でも彼は肝心なことを忘れている。わたしたちの間には恋人としては絶対不可欠なものが欠落していることを。わたしと那智の結びつきの中には恋愛感情が含まれてはいない。今のところある種の運命共同体見たいなもので、けっして恋人同士というわけではないのだ。だから……
 酒匂にもまだチャンスはあるかもしれないのよ
 そんな一言をわたしは飲み込んだ。男性恐怖症になってから一年以上たつのにたいして回復が見られない今のわたしが普通に男の子と付き合える日がくるとも思えない。変に期待をもたせるほうが罪だ。いずれ酒匂にはもっと彼にお似合いの女の子がきっと現れる。そうすればわたしのことなんか忘れるだろう。そして那智も……。
 いくら今、お互いを必要としているとしても、それが永遠に続くというわけではない。普通に彼に恋をし、彼を必要としてくれる女の子がきっとこの先幾人も現れるに違いない。そのときにはわたしはもう必要なくなる。今のわたしたちは仮初めの恋人という夢の中にいるだけ。夢はいつか覚める運命にある。

「暗ぇなぁ。そうやって一緒にいるうちにそれが恋愛に発展するとは思わないわけ?」
「恋愛感情に発展したら余計につらいだけでしょ? 好きなのに手も繋げないっていったら……、酒匂なんて耐えられないでしょ?」
 ちょっと言い方が意地悪だったかもしれない。でも何がなんでもと言わんばかりに恋愛に結びつけようとする彼の態度にいささか怒りを覚えたのも事実。まぁ彼にしてみれば、自分が振られた分そう言う思いが強いのかもしれないけれど……。
 そんなわたしに気がついているのかいないのか、彼はまったく普段と調子を変えることはない。
「わかんねぇぜ。逆にそれを期に直るかもしれねぇだろ? 今、ハルちゃんの周囲にいる男であれほどリハビリに適したやつはいねぇからな」
 楽観的な彼の言葉にため息を禁じ得ない。その可能性を全面的に否定はしないけれど、そうならなかった場合はそれこそ最悪の事態を招いてしまう。それならば友達止まりでいたほうがお互いに傷つかなくて済む。それでなくたって那智はわたしの汚れた部分を見てきているのだ。そんな女を恋人なんかにしたら、心的外傷後ストレス障害のことを抜きにしてもつらいに決まっている。
 酒匂の言葉に静かに首を振って答えたわたしを見て、今度は酒匂がため息をつく。いつの間にか車はわたしの家のすぐそばまで来ていた。
「那智ならさ、ちゃんとハルちゃんの今も過去も受け止めてくれるって。いや、もうとっくの昔に受け入れていると思うけどな、俺は。だからあんまり思い詰めて考えないほうがいいと思うぜ……あれ?」
 慰めのような言葉を口にした酒匂が不意に口をつぐみ、前のほうを凝視した。彼の視線の先にはもうわたしの家が目前に迫って見えた。そしてその前に三つの人影。パンチパーマのお兄さんにはさまれるようにして立っている那智の姿があった。


「やられた……」
 それが那智が発した最初の一言。唇を血がにじむほどにぎゅっと噛みしめながら、吐き出すように彼はそう言った。彼のその表情から緊急事態であろうことが推測される。また誰かが襲われたのかもしれない。わたしは彼の様子を見て一遍に正気を失いそのまま詰め寄ろうとした。そんなわたしを制するかのように目の前ににゅうっと手が伸びる。
 やはりそれなりに修羅場をくぐり抜けているのか、こんなときでも酒匂は冷静だった。わたしを制すると同時に那智、そして二人の舎弟へと視線を移し、落ち着いた口調でこう聞いた。
「なにがあった?」
 酒匂の静かな問いかけに答えるかのように那智はまっすぐ彼を見ると、同じように静かな口調で言った。
「……、長良さんが……、死んだ……」
 と……。その瞬間、わたしは目の前が真っ暗になった。

§13.

 そこは木造の古びて薄汚い部屋だった。部屋の隅に置かれた小さな簡易ベッドに私は腰を下ろし、だれかと楽しげに話をしている。一体私はだれと話をしているのだろう? そう思って隣をみると、そこには橿原が私と同じようにベッドに腰掛け、私を見ていた。お互いに見つめ合う状況に少し照れてしまい、言葉がとぎれる。そうしたらすっと自然な感じで彼の顔が近づき、私は唇を奪われた。そしてそのままそっとベッドに横たえられる。
『制服がしわになっちゃう』
 私がそんなことを気にしているのにもお構いなしに彼は私に覆いかぶさるように横になると、再び私の唇をついばみ出す。私は静かに目を閉じると、彼の行為に答えるように口づけを交わした。体の上をはい回る彼の大きな手が、私に心地よい快感を与え、私は彼のなすがままにその身を任せる。気がつけば私はなにも身につけていなかった。やがて彼が進入してくる気配に目を開けると、長良さんが青白い顔をして私に多いかぶさっているのが目に入る。わたしは絶叫をあげながら体を起こした。

 気がつくとそこは、古びた学生寮の一室ではなく見慣れた私の部屋だった。
「夢……」
 頭がぼんやりとしていて、自分がどうしたのか俄には思い出せなかった。
(たしか……わたしはリンのところによって……、それで酒匂の車で家まで送って貰って……)

 わたしが全てを思い出したとき、静かにドアがノックされた。那智?
「榛名……、大丈夫?」
 ドアの向こうから聞こえてきたのは母の遠慮がちな声だった。
 彼女のそんな声を聞くのは久しぶりだ。わたしが橿原にだまされた直後は、彼女はよく腫れ物に触るかのようにそうやって話しかけてきた。あのころは事件直後ということもあって、わたしの状態も本当に酷かったから仕方のないことだったけれども、那智と付き合うようになって今ではかなりよくなった。そのおかげかようやく昔のような家族関係を取り戻しかけた所だったのに、今回のことでどうやらまた、振り出しに戻ってしまったようだった。
 そのことにわたしは気が滅入りそうになるのを無理に励ますと、努めて平静を装った声で答えた。
「大丈夫。ちょっと夢見が悪かっただけだから」
「――そう……、ならいいんだけど……」
 やっぱりドアの向こうから返ってくる声は遠慮がちな小さなものだった。
「ごめんなさい、。起こしちゃって。もう大丈夫だから寝て。わたしも寝るから」
「――そう……、なにかあったら言ってね」
「うん。大丈夫。お休みなさい」
「――お休み……」
 遠ざかっていく足音を聞きながら、わたしは深いため息をついた。
(親不孝だよね。心配ばかりかけて……、わたしも……、リンも……)
 そう思ってふと気づく。リンはわたしのとばっちりを受けただけ。悪いのは全部わたし。わたしが橿原なんかと付き合わなければ……、付き合ったとしてもあれほどまでにのめり込まなければ、こんなことにはならなかったのに。
 そして……もしかしたら最後のあの晩、彼の言いなりになっておけばここまで傷が深くなかったのかもしれない。あの時わたしがみんなの前からいなくなっていれば、こんなふうにいつまでもみんなが傷つかずに済んだに違いない。リンがあんなけがをすることもなかったし、長良さんだって死なずに済んだかもしれない。那智だって……、那智だって、もっと普通に恋をしてたのしい青春時代を送れたに違いない。那智なら、わたしなんかじゃなくてもきっと彼を必要としてくれる女の子が現れたはずだ。

 母にはもう寝るとは言ったものの、一度起きてしまったら目が冴えてなかなか眠ることができない。決して良い印象を持っていなかった長良さんではあったけれども、その死は少なからずわたしに衝撃を与えた様だった。自分でも気持ちが高ぶっているのがわかる。それも負の方向に。
 こんなときはひとりであれこれ考えると全部悪い方向へといってしまう。わたしは布団をかぶるとそのまま朝までまんじりともせずに過ごした。


「あなた大丈夫? 凄い顔よ」
 とは、今朝の今朝の母の言葉。彼女は朝、起き出してきたわたしの顔をみるなりそう言った。そしてその一言でわたしは今日、学校へ行くことを断念した。鏡で自分の顔をみてみるとたしかにものすごいことになっていたから、どのみちそんな状態では学校へはいけなかったのだけれども。
 本当は学校へ行って那智から昨日のことを詳しく聞きたかった。長良さんの死がわたしと関わりがないとは到底思えない。そうであれば夕べ、那智があんな顔をしてわたしの家の前で待っているはずがない。わたしは何があったのか知りたかった。なにも知らないでただ守られているだけなんていやだ。それに長良さんがわたし絡みで誰かに殺されたのだとしたら、きっと那智や酒匂にも危害が及ぶ。それだけはなんとしても避けたい。これ以上わたしのせいでみんなが危ない目に合えば、わたしは自分自身が許せなくなる。
 居間のソファーに座り、ひとりこれからのことを考えていたのだけれど、いつの間にか居眠りしていた様だ。わたしはチャイムの音に眠りの世界から現実へと引き戻された。
(誰だろう? こんな時間に)
 居眠っていたとは言ってもほんのうたた寝ていど。まだ日は高く、両親が共働きの我が家に人が尋ねてくる時間ではない。きっとセールスか何かだ。そう思いしばらく放っておいたけれど、チャイムの音は一向に鳴りやまない。いい加減うんざりして立ち上がりかけた所でピンポン攻撃が止んだ。それで再びソファーに腰を落ち着けたとたん、今度は掃きだしになっている窓がノックされた。
 窓の外の人物はわたしの姿を認めると横を向いて手振りで誰かを呼ぶ。窓枠のフレームの中にもう一つの顔が遠慮がちにひょっこり覗いた。
 満面の笑みを浮かべ、大げさに喜ぶ顔の隣に申し訳なさそうな笑みを浮かべる顔が並んだ。

「あなたたち、学校はどうしたのよ」
 わたしは軽いため息と共に玄関の鍵を開けに向かった。

「残念だなぁ。出てこないもんだからてっきり寝込んでいて寝間着姿がみられるかと思ったのに」
 今のソファーにどっかり腰を据えると同時に酒匂はそんなことを言った。
「あるいはあわてて着替えているとかな」
 ソファーにふんぞりかえってそう言う酒匂は普段とあまり変わった様子はない。隣に座る那智も静かに笑みを浮かべているだけだ。でも那智はともかく、酒匂の目が笑っていない。
「気をつかってくれてありがとう。でもね、酒匂。目が笑っていないわよ」
 わたしの言葉に酒匂はがっくりと肩を落とした。よくみれば二人ともかなり疲れているのがわかる。わたしの一言で我が家の今は重苦しい雰囲気に包まれてしまった。ちょっと自分の失態を悔やんだけれども、酒匂のあの冗談に付き合えるほどわたしも気力はないのだ。
 そんな雰囲気を感じ取ってか、那智が前に身を乗り出すと、顔の前で手を組んだまま静かに言った。
「榛名。しばらく学校を休めないかな」
「えっ?」
 驚くわたしを余所に落ち着いた声で彼は言葉を続ける。
「多分、今が一番榛名にとって危険な時なんだ」
「リンの奴を襲った野郎どもも大体目星がついた。今、ウチの連中が血眼になってそいつらを探している」
 那智の言葉を受ける様に酒匂がそう言う。
「蛇の道は蛇ってな。裏のことは裏の人間のほうが詳しい。多分……、警察よりも先にやつらを見つけることが出来る。そうなったら真犯人も一巻の終わりだ」
「多分、犯人もそれはわかっていると思う。だから信じられない様な強行手段に訴えてくることも考えられるんだ」
 二人の言葉を聞きながら、わたしは別のことを考えていた。
 たしかに二人の言うことはわかる。彼らの言うことが本当ならば、今が一番危ない状況だと思う。でも、それはわたしだけでなく、那智や酒匂も同じなのではないか? 犯人の最終ターゲットであろうわたしはもちろんだけれども、その犯人を確実に追い詰めていく那智と酒匂も充分犯人のターゲットとなり得る。

「長良さんが死んだというのも今回のことと関係あるの?」
 わたしの問いかけに那智はちょっと顔を曇らせた。そして軽くため息をつく。
「長良さんは遺書が見つかったそうだ……」
「遺書?」
 わたしの問いかけに静かに頷く那智と仏頂面をする酒匂
 俺が裏から聞いた情報だけどよと言って酒匂がしてくれた話によると、死因は薬物死。何の薬物かは情報が伝わってこなかったが、青酸カリか何かだと思われるとのことだった。彼の部屋の真ん中に据えられたちゃぶ台の上に突っ伏す様にして死んでいて、その死体の傍らにワープロ打ちの遺書が残されていたのだそうだ。
「ワープロ打ちって言うのがいかにもって感じだろ?」
 話の途中で酒匂はそう言った。しかも遺書の内容がわたしたち関係者には明らかに嘘とわかるものだったのだ。その内容というのが、自分はずいぶんと非合法なことをしてきたが、最近そのことで地元のヤクザとのトラブルに巻き込まれてしまった。とても逃げ果せないので自殺すると言うものだったらしい。部屋にはビデオや写真、オーディオテープと言ったものが散乱し、それが彼が行った非合法なことというのがどういうものかを如実に物語っていたという。
 その話を聞いた瞬間、わたしは自分の顔から血の気が引いていくのがわかった。
「大丈夫。榛名のは全て処分した……」
 那智の言葉にわたしは再びショックを受ける。彼はわたしのそう言ったものを長良さんが持っていることを知っていたのだ……。
「最初から知っていたわけじゃない。ただ一度榛名を送っていった時にポストの中に白い封筒が入っていたことがあっただろ? そのときは何が入っているのかわからなかったけれど、後でリュウから、最初の封筒にはカセットテープが入っていたことを聞いて、それであの部屋の中を見た時にピンと来たんだ」
「那智は長良さんの部屋に入ったの?」
「最初はね、いろいろと確認したくて前の日に部屋を尋ねたんだ。でも何の反応もなくて……、様子がおかしかったから翌日リュウのところの人を借りてこっそり忍び込んだ」
 まるでなんでもないことかの様に那智はそう言って笑った。
「ピッキングのプロがいるからよ。大丈夫、人にみられる様なヘマはさせねぇよ」
「彼の部屋はね、あれできれいに整頓されていてちゃんとご丁寧にラベルに女の子の名前と入手日まで書いてあったから見つけるのは簡単だったよ。何本か抜けているのが気になったけど、多分それが榛名の元に送りつけられた奴なんじゃないのかな」
 那智の言葉にわたしは引っかかるものを感じた。
「何本分くらい隙間があったの?」
「多分、三本か、四本だと思う。きっちり計った訳じゃないけれど、それ以上ということはないよ」
 三本か、四本……。微妙な数字だ。わたしの元へ送られてきたのが二本。そのうちの一本が例のコインロッカーに入っていたものだ。那智の見方が正しいならそのほかにまだ、抜かれたものがあるということだ。それがどうなったのか、長良さんが死んだ今ではわたしたちに知る術はない。
「それがどうかしたの?」
 心配そうに聞いてくる那智にわたしは「なんでもない」とだけ答えた。本当のことを言えば、きっとまた心配していろいろと無理をするに決まっている。彼は既にわたしのために犯罪を侵しているのだ。ただでさえ危険なこの時期にこれ以上の無茶はさせたくなかった。
 わたしの存在が、わたしの周囲までも不幸にしていく……
 今の自分を……、今だけでなくこれまでの自分を冷静に見たとき、そんな気がした。

 皆が口をつぐみ静かになった居間で、酒匂が大きく伸びをする。
「さて、そんな訳だからハルちゃんは当分病気ってことでヨロシク! うちの組総動員してでも犯人つかまえてやるからよ、ちょっとの辛抱だ」
 そう言って彼は勢いよく席を立った。
「リュウ、帰るの?」
「あぁ、腹減ったからな。舎弟達とどっかで飯でも食って帰るわ」
 那智の問いかけに酒匂は笑ってそう答えると、「じゃぁな」と手を上げながらわたしたちに背中を向けた。
「あっ、酒匂……」
「あぁ、そのまま。そのまま」
 玄関まで見送ろうと席を立ちかけたわたしを酒匂が制す。
「二人ッきりになるの、久しぶりなんだろ? これでも気をつかってんだぜ。また犯人が見つかったら忙しくなるんだから、今のうちにゆっくりしとけよ」
 振り向いてそれだけいうと酒匂は肩で風を切る様にして行ってしまった。「アバヨ」の一言を残して。ただわたしも那智も、彼が振り向きざまにウィンクしていったのを見逃さなかった。

 酒匂の姿が消えると、わたしと那智はほとんど同時に吹き出した。
「に……似合わない……」
「確かにね。あの強面がウインクしてもね……」
 ほんの一時のものでしかないけれど、酒匂のおかげでなにか救われた気分になった。基本的に人を茶化すことしかしない彼だけれども、それはそれでちゃんと気をつかってくれているのが身に沁みてわかった。
「笑ったらなんかお腹好かない? 台所貸して貰えたらなにか作るよ」
 一頻り笑った後で、那智が言った。気がつけばとうにお昼を過ぎている。那智の手料理を食べるのは久しぶりだ。そう思って頷こうとして、わたしはふと思い立った。
「ううん、いいわ。今日はわたしがなにか作る。那智は座ってて」
 それがわたしが彼に出来る精一杯の感謝の印。そしてわたしからの精一杯の気持ち。
 那智……、たまにはこの味を思い出してね。

§14.

 那智や酒匂はわたしに暫く学校を休めといった。今が一番危険なときだからと。
 彼らの言い分は充分な信憑性があり、言っていることはわたしにも理解できた。でも納得は出来なかった。
「もし、わたしが隠れることで誰かまた別の人が襲われたらどうするの?」
 わたしの問いかけに那智は笑った。まるでそれが自然にこぼれた笑みであるかの様に。
「もう、犯人たちはそんな悠長なことをしているだけの余裕はないんだよ。リンを襲ったやつらがつかまるのは時間の問題だ。つかまる相手が警察ならば、まだつかまった後も時間に余裕があるだろう。警察にはいろいろと制約があるからね。でももしやつらをつかまえたのがリュウたちヤクザだったら?」
「手段を選ばずに依頼主を問いただす?」
 わたしの答えに那智は静かに頷いた。
「リュウはかなり怒っている。つかまえたら本当に手段を選ばないだろうね」
「――あんまり酷いことはやめてね。わたしの為に那智にも、酒匂にも犯罪者になってほしくないの」
「大丈夫だよ。後二、三日もすれば事件は全て解決する。榛名が姿を現さなければ犯人たちはもう手詰まりなんだから」
 那智は笑ってそう言ったけれど、本当にそうだろうか? 酒匂が手段を選ばない様に、犯人たちももう手段を選んでいられないのではないだろうか? 追い詰めれば追い詰めるほど、わたしだけでなく、わたしの周囲にいるみんなも危険になる様な気がわたしはした。

 もう、これ以上みんなには迷惑をかけられない……。

 みんなを巻き込みたくない。そうは思うものの、それじゃぁ具体的にどうすればいいのかと言うことになると、わたしにもこれという妙案はなかった。いざというときの覚悟はしているけれども、だからといって完全にあきらめたわけでもない。結局わたしはなすすべもなく、那智たちの言う通り翌日から学校を休んで家にこもった。その代わり定期的に親しい人たちの携帯へ電話をかけ、その安否を確認する。那智、酒匂、那珂、五十鈴……。とりあえず皆、今のところは全員無事。四人も単独行動は控え、常に二人組以上で行動する様にしている様だ。必然的に那智、酒匂組と那珂、五十鈴組での行動が多くなる。
 とりあえず、みんなも注意深く行動しているらしいことがわかってわたしの気持ちに少し余裕がでてきた。でも、そんなときほど悪いことは起こるのだ。

 事件が動きを見せたのは、わたしが学校を休んで二日目の夜だった。
 夕方から那珂の携帯が通じなくなった。いくら電話しても「電源を切っているか、電波の届かないところに……」というメッセージが繰り返されるだけ。心配になって那智と連絡を取るために酒匂の携帯に電話する。
「こんなときくらいプリケーでも持てばいのに……」
 普段、お店にいる那智は携帯電話の必要性をまったく認めておらず、持っていない。だからこういうときにはとても困る。もっともわたしも携帯電話は持っていないから人のことは言えないけれど……。
「あっ、酒匂? 霧島だけど那智ってそこにいる?」
 電話に出た酒匂に取り次ぎを頼む。でも心なしか彼の第一声はあわてていた様な気がした。
「あっ、今ちょっと別行動とっていて那智の野郎、ここにはいないんだ」
「じゃぁ、酒匂でもいいわ。夕方から全然那珂に連絡が取れないんだけど何かしらない?」
「……」
 わたしの問いかけに酒匂は黙り込んでしまった。それでわたしはなにかが起こったことを確信した。
「那珂たちになにかあったのね?」
「……」
 暫く沈黙していた彼だったけれども、やがて重い声で答えた。
「俺たちも青葉と五十鈴に連絡が取れないんだ。今うちの組のもんが手分けして探している……」

 又してもわたしたちは判断を誤った。わたしはよく聞かされていなかったので判らないが、リンを襲った犯人に那智たちはだいぶ近づいていたらしい。そのため彼らは油断してしまった。犯人たちはもう追い詰められる一方で反撃の余地はないと思ってしまった。
 わたしは持っている少ない情報を整理しながら考えた。
 犯人たちにとって那珂や五十鈴を拉致したり、危害を加えることに直接のメリットはないはずだ。もしターゲットに含まれているのであればこれまでにも何らかの予兆があってしかるべきだ。考えられるのはただひとつ……。
――またわたしの身代わり……
 それは、本来のターゲットであるわたしに牙を剥けないもどかしさからくる鬱憤を晴らすためか……、わたしを追い詰めおびき出すための餌とするのか……。多分どちらもなんだろう。こうなることも予測してわたしはもう覚悟も決めてある。

――わたしはどうすればいい?

 那珂たちが無事ならば、犯人はきっとわたしとコンタクトをとろうとするに違いない。もし、仮に犯人からのコンタクトがなかった場合は……。 最悪のことを考えると、体に震えが走る。既にひとりの人が命を落としている。那珂たちが無事である保証はどこにもない。

――今のわたしには、彼女たちの無事を祈ることしか出来ないのだろうか?

 薄暗くなった部屋の中で、わたしの目に電話機のシルエットが飛び込む。わたしは無意識のうちに那珂の携帯の番号をプッシュしていた。



「罠だっていうのはわかっていたでしょうに……。本当にのこのことやってくるとはね」 
 あきれた様な顔をしてわたしの目の前に立つ少女が言った。その表情にはわたしのことを馬鹿にしている様な色さえ浮かんでいる。そして、その少女の背後には壁にもたれる様にしてひとりの男がうずくまっている。その男はうずくまりながらも暗くて、冷たい視線をわたしに投げかけていた。それはまるで蛇なんかの爬虫類を連想させる様なねっちこいものを含んでいる。
――本当の爬虫類は円らで結構かわいい目をしてるのにね。
 不思議なことにわたしはそんなことを考えられるくらい冷静だった。
 今のわたしはロープで後ろ手に縛られて汚い廃屋の床に転がされている。縛られるときにちょっと抵抗したので右の頬が腫れているのはご愛嬌だ。この程度のことは既に予測済み。このあとどうなるかだってわかっているつもりだ。最悪この日が来ることを覚悟してわたしは那智ともお別れの挨拶を済ましておいたのだから。

 ――犯人たちと唯一コンタクトが取れそうな方法……、那珂たちが行方不明とわかった直後、わたしは那珂の携帯に再び電話攻勢をかけた。ところがそれまでいくらかけても通じなかった那珂の携帯が今度は一度でかかった。
「もしもし。那珂?」
 相手がでたことにちょっと気をゆるめたわたし。そんなわたしの問いかけに返ってきたのは……。
「青葉先輩は今、彼氏とならんでおねんねしちゃっているわよ。あんまりうるさいからボコボコにしちゃったもの」
 電話の相手は、那珂とは違う少女の声でそう言った。やっぱり那珂たちは犯人に拉致されていたらしい。でも最悪の事態だけは今のところ避けられた様だ。
「那珂たちは無事なんでしょうね」
「とりあえず生きてはいるわよ。ちょっとばかり美人さん、ハンサムさんになっちゃっているけどね」
 そう言って電話の相手はクックックと笑いを漏らす。
「これ以上那珂たちになにかしたら許さないから……」
 怒りのために語尾が震えた。わたしはこの時確信した。狂っている。この娘は狂っている。
「許さないってどうするのかしらね? そんなにこの人たちが大切ならこちらの言う通りにしなさいよね。まずは……」

 犯人の言いなりになることがどういうことになるかは容易に想像ができた。でもまずは那珂たちを助けなくてはならない。
 犯人はわたしをそれこそあちらこちらへ引きずり回した。わたしはまず、携帯電話を買わされると、その後はそれで連絡を取り合うことになり、それによって市内を縦横無尽に歩き回された。歩きながらわたしは最終目的地がどこなのか大体の予想がついた。めくらめっぽうに歩かされている様でも段々とその場所に近づいていっているのだ。
 途中那智たちに連絡をとろうかとも思った。でも、相手から連絡があったときにこちらが通話中だと怪しまれるし、そうなると那珂たちがどうなるかわからない。それに……、これ以上那智たちを巻き込むのも危険だった。
「あんたは常に見張られているからね。変な行動起こしたりしたら、ここにいる二人がどうなるかわからないよ。特にここには飢えた狼が何匹もいるんだからね。青葉先輩がどうなっても知らないよ。あんたが裏切ったらわたしだってこいつら抑えられないからね」
 電話でそう言われたときにはたしかに背後に複数の人の気配がした。下卑た笑い声がかすかに聞こえてきた気がする。多分……、リンを襲った人たちだ。何人いるのかわからないけれど、その雰囲気から那智や酒匂でも危ない気がした。わたしは何よりもこれ以上わたしのせいで傷つく人が出ることを避けたかった。
 でも何度目かの電話では背後で那珂の悲鳴や、五十鈴のうめき声が聞こえた。わたしは電話がかかってくるたびに焦りを感じる。それなのに犯人はそんなわたしをいたぶるかのように、西へ東へと連れ回す。わたしが最終目的地である大学の寮へついたのはもう日がどっぷり暮れた後だった。
 ――そうしてわたしもまた彼女らに拉致された……。


「やっぱり帰って来ていたのね」
 わたしは目の前の少女を無視して後の男に声をかける。
「貴方が全ての糸をひいていたわけね。橿原潮さん?」
 わたしの問いかけに男がゆっくりと顔を上げる。以前に比べてかなりやつれてはいるけれど、わたしがその顔を見忘れるわけはない。ぼろぼろでそのへんの公園なんかにたむろする浮浪者と変わらない様な出で立ちではあるけれど、そこにいたのは紛うことなき昔の恋人、橿原潮その人だった。
 橿原はわたしの問いかけに対しても無言だった。言葉というものを忘れてしまったかの様に口をつぐみ、ただ感情の読み取れない視線を投げかけるだけだ。それとは逆に目の前に立つ少女はハイと言ってもいいくらいにはしゃぎ、時折ローファーの先でわたしをつついたりしながら雑言の限りをぶつけてくる。ほとんどは軽く小突く程度だけれども、たまに息が詰まるくらい思いっきりお腹を蹴られることもある。そしてそんな後は決まってヒステリックに高笑いするのだ。
 那智たちが犯人の力量を見誤ったことを非難できないわね。
 わたしはその日何度目かの苦痛に顔をゆがませながらそう思った。わたしもこの娘にすっかりだまされていた。おとなしく猫をかぶった表の顔とは別に、なにか別のものが潜んでいると感じたこともあったけれど、これまで怪しい素振りをほとんど見せたことがなかっただけにすっかり油断していた。思慮が足りなかったといえばそれまでだけれども、実際はミステリー小説を読むみたいにはいかないのだ。
 わたしは自分の愚かさに気づいたとき、おもわず自嘲した。
「なにがおかしいのよ」
 真犯人のひとり、東雲伊吹があきれた様にそう言った。
「自分の立場がわかっているの?」
 わざわざしゃがみ込んで、わたしの顔を覗き込む様にして彼女はそう言う。本当ならぞっとするであろう狂気の光に満ちた彼女の目も、今のわたしには自嘲を煽る道具にすぎない。
「すっかりあなたにだまされちゃったわね。千歳ちゃんがあなたにとって恰好の隠れ蓑になってくれた」
 そう、すっかりわたしのなかで彼女は橿原潮の従姉妹、千歳の影に隠れてしまっていたのだ。千歳ちゃんが派手にわたしに敵意を向ければ向けるほど、彼女はその影に埋もれる。もともと千歳ちゃんが持っていたそれを、彼女がうまく利用しただけなのか、それともあの娘もこの二人とグルなのか……。今ここに彼女がいないと言うことは、多分利用されただけなのだろう
「千歳? あぁ……」
 伊吹ちゃんは立ち上がると、再び馬鹿にした様にわたしを見下ろした。
「あの娘は結構役に立ったわね。あの娘がアンタを憎んでいるのは知っていたから、それをちょっとばかり煽ってあげたのよ。もともとはおとなしい娘なんだけど、結構いろいろとやってくれたわね。剃刀レターやら何やら、結構陰険だったわね」
 伊吹は彼女をも嘲笑するかの様にそう言った。その瞬間、橿原の顔がゆがんだ様に見えたのは気のせいだったのだろうか?
 それにしても、人というのは買ったと思った瞬間、自分の優位性を相手に誇示したくなるものなのかもしれない。でもそうやって全てを聞かされるということは、その相手は聞いたことを絶対に口にすることが出来なくされると言うことだ。そして今、この場にいるのは……。
「わたしをつかまえたんだから、もう人質の必要はないでしょ? 那珂と五十鈴を離してあげてよ。わたしはもう一切抵抗しないし、しようと思っても出来ないんだから」
「馬鹿じゃないの? 顔を見られているのに開放するわけがないでしょ。大丈夫、あなたと彼女はセットで来月あたりには海外旅行をしているわよ。二度と日本には戻ってこれないでしょうけどね。五十鈴先輩は……、やっぱり一緒に海外旅行ね。でもすぐにもっと遠い所へ行くことになるでしょうけど」
「どういうこと?」
 伊吹ちゃん……、東雲伊吹は恐ろしいことを顔色ひとつ変えずに平然と言い切った。大体の予想はつくけれど、わたしは自分たちの未来について反射的に聞いてしまった。
「わかるでしょ? あなたたちは売られるの。もうじき組織の人間が来るころよ。そうしてあなたたちは海外に連れて行かれて、多分体を売ることになるわね。男も女も。ただ売り方が男女でちょっと違うかもしれないけれどね」
 そう言って伊吹はまたクックックと笑った。そしてそれで橿原の借金を返済するのだという。彼女の言葉を聞いて五十鈴が悔しそうに顔を歪めた。那珂は気丈にも殴られて腫れ上がった顔で彼女を睨んでいる。結局二人はわたしの巻き添えをもろに食らってしまったわけだ。
「ごめんね。那珂……、五十鈴……。こんなことに巻き込んじゃって……」
「なに言ってんの。簡単には売られないわよ。どんな組織に売るにしろ、この辺のシマは全部酒匂組が仕切ってんだから、海外へ移される前に龍ちゃんが気づくわよ」
 わたしの言葉に那珂がそう言い切る。たしかにそれがわたしにとっても最後の望みだ。でもそんなことは彼女たちだって知っているはず……。
「酒匂組にだって手を出せないルートもあるのよ」
 優越感に浸った顔で伊吹はそう言うと、那珂のお腹を蹴りあげる。くぐもったうめき声と五十鈴の怒鳴り声が部屋にこだました。
「やめてよ。わたしたちが絶望的な状況だということはわかったから……」
「学年首席のお利口さんはわかっても、こちらのお馬鹿さんはわからなかったんじゃないの? そう言うお馬鹿さんは体で覚えて貰うしかないのよ」
「大切な商品なんでしょ。それ以上傷つけたら買いたたかれるわよ」
 わたしの言葉に伊吹は忌ま忌ましそうに顔を歪め、最後にもうひと蹴りして二人から離れた。そうしておいて隣の部屋から男たちを呼ぶと、わたしたち三人に猿ぐつわをかませたのだった。
「深夜の学生寮に近づく酔狂な人はいないと思うけど、これ以上騒がれるのもまずいからね」
 彼女はそう言ったけれど、わたしはそれどころではなかった。猿ぐつわされるときに男に触れられ、また発作が起こりかけていたのだ。ひとり震えるわたしと、唯一の抵抗手段を奪われ、なすすべもなく床に転がる二人。
 那智たちは今、どうしているのだろう? 伊吹のいう組織の人間達はいつやってくるのか。
 不安と絶望のなかで夜は更けていく。

§15.

 どのくらいの時間が経ったのだろう?
 一時間? ひょっとしたら三十分位かもしれないし、あるいはもっと長いかもしれない。人の時間に対する感覚は非常に曖昧だ。それがわかっているから敢えて自分の感じる時間よりも短く考えるけれども、本当はもう何時間もこうしている様に思えてしまう。拘束され、猿ぐつわまで噛まされた今のわたしには時間が本当に長く感じられる。
 猿ぐつわをされてからというもの、わたしたちは一言も発していない。声を出そうにもくぐもった意味不明の音しか出せないのだから仕方のないことではあるけれど、三人とも身じろぎひとつしなくなった。
 一方の犯人側……、橿原潮と東雲伊吹と言えば、はじめのうちこそ伊吹が橿原になにか話しかけたりもしていたけれども、それに彼は一切反応しなかった。ただ、ただ、暗い瞳でわたしのほうを睨み付けているだけだった。そんな橿原にあきらめた様に伊吹も話すのをやめてしまった。彼女の嫉妬にかられた様な激しい視線がわたしに突き刺さる。そうかと思えばそれはじきに嘲笑に代わり、また睨まれる。そんなことの繰り返しだった。

――ここに来たときからわたしにはずっと引っかかっていることがあった。それは橿原と伊吹の関係。
 そう言えば、長良さんにして貰った面通しの結果、聞いていなかったなぁ……。
 いまさらながらにそんなことを思い出す。橿原と伊吹の繋がりは、考えてみてもわからない。想像がつくのは彼女が橿原のもうひとりの本命である可能性。もしそうなら、前にわたしが売られそうになったのも、彼女が後から糸を引いていたのかもしれない。愛しい彼の借金を完債し、そのうえライバルを抹殺できるのだから。
 これまで橿原が主犯とばかり思ってきたけれど、東雲伊吹が主犯である可能性がわたしのなかで膨らみつつあった。

 考える時間が豊富にあるというのは良いことなのだろうか? 未だ彼女たちの言う組織の人間が来る気配はない。おかげでわたしはこれまでのことをいろいろと整理することが出来た。
 以前のことはともかく、今回は橿原と伊吹が主犯。どちらが本当の主犯なのかは定かでないけれど、そんなことは問題じゃない。そして、千歳ちゃんはきっとわたしへの怨み(おそらくは橿原を見捨てたことに対する)を伊吹に利用されただけ。きっと伊吹が彼女を焚きつけて、わたしに嫌がらせをさせると同時にそれを自分の計画の隠れ蓑としようとしたのだろう。
 わからないのは長良さん。彼はこの面子のなかでは橿原とぐらいしか面識がないはずだ。どの段階で計画に加わったのか? それとも彼は単独犯で、偶然にも時期が重なった。あるいは状況を把握した上でチャンスと見て単独で動いたのだろうか? でも、それならばなにも殺されることはなかったはずだ。

「敵の敵は味方って知ってる?」
 那智の言葉が脳裏に蘇る。
 そうか……、そう言うことだったんだ。
 長良さんと橿原・東雲ペアとではきっと目的が違う。長良さんがわたしに向ける視線は肉食獣が獲物を狙うそれ。結局はわたしが彼にそういう目で見られていたということ。あんなテープを持っていた人だ。きっとわたしと橿原のことを盗み見とかもしていたのだろう。それで自分もあわよくばとでも入ったところだったのだろう。それに気づいた伊吹にうまく彼も利用されたのだ。
 東雲伊吹の敵である霧島榛名の敵、長良は東雲伊吹にとっては味方……、ううん、都合のいい手駒のひとつだったわけだ。でもそれだと彼が殺される理由がわからない。それとわからぬ様に利用されていただけならば彼から足がつくことも……。
 それでわたしはとあることを思い出した。千歳ちゃんを面通しした日に伊吹のところにかかってきた電話のことを。あの後彼女の様子がおかしかった。長良さんが面通しで彼女の正体と同時にその悪事を知り、脅しをかけてきたのだとしたら……。
 バラバラだったピースが繋がった気がした。そしてわたしのこの想像が正しかった場合、わたしたちは本当に最悪の事態に追い込まれたこととなる。何故なら長良さんの面通しによる情報はまったく那智たちにとって意味をなさなかった可能性が高いのだ。そしてリンを襲った人たちもここにいるとれば……。

 ――那智たちはここにたどり着けないかもしれない。
 那珂と目が合う。彼女はわたしの顔を見ると悲しそうな顔をして首を振った。悲しそうではあったけれど、彼女の瞳からは力強い意志が感じ取れた。
 あきらめちゃいけない
 彼女の目がそう言っていた。
 そう、ここは那智のお店、吾眠とは目と鼻の先。灯台もと暗しとはいうけれど、逃げ出すことが出来たならすぐにでも助けを求めることができる。
 わたしはそう自分を叱咤し、くじけそうになる心を支えた。せめて那珂と五十鈴だけでも助けなくては。


「ねぇ、いくらなんでも遅すぎるんじゃない?」
 不意に伊吹が橿原に問いかけた。
 彼女はさっきからずっと時計を気にしていたが、どうやら約束の時間になってもわたしたちを売るはずの相手がこないようだ。本来なら既にわたしたちはなすすべもなく売られてしまっていたのかと思うと、体中に震えが走る。それと同時に形容しがたい焦燥感に襲われた。もう時間がない……。
 伊吹に言われて橿原もちらりと時計を確認するが、その表情からは一切の感情を読み取ることが出来なかった。まったくあせりもいらだちも見せないことから考えるとこの程度……、といってもどのくらい予定が送れているのかはわからないのだけれども……、の遅れは予想の範囲内なのかもしれない。でも二人の様子からいつ、わたしたちの買い手が到着しても不思議ではないことは読み取れた。
 もう手段を選んではいられなかった。使い古された手ではあるけれど、お手洗いに……。そう思って騒ごうとした瞬間、廊下から靴音が響いてきた。

 ――遅かった……。

 静かに……、けれど確実に近づいてくる足音。
 それがわたしたちのいる部屋の前で止まったとき、わたしは諦めと共に覚悟を決めた。ただ、那珂と五十鈴だけは許して貰えるように懇願してみようと思った。もはやそれしかわたしにも出来ることは残っていないのだ。

 カタッ!
 暫く間を置いたあとで徐に部屋のドアが開けられた。でも、開け放たれた扉の向こうにいたのは、わたしが想像したような人物ではなかった。やって来たのはてっきり人買い(っていうのか知らないけれど)の怖そうなお兄さんだとばかり思っていたのに、わたしの目に映ったのは同じ高校の制服に身を包んだ少女だった。
 予想外の珍客に驚いたのはわたしだけではなかった。那珂や五十鈴もその少女に視線が固定されていたし、もうひとり……、わたしたち以上に狼狽した人物がいた。

「ち……千歳。なんでここに!?」
 戸惑っているのは突然の珍客、橿原千歳も同じだった。彼女は伊吹の問いかけを無視するかのように橿原のほうへ歩み寄る。

「潮兄ちゃん……、どういうこと?」
 彼女の詰問するような口調に、これで助かるかもしれないという安堵の気持ちと、このままでは彼女も危ないという危惧の思いが生じた。いくら橿原でも自分の従姉妹まで売るようなことはしないだろうとは思う反面、ここには狂気に捕らわれた東雲伊吹もいる。彼女なら友達でも売るかもしれない。いや、そもそも彼女が千歳ちゃんのことも友達と思っているかどうかさえ怪しい。橿原と伊吹の力関係がわからないだけに、わたしは気が気ではなかった。
 千歳ちゃんが伊吹を無視したように、橿原も彼女の問いに対しなにも答えようとはしなかった。ここにきてわたしはまだ彼の声を聞いていないことに気づいた。ただ、橿原は言葉は発しなかったけれども、はじめて無表情だった彼の顔に感情の色が浮かんだ。彼はいらだたしげに千歳ちゃんを見上げる。にらみ合うようにしている二人を伊吹がさらにその背後から忌ま忌ましげに睨み付ける。
 みんなの注目が千歳ちゃんに集まっていた。
 わたしはゆっくりと部屋の中を確認する。わたしが部屋の中央付近に転がされているのに対し、橿原が出口付近の壁にもたれ、その前に千歳ちゃん。その背後に伊吹という構図。その三人とわたしをはさむようにして反対側に那珂と五十鈴が転がされている。那珂たち二人から窓まではさほど距離はない。灯がもれないように暗幕で覆い隠されているけれども、ここの窓は以前わたしが突き飛ばされたくらいで簡単に抜けてしまったのだから、拘束されているとはいえ体の大きい五十鈴あたりがぶつかればきっとはずれるだろう。

 わたしは目線で五十鈴に計画を伝える。窓のほうを向き顎をしゃくってやると、五十鈴は一度橿原たちの動きを確認したあとで首をたてに振った。とりあえず五十鈴と意思疎通が出来たことを確認し、わたしはまた視線を橿原たちに戻した。伊吹は、わたしたちに背を向けているから大丈夫だろうけれど、橿原は部屋中を見渡せる絶好のポジションをキープしている。今は、千歳ちゃんに注意が注がれているが、もし五十鈴なんかが大きく動こう物ならすぐに気づいてしまうだろう。なんとか彼の視線をずらさないと……。

 わたしはゴロゴロと転がりながら橿原たちのほうへと近づく。突然動きだしたわたしに、橿原たちの視線が集まる。転がりながらわたしは五十鈴たちの動きも確認する。まだ五十鈴は動いてはいない。彼もまた驚いたような顔をしていた。でもわたしの意図を感じ取ってくれたのだろう。やがて彼の表情にも緊張が走った。
 橿原と伊吹の間を転がるように抜ける。そのときに散々蹴られたお返しに伊吹の足を引っかけてやった。彼女はバランスを崩しそうにはなったけれども、なんとか持ちこたえ、わたしに睨みを聞かせた。
「なにすんのよ、このアマ!」
 体制を建て直した彼女の足が脇腹に突き刺さる。息が詰まりそうになるのを必死で堪え、わたしは千歳ちゃんの足元まで転がると彼女の足にもたれるようにして体を起こした。そしてそのまま彼女を背中で押すようにして、外へと導く。拘束されていない千歳ちゃんなら、ここでわたしが二人をくい止めれば逃げきれるかもしれない。それにこうやってこちらに注意を引きつけておけば、五十鈴たちの脱出の可能性も高くなる。どちらかが脱出に成功すれば、わたしたちみんなが助かるかもしれないのだ。
 けれど、千歳ちゃんを背に庇うようにして後退るわたしを見て目の前の少女が嘲笑を浮かべた。
「逃げられると思ってるの? 隣の部屋にはさっきの男たちがまだいるのよ。わたしが一声かければすぐにやってくるわよ」
 顔に張りついたような笑み。目が据わっている……。
「前は失敗しちゃったけどね。今度こそ絶対にやっかい払いしてあげるわ。目障りなのよあなた……。あなたさえいなくなれば潮さんはわたしだけを見てくれるわ」
 つと一歩前に踏み出す彼女。その表情は狂気に捕らわれている。この娘、まるでパラノイアだ……。
 例えようもない恐怖に捕らわれながら、わたしは五十鈴の様子をうかがった。彼は注意深く、ゆっくりと窓のほうへ移動を開始していた。まだそれにはだれも気づいてはいない。もう少し時間を稼げれば、彼は窓に到達できそうだ。
 どうする?
 わたしは自問自答を繰り返す。騒ぎを大きくして、隣の部屋にいる男たちまでやってくると面倒だ。
「さぁ、無駄な抵抗はやめておとなしく売られちゃいなさい。わたしと潮さんの未来のために」
 また一歩伊吹の足が前に進む。まるでそれはネコが追い詰めたネズミをいたぶるような動きだった。真綿で首を絞められるような強迫観念に捕らわれる。彼女が前に進むのに合わせて、無意識にわたしは後退ろうとして背中になにかがあたった。それが頑にわたしの後退を阻んでくる。
 千歳ちゃん?
 恐る恐る振り返ると、千歳ちゃんが硬い表情をしたまま立ち尽くしている。彼女も突然の親友のうらぎりに心がついてきていないのかもしれない。
「むむんむ……」
 彼女を現実に引き戻すべく名前を呼んでみるが、猿ぐつわに阻まれて意味不明の音が漏れるにとどまる。なんとか部屋の外に出ようとさらに背中に力を入れてみたが、彼女はぴくりとも動くことはなかった。そんなわたしの足掻きを伊吹が嘲笑する。反面、橿原は一切の表情を変えることなくただ冷たい目でわたしを見るだけだ。彼は血のつながった従姉妹すらも見捨てようというのだろうか?
「あらあら、千歳は恐怖のあまり足がすくんじゃったみたいね。おかげで霧島センパイが逃げられなくなっちゃった」
 笑いながら伊吹がまた一歩前に足を踏み出す。
「千歳、最後の最後まで協力的で嬉しいわよ。でもね何でかは知らないけれど、こんなところまでのこのこやって来たあなたが悪いのよ。かわいそうだけど霧島センパイ達と一緒に海外旅行を楽しんでね」
 勝ち誇ったような伊吹の笑顔。でもそれはわたしの目にはとても醜く写った。前に那智のお店にいた人懐っこくてかわいい東雲伊吹とは到底同一人物には思えないほどの豹変。人の顔とはこれほどまでに変わるものなのだろうかというくらいに醜くゆがんだそれにわたしは恐怖より嫌悪感を覚えた。そんな彼女の顔を見たくなくて顔を背ける。瞬間わたしの背中を支えていた壁がなくなった。
 後に倒れると思って身構えた瞬間、強い衝撃が背中を襲い、わたしはつんめのるようにして前に倒れ込む。拘束された体は勢いをまったく殺すことなく、わたしは顔面から床へと倒れ混んだ。

 一瞬、なにが起こったのかわからなかった。おでこから床に頭突きを喰らわせるように倒れ混んだわたしは、しばらくの間その激痛からなにも考えられなかった。苦痛にのたうち回るわたしの頭上から伊吹ちゃんの声が降りてくる。
「わたしが売られる? 勘違いしないでよね。売られるのは伊吹、貴女のほうよ」
 静かだけれども重く威圧感に満ちた声。わたしは己の耳を疑った。
 千歳ちゃん、あなたまでなにいってるの? 売るの売られるのって……。あなたも最初からぐるだったの?
 疑問ばかりが頭の中を駆けめぐる。
 一体だれが味方でだれが敵なのか……。なにが真実で、なにが嘘なのか……。
 千歳ちゃんの豹変に伊吹も我を忘れたように唖然としている。誰もが今、なにが起こっているのかを把握できないでいた。皆の背後をいざる様にして窓際へ移動していた五十鈴迄もが、突然のことにその動きをやめてしまっている。静まり返った部屋の中を千歳ちゃんの声が静かに制圧していく。誰もが彼女の威圧感に圧倒されていた。
「もう一度いうわ、伊吹。売られるのはわたしではなく貴方。それは最初から決まっていたことなのよ」
 あぁ、もうわたしにはなにがなんだか……。

§16.

 東雲伊吹にとってはまさに青天の霹靂、飼い犬に手を噛まれるとはこういうことなのか……。
 単なる道具と思っていた娘のいきなりの反乱に、伊吹は鳩が豆鉄砲を喰らった様な表情をしている。彼女にもなにが起こったのか理解できていないのだろう。否定の言葉にも声に力が入っていない。
「な……、なに寝言言っているの? 頭おかしいんじゃない?」
 そんな伊吹の言葉にも、千歳ちゃんは明らかに嘲笑とわかる笑みを浮かべるだけ。なにを言われようと自信タップリに落ち着きはらっている千歳ちゃん。そんな彼女と対照的にどんどん落ち着きをなくしていく伊吹。二人の立場は完全に逆転していた。
「かわいそうにね、伊吹」
 そう言う千歳ちゃんの声はとても冷たくて、その言葉とは裏腹になんの哀れみも感じさせない。
「利用しているつもりで、実は自分のほうが利用されていたなんてまるでピエロじゃない? 凄く滑稽よ」
「な、なんでアンタにそんなこと言われなけりゃいけないのよ! わたしはただ、潮さんのために一生懸命やってるだけじゃない! アンタにはなんにも関係ないじゃない! 早く借金返さないと……、う、潮さんは……、潮さんは……」
「潮さん、潮さん、潮さん! いいかげんうんざりするわ」
 周囲をまったく無視したかの様に女の戦いが繰り広げられる。
「アンタがそんなだからね、売られる羽目になるのよ」
 千歳ちゃんはそう言うと醜く顔を歪めた。
「知ってる? 前も最初売られる予定だったのはそこに転がっている女じゃなくて、アンタのほうだったって」
「う……嘘よ……」
「本当よ。アンタは潮兄ちゃんのためとかいいながらいつも自分の欲望を満たしていただけ。独占欲が強くて、なんでも束縛しようとするアンタにいいかげん潮兄ちゃんも息苦しくなっちゃったのよ。けれどね、アンタじゃ買いたたかれて全額返済にはほど遠い金額にしかならなかったのよ。哀れよね」
 千歳ちゃんの屈辱的な言葉に今度は伊吹の顔がゆがんだ。睨み付ける様な目で千歳ちゃんを見据える。そして橿原はそんな二人を冷やかな目でまるで自分とは無関係であるかの様に見つめていた。わたしは橿原の態度に怒りを覚えた。彼がすべての元凶であるくせにずっと蚊帳の外にいる。
 一体何様のつもり!
 それが今のわたしの偽らざる気持ちだった。まるで使い捨ての道具の様に女の子の気持ちを弄ぶ彼の姿にわたしは、それでもそんな彼を巡って争う二人の少女に哀れみすら感じてしまう。結局は何だかんだと言っても二人ともこの男に踊らされているだけなんだ……。
「――潮さん……。貴方、この女を捨てたみたいに今度はわたしも捨てようって言うの? それで従兄弟の千歳に乗り換えるって言うの? なんでよ! わたし一生懸命貴方に尽くしてきたじゃない。逃亡中の生活費だって出したし、隠れ家だって用意した。それなのになんでよ!」
 泣きながらにそう訴え、すがりつく伊吹を橿原は冷たく突き放した。勢い余って彼女は後へと転がり、わたしにのしかかる様にして止まった。横になっているわたしのお腹にもたれる様にして、伊吹は信じられないといった顔で橿原を見上げた。きっと今、彼女のなかでもこれまで信じてきたものが一気に瓦解しているのだろう。その昔わたしが彼に裏切られたときと同じように。
 一度裏切りを働いた様な男は、またそれを繰り返すのよ。
 あれほどまでに自分を痛めつけた相手にわたしは同情し、心の中でそうつぶやいた。今となっては東雲伊吹に対する憎しみや反感は消え失せてしまった。結局彼女もわたしと同類なのだ。
「伊吹、アンタも馬鹿よね。そこの女なんてとっくの昔に潮兄ちゃんに見切りをつけて新しい男作ってんのに。もっともあれだけの事されたら普通逃げるわよね。アンタ、明日は我が身って言葉知らないの? お嬢様っていうのは何だかんだ言って甘いのね」
 千歳ちゃんの言葉に伊吹はただうつむいて唇を噛みしめていた。ついさっきまで勝ち誇った様にわたしに接していた彼女の姿はもう、どこにもいない。伊吹の発するかすかなつぶやきがわたしの耳に届いた。
「信じられない……、潮さんが千歳なんかと……。ずっと千歳のこと怖がっていたのに……、いつもなにするかわからないって……」
「伊吹、あなたとてつもない勘違いしてるわよ。わたしと潮兄ちゃんはなんでもないわ。まぁある意味利害が一致しただけね」
 伊吹のつぶやきは千歳ちゃん……、ううん、橿原千歳の耳にも届いた様だった。彼女は馬鹿にした様に伊吹を見下ろしながらそう言った。
「わたしにはどうしても目障りで消したい女がいた。潮兄ちゃんにもいいかげんうんざりして始末したい女がいた。ターゲットはそれぞれ違ったけれど、うまくやれば二人同時に処分できるんじゃないかってことになったのよ。」
 青白い顔をしながらも、それでも伊吹は橿原と千歳を睨む様にして見上げ、その視線を外そうとはしなかった。
「その女だけならわたしと潮兄ちゃんだけでも充分だったけれど、ターゲットにアンタも含まれちゃったから、潮兄ちゃんが仲間に引き入れたのよ。で、アンタと潮兄ちゃんの間でその女を売るって計画を立てて、その裏でわたしと潮兄ちゃんで二人まとめて売っちゃうっていう計画を実行していたのよ」
 犯人グループもしょせんは烏合の衆でしかなかったわけだ。お互いがお互いに相手を利用することばかり考えていて、その最終勝者が橿原と千歳だったということだ。そんな犯人グループにいいように振り回されたのはちょっと情けないけれど、でもそれならまだ脱出のチャンスはあるかもしれない。
 わたしは注意深く部屋を見回す。
 目の前には伊吹が相変わらずわたしにもたれるようにして座っている。その目の前には橿原と千歳が仁王立ちし、形成が逆転する前と二人の位置が逆転した形だ。そして五十鈴はと言えば窓まであと少しのところまで移動したまま犯人グループの思わぬ対立に動けないでいた。つまり今、五十鈴のほうに目が向いているのはわたしと橿原たちに裏切られた伊吹だけ。
 東雲伊吹は、橿原千歳を利用し、彼女の陰に隠れてわたしを売ることで橿原の借金を清算しようとした。でもいつの間にか……、二人の会話からすると最初から二人はそのつもりだったみたいだけれど、橿原潮−千歳間でわたしを売ると同時に伊吹も抱き合わせで売られる計画が立てられていた。そうして伊吹は自分の計画通りに事を進めているつもりで着実に自分自身をもその罠のなかに落としこんでいたのだ。
 今、伊吹は窮地に立たされている。今の彼女はわたしたちと同類だ。ひょっとしたら彼女の協力を得られるかもしれない。積極的な協力を得られなくても、ただ彼女は五十鈴の動きを黙って見ていてくれればいいのだ。彼女だってこのまま千歳の思惑通りに売られるのはいやだろうし、いまさら自分を裏切った橿原に義理立てすることもないだろう。
 五十鈴に目配せで脱出作戦の再開を告げると、わたしは東雲伊吹の動向を注意深く見守った。五十鈴もしばらくこちらの様子をうかがった後、意を決した様にゆっくりと注意深く動きだした。さっきまでとは比べ物にならないほどに慎重で、見ているほうがじれったくなる様な動きだけれども、それはきっと五十鈴も新たな敵橿原千歳を伊吹以上に危険な相手と判断したからなのだろう。気は急くけれども、それ以上にそんな五十鈴の配慮が頼もしく思えた。
 伊吹は千歳を睨み付けたまま微動だにしなかったが、一瞬だけはっとした様に目を見開いたてその後はまた千歳を睨み続けた。そんな彼女の様子にわたしをわたしはハラハラしながら見守った。表情を変えたのはきっと五十鈴の動きをその視界の角にとらえたから。もしそれを二人に気づかれたら……。
 わたしの心配を余所に、橿原は相変わらず冷めた様な目でわたしたちを見下ろし、千歳はニヤニヤといやな笑みを浮かべながらやっぱりわたしたちを見下ろしているだけだった。とりあえず気づかれた様子のないことに胸をなでおろす。が、未だ取引相手が現れず、計画が狂っているはずなのに余裕のある表情を崩さない千歳の姿に新たな不安を覚える。伊吹が主導権を握っていたとき、彼女はあんなにもいらだっていたと言うのに……。彼女は一体なにを考えているの?
 不意に千歳が体をひねり、振り向こうとした。それに反応してわたしが猿ぐつわの内側からくぐもった悲鳴をあげると、彼女は馬鹿にした様に鼻先で笑う。
「それでわたしの気を逸らしたつもり? でもお生憎さまね。わたしはさっきまでずっと見ていたのよ。あなたたちの考えていることなんてお見通しなんだから」
 千歳の言葉にわたしは彼女よりも五十鈴のほうを見た。彼は窓際の壁にもたれかかり、なんとかして立ち上がろうともがいている最中だった。
 がんばって! あと少し……、立ち上がりさえすれば……
 そう思った瞬間だった。
「潮兄ちゃん、さっきから背後を大きな芋虫が這ってるんだけど」
 まるで揶揄するかの様な千歳の台詞。それに反応するかの様にゆらりと橿原の体が搖らいだ。五十鈴もそれに気づき焦るが、両手足を縛られているため思う様にならない。焦るほどにかえってその動きが損なわれていく。橿原はそんな五十鈴に対し、まるで獲物を弄ぶネコの様にゆっくりとなぶる様に近づいていく。五十鈴がようやくのこと窓にもたれるようにして立ち上がったときには、橿原はもう彼の目の前にいた。
 感情と言うものが抜け落ちてしまったかのように一切表情を変えることなく立ちつくす橿原は、さながら幽鬼のようで変にすごみがある。そんな彼を見て、昔はこんな人じゃなかったのにとこんな時だけどちょっと感傷的になってしまう。そんな風になってしまうほどこの二年と言う歳月が彼にとって辛いものだったのかと思うとちょっと同情もするが、全ては彼の身から出た錆。それより今は、私たちがここから逃げ出すことが最優先事項だ。

 ゴン!
 鈍い音が部屋に響く。
 わたしが後に移動したためもたれかかっていた伊吹がバランスを崩し、後頭部から床に倒れこんだのだ。その音に一瞬、橿原と千歳の注意がこちらに向く。それを見た五十鈴がその背に体重をかける。しかしわたしが突き飛ばされたときにはいとも簡単に突き抜けた窓はびくともしない。五十鈴が今度は少し上体を前に倒し勢いをつけようとしたところへ、それに気づいた橿原の手が伸びる。それを避ける様に五十鈴が後へと倒れこむ。
 ガシャンと五十鈴の体が硝子窓にぶつかる音がし、そこで彼の体が止まる。橿原の手が彼の襟首を掴む。次の瞬間ガタンと大きな音がして窓が外れ、五十鈴の体が窓に張られた暗幕にくるまれる様にして外に消えた。
 その手から無理やりもぎ取られる様にして獲物を取り逃がした橿原が外を覗き込む。窓から乗り出す様にした彼の体が鈍い音と共にまるで見えない壁に弾かれたかの様に後へとのけぞる。橿原の背に隠されていた窓の外にはがっしりとした強面のパンチパーマのお兄さん。そしてその隣に部屋の灯を反射していつもより茶色く見える髪に彫りの深い顔だちをした美少年。彼はわたしの姿を見つけるなり、口元だけをほころばせて言った。
「やぁ、榛名。ずいぶんと煽情的な恰好しているじゃない。ひょっとしてお楽しみの最中だった?」
 そう言う彼の目は笑っていなかった。


 ゆっくりと威嚇するかの様に窓から入り込んできた新たな侵入者に皆がその動きを止めた。橿原は赤く腫れ上がった頬を抑える様にしてしりもちをついたまま固まっていたし、伊吹は驚愕と安堵の入り交じった様な複雑な表情を浮かべながらわたしの目の前に横たわっている。そしてあの千歳ですら体をわなわなと小刻みに揺らしながら立ち尽くしていた。でも……、このなかで一番彼に射すくめられていたのは多分わたし……。
 突然の侵入者は口元にシニカルな笑みを浮かべながらも、その姿を現したときからずっとわたしから視線を外すことはなかった。彼は怒っている。そしてその怒りの大半は犯人グループではなく、このわたしに向けられている。
「榛名にそういう趣味があったとは知らなかったよ。残念ながら僕はノーマルだからそういう趣味はないけれど、リュウあたりが見たら涎でも流しかねない光景だね」
 怖い……
 わたしはこの時すでに恐慌状態に陥っていた。シニカルな笑みを浮かべた彼の口から漏れるやっぱりシニカルな台詞は全てわたしに向けられたもの。今度こそ本当に彼に愛想を尽かされたかもしれない。氷のように冷たい彼の視線が突き刺さるのを感じたとき、わたしは伊吹よりも、橿原よりも、そして千歳よりも彼に恐怖を感じた。散々彼と別れようとしたのに、今この瞬間、彼に見捨てられると思ったとたんにまるで自分自身を喪失してしまいかねない恐怖にわたしは捕らわれてしまったのだ。
 信じられないほどの威圧感を携えながらゆっくりと歩みを進める那智を見て、千歳が急に笑いだした。
「霧島榛名もついに温厚な彼氏に見切りをつけられたみたいね」
 そう言うと彼女は再び勝ち誇った様にわたしを見下ろした。自分でも顔から血の気がひいていくのがわかった。自分でもそう思っていたことなのに、人の口から言われると改めてその事実を突きつけられたようで惨めだった。
「いい気味よ。これまで散々いい思いしてきたんだから、後は落ちるところまで落ちればいいのよ!」
 彼女の言葉に怒りを覚えたわたしは少しだけ冷静になれた。
 わたしがこれまでいい思いをしてきた?
 たしかにしあわせだと感じた時期もあった。でもあの事件以降は苦しいことのほうが多かった。そんなわたしを那智はやさしく受け入れてくれていたけれど、そんな彼になにも応えられない自分をどれだけもどかしく思ったことか。
 那智に見切りをつけられるのは仕方がないと思える。それを受け入れられるかどうかは別にしても理性では納得が出来る。でもそれを関係ない彼女にとやかく言われるのは我慢が出来なかった。
「反抗的な目をしちゃって。でもねそれが事実なんじゃないの? 女王様の御世はもうおしまいなのよ」
 そう言って高笑いする彼女。そんな彼女を前にわたしはただ唇を噛みしめることしか出来なかった。女王様と呼ばれて、以前那珂がわたしに言った言葉が蘇る。
「端からみると榛名がなっちゃんのことどっしり尻に敷いていて、いいようにこき使ってみえるんだから。」
 本当にそうだったのかもしれない。それを思うとなにもいえなかった。そんなわたしを見て千歳は満足そうに微笑むと那智に向き直る。
「羽黒センパイもこんな女に見切りをつけて正解ですよ。センパイもてるんだからもっと青春を楽しまなくちゃ」
 満面の笑みを浮かべて那智にそう言う千歳。豹変する彼女の態度にわたしばかりか伊吹までが目を丸くした。そんななか那智だけが驚いたふうもなく口元をゆがませる。
「いいかげん傍若無人に振る舞い、自らを窮地へと落としこんでいくわがままなお姫様に愛想を尽かす。そしてそれまでの愚かな自分に気づき目を覚ましたら、仇であったはずの女の子が急に魅力的に見える様になって恋に落ちる……、なかなか面白いストーリーだね」
 ずいっと那智の足が一歩踏み出される。その瞬間、千歳の顔が強張った。
「勘違いして貰っちゃあ困るよ。僕はどんなことがあっても榛名を見限ったりしない。ひとりで空回りしてどんなに振り回されたってね。僕は榛名がどれだけ悩んで空回りしているかわかるつもりだよ。榛名がいい思いをしてきただって? 冗談じゃない! 榛名はずっと地獄を彷徨ってるよ」
 それはわたしにはおろか、千歳にとっても予想外の台詞だったに違いない。ずいぶんな言われようだったけれども、わたしには涙が出そうになるくらい嬉しい台詞。でもわたしはそんな今聞いたばかりの言葉を俄には信じられなかったし、千歳も驚愕の表情で彼を見つめた。とっさのことに呆然とするわたしとじんわりと泣きそうに顔を歪めていく彼女。
 この娘、那智のことが好きだったんだ……。
 わたしは彼女の様子を見てそう思った。
 今にも泣きそうな顔をしていた千歳だったけれども、すんでのところでそれは堪えた様だった。それでもしばらくは唇を噛みしめ、那智を睨み付けるだけだった。
「そう……、まだこの女にだまされているのね……。かわいそうな人……」
 彼女のつぶやきがわたしの耳に届く。
「この女が地獄を彷徨っているですって? 嘘よ。この女はこれまで充分いい思いをしてきているわよ。男を取っかえ引っかえね。その証拠を今、聞かせてあげる。これを聞けばあなたも目を覚ますわ」
 そう言うと千歳はポケットから携帯用のテープレコーダーを取り出した。わたしは猿ぐつわの奥から悲鳴が漏れるのを止めることが出来なかった。テープレコーダーにセットされているもの。それはきっとあの長良さんの部屋から消えていたわたしと橿原の事を盗聴したテープ。それだけは彼に聞かれたくない。
 でも、今のわたしに出来るのは彼女の足元でイヤイヤと小さく首を振ることだけだった。那智の顔も強張るのが見て取れた。
 そんなわたしたちを尻目に高く掲げられたテープレコーダーの再生ボタンに千歳の指がかかった。

§17.

 テープレコーダーの再生ボタンにかかった千歳の指に力が入る。
 スローモーションの様にボタンがゆっくりと沈んでいく。
 那智がずいっと一歩踏み出す。
 その瞬間、目の前を白い影が横切った。
「まったく、陰険な女だな」
 頭上からの声にわたしが顔をあげると、千歳の腕が何者かによってひねりあげられ、その手からテープレコーダーがこぼれ落ちるところだった。
「酒匂!」
 おもわずわたしは猿ぐつわのその裏から、新たな救世主の名を呼ぶ。
 酒匂の恰好はいつのも学生服じゃなく、白いソフトスーツのしたに真っ赤なシャツ。あんたはジュリーか! って出で立ちにやっぱり白い帽子を目深にかぶって顔を隠していた。
「リュウ。遅いよ……」
「へへ……、一番おいしいところは俺が頂きだな。どうだいハルちゃん。俺のほうが頼りになるだろ?」
 さっきまでの緊張感を吹き飛ばす様な二人の会話。そして酒匂はそう言うと帽子を指で押し上げてニヤリと笑う。気障だけど純粋培養のヤクザの若様だけに様になっている。でもそれも同じ目線でいればのこと。足元に寝ころがるわたしには帽子で隠した顔も最初っから丸見えだった。酒匂、かっこよく登場したわりに間抜けすぎ……。
「あれ? かっこよくなかった?」
 わたしと目線があった瞬間、彼はさも以外だと言う様に驚いて見せた。別にかっこよくなかったわけでもないんだけど……。
 とにかく酒匂の登場でこの部屋の空気が一変した。それまで張りつめていたものが一気に緩和される。那智もふぅ、と一息つくと、ゆっくりとわたしのほうへやってくる。止まりかけていた時計の針が息を吹き返した。
 ゆっくりと、でも確実に動きだしたわたしたちに対し、犯人側(と言っていいのかどうか今ではわからなくなってきたけれど)の時間は止まったまま。千歳は酒匂に腕をひねりあげられて顔を苦痛に歪めながらも、わたしを睨み付け、伊吹は目まぐるしく変わる展開についていけないかの様に茫然自失の状態。橿原もようやくショックから立ち直ったかの様に座り込んだまましきりと左右にふっている。その背後では那智と一緒に窓から入ってきたお兄さんが那珂の拘束を解きにかかっていた。
 那智は前にひざまずくと、わたしの口に噛まされていた猿ぐつわをそっと外してくれた。那智の手でわたしの口に含まれていたタオルがつまみ出される。タオルに吸い取られた唾液が口との間に糸を引くのが見えてわたしは顔が真っ赤になった。糸を引いた唾液が口元にたれる。あわててぬぐおうとして手に縄が食い込んだ。
「ねぇ。これも早く外してよ」
 おもわずそんな言葉が口をついてしまった。
「危険も省みずに助けに来た恋人に対する第一声がそれ? なにか他に言うことないのかな?」
 ぐっ。たしかに……。
「ご……、ごめんなさい……。助けにきてくれてありがとう。だから早く縄をほどいて」
「なんか、全然感情こもってないよね?」
 こいつ……、完全に遊んでいる。楽しそうな笑みを浮かべながら那智はそう言うとわたしの顔を覗き込んだ。そのうえ、「いいんだよ。別に無理に感謝してもらわなくてもね」なんて言ってわたしの束縛を解く素振りすら見せない。この男、以前五十鈴が言っていたけど最悪の陰険男だ……。こうしている今も、彼はまったく動こうとしない。わたしもなんとなく意地になっちゃって那智を睨みあげた。
「ちょっと! あんた達こんなところで痴話喧嘩? 時と場合を考えなさいよ!」
 拘束から開放された那珂がわたしたちを見て叫んだ。その声にわたしは我に返り、もう一度那智に哀願しようとした瞬間、今度は酒匂のチャチャが入る。
「ハルちゃん、こいつ陰険だろ? 俺のほうがよっぽど頼りになるぜ。どう? 今からでも遅くないぜ。俺に乗り換えない?」
「馬鹿リュウ! 口説くのは後にしなさい! 早くこいつらつかまえちゃってよ。隣の部屋にも危ない連中が何人もいるんだから」
 那珂の叱責にも酒匂は余裕の笑みを浮かべる。
「隣の部屋も今頃片づいているぜ。うちの若い衆でもとくに荒くれなのが十人はいったからな。残るはこのお嬢と、そこの腐れ野郎だけだ」
 酒匂の言葉でこれだけ大騒ぎしたにもかかわらず、誰も助っ人がやってこないわけがわかった。いつも余裕を決めて後手をふまされていた二人だけれども、最後の最後できっちり決めてくれたみたいだった。酒匂の言葉に伊吹は呆然とする。彼らが制圧されて一番堪えるのは彼女だ。なにせ連中は彼女が雇った彼女の戦力だったのだから。手駒を奪われた今、彼女はただのか弱い女の子に過ぎない。
「ちなみに、お前が当てにしているだろう売人達もこねぇぜ。ここに来る前にうちの組が総力をあげて説得したからな」
 酒匂は千歳の顎を取ると、普段の彼からは想像できない様な……、まるで野獣の様な鋭い目で彼女を見据えながらそう言った。
 総力をあげて説得って……。どんな説得をしたのか……。後に尾を引かなければいいのだけれど。
 酒匂の言葉に立ち上がりかけていた橿原が崩れる様にして床に座り込んだ。反対に千歳はそれをきいて狂った様に暴れ出した。それは不意をつかれた酒匂がおもわず手を離してしまうほどの暴れようだった。足元に転がるわたしもその余波で何度かけり飛ばされる。見かねた那智が体を拘束するロープを掴んでわたしを引きずった。
「なんでよ! なんでいつもみんな、その女なのよ!」
 悲痛な叫びだった。酒匂の戒めを振りほどいた彼女の視線が、那智の手によってようよう壁にもたれる様にして座らされたわたしに突き刺さる。
「潮兄ちゃんのときもそうだった。そして羽黒先輩もそう。なんでみんなその女なのよ! なんでよ! なんであなたはわたしが好きな人をみんな持っていっちゃうの? なんでよ! なんとか言いなさいよ!」
 まるで堰を切った様に溢れだす彼女の言葉。その言葉達がわたしの心を絡め捕る。ゆがんではいるけれど、この娘も本当に好きだったんだ。橿原のことも、那智のことも。かつてわたしが橿原のことを好きだった様に、同じときに彼女は従兄弟のあの男を好きになり、そしてまたわたしが那智の手で橿原から受けた傷を癒しているときに彼女は那智と出会い、彼を好きになった。彼女の行く手には常にわたしが立ちふさがる。少なくとも彼女にはそう思えたのだろう。
 彼女を歪めてしまったのは自分なのかもしれない……。そんな風に思えた。それと同時にわたしが那智に甘えなければ……、そう言う悔恨の気持ちすら芽生える。わたしが那智に助けてもらった後、彼に甘えずひとりで自分と立ち向かってさえいたら、彼女はわたし抜きで那智と出会えた。そうしたらわたしも、彼女も、那智も……、皆の人生が変わっていたかもしれない。彼女はこんなにも屈折することなく、那智と恋におちて、那智はもっと普通の恋を……、青春を謳歌できたかもしれない。わたしの存在が全てを狂わす……。
 わたしのからだから力が抜けていくのがわかる。壁にもたれる様にしている上体がズルズルと滑り落ちる。そんなわたしの体を那智があわてて支える。
「馬鹿野郎! そう思うなら戦えよ! 正々堂々と戦ってハルちゃんから那智を奪い取る努力をして見ろよ!」
「勝ち目がある訳ないじゃない。皆その女にだまされてメロメロなんだから! 全部その女がいけないのよ! その女が皆を不幸にするんだから!」
 あぁ、やっぱり……。わたしは存在してはいけないのかもしれない。わたしさえいなくなれば……。
 そう思ったとき、わたしは強い力で無理やり引き立たされた。
「たしかに君にとっては榛名は不幸の原因に見えるんだろうね。でも逆に榛名にしてみれば君が皆を不幸にしているともいえるんじゃないか?」
 わたしを支える様にして背後に立つ那智の言葉。それは普段の彼からは考えられない、冷たく突き放す様な声だった。
「こういうのは表裏一体でね、誰かにとって利益になることは、大概別の人の不利益の上に成り立っているものさ。全ての人に利益をもたらす行為なんてものは望むべくもない。でもね、自分の利益のために故意に他人にとって不利益となる行為を働くことは許されないんだよ」
 振り返ると、那智は冷たく千歳を見据えていた。その瞳に浮かぶものは怒りでもなく、蔑みでもなく、ましてや哀れみといったものでもない。全てを切り捨てた様な、橿原と同じようでいて、でもどことなく違う、一切の感情を切り捨てた様な目だった。その目を見れば、彼が千歳を諭す様に話していながら、その実完全に切り捨てていることがありありとうかがえる。それは千歳にもわかったのだろう。彼女は那智の言葉を聞きながらもギリッと唇を噛みしめたあと、自虐的な笑みを浮かべた。
「馬鹿な男。だまされているのに全然気づかないなんてね。今に見てなさい。その尻軽女、きっとまた新しい男を捕まえて乗り換えるに決まってんだから」
 ゆがんだ口元から独り言の様に漏れる言葉。それを聞きとめた那智がなにか言おうとするのを酒匂がとめた。
「やめろ! これ以上追い込むな!」
「それなら君だって同じだろ? それが常に成功したかしないかの違いだけで」
 酒匂の声に那智のそれが重なり、そして千歳の顔色が変わる。そのの顔は屈辱に歪み、この時になってはじめて彼女は涙を流した。酒匂が彼女に飛びつくのと、千歳がテレコを出したのと反対のポケットに手を突っ込むのが同時だった。ポケットから手を出させまいと酒匂が必死に彼女を拘束する。
「馬鹿野郎! こういう手合いはキレるとなにするかわかんねぇんだ。やたらと追い込むやつがあるか!」
 酒匂は那智に向かって罵りながらも懸命に千歳を押さえ込もうと試みる。しかし千歳もそれを許すまいと懸命に暴れる。そしてポケットからは透明な容器に入った黒い液体が現れる。さすがにそれを見た那智も顔色を変え、千歳を押さえつけにかかった。が、それは千歳を余計に暴れさせる結果となった。そして彼女が取られまいと高く上にかざした手からそのビンがこぼれ落ちる。
 パリン
 乾いた音と共に三人の後へ飛んだビンが弾け、床に黒い染みを作る。部屋の中に急速に揮発性の強い刺激臭が漂いだす。それを見た千歳がクックックと乾いた笑い声を立てる。
「死んじゃえ。みんな死んじゃえ!」
 皆の視線が、床の黒い染みに集中している好きに、千歳の手には銀色のオイルライターが握られていた。
「やべ!」
 酒匂が顔色を変えてそれを奪い取ろうとするがその前に火が灯される。それを見て酒匂と那智はさすがに千歳と距離を取った。
「ち……、千歳……、それは」
 千歳の行動に……、正確には彼女が手に握りしめているものを見て、もうひとり顔を青ざめた人物がいた。橿原だ。
 そんな彼に彼女はクスクスと笑いかける。
「これ? そう、潮兄ちゃんのライターよ」
 そう言うと彼女はぞっとする様な目で彼を見た。すでにまともじゃない。狂気が宿っている。
「潮兄ちゃんのものがどうしても欲しくてね。前に部屋に遊びに行ったときにこっそり貰ってきちゃったの。それがこんなところで役に立つとはね」
 そう言って彼女は笑った。
「実はね、最初っからみんなにはここで死んでもらうつもりだったのよ。もっともわたしの予定では死ぬのはその女と、伊吹、潮兄ちゃんの三人だけの予定だったんだけどね」
「な……、なんで……」
 震える声で伊吹が尋ねた。
「言ったでしょ。処分したい女がいるって。確実に処分するには売るよりも殺すほうがいいに決まってるじゃない。でもそのときにあんたと潮兄ちゃんを生かしておくと足がつく可能性が高いじゃない。だから三人痴情の縺れのうえでの無理心中みたいになってくれればよかったのよ。まぁ、売人がきてスムーズにことが運ぶならそれでもよかったんだけどね。一度ドジ踏んでいる潮兄ちゃんじゃァ、相手もあまり信用しないと思ったから、一応確実に処分できる方法を用意しておいたのよ。そうなる可能性のほうが高いと思ったしね」
 突然の告白にその場にいたみんなが固まっていた。一番ショックを受けていたのは橿原かもしれない。千歳が伊吹はおろか橿原までもだましていたなんて……。
「ひょっとして……長良さんを殺したのもひょっとしてあなたなの?」
 わたしはそう彼女に問いかける。彼を殺したのは伊吹のほうだと思っていた。彼女も何らかの秘密を長良さんに握られ、脅されていた。だから彼を殺したのだと。でも、こうしてみると彼女に人を殺せるかどうかあやしくなってくる。わたしは千歳の犯行だということを根拠はないものの確信にめいたものを感じた。でもその反面、彼女にわたしの問いかけを否定してほしいと願う。でもそれが彼女のことを思ってではないことをわたしは知っている。彼女が長良さんを殺した犯人でなければ、今のこの状況も全てポーズである可能性も出てくる。そんな自分本位な考えに、我ながら嫌気がさした。
「長良? ああ、あの変態ね。伊吹も危ないコマを使ってくれたものよね。ああ言うのは諸刃の剣になるってことをまったく理解していなかったんだから」
 そう言って、千歳は笑う。わたしは目の前が真っ暗になる気がした。やっぱり彼女がやったんだ。
「別にそれで伊吹がどうなろうと知ったことではなかったけれど、それで計画がおじゃんになっちゃわたしも困るからね。誰の仕業かすぐにわかる様な脅しをかけて、あの人から芋づる式にズルズルなんてのは困るのよ。だから代りに始末してあげたのよ。それについては伊吹に感謝してもらいたいくらいだわ」
「こりゃ、ヤクザ顔負けだな……」
 酒匂があきれた様につぶやいたが、わたしはそれ所ではなかった。このままではみんなここで火に巻かれて死ななくちゃいけなくなる。那智もそれに気づいたのかゆっくりとわたしのほうに後退ろうとした。
「だめよ! 動かないで!」
 千歳の言葉に那智は再び固まる。彼女の手は先に黒い液体がこぼれた方へと差し出される。こぼれた液体の正体がなにかはわたしにはわからなかったけれど、灯油かガソリンのようなものだろう。そのふたつでどのくらいの違いがあるのかわからないし、わかったところでわたしでは匂いだけでは判別がつかない。でも、それは小さなことの様に思えた。どのみち爆発するか、そこまで行かなくてもあっと言う間に火がまわり、わたしたちは命を落とすことになるだろう。

「どうすれば、みんなを助けてくれる? 僕が君と付き合えばいいのか?」
 暫しの沈黙のあと、那智がそう彼女に質問した。那智のその問いかけに誰も驚くものはいなかった。今はとにかく彼女をなだめるしか方法がないのをみんなが知っていたのだ。それでも那智は千歳から見えない様に後に手をまわし、落ち着く様に合図だけは送ってきた。わたしは千歳の反応を見るべく、彼女を見据えた。彼女の口元に笑みが浮かぶ。

「だめよ、もう手遅れ。」
 那智の言葉に彼女は笑ってそう答えた。
「その女を忘れてわたしに簡単に気持ちを切り換えられるほどあなたは器用な人じゃないわ。それに今のわたしを見て、それでもわたしと付き合えるほど融通のきく性格でもないでしょ。もうみんなおしまい。みんな一緒に死ぬの」
「――壊れてやがる……」
 千歳の台詞に酒匂が苦虫をかみつぶした様な顔でつぶやく。伊吹が絶叫して、部屋の外へと逃れようとする。
「いやぁ! 助けて! 誰か助けてよぉ!」
「動かないで! 本当に火をつけるわよ!」
 千歳の恫喝に伊吹は頭を抱えうずくまる。そしてそのまま嗚咽を漏らし続けた。
 酒匂がポリポリと頭をかきながらゆっくりと歩きだした。
「やれやれ、那智もやっかいなやつに惚れられたもんだなぁ」
 まるで他人事の様に呑気な感じでそう言う。
「動かないでって言ってるでしょ!」
 千歳の恫喝に耳を貸すふうでもなく、酒匂は相変わらずゆっくりと千歳の前に円を描く様にして歩み寄る。
「那智が正真正銘お前のモンになればみんなは助けてもらえるのか?」
「言ったでしょ? 絶対にそうはならないって」
「いやよ、クスリつかえば何とかなるぜ? その代わり壊れちまうけどよ。壊れたモン同士、ちょうどいいんじゃねぇのか?」
 酒匂はそう言うとニヤリと笑った。
「そんで代りにハルちゃんは俺が貰う。まっ、ハルちゃんも一筋縄じゃ落ちねぇだろうからこっちもクスリつかうしかねぇかもしれねぇけどな」
 酒匂のなめる様な視線にさらされてわたしは身震いした。彼の真意がわからない。何らかのアクションを起こすために千歳の気をそらそうとしているだけだと思うけれど、彼の視線には本当に邪悪な光が含まれている様にも感じた。
「信じられると思うの? これまで二人にベッタリだったあなたの心変わりを。そんなことが出来るならとっくの昔にやっているでしょ? 万年片思いのヤクザ崩れが」
「いやよ、俺にしたって親友を裏切るにはやっぱ、それだけの大義名分ってものがねぇとな。ハルちゃんはほしいけど、親友を裏切って壊しちゃうのはよ……。でもまぁ今なら、それでみんなの命が助かるならそれも仕方ねぇかと思ったわけだ」
 そう言って酒匂は那智のほうを振り向く。
「ってわけでよ、悪ぃがみんなのために犠牲になってくれや」
 那智の顔が青ざめるのが見えた。彼にいつもの余裕がない。
 酒匂本気なの?
 那智のそんな様子が酒匂の言葉が本気である証の様に見えた。酒匂にもいつものじゃれ合いとは違った凄味があるけれど、那智の余裕のなさは本物だ。いつもの冗談では済まない空気が二人の間に漂う。千歳もそれを察知した様だった。
「どうやら本気みたいだけれど、だからって完全に信用も出来ないわね。本気だっていうなら今、目の前でクスリを打って見せてよ」
 ニヤリと千歳の口元がゆがむ。出来るわけがないと思っているのだろう。彼女の手はまだ黒い染みのうえに差し出されたままだ。
「そうしたら、みんなを助けるか?」
 酒匂の言葉に千歳は「できたらね」とだけ答えた。酒匂は小さく頷くと顎をしゃくる。それに答える様に千歳の後にいた(那智と一緒に進入し、那珂を助けた)ヤクザが「おい」と一声発する。そうすると瞬時に戸口に二人の男が現れ、両側から挟み込む様にして那智を拘束した。千歳の後にいる男が懐から小さなケースを取り出す。
「やめて! わたしはどうなってもいいから、那智には手を出さないで!」
 気がつくとわたしはそう叫んでいた。
「リュウちゃん! 見損なったよ! あんた榛名に目が眩んで親友を売るつもり!」
 那珂も彼の背後からそう叫んだ。
「悪いね。俺は本来快楽主義者なんだ」
 酒匂の言葉に那珂が瞳を潤ませる。その様子を千歳は満足げに眺めていた。
 「おい」という酒匂の合図でケースを持った男が那智のほうへと歩み寄る。那智を拘束していた男のひとりが、彼の腕をまくった。那智は青ざめた顔をしながらもあきらめたように無抵抗だった。
「スマンな。まぁこれもみんなのためだ。悪く思うなよ」
 悪びれたふうもなく、酒匂が那智にそう言う。それをきいて那智が「頼みがある」とつぶやく様に言った。
「榛名には……、榛名にはクスリはつかわないでくれ。全部僕が引き受けるから他には誰にもひどいことはしないでほしい」
 最後の言葉とも取れるそれにわたしも那珂も嗚咽した。それを千歳だけが楽しそうに笑いながら見ている。
「麗しい愛情ね。反吐が出るわ。見てなさい。今にわたししか見えない様に変えてあげるから」
 そう言って高笑いする千歳の横を男が通りすぎようとする。その瞬間、彼女の手がグイっとねじ上げられた。不意をつかれた千歳の手からライターが離れる。
 おもわず悲鳴が漏れた。下は油のしみこんだ床だ。
 千歳の腕をねじった男はあわてるふうでもなく。落ちるライターを足で蹴飛ばす。ライターは黒い大きな染みから離れて床に落ちた。それを見た上で男は千歳の手を離すと、ライターを拾いに向かう。その瞬間、床から火の手が上がり、それがなめる様に床を這った。ビンが落ちたところ意外にも黒い油はあちこちに飛び散っていたのだ。
 みんながあわてて飛びのくなか、千歳だけが呆然とした様にその場から動けないでいた。

「危ねぇ。逃げろ!」
 酒匂が千歳に呼びかけるが彼女は虚ろな目で那智を見つめているばかりだった。酒匂の舎弟が上着を脱ぎ、次々と飛び火していくのを消そうと試みるがそんなものではどうにもならない。床を這う炎が黒い染みに達した瞬間、大きな火柱があがる。それが傍らに立ち尽くす千歳を飲み込んだ。
「千歳!」
 部屋を裂くような絶叫と、彼女を呼ぶ橿原の声が部屋にこだまする。

 火はあっと言う間に天井に達し、周囲に火の粉を降らせはじめる。部屋中が真っ赤に染まっていた。
「銀さん、そっちを頼む。窓から逃げろ! おい那智! ハルちゃんは自分でなんとかしろ! 逃げるぞ!」
 一番最初に我に返った酒匂が皆に指示を出す。那智も銀さんと呼ばれた男も頷くとすぐさま自分達の割り振られた荷物を抱えた。
「きゃっ!」
 那智にお姫様抱っこされ、わたしは悲鳴を上げた。それにかまうことなく那智は走り出す。
「おい! そこのあまっ子、早く来い! 焼け死ぬぞ」
「若いの! そっちの窓から飛び出せ!」
 酒匂の舎弟達が伊吹や橿原を促すなか、酒匂が先導して道を造り、その後をわたしを抱えた那智が続いて火の海を彷徨った。煙にまかれ、息が苦しくなる。ぱらぱらと降りかかる火の粉がわたしの、そして那智の肌を焼く。
 もうだめ……
 そう思った瞬間、わたしたちは玄関から転がる様にして外に飛び出すことができた。重たい体を引きずる様にして安全圏にわたしたちが逃れるのと時を同じくして古い学生寮の建物の屋根が轟音と共に焼け落ちる。
「間一髪だったなぁ……」
 酒匂が誰に言うでもなくそうつぶやいた。
 わたしたちはただ、夜の空を焼き焦がす炎を呆然と眺めた。

§18.

 ただ呆然と立ち尽くし、燃え盛る炎を見ていたわたしたちだったけれど、不意に那智がわたしの視界を塞いだ。
 パチン!
 次の瞬間左の頬に痛みが走る。返す手でもう一発。今度は右の頬に。
 突然のことに呆然とするわたしはそのまま彼に抱きすくめられた。
「無事でよかった……」

 わたしの肩にもたれる様にして頭をのせた那智が暫くの沈黙のあと、やっと絞り出す様に吐いた言葉はそれだけだった。でもその一言でどれだけ彼がわたしのことを心配してくれたかがわかった。そこには普段の感情を押さえ込みすかした様な彼も、怒りを歪めて皮肉屋になった彼も存在しない。ただストレートに自分の感情をあらわにした素の彼がいた。
 彼の腕に抱き留められているというのに、不思議と拒絶反応はでなかった。はじめて触れる彼の体はとても温かい。久しぶりに感じるそのぬくもりはとても心地がよかった。しかしそっと彼の背に手を回した瞬間、やせている様に見えたその背中が意外とがっしりして広いのに気づき、わたしは急に心臓の鼓動が早くなるのを感じた。そのまま体中から力が抜けていき、その場にペちゃんと座り込む。急に支えをなくした那智が、もん取り撃つ様にわたしの上に倒れこみ、そのままわたしは押し倒されてしまった。
「ひっ!」
 おもわず口から短い悲鳴が漏れる。でもそれだけ。以前の様なひどい症状は現れなかった。那智があわてた様にわたしの上から飛びのく。
「ご……、ごめん」
 顔を真っ赤にし、慌てふためく那智。彼のそんな姿に知らず知らずのうちに笑みがこぼれる。完全に仮面の剥がれ落ちた彼の姿に、ひどい事件だったけれども、それでもその中で得るものがあったのかもと感じる。彼のなかではきっとなにかが変わるだろう。そしてわたしは……。
 わたしはそっと彼の前に手をさしのべた。
「ごめんね。さっきまで平気だったのに、那智も男の子なんだなぁって意識したら急に力が入らなくなっちゃったの」
 差し出された手の意味を図りかねたかの様に戸惑った様子を見せながら、彼はわたしの言葉に耳を傾けた。
「まだ、男、羽黒那智との接触は無理だけど、人間、羽黒那智なら大丈夫みたい」
 そう言うわたしに彼は「なにそれ?」と言って笑った。それでもわたしの「起こしてくれる?」と言う言葉に素直に従い手をとってくれた。ぎゅっと手を握られたとき再び腰が砕けそうになったけれども、なんとか踏ん張れた。わたしも一歩前進かな。
 那智の手に引っ張られて立ち上がると、わたしは那智の顔を見た。彼はちょっと微笑んだあと、燃え盛る寮のほうへと視線を移す。赤く燃え盛る炎が彼の顔を染め上げ、ただでさえ彫りが深く、くぼんだ様な目に暗い影を落とした。わたしも彼にならい寮のほうを見る。
 気がつけば一緒に逃げ出したはずの酒匂や彼の舎弟の姿が見えない。わたしたちは暗がりでただ二人たたずみながら無言のまま燃え落ちる寮の建物を見ていた。

 一瞬のうちに火に包まれ助けることのできなかった命があのなかで燃えている。那智に抱き抱えられる瞬間、炎のなかで千歳ちゃんが那智に向かって手を差し出そうとしたのをわたしは見てしまった。ゆがんでしまったが為にかなうことなく燃え尽きた想い。やっぱりわたしという存在が彼女をそこまで歪めてしまった様に思えた。
「千歳ちゃん……、だめだよね……」
 自然と涙がこぼれる。わたしが彼女を殺した様なものだ。
 わたしの問いかけに那智は無言だった。
「千歳ちゃん……、かわいそう……」
 那智が静かに振り向いた。
「ただ純粋に橿原を……、そして那智を好きになっただけなのに、わたしがいたから彼女がゆがんでしまった……。」
 わたしもゆっくりと那智のほうを向く。
「わたしが……彼女を殺しちゃったのね……」
 考えるのつらくて、言葉にするのがつらくて、最後のほうは掠れてしまった。そのまま彼の胸にすがりつきたかったけれど、そうやって救いを求めることすら罪な様に思えた。自分だけしあわせになるなんてできない……。
「彼女の想いは最初から歪んでいた。きつい言い方だけれどもお世辞にも純粋っていえるものじゃなかった」
「そんな風に彼女の想いを歪めてしまったのはきっとわたしなの……」
 わたしの言葉に那智は軽くため息をつく。
「歪んでしまったのは冷たい様だけど彼女自身の問題なんだ。例えば君と僕が出会うことなく、あからさまに彼女が僕に好意を寄せてきたとしても、多分応えることはできなかった。僕がすっぱり断ったとしたら彼女はどうしただろう?」
 わたしは首を横に振った。わたしと彼女では考え方も違うし、そんなことはわからない。いくら考えても想像の域をでないのだ。含むところがないわけではないけれど、なくなった人のことをこれ以上悪くも言いたくはない。
 そんなわたしの態度に、那智は再びため息をつく。
「想像でしかないけれど、多分僕が憎しみの的になっていただろうね」
 そう言って那智は再び燃え盛る炎へと視線を移した。
「恋愛が成就するひとつの条件にはね、お互いの想いが均等である必要があると思うんだ」
「均等?」
「そう。均等……」
 那智は目の前の炎を見つめながらそうつぶやいた。
「要はバランスの問題。例えば僕が榛名に10の気持ちをぶつけたとする。そのとき榛名から2とか3の気持ちしか帰って来なかったら……、いまの僕達の関係はあり得ないと思うんだ」
 わたしは静かに頷いた。
「自分が2とか3しか気持ちを返せない様な相手から10の気持ちをぶつけられたら、きっと誰でも戸惑うんじゃないかな」
「つまりは千歳ちゃんが10の気持ちをぶつけてきたのに那智も、橿原も2とか3しか返せなかったってこと?」
 わたしの問いかけに彼は静かに首を振る。
「彼女の場合はね、もっと格差があったんだと思う」
「格差?」
「うん。例えば普通の人は10の気持ちを持っていたとする。そうすると相手にぶつけられる気持ちも10が最大となる。でも彼女は多分、20とか30とか……、普通の人以上の気持ちが溢れていたんだと思う」
「……」
 彼の言葉にわたしはすぐに反応できなかった。そんなことがあるのかどうかわたしにはわからない。
「だから誰も彼女の気持ちを受け止めきれなかった。相手が受け止めきれずにこぼれた気持ちの分だけ不満が溜まる。それが徐々に彼女を歪ませていったんだと思うよ。だから榛名のせいじゃないと僕は思うんだ」
 那智の言葉はそれなりに説得力があった。
 でも……、と思う。
 たしかに彼女自身に歪んでしまう要素があったのかもしれない。でもその引き金を引いたのはやっぱりわたしなんじゃないだろうか? 二度にわたって彼女の前に立ちふさがったわたしが、鬱積した彼女の想いに火をつけてしまったのだとしたら? それはやっぱり彼女の死の責任はわたしにある様な気がした。
 考えるほどにうつむいていくわたしに、那智は再び大きなため息をつく。沈黙がお互いの間に溝となって立ちはだかる様な気がした。那智がなにか言いたげにわたしのほうへ向き直ったのを見て、わたしのからだがビクンと震える。そしておもわず一歩後退ってしまった。そんなわたしを見て、那智は一瞬驚いた様に目を見張ったが、次の瞬間にはひどく傷ついた様に悲しげな顔をする。
 わたしってやっぱり周囲のみんなを傷つけちゃうんだ……。
「やっぱりだめだよね……、誰かの命の上に成り立つ関係なんて……」
 こぼれそうになる涙を必死に堪えてわたしがそういった瞬間、傍らから黒い影が飛び出してきた。
「それはちょっとちが……」
 那智がなにか言いかけた時に、突然背後から怒声が聞こえた。
「だー! もう見てらんねぇ!」
「ちょっとリュウちゃん! だめだってば!」
「酒匂〜」
 飛び出してきた三人に、わたしも那智も目が点になった。ひょっとして三人ともずっと見てたの?
「だー! なにやってんだ那智黒。 おめぇ、それでも男か! こんなときは四の五の言わずにさっさと押し倒しちまえばいいんだよ!」
「リュウちゃん、それちょっと違う……」
「いや、だいぶ違うと思うけど……」
 酒匂と那珂、五十鈴の掛け合い漫才にすっかり度肝を抜かれたわたしたちはただ立ち尽くすばかり。
「だいたいこれはリュウちゃんが口を出すことじゃないでしょ」
「だって、まどろっこしくて見てらんねぇ」
「こんなことがあったんだもん、いろいろ考えちゃうさ」
「そうよ、それだってきっと時が解決してくれるから、こういうのは周囲があれこれ言わないほうがいいの!」
「違う! こいつらは気合が足りねぇんだ! 気合がよ!」
 酒匂の熱さの前に、当事者であるはずのわたしと那智はすっかり置いてきぼりを食らってしまった。
 フッ
 隣で小さく息が漏れる。見ると那智が笑っていた。
「そうだね。リュウの言う通りだ」
 そう言うと彼はわたしのほうに向き直り、すぅ〜っと息を吸う。
「榛名!」
 いきなり大声で名前を叫ばれて、わたしはおもわず首をすくめた。そんなわたしにまた、彼はふっと息を漏らす様に笑う。
「だめだよ、榛名。榛名がなんといっても僕は別れないからね」
 ――那智……
「これで別れちゃったら、かえってあの娘も浮かばれないよ」
「でも……」
「あの娘の命を懸けた訴えさえもはねのけたんだ。それを今になって別れたんじゃ、あの娘の死は僕らにとってそれこそ意味のないものになってしまう」
 僕らにとって意味のないもの……。
 那智はそう言った。それじゃあ千歳ちゃんにとってはどうなの?
 わたしの問いかけに酒匂が口をはさむ。
「あいつの気持ちって言うけどよ、それだって結局は自分の気持ちみたいなもんなんだぜ……」
「えっ?」
「別れたって結局はあいつの気持ちを思いやったって言う自己満足を得るに過ぎない。死んだやつはもうなにも感じねぇんだからな」
 酒匂の台詞にわたしは言葉もなくうなだれるしかなかった。たしかにそうなのかもしれない。でも……。
「ある意味よォ、これからもずっと付き合っていくって方がきついのかもしれねぇぜ? それで人ひとりの命を背負い込む様なもんだからな。でもよぉ、だからこそあいつの死に少しでもハルちゃんが責任を感じているなら、そうすべきなんじゃねぇのかな? 二人が付き合っている限りはみんなあいつのことも忘れねぇだろうしよ」
 酒匂の言葉が心に染み込んでいく。全てを納得できたわけじゃない。今でも感情は駄々をこね、自分だけが救いを得ることに若干の後ろめたさは感じる。
 ――でも、できるところまで那智と歩いていこうと思った。
 そうすることで彼女の想いもわたしが引き継ごう。わたしたちの関係がいつまで続くかわからない。ひょっとしたら那智にいつか他に好きな人ができるかもしれない。
 でも……覚悟してね。そのときには今度はわたしのほうが簡単には引き下がらない。だってわたしと千歳ちゃんの二人分の想いをあなたは背負わなくてはいけないのだから。
 わたしは自分自身の決意を込めて那智を見る。彼も包み込む様なやさしい視線を返してきた。
「また、最後のおいしいところをリュウに持って行かれちゃったね」
 那智はそう言って笑った。
「でもね、僕もそう思う。だからこれからは僕が全部受け止めるよ。榛名の想いも……、あの娘の想いも。榛名はただ僕に、二人分の気持ちをぶつけてきてくれればいいから」
 そう言って那智はわたしの肩を抱き寄せた。わたしは彼の言葉にただ頷く。
 あぁ、彼も同じように考えてくれていたんだ。胸の奥から嬉しさが込み上げてくる。抱き留められた肩がそっと彼のほうへと引き寄せられる。わたしはそのまま彼に体を預ける。
「でもよ! でもよ!」
 あと少しでわたしのからだがそのまま那智の旨に触れようというとき、突然酒匂が間に割って入ってきた。
 酒匂の手で那智が突き飛ばされ、支えを失ったわたしは酒匂の腕のなかへ……。
「ヒッ!」
「つらくなったら俺に言えよ。いつでもやさしく慰めてやるから。ベッ……ウグ!」
「ベッドのうえで……でしょ? 懲りない男ね」
 酒匂が終いまで言い終わる前に那智の拳が彼の頬に食い込んだ。でも、その言葉を那珂が受け継ぐ。
「畜生! ハルちゃんよォ、那智が千歳の想いまで受け入れたみたいに、俺の想いも受け入れてくれよォ!」
「「ば〜か」」
 酒匂の訴えにわたしと那智の声が重なる。
 酒匂はわたしの足元にしりもちを付きながら、なんとも情けない顔でわたしのことを見ていた。
 ぷっ
 そんな彼を見て自然と笑いが漏れた。那智も笑っている。那珂も、五十鈴も大笑いしていた。

 ひとしきり笑ったあと、わたしは未だ燃えつづける寮のほうへ向き直った。
 そんなわたしに那智が話しかけてきた。
「榛名、知っていた?」
「なにを?」
「僕はね、あの日うちの店ではじめて君を見たときからすっと君に片思いしていたんだよ」
 那智の言葉にわたしは驚いた。あの悲惨な最初の出会いのときから? ずっと?
「片思いって……」
 わたしの言葉に那智は苦笑する。
「今にして思えば片思いじゃなかったのかもしれないけどね……、あのころは榛名が僕のことを男としてみてくれるとは思わなかったから……」
「今でも、男の那智はきっとだめだよ?」
「体はね。でも心では男の僕も受け入れ始めてくれているだろう?」
 どうだろう? 今でも彼をひとりの男性として慕っているかどうかはわからない。それにまだ心的外傷後ストレス障害が直ったわけでもない。でも……。
 でも、精一杯彼に寄り添っていこうとわたしは思った。恋に明確な定義があるわけじゃない。いまのわたしの気持ちを恋だと思ってもいいじゃない。
 ごめんね、千歳ちゃん。あなたの想いもわたしが引き受けるから。そうしてずっと那智に伝えつづけるから。だから許してね。

 気がつくと、もう空が白くなってきた。もう、夜明けだ。


END