勝手に連動企画 喫茶「吾眠」の日常



第十六話 『冬』 23歳 冬



                                     とっと







 どのくらいの人が知っているかは知らないけれど、喫茶店の収益と言うのはその大半が夏に偏る。夏のきらめくような太陽の日差しは人々を家の外へと駆り立てるけれど、冬のグレーの空は家路へとかきたてる。夏ならちょっと涼んでいこうかという人も、冬には脇目もふらず家へと向かう。それ以前に出歩く人の数もずいぶんと少ない。
 そんな中でもうちの店、喫茶「吾眠」には毎日立ち寄ってくれる常連客と言うものが存在した。塀を隔てたすぐ隣が自分の家だと言うのに律儀に仕事帰りに毎日顔を出す彼女は、だけど毎日ツケでコーヒーを一杯飲んで、しばらく談笑したあと帰っていく。そして月末には必ずツケのほとんどを踏み倒すから正確には客とは呼べないのかもしれない。
 そんな客擬、青葉那珂は定期便よろしく夕方になると今日もやってきてうちの奥さんを誘ってカウンターの一角を占領した。毎日顔を合わせていてよくも話題が尽きないものだと思うけれど、女性にとっておしゃべりと言うのは息をしているのと同じくらい自然なものらしい。次々と切り替わる話題と尽きる事のない会話を聞きながら僕はそう思う事にした。

「だからね、あそこでのイー様の引き際は見事だと思うわけよ。なかなかああもあっさり引ける男はいないわよ」
「そうかなぁ、アレだけあっさり引かれるとわたしだったら自分の事なんて別にどうとも思っていなかったんじゃないかって疑っちゃう」
 どうやら今夜の話題は夕べやっていた海外ドラマの内容についてらしい。巷では純愛ブームとかでその手のドラマが流行っているらしい。ご多分に洩れず、二人もそんなドラマに夢中なのだ。
 那珂と楽しそうに談笑する榛名の顔をみているうちに、ふと、僕らの恋愛は純愛と呼べるようなものだったのだろうかと思ったけれど、すぐに考えるのをやめた。純愛という言葉自体定義が曖昧な気がしたし、純愛であろうとなかろうと、本人たちが満足していればそんな事は関係ないように思えたから。
 でも……、奥様方はそうでもないようだ。作り物の世界に現実を当てはめようと熱い議論を交わし始めた。
「相手の気持ちを本当に考えられるからどんなにつらくてもすっと身を引けるんでしょうが。あんなふうにさわやかに出来るのは現実世界ではリュウちゃんくらいなものね」
「はいはい、ごちそうさま。でも酒匂なら女に逃げられたら面子をつぶされたって怒りそうだけど?」
 榛名の言葉に那珂はチッチッチっと舌打ちしながらワイパーのように指を左右に振った。
「女の一人や二人のことでそんな風に騒ぐのは三下のすることよ。」
「じゃぁ酒匂は那珂が別れを切り出しても騒がない?」
「――多分ね……」
 榛名の質問に答えるまでにちょっと間があった。
 たしかにリュウは別れ話を切り出されてもガタガタ騒いだりしないだろうと思う。男気あふれる奴だから、相手が真剣であれば無理に引き止めたりすることなく自らその女の前から姿を消すだろう。でもだからといって情が薄いわけじゃない。別れた彼女の窮地(って言っても彼の家業から考えるような修羅場ではないのだけれど)に呼び出されたって話はいくらでもある。で、奴はそのたびに呼ばれるままに出向いていっている。一度情をかけた女はどんな事があっても見捨てられないタイプだ。
 那珂もそのことはよく知っている。リュウは相手が望めば別れたあともお友達としてやっていける……というかお友達をやってくれるタイプだ。逆にそれが今付き合っている那珂にとってはつらい事なのかもしれない。
 溜息まじりに返答したあと、やけにしおらしくなってカップの淵を指でなぞる彼女に、さすがの榛名もかける言葉を失ってしまったようだ。

「リュウに似て非なる性格が五十鈴だよね」
 突然会話に割り込んだ僕に、那珂は苦笑し、榛名はちょっとほっとしたように笑った。
「高ちゃんはただ人懐っこいだけだから……」
「那珂は甘い!」
 相変わらず苦笑する那珂をみてなのか、昔の話を思い出したのか、うちの奥さんのほうが熱くなっちゃった。
「人を馬鹿にするにもほどがあるわよ」
 どんどんヒートアップしていく奥さんをみながら、それでもこれだけは僕も賛成というか、どうにも庇いようがなくて苦笑する。五十鈴は別れた後でも、やっぱりお友達タイプ。リュウと違うのは相手の意志を無視して一方的にお友達と思い込む所。もともと人懐っこいやつで、それこそ人類皆友達ってタイプ。そんな彼だからこそ、那珂が僕から離れて彼と付き合うようになった後も友達としてやってこれたのかもしれない。でも……。
 でも、それがいつでも通用するとは限らない。五十鈴は就職先の大阪で浮気の虫が疼いてしまい、他の女の子と関係を持ってしまった。リュウに言わせると単なるドジと言う事だけれども、その時に子供まで出来てしまったらしく、彼は責任を取る形で那珂と別れてその娘と結婚した。
 まぁ、そこまではよくある話。問題はその結婚で披露宴に僕ら夫婦やリュウも友人として招かれたのだけれども、あろうことか五十鈴は那珂にまで声をかけた。決して嫌いになって別れたわけじゃないからこれからも友達ではいてほしいと言う事らしいのだけれども、さすがの那珂もこの申し出に対しては丁重に拒絶申し上げたらしい。もっともと言えばもっともなことだ。もうその時那珂と付き合い始めていたリュウもカンカン。ちょうど電話がかかってきた時に那珂と一緒にいたもんだから電話口で「馬鹿にしてるのか!」って思いっきり怒鳴ったらしい。これであいつは友達を一人失った。
 さらに悪い事にその話は見事にうちの奥さんの耳にも入った。電話がかかってきた時には冷静さを保てた那珂も後からどうにも腹にすえかねたらしく、うちの店にきて榛名相手に散々管を巻いていったのだ。うちは飲み屋じゃないんだけどな……。とにかくそんなこんなで話を聞いたうちの奥さんはそれこそだれよりも怒りをあらわにし、ここで五十鈴はまた一人友達を失ったのだ。

「たしかに無神経なとこはあるけどね……、それがあいつのいい所でもあるんだから」
 僕がそう言うと、奥さんものすごい目でギロリと睨んできた。
「最近、酒匂も五十鈴と和解したみたいだし、男同士の友情は結びつきが強いのね」
 本当はそうも思っていないくせに。
「特に男の友情って浮気とかそう言う時に強くなるのよね」
「なっちゃん、あんまり高ちゃん庇うと榛名に浮気を疑われるわよ」
 半眼で僕を睨む榛名に、面白がって茶化す那珂。榛名は口の端をゆがめるようなシニカルな笑い。対する那珂はニヤニヤと締まりのない、おかしさを堪えようともしない笑いだ。でも榛名も本気で怒ったりしているわけじゃない。これは彼女のデモンストレーション。いわゆる威嚇だ。
 この辺はすごく不思議な事だと思う。昔はなにかある度に僕から離れようとしていた榛名。僕のほうが彼女がいなくなる事を心配していた毎日。それがいつのころからだろうか? 彼女のほうが僕が離れていく事を心配するようになった。そんな立場になって初めてわかったけれど、これも結構快感かもしれない。昔、榛名が浮気を匂わせたりと僕を不安がらせた気持ちもちょっとだけわかったような気がした。
 でも、僕は僕。無理に彼女を不安がらせることもないか……。
「俺は浮気はしないって言ったら信じてもらえるかな?」
 そういう僕に二人が声を揃える。
「どうせそのあとに多分しないと思うって続くんでしょ!」
 やれやれ、口では女性陣に勝てそうもない。だから心の中でそっと付け加えておくよ。ま、ちょっとは覚悟しておけってね。絶対にそんなことはありえないんだけれどもね。
「で、浮気の話に戻るけど、もっと質の悪い男がいるのを榛名は知ってる?」
「知ってる! 知ってる!」
 そう言いながらながら二人が僕のほうを見る。二人の顔に浮かぶのは悪魔の微笑み。
 質の悪い男って僕の事? 何で?
「男女の仲で難しいのは、他の異性に心を移した側から別れを告げるとは限らないってことよね」
 那珂の言葉に榛名も「ねー」と相槌を打つ。
「そいつは、もしそれがちょっとした出来心だったとしても、弁解の余地もなくさっさと自分のほうから相手をばっさり切り捨てちゃうんだから」
「もう、その時点で関係を修復しようとかは全然考えないのよね〜」
 あの、それって全部僕の事ですか?
「一見穏やかですごく包容力がありそうに見えながら……」
「その実、人一倍嫉妬深くて独占欲が強くて……、独りよがりで、冷酷で……、それから……」
 多分僕はすごく情けない顔をしていたのだと思う。言いたい放題言っていた二人だったけれども僕の顔を見るなりプーッ! と吹き出した。
「榛名、ほんとなっちゃん変わったわね」
「でしょ」
 ひょっとして僕はからかわれたのか?
「ほらいま、ほっとした。大方ただからかわれただけとか思ったんでしょ」
「からかったのも事実だけれど、評価はわたしたち二人の本心なんだからね。大体なっちゃんはわたしとのときだって……」

 冬の夜長が恨めしい。まだまだぼくはいじめられそうだ。