短編小説



「羽ばたく鳥が翼休める場所」



                                     とっと







「ほんと客の入らないお店よね」
 遠慮のない幼なじみの言葉にぼくは、ただ苦笑した。
「雨の日の喫茶店なんてこんなもんだよ」

 ここはとある地方の大学の目の前にある喫茶店で、ぼくはそこのマスターだ。もともと祖父が経営していた店なのだけれど、彼の死を契機にぼくがそれを引き継いだ。大学が目の前にあると言う好条件からか、普段はそこそこやって行けるくらいにはお客も入るのだけれど、雨の日となるとちょっと客足も遠のく。わざわざ傘をさしてキャンパスの外まで出てくるのはさすがにおっくうなのだろう。
 それに今は十時を過ぎた所。ちょうどモーニングサービスとランチタイムの狭間で一日の内でも一番店内がすく時間。店内には今、目の前で憎まれ口を利いた幼なじみの青葉那珂の他には、学生風の客が一人、二人いるだけ。そんな彼らも雑誌や漫画を読みふけっていて物音ひとつ立てることがない。
 コンポにセットされたCDだけがBGMとして店内に流れている。カレン・カーペンターが物憂げな声で「雨の日と月曜日はいつも気がめいるの」と歌っていた。多分、この歌を知っていてそう言ったのだろうけれど、ぼくは同じようなことをいつも言っていた知り合いがいる。

「ねぇ、あれから全然帰って来ないの?」
 那珂は窓の外を眺めながら突然そう聞いてきた。彼女の視線の先には主のいなくなった小さな小屋と、雨水の溜まった餌箱。
 ぼくは溜息まじりにちょっとだけ肩をすくめて見せる。
「もともとが野良だからね。もう帰って来ないかもしれないよ」
 ぼくの答えに彼女はもともと大きな目をさらに見開き、ちょっと驚いたあとでプッと吹き出した。
「もともと野良ねぇ。わたしが聞いたのは榛名のことなんだけど?」
 そう言って那珂はニィっと笑みを浮かべた。
「わざとやったな?」
 榛名の話をするのになんでわざわざ空っぽの犬小屋を見るんだ。こいつは絶対にぼくに勘違いさせて楽しんでいる。そういうやつだ。
「わざとじゃないよ。空っぽの犬小屋見てたら、ここを飛び出していったきりの誰かさんを思い出しちゃって、それで聞いただけ。もっともあの小屋の主も、誰かさんもなっちゃんに拾われた口だし、一緒よね。って痛!」
 口の減らない幼なじみの頭をぼくはスプーンの柄で軽く叩いてやった。いくらなんでも失礼じゃないか。言っていることはあながち間違いじゃないけれどもね。

 彼女が言った「榛名」と言うのは付き合って二年になるぼくの彼女のことだ。今は大学進学の為に地元を離れ、東京へと旅立ってしまったけれども、ぼくらは付き合い始めた当初からベストカップルとして評判だった。こんなこと自分で言うのもなんだけどね。
 でも二年と言うのは正確な数字じゃない。なぜなら二年のうちの最初の一年はぼく達は恋愛感情を持たない偽りの恋人だったのだから。
 何故そんな事をしたのかと言われれば、それは彼女が抱えるトラウマが全てだった。ベストカップル……、ふたを開ければそこには恋愛観情はなく、ただ必然の為に寄り添っていた偽りの恋人たちだったわけだ。そんなぼくらは、周囲の目を欺く為に付き合っているように見せかけているうちに、本当にお互いが惹かれあってしまったんだ。でもそれって、恋愛映画なんかで共演した役者同士が、役の気持ちを引きずってそのまま恋愛感情と勘違いしたってパターンなのかもしれない。

 ぼくが彼女と初めてあったのは高校一年の二月のこと。当時のぼくは高校に通うかたわらでこの店を放課後だけ営業して日々の糧を稼ぐ毎日だった。
 ぼくは両親を幼い事に亡くし、母方の祖父に育てられた。さっきも言った様に、もともとこの店はその祖父が経営していたものだ。彼はこの店の収入ひとつでぼくを育ててくれたんだ。そんな彼もその年の春に亡くなった。そして一人で生きていかなくてはいけなくなったぼくは、将来この店を引き継ぐ事を考えて暫定的な放課後営業をはじめたのだ。
 榛名との出会いはそんな、店と学校の二元生活にもなれ、経営も漸く軌道に乗り出したある日の夜のことだった。
 時計は夜の九時を回ろうとしていた。すでに店内には客の姿もなく、ぼくは一人黙々と閉店作業に取り組んでいた。窓にかかるブラインドを全ておろし、ドアに『closed』の看板をかける。そうしていざ掃除をはじめようとしたその時、ふいに乱暴にドアが開かれた。扉につけられたカウベルが悲鳴のような音を鳴らす。驚いて顔を上げたぼくの目に移ったのはぼろぼろになって開け放たれたドアにもたれるように佇む一人の少女の姿だった。

「榛名からも直接聞いてはいたけど、出会いとしてはインパクト抜群よね」
 那珂がそう言って笑った。でもそのあとで小さくため息をつく。
「苦労人はいくらでも苦労を背負いこむようにできているのかしらね」
 そんな那珂の言葉にぼくは苦笑した。
「そういう意味では出会うべくして出会ったのかもね。ボロはボロ同士って」
「榛名はともかく、なんでなっちゃんまでボロなのよ」
 ぼくの言葉に訝しげに那珂が問いかけてきた。こいつ未だにまったく自覚がない……わけないよなあ。当時ぼくの一番の理解者だったんだから。わざとはぐらかすつもりなのか?
「ぼくの場合は身寄りを亡くして一番落ち込んでいた時期に、一番信頼していた女の子に二股かけられてあっさりと捨てられたからね」
 ちょっと厭味が入ったかもしれない。そんなぼくの言葉を聞いて、那珂は「昔の事をネチネチと」と言って睨み返してきた。今度はぼくが溜息をつく。
 ぼくを捨てた女の子って言うのは、もちろん那珂のことで、ぼくは当時そのことからちょっとした人間不信に陥ってしまっていた。だれかに側にいてほしかった。けれどそのことを一番理解していてくれていたはずの彼女からの裏切り行為にぼくはかなりすさんでいたんだ。
 そして榛名は……。
 榛名は別にレイプされたわけじゃない。けれどそれに近い体験はした。彼女は当時付き合っていた大学生の彼にギャンブルの借金の方として売られそうになったんだ。間一髪のところで逃げ出せたのだけれども、それが元で酷く心を病んでしまった。ぼくらのつきあいはある意味、お互いの傷を舐め合う所から始まったと言っていいのかもしれない。

「そう言えばさあ……」
 珈琲の入ったカップを眺めながらふいに那珂がそう話を振ってきた。
「この店のメニューにハーブティーのたぐいが加わったのって、あの頃からだよね?」
 ぼくは彼女の問いに静かに頷いた。
 傷を舐め合う関係とはいっても、ぼくのは単に人を完全に信じきれなくなった程度。人づきあいが苦手になって常に距離を保つようになりはしたけれど、日常生活に支障が出るようなことはなかった。それに比べ、榛名のほうはかなり重症だったのだ。人間……、特に男性に対する恐怖心に捕らわれ、一時は側に男がいると言うだけでいわゆるパニック症状を起こしたりもした。典型的な心的外傷後ストレス障害、いわゆるPTSDの症状に陥っていたんだ。

「それがハーブティーをメニューに加えた理由?」
「まあね。最初に彼女を助けた時に、気分を落ち着かせる為に入れてあげたんだ。そうしたらその後暫くはそれが精神安定剤みたいになっちゃって。飲んだあとしばらくは気分が落ち着くようになったから……」
「ふうん、それじゃあ榛名が信じられないくらいのスピードで回復したのはなっちゃんのハーブティーのおかげってわけか」
 そう言うわけじゃないんだけどね……
 あまりに買いかぶりな発言にぼくは苦笑いするしかなかった。でも榛名が常識では考えられないほど回復が早かったのも事実。普通なら年単位で考えなければならないこの症状に対し、彼女はわずか一カ月で学校へ出て来れる様にまでなったのだから。もっともそれには条件付きだけれども。
 そして、その条件と言うのがぼくと彼女の偽装恋愛の原因なのだ。

 榛名は一月ほどで、側に男性がいると言う状況にはなんとか耐えられるようになった。けれど身体的な接触は絶対にダメ。ものの受け渡しの際に、ちょっと小指が触れるといったレベルでもパニックを引き起こした。彼女に誰も触れないように、誰かが守らなければ、とても学園生活を送ることなど考えられなかったんだ。
 このとき皆に事情を話すと言う選択肢はなかった。多くの人に事実を知られることを彼女もその家族も拒んだから。それで学校関係者で彼女が唯一安心できる存在のぼくがナイト役を努めるしかなかったんだ。

「なっちゃん、アカデミー賞ものの演技だったわね」
 そう言って那珂が笑った。
「だってわたし、偽装だなんて全然気がつかなかったもん。わたしが気がつかないってことは他の誰も気づかなかったって思うよ」
「そりゃ、知られちゃいけないことだから。それに……」
 それに、あの頃のぼくは榛名を守ることだけが自分の存在意義だったんだ。身寄りをなくし、信じるものも全て失ったぼくは自分の根っこを失っていたんだ。そんな時に現れた榛名はぼくにとって全てだったのだから。だから……。
「絶対に守るって最初に決めていたから」

 客の少ない今の時間を見計らって、ぼくはゴミをまとめると裏口に回った。ドアを開けると荒れ果てた家庭菜園が目に飛び込んで来る。もともとここは自家製ハーブ園になっていたもので、できるものは自分で育ててやろうとぼくがはじめたものだ。もちろんこれも全て榛名の為。そしてこれをメチャメチャにしたのは……、雨ざらしになっている小屋の主だったもの。
 ヤキモチだったのかな……。
 那珂の言葉じゃないけれど、思い返してみれば榛名とそいつはよく似ていたかもしれない。意地っ張りでやきもち妬きで……。そう言えばどことなく人を値踏みするような瞳も似ているかもしれない。そう思ったらなんかおかしくなって来た。
 このことを聞いたらきっと那珂は笑いだすだろう。そうして相槌を打つ。でも榛名はきっと怒るな。そして言うんだ。
「あの乱暴者とわたしの何処が似てるのよ!」ってね。
 榛名はやつの目の前でぼくに引っついて、何度も体当たりを喰らわされていたっけ。
 そんな二人も今はここにいない。どちらも自分の意思でこの小さなテリトリーから飛び出していってしまった。

 ごみを捨てて戻ってみると、那珂のやつはまだカウンターでぼんやりとしていた。

「授業はいいの?」
「雨降っていて移動するのめんどいから自主休講」
 そう言うと那珂は物憂げに顔だけカウンターの上に寝そべらせた。そんなタイミングを見計らうかのように二人いた客が支払いを済ませて出て行く。
 ぼくが戻って来るのを待って、那珂が再び話しかけてきた。
「帰って来ないのはわかるけど、連絡くらいは取ってるの?」
「全然」
「えっ!? 榛名ったら向こうへ行ったきり電話一本よこさないの?」
「全く……」
 僕の答えに那珂は「なにやってんのよ」と言わんばかりに深いため息をついた。
「なっちゃんの方からは連絡取っているよね?」
 恐る恐るといった感じで上目づかいに問いかけてくる那珂に僕が三度首を振ると、彼女はがっくりといった感じでカウンターに突っ伏した。
「でも、向こうにいる連中からは彼女の近況が報告されているから心配はないよ」
「そういう問題じゃないでしょ!」
 ガバッと体を起こすようにして叫ぶ那珂を見て、ぼくは思わず苦笑した。
 彼女が言いたいことはわかる。今のぼくらの状況は、普通に考えれば自然消滅するカップルのそれだ。客観的にみて自分達でさえそう思えるのだから、端で見ているだけの那珂には本当にそう感じられるだろう。彼女は彼女なりにぼくらのことを心配してくれているのだ。

「榛名はね、多分あいつと同じなんだよ」
 ぼくは駐車場の隅の小屋をさして言った。
「さっきわたしがそう言ったらなっちゃん怒った」
 那珂がすねたようにそう言う。
「拾われたなんて言うからだよ」
 そう言ってぼくは苦笑する。
 そうさ……。どちらも拾ったわけじゃない。あんまりにもボロボロで……、だからほんの一時救いの手を差し伸べただけ。傷が癒えれば、あとは自分の足で歩いていってしまうことがわかっているから。

「さっき流れていた歌……」
「ん?」
 ぼくの言葉に那珂が首をかしげる。
「よく榛名が口ずさんでいたんだ」
「さすが優等生。鼻唄も洋曲ですか」
 すかさず茶々を入れて来る彼女の額をぴしゃり。那珂は涙目になりながら額を抑えた。
「口ずさむって言っても、誰にも聞こえないくらいの小さな声で呟くように歌うんだ”Feelin' like I don't belong”ってね」
「……」
「榛名はね、あの事件以来自分の根っこを見失ってしまったんだよ」

「自分の根っこか……」
 暫くの沈黙の後、那珂はカップの縁を指でなぞりながらそう呟く。
「そんなの意識している人っているのかな?」
 少なくとも自分では自分の根っこなんてわからない……。そんな感じの口ぶりだ。
「多分……、普段はそんなこと意識しなくても生きていけるんだよ。意識しなくてもいいってことはちゃんと根っこが存在するってことだから。その存在に気づくのは自分の中の根っこが揺らいだ時なんだよ」

 ぼくと那珂は暫くの間どちらとも口を開くことなく、ただ黙っていた。那珂に珈琲のお代わりを入れ、自分にもいくつかのハーブをミックスしたお茶を入れる。気がつけばBGMとして流れていたカーペンターズのCDは終わり、次のサイモン&ガーファンクルに変わっている。二人の心地よいハーモニーに暫くの間ぼくは心をゆだねていた。

 They've all come to look for America……
 あいつらみんなアメリカを探しに来たのだ……か……。

 ふと、雨ざらしの小屋が視界の隅に入った。
 そうだね。根っこをなくしたからこそあいつも榛名も……。
「アメリカを探しに……か……」
「?」
 ふいに呟いたぼくの言葉に、那珂が首をかしげる。
「根っこをなくした奴は、新たにもう一度自分を構築し直さなくちゃならないってこと……」
「それで榛名が?」
 ぼくは頷いた。
「根っこをなくしたら生きてはいけない。だからかな?」
 ゆっくりと小屋のほうへと視線を移す。
「あいつも自分の根っこが揺らぐのを感じて……」

”Feelin' like I don't belong”
 カレンの声が脳裏に蘇る。

「自分が本来あるべき場所を探しに行ったんじゃないかな」
「アメリカを探しに?」
「アメリカを探しに」
 多分……生まれつきの野良だった奴には、束縛された生活と言うものが自分の根っこを見失いそうになるくらいつらいことだったんだ。だから根っこを見失わないうちにここを飛び出していったのだろう。そして榛名は……。
「榛名も?」
 那珂の問いかけにぼくは頷いた。
「それって……」
 なにかを言いかけて那珂は口を噤んだ。一瞬だけギッと唇をかみしめる。そんな彼女にぼくは小さく首を振った。
「違うよ……」
 言いかけて彼女が飲み込んだ言葉。それはおそらく「なっちゃんを捨てたってこと?」なんだろう。自分の夢の為に恋人をおいて飛び立つ。その結果、そう言うことになるケースはままあるのかもしれない。だから那珂もそれを心配しているのだろう。

「榛名はね……」
 ぼくは言葉を続ける。
「榛名は……今のままじゃどんな未来も思い描けないでいるんだよ。自分自身の存在意義を見失ったままじゃ、未来どころか今すら危ういだろう?」
「だからなっちゃんと離れて東京へ行ったって言うの?」
「そうだね」

 ぼくの答えに那珂はまだなにか納得いかない様子で、なにか考え込んでいる。そうやって暫くの間彼女は、柳眉を逆立てるようにしていたけれど、やがて深い溜息と共にその表情を幾分和らげた。
「それは、ここにいては見つけられないことなのね?」
「そうだね」
「お互い連絡も取り合わないほど離れなくちゃだめなのね?」
 二つ目の質問にもぼくは頷いて答えた。
「榛名が自分の足で歩きだす為にはね」

 彼女は今、強くなろうとしている。
 榛名はずっと、ぼくに依存していることを気に病んでいた。自分の存在がぼくの世界を狭めているんじゃないかって……。
 実際にはそんなことはありえないし、一方的な依存と言うわけでもなかったのだけれど、いろんな意味で自分に負い目のある榛名はそう感じてしまっていた。時に人は、相手には寛容になれるのに、自分のことは縛りつけてしまうものだ。彼女もそんな風に一方的に自分のことを責め、それまでとは別の意味で精神的に追い込まれてしまっていた。

「榛名は翼を持っているんだ。本当ならばその翼でずっと高い所まで飛んで行けるはずなのに、今はその飛び方を忘れてしまっている」
 那珂はうつむいたまま黙ってぼくの話を聞いている。
「一度空から落ちちゃうと……、再び飛び立つのが怖くなっちゃうんだろうね」
 一度こっぴどく男に裏切られた彼女は、男と言うものを信じきれないでいる。出会った頃と比べればずいぶんと良くなって、友達としてならそこそこ付き合えるようになったけれども、男と女の関係には二の足を踏む。ぼくとの関係だって、お互いに恋人同士と自負するものの、それは精神的な結びつきについてだけ。肉体的な関係はまだない。口づけすら2年のつきあいの中でもまだなく、手をつないだことも数えるほどしかない。
「多分……」
 暫くの沈黙の後、再び言葉を紡ぎだしたぼくに、那珂が顔を上げる。
「ちょっとだけ……、ほんのちょっとだけなにか自信が持てればいいと思うんだ」
 ぼくの言葉に那珂が曖昧に頷く。
「なにかひとつ、自分だけの力でなし遂げられたら、それだけで彼女の中でなにかが変わって来るんだと思う。そうしたらいつか再び彼女は飛び立てるようになるんじゃないのかな? 以前よりもっと高くね」
 ぼくの話を聞いて、那珂はほぅ……っと深いため息をついた。
「それまでは何があってもなっちゃんを頼らないってことか……」
「そうだね」
「なっちゃんは……」
 そこで那珂は一度口を噤んだ。
「なっちゃんは、それで満足?」
「どうだろう? でも……、必要なことだと思うから……」
「でも翼を手に入れた途端、榛名から言われちゃうかもよ? ごめん、こっちで好きな人ができたって……」
 そう言う那珂の顔には意地の悪い笑みが張りついていた。ぼくはひとつため息をつく。
「それはそれで、榛名にとっては良いことなんじゃないかな?」
 そう答えたぼくに今度は那珂がため息をついた。なんかぼくらの会話は溜息だらけだ。
「強がっちゃって」
「そうだね……」
 苦笑まじりにぼくは答えた。
「たしかにそんなことになったら、ぼくは心の均衡を保ちえるか自信ないよ。でも……」
 でも、それはずっと以前から覚悟していたこと。翼を持ちえるものと、そうでないものはもともと住む世界が違うのだから。

「でも、何?」
 彼女の問いかけにぼくは静かに首を振った。
「いや、やっぱり強がりなのかなって」
 そう言って笑うと、急に彼女が真顔になった。
「あのさ……、不安をかきたてるようなことを言っておいてなんなんだけど……」
 ちょっと言い難そうな彼女。少し言いよどんだけれども、意を決したかのように再び口を開く。
「榛名から聞いたんだけど、なっちゃんは榛名のことを翼をもつ鳥で、自分は大樹だって言ったんだって?」
 ぼくは静かに頷いた。そう、たしかにぼくは彼女にそう言った。
 それはまだ、彼女が東京へ行くか、地元に残るか悩んでいた時のこと。学年でもトップクラスの成績を誇った彼女は、そのどちらでもそれなり……、と言うよりはかなり良い大学へ進学できる可能性が高かった。事実試験はどちらも合格している。
 けれど彼女は恐れていた。ぼくと言う精神安定剤を手放すことを。このままではいけないと思いながらも、踏ん切りをつけることができないでいたのだ。
 もちろん、東京へ行くイコール二人の別れと言うことではない。でも彼女は物理的な距離からくる精神的な影響をものすごく気にしていた。つまりは自分と言う監視の目が無くなれば、直ぐにでもぼくが他の女の子へと乗り換えるのではないかと言うこと。
 大抵、こんな場合は自分よりも相手の心変わりを心配する野かもしれないけれど、彼女の場合は特に、自分がぼくのお荷物になっていると思い込んでいる所があって、だから余計にそんな風に考えたのだろうと思う。だからぼくは言ったんだ。ぼくは大樹になると。いつも変わらずにここに有り、大空を自由にはばたく鳥が翼を休めに帰って来るのを待つってね。
「榛名、本当に嬉しそうにその話をわたしにしたの。だからさ、きっと帰って来るよ。なっちゃんのところへ翼を休めにね」
 そう言いきった時、彼女の表情には先程のような重たさはなく、いつのもようにケロッとしていた。
「どうだろう?」
 ぼくは外の小屋を指さす。
「案外、あいつみたいに行ったきりになるかもしれないよ」
 忘れちゃいけない。翼を休める場所を決めるのは鳥のほうだ。木はどんなにその鳥に自分のところで休んでもらいたいと願っても、決して自分のほうから歩み寄ることは出来ないんだ。地に根ざすものは翼を持つものを拘束することは出来ないんだよ。
 いいかげん、自分のネガティブさに嫌気が差しだした頃、急に那珂がコーヒースプーンで人のことを差しながら詰め寄ってきた。
「そんなのなっちゃん次第じゃん」
 那珂はスプーンの柄の端を二本の指でつまみ、ぼくの目の前で上下にぷらぷらと振って見せた。
「いいかげん、榛名のことを信じてあげたら? そうやってなっちゃんのほうから距離を取っていったら、それこそ榛名は否応なしに離れざるを得なくなっちゃうんじゃない?」
「ぼくは……」
 ぼくは戸惑っていた。さっきも言った様に地に根ざすものが自分から距離を縮めることなど出来ないのだから。
「ぼくからは……、今は何もしてあげられないよ。ただ見守ることしか……」
「逃げないで!」
 バンッ! と大きな音を立てて両の手でカウンターを叩きながら那珂が立ち上がった。カウンター越しなのに、彼女の顔がすぐ目の前にまで迫る。コロンかなにかつけているのだろうか? 甘い香りが鼻孔をくすぐる。
 那珂は、酷く切羽詰まった様な切なげな……、あるいは悲しみを含んだ様な瞳でぼくのことを見つめていた。
「ごめんね……」
 突然那珂は頭を垂れると、そう言って誤ってきた。ごめんね……、ごめんねと何度も繰り返す様に。
「なっちゃんをこんなふうに臆病にさせたのはわたしなんだよね……」
 那珂は泣いていた。彼女が顔を上げた瞬間、その特徴ある大きな瞳が真っ赤に充血しているのをぼくは見た。
 あゞ、この娘もずっと過去の呪縛に捕らわれていたんだな。
 ぼくはそう思った。ぼくが彼女との過去をいつまでも引きずっているのと同じように、那珂もこれまでずっと苦しんできたんだ。奔放な仮面をかぶったその裏で、ずっとぼくへの罪悪感に苛まれていたんだね。
「わたし、なっちゃんと別れたことは後悔していない」
 那珂はきっぱりとそう言い切った。
「でも……、別れ方に関してはものすごく後悔しているの。他にもいろんな道があったはずなのに、一番最悪の形を選んでしまったのだから……」
 だからね、と彼女は言葉を続ける。
「なっちゃんにも、榛名にも同じ過ちを犯してほしくないの……」
 ぼくは、天井を見上げると、ふぅと、ひとつ大きく息を吐いた。那珂の言っていることはわかる。しかし、今のぼくに何が出来るのだろう?
「なっちゃん?」
 そう呼びかけて来る那珂の瞳は今だ真っ赤なままだったけれど、そのなかに仄かにやさしさが込められていた。
「なっちゃん、よく考えて。大地に根を下ろし動けない植物でも、ちゃんと出来ることはあるのよ。花はきれいな色に咲き誇って虫たちを誘うし、外敵から身を守る為には沢山の刺を張りめぐらすことだって出来るの」
 那珂の言葉は素直にぼくの心の中に染み込んできた。たしかに動けないから何もできないと言うのは逃げなのかもしれない。直接手を差し伸べるのではなくても、ぼくにだってなにか出来ることはあるのかもしれない。
 ぼくは彼女が幼なじみでよかったと心底思った。一度は裏切られたぼくだけど、それでも彼女はぼくを見捨てることなく、ずっと見守ってきてくれた。
「そうだね」
 ぼくは彼女に微笑みかけた。
「まだ、何が出来るのかよく分からないけれど、考えてみるよ。いつかくるかもしれない別れを考えるより、今を大切にする様にね」
 那珂にそう言いながら、案外榛名との交際は早く復活するかもしれないなと感じた。そうしたらいつか、飛び出して行っちゃったあいつもひょっこり帰って来る日がくるかもしれないね。