小説



この空にはばたく前に



                                     とっと







 お祭騒ぎのバレンタインも終わり、皆が帰った後の静まり返った店内で僕は、榛名とカウンター席に並んで座っていた。昼間散々榛名に遊ばれたリュウも、結局は一度僕の手のひらに乗った小さな包みを再び手渡されて、いたくご満悦のままついさっき帰って行った。
「那智……、これ……」
 控えめに声をかけてきた榛名から、皆がもらったものよりもちょっとだけ大きめの包みを手渡される。
「あれ? 義理も本命も差をつけないんじゃなかったっけ?」
 そういう僕に彼女は小さく「バ〜カ」とつぶやいた。その頬がピンク色に染まっているのが見える。
 榛名もひょっとして照れてる?
 付き合いだしてからは二度目のバレンタインだけれども、実質的には初めてといっても差し支えないかもしれない。なぜなら付き合いだしてからの一年以上の間、僕らの関係は偽装でしかなかったのだから。
「今日で三年目ね」
 僕の入れたハーブティーを一口すすった後で、彼女は正面を向いたままつぶやくようにそう言った。
「初めてあなたと会ったのが、私たちが一年の時のバレンタイン。それから二回目のバレンタインだから、今日で出会ってから三年目に突入でしょ」
 彼女は僕と一切視線を合わせることなくそう言った。そんな時の彼女の精神状態は決してよくないことを僕は知っている。昼間のお祭騒ぎでちょっと疲れているのかもしれない。ずいぶんとはしゃいでいたから、その反動で多分鬱が入っているのだろう。
「これ、開けても良い?」
 空気を変えようと僕は手の上に乗った包みをつまみ直す。静かにうなずく彼女を見て、僕はそっと包みを開いた。そこから出てきたものは……。
「半分だけ?」
 そこには型ではめて作ったであろう、ハート形のチョコが半分だけ……。なんか縁起が悪い。
「半分だけ……」
 僕の困惑を余所に榛名はぽつりぽつりと話しだした。
「もうじき、はなればなれになっちゃうよね……。那智はここで本格的にお店を営業するようになるし、多分わたしは東京」
「物理的な距離が心の距離まで左右するとは限らないよ。特に僕たちはね」
 彼女を勇気づけるために言ったつもりだったけれど、これがいけなかった。
「そうね。私たちはちょっと特殊だから……」
 そう言うと彼女はうつむいてしまった。
「それが悪いことじゃないよ。それで結びつきが強くなるなら……」
「わたしね、良い機会だと思うの」
 僕の言葉を遮るほど力強く彼女はそう言った。
「機会?」
「別に那智と別れたいとか、そういうんじゃないの。でも、これからの四年の間にもし、那智にほかに好きな人が出来ても、それはそれでいいことなんじゃないかなって」
 僕はそっと彼女の腕をつかむと、ギュウッと力を入れた。ビクンッ! と彼女がはねるようにして体を硬直させるのがわかる。顔も幾分青ざめていた。
「榛名はそれで本当にいいの?」
 すこし険しい顔を作り、彼女を睨む。けれどそんな僕を見て、逆に彼女の体から力が抜けていった。
「那智の人間不信はだいぶ緩和されているでしょ? 那智とわたしでは違うの。那智は十分わたしなしでももうやっていける。でも、わたしはだめ……」
 そう言うと彼女は深いため息をつく。知らず知らずのうちに力の緩んだ僕の手からそっと腕を抜き取った。
「そんなわたしに今の那智を拘束する権利なんてないの……。それにわたしは那智と出会う前……」
「過去は関係ないよ」
 まるで自分を抱え込むかのように腕をまわし、小さく震える彼女を見て、僕はそっと言った。彼女にとって二年前の今日の出来事はいまだにトラウマとなっているのを実感させられる瞬間だ。でも、彼女は震えながらも小さく首を振った。
「過去は今を構築する重要なファクターなのよ。過去を無視して今も、これからも語ることは出来ないの」
 そう言った後、彼女は「よく思い出して。始めてあった日のことを」と僕を回想の世界へと引き込んで行った。

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 出会ったころの彼女は、今と変わらず教師の受けのよい、優等生で委員長タイプ。でもだからといってお固いわけでもなかったようだ。それなりに青春を謳歌していて、同級生たちからの信望も厚かったと聞いている。一方、僕はクラスのなかでも浮いた存在で誰ともつきあいもなく、放課後はすぐに帰って来て祖父の残したこの店を開く毎日を送っていた。
 そんな僕らが初めて出会ったのが 二年前の今日、バレンタインデーだった。
 その日、店を閉め僕が後片付けをしていると、激しいカウベルの音とともに、突然ドアが開いた。
「すみません。もう閉……」
 閉店なんですが……。モップをかける手を休め、そう言いかけた僕の目に飛び込んできたのは、ぼろぼろになって扉にもたれるようにして立つ、榛名の姿だった。
 裸足の上に着ている服はぼろぼろ。強く引っ張られたのか、片方の袖は根元から破れてとれかけているし、襟元から胸にかけても大きく裂けていて、その奥にある控えめな膨らみを隠す白いものが見え隠れしている。体中擦り傷や切り傷だらけで、さらに右側の頬が誰かに殴られたのか腫れて、唇も切れていた。
 誰の目にも彼女のおかれた状況が尋常ではないことがわかる。
 僕はすぐに彼女を店の中へと引き入れると施錠して、窓から外の様子を伺った。
 夜の九時を回っても一向に衰えない車通りを挟んで向かい側の大学の門を、数人の男が飛び出してくるのが見えた。男たちは門を飛び出したところで、車に阻まれてこちらに渡れないでいる。僕はそれだけ見ると少女の方へ向き直り、その手首をつかんだ。
「こっち、奥に部屋があるからそこに隠れて!」
 彼女は従順に……、というか、すでに抵抗する気力もないようで、おとなしく引かれるままに厨房の脇から奥の部屋へと転がり込んだ。僕はバケツに汲んだ水と、赤ワインのボトルを一本隠し持つと外へ出る。店の前から脇の路地へとワインを垂らした後で、店先にバケツの水をぶちまける。そうしておいて店の中に戻ると再び施錠し、汚れた床を再びモップで拭き取ってゆく。
 ドン! ドン! ドン!
 ようやく床も拭き終わろうかというころになって激しく店のドアが叩かれた。
「すみません。もう閉店なんですが」
 ゆっくりと鍵を開けながら、榛名には最後までいえなかったセリフを今度こそ最後まで言い切る。でも、そんな僕を無視して三人の男が店の中になだれ込んできた。ちょっと優男風の学生らしき男と、それをはさむようにしてパンチパーマのお兄さんが二人。髭面とやや眼光の鋭いやせ型。でもどちらも三下っぽい雰囲気を漂わせている。ちょっとヤクザな知り合いがいるおかげでその辺は何となくわかるようになった。
「あの……、もう火も落としちゃいましたし困るんですけど……」
 僕の声を無視するかのようにヤクザっぽい二人の男は店内を見回す。そしてその二人にはさまれた学生風の男が一歩前に進み出た。
「あっ……、ち、違うんだ……。その……、女の子がここにやってこなかったかな?」
「いいえ? 誰も。もう閉店ですし、ご覧の通り鍵もかかっていましたからこっそり入り込むことも不可能だと思います」
「おらぁ! 隠し立てするとタメにならんぞ! ここへやってきたのはわかっとるんじゃ!」
 いきなりやせ型の男が僕の胸ぐらをつかんで見せる。
「その女の子、うちのお店じゃなくって脇の路地に入って行ったんじゃないですか? 小学生がよく使う抜け道があるんです」
 胸ぐらをつかまれて爪先立ちを余儀なくされながら僕はそう男に告げた。
 このとき、別に怖いとは思わなかった。やせ我慢ではなく本当に。
 このころの僕は、自暴自棄なところがあって、自分の命を惜しいとも思わなかった。どうせ今ここでこの男たちに殺されたとしても、もうそれを悲しんでくれる人も誰もいない。生きていても誰も僕を必要とはしてくれない。そう思っていた。それでもこのとき榛名が逃げ込んできたことで、刹那的ではあっても僕の存在意義が生まれた気がしたんだ。
 僕の言葉を聞いて、学生風の男の顔が青ざめた。どうやらこの男もあの道のことを知っているらしい。まぁ、もしこの男が向かいの大学の学生だとすれば、小学生が出入りしているのを見たとしても不思議じゃない。
 そんな学生の様子を見て、やせ型の男が髭面男に顎をしゃくって見せた。髭面男が頷いて、表に出るが直に戻ってくると、やせ型男に何事か耳打ちした。
 やせ型男が再度顎をしゃくり、二人が表に出て行くとようやく僕は開放された。
 男はズボンのポケットから財布を取り出すと、中から数枚のお札を取り出し、僕に握らせる。
「騒がして悪かったな。このことは他言無用にしてくれや」
 受け取りを固辞したが、男は強引に押しつけてきた。まぁ、口止め料と言うことらしい。僕は恐縮したふりをしながらそのお金を受け取ると、心の中で舌をぺろりと出したのだった。
 そうしてようやく静かになった店の施錠をすると、僕は榛名のいる奥の部屋を覗いて度肝を抜かれた。彼女は真っ青な顔をして、ガタガタと震えていたのだから。

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「わたしってば、初めてあった時からずっと那智に迷惑ばかりかけてきたよね」
 過去から僕が帰還するのを待っていたかのように榛名がそう言った。
「男たちを那智が追い払ってからも大変だったものね」
 そう、引きつけを起こしたように震える彼女を助けるために、そのあともまたひと騒動あったのだ。まだ連中がうろついているかもしれないので、むやみに外には出られず、救急車を呼ぶのもまずい。目立ちすぎる。それで別の意味では少々危険ではあったけれども、最近なにかと僕につきまとい親友面をするヤクザな同級生を頼って、半分モグリ見たいな医者をよこしてもらったんだった。
 ちなみに別の意味でと言ったのは、榛名の着ていた服が僕と同じ高校の制服だったからだ。彼女と今後接触する可能性のある人物には出来れば引き合わせない方がいいと思ったのだけれども、背に腹は換えられなかったのだ。
「わたしね、那智の人生の中でわたしの存在はお荷物なんじゃないかって時々思うの」
「そんなことはないよ」
 僕は静かに首を振る。
「そんなことはない」
 そっと席を立つと、彼女の背後に回る。そして華奢な肩にそっと手を下ろす。
「僕はずいぶんと榛名に助けられてきた。榛名は僕が変わったように言うけれども、もし僕に変化があったのであればそれは皆、君がもたらしたものなんだよ」
「そうなのかもしれない……。でもそれでわたしの役目は終わったんじゃないかと思うの。これまではお互いが依存し合う関係だったのに、今はわたしが一方的に那智に依存しているだけなんだもの……」
「今でも僕は榛名にかなり依存しているよ。メンタル面では特にね」
 僕の言葉に彼女はちょっとうれしそうな顔をしたが、すぐに深いため息をつく。
「それはね、今はわたしがそばにいるから……。でも離ればなれになって……、新しい出会いを経験していけばそれはきっと薄れるわ。そうすればきっと……」
 僕は自分の鈍さを呪った。今になってようやくわかる。
 自分の役目が終わったとか、僕に負担をかけているとか、榛名はそんなことを言いたいんじゃないんだ。
 今、彼女が抱えているものは……。
「一人で東京に出るのが不安?」
 僕の言葉にちょっと驚いたような顔をする。
 榛名は曖昧な笑みを浮かべながら「ちょっと」と遠慮がちに答えた。
「半分のチョコレートは……」
 僕は包み紙の上で所在なさ気に鎮座する茶色い固まりに目を落としながら彼女に話しかける。
「ひょっとして半分しか僕を信じられないってことなのかな?」
 そう言うと榛名はばつが悪そうにうつむいた。当たりか……。
 今度は僕が軽いため息をつく。
「だって……、那智は全然意識していないみたいだけれど、陰では本当にモテてるのよ。お店にくる女の子だってその何割かは那智目当てなんだから……」
 そう言って彼女は上目づかいに僕の方をみる。
「これで一日中お店を開くようになったら、きっとお昼なんか女子大生でいっぱいになっちゃうんだから……」
 だから、だから……と彼女は言葉をつなげる。
「かわいい女の子に囲まれた僕が、心変わりするって?」
「信じてはいるし、信じたいとも思っているの……。でも、それでも不安なんだもん」
 上目づかいの、ちょっとすねたような表情が何とも言えなかった。なんかゾクゾクッとして少しいじめたくなってしまう。こういうのをリュウがよく言う『そそる』と言う奴なのだろうか?
 ――笑っちゃいけない。
 そう思いながらも笑みがこぼれるのを止めようがなかった。だって、こんなやりとりがまるで普通のカップルみたいで、ちょっとうれしかったんだ。
「わっ、笑うことないでしょ!」
 榛名が顔を真っ赤にして噛みついてくる。そんな彼女を軽くいなしながら、僕はちょっと意地悪い笑みを作って見せる。
「そんなに心配なら、東京いくのやめて地元の大学にする?」
 僕がそう言った途端、彼女はまたしおらしくなってしまい、静かに首を振った。
「まずは大学に合格することが前提条件だけれども、東京には行こうと思うの……」
 榛名の言葉に僕も頷く。
「那智が変わったように、わたしも強くならなくちゃいけないんだと思う。依存云々は置いておいたとしても。それにはね、自分の夢を追ってみるのが一番近道な気がするの」
「榛名がそう決めたのなら、僕はそれを応援するよ」
 強気を装いながらも僕の後ろにいつも隠れていた少女が今、自分の力で羽ばたこうとしている……。
「榛名は翼を持っているんだから。どこまでも力のかぎり羽ばたいていけばいいんだよ」
「そんなに遠くまで飛んで行ったら、那智がわたしの姿を見失っちゃうわ」
「見失ってもいいんだよ。榛名が夢に向かって羽ばたく鳥なら、僕は大樹になる。いつまでもそこに有って、榛名が翼を休めるために帰ってくるのを待ち続けるよ」
 僕の言葉を聞いて安堵したかのか、彼女は少しその表情をゆるめた。
「那智がそう言ってくれなかったら、東京いけなかったかも……。話してみるまでわからなかったの。背中を押してほしいのか、それとも引き止めてほしいのか……」
 そう言うと榛名は僕に背中をそっと預けてきた。体かかる彼女の重みが心地いい。
「でもね、今、那智がそう言ってくれたおかげで吹っ切れそう。わたし、頑張るね」
 彼女の言葉に僕は力強く頷いた。榛名はこれまで散々つらい思いをしてきたのだから、ここらでちゃんと幸せをつかんでほしい。そんな願いを込めて僕は頷いた。
 僕が頷く気配を感じたのか、榛名がそっと頭を上げて、背後にある僕の顔を見上げる。
「わたし、那智のことも信じるから……、その枝に他の鳥を休ませたりしないでよ」
 そう言うと榛名はスツールをクルッとまわし、僕の体にその顔を埋めた。耳まで真っ赤になっている。
「大丈夫。遠くから見ると普通の木に見えるかもしれないけれど、これでも僕は茨みたいに刺だらけだからね。それをよく知らない鳥は近づくことも出来ないさ」
「那智の陰険タムシ?」
「そう……。最もその言葉を女の子が口にするのはどうかと思うけどね」
 そう言って僕が笑うと、彼女も顔をうずめたままクスクスと笑った。なんかこれまでに経験したことがないくらいの甘い雰囲気にちょっと醉いそうだったけれども、それもまぁいいか。だって名実共に恋人になれてから、初めてのバレンタインなんだから。僕はそう考えて、後ろからそっと榛名を抱きしめた。